合縁奇演



 外海を望むコーストランド地方の最北端、グランポートの町は今日も交易でにぎわっている。
 ひっきりなしに海上を行き交う船を眺めながら、波止場に立ったハンイットは編み込んだ長髪を潮風になびかせた。ふわ、と隣でリンデがあくびをしている。
「遅いな……待ち合わせはここのはずだが」
 相棒の喉をなでて待っていると、不意に雑踏を抜けてコツコツという靴音が近づいてきた。彼女は顔を上げる。
「ハンイット君、久しぶりだね」
 涼風のような声に鼓膜を叩かれ、彼女は目を丸くした。傾いた日差しを浴びて石畳に濃い影を落とすのは、見知ったローブ姿の学者だった。
「サイラスか。どうしてここにいるんだ?」
 ハンイットはかつて彼とともに旅をしていた。互いに目的を果たして別れた後は、それぞれ故郷に戻って生業に専念することになった。狩人として大陸中を渡り歩くハンイットはともかく、アトラスダムで研究に勤しんでいるはずのサイラスと、こんな場所であっさり再会するとは思わなかった。
 学者のそばには二名の連れがいた。
「こいつが俺の居場所を探り当てたんだ」
 隣にいた盗賊テリオン――こちらが本来の待ち合わせ相手だ――はふてくされた顔で言う。町中でサイラスと会って、待ち合わせ場所まで一緒にやってきたらしい。ハンイットは首をかしげる。
「居場所を当てた……? テリオンはあちこち旅をしているだろう。アトラスダムにいるあなたに、そんなことができるのか」
「伝手をたどればね。今回はコーデリアさんのおかげで簡単だったよ」
 サイラスはどこか自慢げに言った。
 テリオンのそばでは、小柄なレイヴァース家当主がにこにこしている。こちらも待ち合わせの相手だ。もしや、彼女が内緒でサイラスと連絡を取り合っていたのか。納得するハンイットに、サイラスが一歩近寄ってほほえむ。
「キミは変わらず凛とした立ち姿をしているね。遠くからでもすぐに分かったよ」
 ハンイットは数回瞬きして、背中の弓を負い直した。
「姿勢を悪くすると矢の精度が落ちるからな。常に気をつけている」
「なるほど、狩人らしい考えだ」
 サイラスは大真面目に感心していた。このやりとりに、何故かテリオンが盛大なため息をつく。
 学者はふっと視線を流し、隣の盗賊の顔あたりで留めた。
「それにしても、しばらく会わないうちにテリオンの雰囲気はずいぶん変わったね。驚いたよ」
「そうだろう。わたしだって、最初に見た時はびっくりした」
「……なんだ、急に」
 渦中の人物はうそ寒そうに肩を震わせる。ハンイットたちの注目が集まる先に、挑むように細められた緑玉の双眸があった。
 テリオンは、旅の間ずっと同じだった髪型を――長く伸ばして顔の左側に流していた前髪を、ばっさり切っていた。左目とその上に走る傷跡が夕日を浴びている。それだけで以前とずいぶん印象が違った。
 そもそもハンイットは彼が目を隠していた理由を知らない。「片目の視力が失われている」とアーフェンから聞いたことはあったが、今こうして人目に晒しているところを見ると、何か別の原因があったのかもしれない。
 サイラスは腕組みしてじっとテリオンを見つめた。相手は居心地悪そうに身じろぎする。
「本人に聞いても何も答えてくれなくてね。もしや、ハンイット君と一緒にいる間に切ったのかな。コーデリアさんと三人でここまでやってきたのだろう?」
「わたしがお教えしても良かったのですが、ハンイットさんと合流してからの方が、より正確なお話ができると思いまして」
 コーデリアがにこやかに補足する。テリオンはかぶりを振った。
「別に説明しなくていい」
「だが、サイラスはもう『気になってしまった』のだろう。あとは徹底的に探られるだけだぞ。あなただってよく分かっているはずだ」
 ハンイットが事実を指摘すると、テリオンは嫌そうな顔をした。
