合縁奇演



 コーデリアが怪我をした。
 護衛からそう聞いたテリオンは、返事もせず即座に身を翻した。ハンイットが瞬きする間に紫の外套が街角の向こうに消える。人混みなどものともしない、迅速な足取りだった。
 ハンイットは知らせに来た護衛と一瞬顔を見合わせてから、慌てて彼を追いかけた。
 向かうのはもちろん例の高級宿だ。蹴破る勢いで玄関を開け、ついてきてしまったリンデも一緒にコーデリアの部屋に駆け込んだ。
 数刻前にも訪れた最初の間では、もうひとりの護衛が待っていた。彼は沈鬱な表情で寝室のドアを示す。ハンイットは少し呼吸を整えてからノブに手をかけた。護衛たちは遠慮したのか、二人とも最初の部屋に残るようだ。
 コーデリアはベッドの上で半身を起こしていた。肩で息をして立つテリオンの向こう側から、彼女はぱっと笑顔を覗かせる。
「ああ、ハンイットさん。ご心配をおかけしました」
 近づくと、コーデリアの手に巻かれた包帯が目に入った。ハンイットはぎょっとする。
「一体何があったんだ」
「すみません、護衛を通したせいか話が大きくなってしまったようですね。ただ転んで擦りむいただけなんです」
 コーデリアは恥ずかしそうにうつむく。ハンイットは少しだけ肩の力を抜いた。
「だが、魔物に襲われたと聞いたぞ」
「それは本当だ。町の中で遭遇したらしい」
 テリオンが低い声で付け加えた。町中にひそむ魔物――劇場で聞いた話と同じだ。ハンイットはごくりと唾を呑む。
「わたしが見たのは蛇鳥でした。首から胴が蛇のように長い、飛行型の魔物です。いきなり飛びかかってきたので、びっくりして転んでしまいました」
 この包帯も過剰なんですよ、と彼女は苦笑しているが、表情は少しこわばっていた。きっと怖い思いをしたに違いない。大劇場でハンイットが話を聞いた被害者たちも、正体不明の魔物に対して薄気味悪そうにしていた。
 そこではたと気づく。コーデリアは役者たちと違って、はっきりと魔物の姿を視認していた。しかも飛行型の魔物となると、被害者たちの証言とは一致しない。
「コーデリアさん、くわしい話を聞かせてくれないか」
 狩人と盗賊はベッドのそばに丸椅子を引いてきて、話を聞く体勢を整えた。
 サイドテーブルに置かれたコップの水で喉を潤し、コーデリアはゆっくりと語りはじめる。
「ハンイットさんたちが外出されてから、わたしは護衛の一人と一緒に宿を出ました。ちょうど公演が終わる時間になると、会場から町に流れた人たちがあちこちで感想を語らうんです。その雰囲気が好きで散歩していたのですが……ふと、おかしな匂いを嗅ぎました」
「匂いか」
 テリオンとすばやく視線を交わす。これは被害者たちとの共通点だ。
「ええ、獣のような匂いです。このあたりはそれほど畜産が盛んではないので、魔物の匂いかもしれないと思いました。ハンイットさんからラットキンの話を聞いていたこともあって、正体を確かめるためについ匂いの流れてくる方向に行ってみたんです」
「ボルダーフォール出身のくせに、そういうところは迂闊なんだな」
 テリオンが厳しく指摘すると、コーデリアはしゅんとしてうなだれる。
「今は反省しています……。とにかく痕跡をたどると、匂いは町外れにある雨水を流す排水路で途切れていました」
 排水路? いまいちピンとこない話に、ハンイットは内心首をかしげる。
「水路の壁には少量の液体が染み込んでいました。どうやらそれが匂いのもとだったようです。
 魔物がいたわけではなく、わたしの勘違いだと分かったので大通りに戻ろうとしたのですが……」
 急に空から蛇鳥が襲ってきた。コーデリアは驚いて転倒し、あちこち擦りむいたというわけだ。護衛は一人で難なく魔物を退けたが、主人が傷ついたことで猛省していたという。
「その拍子に崖まで転がっていかなくてよかったな」
「そ、そうですね。みなさんに大変なご迷惑をおかけするところでした……」
 コーデリアをからかうテリオンは、呆れ半分、安心半分といったところだ。自分が目を離した隙に大怪我でもされたらたまったものではない、と考えたのだろう。
(それにしても、獣のような匂いのする謎の液体か……)
 引っかかりを覚えたハンイットは記憶をひっくり返した末、不意に思い当たった。
「そうだ、あれがあった」
 彼女は鞄の口を開けて底の方に手を突っ込む。
「ずいぶん持ち物が多いな」
 鞄をのぞき込んだテリオンが眉根を寄せる。残念ながら、この中に彼のお気に召すような金目のものはないだろう。
「狩りの後だからな。普段はもっと整頓しているぞ。
 コーデリアさん、もしかしてあなたが嗅いだのはこの匂いではないか」
 ハンイットが取り出したのは、しゃれた紫の小瓶に入った液体だ。蓋を開けるとぷんと匂いが立つ。リンデがぴくりと反応した。
「ああ……これです!」
 コーデリアは目を見開いた。
「なんなんだ、これは」テリオンが胡乱な目つきになる。
「魔物の香水だ。この匂いが魔物を引きつける効果を持つらしい。人工的に調合したもので、いつかサイラスが『珍しいものが手に入った』と言って押し付けてきたんだ」
 魔物でも種族によって好きな匂いは異なるが、これはあらゆる魔物を誘惑する――引き寄せのリボンに近い効果を持つのだ、と学者は言っていた。
 ハンイットはきっちり小瓶に蓋をした。旅の間にもらったものなので、入手からかなり時間が経っていたが、それでもガラス越しに香りが漂う。
「コーデリアさんを襲った蛇鳥は、水路に撒かれた魔物の香水に引き寄せられたのだろう。何故そんな場所に撒いてあったのかは分からないが……」
