踊るために生まれた子よ



「二人とも、今回は本当にありがとう。おかげで町のおかしな現象もなくなったわ」
 翌日、宿屋を訪ねてきたエリザは晴れ晴れとした顔で報告した。
「それは良かったわね」
 プリムロゼはぐったりしながらパンをちぎり、棒読みで相槌を打つ。
 あれからクリスのファストトラベルによって即座に墓地から脱出した一行は、ほうほうの体でマルサリムの宿屋に駆け込んだ。部屋に入るなり気を失うように眠り、プリムロゼとテリオンは太陽が高く昇った頃にやっと起き出してきた。サイラスとクリスはすでに出かけたようなので、二人だけで宿の食堂に行って遅めの食事をとっているところに、エリザがやってきたのだ。
 聖火騎士は憂いを含んだ顔で胸元に手を置く。
「それにしても、エアハルトさんには申し訳ないことをしたわ……。でもうちの薬師によると、目覚めて体に異常がなければ大丈夫だそうよ」
「さすが、ホルンブルグの双璧は頑丈だな」
 串焼きをほおばったテリオンは半眼になってつぶやく。立ったままのエリザに対し、二人は卓について食事しながら話を聞いていた。昨日の働きがあるので、多少の行儀の悪さは許してほしい。
 渦中の人、エアハルトは墓所を出た途端にまぶしさと疲労が重なって倒れてしまった。同じく消耗していたプリムロゼとテリオンは彼の処置をサイラスたちに頼んだので、その後の経過を知らなかった。今日になってなんとか回復した二人と比べて、やはりエアハルトは重症らしい。聖火騎士お抱えの薬師に任せるしかないだろう。
「それで、本来ならあなたたちにも事件の顛末を説明すべきなんだけど……」
 エリザは一旦言葉を区切った。その目元から隈が消えている。職務上の悩みはある程度払拭されたのだろう。彼女は一転してからりとほほえんだ。
「だいたいのことはあの学者さんに話したから、そっちから聞いてね。それじゃ、私はこれで」
「連絡ありがとうエリザさん」
 パンを嚥下したプリムロゼは、ぴしりとかかとを揃えて食堂を出ていく騎士を見送る。エリザはハンイットと同い年ながら騎士団の重要なポストを占めているらしい。きっと事件の後始末で忙しいのだろう。
 それから二人は黙って食事を進めた。酸味のきいたスープは冷めてもなかなかに食欲をそそる。この味付けは、暑さにうんざりした旅人をもてなすための宿側の工夫だろう。
「ねえ、サイラスはどこに行ったの?」
 プリムロゼはふと顔を上げて真正面の男に尋ねる。
「さあな、昨日は別の部屋に泊まったから知らん。クリスと一緒なのは間違いないが」
「もう、勝手なんだから。こっちはいろいろ聞きたいことがあるのに」
「まったくだな」
 テリオンは同意しながらふところを探ってリンゴを取り出した。あれは食堂のメニューにないはずだ。こんな土地では入手が難しいだろうに、どうやって調達したのだろう。
 昨日マルサリム地下墓地に突然現れたサイラスとは、ほとんど会話ができなかった。彼もきっとプリムロゼたちと同じようにエアハルトを追って墓地に来たのだろうが、そもそもアトラスダムにいるはずの彼が何故サンランド地方に出張しているのだろう。十中八九ファストトラベルを利用したのだろうが――
「こんにちは。二人とも、もう起きたんだね」
 砂漠の熱を冷ますような涼しい声が思考を遮る。閑散とした食堂に入ってきたのは、折しも二人が話題にしていた人物だった。
 テリオンが不機嫌そうな視線を向ける。
「そっちは妙に朝が早いんだな。あんたより遅く起きるなんて癪だ」
「ええ……?」
 元旅仲間の手酷い歓迎に、サイラスは苦笑を返した。
 彼は砂漠の暑さに耐えかねたのか、学者の証である分厚いローブを脱いで小脇に抱えている。それ以外に外見上の目立った変化はなかった。会わない期間がどれだけ長引いても、サイラスはサイラスなのだった。
