双曲線の交わる場所



 傾いた日差しが平原を黄金に染め上げる、遅い午後。旅人たちはゆるりとフラットランド地方の街道を行く。
 おだやかな起伏をなす丘を越えると、道の果てが見えた。黒っぽい屋根がいくつか密集し、小さな村を形成している。
 テリオンは無言で足を運びながら街道の脇を見やる。道沿いに柵が張られ、こんもりとした低木が並ぶ。葉の隙間には赤い実がちらほら成っていた。
「おっ、リンゴ園だな」
「ちょうど収穫の時期みたいね。おいしそう」
 前を歩く薬屋と踊子が会話している。何も言わない剣士も、やはり果樹に注目しているようだ。
 リンゴは金色の陽光を跳ね返してその存在を主張している。
 久々にあの清涼な甘さを味わいたい。テリオンの喉に唾液がおりた。
 今晩、彼らはこの先の村で宿をとる予定である。市場には食べごろのリンゴが売っていることだろう。
 問題は入手方法だ。盗むか、買うか。一人旅なら迷いなく前者を選ぶのだが。
 商売道具である右手を何気なく持ち上げる。そこにはまった枷に気づき、彼はわずかに唇を歪めた。



 宿に荷物をおろして、連れの三人とは別行動をとる。
 その市場には宿に入る前から目をつけていた。いくつもの露店が連なるささやかな一本道が、どうやらこの村のメインストリートらしい。しかし、夕日に追われるようにほとんどの店はひさしを畳んでいた。狙いの生鮮食品などは真っ先に姿を消している。
 リンゴについては明日に回すとして、ぶらりと店を物色した。この時間帯にしては通行人が多い。当然、テリオンはそちらにも気を配る。思わぬところでいい獲物が見つかるかもしれない。
 白銀の前髪の下から油断なく視線を走らせ、ある露店に目を留めた。
(……本?)
 絨毯の上に並べられた商品は、インクの匂いが漂ってきそうな書物ばかりだった。その隣も反対側の店も同様で、台の上に種々雑多な本が平置きされ、あるいは簡素な棚に背表紙が並んでいる。
「お客さん、物珍しそうにしてるね」
 思わず立ち止まると、目の前の店の主人が話しかけてきた。一拍置いて、テリオンはうなずきのみを返す。別段聞き出したい情報もないので、「芝居」は打たないことにする。
「知らないのかい? うちの村では年に一度、本祭りをやっていてね。ちょうど今がその時期なんだよ」
 本祭り。祭りと呼ぶほど大層な催しとは思えなかった。ただ露店が書物に埋め尽くされているだけではないか。日中ならば、また話が違うのだろうか。
 ともあれ、村の規模と比べて妙に人通りが多い理由が知れた。街道に真新しいわだちがついていたのもこのためだろう。
(本、か……あまり気が乗らないな)
 書物を盗みの対象にするには、あまりにも難点が多かった。まず、かさばる。重い。転売するにも足がつきやすい。何よりも、素人には価値を判別しづらい。目利きにはそれなりの自信と技術を持つテリオンだが、こればかりは専門外だった。
「この時期は、大陸中から本が集まってくるんだ。お客さんも探しものがあるならきっと見つかるよ」
「そうか」
 だが、テリオンの探しものはここにはない。さらに北東へと進み、平原と丘を越えた先にあるノーブルコートという町へ向かわなければならなかった。
 露店の主に素っ気なく返事して、再び歩き出す。
 久しく盗みを働いていなかった。思わぬ成り行きで旅の連れを得てから、彼らに正体を隠していることもあり、他人の持ち物に一切手を出していない。しかし腕を鈍らせるわけにもいかないので——ノーブルコートでの本番も待っていることだ——このあたりで一仕事、と意気込んでいた。しかし、それも本の山が相手ではいまいち意欲が出ない。
 となると、通行人の懐か。貴重な書物を買い付けに来る金持ちの客は狙い目だ。フラットランドは学者が多いと聞く。
(学者か……)
 その単語で思わず嫌なことを思い出してしまった。こみ上げた苦いものを、軽く頭を振って追い払う。「あれ」はもう忘れよう。
 やはり客足を期待して明日の日中に出直すべきだ。そう無理やり意識を切り替えて歩き——両足が凍りついた。
 道の先に、夕日を吸い込む真っ黒な外套が見えたのだ。
(あいつは……!)
