続・大いなる翼を広げ



「同胞はあの三人のうちの誰かに、何らかの形で干渉していると思う。どうもそれらしい気配を感じるんだ」
 クオリークレストに向かって坂を上る最中、サイラスが同行者たちの目を盗んでこっそりハンイットに耳打ちしてきた。彼女は小さくあごを動かす。
 ――翼を使って崖を降りたサイラスは、何も知らない旅人に見つかる前に再び人間の姿になった。一行は彼の感知した卵の気配を頼りに、川の中を探し回った。いつまたハイランドのドラゴンがやってくるか分からない状況で、岸に引っかかっていた卵を見つけた時は本当に安堵した。その直後、クリフランドのドラゴンから卵を託された少女アメリと、その同行者たちに出会ったのだ。
 三人の旅人は、例の大橋で出会ったアメリのことが気になってここまでついてきたらしい。軽い問答があってから、ハンイットたちは彼らとともにクオリークレストへ赴くことになった。まだ出会ったばかりだがリンデも彼らを警戒した様子はなく、会話した時の印象からハンイットも相手を信頼することにした。
 だが、サイラスによればそのうちの一人がハイランドのドラゴンの手の者だという。
(本当か……?)
 正直ハンイットはその発言自体を疑った。が、真偽を確かめる手段がない。リンデなら魔物の気配が分からないかと尋ねたが、微弱すぎて判別できないそうだ。サイラスも卵の気配と混ざってうまく感じ取れないらしい。
 その日は野宿になった。落ち着かないまままぶたを閉じたハンイットは朝一番に起き出し、アメリが寝床でしっかり卵を抱えているのを確認してほっとした。ハイランドのドラゴンも、さすがに子どもの寝込みは襲わなかったのだ。
 昨日の残り物で朝食を作りながらハンイットが悶々としていると、サイラスがぼさぼさの髪を手でとかしながらやってきた。
「おはようハンイット君。薬師のアーフェン君はシロだったよ」
 さらりと放たれた言葉にハンイットは一瞬声を失った。周囲に誰もいないことを確認してから、朝の挨拶を省略して問い返す。
「それは本当か?」
「ああ。昨日、彼は私に対して直接『卵を狙っているんじゃないか』と質問してきたんだ。一対一で話した時も同胞の気配はなかったし、彼は関係ないよ」
 アーフェンは正直にもサイラス本人に探りを入れたらしい。それだけで薬師の愚直さがよく分かるが、一つでも情報が出たのはありがたかった。
「では、残りの二人のどちらかが――」ドラゴンの手先か、とハンイットは視線で問うた。サイラスはうなずく。
「どういう形で関わっているかは分からない。なんとか卵の気配から遠ざかった場所で、それぞれ単独で聞き込みをしたいが……」
「テリオンという者は相当あなたを警戒していたぞ。一対一で話をするのはおそらく無理だろう」
 ハンイットがフォローしてもサイラスの胡散臭さは抜けないらしい。彼は正真正銘の人外だから、勘の良い者はどうしても違和感を覚えるのだろう。サイラスも特にショックを受けた様子はなかった。
「かもしれないな。さすがに同胞も私の存在には気づいているだろうから、今日はあちらから何かアクションがあるはずだ」
 サイラスはのほほんとした口調で物騒なことを言った。ちょうど夕方頃にはクオリークレストにたどり着く予定なので、道中は用心すべきだろう。鍋をかき回しながらハンイットは気合を入れ直す。
 味見用のスープを皿に分けて、サイラスに差し出す。受け取った彼は汁を舐めて「うん、おいしいね。塩加減もちょうどいいよ」と満足げに笑った。
「ところで、アーフェンにはあなたの素性をどう説明したんだ?」サイラスの話しぶりからすると、おそらく薬師にもある程度こちらの事情を教えたはずだ。でないと相手に怪しまれる。
「犯人は竜詠みの神官で、私はそれを追っている学者ということにしたよ。相手はドラゴン由来の魔法で姿を変えられるから、それを使って変装しているのだろうと言ってね」
 姿を変える魔法は実在する。そこにうまく嘘を混ぜたわけだ。素直そうなアーフェンはきっと信じただろう。
「実際、残りの二人がハイランドのドラゴンと入れ替わっていることはあり得るのか?」
「ううん……アーフェン君にはとっさにそう説明したが、おそらく違うね。あちらの接触手段が分かれば対策も立てやすいのだが」
 サイラスは煮込まれる鍋を興味深そうに覗きながらつぶやく。