 テリオンがしゃくりとリンゴをかじる。
「クリスはどうした? あんたと一緒にどこかに出かけたんだろ」
「部屋で休んでいるよ。気温が上がる前に外出して、先ほど戻ってきたんだ。この後にも別の用事があるから、彼にはまた魔法を使ってもらわないと」
「ふうん……。ねえ、どうしてあなたがマルサリムに来たの?」
 まずは一つ目の質問とばかりにプリムロゼが切り出せば、
「やはりそれが気になるか。実はね……」
 サイラスは優雅な仕草で椅子に腰掛け、張り切っていつもの長話をはじめた。
 ――数日前、アトラスダムで研究に励んでいた彼のもとを、たまたまクリスが訪れた。父親を探す旅を終えた少年は、一時期サイラスに推挙されて王立学院で魔法を学んでいたことがある。そのため、学者にとっては生徒のような弟子のような存在だった。
 大魔術師の末裔たるクリスのファストトラベルは特別で、「座標」とやらを正確に指定できれば、いちいち陣を描かなくともあらゆる場所に一瞬で移動できる。それに目をつけたサイラスはクリスに頼み込み、近く訪問の予定を立てていたグレイサンド遺跡を目指して、まずはマルサリムに転移した。
 プリムロゼは瞬きする。
「グレイサンド遺跡って、赤目がいた場所よね。なんでそこにあなたが行くのよ」
「遺跡の奥に『あるもの』が残されていたことが判明した、とハンイット君経由でマルサリムから連絡があって、確かめに行ったんだ。クリス君には入口で待機してもらうつもりだったが……どうしてもついてくると言うものだから、一緒に確認したよ」
 サイラスらしからぬ曖昧な言い回しだ。テリオンが眉間にしわを寄せる。
「なんだかぼやけた話だな」
「すまない……クリス君の許可があれば、くわしく話すよ」
 学者が柳眉を寄せる。きっと彼なりに何か配慮しているのだろう。プリムロゼはテリオンに目配せして、今は深入りしないことにした。
 平素の表情に戻ったサイラスが話を続ける。
「……というわけでマルサリムに来たら、たまたま会ったエリザさんに、キミたちがエアハルト氏を追って地下墓地に行ったと聞いたんだ。キミたちなら大丈夫だろうと思ったが、帰りは魔法で移動した方が負担を軽減できるから、私たちも追いかけたんだよ」
 彼の予測は見事に的中したわけである。プリムロゼはデザートの柑橘の汁をすすってから口を拭い、苦言を呈する。
「それはそうだけど……ファストトラベルなんて反則よ」
「そうかな。便利だろう?」
 サイラスは心底不思議そうに言った。
 魔法陣による移動は、今のところこの大陸でもたった二人しか使えない移動手段だ。サイラス自身が熱心に研究を進めているが、未だに誰もが自在に発動させることはできないらしい。ウッドランドの祠で出会った魔大公ドライサングを源流とする本物の魔法だから無理もない。むしろ、魔術師の血を引くクリスはともかく、その一部でも扱えるサイラスは貴重な存在だった。
 とにかく、プリムロゼたちと同時期にサイラスがマルサリムにやってきたのは、ただの偶然らしい。学者がその類まれなる洞察力によって二人の旅程を把握していた、などという恐ろしい理由ではなかったのでほっとした。
 プリムロゼとテリオンがそれぞれに考えを咀嚼していると、サイラスはずいとテーブルの上に身を乗り出す。
「ところで、マルサリムの調査隊はあの墓所に入ると錯乱してしまったそうだね。キミたちは大丈夫だったのかい?」
 なでるような視線を受けたプリムロゼは跳ねる心臓を隠して口をつぐみ、ついテリオンの方を見やる。彼は平然と唇を開いた。
