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「ええ、午前中はサイラスさんと一緒にグレイサンド遺跡に行きましたよ。そこに赤目の……いや、父さんの遺書があると聞いたので、ついて行ったんです」
宵の口のマルサリムの酒場は、昼間の暑さを思わせるような熱気に満ちていた。食卓についたクリスは大きなジョッキを抱えるように持ち、けろりとした顔で場の空気を零下に冷やす。
プリムロゼたちが呆気にとられる中、サイラスは頭痛を感じたように額をおさえた。
「『そういうものが残っていた』という説明だけはクリス君にもした方がいい、と思って誘ったのだが……まさか即答されるとは思わなかったな」
クリスの父、グラム・クロスフォードは魔女の陰謀によって赤目という魔物に成り果てて、大陸をさまよっていた。最終的に赤目はこの町の近くにある遺跡の最奥に陣取り、無差別に生物を石化させはじめたため、ハンイットが狩ったのだ。無論、その時の彼女たちは赤目の正体など知らなかった。
化物となった父親の残した文章を読んだらクリスがショックを受けるのでは、とサイラスが気にするのも当然である。だが、当の本人はあっけらかんとしたものだった。
「父さんとはもう十分に門の中で会話してますから、今さら未練はないですね」
あまりに淡白な回答だ。プリムロゼはワインの代わりに酢でも飲んだような心地で、テリオンと顔を見合わせる。クリスは大きく息をついた。
「……遺跡に残っていた文章は、確かに父さんが書いたものでした。手紙の文字と一緒でしたから。赤目もたまには正気に戻っていたみたいですね。
それにしても、父さんはあちこちに迷惑をかけてたんですね……。ハンイットさんがきっちり片をつけてくださって本当に良かったと思います。
あの魔女も、赤目を放置するとか何考えてたんですかね。いちいちやることが杜撰すぎませんか」
クリスはほおを赤らめてごくりとエールを喉に流し込んだ。酒が回ったせいか、だんだん話に愚痴が混ざってくる。父親の末路については完全に割り切っているあたり、常人とは一線を画す精神性である。少なくともプリムロゼが同じ立場なら、ここまですっぱり切り替えることはできなかっただろう。
思えばフィニスの門を出た後も、クリスは身内特有の遠慮のなさで父親への怒りを吐露していた。病気の母親ともども、父親に十年放っておかれた恨みつらみがあるらしい。
大魔術師の末裔たる少年は、線の細い外見よりもずっと強靭な精神を持っていた。プリムロゼは一時期彼と同じ旅芸人一座に所属していたが、当時はこのようなしたたかさを感じなかった。これも、クリスが旅を経て手に入れたものだろうか。
「ねえ、クリスはどうしてお父さんに対して……なんというかその、遠慮がない感じなの?」
プリムロゼのぎこちない質問に、クリスが首をかしげる。
「うーん……故人をあんまり美化したくないから、ですかね。誰だって、生前はいいところも悪いところもあったはずなのに、亡くなったら完全無欠の善人だったように言われるのは、違和感があるんです」
「もしかしてアーフェンの『恩人さん』の件か?」
テリオンが合いの手を入れる。あの若き薬師は、かつて自分の命を救ったグラムを心底尊敬しているのだ。クリスは真面目くさった顔でうなずいた。
「アーフェンさんもそうですし、あとはオーゲンさんって人にも会いました。あの人も僕に気を遣ったのか、結構父さんのことを褒めてましたよ。
父さんの薬で救われた人がいたこと自体は嬉しいです。でも、それ以上にいろんな人の手を煩わせた事実は変わりません。そういう短所もひっくるめて父さんのことを思い出せるのがこの世に僕しかいないとしたら、いつまでだって文句を言っていたいんです」
クリスは酔って赤くなったほおをにっこり持ち上げた。彼は、そうすることで遠い存在となった父親と今もつながっているのだろう。父親と一緒に暮らした記憶がほとんどないことも手伝って、彼は誰よりもフラットな感情でグラムを評価しているのだ。
「……このような故人との関わり方もあるのだね」
自分のグラスに口をつけ、サイラスがぽつりとつぶやく。その表情は不透明だった。その横でテリオンが真顔でうなずいた。
「今の言葉、アーフェンに聞かせてやりたいな」
「クリスも立派なことを言うようになったじゃない」
プリムロゼが感嘆すると、クリスは照れを隠すようにふくれっ面になる。
「……辛気臭い話はもうやめましょう。ほら、せっかく久々に顔を合わせたんだから、もっと違う話題がありますよね!」
彼は調子の外れた声で主張し、ほとんど空になったジョッキの底でテーブルを叩く。テリオンがため息をついた。
「お前、いつの間に酒を飲むようになったんだ?」
「えへへ……アトラスダムにいる時にサイラス先生に教えてもらいました!」