「そういえば、アーフェン君が気になることを言っていたな。テリオン君は、何故かアメリ君と会う前から彼女が卵を持っていることを知っていたらしい」
「どういうことだ?」
「彼らが橋の上でアメリ君を見つけた時、テリオン君は『卵が云々』と口走ったそうだ。つまり、彼は最初からドラゴンの卵の存在を知っていた可能性がある。一応気に留めておくべきかな」
「分かった、注意しよう」
 テリオンという青年は旅慣れた雰囲気で、初心者らしきアーフェンとトレサをさり気なく導いていた。自分の情報を不用意に他人に開示しないよう慎重に振る舞っている印象もあり、今までハンイットが接したことのない人種だ。抱えた秘密がドラゴンの卵の話とは限らないが――
 もう一度味見してから、スープを人数分に取り分けた。ついでにサイラスに尋ねる。
「あなたから見て、アメリはどうだ?」
 サイラスが人の姿で彼女に接触したのは、おそらくクリフランドのドラゴンが選んだ相手を見極めるためだろう、とハンイットは考えていた。予想は当たっていたようで、彼は遠くを見るような目で答える。
「最初の申告どおり、ドラゴンについての知識はほとんど持っていないね。だが、卵を育てることへの熱意は誰よりもあると思う。一人で名人とやらを訪ねて旅をするくらいだから」
 この物言いからすると好感触だったようだ。万が一、アメリが彼のお眼鏡にかなわなかったらなかなか悲惨なことになっていたので、ハンイットはほっとする。
「ただし、どうして彼女が単独で町を出たのかは、聞いておいた方が良さそうだね」
「そうだな……さすがにあの歳で一人旅は珍しい」
 もし両親の心配を振り切ってドラゴンの卵にかまけているとしたら、さすがに実家に一報入れる必要があるだろう。
 朝食の匂いにつられたのか、旅人たちがごそごそと起き出してきた。眠そうなアメリとアーフェン、トレサはともかく、テリオンは動きが機敏だ。おそらく彼は大分前から起きていたのだろう。ハンイットが朝食を作っているのを察して寝たふりをしていたのか。
 六人と一匹で即席の食卓を囲む。メニューは昨日の残りの肉を挟んだパンと、香辛料を加えて味を変えたスープだ。栄養と腹持ちを考えつつ、残り物を出さない狩人流の工夫である。これも師匠に教わったことだった。
 旅人たちの中では意外にもトレサが一番いい食べっぷりをしている。彼女の口と手が動く度に皿の料理が消えていくので、見ていて気持ちがいい。
「ハンイットさん、朝ごはんもとってもおいしいわ! 毎日つくってほしいくらい」
 と言われて、思わず笑みがこぼれた。サイラスは同意するように首肯したが、アーフェンは「母ちゃんじゃねえんだから毎日はまずいだろ……」とつぶやいていた。
 ハンイットはパンを半分ほど食べてから、静かにスープを飲む少女に尋ねた。
「アメリ、あなたがどうして一人でボルダーフォールを出たのか、聞かせてほしい」
 周りの視線が集中し、アメリはうつむいた。だが昨日の約束は有効だったようで、彼女はそっと口を開く。
「……やっぱり、わたし一人じゃ無理だって思う?」
 もしや単独行を責められたように感じたのか。ハンイットは「文句を言いたいわけではない」と前置きしてから、
「普通に考えたらあなた一人でクオリークレストにたどり着くのは難しいだろう。わたしたちも卵が孵るまでずっと一緒にいられるわけではない。あなたはどういう経緯で一人旅を選んだんだ? もし保護者がいるならどんなやりとりをしたのか、聞いておきたい」
 涼しい顔で食事を続けるサイラスが耳を澄ませているのが分かる。アメリは傍らに置いた卵をそっとなでた。
「わたしには、生みの親と育ての親がいるの。でも、生みの親はわたしがもっと小さい頃に馬車の事故で死んじゃって……今のお父さんとお母さんが引き取ってくれたんだ」
 ハンイットは瞠目した。そうか、この卵とアメリは境遇が似ているのだ。だから彼女は卵に特別な愛着を抱いた。
 アメリの言葉に徐々に熱がこもる。
「この卵を受け取った時、今度はわたしの番だって思ったわ。お父さんとお母さんにたくさん面倒を見てもらった分、次はわたしがドラゴンに優しくしたいの。だって、この子にとってはわたしがお母さんになるんだから!」
 瞳に光を宿したアメリが力強く宣言した。サイラスがそっと口元をゆるめたのは、彼女の言葉が心に響いたからだろう。トレサもうんうんとうなずいている。
