ヒスイをキミの手のひらに



 過剰な数の衛兵に番犬、さらには塀の上に張り巡らされた糸。ボルダーフォールの一等地に建つレイヴァースの屋敷は、以前と変わらず厳重な警備に守られている。変わったのは——
「おお、テリオン殿ではありませんか! お待ちしておりました、さあ中へどうぞ」
 よりにもよって、衛兵隊長がテリオンの顔を見た途端に大歓迎するこの状況だ。
 衛兵たちは整列して道を空け、門は勝手に開き、左右から期待に満ちた視線が浴びせられる。テリオンは仕方なしにその間を突っ切った。
 何もかも、納得がいかなかった。
「やるなーテリオン、ここに盗みに入ったんだって? やっぱ腕いいんだなあんた」
「あたしこういうお屋敷は初めてよ。は〜お金持ちそうね……」
「トレサさん、商談はテリオンさんのお話の後にしましょうね」
 おまけに余計な荷物が三人もくっついている。ただでさえ低空飛行のテリオンの機嫌は下降する一方だった。
 何故、こんな不本意な旅を続ける羽目になっているのだろう。どこまでも思い通りにならない道行きに、彼は小さくため息をつくことしかできなかった。
 直近に訪れたノーブルコートの町で、テリオンは無事に一つ目の竜石——赤竜石を手に入れた。
 その過程において、薬屋たちや学者一行の存在が大いに助けになったことは、悔しいが認めざるをえない。竜石の在り処の特定、屋敷へ侵入する方法の調査、交渉材料の調達。どれも面倒な作業であり、テリオン一人では倍以上の時間がかかったはずだ。何よりも、最終的に竜石の前で現在の所有者と対峙した際、数の有利を勝ち取れたことが一番大きい。
 兎にも角にもテリオンは手に入れた赤竜石をボルダーフォールに返しに行く必要があった。持ち歩いていても仕方ないし、他の竜石を探すにしてもまだ所在地を知らされていなかった。
 テリオンとしては是非とも一人で屋敷に戻りたかったのだが、七人もいる旅の連れのうち、何故か三人も「一緒に行く」と立候補してきた。薬屋と商人と神官である。理由など知りたくもない。唯一、あの学者がついてきていないことだけは、テリオンにとってほんの小さな慰めであった。
 近頃ではすり寄ってくる彼らをいちいち断るのも面倒になってきたので、こうして屋敷への同行を認めているというわけだ。
 それにしても、以前は窓から侵入した屋敷に、まさか真正面から入ることになるとは。盗賊の誇りなど欠片もない事態に、顔が引きつる思いである。
「お待ちしておりました」
 大げさな玄関をくぐると、ヒースコートが出迎えた。かっちりとしたジャケットを着こなし、折り目正しく一礼する。以前この老執事に一杯食わされたテリオンは、大きく息を吸って気を静めた。
「戻った」
 つかつかとヒースコートに歩み寄り、持っていた宝玉を渡す。
 赤竜石というだけあって血よりも深く鮮やかな紅色をしている。これほど冴えた光を放つ逸品をテリオンは今まで見たことがなかった。単純に宝石として相当な価値があることが分かる。
 しかし、不思議なのはその加工法である。普通、宝石というものはより美しい輝きを得るために原石に特殊なカットを施し、多面体に成形するものだ。それなのに竜石は寸分の狂いもない完璧な球形をしている。レイヴァースの屋敷に残っていた青竜石もそうだったが、極めて珍しい形状だった。どの程度丸いものかと試しに宿の床に置いてみたら、壁まで一直線に転がっていった。床が傾いていたらしい。
 これを見た商人は「うーん、宝石としての価値を高めるならこの形じゃないほうがいいわよね。大きすぎて加工しづらかったのかしら?」と言い、ついでに学者は「もしかすると、何らかの力を引き出すためにあえて球形を選んだのかもしれないね」と述べていた。どうであれテリオンには関係のない話だ。
「こいつが赤竜石だな」
 念のため確認すると、ヒースコートは受け取った宝石をためつすがめつして、うなずいた。
「確かに、間違いございません」
 それならもう用は済んだだろう。