 だんだん頭がこんがらがってきた。役者たちが襲われた事件とコーデリアが魔物に遭遇した事件は、一見似ているようだが細部が大きく異なる。どう紐解いていけばいいのだろう。
 悩むハンイットを尻目に、テリオンがそっと唇を開く。
「もしかして、怪我をした役者たちも今と同じ匂いを嗅いだんじゃないか」
 ハンイットは思わず喉を動かす。
「それは……つまり役者たちが誰かに香水をかけられたせいで、匂いに寄ってきた魔物に襲われたということか?」
「違う。役者を襲ったのは魔物じゃない。犯人は香水をつけた人間だ。匂いで魔物を装って、役者を突き飛ばしたんだ」
 テリオンの断定に、ハンイットの中でやっと話がつながった。
 誰も見ていない時を狙って背後から役者を襲い、致命傷にならない程度の怪我を負わせる。魔物がその犯行をするには相当高度な知能が必要だが、犯人が人間であれば造作もないことだ。
 ハンイットの腹の底にじわじわと黒いものが溜まっていく。ついこぶしに力が入った。
「犯人は、わたしたちが捜査に乗り出したことをどこかで知ったのかもしれないな。だから証拠隠滅のために香水を撒いたんだ。水路ならすぐに匂いも洗い流されるから」
「あの……大会に出られる役者さんも誰かに襲われたのですか?」
 劇場の話を知らないコーデリアが目をぱちくりさせた。ハンイットがかいつまんで簡単に説明すると、納得した顔で何度もうなずく。
「なるほど……! では、被害者の方々にも魔物の香水を嗅いでもらえば、匂いのもとが確定しますね」
「そうだな、あとでもう一度大劇場を訪ねてみよう」
 ハンイットは小瓶を鞄にしまった。その様子を眺めながら、コーデリアがベッドの上で首をひねる。
「しかし、そうなると犯人は誰なのでしょう。一体何が目的で役者の方を襲ったのでしょうか……」
 テリオンは目を伏せてぽつぽつと続けた。
「それっぽい匂いがするだけでは、魔物の仕業にはならない。犯人は見た目に頼らず、匂いと動作だけで本物の魔物だと思わせるような演技力を持っているってことだ」
 大劇場で最初に話を聞いた女性は、襲われた時に「獣のような息遣いを聞いた」と言っていた。視界を騙せない分、犯人は気配や動作のみでほぼ完璧な擬態をする必要がある。
 そこでハンイットはテリオンの言わんとすることに思い当たった。
「演技力がある人間……つまり、犯人は大会の参加者か」
 にわかに捜査の雲行きが怪しくなってきた。大会に参加した劇団に所属する者全員が対象とすると、とんでもない数だ。すでに香水は処分されているから物的証拠を突きつけることもできないし、公演を終えた劇団に紛れた犯人がすでに町を去っている可能性すらある。
 立ちはだかる難問に対し、テリオンはごく冷静だった。
「いや、犯人は被害者と同じ、明日の一人芝居の参加者だと思う。怪我をさせて自分のライバルを蹴落とそうとしているんじゃないか」
 それなら犯人はまだこの町にいる。ハンイットは背筋がぴんと伸びるのを感じた。
「一人芝居の参加者は二十人ほどだと聞きました」
 コーデリアが補足した。かろうじて一人ずつ聞き込みができる数だが、ハンイットたちは犯人を見つけ出すための決定的な証拠を持っていない。
 皆同じ壁に突き当たったのだろう、会話が停滞する。テリオンはイライラしたように足先で床を蹴った。
「やられっぱなしは癪だ」
 コーデリアが心配そうな視線を向けた。彼が荒っぽい手段に出ることを懸念したのだろうか。しかし今回はコーデリアの他にも被害者が多く存在するから、水に流すことはできない。ハンイットだって魔物に罪をなすりつける犯人の態度は気に食わない。このまま引っ込んでいるつもりはなかった。
 ハンイットは身を乗り出した。
「明日、会場に参加者が全員集まるのだろう。そこで直接犯人を探せばいい。支配人に頼んで、舞台袖にでも潜り込めるようにしよう」
 あくまで彼女は聞き込みによる解決を考えていた。現状では魔物の嗅覚に頼ることもできないからだ。だが、テリオンの意見は違った。
「それよりもいい方法がある。正面から叩き潰すんだ」
 おお、とハンイットは感嘆の声を上げる。テリオンがいつになくやる気だ。さすがに間接的にコーデリアを害されて黙っている彼ではない。どういう作戦かは分からないが、テリオンは己の腹案にかなりの自信があるようだった。
 彼は現在の雇い主を見やる。
「あの大会は、開始ぎりぎりまで参加を受け付けているそうだな」
「はい。街道が魔物に封鎖される騒ぎがあったので、町への到着が遅れている方も受け入れているようです。……あの、テリオンさん」
 コーデリアが期待に満ちたまなざしを向ける。テリオンはなんでもないような顔で言った。
「俺が芝居で犯人をあぶり出す」



 決戦の朝がやってきた。
 昨晩、ハンイットは興奮してなかなか寝付けなかった。それでも身に染みついた習慣により、こうして太陽が山の端から顔を出したばかりの時間に目が覚めた。宿の部屋で軽く身支度を整える。床に寝そべっていたリンデも起き出し、前足で全身を毛づくろいしていた。
 彼女はテリオンたちの泊まる高級宿とは別の宿に部屋をとった。町の入口に近く、比較的安価なので旅人が多く宿泊しているが、早朝のロビーにひと気はなかった。一人と一匹は静かに玄関を通り抜け、まずは西エバーホルド山道に繰り出す。
 ハンイットは高山の冷えた空気を吸い込んでから、ピイと指笛を吹いた。澄み切った空に高い音が響き渡る。
