続・大いなる翼を広げ



「サイラス先生!」
 槍を構えてドラゴンと対峙するトレサが必死に叫ぶ。ローブに包まれた体がドラゴンに掴まれ、ぽい、と放り投げられた。サイラスの体が岩壁に叩きつけられる。その衝撃でやっとハンイットは我に返り、ずるずると地面に崩れ落ちる彼に慌てて駆け寄った。
「ハンイット君か……来てくれたんだね」
 黒い布から赤い液体を滴らせながらも、彼はなんとか起き上がろうとした。ハンイットは唇を噛んでその背中を支える。
「一体何があったんだ。どうして――」
 元の姿に戻らないんだ、という疑問は飲み込んだ。この場にはトレサがいるのだ。
 ハンイットは荷物から取り出したブドウをサイラスの口に押し込む。彼はあごを動かすのもおっくうらしく、時間をかけて咀嚼した。
 トレサがドラゴンを牽制しながらじりじりと下がってくる。ハンイットは彼女にも聞こえるように声を張った。
「あの後でわたしたちも魔物に襲われたが、アーフェンとテリオンが引き受けてくれた。アメリのことも任せているから安心しろ。……あれがドラゴンだな」
「ああ……『彼』はトレサ君が拾った珠を通して、私たちを観察していたようだ」
 サイラスは苦しそうに胸元を押さえながら答える。彼は見た目よりも数段頑丈なはずだが、それを知らないトレサは心配でたまらないのだろう、泣きそうな顔をしてそばにしゃがみこんだ。
 ドラゴンはどうしたんだ、と顔を上げれば、相手はじっとこちらを見つめていた。話が終わるのを待っているのか。もしくは同胞が人と積極的に関わる姿を見て混乱しているのかもしれない。
 トレサはくしゃりと顔を歪めた。
「ごめん先生……。あたしが変なものを拾ったせいで、こんな……」
「トレサ、順番に説明してもらえるか。あのドラゴンはしばらく襲ってこないみたいだから」
「う、うん」
 矢面に立ったリンデが毛を逆立ててドラゴンとにらみ合う間に、手早く話を聞いた。
 昨日リバーランドの入口でハンイットたちと合流した時、トレサは川できれいな宝玉を見つけたそうだ。正式に鑑定すれば相当の価値がありそうな逸品で、赤みがかった黄色をしていた。トレサはそれをテリオンに見せた。
「テリオンさんは竜石っていう宝石を探してるから、もしかしたら拾ったやつがそれじゃないかと思って。でも竜石は人に盗まれたっていうし、テリオンさんが言うにはサイズも全然違うみたい。それならクオリークレストで売ろうと思って、こっそり持ってたんだ」
 トレサの手のひらよりも小さいようなので、竜珠でもない。だが、同じようにドラゴンの力を流し込んだ石なのだろう。
「その珠はどうしたんだ?」
「分かんない。ドラゴンが来た時にびっくりして落としちゃったのかな……」
「先ほど落石があってトレサ君と二人きりになってから、私がその珠について話を聞いている時にあのドラゴンがやってきたんだ」
 未だに自力で起き上がれないままサイラスが補足する。もしや、その珠がドラゴンの目や耳となって、こちらの状況と位置を伝えたのか。おそらくドラゴンは落石によって一行を分断した後、空中から二人を急襲して、脅威となりうるサイラスを真っ先に攻撃したのだ。
 トレサがぶんぶん髪を振り乱す。
「ねえ、もしかしてドラゴンが襲ってきたのってあの卵を取り返すため? でもアメリちゃんはちゃんとドラゴンから卵を託されたんでしょ?」
「すまないトレサ、それに答えるのは後だ」
 ハンイットは両足に力を込めて立ち上がり、リンデの隣に並んでドラゴンを見据えた。
「さて、どうするサイラス。話し合いは……厳しそうだぞ」
 今は矛を収めているが、ドラゴンはこちらを八つ裂きにする機会をうかがっているはずだ。殺気を浴びたリンデが身を低くしてぐるると唸る。ハンイットも正面から相対するだけで背筋が震えるような感覚があった。
 サイラスは血に汚れた唇を動かす。
「交渉のテーブルにつくためには、まず私たちの実力を示す必要がある。……ハンイット君、頼まれてくれるかい」
「当たり前だ」
 話の間にドラゴンはのそりと姿勢を正し、瞬きもせずこちらを見つめる。その威容にはやはり圧倒された。
 トレサは声を震わせながらもハンイットの横に出てきた。
「あ、あたしも戦うわ。ここまでやられて黙ってるわけにはいかないもの!」
 空元気だろうとありがたい申し出だった。さすがにこの相手はハンイットとリンデだけではどうにもならない。なにせ、歴戦の狩人であるザンターでも苦戦する相手だ。ここは素直に頼ろう。
「助かる。トレサは後ろから弓で支援してくれ。わたしとリンデが前線を支えよう」
 ……支えきれるかどうかは分からないが、と続く言葉は胸にしまった。
 ハンイットはごくりと喉を動かす。半人前の自分が、こんな大物と武器を交えることになるとは思わなかった。
 だが、師匠は以前言っていた――どんなに信じられないような獲物と戦っても、自分だけは覚えておくこと。そして、後でその狩りについて師匠に話してほしいと……!
