合縁奇演



 クリフランドでレイヴァース家を守るコーデリアは、遠く離れたコーストランド地方に友人を持っている。大富豪の娘ノーアだ。
 普段は文通だけのやりとりだが、時折グランポートを訪れて直接顔を合わせる。ノーアは足が悪いため、コーデリアが赴くのだ。それは日々の雑事から離れて心と体を休める、貴重な休暇だった。
 今回も家の用事が空いた時を見計らって、大陸を半周する計画を立てた。コーデリアが執事ヒースコートに留守を任せて旅立とうと準備していたところ、たまたまテリオンがボルダーフォールにやってきた。
「あなたにお嬢様の護衛を頼みます」
 ヒースコートはのこのこ窓から入ってきたテリオンを捕まえてコーデリアの前に引っ張り出すと、居丈高に言った。
 うろたえるテリオンの顔には「失敗した」と書いてあった。
「なんで俺がそんなことを……」
「わたくしからの依頼です。報酬もお支払いします。普段からあてもなく盗み歩いているのでしょう? 少し足を伸ばしてグランポートへ行くだけではありませんか」
「いや、全然違うだろ」
「あなたにならお嬢様を任せられる、と言っているのです」
 ヒースコートの声が低くなる。半ば脅しである。しかし、あえてコーデリアは口を挟まなかった。テリオンと一緒の小旅行なんて想像もつかず、つい好奇心が湧いたのだ。
 それから有能な老執事はテリオンを別室へ連れて行った。コーデリアのいない場所で何かやりとりした結果、テリオンは仕事を引き受けた。
 彼は一度承諾すると、もう文句を言わなかった。コーデリアとテリオンの他に護衛二人を含めた一行はヒースコートに見送られ、専用に仕立てた馬車を使って、中つ海を西回りに移動した。御者は護衛たちとテリオンが交代でつとめた。馬を走らせていない時のテリオンは、最初は少し居心地悪そうにしていたが、そのうち慣れたのか堂々と幌の中で眠るようになった。だんだん馴染んでいく彼を見て、コーデリアはおかしな心地になった。
 屋敷を旅立ってから、テリオンは普段よりもコーデリアに距離を置いて接した。他の護衛たちの反感を買わないように気を使ったのかもしれない。しかし、レイヴァース家においてテリオンの存在は知れ渡っており、彼は護衛たちからどこか親しみのある視線を向けられて困惑していた。
 そんな中、グランポートを目指す旅の途中で一行は寄り道をした。この山を越えればそろそろ海が見える、というあたりで立ち寄った小さな村で、ある噂を聞いたのだ。
「山奥にあるエバーホルドの町で、もうすぐ年に一度の芝居の大会が開かれる」
 かねてから演劇に興味を持っていたコーデリアは、ぜひ足を運びたいと主張した。テリオンは呆れつつも否とは言わなかった。雇われの身である以上、逆らえなかったのだろう。
 エバーホルドに向かう坂道を上る最中、突然テリオンが「一旦馬車を待機させろ」と言い出した。盗賊特有の鋭い勘により、前方に何か良からぬ兆候を見つけたらしい。
 彼は颯爽と馬車を降りて、一人で先を確認しに行った。かと思うと、すぐに難しい顔で戻ってくる。
「ラットキンの群れがいる。あの数とまともに戦うのは厳しい。道を迂回するか、いなくなるのを待った方がいいだろう」
「分かりました。しばらく待ちましょう」
 そういうことなら仕方ない。馬車は、魔物のいる街道から死角となる岩陰に退避した。あまり時間かかるならエバーホルド訪問は諦めるべきかもしれない、と思いながらコーデリアは読みかけの小説をめくってひたすら待機する。
 テリオンと護衛二人が何度か交代で魔物の様子を見に行った。そのうちに日が暮れてくる。ランプ無しでは本が読めなくなる頃、偵察から戻ってきたテリオンが雇い主に判断を求めた。
「魔物は相変わらずだ。どうする、引き返すか」
「そうですね……また帰りに出直します」
 コーデリアたちがグランポートから戻る頃には、さすがに魔物はいなくなっているだろう。その頃には大会は終わっているが、きっとまた見る機会があると自分に言い聞かせた。