 しばらくすると、羽ばたきとともに黒い翼を持つ鳥が降りてきた。
「今日はよろしく頼むぞ。今の音で呼び出すからな」
 昨日狩りを手伝ってもらったヤミガラスだ。腕を差し出すとその上にとまったので、ハンイットはもう片方の手で首のあたりをなでてやった。
 もう一度口笛を吹けば、魔物は空に戻っていく。目的を果たしたハンイットは町にとって返し、閑散とした石畳の道を通ってテリオンたちの泊まる宿を目指した。
 この時間帯ならそうそう客も起きてこないだろうと考え、リンデと一緒に宿に入る。掃き清められた広いロビーに、人影はひとつだけだった。
「早いな、ハンイット」
 灰銀の髪を無造作に流し、大きなソファにどっかり腰掛けていた青年が立ち上がる。
「おはようテリオン。早起きはあなたもだろう、なにせ今日は大事な日、なのだから……?」
 ハンイットの返事は途中で切れた。口が開いたままになる。
 こちらに歩いてくるテリオンは、まるで別人のようだった。それもそのはず、彼は長く伸びた前髪をばっさり切っていたのだ。長い旅の間にもほとんど見ることのなかった緑の両目がこちらを注視している。左目に薄く残る傷跡まで見えて、ハンイットは若干動揺した。
「ど、どうしたんだその髪は。何かあったのか」
 両目があらわになったテリオンはどこか幼い面立ちをしていた。確かハンイットよりもいくらか年下だったはずだ。
 テリオンは顔を歪めた。
「は? 何かあるのはこれからだろ」
「……もしかして、芝居のために切ったのか?」
 さらなる驚きとともに尋ねると、テリオンは逆に不審そうなまなざしを向けてくる。
「そうだ。意味もなく片目を隠してたら、そういう役なのかと思われるからな」
(ということは、役作りのために髪型を変えたのか!)
 あまりのことに声が出ない。彼は演技をするにあたって、観客の目をきちんと意識していた。まさか、芝居に対してそこまでのプロ意識を持っていたとは……。
 ハンイットが呆然としながら現実を咀嚼していると、彼は短くなった前髪を落ち着かない様子でいじりはじめる。
「……おかしいか?」
「い、いや……そんなことはない。うん、今日の演技には期待できそうだな」
 混乱の解けたハンイットは笑顔になって、心の底からの言葉を贈った。テリオンは機嫌を直したのか「まあな」と両肩を持ち上げる。
 話が一段落した時、ロビーと上階をつなぐ階段から、こつこつと軽い足音が降りてきた。
「おはようございます、みなさん……」
 眠たそうな目をこすりながらコーデリアがやってくる。テリオンがさりげなく移動してソファを譲り、彼女は遠慮なく真ん中に座った。
「コーデリアさん、おはよう。もう怪我は大丈夫なのか?」
「おかげさまでほとんど治りました。ですが、台本を書くのに夜中までかかってしまって……」
「台本、完成したんだな」
 ハンイットがわくわくしながら言うと、テリオンがふところから分厚い紙の束を取り出した。台本だろう。真っ白な紙を惜しげもなく使うあたり、やはりコーデリアは貴族だ。
 コーデリアは申し訳なさそうに目を伏せた。
「テリオンさんに台本をお渡ししたのは、日付が変わる間際でしたよね。あれから台詞を覚えたのですか……?」
「筋書きは頭に入った。あとは流れでなんとかする」
 テリオンも寝不足のようだが、いつになく受け答えがしっかりしていた。
 彼の演技の持ち味は即興性だ。やはり準備期間が短くとも楽勝らしい。今回コーデリアに頼んで台本を用意したのは、作戦上必須だったからだ。
 それに、テリオンは人一倍舞台度胸がある。なにせ自分の命を狙う盗賊たちが潜むアジトに、真正面から乗り込んでいくほどだ。それと比べたら、観客の多い大舞台なんて大したことはないだろう。演技に関してハンイットはさほど心配していなかった。
 ふとコーデリアが口元に手をあてる。
「あ、そうでした。ハンイットさんも一箇所だけタイミングを覚えてください」
 彼女はテリオンから台本を受け取って、「ここです」と該当のページを指さす。大まかな筋書きは昨日の時点で聞いていたので、ハンイットの頭にもすんなり芝居の流れが入った。
「タイミングは分かった。頼まれたとおり、わたしもさっき準備を済ませておいたぞ」
 芝居によって犯人をあぶり出す――最初に聞いた時は荒唐無稽なアイデアだと思ったが、一晩経って「犯人を捕まえるにはこれしかない」と確信できた。ハンイットも協力は惜しまないつもりだ。
「助かる。それじゃ、行くぞ」
 テリオンはいっそ淡々として見えるほど落ち着いていた。彼の号令により、ほとんど道具も持たない即席の劇団が石の舞台に向かって出発した。
 昨日、作戦とそれぞれの役割を決めて解散した後、ハンイットは大劇場に引き返した。そこで事件の被害者たちに再度聞き込みをして、犯人の匂いが魔物の香水と同じだったという証言を得た。一方で劇場支配人には「事件解決のためにどうしても必要だから」とお願いして、今日の大会にテリオンの芝居をねじ込んでもらったのだ。
 町の奥、斜面を降りていく階段に差しかかると、昨日も見た石の舞台が遠目に広がった。青みがかった朝の光を浴びる会場には、まだほとんど人はいない。これから太陽が昇るにつれて、観客が増えていくのだろう。
(今日はテリオンがあそこに立つんだな……)
 自然と胸が高鳴った。事件の犯人を捕まえるためとはいえ、これは願ってもない機会だ。