クリスは明るく笑いながら最後のエールを飲み干した。プリムロゼはすかさず追加の酒と酔い覚ましの水を給仕に頼んでから、サイラスにほほえみを向ける。
「あら、学者さんはそっちの方面でも先生だったわけ?」
「プリムロゼ君、誤解しないでほしい。『どういう酒が口に合うか知りたい』とクリス君が言ったので、私が一緒に飲みながら解説しただけだよ」
サイラスはさも当たり前のように言うが、クリスは底なしに飲む学者から悪影響を受けたに違いない。とはいえ少年が幸せそうなので、プリムロゼはあまり熱心に止める気が起きなかった。テリオンも、内心では飲み仲間ができて喜んでいるらしい。
注文した飲み物と同時に料理が届く。テリオンが大皿をクリスの前に置いた。
「ほら、お前が頼んだんだろ。酒もいいがこっちも食べろ」
「そうでした。サイラスさん、いただきますね」
「どうぞ」
クリスが律儀に今日の財布係に頭を下げれば、学者はどこか満足そうに目を細めた。
卓には皆が好き勝手に選んだ豪勢な食事が並んでいた。マルサリムは砂漠の真ん中とは思えないほど流通が盛んであり、おおよそ揃わない食材はないと思われた。リバーランド地方との境目にある大河で取れた魚を香辛料と一緒に煮込んだ鍋物は、珍味と呼べるだろう。刺激の強いサンランドの料理はプリムロゼの舌に馴染んだ味だった。昼間の暑気ですり減った体力が戻っていくようだ。
すっかり場があたたまったところで、サイラスが切り出した。
「そうだ、クリス君の求める話題ではないかもしれないが……マルサリムの異変の正体がある程度分かったよ。いくつか推測が混ざっているが、キミたちにも説明しよう」
クリスとともに町に帰還してから酒場に集まるまで、彼はその件についてエリザから話を聞いていたらしい。
プリムロゼは濃い色の液体の入った杯をゆらりと傾ける。
「町中で変な人影が見えたとかいう話でしょ。正体ってどういうこと?」
「ああ。おそらくウィスプのなり損ないではないかな」
「ウィスプって……魔物の、ですか?」
クリスが目を丸くすれば、サイラスがこっくりうなずく。ウィスプは洞窟のような薄暗い場所に生息する、もやのような魔物だ。実体を持たないので武器の攻撃がろくに通らない。学者はそれが町中に出没したと言うが、プリムロゼは太陽の下でかの敵を見たことはなかった。
「最初から順番に説明しろ」
弾力のあるパンをつまんだテリオンがいつもの大きな態度で促すと、心得たサイラスが酒で喉を湿し、なめらかに話しはじめる。
「地下墓地におけるアンデッドの発生と、マルサリムにおける不思議な影の目撃証言。時系列を考えると、そのきっかけはどちらも『墓地から首飾りを移動させたこと』にある……という仮説が立てられるね」
「まあ、確かに」
プリムロゼが相槌を打つ。彼はいっそう勢いづいて、
「つまり、首飾り自体が特別な力を持つ可能性がある。首飾りを墓地に戻した今では検証のしようがないが、あれにはアンデッドを引き寄せる効果があったのではないかな。墓所にわきやすい魔物を首飾りによって引き寄せて、分厚い壁の向こうに閉じ込めていたんだ。かつてのマルサリムの王族の誰かが、そうして墓地を守るための仕組みを考案したのだろう。
近年の研究では、アンデッドという存在は朽ちた動物の骨などにウィスプが宿ることで動き出すのではないか、と考えられている。よって、あの首飾りはウィスプやそれに類するものを引き寄せているのかもしれない。そう仮定すると、マルサリムで目撃された怪しい人影は、首飾りに誘われてやってきた魔物となる前の未熟な存在だった、ということになる」
「へえー、なんだか引き寄せのリボンとシャットアウトリボンみたいですね」
長話を聞き終えたクリスはジョッキを両手で包み、感心したような声を出す。件のリボンはグラムの形見であり、少年は今でもそれを大事に鞄に結んでいる。
「地下に大量のアンデッドがいたのはそのせいね。おまけにあそこは空気が悪かったから、調査隊が苦労するはずだわ」
プリムロゼは額に人差し指を置く。そんな首飾りはさっさと地下に戻して正解だろう。崩れた壁もそのうち修復されそうだ。
不意にサイラスはにやりとしてテリオンを見る。
「その首飾りはなかなか貴重な品のように思えるが、盗みたくなったかい?」
「まさか。魔物が寄ってくる品は勘弁だな」
彼は一瞬嫌そうに顔をしかめてから、エールを飲み干した。
テリオンは洞窟でのお宝探しを好んでいるが、墓の盗掘となると専門外らしい。プライドの高い盗賊らしいな、とプリムロゼが考えていると、突然酒場の入口が騒がしくなる。団体客が入ってきたようだ。
大声で会話する集団から、一人が外れてこちらに近づいてきた。その男が声を上げる。
「お、あんたたちがエリザさんの言ってた人か!」
「はい?」
クリスがきょとんとした。
「俺たち、あの墓地の発掘調査をしてたんだよ」