 ハンイットは斧を抜いた。短く気合を入れて走り出す。ドラゴンが緩慢に振りかぶった腕をかいくぐり、右足を軸に体を回して勢いをつけ、刃を相手の足に打ち付ける。が、硬い感触とともに弾き返された。サイラスが後方で叫ぶ。
「ドラゴンは硬い鱗で弱点を守っている! まずはその防御を崩さなくては」
(だが、どうやって!?)
 相手は体が大きくとも鈍重なわけではない。翼を使った変則的な動きはバーディアンなどとは比べものにならないだろう。折しも、軽く羽ばたきながら繰り出された太いしっぽがハンイットの肩をかすめ、ひやりとした。続いてリンデが噛み付いても牙が通らず、トレサの矢もあっさりと体表に弾き返される。ハンイットはシ・ワルキの訓練で己が後輩に贈った言葉――恐怖で矛先を鈍らせるな――を思い出したが、それ以前に相手の防御が硬すぎた。
 下がって矢の雨を降らせても翼で一蹴されるだけだろう。相手の弱点を探るために属性攻撃をぶつけようにも、集中する隙がなかった。ならば高所から飛び降りて、体重をかけた斧を叩きつけるのは……いや、そんな隙を相手が与えるとは思えない。
 ドラゴンが大きく息を吸い込む。ハンイットの心臓が跳ねた。その予備動作が意味することを知っていたのだ。
「火炎が来る、下がれ!」
 叫ぶと同時に脇に飛び退いた。しかし炎の範囲は広く、避けた先にも炎が迫ってきた。やけどの痛みを覚悟して、思わず目をつむる。
 予想は外れた。ほおをひんやりとした空気がかすめる。これは炎とは真反対のもの――冷気だ。
(サイラスの魔法か!)
 まぶたを開ける。ドラゴンが吐き出した青白い炎は分厚い氷の壁に遮られていた。熱のぶつかり合いで水蒸気が発生する。振り返れば、地面に膝をついたサイラスが手を前に突き出していた。
 同じく炎の難を逃れたトレサが叫ぶ。
「幸運の風よ、吹き荒れよ――今よハンイットさん!」
 商人の呼んだ大風によって炎と水蒸気が押し返され、ドラゴンの視界を覆う。ハンイットは閃いた。
「そうか……友なる雷よ!」
 天に腕を差し伸べて力を借りれば、雷で形作られた鳥がドラゴンに突っ込んでいく。濡れた鱗の表面で電撃がまぶしい光を放った。ドラゴンがわずかによろめく。
(どうだ……!?)