 石の舞台はヴィクターホロウの闘技場と違って、外と中を隔てる仕切り壁がない。ただし、公演が行われていない今は通路の入口部分に紐が張られていた。関係者以外立ち入り禁止の印だ。他の参加者を驚かせないようリンデを会場の外に待機させてから、三人は紐を乗り越え、さらに舞台へと近づいていく。
 舞台には今日の一人芝居の参加者が数人だけ集まっていた。この大会では、客を入れる前にその日の参加者全員が集まって支配人の説明を聞いた後、予め決められた順番どおりに公演がはじまるそうだ。参加者たちは自分の出番が来るまではどこで何をしてもいいらしい。客席に座って観劇に徹する、ギリギリまで大劇場で練習する、客から見えない舞台袖で静かに待機する、などが主な選択肢である。
 先頭のハンイットは隊列の真ん中を歩く貴族を振り返る。
「コーデリアさんは観客席で待っていたらどうだ?」
「いいえ、わたしもお手伝いします。テリオンさんは出番まで舞台袖にいるつもりですよね? 衣装の直しが必要になるかもしれませんし、待機していた方が安心でしょう」
「……好きにしろ」
 テリオンは視線を合わせず答える。むしろコーデリアが近くにいる方が目が届いて安心だ、とでも考えたのだろうか。
 三人で舞台に上がると、先に来ていた劇場支配人がこちらに気づいて目礼する。彼はテリオンの演技力を知らないせいか、どこか不安そうだった。
 そのうち他の参加者たちも集まってくる。
(この中に犯人がいるのか……)
 ハンイットは怪しまれない程度に役者たちを観察し、顔を覚えた。昨日大劇場で話を聞いた被害者も揃っている。驚いたようにこちらを見る彼女らに、ハンイットは表情と口の動きで「気にしないでくれ」と伝えた。さらに例の花形役者も舞台にやってきたが、彼はペースを崩されることを嫌ってか、こちらに対して無反応だった。
 場が落ち着いたところで、支配人が参加者たちを見回す。
「皆様おそろいですね。本日はよろしくお願いいたします。一応審査による順位はつきますが、よりよい芝居を披露して観客の方々を楽しませてください」
 それから簡単に今日の流れの説明があった。話が進むに連れて役者たちの顔に緊張が浮かんでくる。翻ってテリオンは普段以上に泰然自若としていた。
 挨拶と説明が終わり、参加者たちはめいめいの方角に散らばる。それを合図に観客の入場も解禁されたようで、一気に会場が騒がしくなった。
 ハンイットたちは全員舞台袖に引っ込んだ。しばらくして会場のざわめきが引いてきた頃、昨日と同じ司会の男が舞台の真ん中に出て、声を張り上げる。
「おまたせしました。本日は珠玉の一人芝居を披露いたします。皆様どうぞ最後まで楽しんでいってください。さて、最初の演目は――」
 観客席から割れんばかりの拍手が沸き起こる。こうして最終日が開幕した。
 ハンイットは舞台袖の列柱の隙間から顔を出して、こっそり客席を眺める。
(本当にカリム王がお忍びで来ているのか……?)
 どうも信じがたい話だ。正真正銘の要人なので厳重に警護されているはずだが、客席のどこを見てもそんな様子はない。少ない護衛でまわりに溶け込んでいるのか、もしくは舞台から見えない場所に貴賓席でもあるのか。
 テリオンは早々に着替え――役に合わせてコーデリアの護衛の服を借りた――を済ませると、体をほぐすためにストレッチをはじめた。盗みの前のルーティンだろうか。彼以外で舞台袖に残った者たちは舞台で行われる他の参加者の芝居を見て一喜一憂しているが、テリオンにそういった気構えは微塵もない。
 コーデリアは隅でおとなしく椅子に座っていた。手持ち無沙汰になったハンイットはその隣に腰掛ける。
「あなたがあんな短時間で芝居の台本を書けるなんて、驚いたな」
 すると彼女は何故か半分目を伏せ、口元を手で隠した。
「ええと……元になるお話がありましたから。それに、お芝居には前から興味があったので、台本の書き方も多少調べていたんです」
 以前、文通相手のノーアから「脚本を書いてみないか」と提案されたらしい。ハンイットは納得してあごを引く。
「なるほどな。だが、実際に台本を書くのは初めてだったのだろう。あなたにはもともとその力が備わっていたんだな」
「あ、ありがとうございます」
 コーデリアはほおを紅潮させて口をつぐんだ。
 刻一刻と近づく出番を待ちながら、ハンイットは時折好奇心にかられて舞台を覗きに行った。昨日話を聞いた被害者たちは、少し調子を崩しながらもなかなか健闘していた。一人芝居というのは、大勢の役者が織りなす劇と違って派手さはないが、それぞれの演技力が如実に出る。ほとんど舞台装置がなくとも、役者が喋って動くだけで舞台上に独特の空間が広がるのが不思議だ。
 やがてテリオンの番の一つ前までやってきた。次の公演は誰だろうと思って舞台を見ると、例の花形役者が照明の下に出ていくところだった。客席からわっと歓声が上がる。やはり彼は段違いに人気だった。
 所定の位置にたどり着いた役者は、一呼吸置いて腕を持ち上げ、芝居をはじめた。朗々たる声が舞台袖にも届く。今回も歴史上の出来事を脚色した話のようで、彼は時代がかった口調で演技した。思わず目を細めたくなるような心地よい声である。
(確かに素晴らしい芝居だ。しかし……わたしの好みとは違うな)
 昨日から何度も他人の演技に触れるうちに、もやもやと形成されてきたハンイットの興味が、今はっきりと定まった。
 すでに準備を終えたテリオンは、じっとまぶたを閉じてコーデリアの横に座っている。ハンイットは彼の真向かいに立った。
「テリオン。あなたの芝居がわたしたちの胸を打つのは、きっと……それが生きるための技術そのものだからだろう」