噂に聞くだけだった存在がいきなり目の前に現れて、プリムロゼは一瞬思考停止した。なるほど、調査隊はよく日焼けした体格のいい男性ばかりだった。彼らはエリザから「エアハルトや旅人たちが首飾りを墓地に戻した」と聞いたらしい。
男たちは握手を求めかねない勢いでプリムロゼたちのいるテーブルを囲む。なれなれしい態度が嫌いなテリオンは、若干椅子を引いていた。
「あんたたちのおかげで助かったよ。よく無事で戻ってこられたなあ」「あのエアハルトって人はどうしてるんだ?」
「エアハルトさんも誘ったけど、断られちゃったのよ」
プリムロゼは軽く笑った。脳裏には、申し訳なさそうな顔をした騎士の姿が浮かんでいる。宿に戻ったエアハルトは「今日一日くらいはおとなしくしてほしい」と聖火騎士お抱えの薬師に怒られたのだった。
最初に話しかけてきた男は調査隊の長と名乗った。彼は調査隊の仲間ともどもプリムロゼたちの近くの空いたテーブルに陣取ると、遠慮なく話を続ける。
「そうか……エアハルトさんにもあとで挨拶しとかないとな。それはそれとして、あんたたちにもお礼に一杯おごらせてくれ」
「わあ、ありがとうございます!」
クリスは喜んで身を乗り出し、手招きに従ってあちらのテーブルに移る。穏やかにほほえむサイラスは椅子から動かず、テリオンは言わずもがな警戒したように杯を受け取るだけだった。プリムロゼは場を中和させるべくクリスとともに移動した。
お酌をしながら聞いた話によると、調査をしていない時の彼らは劇場の建設に駆り出されているという。そう、マルサリムには王家の主導によって新たな芸術が定着しつつあった。確かその話にはハンイットが一枚噛んでいるらしい。こうなるなら狩人からくわしい話を聞いておけばよかったと思いつつ、プリムロゼはかつて酒場で働いていた経験を生かして彼らをもてなした。
クリスも適切なタイミングで相槌を打つので、余計に話が盛り上がる。ふとプリムロゼがテーブルの上を確認すると、少年はなんだかんだで結構な数の杯を重ねていた。
「あんた、見どころがあるな。俺と飲み比べしないか」
「えっ」
調査隊の一人から唐突に提案され、クリスは目を丸くした。プリムロゼが控えめに「やめた方がいいんじゃない?」と言うが、クリスは「いいですね、やりましょう」と安請け合いしてしまった。
もしや、彼は酒場のこういう雰囲気に慣れていないのではないか。アトラスダムにいた頃の酒場通いでは、ここまでノリの良い飲み会にはならなかっただろう。加えて、己が酔って気分が大きくなっていることもあまり自覚できていないのかもしれない。
(ま、一度くらいお酒で失敗すれば、クリスも自分に合ったペースを覚えるわよね)
そう考えるプリムロゼもまた、ぼんやりと体が火照っているのだった。
二人の飲み比べは、外野が囃し立てるおかげで大いにヒートアップした。実力は意外にも拮抗していたが、最終的に調査隊側が音を上げた。
勝負を仕掛けてきた男が、ジョッキの半ばまで残ったエールを悔しそうに見つめる。
「俺の負けだな……。気持ちのいい飲みっぷりだったよ、兄ちゃん」
「うう……もう無理です」
クリスは勝利を味わう間もなく、ジョッキを手放してテーブルに突っ伏した。どうやら途中から意地になって飲んでいた様子で、勝ったはいいものの限界を超えてしまったようだ。
調査隊はクリスを心配していたが、「自業自得だから気にしないで」とプリムロゼが言った。彼らは改めて首飾りの件を感謝してから、こちらの分の酒代を払って席から立つ。なんと、これから二軒目に行くと言う。さすがにそこまでは付き合えないので、彼女は千鳥足の調査隊に別れを告げた。
団体客の去った酒場は一気に静かになる。プリムロゼは水を一口飲んで、元のテーブルに視線を戻した。
「……あら?」
いつの間にか、サイラスとテリオンの姿が消えている。不審に思ってバーテンダーに確認したら、飲み比べがはじまったあたりでサイラスが夕食代を勘定した後、二人で酒場を出ていった、と言われた。
(一言くらい教えてくれたらいいのに。勝手なんだから)
もしかすると、場の空気に耐えきれなくなったテリオンが「もう帰る」と言って聞かないので、サイラスも同行したのではないか。プリムロゼはそう邪推しながら、卓に突っ伏したクリスを揺り起こす。
「クリス、宿に戻るわよ」
「頭ががんがんする……」
彼は額に手をやってうめく。目が回ったのか立ち上がれないようだ。初めて会った時は痩身の少年だった彼も、いつの間にかテリオンの身長くらいは余裕で抜かしそうなほどに成長した。プリムロゼが肩を貸して宿へ連れて行くことは難しそうだ。
(しまった、さっきの人たちに頼ればよかったわ)
と思っても後の祭りである。