 効果を確認する前に、ハンイットはリンデとともに距離を詰めた。相手が体勢を崩している今がチャンスだ。相手の足へ斧の一撃を叩き込む。
 刃が通った。確かに肉を切る感触がある。機を逃さずリンデが首に飛びかかってかじりついた。
 このまま一気に決めるつもりで二人がかりで組み付いたが、痺れから復帰したドラゴンが身じろぎしたことで、あっけなく弾き飛ばされた。
「くっ……」
 なんとか着地した時、街道全体を揺らすようなドラゴンの咆哮が崖地に響き渡る。びりびりと空気が震えてこちらの動きが止まれば、ドラゴンは大きく翼を広げて中空に浮かび上がり、その場で何度も羽ばたいた。
 トレサが呼んだ風とは比べものにならないほどの暴風が巻き起こる。ハンイットとリンデはドラゴンの足元にいたため辛くも影響範囲から逃れたが、風の真正面には――
「トレサ!」
「きゃーっ!?」
 吹き飛ばされたトレサが地面に背中を打った。悲鳴が急に途切れたのは、気絶したからだろう。
 だが、あちらに気を取られている場合ではなかった。気配を感じたハンイットが慌てて顔の向きを戻すと、目の前に硬いしっぽが迫っていた。とっさに身を捻るがしたたかに腹を打たれ、一瞬息が止まる。おまけに彼女はその勢いで崖の端から飛び出してしまった。足元には何もない。
(ぐっ……まずい!)
 体が落下に転じる刹那、痛みをこらえて斧を崖の側面に打ち付け、柄につかまった。空中に投げ出された体がなんとか途中で止まる。彼女は崖に刺した斧に腕の力だけでぶらさがっていた。
「ハンイット君、無事かい!?」
 サイラスの叫びが聞こえる。返事したくてもその余裕がない。おまけに崖の上から突然ドラゴンの頭が覗いた。相手はハンイットを一瞥すると、また引っ込む。
 今、上にいるメンバーでまともに戦えるのはリンデと負傷したサイラスしかいない。全滅という言葉が頭をよぎり、彼女は目の前が暗くなる感覚を必死で振り払った。
 ――同胞よ、何故元の姿に戻らない?
 いきなり心にずしりと響くような声が聞こえた。空気を震わせずに意思を届けるのは、ドラゴン特有の情報伝達手段だ。ハンイットはぶらぶら揺れる体をなんとか制御しながら歯噛みする。
 ――人間の真似事などしても無駄だ。戦うなら全力で来い。
 これはハイランドのドラゴンの声か。サイラスに向けて、ドラゴンの姿になって戦えと言っているのだ。
 返事はなかった。きっと今、サイラスは苦悩している。実際こちらの戦力はほとんど半壊しており、このままでは誰も故郷の土を踏めないだろう。
 それでも――ハンイットは叫んだ。
「サイラス、そんなことはしなくていい! とにかくあなたはトレサを守るんだ」
 彼はもともと話し合いでハイランドのドラゴンを止めようとしていた。その意志を尊重し、同族同士の不毛な争いを起こさないために、ハンイットがいるのだ。
 彼女は腕にぐっと力を込めた。幸いこの崖にはある程度傾斜がある。斧はうまく安定した位置に刺さったようで、多少体重のかけ方を変えても抜けないだろう。彼女は片手で斧を握りつつ、もう片方の手を離して崖をつかんだ。姿勢が変わり、体が崖の方を向いたので、つま先でわずかな突起を探して足をかける。
(よし、後は這い上がるだけだ)
 崖上りの経験はないが、木登りくらいならいくらでもやったことがある。重心の位置を確認しながら慎重に手と足を動かして、彼女は崖を上り切った。
 再び地面に降り立ったハンイットに、リンデが歓喜の叫びを上げる。相棒はサイラスたちの前に出て、己の何倍も大きなドラゴンを牽制していた。さすが、指示がなくとも最善の策をとってくれる。
「ハンイット君……」
 サイラスが呆然としたようにつぶやいた。彼は相変わらず地面に座ったまま、気絶したトレサの頭を抱えている。
 ドラゴンはほんのわずかな間だけハンイットを見て、またサイラスに視線を戻した。
 ――人間もそれなりにやるようだな。
 ハイランドのドラゴンはこちらを威圧するように翼を広げる。ハンイットは今にも崩れ落ちそうな体を奮い立たせ、黙って相手をにらんだ。
 ――ウッドランドの同胞よ。何故私の邪魔をする?
