踊るために生まれた子よ



 ジェフリー・エゼルアートの名が刻まれた墓石の前で、プリムロゼはそっと胸に手を置いた。
「この脚で、踊り続けなきゃね……」
 父の無念を晴らすための復讐の旅は、今終わった。これからの彼女は、奇妙に空っぽになった心を埋める方法を探すのだ。
 墓前に花を供えてから階段を上ると、そこに仲間が待っている。手すりに背中を預けた狩人が、三つ編みにした髪を風に踊らせていた。相棒たる雪豹も一緒だ。
 歩み寄ったプリムロゼは、狩人のそばに見慣れぬ青年を見つける。
「あら? あなたは」
「プリムロゼさん!」
 黒髪の青年が顔を輝かせた。直前まで話し込んでいたらしいハンイットが、真顔でうなずく。
「先ほどそこで会ったんだ。あなたの古い知り合いだと聞いたぞ」
 そのヒントを元に、プリムロゼは唇に指をあてて考え込んだ。
「待って、今思い出すから。……ジャンよね? レブロー様の息子の」
「そうです。覚えていただいて光栄です」
 人の良さそうな顔は彼の母親アンナとよく似ていた。プリムロゼもつられて笑顔になる。
「いいえ、昔のやんちゃな姿しか思い出せなかったわ。ずいぶん立派になったわね」
「プリムロゼさんこそ、お綺麗になられて……」
 彼がぼうっとした目を無遠慮に向けてくるので、プリムロゼは苦笑した。
「お世辞を言っても何も出ないわよ」
「お、お世辞じゃありませんよ」
 以前ノーブルコートに立ち寄った時はジャンと顔を合わせなかったから、レブロー経由でプリムロゼの噂を聞いたのだろう。どのような話があったのかは知らないが、さぞ想像をたくましくしていたに違いない。彼は踊子服から大胆に露出した白い手足をちらちらと気にしているようだ。
「ええと、それで……プリムロゼさんはノーブルコートに帰ってくるのですか?」
 ジャンの質問に、彼女は不思議な心地がした。「帰る」――十年も留守にしていたが、確かに彼女の故郷はこの町だった。
「ええ、しばらくレブロー様の屋敷にお世話になるわ。よろしくね、ジャン」
 片目をつむってみせると、ジャンは分かりやすくほおを赤らめる。
「こ、こちらこそ。それじゃあ僕は先に帰ってますね!」
 彼は逃げるようにきびすを返した。リンデが不思議そうに金の瞳を丸くして見送る。おおかた、美人に成長した幼馴染と会って照れたのだろう。まぶしいくらいの純情さだった。
「ジャンはどうしたんだ? プリムロゼと会うのが久々で気まずくなったのか」
 首をひねるハンイットは、相変わらずの察しの悪さである。このあたりは彼女と同じように「鈍い」と言われがちなサイラスと明確に異なる点だ。あの学者は他人の感情にはやたらと鋭いので、もしこの場にいたら彼なりにややずれた配慮を見せただろう。
 プリムロゼは訂正を諦めてハンイットに向き直る。
「さあね、あとでゆっくり聞いてみるわ。それで、あなたはジャンと何を話してたの?」
「旅の間のあなたの様子について質問された。彼も踊りを見たがっていたぞ」
「ふうん。なら特別料金をもらわないとね」
 顔をほころばせたプリムロゼは石畳の上で足首を返してターンした。ぴしりと指先まで気を配ってポーズを決めれば、「見事だな」とハンイットが拍手する。リンデも同意するようにしっぽで地面を叩いた。
 それから二人と一匹は並んで歩き出した。宿で待つ仲間たちに、墓参りを終えたことを報告に行くのだ。
 ――ついこの間、仲間たちは八人全員がそれぞれの旅の目的を達成した。そのままパーティが解散になるかと思われた矢先、ある人物から新たな目的が提示された。きっと皆も心の底では「離れがたい」と思っていたのだろう、誰からも反論は出ず、提案は受け入れられた。