それにしても、身寄りのいないクリス少年は見知らぬ人にもまったく物怖じせずに接していた。一端の旅人としてたくましくやっているようだ。アトラスダム王立学院での学びもそれなりに血肉になったのだろう。プリムロゼは顔を緩め、彼の金髪をちょんとつついてから立ち上がる。
「さて、テリオンはどこに行ったのかしら」
少年を運べる人物は彼しかいない。プリムロゼはテーブルに金を置いてバーテンダーにクリスのことを頼み、急いで夜の町に繰り出した。
目当ての人物は案外すぐに見つかった。町の中央にある広場の片隅で、大小の影が向かい合っている。
プリムロゼは駆け出そうとして、ふと足を止めた。二人の会話が聞こえてきたのだ。
「これがヴェルナーの筆跡か。本当にエアハルト氏が持っていたとはね……。
キミやみんなの協力のおかげで研究が一段落しそうだよ。本当にありがとう。キミには報酬を渡さないといけないね」
サイラスはランタンの明かりにテリオンから受け取ったであろう手紙を照らし、薄くほほえむ。これは邪魔をしない方がいいと直感して、プリムロゼはとっさに物陰に身を隠した。
果たしてテリオンは報酬として何を要求するのだろう。彼はどこかからくすねてきたと思しきリンゴをかじって答えた。
「……あんた、ここ数ヶ月さんざん俺をこき使ってくれたよな」
「そ、そうだね」
サイラスは気圧されたように声を震わせた。薄明かりの下でテリオンがにやりとする。
「だったら分かるだろ? 俺がほしいのは金じゃなくて――」
「時間、ということか」
納得した様子のサイラスは、神妙な口調で続けた。
「今までキミには迷惑をかけたね……。これからは急な呼び出しでキミの自由な時間を奪わないよう、私から連絡はとらないことにするよ」
(えっ!?)
予想外の反応に、プリムロゼは思わず声をもらしかけた。いやそういう意味じゃないでしょ、と口を挟みたくなる。
思いっきり交渉に失敗したテリオンは一体どうするのだろう。プリムロゼは物陰から出て彼に加勢しようかと一瞬考えたが、やめた。もう盗賊と学者の間にはきちんと言葉が存在するのだから、このくらいは自分でなんとかするだろう。
短い沈黙の後、テリオンが一歩踏み出す。
「……俺が言いたかったのは違う」
「うん?」
なおもとぼけるサイラスに、テリオンは真剣な調子で訴えた。
「あんたの時間を俺に分けてくれ。研究が落ち着いたなら、次はこっちの用事に付き合う番じゃないのか。今回の旅であちこち回って儲け話を仕入れてきたから、一緒に行ってもらうぞ」
それが彼の求める報酬だった。きっとそのあたりだろうと予想してはいたが、テリオンがストレートに言葉で伝えたことに関しては進歩がうかがえる。やるじゃないの、とプリムロゼはにやりとした。
しばらく雄弁な沈黙があった。サイラスは相手の言葉をよく噛み締めてから口を開く。
「……キミがそう言ってくれるなら、もちろん付き合うよ。うん、アトラスダムにも早速連絡を入れようかな」
「ファストトラベルで戻るならあんた一人で行けよ」
テリオンの横柄な物言いにも、サイラスは笑って「もちろん」と答える。思い返せば、墓所からマルサリムに戻るために魔法で移動した後も、テリオンは酔ったようにふらふらしていた。相変わらず空間転移が苦手な体質らしい。
もうこのあたりでいいだろう。プリムロゼはわざと靴音を立てて二人の前に現れた。
「こんばんは、お二人さん」
学者と盗賊が同時に振り返る。
「おやプリムロゼ君」「あんた……聞いてたな?」
察したテリオンがきつくにらんできた。普段の彼ならとうの昔に気配を悟っていたはずだが、やはり酔って感覚が鈍っているのだろう。プリムロゼは堂々と胸を張った。
「聞こえる声で喋るのが悪いわよ。別に言いふらしたりしないから安心して」
「そうかよ」
テリオンは疑り深いまなざしを向けた。一方で、サイラスは話を聞かれたと知っても特に気にしていない様子だ。
「で、何の用だ」
ぶっきらぼうに尋ねる盗賊の肩に、プリムロゼはぽんと手を載せた。
「クリスが酒場で寝ちゃったのよ。あなたくらいしか運べないでしょ? 任せたわよ」
テリオンは盛大に顔を歪めた。
「あいつ、変なところがアーフェンに似たな」
「グラムさんに憧れたアーフェン君に、クリス君が似るのか……不思議な系譜だね」サイラスが納得したように首肯して、
「酒癖って他人に似るのかしら……?」
プリムロゼは首をかしげた。まさか、学者も酔っておかしなことを口走っているのでは、と疑ってしまう。
「あんたたちは先に戻ってろ」
びしりと指を突きつけたテリオンは、さっそくきびすを返した。
「待って、テリオン」
プリムロゼは遠ざかる盗賊の手に軽く触れた。彼は即座に振り払い、むすっとした顔で振り返る。プリムロゼは心からの笑顔を向けた。
「ありがとう」
「は? あんたがクリスを連れてけって言ったんだろ」
彼は薄気味悪そうに目を開いてから、改めて酒場に戻っていった。