「……少なくとも、往来でする話じゃないだろ」
 サイラスはうなずいた。
「それもそうだね。酒場に移動しようか。ああ、コーデリアさんが問題なければ、だけれど……」
「大丈夫です。みなさんと一緒ですし、ああいう雑然とした場所も好きですから」
 とはいえ、相手は正真正銘貴族のお嬢様だ。シンプルなワンピースを着ていても隠しきれない気品が漏れている。荒ごとに慣れた旅人たちとは、根本から異なる存在だ。それとなく三人と一匹でコーデリアを囲って移動した。
 酒場で丸テーブルにつき、それぞれ飲み物と料理を注文した。そろそろ日暮れである。ハンイットがテリオンたちと待ち合わせをしていた理由は、自由行動の後で一緒に夕食をとるためだった。
 届いた蒸留酒を一口飲んだサイラスがテーブルの上で指を組み、首を少し傾ける。まさしく「様になっている」と形容すべき仕草だろう。ハンイットの仲間では、彼の他にはプリムロゼくらいにしか許されないポーズだ。
「さて、どうしてキミが髪を切ったのか聞かせてくれ」
 好奇心にきらめく瞳がまっすぐにテリオンをとらえる。
「……話の流れでそうなっただけだ」
 半眼になったテリオンが女性二人をあごでしゃくる。サイラスは興味深そうに眉を持ち上げた。
「ほう」
「テリオンが自分で髪を切ったのは確かだぞ」
 緑鮮やかなサラダを咀嚼し、ハンイットが口を挟む。テリオン本人の説明には期待できないので、ここは一部始終を知る自分が語るべきだろう。サイラスも心得たように体の向きを変えた。
「どういうことだい?」
「少し前、わたしがエバーホルドを訪れた時のことだが――」



 目一杯弓を引き絞り、ぱっと弦を弾く。会心の手応え通りに一直線に飛んだ矢は、眼前に迫るネズミの亜人・ラットキンの脳天に突き刺さった。
 ある程度の知能を持ち、武器防具を使用する亜人のたぐいは、ハンイットたち狩人にとって厄介な狩り対象だ。ここハイランド地方西エバーホルド山道を占拠しているのは、亜人の中でも特に集団戦闘に優れたラットキンの群れだった。ハンイットの二倍ほどの巨体を持つ相手が、十数匹はたむろしている。
 無論、この数に一人で対抗する彼女ではない。背中を守る心強い相棒リンデに加えて、他にも味方がいた。道中で捕獲した大山羊ベルセゴートに、夜に溶け込むような翼を持つヤミガラスだ。大山羊は食らうと眠気を催すスリープアタックという攻撃によって、次々とラットキンを無力化した。漆黒の鳥は戦場を縦横無尽に飛び回り、相手の意識をうまく散らして味方のための隙を作る。この魔物たちの助けがなければ、到底ラットキンと互角以上に渡り合えなかっただろう。
 会心の矢が刺さった相手は、群れのボスと思しき重厚な装備をしたラットキンだ。亜人は一瞬だけひるんだ後、頭に刺さった矢を手で引き抜く。皮が分厚かったか骨が硬かったか、致命的なダメージにならなかったらしい。ハンイットは諦めず、まだよろめいているラットキンに向かって大きくジャンプして、斧を振り下ろした。
「はあっ!」
 大切断、とアーフェンが技を繰り出す度に大声で叫んでいたことを思い出す。あれほど力を入れる必要はない気がするが、気合を込めた声を技に乗せると威力が上がることは知っていた。
 ボスの肩口に刃が食い込み、血が吹き出る。ラットキンは苦しみの咆哮を上げた。ハンイットは着地してすぐに距離を取る。相手は興奮しきった目をこちらに向けながら、じりじりと後退していった。
「今お前たちが引き揚げたらもう追わない。縄張りに帰ってくれないか」
 彼女は息を整え、できるだけ冷静に声を届けた。魔物と意思疎通できる能力を持っていても、相手が聞く耳を持たなければ対話は不可能だ。致命的な攻撃を受けたラットキンがどうにか落ち着いてくれたらいいのだが。