 次の旅へと移る前に、彼女たちは一度休息を取ることにした。最後の目的地となったダスクバロウから東に移動し、まずフレイムグレースでオフィーリアが抜けた。次にやってきたのがこのノーブルコートであり、プリムロゼとハンイットが離脱する予定だ。
 狩人がまっすぐ前を向いてつぶやく。
「サイラスたちがアトラスダムへ発つのは明日になりそうだ。わたしもそれに合わせて町を出る」
「そう。見送りには行くわ」
 そっけなく答えたプリムロゼは一呼吸置いてから、やや不安になって隣の仲間を見上げる。
「……ちゃんと迎えに来てよね?」
 それぞれの故郷で羽根を休めた後、八人はある町に集合してから旅を再開する。プリムロゼは、ハンイットと一緒にそこへ向かう約束を取り付けていた。
「分かっている。師匠との仕事の都合もあるがな」
 ハンイットの中で親代わりの師匠ザンターの優先順位はかなり高い。彼女が故郷のウッドランドを飛び出した理由も、行方知れずとなったザンターを追いかけるためだった。そのぶれない指針にプリムロゼはほほえむ。
 東地区から城壁を越え、ノーブルコートの中でも庶民の町とされる地区に差し掛かる。プリムロゼは石造りの通路の上で立ち止まった。何事かと振り返るハンイットとリンデに、おそるおそる切り出す。
「あのねハンイット。次の目的が終わった後でいいんだけど……私、あなたと一緒に旅がしたいの」
 それを聞いた狩人は緑の目を細め、きれいに破顔した。
「あなたはグレイサンド遺跡でもそう言っていたな。今度こそ訂正しないんだな?」
「もう、意地悪なこと言わないでよ……」
 ぼうっとほおが熱くなる。あの頃のプリムロゼはどうにも不安定だった。だから狩人を旅に誘いながらも翌日に撤回するという、傍から見ると不可解な行為をしたのだ。ハンイットは笑いをこらえるように小刻みに肩を揺らす。
「ふふ、すまない。もちろん一緒に行こう。あなたとの旅はとても楽しそうだ。リンデも構わないな?」
 ガウと返事が来る。リンデとの付き合いも長くなったため、プリムロゼはそれが肯定を意味するのだと分かった。狩人たちの軽やかな表情と言葉に、胸がじわじわあたたかくなる。あっさりとそんな台詞を吐けるのがハンイットという人だった。
「しかし……その旅に出るのはいつになるだろうな」
 狩人が不意に唇を引き結ぶ。プリムロゼは頭を傾けた。
「確かに。何をするつもりか知らないけど、サイラスの目的も時間がかかりそうだものね」
 辺獄の書を手にした学者は、仲間とともに新たな旅路に出たいと要望した。彼がああいうわがままを言うのは本当に珍しい。サイラスはそうするだけの理由や衝動をひっそりと抱えていたのだ。そして、あれはテリオンが引き出した言葉だろうとプリムロゼは見当をつけていた。
 旅の当初と比べると、テリオンの変化はとても分かりやすくて、一方でサイラスはいつもどおりに見える。だが、学者も負けず劣らず転機を迎えつつあるようだ。
 それは何故か――おそらく二人は仲間とのかかわり合いによって、失われた何かを埋めることができたのだろう。
 プリムロゼは仲間たちの旅路を手伝う過程で、彼らが大切なものを取り戻す瞬間を何度も目撃した。もちろんザンターを赤目の呪いから解放したハンイットもそうだ。自分だけの安らぎを見つけた皆は、一様に満足げで、穏やかだった。
(だったら私だって、きっと……)
 平原に渡る風を髪に受け、プリムロゼは静かに手のひらを握った。
 長い長い旅路を歩めば、この心の穴を埋めるための安らぎだって見つかるはずだ。彼女はそう信じていた。



「それで、キミにとっての安らぎは見つかったのかい?」
 二度と聞きたくなかった声がマルサリム地下墓地にこだまする。プリムロゼは冷や汗をかきながらその影と対峙していた。
 目の前にいるのは父親ジェフリーの仇――シメオンだった。エバーホルドの劇場で塵となって消えた男が、どうして砂漠の地の底にいるのだろう?
