続・大いなる翼を広げ



「こうして俺はニナを助けるために、マンダラヘビの毒を取ってきたわけよ!」
 乾いた崖地の続くクリフランド地方にて、はるか谷底にきらめく水面を眺めながら大きな橋を渡るのは、三人の旅人たちだ。彼らはちょうど近くのボルダーフォールの町を出たばかりで、意気揚々と西に向かっていた。
 中でもひときわ背の高い青年が得意げに大声を響かせる。クリアブルック出身の薬師アーフェンだ。
「まあ解毒剤をつくったのはゼフだけどな」
「へえー、毒から薬ができるんだ」
 同行者の商人トレサが大きなリュックを背負い直し、目を丸くする。アーフェンは胸を張った。
「そうさ。珍しい魔物は毒にも薬にもなるって、ゼフの親父さんから教わったんだ」
「金になりそうな話だな」
 最後尾をゆく盗賊テリオンがからかうように言う。彼はついこの間ボルダーフォールにて旅仲間に加わったばかりで、アーフェンが故郷を飛び出した経緯を知らなかった。だからこうして説明したのだが――
「か、金って……」
 ばっさり切られてアーフェンは少し悲しくなった。トレサが慌てたようにフォローを入れる。
「た、確かにあたしも儲かりそうだと思ったわよ。でも、アーフェンって全然治療代をとらないのよね」
「いらねえだろそんなの」
 即座に返せば、トレサはわざとらしくため息をついた。
「もし、とっても珍しい動物が重要な薬になるなら、薬師だけじゃなくて商人たちも狙うと思うわ。その薬でしか治せない病気があったとして、お金で買えるならむしろ安いものでしょ?」
 アーフェンは十年前に患った己の大病を思い出し、ううむと唸った。当時はたまたま旅の薬師が分けてくれた薬によって快癒したが、あれも特別な材料を使っていたのだろうか?
 それはさておき、アーフェンは果敢に反論する。
「魔物の素材は自分で狩れば確保できるだろ」
「そう都合よく目当ての魔物がいるわけじゃないわ。だから、いざというときに商人や狩人なんかと薬の材料を取引きできるよう、財産をためておくのよ!」
 トレサは力説した。この年下の少女は一人前の商人を目指して旅をしている。ことお金に関してはアーフェンと相反する思想を持っているので、なかなかしつこい。
 しばらく黙っていたテリオンが、いきなり口を開いた。
「魔物の卵も薬になるのか?」
「へ?」
 彼の見つめる先――橋の前方に目をやる。小さな女の子がこちらに背を向けて歩いていた。アーフェンは今初めてその存在に気づいた。彼らの方が歩幅が大きいので追いついたのだろう。女の子はトレサよりもさらに背丈が低く、体格に釣り合わないほど大きな荷物を背負っていた。
「どうしたんだろ、あの子」トレサも興味を示したように目を凝らす。
「旅人っぽいけどあんな歳で……まさか家出か? 俺、声かけようかな」
「やめとけ」というテリオンの声を背中で弾き返しながら、アーフェンは一歩橋板を踏む。
 ――すると、遠くの谷間から唸るような低音が届いた。そちらを振り返った途端に目の前が暗くなる。
「えっ」
 雲で太陽が遮られたのかと思った。直後、目も開けていられないような突風が吹いて、橋がぐらぐらと揺れた。うわっと叫んだアーフェンはとっさに手すりにつかまる。頭上の青空を背景にして、高速で飛び去っていく「何か」が見えた気がした。
「きゃああ!」
 トレサは必死に帽子を押さえてしゃがんだ。テリオンが片手で手すりを持ちながら、反対の手でさりげなく彼女のリュックを支えている。あちらは大丈夫そうだ。
 ようやく風がやんだ。まだ足場が揺れる中、アーフェンは仲間たちの様子を確かめる。ちょうどトレサがよろよろと立ち上がるところだった。各々が身につけた装備や鞄は無事らしい。
 しかし、悲鳴は別のところから上がった。
「うそ、卵が……!」
 女の子の声だった。アーフェンはどきりとして視線を前に戻す。先ほどの女の子は、橋の下に流れる谷川を手すりの隙間から見つめ、上半身を空中に投げ出そうとした。
「危ねえ!」
 アーフェンは思わず駆け寄り、彼女を抱きとめた。女の子はもぞもぞと腕の中から脱出しようとする。
「離して! 下に落ちちゃったのっ」
「落ち着けって!」
 無理やり女の子を引き上げると、仲間たちが不思議そうな顔をして寄ってくる。