 にらみ合うこと数瞬、ラットキンは不明瞭な叫びとともに身を翻した。ハンイットの仲間に撹乱されていた他の亜人たちも、慌てたようにボスに従う。
 もうもうと立った土埃が晴れると、先ほどまで繰り広げられていた激戦が嘘のように静かになった。
「終わりだな……」
 ハンイットは斧を振って返り血を飛ばし、戻ってきたリンデの頭を撫でる。続いてベルセゴートのそばに寄って、長い体毛を軽く指で梳いた。魔物は目を細める。宙を舞うヤミガラスにも手を挙げて合図し、「ありがとう、助かった」と伝えた。
 彼女はラットキンの去った方角を見た。そちらははるか山裾へと続く斜面だ。どこかに巣でもあるのだろうか。
(今回はうまく蹴散らしたとはいえ、しばらく様子を見た方がいいだろう。またいつ群れでやってくるか分からない)
 ベルセゴートの首を軽く叩き、ヤミガラスには口笛を吹いて、狩りは終わりだと告げる。魔物たちは名残惜しそうに何度か振り返りながら、それぞれの住処に戻っていった。
「よし、数日はエバーホルドに滞在して、街道の様子を見ることにしよう。依頼主への報告もあるしな」
 方針を宣言すると、リンデはうなずいた。
 ハンイットは聖火騎士経由で狩りの依頼を受けてハイランドにやってきた。「エバーホルド付近で魔物が旅人を襲っているので、助けてほしい」という話だ。なんでも今は旅人の往来が増える時期で、なんとしてでも街道の安全を確保したいらしい。そのこともあり、完全に脅威が去ったと確信できるまで、ハンイットは根気強く粘るつもりだった。
 彼女はこの地方の集落に特有の急な石段を上って、エバーホルドの入口に立つ。冷たい風が吹き抜けた。この町には、かつての八人と一匹の旅の最中、何度か訪れたことがあった。
 町の奥に古代の砦を改装した劇場があり、定期的にお抱えの劇団による公演が開かれている。それを目当てに王侯貴族や裕福な者たちが頻繁に訪れるらしい。演劇が盛んな町という印象は、町の住民たちも一丸となって作り出していた。そのあたりを歩いている年端もいかない少女ですら、旅人に向かって演技をするのだ。初めて来た時ハンイットは盛大に面食らってしまったし、今も「家の中でも演技しているのだろうか?」と少し気になっている。
 エバーホルドはいつも以上に大勢の客でごった返していた。標高が高く肌寒い山間の町が、熱気と活気にあふれている。メインストリートを進んでいくと、ところどころに同じ色の幟がはためいていた。強風に翻る布を見て、ハンイットは目を瞠る。
「芝居の……大会?」
 演技に自信のある者は集まれ、との煽り文句があった。今がちょうど開催期間のようだ。周囲を見回せば、人混みを構成するのはどこかの劇団員らしき者や物見遊山の観客ばかりだった。
「演劇の町、エバーホルドへようこそ! 歓迎しますよ」
 道の脇に避けてリンデとともに人々を観察していると、町人と思しき娘が寄ってきた。ハンイットはやや身構える。ここの住民はほとんどが己の「役割」を持っていて、常時それを演じている。昔、話を聞いた相手が突然「実は自分は暗殺者で云々」などと告白してきて、ハンイットは心の底から困惑した覚えがあった。
 彼女は警戒気味に尋ねる。
「今、この町は催しものをしているのか?」
「ええ。年に一度、大陸中の旅芸人や劇団が集まる大会を開くんです。優勝すると賞金も出ますし、出場する役者のクオリティも高いので、毎年大人気なんです。大会は明日まで行われていますよ」
 なるほど、ヴィクターホロウの武闘大会と似たようなものか、とハンイットは納得する。
「会場は奥にある大劇場か?」
「いいえ、外の舞台です。見に行きますか」
「そうだな、頼む」
 外の舞台とはどういうことだろう。それらしいものは今までの訪問で一度も見たことがない。
