踊るために生まれた子よ



「あなたたちが探している人は今、マルサリム地下墓地にいるわ」
 聖火騎士エリザはきっぱりと言い切る。思わぬ話を聞いたテリオンは、隣に座るプリムロゼと顔を見合わせた。
 サンランド地方の王都マルサリムの一角にある、聖火騎士の詰め所にて。二人は机に広げられた地図を前に説明を受けていた。
「……ここまで散々たらい回しにされたんだがな」
 テリオンがうんざりした気分で返せば、エリザはかぶりを振った。燃えるような赤毛がぱさりと肩に落ちる。
「仕方ないでしょう、いないものはいないんだから」
 つれない返事をする彼女の目元には濃い隈が残っていた。ここしばらく仕事で根を詰めているらしい。以前、近くのグレイサンド遺跡で赤目と戦っていた時も、同じような状態だったのだろうか。
 赤目が猛威を振るっていた当時、この町を訪れたのはテリオンではない。その頃を知る踊子は机に身を乗り出して地図を指差す。ここから砂漠を東に行った「地下墓地」という場所が話の焦点だった。
「ええと……エリザさん、最初から説明していただけるかしら? どうしてエアハルトさんがそこにいるの」
 尋ね人が金の髪をなびかせながら暗い地下へと降りていく――テリオンはそんな場面を思い浮かべた。きっと、かの烈剣の騎士は相変わらずホルンブルグ製の赤褐色の装束を着ているのだろう。彼と並んで双璧と称される剛剣の騎士・オルベリクと揃いのものだ。
 エリザは神妙な顔でうなずいた。テリオンは若干気が遠のきそうになりながら、彼女の話に聞き入る。
 ――都の東にあるマルサリム地下墓地は、サンランドの代々の王族が眠る場所だ。砂が入り込まないように石材で組まれた立派な建物が地下まで続いている。貴重な副葬品が多数眠るその墓地は、マルサリムから派遣された衛兵によって厳重に守られていた。
 一ヶ月ほど前、そこを発掘調査隊が訪れた。地下墓地はつくられてから長い年月が経っており、収容物の増加に伴ってあちこち増築している。比較的新しくつくられた浅い階層は見取り図があるが、奥に行くほど昔建てられた箇所になり、正確な地形すら不明である。そのため調査隊を組んで定期的に中を調べていた。
 その日、調査隊は経年劣化で崩れた壁の向こうに通路を見つけた。新たな発見に沸き立った彼らが通路から地下深くへ降りていくと、最奥で見知らぬ棺と宝箱を発見した。棺の中身については死者の眠りを妨げることを恐れて触れず、調査隊は代わりに箱から首飾りを入手した。これを調べれば葬られた人物が判明するだろう。彼らは首飾りのみを持ち帰り、入念に調査をはじめたのだが――
 エリザは顔をしかめる。
「調査隊が帰ってから、マルサリムでおかしな出来事が起こるようになったの。夜に何者かの影が出没して人々を驚かすのよ。調べても足跡一つ残っていなくて、正体は分からなかったわ。
 そのうち、調査隊が首飾りを盗んだから歴代の王族の呪いを受けたんじゃないか、っていう噂が出てね」
「呪いねえ……」
 プリムロゼが半信半疑の様子で目を細める。テリオンは腕組みした。
「よくあることだな」
「くわしいのね、テリオン」
「死者からものを盗んで不幸になった話はいくらでも聞いたことがある。俺ならそういういわくつきには絶対手を出さない」
 これはもちろん盗賊としての意見である。プリムロゼは面白がるように片方の眉を上げた。一方で、テリオンの生業を知らないエリザは助け舟を得たように相槌を打つ。
「あまりにも不審なことが続くから、だんだん王家も噂を無視できなくなったわ。それで、調査中の首飾りを一刻も早く地下墓地に戻そうって話になって……」
「また一騒動あったのね?」
 プリムロゼが続きを促せば、エリザはまぶたを伏せた。
