双曲線の交わる場所



 さあ、勝負の時だ。
 小鳥さえずる爽やかな朝。トレサはやる気をみなぎらせ、宿の食堂でサンドイッチを頬張る。普段ならたっぷり時間をかけて土地の料理を楽しむところだが、今日ばかりは違った。
「おはようございますトレサさん」
「おはよう、オフィーリアさん」
 テーブルの空いた席に座ったのは、旅の仲間である聖火教の神官オフィーリアだ。真っ白い法衣を着た彼女は、故郷を出るまで全く接点のなかったたぐいの人物で、しかも「式年奉火」という大切な儀式の真っ最中だという。
「うふふ、はりきっていますね」
 オフィーリアはプラチナブロンドの髪を揺らして笑う。トレサが神官に対して勝手に抱いていたお堅い印象を覆してくれたのが彼女だ。いつだって年下のトレサに穏やかかつ丁寧に接してくれる。旅の仲間となってまだ日が浅くとも、すっかり打ち解けることができた。
「分かっちゃう? だってほら、今日はあたしの大事な日だから」
「サイラスさんとの約束があるのでしたね」
「そうそう。目当ての本を競り落とさないとねっ」
 それは、彼女をこの旅に連れ出してくれた人との約束だった。
 トレサは南にあるコーストランドの港町リプルタイドの出身だ。商人の娘として家業を手伝いながら修行を積んでいたところ、ある日起こった事件の最中にサイラス一行と出会った。その難局をなんとか乗り越えられたのは彼らの協力があればこそだ。
 トレサは同日に手に入れたあるものをきっかけに、前々から憧れていた海の向こうへ旅立つことに決めた。サイラスは「行商人として世界を見て回りたい」という彼女の夢を受け入れ、旅に反対する両親を説得し、トレサを仲間に迎えてくれた。
 トレサは彼の恩に報いるためにも、自分のさらなる研鑽のためにも、絶対にこの約束を果たしたかった。
「肝心の本人はどうしているんだ」
 続いてやってきたのは狩人ハンイットだった。足元には雪豹リンデがまとわりついている。ハンイットはもう一匹、狼のハーゲンとも心を通わせ共に行動している。しかしあの狼はあまり人里を好まないらしく、村の外で待っていた。
「用事があるって、朝早くから出かけて行ったわ」一人で宿を出ていった黒いローブの背を思い浮かべる。
「サイラスは探している本があるのだろう。それをトレサに任せて……か?」
 ハンイットは眉をひそめる。
「これはあたしが引き受けたことだもの。ちゃんとやってみせるわ」
 トレサが胸を張ると、オフィーリアがにこりと笑みを深め、ハンイットも肩の力を抜いた。
「そういえば二人は今日どうするの? もう準備万端って感じだけど」
 神官も狩人も防具を固め、それぞれ武器まで携えている。朝食はとっくの昔に済ませたようだし、とても村を探索するような雰囲気ではない。
「ああ。昨日この村に来る途中、果樹園があっただろう」
「うんうん、美味しそうなリンゴがいっぱい成ってたわね。形も色も良かったし、きっといい値段で売れるわ」
「なんでも商売に結びつけるんですね……」
「だって商人だもの」
 ハンイットは首を振って話の筋を戻した。
「そのリンゴが、近頃何者かに盗まれる被害が発生しているらしい。現場に残った足跡から、魔物の仕業ではないかと果樹園の主人が言っていた」
 トレサは目を丸くした。
「それ、いつ聞いた話?」
「今朝ハンイットさんとお散歩していた時です。肩を落として道を歩いている方がおられたので、声をかけたのですが」
 さすがは聖火教の神官、悩み相談ならお手の物らしい。
「そこで、わたしが狩人として調査の依頼を受けた。オフィーリアとともに今日はそちらに向かう。どうやら、『あの旅人たち』もついてくる気らしい」
「もしかして、昨日一緒にご飯食べた人たち? そういえば一緒に村を回るって言ってたわね」
「剣士のオルベリクさんと、踊子のプリムロゼさんです」
「四人で魔物退治かあ……!」
 出会ったばかりの人々と意気投合し、困難に挑む。これぞ旅の醍醐味だろう。
 トレサはなんだかわくわくしてきた。名無しの旅人が残した手記に綴るべきことがどんどん増えていく。今日の出来事だけでページがいくつも埋まるに違いない。