 きらびやかな装飾のついたローブを肩にかけ、無造作に黒髪を束ねた男。忘れもしない、ボルダーフォールの屋敷でテリオンの前に立ちふさがった、あの男だ。
 テリオンは自失状態のまま、露店の先で腰をかがめる黒い背中を見つめていた。
「えーっ、この本そんなに高いんですか!?」
 素っ頓狂な台詞が耳に入り、固まった意識がわずかに浮上する。
 例の男の横に、膨らんだリュックを背負った小柄な少女が立っている。帽子につけた羽飾りからすると、どうも商人らしい。
 テリオンは足音を忍ばせ、後ろから二人に近づいた。
「そりゃそうよ、うちの目玉商品だからね」この声は露店の主人だろう。「でも、正真正銘のとっておきは明日の競りに出品するのさ」
「なるほど。ご主人、その競りについてくわしく教えてもらえないかな」
 涼しげな声がテリオンの鼓膜を叩く。それだけで肝が冷え切るような感覚がある。何故なら彼は、その声が全く同じ調子のまま恐るべき魔法を紡ぐことを知っていた。
「はあ。お客さんは学者先生だろう? この村には祭りの噂を聞いてきたのかい」
「もちろん。ちょうど求めている本があるんだ。そうだな、まずこの祭りがはじまったきっかけは?」
「あ、ああ、えっと……」
 熱心に質問する学者に、若干気圧された様子の主人。商人は呆れたように肩をすくめる。
 テリオンは冗長な話を聞いていられず、きびすを返した。
(何故、あいつがこんな場所に)
 そういえば、あの時確かレイヴァースの屋敷の者たちは「旅の学者がたまたま居合わせた」と言っていた。学者の名前は——聞いていなかった。
 こんな不名誉な腕輪をつけられる羽目になったのはあいつのせいだ、とテリオンは信じ切っていた。何かと験を担ぐ彼にとって、あの黒いローブはもはや不吉の象徴でしかない。
 旅人である学者たちは、明日に開催される競りとやらに参加するためこの村に来たらしい。ならば宿をとっているはず。テリオンたちと同じ宿でなければよいのだが——おそらくその願いはかなわないだろう。
 あの学者とは確実に再び鉢合わせする。テリオンは近頃続いた数多の不運のせいで、常に最悪の想定をする癖がついていた。
 おまけに、その対処法は残念ながら間違っていなかったのだ。



 適当に時間を潰し、山の端に沈む太陽を見届けてから宿に戻る。テリオンを待ち受けていたのは、併設された食堂で酒を飲み交わし食事を楽しむ、総勢七人もの旅人たちだった。
「遅えよテリオン、こっちこっち!」
 陽気な声を張り上げた薬屋のせいで視線がこちらに集中した。輪の中に入らざるを得なくなる。
 椅子と椅子の間をすり抜けた先、いやににぎやかな中心へと招かれる。そこで、麦穂色の髪を逆立てた男がテリオンを呼んでいた。
 歩く途中、嫌でも気づいてしまう。輪の中に先ほどの学者と商人がいる。薬屋とは別のテーブルを囲み、踊子や剣士と何やら会話していた。
「実はな、今この人たちと意気投合してたところなんだよ〜」
 お邪魔しています、とにこやかに言うのは聖火教の神官と思しき法衣をまとった女性だ。その横では三つ編みを背中に垂らした女性が野菜のスープをすすっている。テーブルの足元に控えているのが生きた魔物であることにテリオンは驚いたが、白い豹は堂々かつおとなしくしていた。
 どうやら薬屋が妙に上機嫌なのは、美人に囲まれて鼻の下を伸ばしていたから、らしい。
「……おたくはいつもそうだな」
「酒さえ飲めば誰とだって仲良くなれるさ! ほら、テリオンも座れよ」
 薬屋は酒臭い息を吐きながら笑った。テリオンは呆れて声も出ない。
(また余計なことを……)
 そう、テリオンの旅が思わぬ大所帯になったのは、主にこの薬屋のせいであった。
 ボルダーフォールから旅立った彼は、まず南へ向かった。ノーブルコートが目的地なのだから北東を目指すのが最短だが、彼なりの考えがあって南下し、リバーランド地方のクリアブルックという小さな村に立ち寄った。今思えば、それが間違いのはじまりだった。
 クリアブルックでは何やら事件が発生しており、たまたま居合わせたテリオンは戦いに慣れた旅人とみなされ、薬屋に請われて近くの洞窟で魔物退治に付き合った。その後、報酬を受け取りすぐさま村を出たのだが、同じ日に旅立った薬屋が後を追ってきた。何の用かと問えば、「一緒に行かないか」と持ちかけてくる。
 薬屋が調合する薬がどれだけ有用か知ってしまったテリオンは、その提案を断りきれなかった。連れがいると「本業」がやりづらくなるのは確かだが、いざとなれば関係を解消して放り出せば良い、と考えていた。
 ところがこの薬屋が曲者だった。お人好しが過ぎるのだ。砂漠の町サンシェイドでは踊子にちょっかいをかけ、山麓の町コブルストンでは剣士を手助けした。その結果、この村に着く頃にはテリオンの連れは三人にまで増えてしまっていた。