 もともと娘は宿の呼び込みか何かだったようで、案内にも慣れた様子だ。ハンイットは誘われるままついていった。リンデもあたりを気にしながら隣に寄り添う。
 崖に張りついた家々を横目に眺めながら大通りをゆく。その終点から階段を降りた先には大劇場がそびえている――が、人々の目指す方向は違った。大劇場への道と反対側に、急斜面を降りていく幅の狭い階段がある。客は慎重に手すりを掴んで一段ずつ降りていった。その後ろに従うとやがて視界がひらけて、勇壮な山々が目の前に広がる。「外の舞台」は山から深い谷を挟んだ手前、崖の間際にあった。
「おお……」
 ハンイットは思わず息を吐く。地形はいわゆる漏斗状になっており、斜面の底には半円形の石の舞台があった。円弧部分が客席に向いていて、弦の部分には列柱がそびえている。観客席は、舞台をぐるりと取り囲むように階段状に設けられていた。屋根はなく、舞台も客席も青空の下だ。
 かつて入った大劇場では舞台の正面方向に観客が座るだけだったが、ここはほとんど四方八方から芝居を見ることができた。そのあたりもやはりヴィクターホロウの闘技場と似ている。不意にハンイットは師匠ザンターが賭けごとに精を出していたことを思い出して頭が痛くなった。さすがに劇場前に賭博師はいないようだが。
 案内した娘はくるりとこちらを振り返った。
「会場への出入りやお席は自由となっています。もうすぐ次の公演がはじまりますよ。どうぞごゆっくり」
「ああ、ありがとう」
 ハンイットは娘と別れ、リンデとともに空席を探した。そもそも芝居を見た経験が少ない上、屋外での観劇は正真正銘初めてで、興味が湧いたのだ。
 とはいえ、観客席はほとんど満杯であり、通路にまで人が溢れていた。それなりの背丈を持つ彼女だが、こうも人の壁が分厚いとさすがに舞台が見通せない。彼女は思いきって人垣の間に割り入った。観客たちはリンデの存在に気づくとぎょっとして身を引く。申し訳ないと思いつつ、通路の石段を降りて舞台に近づいた。
 やがて通路上の人垣が切れ、舞台が見渡せるようになる。今は公演前の準備をしているようで、何人かが舞台の上に大道具を配置していた。ああやって仕切りや家具があるだけで、殺風景な石の舞台がまるで部屋のように見えるから不思議だ。そう考えながら足を動かしていたハンイットは、途中で立ち止まった。
(あれは……まさか、テリオンか!)
 劇団員らしき者たちとともに手早く舞台を整えていく青年は、以前彼女と一緒に旅をしていた、灰銀の髪を持つ盗賊だった。なんだかハンイットが知る盗賊よりもはるかに愛想の良い顔で劇団員と談笑している。彼女はしばし呆然とした。
(どういうことだ。もう演技をしているのか)
 あまりに自然な雰囲気だが、ハンイットにはあれが彼一流の芝居であると分かる。だが、まだ公演ははじまっていないはずだ。
 大道具の配置が終わり、テリオンが舞台袖に引っ込む。そこでハンイットはやっと我に返った。驚きのあまり通路に立ち尽くしたままだった。
「それでは準備ができましたので、次の公演をはじめます。お客様は席についてください」
 舞台の上に司会進行役と思しき者が出てきて声を張り上げる。舞台の構造に仕掛けがあるのか、離れているのに声が大きく聞こえた。
 ハンイットは慌ててあたりを見回す。こんな場所にいては他の客の迷惑だろう。だが、なかなか空席が見つからない。
「こちらが空いていますよ」
 不意に可憐な声が耳に入った。なんだか聞き覚えがあるなと思いながら、そちらに顔を向ける。
 声の主は、短い金の髪を揺らしてほほえむ少女だった。隣の空席を手で示している。
「お久しぶりですね、ハンイットさん」
 ハンイットは大きく目を見開く。
 そこにいたのは、ボルダーフォールの貴族レイヴァース家当主、コーデリアだった。



 公演が終わり、ハンイットはほっと一息ついた。
