子連れオオカミ



「最近、自分にはあとどれだけの時間が残されているのか、考えるんだ」
 その涼やかな声は、酒場の喧騒を縫ってテリオンの耳にすっと染み込む。彼は酒気にぼんやりと頭を傾け、意地悪な返事をした。
「なんだ、年寄りくさいことを言うな」
「そ、そうかな……?」
 カウンター席の隣に座るサイラスはほおをかいて苦笑した。一度旅を終えてから何年も経ったが、ほとんど学者の容色は衰えず、むしろ歳を重ねることによって別種の魅力に磨きがかかったようだ。もう相当酒が入っているはずなのに、いつもどおりその涼しげな表情は小揺るぎもしない。一方のテリオンはハイペースで杯を進めたせいで、半分眠りかけていた。
 この数年間繰り返してきたように、今回も彼はサイラスの研究に付き合って遠出をした。無事に用事が済んだので、明日にもサイラスはアトラスダムに帰り、テリオンは気楽な一人旅に戻る予定だ。
 サイラスはそっとグラスに唇をつける。琥珀色の液体がするすると流れていった。
「キミのおかげで研究は順調だが、調べれば調べるほど気になることが増えていって……正直いくら時間があっても足りないよ。それに、研究と教職のバランスを保つのもやはり難しいね」
「でもあんた、教えるのが好きなんだろ」
「ああ、得た知識を広めるためには必要なことだから。それに、自分の資質としても教職に向いていたのは、ありがたいと思っているよ」
 テリオンは話を聞きながらグラスに酒を注ごうとしたが、サイラスにやんわりと止められる。ここで意識を失うと貧弱な学者が宿に運ぶことになるから、やめてほしいと主張しているのだろう。
 代わりにカウンターに置かれた瓶から水を注いで、テリオンは一気にあおる。
「あんたは昔からそう言うが、俺には分からんな。身につけた技を誰かに教えるってことだろ」
「うーん……いつか、キミにもそうしたいと思う相手が現れるかもしれないよ」
 テリオンは鼻で笑うが、サイラスはめげなかった。
「少なくとも私は、自分がいなくなった後も何かが残ってほしいかな」
 前を向いてつぶやく彼のほおは、ほんの少し赤く染まっていた。
(まさかこいつ、酔ったのか?)
 表情も台詞もなんだか学者らしくない。双眸の青色が霞んで見えるのは、テリオンの気のせいではないだろう。
 覚えている限り、酔ったサイラスを目撃するのは初めてである。どうせなら大いにからかってやろうと思えども、うまく頭が回らなかった。代わりにテリオンはぼそりと言う。
「じゃあ、あんたは俺にも何か残したいものがあるのか」
 サイラスは少し考えて口を開き、答えをささやいた。
 一方でテリオンの眠気はもう限界だった。心地よい音の連なりから意味を拾う寸前、意識が闇に落ちた。



 朝日にまぶたを刺され、テリオンは目を覚ました。
 ちくちくとほおに当たるのは野草である。寝返りを打った拍子にテリオンの頭はくるまった布からはみ出したらしい。体に酒精は残っていない――否、昨日はそもそも酒など飲んでいなかった。
 旅の途中、フラットランドで野営をしたのだと思い出す。目の前には昨晩の焚き火の跡があった。彼は平原の真っただ中、わずかに生えた木の根元に寝転がっていた。
 ゆっくりと体を起こし、肩をほぐす。妙にはっきりした夢を見たせいか、疲労が残っている気がした。
(俺も歳か……?)