 ――刹那、馬車の外から背筋がぞくりとするような金切り声がした。テリオンがすばやく視線を走らせ、コーデリアは腕を掻き抱く。
「い、今のは……?」
「ラットキンの声だな。誰か戦っているのか……見てくる」
 止める間もなく行ってしまった。彼の腕前はヒースコートが保証しているが、相手の数によってはどうにもならないだろう。もう一人の護衛も向かわせよう、とコーデリアが決心した時、
「コーデリア、すぐに馬車を出せ。今のうちに通り抜けるぞ」
 乾いた地面を駆けてテリオンが戻ってきた。薄暗くて見えづらいが、服が汚れているようだ。
「魔物と戦ったのですか?」
「ああ。俺たちが避難している間に、何も知らない馬車が魔物の群れに突っ込んだらしい。とりあえず俺が加勢して蹴散らしたから、今のうちにエバーホルドに向かう」
「わ、分かりました」
 御者台に上がる彼の横顔はこわばっていた。コーデリアはどきりとする。
(もしかして……わたしたちが街道の危険を知らせなかったから、別の方が被害に遭ったのでしょうか)
 夕刻で前がよく見えなかったせいもあって、他の馬車は接近するまでラットキンに気づけなかったのだ。こうなるなら、街道から離れて待機するだけでなく、後続の旅人のことを考えて注意喚起でもすべきだった。だが、今は反省している場合ではない。
 テリオンが手綱をとって馬を走らせる。魔物と交戦した跡が残る地面を一瞬で抜けて、一行は程なくエバーホルドに到着した。
 テリオンが助けた集団は町の入口で待っていた。魔物に襲われたせいか馬車の幌は破れ、どこか興奮した様子の人々がそれを取り囲んでいる。コーデリアは息を呑んだ。
「ああ、剣士様! おかげで助かりました」
 代表と思しき男性がやってきて、馬車を降りたテリオンに挨拶する。「……え?」聞き慣れない呼び名にコーデリアは面食らった。一方で、テリオンはいつもの無愛想な態度が嘘のようににっこり笑う。
「いえ、大したことではございません。むしろこちらの注意不足で、あなたがたに怪我をさせてしまいましたから……」
 爽やかで落ち着いた声だった。コーデリアは「ヒースコートの真似だ」と直感する。全く声質が違うにもかかわらず、老執事がモデルだと一瞬で分かった。空恐ろしささえ感じる技術だ。
 それにしても、どうして彼が演技をしているのだろう。コーデリアはふと、脇に控えるレイヴァース家の護衛たちを眺める。ひと目で要人の警護と分かる甲冑姿の彼らと違って、テリオンは普段の旅装束のままだ。怪しまれないために雇われの剣士を装った、というところか。
 コーデリアがこうしてテリオンの演技を目のあたりにするのは初めてだった。かつてレイヴァース家に忍び込んだ時、彼は商人のふりをしていたという。門番は「あれにはすっかり騙されました」と感心していた。竜石を求める旅の中でも、テリオンは幾度も演技によって危地を乗り越えた、と仲間たちから聞いたことがある。とはいえ、まさかここまでがらりと雰囲気が変わるとは思わなかった。ついついじっくり観察してしまう。
 案の定、男性はコーデリアをテリオンの護衛対象と認識したらしく、丁寧に説明を加える。
「先ほどはこちらの剣士様に、ラットキンの群れから助けていただきました。まるでベオウルフ王を思わせるような剣さばきでした」
 まあ、とコーデリアは感嘆を漏らす。「竜石を探す旅で剣の腕を上げたようだ」とヒースコートが自慢げにこぼしていたことを思い出した。
「それほどでも」と答えるテリオンだが、よく見るとほおが引きつっている。コーデリアは笑いをこらえて旅人たちに尋ねた。
「みなさんは……もしかしてお芝居の大会に出られるのですか?」
 あちらの馬車には、普通の旅では到底使わない大きな衣装箱が積まれていた。この時期に大勢でエバーホルドを訪れる旅人といえば、大会の参加者か見物客しかいないだろう。男性はうなずく。