 渦巻く疑問は多々あれど、芝居の間はコーデリアへの質問を控えた。そのせいで頭がもやもやして集中できないかと思いきや、ハンイットは思いもよらず舞台に惹きつけられた。どうやら、今芝居をした劇団は、大会のために別の町からはるばるやって来たらしい。演目はハイランドの昔話――ホルンブルグ建国者のベオウルフ王に関する逸話を題材としていた。もしサイラスがここにいたら、史実と照らし合わせていちいち注釈をつけていただろう。
 芝居の中で、ハンイットはある男性の役者に注目した。今回の話で主役を張っていたのでおそらく有名人なのだろう、舞台に出るだけで客席から声援が上がるほどの人気だった。実際、あまり芝居にくわしくない彼女でも、その演技には感心した。非常に芝居がかった動作で、一見不自然なほど大仰な身振り手振りをするのだが、演目の内容と動きがよく合っていて没入感があった。屋外なのに声もよく響いている。花形役者というのはああいう人物のことだろう、と納得する。
 期待以上の芝居を見て満足した彼女は、つい想像の翼を羽ばたかせる。
(もしこの大会にテリオンが出たら、どこまで通用するのだろう?)
 かの盗賊はプロの役者にも負けず劣らずの実力の持ち主だ、とハンイットは確信している。だから、大道具係ではなく、劇団員に混ざって晴れ舞台を迎える彼の姿を見たくなってしまった。そういえば、かつて訪れたノースリーチの町で、プリムロゼも似たようなことを本人に言っていた気がする。
「いい舞台でしたね」
 隣のコーデリアが笑みを深める。「ああ」と反射的に相槌を打って、我に返った。彼女に何を尋ねるべきだろう。どうして二人がここにいるのか、テリオンは何故舞台の準備をしていたのか。まずはそのあたりか。
 割れんばかりの拍手がおさまったあと、ハンイットは隣の少女に疑問をぶつけるべく席に座り直して――
「なんだ、ハンイットもいたのか」
 ぶっきらぼうな声がすぐ横の通路から降ってきた。ハンイットは振り返る。
「テリオン、久しぶりだな。先ほどは驚いたぞ、久々に見たのが舞台の上のあなただったから」
 神出鬼没の盗賊は、舞台でかぶっていた朗らかな仮面を脱ぎ捨て、舌打ちをする。まさかこんな場所で仲間に見つかるとは思わなかったのだろう。照れているのかもしれない。
「お疲れ様です、テリオンさん。ハンイットさんもゆっくりお話ししたいですよね。これから宿に移動しませんか?」
 コーデリアが花ほころぶような顔で提案した。彼女の言うとおり、ここでは話に集中できないだろう。
 石段を上るのは五人と一匹だ。ハンイットも演劇がはじまってから気づいたのだが、コーデリアの反対側にはレイヴァース家の護衛と思しき男が二人いた。目立たぬように主人を守っていたのだ。
 ハンイットたちは人々の波と同じ方向に動く。どうやら先ほどテリオンが手伝っていたのは人気の劇団のようで、公演を見た者たちが満足して会場から出ていくらしい。さもありなん、と思えるほど完成度の高いステージだった。とはいえ、ハンイットがまともに見た芝居というと、エバーホルド大劇場における波乱に満ちた舞台と、テリオンが盗みのために行う即興の演技くらいなので、あまり比較にならないのかもしれないが。
 すいすい前を歩くテリオンはいつもの外套を羽織り、顔の半分に長い前髪を垂らしている。彼は気が昂ぶると案外感情が顔に出てしまうタイプなので、ああやって隠しているのではないか、とハンイットは邪推していた。
 考えごとをしていたせいか、ほとんど会話もないまま宿の前についた。
「あなたたちはここに滞在しているのか」
 建物を見たハンイットは驚く。石材の表面をなめらかに整えた壁に、立派すぎる柱。どうやら、石の舞台と同時期に建てられた古い建物を現代風に改装して使っているらしい。堂々たる佇まいに歴史の長さと格式の高さがうかがえる。おそらく王侯貴族専用の宿だろう。当然、ハンイットではまったく手が出せないグレードだ。