「なら、あとでお話聞かせてね!」
「トレサさんも、無事に競りが終わることをお祈りしています」
「一人きりでの行動になるから、あまり無理はしないように」
「ありがとうオフィーリアさん、ハンイットさん」
 あたたかい言葉に胸が満たされる。旅立つ前は、こんなに素敵な旅の連れを持てるなんて思いもしなかった。動き出したトレサの船の帆は、幸運の風でいっぱいに膨らんでいるに違いない。
 宿を出る二人を玄関先で見送り、トレサはぱらりと手記をめくる。
 この村は手記には載っていなかった。今日の出来事を記せば、冒険記としてより深みを増すだろう。
「よおし、絶対競りに勝つわよ!」
 トレサは晴れた空に威勢のいい声を響かせ、腕を振り上げた。



 愛用のリュックを背負ったトレサは、足を弾ませ露店市場に繰り出した。
 昨日よりも圧倒的に人通りが多い。サイラスの話のとおりアトラスダムからほど近いためか、裕福そうな学者とよくすれ違った。馬車も次々と村に到着しているようだ。皆、祭りの目玉である競りに参加するのだろう。
 まずは小手調べ、とばかりに露店の店先を冷やかした。本の相場を見極めようと考えたのだ。
「ううむ……」
 ほどなくして、トレサはうなり声を上げることになる。
(これは、予想以上に難しいかも)
 本の価値とは一体どこに宿るのだろう。単純な「モノ」としての値段ならば、トレサにもある程度判別できる。表紙の材質や製本の良し悪しを頼りにすればいい。だが、書物は記された内容や情報にも重きをおいて値付けされる。そちらは彼女の手に余る分野だった。
 現に今、「このくらいの値段かな」と予想しながら手にとった本に、倍以上の値札がついていた。トレサは急に自信がなくなってきた。
(うう、ちゃんと先生に聞いて「予習」しておくんだった)
 一本道の市場をとぼとぼ歩く。この先の広場が競りの会場になるのだと昨日サイラスが聞き出していた。会場にたどり着くまでに、なんとか光明を見つけられないものか。
 焦りながらあちこちに視線を走らせると、人混みの間に白銀の髪が見えた。トレサははっとした。昨晩宿で顔を合わせた旅人だ。確か名前は——
「テリオンさん!」
 紫の外套が動きを止めた。出会った人の名前と顔を覚えるのは商人の基本である。
 走り寄れば、乾いた緑の瞳がこちらを見下ろす。テリオンはあまり多弁ではなく、どちらかというと無愛想な印象だったが、薬師のアーフェン相手にはきちんと受け答えしていた覚えがある。
「……何か用か」
 ぼそりと発せられた低い返事は、人の多い往来ではなかなか聞き取りづらい。でも無視されたわけじゃないわ、とトレサは前向きに考えた。
「いきなりすみません。昨日、テリオンさんは目利きが得意だって仲間の薬師の人から聞いたんだけど、本当?」
 テリオンは盛大に目をそらした。同時に肩が下がったのは、ため息をついたのか。おそらく図星だったのだろうと推測する。ここにサイラスがいれば、もっとはっきり意図を探れたのに。
「テリオンさんって商人なの?」
「違う。旅の途中で、たまたまそういう目が育っただけだ」
 それでもアーフェンは「あいつの選んだ武器って間違いないんだよな」と言っていた。旅慣れた雰囲気のテリオンは、若くとも十分すぎるほどに経験を積んでいるに違いない。
 トレサはぱん、と音を立てて両手を合わせた。
「あのね、テリオンさんの技術を見込んで頼みがあるの。お代は払うから、あたしを手伝って!」
 わずかにテリオンの眉が動いた。その反応が否か応か、トレサは必死に見極めようとする。
「今日開かれる競りでどうしても落としたい本があって……でも、出品される品物のうちどれが目当ての本なのかが分からないのよ」
 テリオンは静かに話を聞いている。少しは興味を引けたらしい。
「盗まれて転売された本らしいの。それで表紙が取り替えられて、タイトルも変わっちゃったみたい」
「あの学者が探している本か」
「そうそう!」
 すると何故か彼はやや苦い顔になった。意外な反応にトレサは目を丸くする。テリオンはすぐに表情をかき消した。
「……どうやってそれを特定して競り落とすんだ」