いささか脈絡のない発言だったから、伝わらなくても仕方ない。それでも構わなかった。テリオンが事情を詮索せずにずっと旅に付き合ってくれたことに対して、どうしても礼が言いたかったのだ。
くすりと笑ったプリムロゼは、広場で待っていた学者に向き直る。
「サイラス、宿までエスコートよろしく」
「喜んで」
サイラスはプリムロゼが差し出した手をうやうやしくとった。彼女はするりと彼の隣に立って、腕と腕を絡ませ体をくっつける。サイラスが眉を上げた。
「おや」
「淑女と一緒に夜の町を歩くのよ? このくらいしてくれないと不安だわ」
「……そうか。分かったよ、このまま行こう」
それらしい理由を並べ立てるとあっさり許可するあたり、サイラスがいかに無自覚で女性の好意を引き寄せやすいかが分かる。この性質は一生治らなさそうなので、プリムロゼも半ば諦めてしまった。
二人はゆっくりと帰路をたどった。先ほどはああ言ったものの、衛兵や聖火騎士が定時に見回りをするマルサリムは比較的治安が良く、暗闇にもあまり不安を感じなかった。
夜の砂漠の空気は澄んでいて、こぼれ落ちそうなくらいたくさんの星々が空を覆っている。火照った体が夜気に心地よく冷えていく。彼女は隣を見ないまま尋ねた。
「ねえ、テリオンとはいつもあんな感じなの」
「あんな感じ、とは?」
とぼけるサイラスに、プリムロゼは嘆息したい気分だった。
「『もう自分からは誘わない』なんて言ったでしょ。あれって本心? いい加減、テリオンがそうしたくてあなたと旅をしていることくらい、分かるんじゃないの」
学者の整った顔を下から覗き込む。これだけともに過ごしていてもサイラスがこの有様では、いくらなんでもテリオンが不憫だ。
するとサイラスは珍しい表情になった。目を細めて遠くを眺めるような、もしくは体の内側からふつふつと湧いてくるものに身を任せているような、ぼうっとした顔だ。
「そうかな……? 彼が旅を楽しんでいるのは確かだが、私と一緒だからとは限らないだろう」
「またまた、そんなこと言っちゃって」
相変わらず自分への好意を素直に受け取らない人だ。そう茶化したら、サイラスはふわりとほほえんだ。
「テリオンが私を誘ってくれることには、何か理由があるのだろう。でも、それは知らなくていい……いや、分からないままにしておきたいんだ」
なんでもない言葉の端々に、彼の感じたであろう無数の「幸いなこと」が含まれていた。プリムロゼは思わず絶句してしまった。
聞くところによると、この学者は「向こう側が気になる」という理由でフィニスの門まで行った男だ。それほど好奇心の強い彼が――「謎は解き明かさなければならない」という口癖を持つ男が、テリオンの心境だけは探るつもりがないらしい。その意図は「理由が分からない今の状態を楽しみたいから」だった。
それを聞いたらもう、あらゆる反論は頭から吹き飛んでしまった。
プリムロゼは小さく吐息をついて、足元の石畳を見つめる。
(サイラス……。きっとテリオンはね、あなたが旅の間にしてくれたことを覚えているのよ。あの人が変に心配性なせいで分かりづらくなってるけど、本当はただ、あなたからもらったものを返したいだけなのよ)
彼女からそれを伝えるのは簡単だけれど、そもそもサイラスは答えなど求めていない。テリオンだって、結局一度断られても諦めないくらいにはサイラスに気を許している。
こういうやりとりができる二人は、確かに心が満たされているように見えた。けれど、プリムロゼは昼間のエアハルトとのやりとりを経て、それは違うと断言できるようになった。どうやっても埋まらない過去を抱えて、それでも現在に希望を抱いて未来まで歩いていけるから、彼らは傍から見ても楽しそうなのである。
「……私、あの地下墓地で幻影を見たの」
広場を抜けて大通りにさしかかったあたりで、プリムロゼは小さくつぶやく。ぴくりとサイラスが反応した。そうだ、彼女はこの学者にどうしても訊きたいことがあった。
「調査隊がどうして仲間割れしたのか、本当はエリザさんあたりからくわしく聞いたんでしょう? 私が見たのは死者の幻影よ。ちなみにエアハルトさんも似たようなことを言っていたわ」
学者が表情を固くする。幻影を見た二人の後ろ暗い共通点に気づいたのだろう。だがサイラスはそれを指摘せず、
「テリオンは平気だったのかい?」
「あの人も何か見たらしいけど、私と違って自力で打ち破ったわ」
「それは彼が真っ先にハーブを口にしたからだろう。あのような場所では、誰だって錯乱する可能性はあった」
サイラスは彼特有の回りくどい論法でプリムロゼをフォローする。しかし、
「私が幻影を見たのは、未だに死者の存在を引きずっていたからよ。テリオンはある程度吹っ切れてたから大丈夫だったんだわ」
ぴしゃりと跳ね除ければ、サイラスは口をつぐむ。プリムロゼはそのまま続けた。