「首飾りを持って墓地に戻ると、中にアンデッドが大量発生していたの。おまけに、どういうわけか調査隊の中で仲間割れまで起こったわ。錯乱した誰かが刃傷沙汰を起こしたみたい。一旦帰ってからまた挑戦したけど、何度行っても全然奥までたどり着けなかった。
 その頃になると、聖火騎士にも協力の依頼があったわ。でも、調査隊と関係ないはずの私たちにも同じ現象が起こって、結局首飾りを墓地に戻すことができなかったのよ」
 ますます死者の呪いじみてきたな、とテリオンは呆れる。彼は、この世に黒呪術というものが存在していることを身をもって知っている。だから呪いの存在自体を疑っているわけではないが、死者が呪いを操るというとまた別だ。門の向こうに去った者が決して帰ってこないことも、彼はよく知っていた。
「仲間割れもおかしな話だけど、墓所でアンデッドって……なんだか嫌ね」
 プリムロゼが整った顔を歪める。
「別に死体が動いているわけではないわ。墓地ではありがちなことよ。まあ、それまでいた魔物はせいぜい外から迷い込んできたサンドワーム程度だったから、いきなりアンデッドが発生したのは不思議だけど……」
 エリザが首をかしげる。テリオンは話がそれかけていることに気づき、軌道修正を図った。
「で、その話とエアハルトがどう関係してくるんだ」
「仲間割れは大人数で行動するから起こる現象でしょう? それなら、特別強い一人が首飾りを戻しに行けばいい、って話になったのよ。本当は私が行く予定だったんだけど、万一のことがあって聖火騎士の組織運営に支障が出たらまずいから、メンバーから外されてしまって」
 エリザは苦い表情でこぶしを握る。プリムロゼが柳眉をひそめた。
「そんな……いくら強いからって、エアハルトさんだったら何が起こってもいい、ってわけじゃないでしょ」
 厳しい指摘に、エリザはルビーを溶かしたような色の髪を力なく振る。
「分かっているわよ。でも、助っ人を求めてウェルスプリング守備隊に話をしたら、エアハルトさんの方から立候補してきたの」
 今回の事件が起きるまで、エリザはかつてのホルンブルグの騎士が隣町にいることを知らなかったらしい。そんな彼女でも「エアハルトなら間違いない」と思うほど、その実力は有名だった。
 それでも彼一人で行かせるのはまずいのでは――聖火騎士の中で議論が巻き起こったが、エアハルトはまわりの制止を振り切って単独で地下墓地に向かった。
 テリオンは眉をひそめる。あの生真面目な騎士の考えそうなことだった。そして、オルベリクが聞いたら真っ先に止めそうな話だ。プリムロゼが怪訝そうな顔をして、
「魔物が沸いたなら、狩人に頼むのが筋でしょう。ザンターさんやハンイットには話をしたの?」
「今ザンターたちは別の用で遠征中よ。もちろん、どうにもならなかったら今後頼るかもしれないけど……」
 つまり「エアハルトがだめだった場合」だ。あまり考えたくない事態である。エリザは指を二本立てた。
「エアハルトさんが首飾りを持って地下墓地に行ったのは二日前よ。距離的にはとっくにマルサリムに戻っていてもおかしくないけど……音沙汰がないの」
 もしや墓地で何かあったのではないか――そう危惧した聖火騎士たちが新たに隊を組み直しているところに、ちょうどテリオンたちが飛び込んできたわけである。
 机の対面にいるエリザはまっすぐに顔を上げる。
「それで、二人はエアハルトさんに何の用なの?」
 今度はそちらが説明する番だ、と言いたいのだろう。横合いから「話は任せた」というプリムロゼの視線が注がれる。テリオンはしかめっ面で簡潔に答えた。
「……あの男は、俺が探しているものの行方を知っているかもしれん」
 具体的な話は伏せたのは、最初から話すとあまりにも長くなるからだった。エリザは意味深にまばたきをする。
「そう。ならエアハルトさんがここに戻ってくるのを待つか……あるいは」