 プリムロゼがシメオンを討ってからもうかなりの月日が経っている。おまけに、彼女は死者が赴くというフィニスの門の中でも、黒き魂と成り果てた彼と戦った。もうシメオンは完全にこの世に存在しないはずだった。
(これは幻影よ、まぼろし……)
 震える手で短剣を握り、現実の感触を確かめる。自分は墓地の雰囲気にあてられて不都合な幻を見ているだけなのだ。そう必死に信じ込もうとしても、シメオンの姿は消えない。
 エアハルトを探しにやってきた地下墓地で、突然床が崩落してテリオンとはぐれてしまった。プリムロゼが彼と合流するために階段を探しはじめると、なんの脈絡もなく目の前にこの男が現れた。
 おまけに、気がつけば彼女は狭い地下ではなく立派な舞台の上に立っていた。残酷なほどにまぶしい照明が彼女一人を照らしている。酷薄な表情を浮かべたシメオンは、舞台の暗がりからゆっくりと近づいてきた。
「心の穴を埋めたかったんだろう。だから僕たちに復讐していた……仇を討っても埋まらなかった穴は、もうなくなったのか?」
 もしや、これはエバーホルドで見せられた舞台の再演なのか。体が熱いのに芯は冷え切っているような感覚だ。首がうまく回せず、観客席が確認できない。そのせいで、この世には自分と「彼」しかいないのだと思えてしまう。
「……あなたには関係ないでしょ」
 必死に言い返すが、手はだらりと下がってろくに戦闘の構えをとれていない。シメオンはどんどん迫ってくる。
 こみ上げる動揺と焦りのまま、プリムロゼは大声で叫びたくなった。
(私の安らぎは……どこにも見つからなかったのよ!)
 彼女の脳裏に、フィニスの門を封印して仲間たちと別れてからの日々が蘇る。
 ――ノーブルコートで交わした約束通り、最初はハンイットと旅をした。依頼を受けてあちこちに赴く彼女とリンデにくっついて、大陸を回った。刺激があって楽しい生活だった。時折ザンターとその相棒である魔狼ハーゲンも加わり、道行きはいっそうにぎやかになった。だが、プリムロゼはそのままずっと狩りを続けようとは思えなかった。
 何が足りなかったのかは分からない。ただ「自分はここにいるべきではない」という違和感がどんどん膨らんできた。結局ろくに理由を話せないまま、プリムロゼは衝動に追い立てられるように狩人たちと別れた。
 それから大陸をふらふらしていると、アーフェンと出くわした。相変わらず無償で人助けをする彼の行く末が気になって、同行を申し出た。彼は快諾した。薬師として人々を救う旅路は、目的の崇高さとは裏腹に困難ばかりで、手伝いをするだけのプリムロゼも確かに満たされる心地がした。
 だが、次第に彼のまっすぐな部分に触れることが辛くなった。人々に感謝される度に自分の復讐者たる過去が浮き彫りになって、ここにいられないと思った。もしかすると、同じように後ろ暗い過去を持つオーゲンになら、この心境を打ち明けられたのかもしれない。だが、限られた旅路で彼と出くわすことはなかった。プリムロゼは惜しまれながらもアーフェンと別れた。
 それがハイランドでの出来事だった。最後に彼女はオルベリクのもとを訪れた。
 すっかりコブルストンの村に定住した剣士は、自警団の一員として充実した暮らしを送っていた。彼の「守る」というスタンスに基づく穏やかな暮らしは、旅に疲れたプリムロゼの心を癒やした。
 しかし、ある日のこと。村人に踊りをせがまれて酒場に立った時、彼女は異変を悟った。体がうまく動かなかったのだ。
 舞台に立つと、エバーホルドでシメオンと戦った記憶がフラッシュバックする。プリムロゼの人生を操るための脚本を書いて、最後は自分も舞台に上がってきた男のことを、彼女は未だに振り切れていなかった。「父親のためではなく、ただ自分の心を埋めるために復讐していたのではないか」――あれはプリムロゼを惑わせるための台詞だったと今では分かる。だが、これだけ時間が経っても彼女はうまく反論できなかった。
 エバーホルドでシメオンの本心を聞いた時、プリムロゼは己の自由意志すら誘導されていたことを知り、目の前が閉ざされるような感覚に陥った。それは解消されることなく意識の下に潜り込んで、彼女の心を蝕んでいた。あれから戦いの中で舞うことは幾度となくあったが、しばらく舞台に立っておらず、今の今まで気づかなかったのだ。
 舞台に立てない踊子などという情けない姿は仲間に見せられない。そう思うと、プリムロゼはもう村にいられなかった。
