続・大いなる翼を広げ



 木漏れ日を反射して白い毛並みが輝く。一匹の獣がしなやかに地を蹴り、若い男性の狩人に飛びかかった。
 狩人は獣を見据えて冷静に矢をつがえ、放つ。まっすぐ飛んだ矢はしかし、獣が振りかざした爪に弾かれてしまった。
「あれっ!?」
 慌てて斧を抜くが、遅かった。狩人は正面から獣にのしかかられて地面に沈む。獣の前足が狩人の肩に食い込んだ。悔しさに顔を歪めてもどうにもならない。
「くそ……!」
 獣は牙の揃った口を大きく開けて――ぺろり、と狩人の顔を舐めた。
「リンデ、そこまでだ」
 訓練の様子を見ていたハンイットは、相棒の雪豹に指示する。雪豹はぱっと顔を上げ、若き狩人の上から退いた。
「ハンイットさん……ありがとうございました」
 土だらけになった服を叩きながら男性の狩人が立ち上がる。ハンイットは軽くうなずいた。
「リンデが飛びかかってきた時、恐怖のせいで力が抜けて矢の勢いが弱まった。そういう怯えはすぐ相手に読み取られるぞ」
「はい、肝に銘じておきます」
 素直に返事をする彼は、きっといい狩人になるだろう。そう考えたハンイットは不思議な心地になる。師匠に教わるばかりだった自分がこうして他人の面倒を見ることになるとは、思いもしなかった。
 ザンターがとある獲物を追ってシ・ワルキの村を出てから早数ヶ月経った。そのためハンイットは未熟な立場ながら、師匠の代わりとして村長から後進の育成を頼まれていた。村外れのささやきの森近くで訓練していたのはそのためだ。
 訓練と言っても、相棒リンデを獲物に見立てて後輩に狩りの練習をさせ、ハンイットが感じたことをコメントするだけだ。ザンターも似たような方法を使っていたので真似てみた。実戦形式で分かりやすいのか、後輩狩人たちの意欲は高い。
 若き狩人はもう一度感謝の言葉を述べてから去っていった。ハンイットは雪豹の喉を撫でる。
「お疲れさま、リンデ。おやつにするか」
「おやつということは……クラップフェンを食べるのかい?」
 急に背後から声がして、ハンイットはぴくりと肩を震わせる。
 振り返れば、都会の雰囲気を漂わせる男が立っていた。金の縁取りがある漆黒のローブは背景の森から明らかに浮いたファッションなのに、隙なく決まっている。整った顔がにこりと笑みを浮かべた。ハンイットは体の力を抜き、リンデがガウと啼く。
「サイラスか。久しぶりだな、一体どこから来たんだ」
「どこって……正面からだけれど」
 彼は村の入口を振り返る。その視線の先にたまたま村の主婦が通りがかった。彼女はこちらに気づくと、ふらふらとサイラスに引き寄せられていく。
「まあ、サイラス先生。こんにちは」
「どうも。またお邪魔しているよ」
 サイラスは朗らかに答えた。主婦はいかにも長話をしたそうに熱っぽい目を向けていたが、ハンイットが釈然としない気持ちで見守っていることに気づいたのか、「また今度ゆっくりお話を聞かせてくださいね」と言って去っていった。
 どういうわけかサイラスは女性にとても人気がある。それは、彼がちょくちょくハンイットに会いに来るようになってから判明したことだった。容姿も服装もとにかく目立つので、村に来る度に注目の的になるのだ。それだけなら構わないが、ハンイットは毎度彼が村を出ていった後に質問攻めに遭っている。一度「サイラスとはどんな関係だ」と問われ、仕方なしに知り合いだと答えると、「次はいつ来るのか」と相手に詰め寄られて困ってしまった。そんなこと、分かるはずがない。何故ならサイラスは――
 と、ここまで考えたところで、サイラスからもの言いたげなまなざしを感じた。ハンイットは首を振る。
「期待していたらすまないが、おやつはリンデ用だ。クラップフェンはつくっていない。また今度な」
 こう言ってしまう自分の甘さも、サイラスが定期的に村を訪れる理由のひとつかもしれない。彼は少し柳眉を下げた。
「それは残念だよ。……ところで」不意に彼の声色が変わった。ハンイットは背筋を伸ばす。「一つ、狩人のキミに依頼がある」
 含みのある言葉だった。かすかにリンデが緊張したのが分かる。普段忘れてしまいそうになる彼の正体を嫌でも思い起こさせる、人ならざる者の気配がしたのだ。