「そのとおり、私たちは旅の劇団です。しかし、先ほどの騒動で役者や裏方が何人か怪我をしてしまいまして……困ったものです」
「ああ……」
 彼女がちらりと隣を見ると、テリオンは少し眉を下げた。劇団に降りかかった災難は、こちらの判断ミスが原因でもある。コーデリアは胸に手を当てて一歩踏み出した。
「そういうことでしたら、よければ何かお手伝いを――」
「わたくしが手伝いましょう。あいにく不器用なので、大道具を運ぶことくらいしかできませんが」
 テリオンがかぶせるように言った。
 コーデリアは笑いの衝動を抑えて必死に表情を取り繕う。テリオンのことを不器用と言うなら、この大陸のほぼすべての人間が赤子レベルの器用さということになる。
 劇団員はぱっと顔を明るくした。
「それは助かります! 早速明日から練習に来ていただけますか」
「分かりました」
 練習場所と集合時間を聞いてから、劇団と別れる。逆境にあってもやる気にあふれる彼らは、どこか楽しげに町に入っていった。
 劇団がいなくなった直後、テリオンは執事然とした表情を解き、いつものぶっきらぼうな雰囲気に戻った。コーデリアは少し安堵してから、深々と頭を下げる。
「テリオンさん……すみません、こんなことに巻き込んでしまって」
 コーデリアのわがままで寄り道した結果、魔物退治に加えて見知らぬ劇団の手伝いまでさせることになった。今回彼がグランポートへの旅行についてきたのは、ヒースコートに脅されたことに加えて、おそらく彼自身にも何らかのメリットがあるからだろう。その結果、自由気ままな盗賊生活とは真反対の道を歩ませていることが心苦しかった。
 テリオンは目をそらす。
「別に大したことじゃない。俺の失敗でもあるからな。しばらく昼間は護衛できなくなるが、いいか」
「もちろんです。では、わたしはテリオンさんのお手伝いする舞台を護衛と一緒に見に行きますね!」
 つい張り切って答えると、テリオンは重いため息をついた。



「なるほど。それでさっきテリオンが舞台にいたのか」
 コーデリアの話を聞き終えたハンイットは、納得とともに腕組みを解く。
 エバーホルドの高級宿は壁が分厚く、たっぷり話に集中できた。おかげで石の舞台で芝居を見る前から抱えていた疑問はほとんど解消された。その上でずいと身を乗り出す。
「しかし、大道具はいいとして、役者は替えがきかないだろう。怪我をした役者はどうなったんだ?」
「薬師に診せて大丈夫だと言われたから、本番にも出ていたぞ。あの主役だ」
 テリオンがぼそっと答えた。ハンイットは「おお」と感心する。確かにあの花形役者は、とても体に不調があるようには見えなかった。
「この大会は日によって演目が異なるんです。明日は一人芝居ばかり行うのですが、主役の方はそちらにも出られるそうですよ。楽しみですね」
 コーデリアはわくわくしたように小さく腕を持ち上げる。数日の滞在を経て、彼女はすっかり情報通になっていた。それを聞いたハンイットが目を輝かせる。
「一人芝居なら、テリオンも出たらいいだろう」
 テリオンはぎろりと半眼になった。
「何故そうなる?」
「あなたの芝居は今日見た公演にも負けていないと思うぞ」
「そういうことじゃない。だいたい芝居に出て盗賊の顔が売れたらおしまいだろ。それに、台本どおりに役を演じるのは、いつもの芝居とはわけが違う」
 意外に冷静な反論が飛んできて、ハンイットは言葉に詰まった。テリオンは劇団の手伝いをした際に、自分の演技との違いを悟ったのかもしれない。彼は一見興味のないふりをしていても、周囲のことをよく観察している。
(テリオンは、少なくとも一度は自ら舞台で演じることを検討したようだな)
 頭によぎった考えを片隅に留め置き、ハンイットは首を振る。
「そうだな、あなたの言う通りだ。準備もなしに芝居を一本演じろ、というのはさすがに無茶な話だった。すまない」
「なんだ、しおらしいな」
 テリオンは少し不気味そうに身を引いた。