 声にならない声で、びりびりと空気が震えた。しかし今までとは雰囲気が違う。台詞も一方的な宣言ではなく、サイラスに対する質問だった。
「やっと話をする気になってくれたか……」
 サイラスは息をついて、傷んだ喉を振り絞る。
「それは、クリフランドの同胞が人間を選んだからだよ。前も言っただろう、『彼』の選択は尊重すべきだと」
 ――人間に卵を託すなど、不確定要素が多すぎる。人間は我らよりはるかに短命だ。しかも我らは例の教団に狙われているのに、あの娘はそれから卵を守る力すら持たないではないか。
 やはりハイランドのドラゴンとしてはそこがネックなのか。サイラスが返すべき言葉を選ぶように口をつぐむ。
「いいや、力はある」
 問答を聞いていたハンイットは、つい口を挟んでしまった。人間の言葉がこのドラゴンにどこまで通用するかも分からぬまま。
 空になった両手をだらりと垂らし、真正面からドラゴンに向き合う。斧は崖に置いてきてしまった。弓を引く力もほとんど残っていない。今相手に飛びかかられたら、とても対抗できないだろう。だから武器を持って戦うのではなく、対話するのだ。
「あなたは昨日から珠を通してこちらの様子を観察していたのだろう。ならばアメリの覚悟も知っているな。彼女はあの強い意志によってここまで旅を続けてきた。
 それに、アメリ自身は非力でも、彼女は誰かを頼って味方を増やすことができる。数の多い人間の利点だ。そうだ、そんな彼女に育てられたら……あの卵に宿るドラゴンだって、誰かと協力できるような者になるのではないか」
 自分でも珍しい長広舌だった。サイラスが静かに息を呑む。
 クリフランドのドラゴンは、同胞から離れてひっそりと儚くなった。ザンターに討たれたのだから、寿命のせいではない。しかしハンイットは以前、師匠が己の獲物の最期について「満足げだった」と語るのを聞いたことがある。その時のクリフランドのドラゴンの心境は想像するしかないが、「彼」は長くひとりで生き続けることに飽いたのかもしれない。それが卵を人間に託した理由につながるのではないか。
 ハンイットは淡々と続けた。
「わたしは魔物の心を読むことができる一族の生まれだが、その血は薄れつつある。だからこそ、そういう技術があったこと、自分たちが培ったことを未来に伝えていくんだ。クリフランドのドラゴンが人間と関わりを持ったのは、同胞以外に対しても何か教え伝えたいことがあったからではないか。……サイラスと同じように」
 そう言葉を結んでから、「ウッドランドのドラゴン」と目を合わせる。彼は大きくうなずいた。
 いつしかハイランドのドラゴンはじっとこちらを見つめていた。一陣の風が通り過ぎた頃、金色の瞳を閉じる。
 ――私は人間を認めたわけではない。卵が危険にさらされたと判断したら、また来よう。
 ドラゴンは空を仰ぎ見た。視線がそれたことで圧迫感がやわらぎ、ハンイットは脱力した。
「分かったよ。妥協点を見つけてくれて感謝する」
 サイラスは疲れたように笑った。
 用は済んだ、とばかりにドラゴンは地面を蹴ると、一気に空高く飛び立った。風とともに圧倒的な気配が消え去る。その後には荒れた崖地が残された。
「……そうか、『彼』が卵ではなく私に会いに来たのは、今の答えを聞くためだったのかもしれないな」
 雲ひとつない空を見上げたサイラスが小さくつぶやく。
「もしかして、わたしがああ言ったのはまずかったか?」
 ハンイットは彼のそばに戻って問うた。つい気が高ぶって演説してしまったのだ。サイラスは首を振る。
「いいやあれで良かったよ。他でもない人間に論破されて、『彼』も悔しがっていたんじゃないかな。本当にありがとう」
 ほおをゆるめる彼を見て、ハンイットにもやっと「終わったのだ」という実感が湧いてきた。それにしても、サイラスはろくな治療も受けていないのに平気そうな顔をしている。やはり耐久力はドラゴン並だ。
 とはいえ手当てくらいすべきだろう、とハンイットは懐の回復薬を探しはじめる。