「……わたしの家で聞こう。ついてきてくれ」
「助かるよ」
 一行は無言で移動した。狭い村なのですぐに到着する。ウッドランド地方の特徴である、傾斜のついた大きな屋根の家だ。今は本来の住人の半数――ザンターとその相棒ハーゲン――が出払っているので、いつもより広く感じる。
 サイラスもすでに何度か訪れているから間取りは把握しているだろう。二人は居間にあたる部屋で、木で作られた頑丈なテーブルを挟んで向かい合わせになる。おやつとして燻製肉を与えたリンデも咀嚼はほどほどに、静かに床に座っていた。
 ハンイットはハーブで淹れたお茶を客人に出す。自分でも半分ほど飲んでから、優雅にカップを傾けるサイラスを見つめた。
「先に聞きたいことがある。その依頼は、師匠に頼むつもりだった話か?」
「どうだろう。私はキミの方が適任だと思うが……詳細を話してもいいかな」
「ああ」
 ハンイットはごくりとのどを動かした。
 サイラスは彼女と同年代の見た目をしているが、その正体はウッドランドの森の奥に住まうドラゴンだ。特殊な魔法で人間の姿に変身しており、実年齢は数百歳かそれ以上か、よく知らない。ハンイットは一年ほど前、ある事件を介して彼と知り合った。それ以降妙に気に入られたらしく、よく相手の方から会いに来る。正直「変なのに懐かれたな」と思っているが、師匠やリンデ以外であれほどおいしそうに手料理を食べるのはサイラスくらいなので、ハンイットもすっかり絆されてしまった。今では時折一緒におやつを食べて、森の噂話をする友人のような関係に落ち着いたのだが――
 サイラスは机の上で両手の指を組んだ。
「以前、私の同胞――クリフランドのドラゴンが自分の卵を人間に托そうとしている、と話したことがあっただろう」
「あなたと初めて会った時だな」
 当時の彼は、人間からドラゴンの姿に戻るための特別な石を奪われてしまい、それを取り戻すためにハンイットに協力を要請した。犯人はドラゴンの力を悪用しようとする人間で、彼女はサイラスとともに相手と戦った。記憶に深く刻まれた出来事だ。
 確かクリフランドのドラゴンはザンターによって倒されたが、転生して卵になったという。それは前回の事件の発端となった出来事だ。
 サイラスは伏し目がちになる。
「この間、ついにその卵が人間に託された。だが……それをよく思っていない者に卵が狙われているんだ」
「例の竜詠みの神官とやらか」
 前回武器を交えた相手であり、ドラゴンの力を己のものにしようと企む連中である。しかしサイラスは深刻そうにかぶりを振った。
「人間相手ならまだ対処のしようはあった。卵を狙っているのは、私の同胞だよ」
 ハンイットはぎょっとして目を見開いた。
「同胞……まさか、ドラゴンのことか?」
「ああ。ハイランドに住むドラゴンが、人間に卵を託すことに反対しているんだ」
「それはまた、どうして……」
 彼女はドラゴン同士で交流があったことすら知らなかった。オルステラには各地方に一匹ずつくらいしか存在しない種族なので、集まる機会もないだろうと思い込んでいたのだ。
 サイラスはしばらく前に縄張りを留守にしてハイランドまで遠征した。彼はそうやって気が向いたタイミングで同胞のもとを訪れるそうだ。かの高山地帯はウッドランドから中つ海を隔ててほぼ大陸の反対側にあるが、彼が真の姿になって空を飛んだらほぼ一瞬で着くだろう。ハンイットは一度そのスピードを体感したことがある。
 そして彼はハイランドにいる同胞と話をしたのだが――サイラスは頭痛を感じたように額に手を置く。
「私も迂闊だったのだが、ハイランドの同胞はもともと人間嫌いでね。私は夢を通してクリフランドの同胞が人間に卵を託そうとしていることを教えてもらったが、ハイランドの同胞はそれを知らなかったらしい。世間話のついでに話したら、激高してしまって……」
「それは迂闊すぎるだろう」
 思わず真顔で言ってしまった。サイラスはうなだれる。
「キミの言うとおりだよ。ハイランドの同胞がいくら人間嫌いといっても、人前に顔を出したくない程度だろうと思っていたんだ。まさか、直接妨害するつもりだとは」
「そういう宣言でもされたのか?」