「えっと……さっきみたいな突風が吹いたら危ないから、先にこの橋渡っちゃおうよ」
 トレサの助言により、全員で対岸に移動した。
 半ばアーフェンに引きずられるように橋を渡った女の子はぺたりと地面に座り込み、顔を青くしている。黒い髪を背中に垂らし、頭にバンダナを巻いた少女だ。まだ十代前半といったところか。アーフェンは彼女と目線を合わせるために屈んだ。
「さっきはいきなり体に触ってごめんな。俺、アーフェンって言うんだ。ここから南にあるクリアブルック出身の旅の薬師だ」
「あたしはトレサ! 海の向こうから来た商人見習いよ」
「……テリオン」
 さすがに彼は盗賊とは名乗らなかった。全員の自己紹介が済んで、女の子がやっと顔を上げた。少しだけ肌に血の気が戻っている。
「わたしはアメリよ。さっきは助けてくれてありがとう」
 なかなか礼儀正しい子どもだ。このくらいの歳の頃、アーフェンは近所でも有名な悪ガキだった。とはいえ友人ゼフの妹であるニナも年齢よりはるかにしっかりしていたので、あまりアーフェンと比べてはいけないのかもしれない。
 トレサがおそるおそる話しかける。
「アメリちゃんはどうして橋の下を見てたの?」
「大事なものを落としちゃって。もうだめかもしれない……」
 アメリは手のひらで顔を覆った。肩が小刻みに震える。よほどショックを受けているらしい。アーフェンはトレサと顔を見合わせた。すすり泣くアメリへの対応に困って視線を下にやると、彼女のスカートから覗く膝に擦り傷があることに気づく。
「あー、ここ怪我してんな。ちょっと診せてくれよ」
 アーフェンは丁寧に患部を消毒し、薬草を挟んで包帯を巻いた。処置が完了して少し落ち着いたらしく、「ありがとう」と言ったきりアメリは放心している。
 トレサは明るい声を出した。
「ねえ、アメリちゃんの大事なものが何かは分からないけど、下の川に落ちたのよね。それなら下流に行けば岸に流れ着いてるかも!」
「この前の雨で川は増水しているはずだ。落ちたものが壊れる可能性は普段よりも低いだろうな」
 ぼそっとテリオンが付け加える。消沈するアメリを見かねたのか、案外協力的だ。
「そうかな……」
 アメリの表情にほんの少しだけ晴れ間がのぞいた。アーフェンは仲間たちを振り返り、小声になる。
「なあ、アメリのこと心配だし、一緒に谷底までついてったらだめか?」
 十歳そこらの女の子を一人で放り出して、もし何かあったら……と思うと気が気でない。アメリが背負った大きすぎる荷物には武器も含まれているようだが、彼女は明らかに旅や戦闘に不慣れそうである。そもそも何故一人で街道を歩いていたのか、落とし物とは一体何なのか――気になることは多いが、それを差し置いても手助けしたいと思った。
 アーフェンたちが現在目指しているのは、トレサの要望であるクオリークレストだ。一度谷底に降りると、町に向かうには再び山を登る必要がある。しかしトレサは大きくうなずいた。
「あたしは構わないわ。テリオンさんもいいよね?」
 声をかけられた盗賊は無言だった。が、反論もないので「構わない」ということだろう。残りの二人はうなずき合い、アメリに笑顔を向けた。
「ってことで、俺たちも一緒に落とし物を探すぜ!」
 アメリは瞠目する。
「いいの?」
「乗りかかった船よ。そうと決まったら、さっそく下流に行きましょ!」
 トレサがこぶしを振り上げ、アーフェンはその横で地図を広げた。紙の上に指を走らせて川筋をたどる。
「橋の下の川は、西クリアブルック川道で曲がってるみたいだな。こういうところは流れが弱くなるから、落とし物が流れ着きやすいと思うぜ」
 彼は生まれてから二十年以上、川と共に暮らしてきたのだ。自信を持って言うと、アメリは弱々しく笑う。
「ありがとうアーフェンさん。とりあえずそこまで行って、だめだったら……もう諦めるね」
 明らかに無理をしている様子だった。これはなんとしてでも諦めてほしくない。アーフェンはひそかにこぶしを握った。
 三人はアメリを守るように囲んで歩みを再開した。クオリークレストを示す道しるべの看板に背き、故郷リバーランドへ向かって坂を下る。
(で、結局落とし物ってなんだったんだ……?)