 善意のままに行動する薬屋を放置していたテリオンにも責任はある。それも全て、旅の連れがいることの思わぬ便利さに目がくらんだせいだ。特に魔物との戦闘が断然楽になった。踊子は妙に迫力ある手付きで短剣を扱い、踊りという特殊技能で前線を支援する。剣士はどうやら騎士崩れらしく、完璧に身につけた型による剣技で幾度も道中の危機を救った。
 おまけに全員、テリオンの正体など疑いもせず、それぞれの目的が後回しになるというのに文句も言わず、ノーブルコートまでの道のりをついてくる。
 まったく、どうしてこうなったんだか——
「この村の祭りがにぎわうようになったのは、つい最近でね」
 よく響く声がテリオンの回想を打ち破った。食堂の喧騒が少し落ち着く。皆が声の主に注目していることが分かる。
 話をはじめた学者の彫刻のようなほおに、テリオンは無遠慮に視線を突き刺す。
「はじまりはリンゴの行商だったそうだ。キミたちも道中見ただろう、この村の名産を。村人たちは各地にリンゴを運び、代わりに本を仕入れてきた。学問の総本山たるアトラスダムが近いから、書物に需要があると考えたようだ。その読みが当たり、行商の規模は徐々に大きくなっていった」
 先ほどの露店で仕入れた話らしい。テリオンは全く興味がわかなかったが、皆それなりに聞き入っていた。二つのテーブルにわかれた総勢六人だけでなく、食堂の従業員までもがその唇から流れ出す音楽的な響きにうっとりしている。まあ無理もない、と思えるほど学者の容貌は秀でていた。
「副産物であった本の商売がより注目を浴びるようになったのは、村の有志の若者たちが年に一度の祭りとして積極的に取り組みはじめたからだ。今回私が目的とする本の競りも、同時期に開始されたようだね」
 学者がやっと一息つく。聴衆はそれぞれに相槌を打った。
「それは、先ほどサイラスさんとトレサさんが宿を離れていた間に聞いたお話ですか」
 質問を投げかけた神官に、学者は「そうだよオフィーリア君」と鷹揚にうなずいた。
「サイラス先生、あちこちでお店の人を質問攻めにしてたわ。たっぷり商品を見ながら。本当に本が好きよねー」
「暇さえあれば読んでばかり、だからな」
 呆れと自慢を半々に顔に浮かべ、商人は椅子の上で背を反らせる。続いて腕組みをしたのは魔物を連れた女性で、立派な毛皮をまとっていることからすると、もしや狩人だろうか。学者の連れは女ばかりか、とテリオンは鼻白んだ。
「学者先生たちは明日その競りに参加するのね」
 踊子が長いまつげをしばたたき、とろりとした視線を学者に向けた。まさか誘惑しようとしているのか。余計なことをするなと口を出したくなる。
「いや、そちらはトレサ君に任せるつもりだよ」
「先生の本はあたしが買い取ってみせるわ!」
 踊子の必殺の流し目もさらりとかわされ、代わりに商人が声を張り上げる。踊子は大して気にせず、隣の剣士とそれとなく目を合わせる。
「私たちはどうしようかしら」
「なら、一緒に村を回ってみませんか?」
 神官が声をかけた。それもいいわね、と応じる踊子。
 テリオンは頭が痛くなった。何故彼らは当たり前のように予定をすり合わせているのだろう。ほんの数刻前に出会ったばかりではないのか? たとえ酒の席であろうと、テリオンはこんな速度で他人を信用することなどないのに。
 薬屋は赤ら顔でこめかみをつまむ。
「俺は薬師として村の見回りをしねえとな。テリオンは?」
「言う必要があるか?」
 いつもの通り、単独行動をさせてもらうという意味だ。
 その時、隣のテーブルから学者の青いまなざしが流れてきて、すうっとテリオンを貫く。それだけで背筋が伸びるような感覚があった。
(そうだ、こいつは俺の正体を知っている)
 正体、すなわち生業。薬屋たちには隠している盗賊稼業のことだ。
 テリオンはこの学者に弱みを握られていると言っても過言ではない。この視線は威圧と受け取るべきだ。
「ここで会ったのもめぐり合わせだろう。キミたちとは不思議な縁を感じるね」
 学者は柔和な面差しでそう告げる。どこまで本気で言っているのか怪しいものだ。
 そろそろ潮時だ、と感じた。テリオンは食堂を後にすることに決めた。エールを飲み干し、持ち帰れそうな食べ物を適当に見繕う。「もう寝るのかよ」という不満げな薬屋の声や、背中に絡みつく青い視線を振り切るように、立ち上がった。
 心底一人になりたいと願うのならば、この時点でノーブルコートに向かって単独で旅立つべきだった。それなのに、テリオンがその道を選ばなかった理由は——自分でも分からなかった。

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