 コブルストンから逃げるように去る寸前、彼女はこの状況を打破できるかもしれない「ある人物」に思い当たった。しかしそれに気づかないふりをして、以前から「帰ってこい」と催促されていたノーブルコートに戻った――
「でも、故郷にも私の安らげる場所はなかった……だって、もうエゼルアート家がなくても町は十分にやっていけるんだもの」
 いつしかプリムロゼは武器を下げたまま、崩れそうな顔を必死に保って、幻影のシメオンに泣き言を吐いていた。影の中にいるシメオンは相変わらず余裕そうな態度で、彼女は胸が塞がれるような気分になる。
 ――黒曜会とのいざこざを思い出させる領主は、新しいノーブルコートにふさわしくない。そうと分かっていても、父親との思い出の残る土地で自分の存在を塗りつぶしていくような日々はこたえた。レブロー一家は立派に役割を果たしていたから、余計に。
 プリムロゼが求めた安らぎは、この地平のどこにもない。それが旅路の末に出した結論だ。
 一向に照明の中に入ってこないシメオンを見据えて、彼女はゆっくりと短剣を握り直す。復讐相手と対峙した時いつもそうしていたように。幻影だろうと、シメオンの形をしている以上は破らなければならない。
 大きく一歩踏み込もうとした刹那、
「違うだろ」
 突如として冷静な声が耳に届いた。それは客席に広がる暗がりから発せられたようだ。プリムロゼははっとしてそちらを見る。いつの間にか呪縛が解けていた。
 並んだ席の間に誰かが立っている。小さくともよく通る声で「彼」は言う。
「あんたは安らぎを求めていた相手を――シメオンを討った。自分で安らぎを捨てたんだ。今さらそれを拾ったって、心の穴なんて埋まるわけないだろ!」
 鋭い叫びと同時にその誰かが舞台に上がってきた。驚いて身を引くこともできず、プリムロゼの腹部に強い衝撃が走る。がくりと体が揺れて、強い照明も舞台の幻影もすべてがかき消えた。
 崩れ落ちそうになった体を、誰かの力強い腕が支えた。同時に口元に爽やかな香りが押し付けられる。抵抗する間もなく口内に入ったハーブに、みるみる意識を引き戻された。
「あ……私……?」
 ぼんやりする視界の中、焦りを隠しきれない様子のテリオンがプリムロゼを覗き込んでいた。
 手から力が抜けて、からんと短剣が落ちる。その乾いた音を聞いて、ここはマルサリム地下墓地だったと思い出した。ハーブはテリオンが押し込んだのだろう。
「正気に戻ったらしいな」
 彼は大きく息を吐き、抱えていたプリムロゼの体をそっと壁に預ける。どういう状況か分からず、彼女はおとなしくされるがままになった。
「あんた、錯乱していきなり俺に襲いかかってきたんだぞ。ああいうのは勘弁してくれ」
「うそ……私そんなことしたの?」
 ぎょっとして目を見開く。もしや、自分は助けに来たテリオンに劇作家の幻影を重ねていたのか? 混乱しながらハーブを飲み下せば、徐々に記憶がはっきりしてきた。
「これ、気付けのハーブね。だから意識が戻ったんだわ」
 次いで差し出された水筒を受け取り、ぬるい水を飲む。地下を進めば進むほど悪化していた胸のむかむかは、知らないうちになくなっていた。彼女は人心地ついてから尋ねる。
「あなたは穴に落ちたはずよね。階段を上ってきたの?」
「ああ。待ってても一向にあんたが来なかったからな。それに、下の階で妙なものを見た。あんたもさっき何か見たんだろ、それと似たやつだ」
 歯切れの悪くぼやけた台詞だったが、プリムロゼは彼の言わんとすることを悟った。
「私が見たのは死者の幻影よ。あなたも同じ目に遭ったのね」
 テリオンは黙って首肯し、隣に腰を下ろす。彼が何を見たのかは質問しないことにして、プリムロゼはもう一度水を飲んだ。
「もしかして、調査隊が同士討ちしたのはさっきの幻影のせいかしら?」
「おそらく。どういう理屈で幻を見たのかは分からんがな」
 ああいう幻影を目の当たりにしたら、錯乱して武器を振り回してもおかしくないだろう。現にプリムロゼはその状況に陥ったのだ。一方で、どうもテリオンは自力で幻影から脱したらしい。
「……迷惑をかけたわね」
「別に」
 彼はすっと視線を外した。先ほどは「勘弁してくれ」などと口走っていたのに、矛盾した反応だ。相変わらず素直じゃないわね、とプリムロゼは笑う。