 どう考えてもアメリは秘密の事情を抱えている。協力を申し出たとはいえ、出会ったばかりの旅人にどこまで話してくれるだろうか。聞き出したい気持ちを抑えたアーフェンがらしくもなく逡巡していると、アメリが先に口を開いた。
「わたしが川に落としたのは、ドラゴンの卵なの」
「へ」
 アーフェンはびっくりしてろくな返事ができなかった。トレサが素っ頓狂な声を上げる。
「ドラゴンって、あのドラゴン? おとぎ話に出てくるやつよね」
 アーフェンもその程度の認識だ。大陸の奥地に実在するらしいことは知っていたが、少なくとも周囲の人間がドラゴンと接触したなんて話は聞いたことがない。おそらくめったに人界に降りてこないのだろう。ましてや、卵など想像すらしたことがなかった。
 アメリはうっとりと目を細める。
「ちょっと前、大きな翼を広げたドラゴンが夢に出て、わたしに話しかけてきたの。最初は信じられなかったけど……」
 ある日突然彼女の夢枕に立ったドラゴンは、なんと人語を操ったらしい。
 ――自分は死んだが、これから転生して卵になる。人間のアメリに卵を託したい。ある場所に置かれた卵を拾って、育ててくれないか。
「そ、それを信じたのか?」
 アーフェンの質問に、アメリはムキになったように肩を怒らせる。
「だって、夢で教えてもらった場所に行ったら本当に卵があったんだもの! ドラゴンの卵なんて見たことなかったけど、触った瞬間『これだ』と思ったわ。殻は硬いけどちょっとだけあたたかいの。中にドラゴンの赤ちゃんがいるのよ」
 生き生きと語りだす彼女は、よほどその卵がお気に入りだったらしい。唐突に夢が云々という話が出てきてアーフェンは困惑したが、どうやらドラゴンの卵は実在するようだ。ならば、何故ドラゴンは人間の子どもに卵を託したのだろう? 卵を守ってほしいなら、せめて大人に頼んだ方が良いのではないか。
(いや、大人だったらそもそもこんな話は信じねえか……?)
 夢の啓示に対して邪念を抱かない者でないと、卵の存在すら疑われてしまうリスクがある。ドラゴンは己の行く末を託す相手を慎重に選んだようだ。
「それじゃあ、アメリちゃんはどうして橋を渡ってたの?」
 トレサが軽やかに足を運びながら尋ねた。
「ドラゴンの卵について調べたら、クオリークレストに卵にくわしいおじいさんがいるって分かったの。ニワトリからグリフォンの卵まで孵したことがあるんだって。だからいろいろ教えてもらおうと思って、袋に入れて運んでたんだ」
 ドラゴンの育て方などいくら文献を探しても載っていないだろう。近くに名人がいるならそちらを頼った方がいい。
「でも、さっきの風で袋の口が開いて、卵を落としちゃって……」
 アメリはしゅんとしてうなだれる。卵に愛着を持っていた分、余計に取り乱してしまったわけだ。
 ふとアーフェンは違和感を覚えた。
(そういえば、さっきテリオンが『卵がどうこう』って言ってたような……?)
 会話に入らず後ろを歩く盗賊に、さり気なく視線をやる。アメリの発言によると、卵は袋に入っていて外からは見えなかった。それなのに、どうしてテリオンは中身が卵だと分かったのだろう?