 当然の質問だった。作戦はあるが、なかなかの綱渡りであるとトレサは自負している。
「競りの前には本の内容の説明があるわ。表題が変わっても中身は変えられないでしょ。それと、本自体のサイズや分厚さも頼りになるわね。あとは……勘?」
 今度こそ大きなため息が返ってくる。
「ちょっと、勘って結構重要なのよ!」
 そう、まさしく直感としか言いようのないものによってトレサは名無しの旅人の手記を入手し、こうして旅に出たのだから。ムキになる彼女に、やれやれというようにテリオンは片目を瞬かせる。
「で、具体的に俺にどうしてほしいんだ」
 もしかして、その気になってくれたのだろうか。トレサの粘り勝ちである。
 ほっとした彼女は「ちょっと待ってて」と一旦話を切り、目をつけていた露店に向かう。
 その店の商品は書物ではなく、特産のリンゴを絞ったジュースであった。二つ購入し、「はい」と片方をテリオンに手渡す。口の広い瓶からフレッシュな香りが立ち上った。
「これが報酬か」
「あくまで前金よ。成功したらちゃんとお金を払うわ」
 これくらいでどう、とトレサが立てた指を一瞥してから、テリオンはくいと瓶をあおる。案外甘いものが好きなのか、いい飲みっぷりだった。
「それで?」
 テリオンは空になった瓶をひらひら振った。「さっさと本題に入れ」と言いたいようだ。トレサは自分の分を飲んで、落ち着いてから話し出す。
「うん、今日の競りは方式が厄介なのよ。くわしくはあとで説明するけど、テリオンさんは出品された本に対して、自分だったらどの程度の値付けをするか教えてほしいの。あたし、今回ばっかりは目利きに自信がなくて……」
「難しいな」
 テリオンはばっさりと切り捨てた。トレサは肩を落とす。
「や、やっぱり?」
「稀覯本のたぐいは専用の市場で取引きされている。値動きも独特だ。少なくとも俺は関わったことがない」
 言外に「諦めたほうがいいんじゃないのか」と告げている。それでもトレサは食い下がった。
「サイラス先生の頼みだもの。それにあたしは商人として修行を積まなくちゃ。無理でも無茶でも、やってみせるわ」
 最悪それらしき本を購入できなくても、落札した人物を覚えておけばいい、とサイラスは言っていた。そうすれば、落札者の後を追って交渉ができる。
 だが、その最終手段はできれば使いたくない。トレサは今回の競りに並々ならぬ闘志を燃やしていた。絶対に本物を見抜いて買ってみせる。
 テリオンはしばし考え込むように目を閉じて——ゆっくりとまぶたを開く。
「付き合ってやる」
「え?」
「借りた分くらいは返すさ」
 前金と言って果汁をおごった件だろう。そのくらい気にしなくてもいいのに。案外律儀な人だ、とトレサは嬉しくなる。
「なら、一緒に本の価値を勉強しましょ!」
「俺は商人じゃないぞ」
「そっか。あはは、サイラス先生の癖が移っちゃったみたい」
 テリオンは露骨に嫌そうな顔になる。それが面白くてトレサは肩を揺らして笑い続けた。



「これから競りを開催いたします。参加者の方々は前に集まってください」
 広場に設けられた舞台から、青年が声を張り上げる。彼がこの本祭りの主催者——すなわち祭りの規模をここまで大きくした立役者らしい。運営側の証である帽子をかぶっていた。
 トレサはテリオンと並んで、大勢の人々と一緒に舞台に近づく。
(はー、ちゃんと参加できて良かった)
 こうして競りに挑むにあたり、トレサは先ほどささやかな試練を乗り越えたばかりだった。
 広場にやってきて意気揚々と参加を申し込んだところ、「まだ子どもだから」と追い返されそうになったのだ。テリオンが助け舟を出してくれなければ参加すら危ういところだった。トレサは背が低く顔立ちも幼く見えるが、歳はもう十八を数える。商人としての活動実績もちゃんとあるのに、この扱いは理不尽であると主張したい。
 深呼吸してむかむかした気分を入れ替えた。参加者に配られた競売品のリストをもう一度眺める。テリオンが横から覗き込んだ。
「目当ての本はね、薬に関する技術書らしいの」
「薬?」
「そう。怪しいのはこのあたりかな」