「ねえテリオン」
 プリムロゼが口の端を緩め、とっておきの流し目を送る。意図を察したテリオンは机に肘をついて片手を振った。
「……わかったわかった。なあ、俺たちも地下墓地に行っていいか」
「構わないわ。こちらとしては大助かりよ」
 エリザは表情を明るくした。これは聖火騎士にもメリットのある提案だ。根本的な解決策がない今、失敗したメンバーで遠征を繰り返すよりも、腕の立つ旅人に頼った方が成功の見込みがある、と考えたのだろう。一方、テリオンたちは墓所に立ち入る許可さえもらえばあとは好きにできる。副葬品を盗むつもりはないが、ついでに王族の墓とやらを見学してやろう。今後の仕事の役に立つかもしれない。
 プリムロゼはぱん、と手を打った。
「決まりね。さっそく追いかけましょう!」
 席から立ち上がりかけた二人を、エリザが慌てて引き止めた。
「墓地には見張りがいるの。今から書状を用意するから、入口でそれを見せてから中に入って。ちょっと待っててね」
「あら、ご配慮ありがとう」
 プリムロゼは尊大な態度で感謝する。苦笑しながら腰を浮かせたエリザは、そこでふと動きを止めた。
「……ところで、なんで二人で旅をしているの? もうあなたたち八人の旅は終わったって聞いたけど」
 テリオンとプリムロゼは、微妙に彩りの異なる緑の目をじっと合わせる。近頃は知り合いに出くわすと必ずこの質問をされた。
 二人はほぼ同時に、
「腐れ縁だ」「腐れ縁ね」
 と答えた。
 エリザは一瞬呆気にとられた顔をしてから、「……ふふ、そういうのっていいわね」とにこりとして奥に引っ込んだ。
 騎士の背中を見送ったテリオンは盛大にため息をつく。
「勘違いされた気がするな」
「腐れ縁は腐れ縁よ。それ以上は何もないわ」
 断言したプリムロゼは、無意識にとんとんと机を指で叩いてリズムを取っている。テリオンがちらりと目をやると、彼女は自分の行動に気づいたらしく、すぐにやめた。代わりに窓の外を見やる。
「エアハルトさん……無事だといいわね」
 痛みをこらえたようなその表情を見て、テリオンはある仮説に対する確信を深める。
(こいつは、あの騎士に会うために俺の旅についてきたのか……?)



 ことのはじまりは数ヶ月前にさかのぼる。
 大陸を放浪していたテリオンはいつものように突然手紙でサイラスに呼び出され、フラットランドの例のリンゴの村で再会した。かつて彼らが初めてまともに会話して、「取引」によって同道を決めた場所である。
 二人は村唯一の酒場で卓を囲み、杯を合わせた。そして、一杯目も干さないうちにサイラスの方から用件を切り出した。
「キミに依頼がある。大陸を巡って、あるものを集めてほしいんだ」
 学者はテーブルの上に書類を滑らせる。無論テリオンはいちいち読むつもりはないので書類を脇に放り、「いいから説明しろ」とあごをしゃくった。また長話になるのだろうが、ここは我慢して聞くしかない。わざわざ呼び出してまでテリオンに直接頼むあたり、よほど重要な話らしい。
 サイラスは投げ出された書類を一枚めくる。
「このリストには、数名の故人の名前が載っている。キミなら全員知っているはずだよ。私は『彼ら』の筆跡が分かる資料を探しているんだ」
 いまいちピンとこない話だ。テリオンは眉根を寄せた。
「それが今の研究なのか?」
「ああ……いや、メインの研究ではないのだが、しばらくはこちらを優先させるべきだと思ったから」
 サイラスは曖昧な態度でもごもごと答える。なんだかよく分からないが、この急な依頼には彼なりの思惑があるのだろう。動機については突っ込まないことにした。
 それにしても、特定個人の――しかも亡くなった人物の筆跡を必要とする研究とは、一体何だろう。テリオンはぼんやりと想像しながら、口では別のことを尋ねる。