「……地下に潜るほど頭が痛くなった気がする。あれが続いたら、同士討ちしてもおかしくないかもな」
 幻影の話はごまかすつもりのようだ。サイラス相手にどこまで通じるかは不明だが。
 学者は形の良いあごをなでる。
「やはりな……トレサ君に倣って風を呼んで正解だったわけか」
「どういうこと?」
「もちろん調査隊や聖火騎士の同士討ちが本当に死者の呪いだった線も捨てきれないが、一応今回の現象にはそれ以外にも説明がつくんだ。
 地下墓地に潜った時、私は嗅ぎ慣れないにおいを感じた。あそこには人体に悪影響を及ぼす気体が発生している可能性がある。そうでなくとも空気が淀んでいるわけだから、具合が悪くなるのは当然だよ。アンデッドが湧くのも、そういう場所だからだろう」
 サイラスのよどみない説明を聞いたプリムロゼは脱力する思いだった。
「それじゃ、単に空気のせいで気分が悪くなったのね……」
 気付けのハーブは根本的な対処ではないが、頭のもやもやを取り払ったおかげで正気に戻ることができたのだろう。地下で真っ先にハーブを食べたテリオンは、それが幻影対策に有効であると直感で悟ったのだ。
 盗賊もうんざりしたように椅子の背もたれに体重を預けていた。サイラスはぴんと人差し指を立てる。
「加えて『死者の呪い』という先入観があった。死者に対して後ろめたい思いを抱えている人がいたら、精神に悪い作用が働いてもおかしくないよ」
 プリムロゼは墓所におけるエアハルトの様子を思い浮かべた。彼もプリムロゼと同じように薄暗い部分を持っていたから、取り落とした剣を拾えなかったのかもしれない。彼は一体どんな幻影を見たのだろう。
 頭の片隅に疑問を置きながら、プリムロゼは重ねて尋ねる。
「もう一つあるわ。マルサリムでおかしな出来事が起こった原因は? 首飾りを戻したら解決したって聞いたわよ」
「それはこれから裏を取らなければいけないが、エリザさんに伺った話からある程度予測はついているよ。真実が判明すれば改めて説明しよう」
 サイラスはにこりとする。何かを察したテリオンは「その話はまた後だな」とため息をついて、話題を変えた。
「エアハルトはヴェルナーの筆跡を持っているかもしれない。それが最後の依頼の品だ。俺はあいつが起きたら話を聞いておく」
 彼が地下墓地に潜った理由はそれだった。サイラスはうなずく。
「なるほど、そちらはキミに任せよう。私はもう少ししたらまたクリス君と外出するよ。夕食は酒場で一緒に食べようか」
「分かった」
「プリムロゼ君は、これからどうするんだい?」
 流れるように指名され、プリムロゼは言葉に詰まる。
 そういえば、サイラスは彼女がテリオンと一緒にいても驚かなかった。テリオンが手紙で教えたのだろうか。そうだとしても、こちらの目的までは知らないはずだ。
 少し考えてから答える。
「私は……エアハルトさんの様子を見てこようかしら。まだ起きてないと思うけど、顔だけでも確認したいわ」
 彼女の意図を悟ったのか、テリオンは緑の瞳を細めて「俺はもう少し休んでから行く」と言った。
「そうか。では、また夜に」
 サイラスの軽い号令で解散となった。食堂を出た三人はバラバラの方向に歩いていく。
 地下墓地でテリオンと話したとおり、エアハルトに質問しても求める答えは返ってこないだろう。それでも何かしら意味のある会話ができるのではないか、とプリムロゼはかすかな期待を抱いていた。
 エアハルトの部屋番号はエリザから聞いていた。宿の廊下をたどって目当ての部屋を見つけ、コンコンと扉を叩く。が、返事はない。
(あら? 開いてるわ)
 何気なく握ったドアノブが軽い感触を伝える。プリムロゼはそのまま手首を回した。
「エアハルトさん、もしかして起きてる? ……あっ」