 そこで一転してアメリは表情を和らげた。
「それとね、この卵を持ってると不思議と魔物が寄ってこないんだ。だからクオリークレストくらいまでならなんとか行けると思って」
「へー、魔除けみたいなもんなのか?」
 アーフェンは首をかしげているが、ハンイットには理屈が分かった。あの卵はサイラスの醸すドラゴンの気配と同じものを持っているので、弱い魔物は寄ってこないのだ。
 そして、アメリの過剰な装備はおそらく育ての両親が丹精込めて揃えたものだろう。どうしても旅に出ると言って聞かない、意志の固い娘を心配した結果だ。
 彼女の決意を知ったハンイットはひそかにほぞを固めた。
(どうにかしてアメリとハイランドのドラゴンの接触を避けなければ……)
 敵意を持った大人のドラゴンと出会ったアメリは、これから誕生する子どもにも恐怖を抱いてしまう可能性がある。なんとかハンイットたちでそれを防ぐのだ。人と魔物の間をつなぐ狩人としても重要な役割だろう。
 一方、アメリの話を聞き届けたトレサはにっこりした。
「アメリちゃんならきっとドラゴンを立派に育てられるわよ!」
「よっしゃ! 早いとこクオリークレストに行こうぜ」
 空になった皿を置いてアーフェンが言う。テリオンも無言で立ち上がった。
 本当に彼らの中にドラゴンが潜んでいるのだろうか。ハンイットたちが目を光らせていたとはいえ、卵を奪うならいくらでもチャンスはあっただろう。
 同じことはアーフェンも考えていたようだ。野営地を片付けてからクオリークレストへ向かう道中、ハンイットとサイラスがなんとなく並んで歩いていると、アーフェンが寄ってきてぼそりと言った。
「俺、あの二人の中に犯人がいるとは思えねえよ。昨日はテリオンを疑うようなこと言っちまったけど、あいつだってずっと俺たちと一緒だったんだぜ。犯人の変装とかなら絶対気づけるって」
 サイラスはあらかじめアーフェンに「ハンイットも同じ事情を把握している」と伝えておいたそうだ。だからこその相談である。アーフェンは一度懐に入れた身内を疑うことに対して、かなり抵抗があるようだった。この一日足らずの間にも彼のまっすぐな性格は分かっていたので、さもありなんとハンイットは思う。
 サイラスは形の良いあごを指でなぞった。
「そうだね……。彼らの中に犯人がいる、もしくは犯人と入れ替わっているというより、何かのきっかけで犯人がどちらかの精神を乗っ取る可能性の方が高いかな」
「の、乗っ取る……!? なんとかの神官って、そんなおっかねえことしてくんのかよ」アーフェンが嫌そうな顔をした。
「ああ、だから厄介なんだよ」
「乗っ取りの兆候は分かるのか?」
 深刻そうにうなずくサイラスに、ハンイットが質問する。彼は学者の顔をしてこう答えた。
「考えられるのは、力を宿した道具を介するケースかな。アーフェン君、二人が見慣れない道具を持っていたことはなかったかい? 特に昨日から今日にかけて新たに入手したものが怪しいな」
「えーっと……二人とも商売のためだとか旅に必要だとかで、俺の知らないもんいっぱい持ってるからなあ」
 アーフェンは眉間にしわを寄せて真剣に考えはじめた。
 同じくサイラスの語る「道具」に思いを馳せたハンイットがふと顔を上げた時、ぱら、と何かが転がるような軽い音がした。
(うん?)
 今歩いている「崖道」と呼ばれる街道は、壁のような斜面と谷底へ続く断崖の間に挟まれた狭い道だ。その斜面の上から、小石が落ちてきた。
「ガウ!」リンデが注意を促した。はっとする。
「危ない、みんな避けろ!」
 ハンイットは叫んで前に走り出した。つられたようにアーフェンが、サイラスがついてくる。先を歩いていた残りの三人がこちらを振り返り、顔色を変えた。
 事が起こるのは一瞬だった。凄まじい轟音が鼓膜を震わせ、振動が地面を駆け抜けた。目をつむってしゃがみ、しばし衝撃に耐える。あたりを覆う土埃を手で避けてから背後を確認すると、街道を二分するほど大きな岩が転がっていた。
 落石事故か。地盤が緩んでいる兆候はなかったが、ハンイットたちがやってくる前は雨続きだったのかもしれない。彼女は汗を拭いながら同行者たちを数えた。アメリが地面にへたり込み、アーフェンがそれを介抱している。テリオンは外套についた埃を払っていた。
(サイラスとトレサがいない!)