「筆跡って、具体的にはどういうやつだ」
「公文書でも日記でも、確実に本人が書いたと分かるものがいい。写しではなく本物を手に入れてくれ。キミならほとんどは難なく集められるはずだよ」
「盗めって言ってるのか?」
 テリオンは口の端を持ち上げる。学者が盗みを教唆するなんて、学院にばれたらまずいのではないか。しかしサイラスは平然と首肯する。
「盗みでも交渉でも、手段は問わないよ。買い取りの場合は前金も用意できるし、かかった費用を教えてくれたら後で全額払おう。交渉の際、必要であればウォルド王国の印がある書状も準備するよ」
「金は後でもらうが、書状はいらん」
 長話を遮ったテリオンは、リストを拾い上げてさっと目を通す。そこに並ぶ見知った名前に、彼は眉を微妙な角度に持ち上げた。
「……なるほど。あんたの意図はだいたい分かった」
 サイラスはにこりとしてローブのふところを探る。
「さすがはテリオン、助かるよ。さて、報酬についてだが――」
「その話は仕事が終わった後だ。あんたに要求するものは、これからじっくり考えておく」
 書類を荷物にしまったテリオンは、話の間控えていたエールをごくりと飲んだ。液体が喉を通る感触が心地よい。
 酒場は地元の客で適度ににぎわっていた。祭りの時期ではないが、旅人もそれなりに立ち寄るようだ。テリオンは短くなった前髪の下で両目を開き、あたりを観察する。
「いつぞやを思い出すな」
 説明不足の発言だったが、サイラスは正しく意図を汲み取ったようだ。
「そうだね。私はこの村でキミと取引をしたんだ。今思うと、あれが本当の意味での旅のはじまりだったのかもしれない……」
 懐かしむような学者のまなざしがグラスに映り込む。
 出会った当初、テリオンはこんないけ好かない学者との旅路なんて、絶対に長続きしないと思っていた。それなのに、今のテリオンはむしろ彼と会う時間を楽しみにしている節がある。
 普段は適度に離れていて、必要があれば顔を合わせる。二人はそういう穏やかな関係に落ち着いたのだった。
「今回あんたはついてこないんだな?」
 テリオンの確認に、サイラスは申し訳なさそうに眉を下げる。
「ああ、この研究のためにアトラスダムを離れられなくてね。筆跡を手に入れたらその都度私に送ってくれ。できるだけ早く研究に取りかかりたい」
「分かった」
 首肯ひとつでテリオンの新たな目的が定まった。彼は脳裏に地図を浮かべる。
「ここからなら……まずはノーブルコートが近いか」
「頼んだよテリオン」
 サイラスは軽く手を挙げて追加の酒を頼んだ。今日は彼の奢りだと聞いているから、旅立ちの景気づけに好きなだけ飲み食いしてやろう。
 酒が到着するまでの間、テリオンはリストをもとにこれからゆくべき場所を思い浮かべて、見えない地図に線を描いた。やはりどういう旅程を組んでもノーブルコートに寄るのが一番早い。サイラスはそこまで見透かして、この村にテリオンを呼び出したのだろう。
(ん? なら、どうしてこいつは……)
 ふと違和感を覚えた。しかし折しも新たな酒瓶が食卓に置かれたせいで、その引っかかりは思考の隅へと流されてしまった。



 第一の筆跡を求め、テリオンは早速ノーブルコートを訪れた。
 まっすぐに向かう先はレブロー男爵の屋敷である。今まで何度か訪れたことがあるので、アポイントなしでもなんとかなるだろう。
 急な訪問だったが、玄関に出てきたアンナという女はテリオンの顔を覚えていたようで、「ようこそ」と歓迎した。都合がいいので、ここに住んでいるはずの「お嬢様」を呼んでもらうように頼む。
 屋敷に入って応接間で待っていると、求めていた人物が顔を出した。テリオンは単刀直入に目的を告げる。
「……サイラスが、お父様の書いたものを探しているの?」
 ジェフリー・エゼルアートの筆跡が分かる資料がほしい。そう聞いたプリムロゼは何故か眉根を寄せた。