 開いた部屋はもぬけの殻だった。



「おっ、あんたはトレサの仲間のプリムロゼさんだろ! そんなに急いでどうしたんだい」
 プリムロゼがきょろきょろしながらマルサリムの町を早足で歩いていると、横合いから呼びかけられた。
 商店のひさしの下から、赤いバンダナをした男商人がこちらに向かって気さくに手を振っている。その活発そうな顔には確かに見覚えがあった。
「えっと、アリー……だったわね。ちょうど良かった。金髪で赤っぽい服を着た男の人を見なかった?」
 彼はトレサのライバルである口達者な商人だ。今はこの町で父親マルフと一緒に商売をしている。立派なつくりの店の前には、露店のような台があって商品が並んでいた。さっと見た限りでは用途の分からない道具がほとんどだったが、おそらくどれもアリーの弁舌によってとびきりの輝きを放つのだろう。
 彼ならプリムロゼよりも町の様子にくわしいはずだ。あわよくば通行人の顔も覚えていないかと思って尋ねると、彼は首をひねった。
「赤っぽい服?」
「ハイランドの伝統衣装なの。腰に剣を提げてて、長い髪をした美形よ」
「はあ……見てないな。親父、分かるか?」
 店の奥を振り返ったアリーが声をかけるが、棚の向こうから「分からんなあ」と返ってきただけだった。プリムロゼはがくりと肩を落とす。
「そう……。あの人、いきなり宿からいなくなっちゃったのよ」
「ふうん。まだマルサリムにいるのかい? この道を通ってないなら、行く場所は限られてるな」
 心得たアリーは台の上に紙切れを出すと、簡単な地図を描いて一点を指さす。
「ハイランドから来たってことは旅人だろ。ややこしい路地は避けるんじゃないかな。このへんにいると思うぞ」
「さすがは地元民、助かるわ!」
 正確にはエアハルトは旅人ではないが、路地で迷子になっているとは考えにくい。プリムロゼは満面の笑みで礼を言い、紙切れをもらって大股で店の前を通り過ぎる。
「お礼に今度はトレサも連れてくるわね!」
「べ、別にあいつは関係ないだろ!?」
 動転した様子のアリーの声が背中から追いかけてきて、彼女はくすりと笑った。
 ――エアハルトが宿からいなくなったことに気づいたプリムロゼは、慌ててエリザに連絡した。しかし彼女にも心当たりはないという。エアハルトはいつの間にか目を覚まして、誰にも行き先を告げずに自ら部屋を出ていったのだ。宿の主人はロビーを突っ切る彼を目撃していたが、ぴんと背筋を伸ばした様子が昨日衰弱して運ばれてきた人物と一致せず、そのまま見送ったそうだ。
(どこ行っちゃったのよ、もう……)
 プリムロゼはテリオンにも事情を説明し、彼や聖火騎士たちと手分けして騎士を探している。騒動を聞きつけたサイラスもエアハルトの行方を気にしていたが、テリオンが「クリスと何か用事があるんだろ」と言ってそちらを優先させた。捜索班の人数はもう十分揃っているから、間違った判断ではない。だが、プリムロゼは「テリオンはどうもサイラスに対する態度が甘くなったわね……」と思った。
 サンランド地方は雨が少ない土地なので、屋根に傾斜をつけて水を落とす必要がない。そのため、住宅には平らな屋上が設けられていることが多かった。その屋上は密接する隣家とつながっていて、住民たちの共同の通り道になっている。かつてサンシェイドに住んでいたプリムロゼはそれをよく知っていた。
 アリーから教わったあたりにやってきた彼女は、高台からエアハルトを探そうと考えた。階段を使って屋上に出る。
 一気に視界が開けた。真正面には、マルサリムの王宮がまるで眼前に迫ってくるかのように凛々しくそびえ立っている。中央にドーム型の大屋根が設けられており、周囲の建物とは一線を画す風格だ。王宮を取り囲む堀には豊かな水が流れ、国王の持つ権力を象徴していた。その向こうに広がる砂漠もよく見える。