 血の気が引いたハンイットは岩の向こうに呼びかける。
「サイラス、無事か!?」
 すぐに返事があった。
「ああ、私とトレサ君、二人とも怪我はないよ。そちらは?」
「こっちも全員そろってるぜ!」
「そっか、良かったー」
 元気なアーフェンの返事に、トレサが向こう側で胸をなでおろしたようだ。
 サイラスが少し時間を置いてから声を張り上げる。
「だが、道が塞がれてしまったね……。私たちは少し引き返して、そちらと合流できそうなルートを探してみるよ。しばらくそこで待っていてもらえないか」
「分かった。気をつけるんだぞ」
 あちらに取り残されたのがサイラス一人なら、ドラゴンの姿に戻って斜面を越えられたのだが、仕方ない。
 四人と一匹ははぐれた者たちを待つためその場に車座になった。
「ふたりとも、大丈夫かな」アメリが膝を抱えて言った。
「あっちの戦力が心もとないな」とテリオンがつぶやく。
「うーん……サイラス先生の魔法と、トレサの武器でなんとかしてもらうしかねえな」
 アーフェンが腕組みした。彼らは事情を知らないので仕方ないが、魔物の襲撃を心配する必要はない。あちらには一番強力な天然の魔除けがついているからだ。
 折しも、サイラスは卵から離れた状態でトレサと一対一になることができた。今頃の彼は、ハイランドのドラゴンが干渉しているのが誰なのか気づいたはずである。
 話が途切れた拍子に、アーフェンが身を乗り出す。
「なあ、いい機会だから聞くけどよ。なんでテリオンは昨日アメリと会う前から卵のこと知ってたんだ?」
 彼はいきなり核心をついた。不意をつかれたハンイットは目を丸くする。昨晩はサイラスにも突撃したというし、彼はなかなか直情径行だ。しかし返事が否でも応でも、問われた相手の反応を見ることは一定の判断材料にはなる。
 思いもかけない質問だったのだろう、アメリはぽかんとしてテリオンを見やる。翻ってテリオンは薬師の聞き込みに慣れているのか、動じることなくむしろ胡乱な目つきになった。
「よくそんなこと覚えてたな」
「昨日からずっと気になってたんだよ。だって、あの時点でアメリが卵を持ってるなんて分からなかっただろ」
「卵は見ていないが、噂を聞いていた。ボルダーフォールでな」
「えっ」
 アメリとアーフェン、二人の声が重なった。テリオンはアメリを横目で見つつ、あっさりと答える。
「大きな卵を持った子どもがいる、これからクオリークレストに向かって旅立つらしい、という噂が下層で流れていた。お宝とは関係なさそうだから無視していたが、橋でひと目見てあれが卵だと分かった」
「わたし、噂になってたんだ……」
「心当たりあるか?」アーフェンが面食らったように問う。
「ううん。でも最初に卵を拾った時は隠すことなんて思いつかなかったから、家に帰るまでは誰かに見られてもおかしくなかったわ……」
 アメリは今更青くなっている。確かに、町の中であんな卵を持っていたら嫌でも目立つだろう。テリオンが淡々と語った。
「珍しい光景だったから、何かの役に立つと思って情報を集めたやつがいたんだろう。ドラゴンの卵とまでは聞かなかったが」
 アーフェンは少女が持つ袋を見て、頭を抱えた。
「やっぱりこの卵ってあちこちから狙われてるのかよ……。ドラゴンの卵って知れ渡ってたらもっとやばかったな」
「で、あんたたちは卵を守りに来たのか?」
 テリオンが視線をスライドさせてハンイットを見据える。そこに好悪の感情は含まれておらず、単純に疑問を抱いているようだった。ハンイットは首肯した。
「そうだ。もともと人間がドラゴンの卵を持っていることはサイラスから聞いて知っていた。それが狙われていることもな。嘘をついてすまなかった」
 素直に謝りつつ、卵を狙う相手が他ならぬドラゴンであることは伏せておいた。アメリに余計な心配をかけたくない。
「そうなの……でも、来てくれてありがとう」
 アメリは小さくほほえんだ。ハンイットたちが虚偽を申告したことへの不快感はなさそうで、少し気が楽になる。そこでアーフェンがぱしんと膝を叩いた。
「そうだよ卵! まあ先生とトレサがいなくても守れるとは思うけど……」
 そういえば、彼らはサイラスのことを学者だと思っているので「先生」と呼ぶのか。彼の正体を知っているハンイットからするとおかしな心地がした。先生と呼ばれたサイラスが何故か嬉しそうにしていたことを思い出す。
 アーフェンはちらりとハンイットを見やった。卵を狙う者の情報をテリオンたちと共有すべきか迷っているのだ。
(いっそみんなに話してしまうか? ハイランドのドラゴンの件だけ伏せれば、なんとか……)
 そこまで考えた時、唐突に彼女は不穏な閃きを覚える。突然の落石事故――まさか、これもハイランドのドラゴンの仕業だろうか?