「ああ。人間から卵を取り上げる、邪魔をするなら容赦はしないと言われたよ。頭を冷やせと言っても聞いてもらえなくて……慌てて逃げ帰ってきたんだ」
 ハイランドのドラゴンがそれほど人間を嫌うとは、何か理由でもあるのだろうか。サイラスやクリフランドのドラゴンは人間に友好的だが、むしろその方が珍しいのかもしれない。こうやって言葉が通じても、ドラゴンと人間とでは根本的に思考回路が異なる。一体何が相手の逆鱗に触れたのか、ハンイットでは想像もつかない。
 彼女が床に落とした視線に不穏を感じ取ったのか、リンデがじっと見つめてくる。ハンイットは相棒に向かって「面倒なことになりそうだぞ」と心の中で語りかけた。
「で、ドラゴンはどうやって卵を取り上げるつもりなんだ」
「卵を拾った人間は、おそらく人里離れた場所で卵を育てると思う。卵自体がかなり大きくて目立つから、そうした方がいいとクリフランドの同胞がアドバイスしているはずだ。
 しかし、ドラゴンにとっては町中よりも街道の方が明らかに有利だ。ハイランドの同胞は、人間が卵を持って移動する最中を狙うだろう。その襲撃を私とキミでなんとか防ぎたい」
「あなたがまたドラゴンになって戦うのか?」
 ドラゴン同士がまともにぶつかり合ったら街道が壊れそうだ。想像するだに寒気がする。サイラスはかぶりを振った。
「できれば同胞とは対話を試みたい。だからこの姿のまま、ハンイット君のような人間もいるのだと同胞に伝えたいんだ」
 いつの間にかサイラスの中でハンイットが人間代表のように扱われている。微妙にむずがゆさを覚えた。
「相手が人間嫌いなら、わたしが出ていくと余計に怒りそうだが……」
「キミやリンデのことは私が責任を持って守ろう。なんとしてでも話し合いで解決したいんだ。それに、キミがいれば卵を持った人間との接触も容易だろう? 私だけではさすがに怪しまれそうだから」
「もしかして、あなたは卵を託された人間と会ってみたいのか?」
「……うん」
 何気ない問いかけに、サイラスは小さくうなずいた。ずいぶん好奇心旺盛な魔物だ。ハンイットはふっと肩の力を抜いた。
「確認するが、あなたは卵を持った人間を害するつもりはないんだな」
「もちろん。クリフランドの同胞が決めたことなら文句はないよ」
「分かった。人が魔物に狙われているなら、止めるしかない」
 ハンイットが首肯すれば、サイラスの顔がぱっと華やぐ。
「ありがとう! キミへの報酬は――」
「また狩りを手伝ってくれ。あなたの魔法は便利だからな」
 すでにハンイットは何度か彼と組んで狩りを成功させていた。サイラスはドラゴン由来の魔法を操ることができるので、攻め方が多彩になるのだ。彼はほっとしたように茶をすする。
「私でよければいくらでも手伝おう。しかし、ザンター氏がいない時に悪いね。卵を持った人間はクリフランドにいるはずだから、しばらくシ・ワルキを空けることになるが」
「なら村長に相談してくる。わたし以外の狩人もよく育っているし、ちょうどいい機会だろう」
「先ほど訓練していた青年かい? キミは教えるのが上手だったね」
 彼に教育方法について評価されるのは意外だった。ぱちぱちと瞬きする。
「そうか? 師匠の真似をしただけだぞ」
「真似でも立派なものだよ」
 そういえば、ドラゴンは子孫に知識や技術を教え伝えることはあるのだろうか。卵も転生体だと言うし、あまりそういう機会はなさそうな気がする。
 ハンイットは手を伸ばしてリンデの頭をなでた。
「黒き森の血によって魔物と心を通わせる力は失われつつある。どこまでこの技術を残せるか、わたしにも分からない。それでも伝えていかなければならないと思うから、やっているんだ」
 そう言うと、サイラスはぽかんと口を開いた。
「どうしたサイラス」
「いや……今回の依頼、よろしく頼むよハンイット君」
 人間がするように右手を差し出してきたので、ハンイットは握り返した。隠し持つ宝珠によく似たサイラスの両目には、強い決意が表れていた。



 村長に挨拶し、準備を整えてシ・ワルキを出た二人は一路クリフランドに向かった。