「それにしても、ドラゴンの卵かあ……珍しいものだし、あちこちから狙われそうよね」
 一方のトレサはまた別のことで頭を悩ませているらしく、難しい顔で腕組みする。アーフェンはアメリと出会う直前に交わした会話を思い出した。ドラゴンは大陸でも屈指の希少種だから、薬効があってもなくても体の一部を欲しがる者は多いだろう。卵なんて無防備だからなおさらだ。
 テリオンがぼそりとつぶやく。
「あのガキだけでクオリークレストまで卵を守れるか、怪しいもんだな」
 言い方は冷たいが、そのとおりだった。さらにトレサがささやく。
「ドラゴンの卵って、水面に叩きつけられても割れないわよね?」
「分かんねえ。無事だといいな……」
 川べりで卵の殻だけ見つかったらシャレにならない。アメリのためにも卵が頑丈であることを願った。
 四人で雑談しながら坂道を下ると、やがて滝の音が聞こえてきた。目当ての川が崖の切れ目からリバーランドへと流れ落ちているのだ。いよいよ斜面が急になってなかなかに息が切れる。だが、ここを抜ければアーフェンの故郷はすぐそこだ。
 彼はふう、と袖で汗を拭って一息ついた。
「おい、前!」
 テリオンの鋭い声が飛んだ。アーフェンはとっさに身をひねる。空を切る音がして、何かが逃げ遅れた髪の毛を数本切り裂いた。
「うおっと!」
 曲刀で切りかかってきたのは、鳥の亜人バーディアンだ。三匹もいて、背中の翼をはためかせながらこちらをにらんでいる。アーフェンたちは即座に散開し、真ん中にアメリを守って戦闘に突入した。
 空中から近づく武器に対抗して斧を振るう。が、うまく当たらない。
「あーもう、斜面って戦いにくい! 先に降りるわねっ」
 槍を持ったトレサが敵に背を向けて坂を下っていく。「あぶねえな」と思いつつ、アーフェンもアメリの手を引いて従った。しんがりのテリオンが何やら文句を言いながら敵を捌いているが、声が小さすぎて聞き取れなかった。
 最後の斜面を一気に下り、草むした川のそばに来た。ここで反転して一気に攻勢に出ようとすると――
「あれ?」
 バーディアンたちはバサバサと翼を動かし、空高く飛んで逃げてしまった。つい先ほどまでこちらを追いかけていたにもかかわらず。
「一体何だったんだよ……」
 アーフェンは脱力しながら斧をおろした。
「テリオンさん、なんで魔物がいなくなったか分かる?」
「さあな」
 テリオンは音もなく短剣をしまった。トレサも釈然としない顔で武器を下げる。
「あ、ありがとうみんな」
 アメリは震える声で礼を言った。手には小さな短剣を握っているが、あれで街道を渡るのは無謀だろう。
(町に保護者とかいるんだよな、多分。心配してねえといいけど……)
 彼女の旅立ちには何か事情がありそうだ。気になるが、あちらから打ち明けてくれるまで待とう。
「よし、ちょうど川までついたな!」
 アーフェンはからっとした声を出して意識を切り替える。トレサが地図を広げた。
「もう少し歩いたら川がカーブしてるみたいよ」
「わたし、先に行ってみる!」
 アメリが川の流れに沿って走り出した。アーフェンたちは一瞬顔を見合わせた後、慌てて追いかける。バーディアンたちが去ったとはいえ、街道は危険が多いのだ。
 滝壺を横目に見ながらリバーランドに入ると、水流が穏やかになる。アーフェンは水しぶきの混ざった空気を肺いっぱいに吸い込んだ。これこそ故郷に満ちる緑の息吹だ。
 一行は幅の広がった川と並走しながら橋を渡り、卵を探した。川のカーブの内側は水底が少し浅くなっている。暑い日に泳ぐにはちょうどいい水たまりだ。
「おっ、あれは……」
 その川辺に、見知らぬ者たちがいた。先をゆくアメリがそちらに引き寄せられていく。アーフェンは目を見開いた。
 誰かの容姿を表現する際、「水も滴るような」という形容詞を用いることがある。まさしくその男女はどちらも匂い立つような容色を誇り、かつ全身から水が滴っていた。たったいま川から上がったばかりらしく、小石の並ぶ岸で装備を乾かしている。
 一人は、薄い朝焼け色をした髪を腰まで垂らした長身の女性だ。岸に置いていたらしい毛皮を肩にかけて服装を整えている。鋭い瞳に睥睨されて、アーフェンはびくっと肩を揺らした。彼女の足元には白い毛並みを持つ四足の魔物が寄り添っている。ペットか何からしい。
 もう一人は全身真っ黒な男性だった。髪も服装も漆黒で、対照的に肌は白い。しかも彼は濡れそぼった分厚い生地のローブをまとっていて、「これを着たまま川に入ったのか?」とアーフェンは違和感を覚えた。
 なんだか気になる二人組だった。声をかけるべきか迷って彼やトレサが沈黙する中、不意にアメリが叫ぶ。
「それ、わたしの卵!」
 男性の腕の中には大きな卵があった。

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