 彼女は自分の見た幻影を反芻した。あれを打ち破るきっかけとなったのは、間違いなく現実のテリオンがかけてくれた言葉だ。彼は、プリムロゼが幻影のシメオンに向けて放った台詞を聞いていたのだろう。
「私はね、心の穴を埋めるために旅をしていたの」
 ぽつりとつぶやけば、彼はゆっくりと顔の向きを戻した。
「それがあんたの探しものだな」
 プリムロゼは彼に「探しものがある」とだけ伝えていた。テリオンはそれについて何も尋ねなかったが、時折プリムロゼの内面を探るような素振りを見せた。やはり探しものの正体を疑問に思っていたのだ。
「そうよ。八人の旅が終わって、私はハンイット、アーフェン、それからオルベリクと一緒に過ごしながらそれを探していたの。でもだめだった……心の穴は埋まらなかったわ」
 確かに仲間と過ごすことで一定の安らぎは得られた。だが、それに比例して「自分はのうのうと暮らしてはいけないのではないか」という後ろめたさまで膨らんでしまった。まっとうに生きてきた仲間たちのそばにいると、自分との差異ばかりが際立つように思えた。復讐を志したのは他ならぬ自分だというのに、勝手なものだ。
 彼女はぽつぽつと続ける。
「……それでノーブルコートに戻ったんだけど、そこにも私の居場所はなかった。十年も留守にしていたから当たり前よね。今の町にエゼルアート家は必要ないわ」
「だが、あそこの悪徳領主はあんたが成敗したんだろ」
「それは町を救うためじゃなくて、復讐のため……お父様の名誉と、私自身の心の整理をつけるためにやったことよ。もし私が復讐に走らずに町に居残っていたら、黒曜会の台頭は防げたかもしれないわ」
 プリムロゼは肌が白くなるほどぎゅっと自分の手を握る。テリオンは鋭く目を細めた。
「結果論だな」
「……ええ、そのとおりよ」
 だからこそ考えてしまうのだ。父ジェフリーは町を守るために命を賭した。しかし、跡継ぎのプリムロゼは個人的な理由のために町を捨ててしまった。あの判断は間違っていたのではないか、と。
 薄暗い吐露に対して肯定も否定もしないまま、テリオンは口を開く。
「で、ノーブルコートにいたあんたのところに、サイラスが来たんだな。今回の旅はそれがきっかけか?」
 レブローの屋敷でくすぶっていたプリムロゼは、ある日いきなり学者の訪問を受けた。彼にはノーブルコートに戻ったことを知らせていなかったので、驚いた覚えがある。相変わらず情報収集のうまい男だ。
 プリムロゼは自嘲気味に笑う。
「そうよ。あの人は私の精神状態なんてお見通しだったんでしょうね。話しながらこっちの弱いところをぐさぐさ刺してくるのよ。本人は気遣っているつもりなんでしょうけど」
「あいつはそういうやつだからな」
 テリオンは堂々と言い放った。「俺はそのことをよく知っている」――きっと内心でそう続けたのだろう。
 彼の言う「知っている」は「信じる」という言葉に等しいのだ、とプリムロゼは気づいていた。テリオンはおそらく学者の影響を受けた結果、そういう言い回しをするようになった。
 過去の裏切りによって他人を信じることを忘れかけていた彼は、コーデリアとの出会いや仲間との関わりを経て変わった。その心は盗賊なのに誰よりも伸びやかだと思える。プリムロゼは胸にこみ上げたかすかな憧憬と鈍い痛みを振り払うように、まぶたを伏せた。
「その後、いいタイミングであなたがノーブルコートに来て――きっとサイラスの差金だろうけど――今度こそ心の穴を埋めるために、ここまで探しに来たの」
 一息に喋ったプリムロゼは唇を閉ざす。テリオンはマフラーを引き上げ、顔を半分ほど布の中に隠した。
「エアハルトにヒントでも聞くつもりか? 同じ復讐者だから、あいつが答えを知ってると思ったのか」
 プリムロゼは目を見張った。彼はそこまで気づいていたのか。
「そのつもりだったけど……聞いても仕方ないのかもね。さっきテリオンに言われたこと、図星だったわ。自分で捨てた安らぎを拾って満たされようとしていたなんて、おかしいわよね」
 彼女は口の端に笑みをはりつかせた。もともとその手段が間違っていたとしたら、どうあがいても心が埋まらないことにも説明がつく。求める安らぎは復讐を志す前の遠い記憶の中にしかなくて、今の仲間たちに与えられるのは心苦しかった。その時点で己の矛盾に気づくべきだったのかもしれない。
 プリムロゼは立てた膝に顔を埋める。その横で、テリオンがくぐもった声で言った。