「トレサ君、大丈夫かい」
 一方でサイラスの関心は地面に仰向けで寝るトレサに注がれていた。ハンイットとリンデも近寄って顔を覗き込む。商人はすうすうと寝息を立てていた。
「頭を打ったなら心配だが……今のところは大丈夫そうだな」
「いきなりドラゴンに襲われたから、精神的な衝撃もあって眠りが深くなっているのかもしれないな」
 サイラスは不安げに眉を下げ、それから不意にこちらを見つめた。
「ハンイット君、リンデ君……すまなかった。『責任を持って守る』と言っておきながら、私が真っ先にやられてしまったね」
 彼はしおらしいことを言う。そんなことは気にするなとハンイットが答えようとすると、
「おーいハンイット!」
 にぎやかな声と足音が獣道を駆けてきた。アーフェンだ。後ろにはテリオンとアメリもいる。
 サイラスが表情を明るくして、よろよろと立ち上がった。
「良かった、アーフェン君。キミはトレサ君を診察して――」
 途中でアーフェンの足が止まる。彼は少し前まで戦場だった場所を見回し、最後にサイラスの姿を確認して顔色を変えた。
「いや先生の方がひでえ怪我だろ!? ほら座って座って。悪いけどトレサとハンイットとリンデは順番な」
「え」とサイラスが目を白黒させる間に、アーフェンはてきぱきと傷を消毒して包帯を巻く。なるほど優秀な薬師だ。
 治療を受けている間、サイラスは落ち着かない様子だった。
「こうして怪我の手当てを受けたのは生まれて初めてだな……」
 アーフェンはぎょっとした。
「マジで!? それって今まで一回も怪我しなかったからじゃねえよな……?」
「人よりも傷の治りが早いんだよ」
 サイラスは笑った。確かにドラゴンの自然治癒力は「人間よりも」はるかに高い。ハイランドのドラゴンなど、去っていく時にはハンイットのつけた傷がもう消えかけていた。
「そっか。でも年とるとなかなか治らなくなるから、気をつけてな」
 アーフェンの悪気のない発言に、サイラスは奇妙な表情でこちらを見てくる。ハンイットは真顔で首を縦に振った。
「サイラスさんたちも魔物に襲われたの……?」
 アメリはこわごわと周囲を見渡す。地面には魔物の爪痕がくっきりと残っていた。彼女があのドラゴンと遭遇しなくて良かった、とハンイットは心底思う。サイラスは首肯した。
「ああ、大物が暴れてね。なんとか崖から突き落とすことができたが、ハンイット君が来てくれなかったらどうなっていたことか……。アーフェン君、応援をよこしてくれて感謝するよ」
「それほどでも。間に合って良かったぜ」
「アーフェンたちも無事だったんだな?」
 念のためハンイットが問えば、アーフェンがぐっと片腕を曲げて力こぶをつくる。
「おう、テリオンと二人でばっちし片付けたぜ。アメリも走り回ってテリオンに薬渡してくれたり、敵の数を教えてくれたりして助かった。卵が近くにあるだけで魔物の動きが鈍くなったしな」
 アメリは気恥ずかしそうにうつむく。サイラスが見るからに嬉しそうにしているのは、自分の認めた人間の働きぶりを気に入ったからだろう。
 そこで突然テリオンが腰を落とし、眠るトレサの額を指で弾いた。彼女は身じろぎしたかと思うと、ぱっと目を開ける。
「うーん……あれ、テリオンさん?」トレサは揃った面々を視界に入れて、目をぱちくりさせた。
「体に異常はないか?」
 ハンイットの質問に、トレサは元気に上半身を起こす。
「なんともないわ。そうだ、サイラス先生は――」
 と言いながら同行者を見回した彼女は、包帯だらけになったサイラスを見つけて仰天する。
「そ、それ平気なの?」
「アーフェン君の手当てを受けたから大丈夫だ。ああそうだ、魔物は無事にハンイット君が退治してくれたよ」
「そっか……」
 トレサは物言いたげな目をハンイットに向けて、口を閉ざした。アメリに配慮したのか、さすがにこの場で「ドラゴンに襲われた」とは言わなかった。
 ハンイットたちが順番にアーフェンの診察を受ける横で、サイラスがアメリを呼ぶ。