 筆記具で丸をつける。「オルステラ薬学入門」「薬草栽培の手引き」「野花の薬効事典」というタイトルの三冊だ。単純に「薬」というキーワードが入っているものを選んだ。テリオンもうなずいたので、おそらく悪くない推理だろう。あとは本の説明から内容を拾うしかない。
 ざわめく会場に「これから競りの説明をはじめます」と主催者が声をかける。トレサは前もってサイラスが入手した情報により、続く説明を知っていた。
「このように一冊ずつ商品を示し、内容を解説します」主催者は舞台上で赤い表紙の本を掲げた。「落札したい方は、お渡しした用紙に価格を記入してください。それを回収して舞台上で私が開封し、一番高い値段をつけた方にお売りいたします」
 そう、この方式が厄介だった。参加者たちが次々に声をかけて値段を吊り上げていく公開入札方式ではないのだ。自分で決めた値段で勝負をかけるため、より相場の見極めが重要になる。おまけに、サイラスから預かっている予算のうちでなんとか競り落とさなければならない。
「これは厳しいな」
 テリオンが腕組みをする。その拍子に珍しい腕輪が右手首に見えて、少し気になった。
「そうなのよ。まずは様子見で、他の本の値段を見るつもりよ」
「ならお手並み拝見だな」
 テリオンは悠然と言い放つ。少しムッとしたが、ここで喧嘩などしている場合ではない。
 トレサの胸の鼓動は徐々に早まっていく。そんな中、「それでは競りを開始いたします」という主催者の声が広場に通った。
 競りにかけられる書物は多岐に渡った。極端な稀覯本よりは、やはり学者向けの実用書が多い。トレサは忘れずに書名と落札者の名前、それに落札価格をメモしていく。落札者は最後に登壇するので、その顔をしっかりと脳裏に焼き付けた。視線は常にメモと舞台を往復し、なかなかに忙しい。
「来たぞ、一冊目だ」
 テリオンの小さな声でトレサは我を取り戻した。「オルステラ薬学入門」である。
「入門」などという平易な単語を使っているあたり、タイトルを偽った転売品のような気もする。さて、実物はどうか。
 壇上で本が掲げられた。トレサは目一杯背伸びをして、装丁を確かめる。
「どうだ?」
「わ……分かんない」
 第一印象では如何ともしがたい。正直に弱音を吐くしかなかった。
 見事に出鼻を挫かれた。それでも主催者の解説を聞き逃すまいと耳を澄ませる。
「これは治療薬に関する本です。怪我や病気の症状別に、比較的手に入れやすい市販薬の効果的な使い方が記されています」
 ざわざわという声の中に、紙に筆記具を走らせる音が聞こえてきた。もう記入時間がはじまったのだ。
「さあ、どうする」
 テリオンが目と口で問う。
「……違うと思う」
 トレサは力なく首を振り、硬貨を握りしめた手をそっとおろした。
「それは例の勘か?」
「ええ、勘よ。でもあれは違うわ。だってサイラス先生の探してる本は、元は盗品なのよ。あの本からはそんな暗い感じがしないもの」
 すべからく商品というものは、人の手から人の手へと渡るものだ。その過程に汚れた経歴があると、雰囲気や手触りといった目に見えない付属物に、なんとなく遠ざけたくなるような薄暗さが宿る。あの本にはそれがなかった。
 そういう肌感覚は父親が教えてくれたものだった。こんな土壇場で思い出すなんて、トレサは今まで考えもしなかった。不思議な感慨が胸を満たしている。
 テリオンはそっと息をついた。あくまでこちらの判断に任せてくれるようだ。
 主催者は集まった紙を開き、高らかに落札者の名前と本の価格を読み上げる。
「落札ありがとうございます。では、品物をどうぞ」
 買い取ったのは、いかにも人が良さそうな学者だった。トレサは「やはり違った」という確信を強くする。
「気を取り直して次よ、次」
 競りを眺めるうちに、トレサはだんだんテンポが飲み込めてきた。いつしか緊張は風とともにどこかへ流れていったようだ。
 心が静まるとまわりの様子がよく見えてくる。——競りがはじまった時よりお客さんが増えてるし、運営側の人も増員をかけたみたい。あの人値付けが苦手なのかな、先ほどからよく落札を逃してるわ。黒っぽいフードをかぶった人が多いけどみんな学者かしら——などなど、トレサは様々な感想を抱いた。
(……あれ?)