「……幻影の中で、私は一人で舞台に立っていた。照明の外にはシメオンがいたわ。おかげでエバーホルドの戦いを思い出しちゃって、ものすごく嫌な気分だった。
でもね、テリオンがそれを破ってくれたの」
サイラスに絡ませた方と反対の手のひらがじわりとあたたかくなる。プリムロゼは一拍置いて隣を見上げた。
「ねえ、私がテリオンの旅についていくように仕向けたのはあなたでしょう?」
笑顔で指摘すれば、サイラスは押し黙った。ランタンのほの明かりに、感情を押し込めたような横顔が浮かび上がる。
――プリムロゼがテリオンとともに旅立つ一ヶ月ほど前、サイラスが突然ノーブルコートを訪ねてきた。当時のプリムロゼは何食わぬ顔で応対したけれど、鬱屈した気持ちは彼に筒抜けだったのだろう。だからあのタイミングでテリオンがやってきたのだ。
サイラスは星空を見上げる。あるかなしかの風に、結った髪の先が揺れた。
「……私は、テリオンならキミの助けになると考えた。ジェフリー氏の筆跡の入手を頼めば、彼が真っ先にキミのもとを訪ねるであろうことも予想していたよ」
おそらくテリオンも学者の意図を察して、役割を果たしたのだ。「俺がやることじゃない」と自分に言い訳しながらも、彼はきっちり期待に応える男だった。
「一番最初にジェフリー氏を選んだことには、もう一つ理由がある。研究のための時間がほしかったんだ」
まなざしに知の光を宿したサイラスは、立ち止まって鞄から紙切れを取り出した。
「キミにこれを読んでもらいたい」
同じく足を止めたプリムロゼは紙を受け取り、ランタンの明かりにかざす。紙切れの上に文字が浮かんだ。
「これって……まさか」
見覚えのある筆跡に彼女は戦慄した。サイラスは平静な声色で告げる。
「キミは一度だけ見たことがあるだろう。ジェフリー・エゼルアート氏が最後に残した手記だよ」
もちろん覚えている。忘れるはずがない。
プリムロゼがその紙切れを見たのはフィニスの門の中だった。ホルンブルグ合戦場跡からクリスと魔女リブラックを追って飛び込んだ先で、シメオンの黒き魂を退けた後に出現したものである。
彼女は震える手で口元を覆う。
「嘘……! だって、あれは門から持ち出せなかったはずよ」
黒き魂の持っていた手記はサイラスが回収して鞄に入れたが、門を出ると同時に消えてしまったのだ。学者は長いまつげを伏せる。
「残念ながらこれは本物ではないよ。記憶が確かなうちに私が書いて再現しておいたものだ」
つまり、この学者は目で見たものをほぼ完璧に紙に写し取れるということか。さらりと放たれた発言に驚いているうちに、話は進む。
「あの手記の中身は非常に重要なもので、確実に今後の研究に影響すると思った。そのため、内容と筆跡の裏を取る必要があったんだ」
プリムロゼははっとした。
「だからテリオンに資料を集めさせたのね! あの手記が本当に死者の書いたものだと証明するために……」
「ああ。彼は何も説明しなくとも分かってくれたよ」
サイラスは穏やかに笑う。
リストに記された人物は、死者であること以外に共通点はないと思っていた。テリオンは今までプリムロゼにリストそのものを見せたことはなく、おまけに彼はこちらの知らないうちに筆跡を入手していることもあったので、プリムロゼは今の今まで共通点に気づかなかったのだ。
ジェフリー・エゼルアート、マティアス、レイヴァース家元当主、イヴォン、ヴェルナー、そしてグラム・クロスフォード。彼ら死者たちの筆跡と、門の中にあった手記の筆跡が合致していれば、手記の信憑性は増すというわけだ。イヴォンの資料はおそらくアトラスダムにあり、グラムの筆跡はクリスの所持品やグレイサンド遺跡の遺書でサイラス自身が確認した。そのためリストに載っていたのは残りの四人だろう。
サイラスは柳眉をひそめる。
「もちろん、本来は実物の手記を使って検証すべきなのだが……門から回収しようとしたらクリス君に止められてしまってね」
「まさか、今日あなたが門を開けようとしたのは手記を持ち帰るためだったの?」
「そうだよ」
即答だった。プリムロゼは大きく肩を落とす。もはや言うべき文句は雲散霧消した。サイラスは何食わぬ顔で続ける。
「本物の手記は入手できなかったが、筆跡はともかく内容はほとんど裏が取れた。つまり、あれは本当に死者が残したものと考えていい。ヴェルナーの筆跡はまだ検証前だが、少なくともジェフリー氏については間違いないよ」
唇をほころばせたサイラスは、改めてプリムロゼの手にある紙切れを示す。
「読んでくれないか。キミは門の中でこれを読まなかっただろう?」
促された彼女は、恐る恐る紙面に目を落とした。
――あの決戦前、フィニスの門でのこと。一行がシメオンの幻影を破ると、ひらりと地面に紙切れが落ちた。
それを拾い上げ、「ジェフリー・エゼルアート」という署名を見つけたプリムロゼは、一顧だにせずサイラスに渡した。
「私にこれは必要ないわ」
「……どうして?」