 彼は顔を上げた。落ち着いた緑の両目がハンイットをとらえる。問い返す様子はなく、彼はただ言葉を待っていた。
 テリオンは顔だけでなく腕や足にも古傷を残している。長く盗賊稼業をするうちに負ったものだ。今、彼は自らの生きてきた証を惜しげもなく晒したまま、芝居に挑もうとしている。
「ノースリーチで話した時、わたしはあなたの演技に対して、周囲に擬態する魔物を例えに出しただろう。やはりあの感覚は正しかったと思う。他の参加者たちは職業として役者をやっているが、あなたの芝居は違う。うまく言えないが……」
「ほう?」
 相手は面白がるように口の端を吊り上げた。ハンイットはまぶたの裏に今までの彼の演技を思い浮かべ、話を続ける。
 テリオンは架空の存在だろうと完璧に演じられる。けれどもその演技の基礎となるのは、彼自身がよく知る他人だ。今まで出会って会話をかわした「誰か」の真似こそ、彼の演技なのだ。テリオンが歩んできた道のりですれ違った人々は、確かに彼の中に根付いている。
「――それが伝わってくるから、あなたの芝居は見ていて心地がいいんだ」
 拙い言葉で精一杯伝えると、テリオンは口を閉ざしたまま凪いだ表情で前を向いた。
 ちょうど前の芝居が終わったのだ。拍手の音がだんだん引いていく。テリオンが立ち上がった。
「ハンイット。犯人探しは頼んだぞ」
「ああ、任せてくれ!」
 二人はぱしんと手のひらを打ち付け合う。空白となった舞台へと歩を進めるテリオンの後ろ姿へ、ハンイットはとっさに疑問を投げかけた。
「なあ、あれほど芝居を嫌がっていたのに、どうして人前に出る気になったんだ?」
「……あいつに言われたんだ。俺なら何にでもなれる、ってな」
 あいつとは誰だろう? 聞き返す暇は与えられず、テリオンは光の下に足を踏み出す。
 ハンイットは舞台に背中を向けて、客席へと向かった。コーデリアは「お願いします」と言って祈るように手を組み、その場に残る。
 見物の邪魔にならないよう客席の端にある階段を上がりつつ、横目で舞台を眺めた。トレードマークのマフラーをなびかせ、テリオンが舞台の中心に躍り出る。ハンイットは水を打ったように静まり返る会場を注意深く見渡した。通路にはみ出した観客にも目を走らせながら、まずは自分の出番まで待機する。
「この村は魔物の被害を受けていると聞いた。良ければ俺が力を貸そう」
 テリオンの声は、先ほどの花形役者にも負けず劣らずよく通る。客席の空気が引き締まるのを感じた。彼が演じるのは、ある剣士の物語だ。確かな実力を持ちながらも驕ることなく、誰にでも礼儀正しい旅の剣士――見る者が見たらすぐに分かる。仲間のオルベリクを参考にしているのだろう。
 旅の途中で村を訪れた剣士は、魔物退治を頼まれる。村の中に魔物が一匹入り込み、人々を襲っているらしい。
 テリオンはその物語を一人だけで――剣士の声と表情だけで演じていた。どうやら一人芝居というものは数人の役を一人で演じ分けるものが主流らしい、と他の舞台を見たハンイットは気づいていた。それと比べてテリオンは剣士の役しか演じていないのに、今がどういう状況なのか、目に見えず声も聞こえない村人が何を話しているのかが、ひしひしと伝わってくる。彼は受け答えのわずかな間や相槌の打ち方、視線の動きによって、透明な話し相手を目の前に生み出しているのだ。
 それに気づいた客席がざわつきはじめた。テリオンの演技がもたらす効果を見届けたハンイットは一旦会場を離れて、リンデと合流する。頼もしい相棒の案内で人のいない場所に移動し、口笛を吹いた。程なく空から黒い影が飛来する。
「手はず通りに頼むぞ」
 準備を済ませたハンイットが会場に戻ると、いよいよ剣士が元凶の魔物と対峙するシーンに差し掛かっていた。台本通りだ。テリオンが鋭く空に視線を投げ、長剣を抜き放つ。彼はオルベリクの所作を完璧に自分のものにしていた。
(よし、今だ)
 ハンイットが客席の隅で合図をした直後、何者かの鋭い声が会場を貫く。滑空しながら急激に高度を下げてテリオンに襲いかかったのは、ハンイットが呼び寄せたヤミガラスだ。鋭い爪と長剣がぶつかって金属音が鳴り、観客席のあちこちにどよめきが湧いた。
「魔物が襲ってきたの?」「いや、これは演出だ!」
 テリオンは客の動揺を物ともせずに長剣を閃かせ、迫真の戦闘を繰り広げた。激しい殺陣を好むエバーホルド大劇場お抱え劇団の長がこれを見たら、即座に彼を勧誘するに違いない。
 激闘の末に剣士は魔物を退けた。羽根を散らしたヤミガラスがよろよろと飛び去っていく。その様子を見守ったテリオンは、あることに気づいた。
「そうか、一連の事件は今の魔物の仕業ではない。犯人は……人間だ」
 この芝居は、大会の合間に起こった現実の事件を下敷きにしている。コーデリアが頭を捻ってうまく台本に仕立てたのだ。
 決定的な台詞が放たれた瞬間、すでにハンイットはリンデとともに客席の間に潜り込んでいた。二十数名の参加者のうち、最初からある程度目星は付けている。犯人は他の参加者の邪魔をするくらいだから、他人の演技を非常に気にしているはずだ。すなわち、犯人は客席から舞台を見て、自分の演技とどちらが上か分析しているのではないか。
 朝、参加者が一堂に会した時点でそれぞれの顔を覚え、その後客席のどのあたりに座ったのかも確認しておいた。ハンイットは客席に散らばった犯人候補から特定の条件に見合う者を探す。テリオンの芝居に明らかに顔色を変えて、何なら会場から逃げ出そうとしている者はいないか。
(いた!)