 記憶が正しければ今年で彼は三十になった。大台に乗ると身体機能も衰えるのだろうか――彼はこれまでに出会った年上の者たちを思い浮かべ、「この程度ならまだまだだな」と考え直した。
 軽く身支度を整えて立ち上がる。近くに川があることは確認済みだ。顔でも洗って気分を入れ替えよう。
 朝の平原は魔物の気配もなく、ひたすらのどかだった。かつて旅仲間の狩人から教わった魔物よけの仕掛けのおかげで、以前よりもずいぶん快適に野宿できるようになった。
 黄金の光に照らされた草原を歩き、川辺にたどり着く。テリオンはきらきら光る水面に手を近づけて、違和感を覚えた。
 緩やかな流れが、上流の一箇所で阻害されている。岸辺に何かが引っかかっているのだ。重く濡れた黒っぽい布――服だ。目を凝らせば「中身」も見えた。
(こんなところに水死体か)
 テリオンは思わず川から手を引っ込めた。
 そっと「それ」に近づいて観察する。死体はずいぶん小さかった。まだ子供ではないか。テリオンは川面に広がる濡れた黒髪から何気なく視線を動かし――子供の肌にまだ赤みがさしていることに気づく。
「おい!」
 慌てて川から引き上げ、脈拍を確認する。弱々しいけれど息があった。
(こういう時はどうするんだったか)
 いつか友人である薬師から教わった方法を必死に思い出し、ひとまず子供を仰向けに寝かせて、水を呑んでいないことを確かめた。
 かたく閉ざされたまぶたから長いまつげが伸びている。子供ながらに整った顔立ちだ。服装からして性別は男らしい。
 誤って川に落ちたのか? 仕立ての良い服を着ているが、一体どこから流れてきたのだろう。テリオンは脳裏に大陸地図を広げた。この上流にはアトラスダムがある。
 心に浮かんだその名に、彼は予想外に動揺した。しかしすぐにかぶりを振る。ずっと呆けているわけにもいかないので、子供を抱えて野営地に戻った。
 昨日の時点で乾いた薪を余分に確保していたため、すぐに火をつける。子供の濡れそぼった服は脱がせ――ここで相手が正真正銘の男だと判明した――使っていない毛布で子供の体をくるんだ。濡れた服は、余った薪で組んだ即席の物干し台の上に広げ、焚き火の熱で乾かすことにした。
 テリオンが多少乱暴な手付きで動かしても、子供は一向に目を覚まさなかった。どの程度衰弱しているのだろう。薬師の診察が必要な状態であれば、テリオンにはお手上げだ。そんな寝覚めの悪い顛末にはなるなよ、と思いながら自分の荷物を漁る。一仕事終えて腹が減ったのだ。
 しかしろくな食料がなかった。思わず舌打ちする。仕方ないので念のため回復薬としてブドウを用意し、常備しているリンゴを火で炙った。
「んー……?」
 匂いにつられたのかもぞもぞと毛布が動き、声変わり前のうめきが発せられた。テリオンがじっと見守る先で、ぱちりと子供の目が開く。
 まぶたの下からあらわれた青は、今日の晴れ空と同じ色だった。テリオンは妙な既視感を覚え、思わず眉根を寄せる。
 視界にテリオンの姿を捉えた子供は、
「誰……?」とボーイソプラノを震わせた。
 それはこっちの台詞だと思いつつ、テリオンは「旅人だ」とだけ答える。
(この状況……人さらいに遭ったとでも思われそうだな)
 見知らぬ場所で、見慣れぬ大人と二人きり。子供が事態を把握した瞬間、金切り声を上げられてもおかしくなかった。間違いなくこの子供はそれなりに名の通った家の出身だろう。子供の関係者に見つかったら間違いなく厄介なことになる。
 子供はテリオンを見つめたまま、ぱちぱちとまばたきを繰り返した。体を包む毛布を引き寄せてから、不意にあたりを見回して、自分の服を発見する。そこでやっと状況を理解したように息を吸った。
 何か質問してくるかと思いきや、子供はじっとテリオンの言葉を待っていた。パニックの兆しはなく、過度に怯えている様子もない。もしそうなっていたらテリオンでは対処できなかっただろう。子供は幼い見た目の割におとなしく、話が通じそうな雰囲気だ。なのでこちらから先に口を開いた。