 彼女は屋上に揺れる洗濯物の間を通って、町全体を見下ろせる場所を探した。
「あっ」
 大きなシーツの陰から顔を出した時、隣の家の屋上に赤褐色の衣を見つけた。彼女は肩の力を抜いてそちらに移動する。
「踊子殿か」
 近づいていくと、エアハルトは振り返らずに言った。足音だけで正体を察したらしい。彼は町を眺めて物思いにふけっていたようだ。プリムロゼは胸をなで下ろし、隣に並ぶ。
 砂漠の都市は今日も交易でにぎわっているようだ。かぶりものをしたサンランド人に混じって、旅人も多く行き交っている。死者の呪いなどというじめじめした噂の影はなかった。
「あなたが急にいなくなるからみんな心配していたわよ。もちろん私もだけど」
「心配?」
 エアハルトはきょとんとしてこちらに視線を向けた。その顔は疲労するどころか生気に満ちている。プリムロゼは眉をひそめた。
「あなたは病み上がりでしょう。誰にも言わずに外に出るなんて、びっくりしたわよ」
 彼は何度か瞬きして、「ああ」と納得の声を出す。
「すまない、あまりにも長く暗闇にいたものだから、日差しを浴びたくなった。伝言を残さなかったのはまずかったな……」
「そ、そんな理由で?」
「このまぶしさに慣れた身からすると、明るい方が調子がいいんだ」
 エアハルトは冗談めかして笑った。きっと、ホルンブルグにいた頃の彼はもっと肌が白かったのだろう。オアシス住まいも長くなり、今の騎士は健康的な色に日焼けしていた。
「その頑丈さは予想外だったわ……」
「心配をかけてすまなかった。すぐに戻ろう」
 きびすを返そうとするエアハルトを、プリムロゼが腕をつかんで引き止めた。訝しげな視線に、彼女は真剣なまなざしを返す。
「元気ならちょうどいいわ。私、あなたにどうしても聞きたいことがあったの」
「ほう」
 プリムロゼが腕を離すと、エアハルトは片足に重心を乗せて、話を聞く体勢になる。彼女はごくりとつばを飲み込み、一息に質問した。
「あなたは自分の復讐を果たして……心の穴を埋められたの?」
 エアハルトはすっと表情を消した。
 プリムロゼはもうずいぶん前に、自身の旅の目的を彼に打ち明けていた。ウェルスプリングでリザードマン討伐を達成した夜のことだ。守備隊の詰め所で行われた宴席でエアハルトが一人になった隙を見計らって突撃し、「オルベリクの仲間よ」と名乗りながらおおまかに身の上話をした。もちろんまわりに人がいないことを確認した上で。
 酔ってはいたが一応自制心が働き、彼女は具体的な話を避けて「復讐を志している」とだけ申告した。それに対してエアハルトは何も言わなかった。
 しかし、その瞬間から二人は互いの存在を心に深く刻んで、それぞれの道を生きてきた。
 プリムロゼはいつまで経っても色あせない記憶をたどりながら、言葉を続ける。
「あなたにも分かるでしょう? すべてを奪われたあの日、私の胸には大きな穴が空いたわ。私はそれをどうしても取り戻したくて、剣をとったの。
 ……でも、復讐を終えても穴は埋まらなかった。だから、あなたはどうやってそれに向き合ったのか、気になってね」
 滅ぼされた故郷に対する報復として自国の王を討ち取ったエアハルトは、流れ流れてウェルスプリングの町に居着いた末、人々に必要とされる存在になった。プリムロゼはリザードマンの巣窟で彼の慟哭を聞いてもなお、「ウェルスプリングで何か得るものがあって、彼の心は埋まりつつあるのではないか」と推測していた。
 エアハルトが口を開く前に、彼女は自嘲気味に笑う。