 ある参加者が腰掛けているはずの席が空いていた。ついさっきまでは埋まっていたのに。
 雪豹が低く吠える。その視線の先に、こそこそと階段を上がって会場の外に向かう後ろ姿があった。ハンイットたちはなるべく足音を殺して全速力で追いかけた。
 会場から出たところで、リンデが一足早く追いついた。公演の真っ最中のため、あたりに他の人影はない。崖際で雪豹に追い詰められたその人物は、憎悪のこもった瞳をハンイットに刺す。
「あなたが役者たちを襲った犯人だな」
 ハンイットはひるまずに糾弾した。
「何のことだ?」
 返事の声は堂々としていた。少し前、彼女はその声が舞台で紡ぐ古めかしい台詞を聞いたばかりだった。
 犯人は、テリオンが助けた劇団の花形役者だった。しばらくにらみあっていると、相手の体に込められた力がみるみる抜けていく。根負けしたのだろうか。ハンイットはまだ身構えたまま口を開く。
「あなたは、今テリオンが演じた芝居と同じ手口で参加者を襲ったのだろう。魔物の仕業にするために香水をつけて、背後から役者たちを突き飛ばしたんだ」
 相手は力なくかぶりを振った。
「そのとおりだよ」
「……素直に認めるんだな」
 ハンイットは眉根を寄せ、警戒しながら彼に近寄る。
「あんな芝居を見せられたら、諦めるしかないさ……。あーあ、悪あがきなんてしなければよかった」
 彼は自嘲気味に笑う。その発言で、相手が完全に敵意を失ったと分かった。
「このまま衛兵に突き出すからな」とハンイットが言っても、彼は抵抗することなくついてきた。
 犯人は、テリオンの芝居を見て自分の敗北を悟ったのだ。
 テリオンは己の持つ能力――盗みの才能に関して、かつて親しい者から激しい言葉を投げかけられたことがある。ハンイットはその場面を遠くから目撃していた。
 彼の持つ数多の才能は素晴らしいものだが、それを振るうだけでまわりを傷つける場合も、確かにある。
 犯人を連れて行く途中、ふと舞台に目を戻せば、テリオンが喝采を浴びながら客席に向かって優雅に頭を下げていた。



「あの役者は、カリム王が舞台を見に来る噂を知っていたらしい。もし優勝したら王の目にとまるかもしれない……と思うと、つい参加者の妨害に走ってしまった。魔物を装ったのは、相手に怪我を負わせるよりも恐怖を与えて調子を崩させるためだったようだ。エバーホルド到着前に自分が怪我をしたことで焦りが生じて、魔が差したのだろうな。
 彼はテリオンのことを、『役者でもないのにあれだけ芝居がうまいのはどうなっているんだ』と言っていた……」
 遠く波音の聞こえるグランポートの酒場にて、ハンイットは長い長い語りを終えた。いつしか飲むのを忘れていたジュースはすっかりぬるくなっている。
 時折相槌を打ちながら話を聞いていたサイラスは、整ったあごの稜線を指でなぞる。
「犯人はどうやって魔物の香水を入手したのかな」
「以前、あの劇団では舞台に臨場感を出すために、香水を使って匂いを演出しようとしたそうだ。仕入れた香水が危険な代物だと分かってやめたが、犯人はその残りを持っていたのだろう」
 一連の事件を思い出したのかテリオンは憮然として頬杖をつき、コーデリアは神妙な面持ちで口を閉ざしている。一方で、何故か目を輝かせたサイラスが、ぱんと手を叩く。
「ハンイット君……キミの語りは素晴らしかった。狩人は自らの仕事ぶりを誰かに語り聞かせる技術も磨いているそうだね。これならザンター氏も満足だろう」
 突然語り口についての評価が飛んできて、ハンイットは面食らった。
「先にその感想が来るのか? しかも今回はわたしの狩りについて話したわけではないだろう」
「キミの視点から見たテリオンの物語として完成していたんだ。優秀な語りだったよ。どうだろう、その能力を生かして――」
「教師の勧誘はもう聞き飽きたぞ」
「むう……」
 先手を打つと、サイラスは押し黙った。隣のテリオンは鼻で笑ってエールを傾ける。
 サイラスはすぐに表情を取り繕った。
「とにかく、犯人は無事捕まって、衛兵に引き渡されたのだね」
「ああ。それからしばらくエバーホルドに滞在したが、結局ラットキンたちは出てこなかった。聖火騎士への報告は支配人に任せて、わたしはテリオンたちと一緒にここまで来たんだ」
 幸いにも次の依頼は入っていなかったので、久々に会った仲間と過ごす時間を優先したわけだ。
 サイラスは身を乗り出す。
「結局、テリオンは大会で優勝したのかい? もしくはカリム王の目にとまったとか?」
 テリオンはびくりと肩を揺らした。やはりそこが気になったか。盗賊本人が一向に口を開かないので、代わりにハンイットが首を振る。
「観客の反応は良かったのだが、テリオンが審査を辞退した。魔物を使ったから一人芝居じゃない、と言ってな。
 それに、カリム王は会場に来なかった。魔物が街道に出たこともあって、お忍びの旅は取りやめになったらしい。エバーホルドまで話が伝わるのが遅かったんだな」
「本当に残念です。テリオンさんなら王様も射止められたでしょうに……」