サイラスは気遣わしげに瞬きをした。不穏な赤黒い闇に包まれた空間でも、そのまなざしの清浄さは失われていない。プリムロゼは疲労と不機嫌の入り混じった目で彼をねめつけた。
「だって、あのシメオンが残したのよ。私を惑わせるようなことが書いてあるに決まってる。このタイミングで読むべきじゃないわ」
理由に納得したのか、サイラスは軽くかぶりを振った。
「そうか、キミがそう言うなら……。だが私は読んでもいいかな?」
「好きにすれば」
そっけない許可を得たサイラスはさっと紙面に目を通し、ひとつ息を吐いてからその手記を鞄にしまった――
今、プリムロゼはサイラスの手で復元された文面を初めて読んだ。最後の一文まで確認した彼女は肩を震わせ、学者を見つめる。
「ねえ、もしかして……この手記の研究は私のためにやってたの?」
彼女は相手の落ち着き払った顔からなんとか動揺を読み取ろうとした。けれどサイラスは静かに頭を振るだけだった。
「いいや、重要な研究だからもともと優先順位は高かったんだ。辺獄の書の解読が進んだタイミングで思い出して、手記の中にあの書物を読み解くヒントがあるのではないかと考えた。だから内容が正しいかどうか裏を取るためにテリオンを頼ったんだ」
「ふうん」
しかし、先ほどの話からすると、サイラスが最初にジェフリーの手記を選んだのは、研究の時間を稼いでプリムロゼに今の内容を伝えるためだ。正直にそう答えなかったのは恩着せがましい発言を避けたのかもしれないが、相変わらず気の回し方が独特である。
「……こういう時は、素直に私のためって答えてほしかったわね」
プリムロゼの理不尽な返事に、サイラスは「え?」と困惑顔になる。
その変化を楽しんでから、彼女は手記の内容を頭の中で整理して、きっぱりと言った。
「やっぱりあの時これを読まなくて正解だったわ。読んでいたら、私はきっとここまで歩いてこられなかったもの」
こみ上げる衝動に逆らわず、プリムロゼはくしゃりと手記を握りつぶす。サイラスが緊張する気配がした。
父親から娘に宛てられた手記は「私のことは忘れて、お前自身の幸せを見つけてくれ」と結ばれていた。
握ったこぶしがぶるぶると震える。それは悲しみのせいではなく、ましてや心が満たされたわけでもなく、燃え上がるような怒りのためだ。
「……何よ、これ。黒曜会に殺されて『後悔していない』なんておかしいでしょ! お父様は結局町を守りきれなかったのよ。それなのに、よりによってあのお父様がこんなに穏やかな手記を残すの? その上自分の行いを許してほしいだなんて、都合が良すぎるわよ!」
マルサリム中に響き渡るような大声だった。プリムロゼのあまりの剣幕にサイラスは顔をひきつらせ、一歩後ずさる。
「そ、それは……もしかすると、死の門をくぐると気持ちや性格が変わることがあるのかもしれないから……」
おののいた彼は、らしくもなく信憑性が怪しいことを口走った。
クリスが父親グラムに対してさんざん文句を垂れていた理由が、今になって分かった。死者はこちらの思いなど関係なしに人生に満足した挙げ句、残された者にすべてを押し付けていく。何もかも勝手すぎるのだ。
プリムロゼは手記を広げて、サイラスの顔の前に突きつける。
「それに、最後の言葉はなんなのよ。『自分のことは忘れろ』ですって? そんなの無理に決まってるわ。私はお父様のことも復讐のことも、この先絶対に忘れないわよ。だって、私の幸せはその先にしかないんだもの!」
二十年と少し生きてきて、プリムロゼは今初めて父の教えに逆らう。それはずいぶん遅れてやってきた反抗期だった。
彼女はぜえぜえと息をついて手記のしわを丁寧に伸ばした。「これ、もらってもいいのよね?」と尋ねると、サイラスは目線をさまよわせながらうなずいた。プリムロゼは彼に精一杯の笑みを向ける。
「サイラス、あなたは本当に私に発破をかけるのがうまいわね」
「うん? それはどういう――」
「私のやりたいことが見つかったかもしれないの。ここに書いてあったお父様のやり残したこと……ノーブルコートを守ることよ」
今さらプリムロゼは領主にはなれない。そんな希望は、復讐を志して町を出た時点で捨てている。けれども、別の立場だからこそできることもあるはずだ。例えば踊りで町を盛り上げるのはどうだろう? リバーフォードのハロルドも似たようなことを言っていたではないか。長く続いた冬の終わりにふさわしいのは、次の一歩を踏み出すための新たな文化ではないか、と。
考えなくてはならないことは山ほどある。それでも方向性だけは決まったのだ。彼女はにっこりして学者の手を握った。
「ありがとうサイラス。おかげで元気が出たわ」
「そ、そうか。なんだかよく分からないけれど……キミは、そうやって笑っている方がずっと素敵だよ」
サイラスのいつもの戯言を聞き流し、プリムロゼはその手を強く引いた。彼は盛大にバランスを崩す。