「でも、考えたらすぐに分かることだったわ。あなただって、心の穴が完璧に埋まったわけじゃないのよね」
「そうだな」
 エアハルトは凪いだ顔で首肯してから、自分の手のひらを見つめる。揺れる瞳には遠い過去が映りこんでいた。
「……あの墓所を進むうちに、私は何度も幻影を見た。幻だと分かっていても、つい身を委ねてしまいそうになった」
 プリムロゼははっと身を固くする。やはり彼も同じ現象に遭遇したのだ。
「どんな幻だったの?」
「祖国ホルンブルグの仇――もしくは父や母の仇だと言って、私に剣を向ける者の姿だ」
 その光景はプリムロゼにもありありと想像できた。復讐を成した者ならば、きっと一度は考えるに違いない。自分は相手と同じ因果に足を踏み入れたのではないか。いつか自分にも順番が回ってくるのではないか、と。
 エアハルトは断言する。
「あれは決して幻影ではない。私は必ず『その時』がやってくると思っている。そうなれば、私は……剣をとれないだろう」
 地下墓地の最奥でアンデッドに囲まれた時、幻影を見たエアハルトがなかなか立ち上がれなかった理由はこれだ。
 プリムロゼは不意に閃きを得る。もしかして、エアハルトはいずれ来るべき「その人物」が自分を見つけやすいように、亡国の装束を着続けているのかもしれない。オルベリクが青衣をまとうのは己の立てた誓いを忘れぬためだが、エアハルトにとっての理由はまったく違うのではないか。オルベリクは気づいていないだろうが。
 そっと唇を閉ざす。プリムロゼは彼にかけるべき言葉を持っていなかった。
 エアハルトは豊かな金髪をなびかせて、心を震わせる踊子をまっすぐに見据える。
「あなたは同じ復讐者として、私から答えを聞きたかったのだろう。だが、私たちの行為は到底一つにくくれるものではない」
「どういうこと?」
「結果がまったく違う。あなたは、自分の復讐に無関係な人間をほとんど巻き込んでいないのだろう」
「あっ……」
 その淡白な台詞に、胸を貫かれた心地がした。
 エアハルトの復讐相手はホルンブルグ王で、その崩御から混乱が広がった末に一国が滅びた。当時、隣の地方で踊子をはじめたばかりだったプリムロゼは、国の崩壊によって多くの難民が出たことを知っている。
 それと比べて、確かにプリムロゼの復讐はずっと規模が小さい。黒曜会の下っ端たちは幹部やボスを軒並み潰されて路頭に迷ったかもしれないが、そもそも彼らは裏社会の存在だ。サイラスの話によると、黒曜会が潰されたと知ったウォルド国王が「助かった」というような発言をしたらしいし、プリムロゼの行為には一定の大義がある。
 エアハルトは冷静すぎるほどに己の罪を把握していた。彼の面差しにどこか影がつきまとうのはそのせいだ。己は決して許されてはならない存在なのだと、誰よりも彼自身が認めていた。
「……でも、私がそうならなかったのは、あなたとは復讐相手が違ったからじゃないの? 私は多分……相手が王族でもやったわよ」
 探るように問えば、エアハルトは首を振った。
「いいや、あなたのそばには常に仲間がいた。だから本当に道を踏み外すことはなかったのだろう」
 かすかに肩を揺らしたプリムロゼに構わず、彼は淡々と続けた。
「あなたの仲間たちは、復讐によって無関係の人々が影響を受けないように配慮した。そうしたのはオルベリクかもしれないし、他の誰かかもしれない。とにかく、そのことだけは覚えておいた方がいい」
 プリムロゼの最後の復讐の舞台はエバーホルドの劇場だった。彼女は観客がいる建物の中で、表社会において劇作家の肩書を持つシメオンを葬った。その面倒な後始末をしたのは確か――
「そうね。改めて肝に銘じておくわ」
 彼女は大きくうなずく。