 可能性はある。今日にもあちらから接触がある、とサイラスが言っていたではないか。もし想像が当たっていたとして、これから予想される相手の行動は二つだ。卵を狙うか、先に邪魔者のサイラスを片付けるか。
(どちらにせよ、急いでサイラスと合流しなくては)
 思わず彼女が腰を浮かしかけると、今度は胸騒ぎを感じた。心の中に広がる森で木々がざわめくような、独特の感覚だ。
「……向こうの心配をしている場合じゃないらしいな」
 同じものを感じたであろうテリオンがさっと立ち上がる。リンデが姿勢を低くして唸り、ハンイットは鋭く前方をにらんだ。
「え、なになに?」アーフェンは完全に出遅れ、アメリが不安そうに卵を引き寄せた。
「魔物の気配だ。群れだな」ハンイットは姿勢を正して弓を構える。
 彼女の見つめる先から、崖に住まうバーディアンたちがぞろぞろとやってきた。頭につけた立派な羽飾りは、彼らがボルダーフォール周辺に生息する種よりも数段強いことを示している。
「へ!? なんで急に」アーフェンはぎょっとしながらも、守るようにアメリの前に立った。
「おたくがでかい声で話すからだろ」
 テリオンは軽口を叩いたが、実際は違う。サイラスという魔除けがいなくなれば、魔物がこちらを狙うのは必然である。おそらく卵の気配は成体のドラゴンには劣るのだろう。それにしても相手の数が多かった。七体はいる。
 アーフェンは汗を拭って斧を構えた。
「……なあハンイット、先生たちもこいつらみたいなのに襲われてたらやばいよな。あんた、助けに行ってくれねえか」
 ハンイットはどきりとする。あの二択がまた頭に蘇った。
(ドラゴンは先に卵を確保しにくるか、それともサイラスを排除するか……どっちだ?)
 その時、リンデがくい、とハンイットの衣の裾を引いた。頼もしき相棒は瞳孔を開いたまま道の先を見つめる。何らかの理由で興奮しているのだ。
「もしかして、サイラスたちの方から何か感じるのか」
 小声の問いかけにリンデはうなずいた。ハンイットは覚悟を決めて、アーフェンに尋ねる。
「……わたしが離脱しても支えられるか?」
「こっちは俺ら二人でなんとかするって! なあテリオン」
 アーフェンがこぶしを突き上げるが、テリオンはふんと鼻を鳴らしただけだった。ハンイットは武器を斧に持ち替える。
「恩に着る。アーフェンたちも無茶はするなよ。行くぞリンデ!」
「気をつけてね……!」
 アメリの応援が背中を叩く。男性二人が魔物を引きつけている間に、ハンイットたちは包囲網を突破した。
 しばし矢のように街道を駆けたリンデが、急に立ち止まって首を横に向ける。そちらの斜面はゆるやかに崩れていて、道具がなくともなんとか登れそうだった。おそらくは獣道だ。
「サイラスたちはこの先か?」
 雪豹の金目が爛々と光る。ハンイットは相棒が感じたものを読み取りきれなかった。獣道の方角は妙に静かだ。
 不安を覚えつつ、斜面を駆け上がった。整備された街道と違ってごつごつした岩に足を取られる。両手も使って障害を避けながら先を急ぎ――やがて異変に気づいた。
(これは……血臭か)
 サイラスたちのいる方向に進めば進むほど、いっそう血のにおいが強く漂う。ある程度岩場を進んだ時、リンデが警告するように啼いた。どうしたと声をかける前に、息を呑む。
 斜面を乗り越えた先の崖際に、平らで開けた場所があった。彼女は足を止めた。
 そこにいたのはドラゴンだ。翼を畳んでいても小屋と同じくらい大きい。体表を覆う黄土色の鱗は、太陽が地上に降りたかのように燦然と輝き、見る者に畏怖の念を抱かせる。久々にサイラス以外のドラゴンと対峙したが、威圧感は彼よりもずっと強かった。
 そのドラゴンはこちらに注意を払わず、前足でぐりぐりと何かを地面に押さえつけていた。ハンイットは己の肌が粟立つのが分かった。
「サイラス……!」

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