「ありがとう。私たちはキミに助けられたよ」
 アメリは瞳を大きく見開いた。対照的にサイラスは目を細める。そうだ、アメリの眩しいほどの決意が珠を通して届かなければ、きっとハイランドのドラゴンは説得できなかっただろう。
「わたし、何もしてないけど……」
「そんなことはないさ」
 サイラスはそっと手を伸ばし、アメリの抱えた卵をなでる。彼の胸に湧く万感の思いはきっと「母親」には伝わらないだろう。だから、その光景を見ていたハンイットだけでも覚えておこうと思った。
「この卵を大切に育てて、いつか……立派になったドラゴンに私を会わせてくれ」
「うんっ」
 アメリは笑顔でうなずいた。



「……もうお別れしちゃうの?」
 卵を背負ったアメリが寂しそうに眉を下げた。すぐ目の前の階段を上れば、そこはクオリークレストの町だ。金鉱山の採掘でにぎわっているらしく、まだ入口もくぐっていないのにここまで町の喧騒が伝わってくる。
 ハンイットとサイラスは町には入らずに一行と別れると決めた。当初の目的は無事に果たした。町の中ではさすがにドラゴンの邪魔は入らないだろうし、ハンイットもずっと狩人の仕事を休むわけにはいかない。
「ああ。クオリークレストまでの護衛という約束だったからな。わたしは故郷でやるべきことがある」
「卵の孵し方を知りたい気持ちはやまやまだがね……」
 サイラスは言葉を濁し、未練を断ち切るように頭を振る。
 本当は卵が孵るまでずっとアメリについていたいのだろう。だが、彼はクリフランドのドラゴンの意思を尊重すると決めたのだ。それに、アメリには頼もしい旅人たちがついている。
 ――あの戦闘の後、一行は大事を取ってもう一泊野宿することにした。幸いサイラスを含めた全員がみるみる回復したので、翌日になってクオリークレストへの旅を再開した。
 街道をゆく最中、トレサはこっそりハンイットたちに近づいてきて、「ドラゴンと戦ったことは他のみんなに言わないでおくね」と告げた。「アメリちゃんのことはあたしたちができるだけ面倒見るわ」とも。よく気が回って口の堅い、まさに商人にふさわしい少女だ。
 また、アーフェンには「卵を狙う者はトレサに干渉しており、魔物を操って襲ってきた」という話を伝えた。あとでトレサに事実関係を確認すれば嘘だと分かるが、クオリークレスト到着まで保てばそれでいい、とサイラスが考えたのだ。テリオンは必要以上に詮索してくることはなかったし、アメリは卵のことで頭がいっぱいのようだった。
 ――町に入る彼らとの別れ際、サイラスが一歩踏み出した。
「そうだアーフェン君、これをキミに渡そう」
「え、俺?」
 サイラスが差し出した手には、透き通った薄い円盤――否、鱗がのっていた。
「昨日、たまたま川で見つけたんだ。こういう素材は薬師であるキミが一番うまく活用できそうだからね」
 トレサがあっと口元をおさえる。あれは街道で戦ったドラゴンの鱗だ、と思ったに違いない。だが、よく見ると色が違う。この薄い黒色はサイラスのものだ。
 アーフェンは目を丸くした。
「なあ、もしかしてこれってドラゴンの――」
「かもしれない。粉状にして薬草に混ぜると、治癒能力の向上が見込めるそうだよ」
「助かるぜ先生!」
 喜んだアーフェンは勢い余ってばしんとサイラスの肩を叩き、怪我人に何するのとトレサに怒られてしまった。サイラスは気にせず笑っていたが。
 今度はアメリが進み出て、ぺこりと頭を下げる。
「ありがとうサイラスさん、ハンイットさん……。卵が孵ったら絶対お手紙書くわ!」
「また会おうねー!」トレサがぶんぶん手を振り、
「次は一緒に飲もうぜ、テリオンも付き合うってよ!」
 アーフェンの調子のいい発言に、テリオンはぼそぼそと口の中で反論していた。
 階段を上がっていく四人の背中を見送ってから、ハンイットたちはきびすを返した。