 復讐者たる二人は似ているようでまったく違うのだ、とエアハルトは語った。ならば、これから歩んでいく道のりも異なるはずだ。
「……行きましょう。あなたが見つかったことをエリザさんたちに報告しないと」
 彼女は地上から視線を外し、くるりと体を反転させた。「そうだな」やや遅れてエアハルトも従う。
 プリムロゼはふと足を止めて、背中越しにつぶやいた。
「エアハルトさんの言いたいことはよく分かったわ。でも……今はまだ『その時』じゃないでしょ。あなたの命を狙う誰かなんて現れてない。だから無事にウェルスプリングに帰って、たまにはオルベリクにも顔を見せてあげて」
 振り返れば、エアハルトと視線が合う。彼は薄く口の端を持ち上げた。返事はなかったが、気持ちは伝わったはずだ。
 この大陸には、こうしてプリムロゼと同じ痛みを引き受ける者がいる。やはりエアハルトに会いに来て正解だった。当初求めていた答えとは違ったけれど、重要なことに気づくことができた。
 二人が屋上から降りると、階段の前に紫の外套をなびかせたテリオンがいた。
「聖火騎士には連絡しておいたぞ」
「あら、用意がいいのね」
 彼は地上から二人を見つけたのだろう。話し込んでいる様子を見て、声をかけずにここで待っていたのかもしれない。
 テリオンはじろりとエアハルトを注視した。
「一度あんたを薬師に診せろと言われたが、それだけ元気なら後でも良さそうだな」
「……私に何か用か?」
「ある。大事な用がな」
 盗賊は簡単に事情を説明した。ヴェルナーの筆跡を必要とする理由は伏せたが、エアハルトは気にした様子がなかった。そういえば、テリオンは学者があんな妙なものを集める目的を察しているのだろうか。
 話を聞いたエアハルトは、眉根を寄せてしばらく考え込んでいた。テリオンが重ねて問う。
「心当たりはあるか?」
「……確か、ここに」
 騎士はふところを探り、小さく折り畳まれた紙をテリオンに差し出す。
「これは、私があの男からホルンブルグに潜り込むよう依頼を受けた時の覚書だ」
 台詞の意味を悟り、盗賊と踊子は驚いて視線を交わす。もしやそれは歴史的な重要資料ではないか。
「よく残っていたな、そんなもの」
 エアハルトがうっすらほほえむ。その瞳にはかつての亡国が映っているのだろう。
 彼は当時傭兵団の長をしていたヴェルナーの命令によってホルンブルグに潜入し、復讐相手のアルフレート王に騎士という立場で近づいたのだ。エアハルトは複雑な色の宿った視線を紙に落とす。
「ヴェルナーは周到な男で、絶対にこうした証拠は残さなかった。だが、私が無理を言って頼んだのだ。一人でホルンブルグに潜入するからには、復讐心を失わないための支えが必要だ。肌身離さず身につけるから、他人の手に渡ることは決してないと……。
 私も若かったからな、ヴェルナーも何か渡さないと納得しないと思ったのだろう。一筆書いてよこした。暗号文だが文字の癖は分かるはずだ」
「助かる」
 受け取ったテリオンは、紙を広げて首肯した。エアハルトは表情を和らげる。
「捨てる気も起きなくてそのままにしていたが、まさか今になって役に立つとはな。研究とやらが終われば処分していい。私にはもう必要のないものだ。
 では、失礼する」
 彼はそのまま二人に背を向けて、宿へと歩いていった。昨日の疲労困憊ぶりが嘘のようにしっかりした足取りだった。
 テリオンは慎重に紙をしまってから肩をすくめる。
「……何はともあれ、全部の筆跡がそろったな」
「お疲れ様。あなたの旅もこれで終わりね」
「ああ、やっとサイラスから報酬をもらえる」
 テリオンはどこか好奇心を抑え切れないように顔をほころばす。おや、とプリムロゼは眉を上げた。それほど報酬とやらが楽しみなのだろうか?