 白い指を組んだ拍子にふわりと袖が揺れる。彼女は見慣れた踊子服ではなく、ゆったりしたワンピースを着ていた。居候先の屋敷の風格に合わせているのだろう。
「わざわざあなたをよこすなんて、何か裏がありそうね」
 彼女が疑うのも無理はない。ノーブルコートは、忙しいサイラスでも十分に訪問できる距離にある。それなのに彼は筆跡集めをテリオンに頼んだ。これが酒場で感じた違和感の正体だった。
 もしかすると、その理由はサイラスではなく目の前の女性から聞けるのかもしれない。
「さあな、俺は知らん。あんたこそ、学者先生とけんかでもしたんじゃないのか?」
 テリオンがからかうと、プリムロゼは苦い顔をする。
「してないわよ。サイラスもなんでこんな面倒なことを……この前来た時は何も言わなかったのに」
「最近会ったのか」
「一ヶ月くらい前にね」
 プリムロゼはそれ以上サイラスの訪問について語らなかった。何か理由がありそうだが、テリオンは踏み込まずに話題を戻す。
「で、父親の筆跡はあるのか?」
 彼は以前この町を訪れた際、プリムロゼに頼まれてエゼルアート家――今は空き家になっている――の片付けを手伝ったことがある。あそこなら父親の残した書類も残っているだろう。
 プリムロゼは肩をすくめる。
「探してみるわ。今日中には見つかると思う」
 軽く請け負った彼女は、茶菓子に手を伸ばす。レブローの妻アンナが用意したものだ。さくりと音を立てて焼き菓子をかじると、少し表情を和らげた。
「……それにしても、サイラスはお父様の筆跡で一体何を研究するのよ」
「さあな。あいつの考えることは俺には理解できん」
 テリオンも菓子をつまんだ。良い粉を使っているらしく、香ばしさが口内に広がる。プリムロゼは呆れたように、
「あなたはそんなスタンスなのに、サイラスを手伝ってるのよね。不思議だわ」
「別にあいつのことを全部知らなくても、話し相手にはなれるだろ」
「……テリオンはそれで満たされてるの?」
 プリムロゼは急に真顔になって、ぽつりと問う。
 満たされている、というのはまたおかしな表現だ。テリオンにはあまりしっくりこない。
「満足してるかは分からんが、不満はないな」
 と答えてから、彼は嘆息とともに付け加えた。
「……いや、毎度いきなり呼び出されて、俺が応じるのを前提に話が進むのは困っている」
「ふふ、思ってもないこと言っちゃって」
 プリムロゼは笑いをこらえるように手で口元を覆った。そうすると貴族らしい落ち着いた色気が抜けて、旅の間に見せていた踊子の顔が戻ってくる。
 憮然とするテリオンの前で、彼女はくるくるとスプーンを回して紅茶にジャムを溶かした。あれでは甘すぎるのではないか。飲んだわけでもないのにテリオンは胸焼けがした。プリムロゼは平気でそれを喉に流し込んでから、
「ねえ、探している筆跡はお父様のものだけなの?」
「他にも何人かいるからリストを渡されてる。中には面倒なやつも混じっているな」
 リストに載っているのは知った名前ばかりだが、テリオンと故人との関係にはそれぞれ濃淡がある。つながりの薄い人物の筆跡集めにはそれなりに苦労しそうだ。
「学者先生の助手は大変よね。でも今のあなた、ずいぶん楽しそうじゃない」
 プリムロゼは意地悪な顔で笑った。なんだか嫌な予感のする表情だ。テリオンは警戒気味に口を開く。
「……何が言いたい?」
「別に、何でもないわ。じゃあ私はお父様の書類を探してくるから、宿で待ってなさい」
 プリムロゼはアンナを呼び出し、「実家を片付けてくるわ」と告げた。今はこの家が生活の中心になっているので、出かける前に一声かける必要があるのだろう。家主のレブローが一向に顔を見せないと思えば、仕事のために外出中らしい。