 ふと、妙な匂いを嗅いだ気がした。正体をつかまえる前に空気に紛れて消えてしまう。欲望渦巻く競りの場にそぐわない、ハーブのような芳香だった。
(って、関係ないことに気を取られてる場合じゃなかったわ)
 トレサは凝った体と頭をほぐすため伸びをする。それとなくまわりを確認しているテリオンに話しかけた。
「それにしても活気づいてきたわね。あんまりライバルが増えると困るんだけどなあ」
「増えたのが客だけかは、怪しいところだが」
 どういう意味だろう。台詞の意味を追及しようとした時、「次の本が出たぞ」と告げられる。慌てて舞台を見れば、目当ての二冊目「薬草栽培の手引き」の登場だ。
 その本は今まで出品された他の書物とずいぶん違った。明らかに見た目がみすぼらしい。ボロボロの表紙、とれかけの背表紙——力を入れたらそのまま崩壊しそうで不安になるくらいだ。
「こちらには、主にフラットランド地方に自生する薬草の栽培方法について記されています」
 なんだか主催者の紹介にも力が入っていない。その程度の内容、タイトルで分かるではないか。
 トレサは情報の少なさに腹を立てつつ、よく観察して——
「あれよ」
 知らず知らずのうちにつぶやいていた。
 ぐいと身を乗り出す。レオンの船で数多の名品の中から手記を見つけた時と同じ、「あれは自分の求めているものだ」という直感が脳を揺らしていた。
 静かに興奮する彼女に、テリオンが水を差す。
「表紙を取り替えたのなら、ああいう見た目にはならないんじゃないのか」
「うん……そうなんだけど。でもあれなの。目測だけどページ数も近いし、盗品の匂いがするわ」
「匂い、か」
 これこそ勘としか言いようのないものだ。たとえ間違っていたとしても、残りの一冊も買えばよい——という考えは今の彼女にはない。それほどまでに強い確信があった。
 沈思黙考していたテリオンが、大きく首肯した。
「お前がそう思うなら、やってみることだな」
「うん!」
 背中を押してくれた青年に、トレサはしっかりうなずいた。
 手持ちの予算を確かめ、配られた専用の紙に一思いに値段を書いた。人混みを割って運営の元に紙を届けに行く。
「これで入札は終わりですか?」
「はいはい、あたしも!」
 トレサが前に出ると、「どうしてこんな小娘が」「しかもみすぼらしい本を?」という視線が矢のように刺さった。こういう扱いにはもう慣れているため、大して気にもならない。
「これ、お願いします」
「確かに受け取りました」
 紙はすぐに集計された。トレサの他には二人が入札したようだ。幸いにも競争率は低い。
 彼女はまぶたを閉じて、両手を組み合わせる。
(こういう時、聖火神様に祈るのはちょっと違うわよね。えーと、紳商伯ビフェルガン様、お願い!)
 都合よく商売の神様を思い浮かべ、運を天に任せる。
 主催者が紙を開く。その表情に軽い動揺が読み取れた。
「こ……こちらの『薬草栽培の手引き』は、一万リーフでトレサ・コルツォーネ様が買われました!」
 会場がどよめく。明らかに「相場の分かっていない」値付けだったからだ。
 それでもトレサは大股で舞台に上がり、本を受け取った。見た目に反してずしりと重く、ページの間から不思議な芳香が漏れ出ている。少し前会場に漂った匂いと同じだった。本が運ばれた時に風に乗って流れてきたのかしら、と興奮する頭の片隅で考える。
「ありがとうございますっ」
 本を抱えたトレサは、スキップでテリオンの横に戻った。
「払いすぎじゃないのか」
 開口一番鋭い指摘が飛ぶ。トレサは照れを隠すように片手で帽子をかぶり直した。
「あはは……やっぱり? でも今回は入手すること自体が目的だから、これでいいのよ」
 仕入れの原価として考えるとありえない値付けだ。だが予算の都合のつく範囲で確実に競り落とせたのだから、十分な成果だろう。
 本の表紙をなでながらトレサは余韻に浸った。三冊目の出品まではしばらく時間がある。一応、三冊目も現物だけ確かめるべきか、と大らかな気分で構えられた。
(そうだ、テリオンさんに報酬を支払わないと)
 こうして無事に競り落とすことができたのは彼のおかげでもある。余った予算の範囲で、最初に提示した額に少し上乗せして渡そう。
 頭の中で金勘定をはじめたトレサを、テリオンがひじで小突いた。
「おい、お前」
 あたしにはトレサって名前が——と返そうとして、口をつぐむ。彼の目は厳しく細められ、周囲を睥睨していた。
「まず本を鞄にしまえ。ここを離れたほうがいい」
「へ? なんで?」
「誰かに見られている。確かにそれが本物だったらしいな」
 どきりとして視線を動かしたくなるが、テリオンにたしなめられた。トレサは慎重に本をリュックに入れた。
「もしかしてこれ、他の人にも狙われてるような本だったの?」
 口をついて疑問が出るが、それなら他に二人しか入札しなかったのはおかしいだろうと考え直す。
「さあな。あとであの学者にでも説明してもらえ」
 戸惑うトレサの前で、テリオンはジュースの空き瓶を手の中でもてあそぶ。「離れたほうがいい」と言ったのに一向に動こうとしない青年をただ見守っていると、彼は不意にそれを地面に叩きつけた。瓶は大きな音を立てて割れ散る。
「きゃっ」「何だ何だ?」
 折しも競りと競りの合間だった。一斉にこちらに注目が集まる。
「な、何してるのテリオンさん……?」
 その質問に答えはなく、テリオンはさっとしゃがみこんで破片を片付ける。
「いいから行くぞ」
 好奇の視線を浴びながら広場から離れた。トレサは何が何だか分からないまま、迷いなく歩くテリオンの後ろをついていく。方向からすると宿へ向かっているようだ。
 露店のある大通りは競りの最中ということもあり、まばらな人影だった。テリオンはこの道はまずいとでも考えたのか、「ここに入れ」とトレサを路地へ押しやる。
(もう、一体なんなのよ!)