 移動は徒歩だ。ドラゴンの姿は木々の少ないクリフランドでは目立つ上、どこにいるか分からないハイランドのドラゴンに勘付かれるかもしれない。彼らの種族は互いに気配を感じ取ることができるらしいが、人間の姿をとっている場合は少しその感覚が鈍くなる。代わりに相手からも見つかりにくくなるそうだ。
 森を抜けると足場は乾いた崖地になり、街道はみるみる上り坂になった。緑が消えた視界は、土の赤茶と抜けるような青空に支配される。リンデは慣れない土地に来てきょろきょろしていた。あたりに魔物の気配はない。おそらく最上位の種族であるドラゴンの底知れぬ威圧感に恐れをなしたのだろう。
 サイラスが迷いなく歩くので、ハンイットはそれに従った。今のところは街道を通っているが、これから獣道に突入する可能性もあった。
「卵を託された人間がどういう者かは分からないんだな?」
 道しるべの看板を確認しながらハンイットが問う。この先にはボルダーフォールの町があるそうだ。
「ああ。だが、卵の居場所ならうっすらと分かるよ。もっと近づけば、正確に気配を辿れると思う」
 答えるサイラスは相変わらずきらびやかなローブ姿である。ヴィクターホロウで見かけた学者の姿を真似してみた、この格好で研究者を名乗ればドラゴンの知識を持っていてもおかしくないだろう、と彼は自慢げに語っていた。
 看板と地図を照らし合わせた結果、「卵はボルダーフォールの方角にある」と判明したため、ひとまずそちらを目指す。ひたすら続く崖地には何の異変もない――と思われたが。
「ハンイット君、伏せて!」
 青空を視線で射抜いたサイラスが鋭い声を上げる。ハンイットは即座にリンデに指示して自分も地面にしゃがんだ。すぐ頭上を、以前も感じたことのある巨大な質量が通り過ぎる。
 一行はこそこそと移動して岩陰に潜み、空を見上げた。ごうごうと風が鳴って、影が飛び去っていく。後には太陽のような黄金色の軌跡だけが残った。
「ハイランドの同胞だ……! もう来たのか」
 サイラスが唇を噛んだ。速すぎてほとんど見えなかったが、ドラゴンだったらしい。
「追いかけよう!」「ああっ」
 立ち上がったサイラスとともに街道を駆け抜ける。
 そろそろボルダーフォールも目前という時、彼女たちのいる場所から深い谷を挟んだ反対側に、大きな橋が見えた。人影がいくつかその上を渡っている。サイラスの顔色が変わった。
「あの中に卵を持った人間がいるようだ」
 発言の直後、遠くの山から再び音が迫る。先ほど通り過ぎた「風」が戻ってくるのだ。まさかドラゴンは人間に襲いかかる気か、もしくは橋を落とす気か。
 ハンイットは躊躇なく弓を構えた。空気に泳ぐ己の毛先で風を読み、猛スピードでやってくるドラゴンに向かって、牽制の意味を込めて矢を放つ。あえて狙いはわずかに外した。
「うまい! 同胞が進路を変えたよ」
 サイラスが歓声を上げた。目の前を過ぎた矢に反応したのか、ドラゴンは橋をかすめて空の彼方に飛び去っていく。ハンイットの妨害には気づいたはずだが、こちらに向かってくる気配はない。
 サイラスは固唾を呑んで橋の方を見守る。やがて風が消えた頃、難しい顔になった。
「しまった……卵の気配が遠ざかった。今の風で人間が手をすべらせたのかな。卵は谷底の川に落ちたようだ」
 よく目を凝らせば、橋の上で人影が集まっている。卵の落下はハイランドのドラゴンにとっても予想外の展開だろう。ハンイットは眉根を寄せた。
「卵は無事なのか?」
「落下の衝撃で壊れるようなものではないよ。同胞に拾われる前に卵を回収したいな。ハンイット君はリンデと一緒に私につかまってくれ。一気に崖の下まで降りるよ」
 サイラスはふところから青色の宝石――竜珠を取り出した。その輝きで彼の意図を悟ったハンイットは、軽くうなずいて一歩下がる。
 宝玉を掲げると、まばゆい光がサイラスの体を包んだ。光が晴れた後には漆黒の鱗を持ったドラゴンが出現する。久々に見る彼の本来の姿だ。先ほどのドラゴンよりは少し小柄だろうか。彼と目が合ったので、ハンイットはリンデとともに背中に乗り込んだ。なめらかな鱗が太陽の光を跳ね返す。
 ――行くよ。
 号令の後、サイラスは翼を広げて崖下へと急降下していった。

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