「俺は、近くの川に流れ着いたお前を見つけて、拾ったんだ。なんであんな場所にいた?」
 子供は困惑したようにきょろきょろ青色の目を動かしてから、黙って毛布に顔を埋めた。
「……話したくないのか」
 返事がない。訳ありで確定のようだ。テリオンは相手に聞かせるように盛大にため息をついて、話題を変えた。
「お前、具合の悪いところはないか」
 ざっと見た限り怪我はなかったが、病気でも持っていて知らないうちに衰弱されても困る。
「ない……と思います」
 子供はきちんとした発音で正しい文法の敬語を使った。やはりまっとうな家の出らしい。
 テリオンはうなずき、ぽいとリンゴを放る。子供は慌てて毛布から手を出してキャッチした。
「これは?」
「朝飯だ」
「たったこれだけ……?」
 子供は訝しげにまつげを上下させる。別にお前をいじめたいわけじゃない、と言う代わりにテリオンは自分のリンゴにかぶりついた。仕方ないだろ、これしかなかったんだから。
 そういえばこの前リプルタイドでトレサに会って、「テリオンさん、ちゃんとご飯食べた方がいいわよ。昔に戻っちゃってるじゃない」と怒られたのだった。その助言自体は受け入れても良かったのだが、直後にトレサが山ほど食料を売りつけようとしてきたので、「そんなに食べられるか」と慌てて逃げ出した。そのせいで食料の買い出しを忘れた可能性が高い。
 遠い目で回想するテリオンの前で、子供はおそるおそるリンゴに歯を立てる。しゃり、と一口食べてから、彼は大きく瞳を見開いてがっつきはじめた。腹が減っていたのだろう。
(さて、こいつをどうするか……)
 ここまでテリオンはほとんど勢いで行動したので、先の見通しがまったく立っていなかった。
 一度助けた以上、子供をこの場に放置することはできない。そんなことをして、子供の行方を探しているであろう縁者に恨まれても困る。なので基本的には「子供を親元に連れて行く」という方針を取りたいのだが、子供はなかなかかたくなで、薬師の話術も神官の共感も持ち合わせていないテリオンでは、事情を聞き出せそうになかった。それに、テリオンもあのくらいの年齢の頃は「大人になど絶対何も話してやるものか」と思っていたので、反抗的な態度への理解は一応ある。
 結局何も思いつかないまま、二つのリンゴは芯だけになった。子供は「ごちそうさまでした」と言って丁寧に手で口元を拭き、テリオンをまっすぐ見つめた。
「あの、助けてくれてありがとう。あなたは……旅をしてるんですよね?」
「そうだが」
「僕も連れて行ってくれませんか」
「断る」
 予想外の返事だったのか、子供は絶句する。テリオンは眉をひそめた。
「当たり前だろ。一緒に行くメリットがない。お前、家はどこだ。そこまでだったら連れていけるぞ」
 改めて探りを入れると子供は唇を引き結んだ。どうやらへそを曲げたらしい。
 そっぽを向く子供を横目に見ながら立ち上がり、テリオンは干していた服の具合を確かめる。服自体が小さかったおかげかほとんど乾いていたので、拾い上げて子供に放った。子供はすっくと立ち上がってきれいに毛布を畳み、服を身につけはじめる。
 その間にテリオンが焚き火の片付けをしようとすると、まだズボンしか履いていない子供が急に割り込んできて、くすぶる薪に土をかけた。怪訝な気持ちで視線をやれば、相手は瞳に強い光を宿らせる。
「僕もお手伝いできます!」
「いらん」
 助けたことへの礼というより、これは「自分も旅の役に立つ」というアピールのつもりだろう。
「……お前、家に帰りたくないのか?」
 相手はまた黙りこくる。テリオンは本日何度目かのため息をついた。
 どうやら、この子供は見ず知らずの旅人を頼ってでも、自分と縁のないの場所に移動したいらしい。もしや、今まで住んでいたところでひどい目に遭ったのか――という疑惑がちらりと頭をよぎるが、川を流された割に体はきれいで、暴力を振るわれた形跡もなかった。背景はまったく不明のままだ。
 今のテリオンの旅にはこれといって目的はないし、何らかの期限もない。だから妥協案を考えた。