 一からきちんと説明してもらいたい気分だが、今は疑問を挟むよりも彼に従ったほうがいい。背負ったリュックの重みを意識しながら、テリオンに急かされるように狭い道を通り——その足が止まった。
 目の前に男が立ちふさがったのだ。
「先ほどは本のお買い上げ、ありがとうございます」
 あの帽子は祭りの運営者だろう。まだ競りは続いているはずなのに、どうして一人だけここに?
「えっと、いい買い物ができました!」
 ついいつもの癖で返事をしてから、「しまった」と口元をおさえる。テリオンの冷たい視線が横顔に突き刺さった。
「あのう……あたしたちに何か用ですか」
 その時トレサは再びあのハーブのような匂いを感じた。正面の男から漂ってくるようだ。
 運営者はその質問に、何故かふつふつと怒りを煮やす。
「まさか、あなたのような娘さんが手先だとはね……」
 抑えた声にも激情がにじんでいる。トレサはおののき、一歩下がった。
「て、手先? 何の話ですか」
「あなたの上の方に伝えてください、我々はもうあなたがたとは手を切ると」
 上の方とは誰だろう、サイラスのことだろうか? 疑問でいっぱいのトレサに対し、テリオンがさっと前に出る。
「もしかして、この本がどうかしたのか」
 確かにリュックにしまったはずの本が、何故かテリオンの手にあった。いつの間に、とトレサが驚くと同時に、相手の顔色がはっきりと変わる。
「やはりお前たちは黒曜会の——!」
 よく分からないことを呟きながら、相手は腰に帯びた剣を鞘走らせる。本をふところにしまったテリオンもさっと短剣を抜き放った。
(ええ!? どういう展開なのよこれっ)
 こんな町中で戦闘がはじまってしまうなんて。全く話についていけないトレサの眼前で武器がぶつかりあい、高い金属音が響く。テリオンの短剣捌きはすばやく、相当な手練れであることが知れた。相手も一歩も引かず、ひたすら感情のままに剣をぶつけてくる。
 とにかくトレサたちは盛大に勘違いされているようだ。テリオンはそれを言葉で正す気はなく、実力行使で切り抜けようとしている。こうして武器を向けられているのは事実だから、トレサも加勢に入るしかなかった。
 こんな事態など全く想定していなかったので、槍は宿に置いてきた。ひとまず弓を取り出す。
「いきなりこんなことしておいて、タダで済むなんて思ってないわよね!」
 弦を目一杯引き絞り、矢じりを向けながら怒鳴る。相手がきつくにらんできた。
「それはこちらの台詞だ!」
 男は何かを投げつけてきた。テリオンが短剣ではねのける。
 それは小さな瓶だった。地面に落ちて割れ、そこから煙が立ち上る。至近距離にいた二人は避けられず、煙を吸い込んでしまう。
 げほげほと咳き込むと、急激に眠気が襲ってきた。
(これ……睡眠薬の瓶詰だわ)
 にじむ視界の中で、テリオンが膝をつく。
 どうしてこんなことになったのだろう——やっと手に入れた本を、サイラスに届けなければならないのに。商品のことばかり気にしながら、トレサは前に回したリュックを抱え込むように意識を失った。

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