 コーデリアが憂うように手のひらでほおを包む。テリオンはエールの泡を口の周りにつけたまま、横目でにらんだ。
「ずいぶん自信があるんだな」
「あの舞台を見たら誰だってそう思いますよ! ほとんど準備時間もなかったのに、完璧なお芝居でした」
 コーデリアが両手を胸の前で握って力説する。ハンイットよりも近くで見ていた分、彼の実力を肌で感じたのだろう。
「それほど完成度が高かったのだね。オルベリクの演技をするテリオンか、私も見たかったな……」
 サイラスは目を細め、珍しく本気で羨望のにじんだ声を出す。
 ハンイットとしては、「学者の真似」と称してサイラスの演技をするテリオンの姿こそ、是非学者本人に見てもらいたかった。テリオンが絶対に学者の前で演じないことは分かっているのだが……。
 話題の中心にいる盗賊は、少し赤らんできた顔でジョッキをテーブルに置く。
「役者なんて面倒だ」
「だが、おかげで盗賊の隠れ蓑にする職業の選択肢が増えたわけだろう。私はとてもいいことだと思うよ」
 ほほえむサイラスに対し、テリオンはまんざらでもなさそうに口をつぐんだ。
「隠れ蓑にする」というのは、本業は盗賊のまま、普段は別の仕事をしているふりをする、ということか。ハンイットには少々唐突に思えたが、二人の間で以前そういう話題が出たのだろう。
 案外いつか隠れ蓑が逆転して、「ふり」が本当になる日が来るかもしれない。
「ああ……そういうことか!」
 ハンイットはぽんと膝を打つ。テリオンが胡乱な目を向けてきた。
「なんだ急に」
「テリオンに対して『何にでもなれる』と言ったのは、サイラスだったのだろう?」
 突然テリオンがゲホゲホとむせた。揺れたジョッキからエールがこぼれそうになり、コーデリアが慌ててハンカチを取り出す。
 サイラスは一瞬きょとんとしてから、少し遠い目をした。
「ああ……確かにそういう発言をした覚えはあるよ。フレイムグレースの原初の洞窟だったかな?」
「やはりな。プリムロゼも『テリオンは役者になれる』と言っていたが、『何にでもなれる』という言い回しはいかにもあなたらしいと思ったんだ」
 テリオンは人前で演じる気になった理由について、「あいつにそう言われたから」と言っていた。あいつ、とはすなわちサイラスだったのだ。
「テリオンが髪を切ったことにも、少なからずあなたの影響がありそうだな」
「そうなのかい……?」
 ハンイットの決めつけに対し、サイラスが不思議そうな顔で盗賊に尋ねる。テリオンは目を白黒させ、コーデリアがくすりと笑った。
「……もし俺が芝居に失敗した時は、あんたの責任になるからな」
「ええっ?」
 テリオンの理不尽な物言いにサイラスが困惑する。「いい加減そういう態度はやめればいいのに」とハンイットは思うのだが、こんな調子でも二人はそれなりに仲良くできているので、野暮な話だろうか。
 通りがかった給仕にサイラスがデザートを頼んだ。おそらくコーデリアに気を使ったのだろう。四人は程なく運ばれてきた果実のパイに舌鼓を打つ。
「ところで、サイラスはどうしてグランポートに来たんだ?」ハンイットはさくさくした生地を切り分けながら、彼と再会した時からずっと気になっていたことを質問した。
「テリオンを旅に誘うためだよ。彼の行き先に先回りして、合流しようと考えたんだ」
 どうして彼を誘うのかハンイットが問いただす前に、サイラスが首をかしげる。
「だが、テリオンはこれからコーデリアさんと一緒にレイヴァース家に戻るのだね。それなら私は一人で行くべきかな……」
 この真顔での発言に、いきなりテリオンがガタッと椅子を揺らした。心なしか顔色が変わっている。ハンイットは「一体どうしたんだ」という疑問をパイと一緒に飲み込んだ。
「あんたの行き先はフィニスの門か? それならボルダーフォールに戻る途中で寄れるだろ」
 テリオンは詰問調でサイラスを問いただす。ハンイットは目を瞬いた。学者はアトラスダムで辺獄の書の研究を続けているはずだ。その過程で、ホルンブルグ合戦場跡に遠征する必要があるということか。
 サイラスは形の良い眉を寄せた。
「コーデリアさんを山奥に連れて行くのはさすがにまずいよ……」
「わたしはエバーホルドでお二人の帰りを待ちますよ」
 パイに包まれた甘い果実を咀嚼し、コーデリアはにっこりする。ここぞとばかりにテリオンが畳み掛けた。
「雇い主もこう言ってる。それに、ボルダーフォールに帰った後は近くにダスクバロウだってあるぞ」
「それは確かにそうだ。馬車で移動ができるのは正直助かるが……」
「途中までならわたしもついていけるぞ。マルサリムで聖火騎士団に新しい依頼の有無を確認したい」悩む学者の背中を押すつもりで、ハンイットも横から声をかける。
「そうか! キミが来てくれるのは嬉しいよ」
 サイラスがぱっと顔を明るくした。ハンイットはにやりとして付け足す。
「それに、マルサリムに寄ればテリオンを直接カリム王に売り込めるだろう」
「まだ諦めてなかったのか?」
 呆れ返るテリオンの横で、コーデリアが笑みを浮かべる。