「なら、お前を俺の知り合いのところに連れて行く。それでいいか」
「……はいっ!」
 途端に子供の顔がぱっと明るくなった。テリオンはつい安堵したが、それこそ相手の思うつぼだろう。
 ほのかに炎のあたたかさが移った服を着て、子供はにこりと笑った。
「これからよろしくお願いします、旅人さん。僕の名前はサイラスといいます」
 その懐かしい響きが耳に入った瞬間、踏み出した足が過去に沈み込む感覚がした。



 サイラスと名乗った子供は、心底楽しげに街道をゆく。
 具体的な年齢はテリオンには判別できないが、おそらく十歳にも満たないだろう。その頃のテリオンはすでに盗賊として活動していたが、街角で息を潜めて生きており、長旅をはじめたのはもっと後だった覚えがある。そもそもあんな小さな体で、本当に旅なんてできるのだろうか。
 子供はあまり街道を歩いたことがないらしく、少し行っては立ち止まって、周囲のものすべてに興味を示した。動植物、虫、地形や雲の移り変わり。「ああいう雲が山の近くにある時は、そのうち西が雨になる」とテリオンが経験則を話すと、子供は目を輝かせた。もはや最初の礼儀正しい印象は崩れ、本当にただの幼子である。
(それにしても、あの名前……)
 テリオンは子供に合わせて歩幅を調節しながら、思考に浸る。名を聞いた直後、思わず「お前はアトラスダムの出身か」と尋ねたが、「違う」とだけ返答があった。これは真実かどうか怪しいので、一応頭に留めておく。動揺したせいで結局子供の家名も聞きそびれてしまった。
「知り合いのもとに連れて行く」と宣言したものの、さて、これからどこに向かうべきだろう。一番近いのはノーブルコートだが、つい最近寄った時にプリムロゼの不在を確認している。用事で別の町に行ったらしい。同じく、リプルタイドのトレサももうすぐ行商の旅に出ると言っていた。
 そうなると、思い浮かぶのはオフィーリアの顔だ。ただし彼女のいるフレイムグレースは険しい山と氷雪に囲まれている。今の時期はそれほど雪深くないとはいえ、子供に山越えなどできるのか。本格的に山道をゆくなら、子供用の防寒着だって用意する必要があるだろう。
 面倒ごとを抱えてしまった、という思いばかりがふくらんで、つい足が鈍った。
 ――テリオンがふと気づくと、まわりが妙に静かだった。見通しの良い草原なのに、どこにも子供がいない。
「あいつどこ行った……!?」
 もしや、動物でも追いかけていったのか。なんだか誰かを思い出させる行動力だ。テリオンは痕跡を見逃さないよう慎重に地面を探ったが、長く伸びた草に埋もれて足跡は分からなかった。
 ならば耳だ。音や気配を察知する能力にはそれなりに自信がある。彼は目を閉じて風の音を聞いた。
 丘を降りて少し行ったところに林がある。そこから、ごそごそと何かが擦れるような音が届いた。テリオンは即座に走り出す。
 幹の隙間に動く影が見えた。蛙の亜人、フロッゲンが数匹固まって、林の中に停まっていた馬車を囲んでいる。馬車のそばには商人のような格好をした男が槍を構えており、例の子供を背中にかばっていた。
 木の陰から陰へ、音を立てずに移動して距離を詰めたテリオンは、頃合いを見計らって飛び出し、躊躇なく短剣を抜いて魔物の後頭部に投げつけた。
「あっ……!」
 脳天に刃が突き刺さり、どうと倒れた魔物を見て子供が目を丸くする。振り返ったフロッゲンたちの敵意がこちらに集まった瞬間、テリオンは続けて鬼火で目くらましをしながら、長剣で斬りかかった。
 数は多いが、今更フロッゲン程度に苦戦するテリオンではない。商人も善戦したおかげで、これといって怪我もなく魔物を殲滅した。
 子供は草の上に撒き散らされた魔物の体液にも怯えず、冷静に死体を観察していた。最初に投げた短剣を回収するテリオンに、商人が愛想よく笑いながら近寄ってくる。
「いやあ助かりました! 旅の方ですよね、ありがとうございます」
「別に……ガキが世話になったようだな」