「別にあんたが誰に何を求めても構わんが……あんたには、どこかでぬくぬく暮らす生活は似合わないと思うぞ」
 彼女が息を詰めて耳を澄ませる中、テリオンがぶっきらぼうに続ける。
「あんたがエバーホルドできっちりシメオンを仕留めたのは、よくやったと思う。観客がいる劇場でやったからサイラスは事後処理に苦労していたが……ああいうのは得意なやつに任せればいいだろ。
 あんたは安らぎがなくても、どれだけきつい道でも歩いていけるやつだと俺は『知っている』。前に、オフィーリアもあんたは本当に強いって褒めてたな。あのシメオンみたいなろくでなしに勝って、復讐をやり遂げたのは誇っていいことだ」
 たどたどしい台詞がプリムロゼの心にひっそりと染み込んでいく。テリオンは前を向いたまま言葉を重ねた。
「きっと、あんたは誰かに発破をかけられないとやる気にならないんだろう。だから甘やかしてくれる仲間や身内から逃げて、俺についてきたんだ」
 彼は決してプリムロゼを甘やかさない。気遣いはするが、事情には深く踏み込まない。この旅が長続きしたのは、同行者に適度に放っておかれる環境がプリムロゼにとって心地よかったからだ。
「かわいそう」だなんて思われたくない。シメオンのように、自分は悲劇の中に生きているだなんて絶対に思いたくない――そんな反骨精神にあふれたプリムロゼの胸中は、盗賊として生きてきたテリオンにも理解しやすかったのだろう。
 復讐は、父を失ったプリムロゼを動かす強力な動機だった。あの炎のような衝動が消えてから、彼女は代わりに何を燃やして生きていけばいいか分からなくなった。たとえ仄暗い情熱だろうと、あれは前に進むために必要だったのだ。
 それが分かっただけでも大きな収穫だ。まだ答えが出たわけではないけれど、テリオンの激励は重く胸に響いた。
 彼はすっくと立ち上がり、こちらを見下ろす。
「……あんたがやりたいことや自分の居場所は、これからゆっくり探せばいい。とにかく今はエアハルトだ」
「そうだったわね。長い休憩になっちゃったわ」
 プリムロゼも追いかけるように腰を浮かせるが、バランスがとれずによろける。すかさずテリオンが手を取って立たせた。彼女は目を丸くする。
「あら、まるで紳士ね」
「また錯乱して暴れ出すのかと思ってな」
「淑女を動物扱いはやめてくださる?」
 プリムロゼは笑顔で彼の手の甲をつねった。テリオンは唇を噛み締めて耐えると、何事もなかったかのようにくるりと背を向けて歩き出した。
(これはいつもの照れ隠しね)
 ランタンの明かりに置いていかれた踊子は内心で苦笑した。今のプリムロゼには十分伝わるからいいものの、サイラス相手にこれをやっていた頃は、ちっとも相手に通じなくて悲惨極まりない状況だったことを思い出す。今や懐かしい話だ。
 気を取り直した彼女はしっかりと足に力を込めて通路をたどった。行けども行けども同じような道が続く。あたりにアンデッドの気配はなかった。そういえば長話の間も敵に襲われなかった。ということは、地下に進むほど魔物の数が減るのだろうか?
 二人は警戒態勢を崩さず、見取り図を頼りに奥へと進んだ。
「そろそろ例の棺桶が見つかったあたりよ」
 プリムロゼが忠告した直後、テリオンが立ち止まる。前方からかすかな金属音がした。誰かが武器を振るっているらしい。二人は顔を見合わせ、通路を駆け抜けた。
 やがて開けた空間に出た。四角く天井の高い部屋だ。そこに多数のアンデッドがたむろして、一人の男性を取り囲んでいた。
「エアハルトさん!」
 プリムロゼの叫びに気づいた騎士が、振り向きざまに目を見開く。装束は薄汚れ、豊かな髪が荒れていた。彼女は早速助けに入ろうとしたが、すぐにこちらにもアンデッドが寄ってきた。
 魔物の視線を遮るようにテリオンが前に出る。
「行け、踊子」
「えっ」
「あんたはエアハルトに加勢しろ!」
 叫びとともに、アンデッドの群れの間に鬼火が点々と灯る。骨を焼く独特の匂いが部屋に充満した。「了解」と短く返事をしたプリムロゼは、短剣を持って魔物と魔物の間を走り抜けた。
「くっ……」
 視線の先で、エアハルトが魔物の武器を避けそこねた。血の線が宙を飛ぶ。怪我したのはよりにもよって利き手だ。彼は痛みに剣を取り落とし、膝をつく。
(まずいわね)
 アンデッドたちがゆっくりと騎士に迫る。プリムロゼが全速力で走っても間に合わない――! エアハルトは諦めたようにうなだれた。
(いいえ、まだ手はあるわ!)