「わっ」
「気分がいいわ。ねえサイラス、一緒に踊りましょう!」
彼女は勢いと酔いに任せて明るく誘いをかけた。
通りを抜けて小さな広場にやってきたプリムロゼは、戸惑うサイラスの手を取って己の腰に回す。それは酒場における娯楽としての舞ではなく、社交界における正式な踊りの型だった。サイラスは王侯貴族の家庭教師をするくらいだから、こうしたダンスの一つくらいは身につけているはずである。
「いくわよ。三、二、一……」
口でリズムを刻みながらステップを踏むと、案の定彼はたどたどしくついてきた。月明かりに照らされた広場で、二人はくるくると回る。
「プリムロゼ君、楽しそうだね」若干息を切らしながらサイラスが言う。
「ええ。あなたの踊りがもっとうまかったら最高だったんだけど」
「はは……」
こんなに満たされた気持ちで舞うのはいつ以来だろう。サイラスはぎこちなくも動きについてくる。彼だって、踊り自体は嫌いではないのだ。
「一人で踊るのもいいけど、私は誰かと一緒にダンスするのも好きなの」
そっと身を寄せてささやけば、学者が耳を澄ませる気配がした。
「私はシメオンとも一緒に踊りたかった。でもあの人は……最後には舞台に上がってきたけど、明かりの外から私を見ているだけで、この手を取ってはくれなかったわ」
「……そうだね」
沈鬱な同意が夜の空気に溶けていく。学者が肩にかけたローブが翻った。プリムロゼは大胆な動きで相手を積極的にリードしながら、目を細める。
「きっと、あの人も心に穴があいていたのね。だから私のほしいものがよく分かっていたんだわ」
エバーホルドの戦いにて、シメオンは自分の心臓に短剣を突き立てたプリムロゼを見つめ、満足したように命の灯火を消した。彼はついに自分の生には喜びを見いだせなかったのだ。
だが、プリムロゼは違う。
「私の幸せは心の穴を埋めた先にあるわけじゃない。そこにたどり着くまで、この脚で踊り続けるわよ!」
それは父の墓前で立てた誓いと似ているようで、少し違う。今のプリムロゼは、本当の安らぎなんてどこにもないことを知りながら、自分はそれを求めて身を燃やしていけることを思っている。
それは仲間たちが教えてくれたことだった。直接言葉を交わした者もそうでない者も、旅路に関わった人々すべてが彼女の糧となった。
サイラスはまるで音楽に耳を傾けるようにまぶたを閉じる。彼は無言でプリムロゼの選択を肯定していた。
振り付けが最終盤に差し掛かる。プリムロゼが大きく背中をのけぞらせ、腕を伸ばしてポーズをとった。サイラスの手がたどたどしく腰を支える。観客のいない舞台で踊り終えた二人は、ゆっくりと体を離した。
「素人にしては悪くなかったわよ」
「それは光栄だね」
プリムロゼがにやりとすれば、息を弾ませたサイラスが応えるように表情を崩す。二人は互いに腕をとることなく、再び並んで歩き出した。
彼女にとってのサイラスは、不思議なタイミングで目の前に現れる人物だった。彼女はそれを「間が悪い」と感じて反発することもあったけれど、振り返ってみれば彼はいつだって必要な時に的確な助言を残していた。
何よりも、彼はプリムロゼと同じ舞台で踊ってくれる人だ。それが彼女の手に入れた仲間という存在だった。
サイラスが何気なくこちらを覗き込む。プリムロゼは緩んだ顔を慌てて繕った。
「キミはすぐノーブルコートに戻るつもりかい? 良ければその前に私たちの旅についてこないか。テリオンもきっと歓迎するよ」
「あら、邪魔者を入れてもいいの?」
「邪魔ではないよ。むしろ、テリオンは自分一人では私の面倒を見きれない、と言うんだ……」
「確かに。その気持ちは理解できるわ」
プリムロゼが深刻な調子で同意すると、サイラスは黙りこくった。少し落ち込んだのかもしれない。
実を言えば、彼の提案には心が動いた。テリオンが旅の間に儲け話を見つけていたなんて知らなかった。これまでよりも気楽でわくわくするような冒険が待っている予感がする。しかし――
「遠慮しておくわ。二人で楽しんできなさい。私にはやることがあるもの」
プリムロゼはとびきりの笑みを浮かべ、宙を指でなぞって大陸地図を描き出す。
「今までさんざん不義理にしちゃったから、ノーブルコートに帰る前にみんなに挨拶しておかないと。
まず近いところでコブルストンかしら。あそこに行くならエアハルトさんを誘ってもいいわね。それからハンイットと、アーフェンと――」
指折り数える彼女の横顔に、サイラスの穏やかな視線が注がれる。
そのまなざしは、在りし日の父親が一人娘に向けていたものと少し似ていた。吹っ切れるまでは気づけなかったけれど、彼女は今までも仲間たちから同じものを受け取っていたのだろう。
それはプリムロゼを甘やかして休ませるためではなく、照明のあたる舞台へと押し出すための、安らぎのかけらだった。