「ハンイットさんのお気持ちはよく分かります。わたしも舞台に立つテリオンさんを見てみたい、と思ってしまいましたから」
 コーデリアが屈託なく言うと、テリオンはうっと喉をつまらせた。
「……まあ、とにかく芝居は見るのも手伝うのももう勘弁だ」
 座ったまま軽く肩を回すテリオンに視線を合わせ、ハンイットは提案する。
「では、気分転換を兼ねてわたしに付き合ってくれないか? これから狩りの依頼主に報告しに行こうと思う。あなたには、街道でラットキンと遭遇した証人になってもらいたい。
 あっ……コーデリアさんは問題ないだろうか」
 うっかりしていたが、今のテリオンを動かすには、まず雇い主に話を通す必要があった。コーデリアは首肯する。
「大丈夫です。護衛の数は十分ですから」
「どうだろう、テリオン」
 盗賊はどこかから取り出したリンゴをかじって緑の片目をすがめる。
「付き合ってやる」
「ありがとう。では、行こうか」
 二人は連れ立って宿を出た。玄関から一歩踏み出したところで、待っていたリンデが合流する。不満そうに低く喉を鳴らしているので、退屈していたのかもしれない。
 不意にテリオンがしゃがんだかと思うと、ふところから干し肉を取り出して、鼻先に差し出した。リンデはしっぽを立ててかぶりつく。
「おお、すまない。リンデも感謝しているようだ」
「相棒の機嫌くらいとっておけ」
 彼は口の端を持ち上げる。出会ったばかりの頃、テリオンはどことなくリンデを遠巻きにしていた。一方で、雪豹はあまり気にすることなく彼に近づいていった。盗賊の一匹狼気質が魔物にとっては馴染みやすかったのだろう。最終的に彼らは適度な距離を保って接するようになった。
 宿から少し離れ、テリオンはちらりと背後を見て肩をすくめる。
「あんな宿は息が詰まるな」雇い主がいるにもかかわらず、あっさり部屋を出た理由はそれか。
「そうだな、わたしもどうも慣れない場所だった。だが、コーデリアさんはああいう部屋こそ落ち着くのだろう」
「まったく……面倒だ」
 と言いつつも、テリオンは契約どおり最後まで彼女に付き合うようだ。ハンイットと知り合った当初の彼を思い出すと不思議なようでもあり、当然の帰結にも思える。それは竜石を求める旅で構築された、どうやっても切り離せない関係だ。彼は仲間同士だけでなく、他との関わりもきちんと積み上げていたのだ。
 道をゆく観客の列は少し落ち着いたようだった。テリオンが目だけ動かしてあたりを確認する。
「で、依頼主っていうのはどこにいるんだ?」
「依頼主は知り合いだぞ。あなたも顔を覚えているはずだ」
「……ほう?」
 片眉を上げるテリオンに答えず、ハンイットは町の高台から階段を降りていく。向かう先は大劇場――石の舞台と別方向だった。大会期間中は公演が休みらしく、こちらの道はいつもより閑散としている。
 町のシンボルたる大劇場の建物は堅牢な作りで、入口には吊橋がかかっている。かつて要塞だった頃は橋を上げて敵の侵入を防いだのだろう。今は来客を歓迎するように門戸が開かれていた。
 テリオンがぼそっとつぶやく。
「またここか……」
「どうした?」
「大会に出場する劇団は、ここを使って練習してるんだ」
「なるほど。そういえば舞台の裏にたくさん部屋があったな」
 ハンイットは、かつてプリムロゼとともにシメオン討伐を目指してこの劇場の裏に忍び込んだことがあるため、だいたいのつくりを知っていた。あの時のメンバーにはテリオンは含まれていなかったな、と思い出す。
 入口に立っていた案内人の男性に事情を話す。依頼主は舞台裏にいるという。男性は持ち場を離れて道案内してくれた。
 かつてシャノンとオンブルの劇が演じられた舞台では、一人の女性が身振り手振りをしていた。明日の一人芝居の練習だろう。どんな演目だろうか、つい意識を引かれて足取りが鈍ると、テリオンに背中をつつかれてしまった。
 案内された部屋では、立派なガウンをまとった紳士がソファに座っていた。案内人が去ると同時に、紳士が立ち上がって目礼する。