 子供の名を呼べずに中途半端な口調になる。すると当人が妙な顔をしてぱたぱたと駆けてきたので、また機嫌を悪くしたのかと思いきや、突然腰のあたりに抱きつかれた。テリオンは振りほどくこともできず、そのままの姿勢で固まる。小さな体が震えていた。魔物に囲まれても平気そうにしていたが、本当は怖かったのかもしれない。
 商人はまぶしそうに目を細める。
「いえいえ、その子が私に注意してくれたので、早めに魔物に気づけたんです。あなたのお子さんですか?」
「……まあ、そんな感じだ」
 下手に否定して勘ぐられても困るので、適当にごまかした。最近見た目の印象が変わったのか、年相応に見られることが増えた。それ自体は喜ばしいのだが、子持ちと思われたことは複雑である。人さらいと認識されなかっただけ良しとしよう。
 子供はやっと体を離して、上目遣いにテリオンを見た。
「勝手に離れてごめんなさい。休憩してる馬車を見つけて近づいたら、おじさんがあの風車まで戻るところだって言って、僕も風車が見たいと思って……」
 弁解のつもりらしいが、話が整理できていないせいで説得力は皆無だった。ただ事実を並べているだけだ。
「いや……目を離した俺も悪かった」
 テリオンは怒る気も失せて視線をそらす。それに、子供を厳しく叱りつけて、商人に勘違いされても面倒だ。すでに別方向に相当勘違いされているようだったが。
 人の良さそうな商人は、しゃがみこんで子供と目線を合わせる。
「ところで、きみは風車が見たいんだろう? 助けてくれたお礼にうちに来ないかい」
「あんたはそこの粉挽きか」商人かと思えば違ったらしい。男はうなずいた。
「ええ、このあたり一帯の小麦を挽いてます」
 つまり、馬車の荷は仕入れた原料だろう。男は家に帰る途中だったのだ。
「粉挽きって?」子供が首をかしげる。
「うちでパンの材料を作ってるんだよ。見ていくかい?」
「行く!」
 勢いよくうなずいてから、子供はきらきらした目をテリオンに向けた。断れそうにない。「ぜひお礼をさせてください」と重ねて男に言われたこともあり、テリオンは諦めて馬車に乗り込んだ。
 馬車では昼食としてパンを分けてもらった上、「家には夕方に着きそうです。今晩はうちに泊まっていかれては? 妻もきっと喜びます」と提案された。自分一人だったら確実に断っていただろうが、テリオンは了承した。
 ここに来て、彼は子供の存在の恐ろしさを実感した。子供経由で他人と接点ができると、テリオン一人の時と違って簡単に切り捨てることができない。今回はたまたま相手が善良そうで助かったが、こんなことが続いたらそのうち揉めごとも引き起こしそうだ。子供を拾うだけで、こんなとんでもない副作用がついてくるとは思いもしなかった。
 平原を北上した馬車は、予想通り空がオレンジ色に染まる時刻に目的地にたどり着いた。ゆっくりと回り続ける風車の横には小屋があって、粉挽き一家はそこに住んでいるらしい。男が玄関を叩くと、妻が出てきた。こんにちは、と折り目正しく挨拶する子供を見て、妻は「あらあら」と相好を崩す。
「魔物に囲まれたところをこの人たちに助けられたんだ。旅をしているそうだから、一晩泊めてあげようかと思うんだが」
「まあ、それはありがとうございます。私はもちろん構わないわよ」
 妻はにこにこして二人を歓迎した。なんだかこちらが心配になるほど気のいい夫婦だ。子供は「ありがとう!」と当たり前のように相手の好意を受け取った上で、うずうずしながら風車を指さす。
「あの中で粉を挽いてるんだよね。見てもいい?」
「もちろんよ。一緒に行きましょう」
 妻は子供を連れてうきうきと去っていった。どうやら、あの子供は大人の警戒心を取り払うことに相当長けているようだ。昔のテリオンは大人に危険視されてばかりの跳ねっ返りだったので、あれは特異な才能と言えるだろう。ある意味盗みよりも恐ろしい技術だ。
 その後ろ姿を見送ってから、テリオンは男に向き直り、「ものは相談なんだが」と切り出した。



「それでね、風車の羽根は風の力をうまく受け止められるように、正面に向かって斜めについてるんだ。四枚あるのは重さと作りやすさのバランスを取ってるからだって。粉を挽く仕掛けは……」