「もしかしてテリオンもここに泊まっているのか?」
 渋々、といった様子でテリオンがうなずいた。コーデリア、衛兵二人、それにテリオンで、三部屋もとっているらしい。
「近くに寝泊まりしないと護衛にならん、と言われてな」
「護衛?」
 ハンイットはぱちりと目を瞬く。コーデリアは楽しげに言った。
「ふふ、くわしくはお部屋でお話しします」
 他の客をおどかさないため、リンデには外で待ってもらうことにした。玄関を抜けると外の喧騒から隔絶されて、ほっとした。ハンイットは普段野山を駆け巡っているので、あまり人口密度が高いと落ち着かなくなるのだ。
 一行は掃き清められたロビーを通り抜け、階段を上る。部屋に向かって歩きながら、ふと頭に浮かんだ質問をした。
「そういえば、コーデリアさんはわたしの名前を覚えていたんだな」
 この当主はテリオンに竜石奪還を依頼した張本人だが、正直ハンイットとはあまり接点がなかった。こちらが一方的に顔と名前を知っているだけだと思っていたので、会場で当主が先にハンイットを見つけたことに驚いたのだ。
 コーデリアはほほえむ。
「テリオンさんやサイラスさんから、ハンイットさんは大切なお仲間だとうかがっていましたから」
「……そうは言ってないだろ」
 ぼそりとテリオンが反論する。これはいつもの照れ隠しだろうと判断したハンイットは、軽く流した。
「先ほどは空席を案内してもらって助かった。テリオンは最近レイヴァース家によく出入りしているのか?」
「ええ。ボルダーフォールにいらっしゃった時は当家に寄って、旅のお土産話を聞かせてくださるんです」
 コーデリアは控えめにほおを染めた。普段あまり出歩かないであろう彼女にとって、テリオンの話は貴重な娯楽だろう。彼が積極的に土産話をするのは意外だが、それほどレイヴァース家が特別だということかもしれない。根無し草の盗賊にとって得難い止まり木だから、羽根を休めた分の代金を払っているのだろう。
 長い廊下を歩いた末、コーデリアが宿泊する部屋についた。扉を開けると中も広く、いくつかの部屋に仕切られていて、高級そうな家具が揃っている。完全に貴族用の一室だった。護衛は下がらせて、一番広い居間風の部屋の中に三人だけ残る。
 ソファに腰を下ろし、ハンイットは少し落ち着かない気分で口を開いた。
「ええと……わたしは狩りの依頼を受けて、ハイランドにやってきたんだ。すぐそこの街道で目当ての魔物と戦って追い返したが、また襲ってくるかもしれないから、町に滞在して様子を見ようと考えた。そうしたら、たまたまあなたたちに出会った」
 順を追って話しながら、思考の片隅で思い出す。
(そうだ、芝居を見るうちに頭から抜けてしまったが、この町に今回の依頼人がいる。後で話をしなければ……)
 コーデリアがちらりとテリオンを見てから首をかしげる。
「あの、その魔物はもしかしてラットキンですか?」
「そうだ」
「それなら、わたしたちも遭遇したかもしれません」
「なっ……怪我はなかったか?」
 ハンイットは慌てた。あの魔物の群れにはそれなりに苦戦したのだ。コーデリアは見る者を安心させる笑顔をつくる。
「わたしは護衛のおかげで何も。ですが、たまたま街道で出会った劇団の方が……怪我をしてしまったんです。テリオンさんはそれを気にされて、大道具をお手伝いすることになりました。そうですよね?」
 テリオンは目をそらしていた。相槌すら打たない。何か気まずいことでもあるのだろうか。
「では、わたしからお話しします」
 苦笑したコーデリアはなめらかに経緯を語りはじめた。

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