「ハンイットさん、お元気でしたか」
「わたしは変わりない。あなたもお元気そうで良かった」
 彼はこの劇場の支配人だ。以前、ハンイットはサンランド地方を治めるカリム王に「町に芝居を根付かせるため、舞台や劇にくわしい者を紹介してほしい」と相談されたことがある。その時エバーホルド大劇場の存在を思い出して、支配人を直接マルサリムの王宮まで連れて行ったのだ。
 室内には応接セットのように向かい合わせでソファが並んでいたので、テリオンとともに座る。支配人は「連れ」の存在に関しては何も言わなかった。以前テリオンとは顔を合わせているので、仲間と認識しているはずだ。
「砂漠からエバーホルドに戻っていたのだな」
「ええ、カリム王の相談も一段落しました。あとはあちらの準備が整うのを待つだけです」
 支配人の表情は気力に満ちていた。マルサリムにおける計画も順調なようだ。
 不意にテリオンが口を開く。
「この大会はあんたが企画したらしいな」大道具を手伝う間に漏れ聞いたのだろう。こういう雑談を投げかけるのは、彼にしては珍しい。
「ええ、数年前から毎年行っています。この町にはせっかく石の舞台があるのに、以前はただの遺跡として放置されていたので、もったいないと思って活用する案を考えたんです。おかげさまで、年々大会の規模も大きくなってきました」
 満足げな支配人は、そこで急に声をひそめる。
「実は今回、特別なゲストをお呼びしていて……明日にもカリム王がエバーホルドにやってくるんです」
「ほう……! それで魔物退治を急いでいたのか」
 ハンイットは合点がいった。聖火騎士を通して狩りの依頼があったのは、要人が通る街道の警備を万全にするためだ。カリム王の訪問を控えた状況で、折り悪く山道にラットキンが出現したと聞いて、支配人たち運営側はさぞ頭を抱えたことだろう。
「カリム王はマルサリムの劇場の参考にするため、大会を一度見てみたいとおっしゃっていました。お忙しいのか最終日ぎりぎりの訪問となりましたが。もしかするといい役者を見つけたら声をかけるつもりなのかも……。
 それで、魔物の方はどうでしたか?」
 支配人は期待のまなざしを注ぐ。ハンイットは渋い顔で口を開いた。
「ラットキンならあらかた追い払った。だが、魔物を根絶することは不可能だし、またいつ襲ってくるかも分からない。ここにいるテリオン――わたしの仲間も数日前に一度魔物を退治したのだが、今日再びやってきたくらいだ」
 テリオンは黙って首を縦に振る。支配人は顔を曇らせた。
「そうですか……」
「わたしは何日か町に滞在して街道の様子を見るつもりだ。少なくとも、大会の期間中は観客たちに危害が及ばないようにしよう」
「助かります。宿の代金はあとで請求してください。報酬と一緒にこちらでお支払いします」
「ああ、ありがとう」
 それから支配人は少し目をそらし、非常に言いづらそうに切り出す。
「街道の警戒も続けていただきたいのですが……実は、もう一つハンイットさんにご相談があります」
 テリオンの肩がぴくりと跳ねる。嫌な予感がしたのか。支配人はそのまま続けた。
「群れからはぐれた魔物が、この町に紛れ込んだと思われます」
「何だと?」
 ハンイットと戦った後、ラットキンはすべて同じ方角に逃げていった。だがあれだけの数だ、一匹くらい見落としていた可能性はある。支配人がますます声量を落とす。
「昨日から今日にかけて、大会に参加するためにやってきた役者が何人か怪我をしています。誰も姿は見ていないのですが、おそらく魔物の仕業と思われます。皆、背後から襲われる時に獣のような匂いを嗅いだそうです」
 時系列から考えて、ハンイットが追い払った魔物の残党ではないようだ。彼女は眉根を寄せ、隣に水を向ける。
「テリオンは知っていたか?」
「いや」
 彼も難しい顔で考え込んでいた。この劇場に頻繁に出入りしていた彼も知らないということは、まだあまり大ごとになっていないのだろう。支配人や被害者が噂の流出を防いでいるのかもしれない。なにしろ大事な本番前だ。