 プリムロゼは走りながらステップを変えた。雪豹リンデを思い浮かべ、しなやかに足を踏み出す。
 黒豹の舞――空気の流れを作り出すことで、通常よりもすばやい動きを可能にする踊りだ。舞によって体がふわりと軽くなる。彼女は持てる限りの最高速度でエアハルトの前に割り込むと、流れるように短剣を閃かせた。今にも殴りかかろうとしていたボーンズの腕が折れ飛ぶ。彼女は足元にうずくまる騎士に向かって叫んだ。
「立って、エアハルトさん。さっさとこんな場所から出るわよ!」
「あ……ああ」
 彼ははっとしたように怪我をしていない方の手を伸ばし、剣を拾い上げた。気がつけば、いつかウェルスプリング西のリザードマンの巣窟で顔を合わせた三人が勢揃いしていた。
 プリムロゼはエアハルトと入れ替わりに前線から離脱し、魔法で氷の嵐を巻き起こす。魔物にぶつかって割れた氷片が、墓地内の僅かな光を乱反射してきらきらと輝いた。
 氷が吹きすさぶ間に味方が体勢を整える。部屋の入口付近にいるテリオンと奥側のエアハルトで、アンデッドたちを挟む構図になった。だが、疲労が祟っているのか烈剣の騎士の動きは鈍い。このままでは戦線を支えきれなくなるかもしれない。一計を案じたプリムロゼは、躊躇なく腕を空気に泳がせた。
「舞踏姫シルティージよ!」
 一身に舞台の光を浴びたつもりで踊子の奥義を舞った。とびきり豪華で複雑なステップを踏む間、もうシメオンの姿は微塵も頭に浮かばなかった。
 天から降りてきた魔力のヴェールをまとった彼女は、続けて獅子の舞を踊る。奥義によって力の増した踊りの効果は、本来ならば範囲外にいるはずのテリオンにも及んだ。彼の長剣はやすやすと魔物の体を切り裂く。もともとプリムロゼの近くにいたエアハルトは言わずもがなだ。
 踊り終えた彼女が再び短剣を構えた時、
「二人とも、少し下がってくれ」
 エアハルトが進み出た。その双眸には強い光が宿っている。プリムロゼがうなずいて壁際に移動し、テリオンが飛び退いた直後、エアハルトは雷剣将の名を呼んだ。
 すさまじい轟音と衝撃が部屋全体を揺らす。プリムロゼは壁に手をついて耐えた。彼の奥義を目の当たりにするのは二度目だが、利き手を使っていないにもかかわらず、リザードマンの巣窟の時よりも精度が上がっているように思われた。
 土埃が落ち着くと、骨たちは軒並みばらばらになっていた。部屋の入口側では、テリオンが衝撃波の通り抜けた方向を確認して呆然としている。
(さすがは烈剣の騎士ね……)
 こんな相手にオルベリクは打ち勝ったのだから、おそろしいものだ。
 プリムロゼが冷や汗を拭った時、エアハルトが崩れ落ちるように地面に片膝をついた。慌てて駆け寄る。
「だ、大丈夫!?」
「これを食わせてやれ」
 テリオンが何かを投げてよこした。キャッチすれば、先ほどプリムロゼが押し付けられたものと同じハーブだった。彼女はきょとんとする。
「ブドウとかジャムじゃないの? 私は回復魔法も使えるけど……」
「今はこれが一番効くはずだ」
 有無を言わせぬテリオンに従い、ハーブを渡す。「かたじけない」と受け取ったエアハルトはすぐに嚥下した。プリムロゼは続けて詠唱に入る。
「傷を癒やしたまえ……」
 神官の魔法で全員の細かな傷を治せば、やっと場の緊張が解けた。
 テリオンが淡々とした足取りで近づいてくる。一人だけ離れた場所で戦っていたはずだが、大して怪我をしなかったようだ。やはり腕を上げたな、と思う。彼は一人になってもオルベリクの教えをもとに鍛錬していたのだろう。
 テリオンは地面に座り込むエアハルトを見下ろした。
「……あんた、剣を拾わなかったのはわざとだな。あの魔物が何に見えていた?」
 思いがけず厳しい声色に、プリムロゼはどきりとする。エアハルトは表情を消してぎこちなく立ち上がった。
「すまないが、話は後にしてくれ。助けてもらったことには感謝している」
「分かった」
 テリオンは素直にうなずいた。それを尻目にエアハルトがふところから取り出したのは、丸く磨いた石を連ねた首飾りだ。調査隊が持ち帰った例のものだろう。彼はそれを持って部屋の奥に歩いていった。
 プリムロゼは怪訝な気持ちでその背中を眺める。
(もしかして、エアハルトさんも私と同じように……?)