 すでに日は高く昇り、三つ分の影が街道に伸びる。帰り道は途端に静かになった。それはおしゃべり好きのサイラスが黙っているからだ。リンデもさすがに疲れたようで、足取りが重い。今日は早めに休もう。
「サイラス」
 隣に声をかけると、ぴくりと肩を震わせる。よく見ると彼のローブはぼろぼろだった。あとで繕ってやるか、と頭の片隅で思う。
 サイラスは何を勘違いしたか、
「……うっかりしていたよ。空を飛んで森に戻ろうか? その方が早いだろう」
「そうじゃない。あの四人の前で正体をさらさなくてよかったな」
 ハンイットがそう言うと、彼は不思議そうな顔になった。やがて合点がいった様子で口を開く。
「そうだね、余計なリスクは減らした方が――」
 ハンイットは首を振った。
「『ただの学者』として人と接している時、あなたは楽しそうだった。もし正体がばれたら、今までどおりとはいかなかっただろう」
「……そうだね」
 サイラスは胸元に手を当てた。そこに宿る竜珠の温度を確かめるように。
 彼は本質的に人と関わることが好きなのだ。そういう性格の彼だから、竜と人間という遠い種でもハンイットと友人としてつながっていられる。それはとても幸運なことだった。
「今回みたいに困ったことがあったらいつでも呼んでくれ。わたしはこれからも、できる限りあなたの正体がばれないようにつとめよう。
 わたしもリンデも怪我は大したことなかったし、むしろドラゴンとの戦いは貴重な経験だった。師匠に話すネタも増えてありがたく思っている。だから、余計なことは気にしなくていいぞ」
 心の底から湧き出た言葉をそのまま伝えると、
「……ありがとう、ハンイット君」
 サイラスははにかんだ。傾いてきた太陽の照り返しのせいか、少しほおが染まって見える。なんだか人間のような表情だった。ハンイットはぽんとその肩を叩く。
「さあ、家に帰るぞ。材料が余っていたら、クラップフェンをつくってやってもいい」
「それはありがたい!」
 一転してサイラスは分かりやすく目を輝かせた。
 元気を取り戻した彼は前を向いて、崖地の向こうの森を見据える。
「そろそろザンター氏も戻ってくるといいね」
 その台詞に、一気に郷愁がこみ上げた。仕事が一段落すると、つい師匠のことを考えてしまう。ハンイットはなるべく感情を抑えて答えた。
「ああ、いくら長期の仕事にしても長過ぎるからな……一度エリザに連絡をとってみるか」
「そうするといいよ」
 エリザはハンイットと同い年の聖火騎士だ。今回の仕事を師匠に斡旋した張本人でもある。依頼を引き受けたザンターからハンイットのもとに手紙が届いたのはたったの一度きりで、いい加減続報がほしかった。
 橋を渡り谷を越えて、森に入るとほっとする。ハンイットは深呼吸した。やはりここが自分の故郷だと再認識する。
 サイラスも立ち止まって大きく息を吸ったかと思うと、何故かきょろきょろしはじめた。
「……森の様子がおかしい」
 彼はまぶたを閉ざした。そうやって森の声を聞いているらしい。ドラゴンは生まれた土地と深くつながっているため、そういうことができるのだと以前サイラスが語っていた。
「何があった」と尋ねれば、彼は目を開けた。
「どうやら、住処を追われた大きな獣が外からやってきて……ささやきの森に向かったようだ。ええと、ギサルマ……という名前らしいよ」
 シ・ワルキのすぐ近くだ。ハンイットは眉をひそめる。
「そうか。領主から討伐依頼が出るかもな」
「狩りなら手伝おうか?」
「頼む。それが今回の報酬だからな。だがその前に……みんなで腹ごしらえだな」
 ハンイットがぱしんと両手を打ち付けて宣言すると、リンデがガウと啼き、サイラスはにっこりほほえんだ。
 いつしかサイラスと食卓を囲むことに何の違和感も覚えなくなっていた。師匠がいない穴を埋めることなんて誰にもできないけれど、それとは別に、いつしかハンイットの中で彼の存在は当初よりもずっと大きくなっていた。

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