「次にテリオンさんがお芝居をされる時は、お仲間のみなさんも呼ばなければいけませんね」
「何勝手に決めてるんだ」
「だめなのかい?」
 サイラスが残念そうな顔と声を向ける。テリオンはぐっと言葉に詰まった。
「……いつか、機会があればな」
 苦々しさがにじんでいるが、それは役者としての自分を肯定する台詞だった。ハンイットたち三人は顔を見合わせて笑った。テーブルの下でおとなしくしていたリンデも、同意するように小さく啼いた。
 食事を終えた四人と一匹は、さざ波の音を聞きながら宿を目指して暗い道を歩いた。コーデリアは明日正式に友人の屋敷を訪問するらしく、今日は比較的質素な宿をとっている。ハンイットとテリオンも、さらには偶然だがサイラスも同じ宿に部屋をとっていたので、全員一緒の帰路をたどった。
 テリオンはランタンを持ってコーデリアの足元を照らしながら先頭をゆく。伸び放題だった後ろの髪も前髪に合わせて少し整えたらしく、夜闇に映える灰銀の髪が短く揺れている。その後ろにサイラスとリンデが従い、ハンイットはなんとなく末尾を歩いた。
 学者の規則正しい歩調がだんだんゆっくりになったかと思うと、やがてハンイットの隣に並ぶ。
「サンランドまでよろしく頼むよ、ハンイット君。キミが来てくれて心強いな」
「ああ。マルサリムではぜひともテリオンの『次の機会』をつくってやるつもりだ」
 サイラスはランタンが押しのけた薄闇の中で愉快そうに肩を揺らした。
「それはいいね、楽しみにしているよ。
 ……考えていたのだが、テリオンがエバーホルドで役者として舞台に立ったことには、ハンイット君の影響も少なからずあるのではないかな」
「どういうことだ?」
 目を瞬くハンイットに向き直り、サイラスはぴんと人差し指を立てた。やはり物事を説明している時の彼は心底楽しそうだ。根っからの教師なのだろう。
「キミは旅の間から彼の演技を気に入って何度も声をかけていただろう。そのおかげで、テリオンは自分の芝居が好意的な反応をもたらすことを認識したのではないか、と思ったんだ」
「そうか? わたしだけではなく、みんなもあの人の演技には注目していただろう」
「狩人であるキミに認められたことに意味があったんだよ。テリオンはキミの職務に対する姿勢に一目置いていたから、より正当な評価だと感じたのではないかな」
「ううん……わたしはもともと芝居に興味があったわけではないから、素人の観客を楽しませることができるテリオンがすごいのかと思っていた」
「それもあるだろうね」
 例えばプリムロゼなら肥えた目でテリオンの芝居を評価するだろうが、ハンイットは素直に思ったことを口にする。それがたまたま彼の心に響いたのだろうか。サイラスはうんうんとうなずいてから、わずかに視線を落とした。
「……それにしても、テリオンが盗賊以外の道を見つけたことは素直に喜ばしいな。いくら凄腕といっても、危ない橋には違いないからね」
 彼が今まで盗賊一本で生きてきて命を落とさなかったのは、相当の腕前がある上に運が良かったからだ。だから隠れ蓑といえど別の職業の選択肢を持っていれば、不慮の事故に遭う確率は幾分か減らせるだろう。テリオンは刹那的な生き方からわずかでも別方向へと舵を切ったのだ。
 そこでハンイットはサイラスの胸元を指さした。
「それを言うならあなたもだ。辺獄の書を見つける前のあなたはだいぶ危なっかしかった。わたしたちもさんざん苦労させられたし、テリオンも心配していたぞ」
「う……否定できないな」
 サイラスは矢を受けたように胸を押さえた。ハンイットは少し得意な気分になる。
 初めてサイラスと会った時、彼女は「こういう人は早死しそうだ」と思った。だが、サイラスはいつの間にかそんな雰囲気を微塵も出さなくなった。実際、彼につきまとう危険――辺獄の書や魔神にまつわるあれこれは、仲間との関わりによってずいぶん薄らいだのだろう。学者を危機から遠ざけた筆頭がテリオンであろうことは、あの旅の終わり際の彼らの様子を見ていたら、疑いようがない。
 要するに二人は互いの寿命を伸ばしたのだ。それが人と人との出会いの妙であり、テリオンにとっては演技の深みになる。才能の壁に傷つき去っていく者もいるけれど、誰かと出会えたことは幸運というべきだ。
 いつの間にか仲間たちの姿が夜の向こうに消えかけている。ハンイットは足取りの鈍ったサイラスをせっついて歩みを再開した。前方で揺れる紫のマフラーを視界に入れながらつぶやく。
「テリオンにはなるべく長生きしてもらって、たくさんの役を演じてもらわなくてはな」
「はは、キミは本当に彼の演技が好きだね」
 暗闇を見透かすように目を細めれば、宿の明かりが見えた。そこに記憶の中の舞台照明が重なる。ハンイットは唇を開いた。
「器用で何にでもなれるけど、テリオンは何をやっていてもテリオン以外の何者でもない。そういう彼らしさが伝わってくるから、わたしはあの演技が好きなんだ」
 私もだよ、とサイラスが笑顔で答えた。

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