 二人はだらだらした歩調でエアハルトを追うように裏通りを戻っていった。まだ少し体がだるいので、宿で休むつもりだ。協力してくれたアリーにも尋ね人が見つかったことを報告しなければ……と思いつつ、プリムロゼは大きくのびをした。
「そういえば、サイラスたちはどこに行ったのかしら?」
「調べ物をしているんだろうが……待っていればそのうち」
 テリオンの返事を遮るように、唐突に目の前がまばゆい光で満ちる。
「な、何?」
 反射的にまぶたをつむってから、彼女は「昨日もこんなことがあったな」と考えた。おそるおそる目を開ける。真っ白な光の向こうから、聞き覚えのある声がした。
「あ、また座標とずれた場所に出ちゃいましたね」
「陣を描かない分、位置調整が難しいな……」
 光の中から現れたのはクリスとサイラスだった。おそらくクリスのファストトラベルでどこかから戻ってきたのだろう。裏路地に転移したのは町人たちを驚かさないための配慮か。
 反則技の移動を行ったクリスたちは、すぐそばで唖然としているプリムロゼたちに気づいて、一瞬黙り込んだ。
「あ……お二人とも、もう元気になったんですね。良かったです」
 クリスは少し疲れたように笑う。
「相変わらずとんでもない魔法だな」とテリオンが呆れ、
「クリス……顔色が悪いわよ?」
 プリムロゼが気遣った。魔法の使いすぎだろうか。だが、サイラスが同行しているならそのあたりにも気を配るはずだ。怪訝な気持ちで目を向ければ、クリスはいきなりくしゃりと顔を歪めてこちらに詰め寄る。
「プリムロゼさん、テリオンさん! 聞いてくださいよ、僕たち今までどこに行ってたと思います?」
「知らん。近くの遺跡か?」
 テリオンのにべもない返事に、クリスはあたりを見回して声をひそめた。
「……フィニスの門ですよ」
「えっ」
「しかも、サイラス先生はまたあそこを開けようとしたんです!」
 クリスの密告に絶句した二人は、揃って学者を見つめる。しかし相手は涼しい顔だ。
「な、なんでまたそんなところに……?」
 プリムロゼは盛大に困惑していた。八人がかりで苦労して魔神を倒し、門に封印を施したことは記憶に新しい。おまけにその一連の流れにおける功労者は、他でもないサイラス自身である。何故また門を開ける必要があるのだろう。
「えっと、それはですね」
 答えかけたクリスが、サイラスに手で制される。学者は難しい顔でかぶりを振った。
「目的については後で話そう。とにかく勝算はあったんだ。魔神の封印はそのままで、確実に門の中から戻ってこられる方法がある」
 断定的な口調に、こちらは肝が冷える思いだ。
「なんか恐ろしいこと言ってるわよ……」とプリムロゼがおののけば、
「サイラス先生はこの一点張りで、全然僕の話を聞いてくれないんです。なんとか説得して諦めてもらいましたけど、もう大変でしたよ……。下手をするとこっちが逆に説き伏せられるので、具体的な方法は怖くて聞けないんですよね」
 クリスがげんなりしながら相槌を打った。彼一人でよくサイラスを止められたものだ、とプリムロゼは感心する。
 そういえば、クリスは一度学者に師事したので彼を「先生」と呼ぶようになったらしい。あまりのことに意識が飛びかける中、彼女はそんなことを考えた。
「まったく……あんたはちょっと目を離すとすぐこれだ」
 長いこと黙りこくっていたテリオンが、やっとまともな台詞を吐いた。衝撃を受けてしばらく言葉を失っていたようだ。プリムロゼは彼をにらみつける。
「本当よ。あなたがサイラスをよく見ておいてよね」
「俺の責任なのか?」
 テリオンが憮然とする。サイラスはプリムロゼたちの抱く危惧をいまいち理解していないような表情で推移を見守っていたが、不意にぱっと顔を明るくした。
「ところで、みんなに手伝ってもらったおかげで予想よりもスムーズに研究が進んだよ。お礼に今晩の食事は私が奢ろう」
「えっ本当ですか!? やったあ、何食べようかな」
 途端に機嫌を直したクリスに、三人は苦笑を返した。
 食事のメニューを議論しながらのろのろと宿に帰る最中、マルサリムの町を熱い風が吹き抜ける。プリムロゼは視界の隅で揺れた自分の髪を追いかけて、何気なく青空に視線を投げた。
 雲ひとつない蒼天とは反対に、彼女の胸中は未だに薄曇りだった。明確な答えを見つけられないまま、旅の終わりが間近に迫っていた。

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