「襲ったのがどんな種類の魔物かも分からないのか」
「はい……」
 支配人は力なく肩を落とす。ハンイットは腕組みして考え込んだ。
 魔物たちの縄張り意識は非常にはっきりしているから、町にやってきて悪さをすることはめったにない。かつてウェルスプリングを襲ったリザードマンのように、理由があって大勢で攻め込むことがまれにあるくらいだ。他に考えられる可能性としては、うっかり人里に迷い込み、帰り道が分からなくなったか。それは魔物にとっても人間にとっても不幸なことだ。
 どのみち、詳細を調べなければ対処のしようがない。彼女は顔を上げた。
「その怪我人たちと話ができないか? もう少しくわしいことが知りたい」
「すぐに呼んできます。ちょうどこの劇場で練習しているはずですから」支配人が腰を浮かせた。
「そうか。なら、ついでに練習を見学するかな」
 ハンイットも立ち上がった。これは完全に好奇心である。支配人は苦笑しつつこちらに背を向け、テリオンは呆れたように鼻を鳴らした。
 部屋を出て舞台裏から観客席に戻る支配人に従いながら、二人はこそこそと話し合う。
「町に入ってきた魔物に心あたりはあるのか?」テリオンが質問した。
「ヤミガラスや蛇鳥あたりが境界を越えることはあるだろうが……今聞いた話からすると、鳥型の魔物に襲われたわけではなさそうだな」
 客席に到着すると、支配人は「被害者を呼んでくる」と言ってどこかへ去った。先ほど練習していた女性は舞台におらず、代わりにラフな格好をした別の役者たちが何やら話し合っている。明日の一人芝居の参加者が、同じ劇団の仲間に演技のアドバイスを求めているようだ。今日までに公演を行った劇団に所属しつつ、個人として出場する者も多いらしい。ハンイットは客席の間の通路に立ち、胸を躍らせて舞台を見上げる。
「テリオンさん……?」
 不意に、愕然としたような声が鼓膜を震わせた。
 振り返れば通路に男性が立っていた。バツの悪そうな顔になったテリオンを見て、ハンイットはようやく気づく。この男性は、テリオンが手伝った舞台で主役を張っていた男だ。すなわち、数日前に街道でラットキンによって怪我をした後、復帰して今日の本番を迎えた花形役者である。コーデリアの情報では、明日の一人芝居にも参加を予定している。今の反応からすると、どうもテリオンは役者の怪我に多少なりとも負い目を感じているようだ。
 男はぎこちない足取りでこちらに近づいてくる。
「公演を手伝っていただいた時と、なんだか雰囲気が変わりましたね?」
「……こっちが素なんだ」
 テリオンはおとなしく白状した。そういえば、彼は劇団員に対してずっと紳士のようにふるまっていたのだった。無愛想な彼を目撃した役者が驚くのも無理はない。
 ハンイットはフォローのつもりで胸を張った。
「テリオンはこういう演技が得意なんだ」
 男が息を呑む。
「あれが演技だったんですか。で、ではどこかの劇団に入っているとか……?」
「そんなのはやっていない」
 テリオンがにべもなく答えると、役者はショックを受けた様子だった。経歴は素人にもかかわらず、テリオンはプロ顔負けの演技力の持ち主だ。本物の役者には余計に信じられないのかもしれない。
「お待たせしました、関係者を呼んできました」
 その時、小柄な女性を連れて劇場支配人が戻ってきた。「被害者」と呼ばなかったのは他人の耳を気にしたからだろう。ハンイットは反射的に「ああ、助かる」と答えながら向き直る。先ほどの花形役者はいつの間にか立ち去ったようで、視界から消えていた。
 ハンイットは大劇場の客席に座って話を聞くことにした。支配人は気を利かせて席を外し、テリオンは少し距離を置いて立つ。
 見たところ女性の体に包帯などはなかった。軽傷だったようだ。
「怪我をした時の状況をくわしく教えてもらえないか」