 一見冷静そうな彼も、死者の幻影に直面して錯乱していたのだろうか。
 しかし、それを確かめるのは安全な場所に移動してからだ。プリムロゼはテリオンと一緒に小走りで騎士を追った。
 部屋の奥には棺があった。かつて父親の葬式で見た棺を思い出し、彼女は落ち着かない気分になる。
「首飾りが入っていた箱はあれだな」
 テリオンは盗賊らしい視野の広さでいち早く空箱を発見した。確かに棺の脇の目立たぬ場所に置いてある。エアハルトは箱のそばに屈むと、ほんのわずか蓋を開けて、中に首飾りを滑り込ませた。
「どうか、安らかに」
 騎士は体を反転させ、神妙な面持ちで棺に頭を下げた。プリムロゼも見よう見まねで聖火教の祈りの文言を唱える。
 二人から距離を置いていたテリオンが声を上げた。
「すぐに脱出するぞ。またアンデッドどもが出てくるかもしれん」
 彼は先頭に立ってきびすを返した。「そうだな」と答えるエアハルトは、目的を果たして気が緩んだのか、のろのろと足を運ぶ。プリムロゼは疲れた体に鞭打ってしんがりをつとめることにした。
 話し合いたいことはたくさんあるが、誰もが疲労していた。今は一刻も早く地上に戻りたい。この暗闇ももう勘弁だ。プリムロゼは「もしここにトレサがいたら真っ先に文句を言ってたわね」と考えて気を紛らわせた。愉快な想像とは正反対に、現実の三人は押し黙っていたが。
 棺の部屋から引き返して、しばらくは魔物に遭遇しなかった。テリオンが巻き込まれた天井の崩落現場まで戻ってくる。先陣を切る彼が瓦礫を避けて階段に足をかけた時――どん、と床が揺れた。
「まだ魔物が隠れてたの?」
 これはめまいではないと判断したプリムロゼは、うんざりしながら腰に帯びた短剣を確かめる。不意にテリオンが焦ったように周囲を見回した。
「いや、これは――目を閉じろ!」
 とっさにまぶたをつむった瞬間、網膜を焼き尽くすような真っ白な閃光が空間を満たした。長く地下にこもっていた身にはあまりにも鮮烈な光だった。思わず両腕を顔の前にかざす。
 次いで、まぶたの向こうを強い風が駆け抜けた。髪が盛大に乱れる。墓地に溜まった嫌な空気が根こそぎ吹き飛ばされたかのようだった。
(い、一体何だったの?)
 プリムロゼはおそるおそる目を開けて、風の吹いてきた方向――上り階段の先を眺める。
「よしよし、これで魔物は全部いなくなったかな?」
 唐突にのんきな声が降ってきた。こんな場所にふさわしくない、あっけらかんとした明るさだ。階段を降りてきたのは、旅装束を着てランタンを持った――
「クリス……!?」
 新たな光源に旅人の金髪が浮かび上がる。「知り合いか?」というエアハルトの問いに、彼女は「そうよ。しばらく会ってなかったけど」と答えた。
 三人を見つけたクリスはぱっと顔を輝かせる。
「あっみなさん! 良かった、ご無事だったんですね」
 先頭で容赦なく光を浴びたテリオンが、疲れた様子で息を吐いた。
「さっきの光明魔法はお前の仕業か。危うく目が潰れるところだったぞ」
「ご、ごめんなさい。魔物がいたら全部倒すつもりだったので、出力を調整しなかったんです」
「そういうところは『師匠』に似なくていい」
 何かと接点の多い二人は慣れた様子でやりとりする。エアハルトも警戒を解いたように肩の力を抜いた。
 クリスのランタンは特別製らしく、普通のものよりもずいぶんと明るい。その分作り出す影も濃いため、彼の背後からいきなり新たな人物が出てきた時、三人は凍りついた。
「みんな揃っていて何よりだ。さあ、ファストトラベルで外に出よう」
 そう言って朗らかに笑ったのは、テリオンに仕事を依頼した本人――アトラスダムで帰りを待っているはずのサイラスであった。

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