 夕食の席でパンをかじりながら、子供は先ほど見学した施設について楽しげに語った。テリオンは横からつい水を差す。
「そこまで気に入ったんなら、ここの家の子になればいいんじゃないか」
「えっ……」
 子供は愕然として口を開く。さすがのテリオンにも罪悪感が湧いた。
「……冗談だ。明日、また馬車に乗せてもらうことになった。それでフロストランドとの境目まで行くからな」
 子供は何度もうなずき、機嫌を直したようにスープを飲む。
 最初、テリオンは粉挽きに「馬を買わせてくれ」と交渉した。すると相手は「フロストランドの近くまでなら馬車で送りますよ」と提案したのだ。どのみち山道は馬車では厳しい。話し合った結果、地方の境界付近に着いたらくたびれてきた馬の一頭を譲り受け、馬車から乗り換えることになった。
 テリオンはもともと馬術など身につけていなかった。だが、レイヴァース家やプリムロゼの家を出入りするうちに、「いつか役に立つから」と言われて無理やり技術を仕込まれた。それが、まさかこんなタイミングで必要になるとは……。
 元気よく食事する子供を眺めながら、夫は柔らかい表情を浮かべる。
「うちにも息子がいたんですが、独り立ちしてからしばらく帰ってきていないんですよ」
 なるほど、だから妻は嬉しそうに子供の世話を焼いているのだ。家にいた頃の息子を思い出すのかもしれない。
(そういえば、こいつは一回も家に帰りたいって言わないな……)
 魔物相手には素直に恐怖していたから、無理に欲求を押さえつけているわけではないのだろう。つまり、微塵も家族を恋しがっていないということか?
 疑問を感じて子供を見れば、いつの間にか彼は食卓の前でうつらうつらしていた。腹がふくれて体があたたまったせいか。危ないので子供の手からフォークをもぎ取っておく。寝床に連れて行くのはテリオンの仕事になりそうだ。
 妻が食卓を片付けに来たので、ついでに頼みごとをする。
「すまないが、子供の防寒着と……他にも服が余ってたら譲ってほしい」
「ああ、昔のもので良ければいくつか残っていますよ。あとで探してみますね」
 妻はあっさりと了承した。話が順調すぎていっそ不安になるが、着替えが確保できたのはありがたい。
 静かに寝息を立てはじめた子供の肩に、夫が布をかけた。彼は何故か同情のまなざしでテリオンを見る。
「こんなに小さな子を連れて旅をするなんて……大変ですね。でも、その気持ちは少し分かります。今、この時期の子だからこそ一緒にいたいんですよね」
 完全に親目線の会話である。そんなことを言われても、今朝子供を拾ったばかりのテリオンには全くぴんとこなかったので、曖昧にうなずいた。
 酒のない健全な食卓は終わるのも早かった。寝室を用意しに行っていた妻が戻ってくる。
「すみません、息子の部屋で寝ていただいてもいいですか? ベッドが一つしかないのですが……」
「構わない。恩に着る」
 魔物退治のお礼としては破格だろう。テリオンが今この待遇を受けているのは、どう考えても子供がいるからだった。他人から向けられる視線が普段とまるで違う。別世界に踏み込んだようで、彼は内心困惑していた。
 それでもテリオンは表面上落ち着いたまま、案内された部屋に子供を運び、ベッドに寝かせた。自分は借りた布団を床に敷いて横たわる。
 フロストランドでの野宿は、子供にとっては生死に関わるだろう。明日は馬を飛ばして、なんとしてでも日中にフレイムグレースにたどり着かなくてはならない。幸いあの町は比較的フラットランドから近いので、ぎりぎり太陽の出ている時間に到着できるはずだ。
 ――ここまで考えて、テリオンは今朝からずっと他人を中心に動いていることに気づいた。それは今までに経験したことのない感覚だった。
(まあ、それもすぐに終わるか……)
 規則正しい寝息を聞きながら、テリオンはそっとまぶたを閉じた。

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