 テリオンは屋敷の玄関先で彼女と別れた。
 ゆっくりと宿へ戻りながらノーブルコートの町並みを眺める。この町は代々エゼルアート家が治めていたが、十年ほど前に当時の領主ジェフリーが黒曜会という組織に暗殺され、その系譜は途絶えた。それから黒曜会の影響がはびこった町は、昼間の広場で殺人事件が発生するほど治安が悪化してしまった。その後、十年ぶりに帰還したプリムロゼが復讐の名のもとに領主を斬ったことで、町は平和を取り戻した――
 だが、現在の領主はエゼルアート家ではない。黒曜会とのごたごたを考慮して、エゼルアート家とは無関係の貴族が統治を引き継いだそうだ。レブローは復活した自警団の団長として忙しい日々を送り、プリムロゼはその手伝いをしていると聞く。
 彼女は踊子としての印象が強いが、もともとは貴族のお嬢様だ。たとえ領主でなくても、人の上に立つ立場がお似合いなのだろう。テリオンのような身軽すぎる盗賊とは、今後あまり関わらなくなるのかもしれない。仕方のないことだが、割り切れない思いはある。
 花と緑にあふれる穏やかな町を横切って、宿に着いた。テリオンは足を休ませるためにおとなしく部屋で待つことにした。
 ベッドでうつらうつらしてから起き上がってリンゴをかじっていると、夕方頃になってプリムロゼがやってきた。ただし、何故か大きな鞄を持っている上に旅装束――彼女の場合はひらひらした踊子の衣装――をまとっていた。
 テリオンは若干警戒しながら腰を浮かせる。
「あんた、まさか……」
「私も一緒に連れて行って。それがこの日誌を渡す条件よ」
 プリムロゼは分厚い本を見せながら、いきなり取引を持ちかけてきた。
 テリオンの腕前なら隙を見て盗むこともできるが、それでは問題の解決にならない。彼は探りを入れる。
「どういう意味だ。あんた、この町で仕事してるんじゃないのか?」
「ちゃんと旅立ちの許可はとったから大丈夫」
 本当かと訝ったが、わざわざレブロー男爵から裏を取るのも面倒だ。踊子は立派な大人なので、自分の進む道くらいは自分で決めるだろう。
 旅の連れが増えることに対して、テリオンはもはや違和感も嫌悪感も覚えなくなっていた。だいいち、彼女の誘いを断ったら後でどんな報復があるか分からない。
「……あんたも筆跡を探すなら、報酬はサイラスに交渉しろ。俺の取り分が減らされたらたまらん」
 この返事にプリムロゼはぱっと相好を崩した。
「ふふ、ありがとうテリオン。旅の理由は聞かないのね」
「聞いたところで答えるのか?」
 プリムロゼは肩をすくめてから、緑のまなざしを遠くに投げかける。
「……私はあるものを探しているの。あなたの目的とは別だから、報酬が減る心配はないわよ」
 なんだか唐突な話だ。旅先に探しものがあるという割に、テリオンが来るまでは故郷でのんびりしていた様子だったが。
「しばらく前にあんたがハンイットたちの旅にくっついてたのも、それを探していたからか?」
 彼は狩人、薬師、剣士からそれぞれ「短い期間だが踊子と一緒に過ごした」と聞いた覚えがある。ノーブルコートに居着く前、彼女はそうやってあちこちを旅していたらしい。
 刹那、プリムロゼの表情が漂白された。
「そうよ。あの時はだめだったけど、今度こそ見つけてみせるわ」
 復讐に身を燃やしていた頃の彼女を思わせる、後ろ暗さがにじんだ声色だった。父親の雪辱を果たしても、彼女はまだ切実に何かを求めているのか。
 それがろくでもないものでなければ良いのだが。テリオンは胸騒ぎを無理やり鎮め、手のひらを差し出す。
「俺の邪魔だけはするなよ」
「当たり前でしょ。さあ、行くわよ!」
 一転してプリムロゼは力強く笑い、日誌をテリオンの手に押し付けた。

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