 女性は軽く身震いしてから説明をはじめる。
「昨日、私は劇場の外で演技の練習をしていました。そうしたら急に後ろから獣のような息遣いが聞こえて、避ける間もなく何かに突き飛ばされて……危うく崖から落ちかけたんです」
 ハンイットはどきりとする。エバーホルドはハイランド地方の集落の例に漏れず、切り立った崖の上にある。人通りの多い場所は頑丈な手すりに囲まれているが、一人芝居の練習場所に選ばれるような町外れまでは整備されていない。
「だが無事だったのだな」
「はい。膝を擦りむいただけです」と言いつつも女性は青い顔をしていた。もし崖から落ちていたら、膝の怪我だけでは済まなかった。
「獣のような匂いを嗅いだと聞いたが、覚えはあるか」
「ええと……生臭い感じでした。魔物は私よりも体が大きかったと思います。人目につかない場所で練習していたので、目撃者がいないのですが……」
 やはりラットキンの仕業だろうか。しかし、目撃者がいないことが気になる。支配人の話からすると、誰一人として魔物の姿を視認していないらしい。何人も襲われているのにこの状況は不自然だ。
 ということを女性に尋ねても仕方ないので、ハンイットは質問を切り替えた。
「あなたの服か持ち物に匂いが残っていないか? わたしは狩人だから、そういうものが参考になるんだ」
「そうでしたか。ですが、襲われた時の服はもう洗濯しましたし……練習中だったので近くに荷物もありませんでした」
 女性は申し訳なさそうに縮こまる。まあそうだろう。
「話してくれてありがとう。今聞いたことは、次の被害を防ぐために役立てよう」
「お願いします。では、私は明日の準備があるので」
 女性は席を立って舞台の裏手に消えていった。怪我をしても明日の芝居には出るつもりらしい。なかなか根性がある。
 さらに二人、支配人が連れて来た役者から話を聞いた。いずれも怪我は軽く、魔物らしき匂いを嗅いだが姿は見ておらず、他の目撃者もいない、という三拍子そろった回答だった。
(そんなに姿を隠すのがうまい魔物がこのあたりにいるのか……?)
 ハンイットはますます疑問を抱いた。もしやラットキンではなく、以前ストーンガードで戦った幻影樹のような、テリオン並の演技力を持つ魔物でもいるのだろうか。それでうまく町の景色に紛れているのかもしれない。
 テリオンは積極的な発言こそなかったが、真剣な様子で耳を傾けていた。
 一通り証言を聞いた後、支配人に挨拶してから劇場を出た。すっかり日が傾いている。二人は行くあてもないまま、ひとまず町の中心部へ戻る階段を上った。
「魔物は見つかりそうか?」
 テリオンに尋ねられ、ハンイットは唇を噛む。
「難しいな。襲われた場所はばらばらで、目撃証言もない。共通点は被害者が役者であることと、襲われた時の状況――一人で芝居の練習をしていたこと、か」
 明日カリム王が来るまでに何らかの成果を出さなくてはならない。街道の見回りに加えて町の安全も確保しなければならないとは、予想外の課題だ。
 リンデが心配そうに見上げてくる。ハンイットはぐっと奥歯を噛み締め、足に力を込めて石畳を踏んだ。
 本日の公演はすべて終了したようで、会場から戻ってきた観客が町のあちこちにたむろしていた。それを狙って道沿いには屋台が出店され、大変な混雑である。この人数を守りながら魔物を見つけ出すのはなかなか厳しい。しかも、もうじき見通しのきかない夜がやってくる。
 その時、人混みを割って誰かがこちらに駆けてきた。見覚えのある顔だ。
「テリオン殿! 当主様が……」
 コーデリアと一緒にいるはずの護衛だった。息を整える彼に、テリオンは険しい調子で尋ね返す。
「何かあったのか」
 護衛は顔を歪め、ためらいがちに口を開く。それは周囲の気温を下げるような発言だった。
「当主様が、魔物に襲われて怪我をされてしまったのです」

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