「次の目的地を教えろ」ちょうどあのお嬢様もいないことだし、さっさと帰ってしまおうと催促すれば、
「そう急ぐことはありませんよ」
 物腰は柔らかいが、有無を言わせぬ迫力がある。テリオンは思わず固まった。罪人の腕輪をはめられた時の記憶がフラッシュバックしたのだ。いい加減、この苦手意識をなんとかしたい。
「お茶の準備ができております。皆様どうぞこちらへ」
 ヒースコートはうやうやしく腕を広げる。その言葉はテリオンの後ろにも等しく向けられていた。
「え、俺たちもいいのか——いいんですか?」薬屋が慌てて言い直した。
「テリオンのお仲間なのでしょう? お嬢様がお会いしたいと申しております」
 ……正直、こうなるだろうとは思った。テリオンは諦めの息を吐く。
「すっごーい、本物の執事よ執事」
「こんな立派なお屋敷のご招待を受けるなんて夢みたいです」
「悪ぃなテリオン、俺らまでごちそうになっちまってよ」
 三人はもう完全にくつろいでいく気になっていた。テリオンがどれだけ恨めしい気持ちでにらんでもまるで堪えた様子がない。
 ヒースコートに案内された先は、陽光がさんさんと降り注ぐテラスだった。大きなテーブルが設えられ、そこに人数分のティーセットと茶菓子が用意してある。レイヴァース家当主のお嬢様がこちらに気づき、椅子から立ち上がった。
(いくらなんでも、準備が良すぎないか)
 そもそも何故こちらの人数まで把握しているのだ。そういえば今回、屋敷訪問のお膳立てをしたのはテリオンではなかった。
 ——コーデリアさんには、私から手紙を書いておくよ。キミたちの到着時期についてあらかじめ知らせた方がいいだろう。
 ノーブルコートで別れる直前、あの学者はそう言っていた。竜石奪還に成功したことだけでなく、訪問人数についても手紙で伝えたのだろう。まったく余計なことをしてくれる。
 当主は眩しそうに目を細めてから、改まって頭を下げる。
「テリオンさん、みなさん。この度は竜石を取り戻してくださり、ありがとうございました」
 日を透かす金髪にエメラルドグリーンのドレス。容貌も服装も磨き抜かれており、いかにも深窓の令嬢といった雰囲気だ。とてもではないが、屋敷に罠を張って盗賊をつかまえようとするタイプには見えない。テリオンはそんな彼女らに見事に騙されたのだが。
 礼を言われて薬屋は照れたように頭をかき、商人と神官は「あたしは別になんにもしてないわ」「テリオンさんのおかげですよ」などと返していた。
「本当に、みなさんにはなんとお礼を言ったらよいか……」
「お嬢様。テリオンは約束どおりに取り戻してきただけです。それに戻ってきたのは赤竜石のみ。まだまだねぎらうには早いかと」
 お仲間の方々に関しては別ですがね、と脇に控えていたヒースコートは皮肉っぽく付け加える。
 そもそも竜石の奪取は取引きの条件であり、礼を言われるのはお門違いだ。テリオンもここは老執事の意見に賛成である。
 当主はなおもこちらをチラチラ気にしていたが、
「でも……いえ、すみません。せっかくヒースコートが淹れてくれたお茶が冷めてしまいますね。どうぞ、お座りください」
「ならテリオンさんがお嬢様のお向かいよね」と商人が進言したせいで、当主の正面に座ることになってしまった。
 金の縁取りが施されたカップにも、甘ったるい匂いの焼菓子にも、手をつける気はない。テリオンはそのまま椅子の背にもたれかかり、腕を組んだ。
「ご招待してくださりありがとうございます、レイヴァース様」
 一行を代表して神官が挨拶する。こういう場所でも如才なくふるまえるのは、神官として積んだ教養のおかげなのか。
 当主はふわりとほほえむ。
「コーデリア、で良いですよ。私もみなさんのお名前をお聞きしてもよろしいですか?」
 おうよ、と返事をした薬屋から順番に自己紹介をしていく。その間テリオンはクリフランドの乾いた山々を眺めていた。
「他にも四人仲間がいるんだぜ。今は別行動してるけどな」
「まあ、そうなのですね」
 当主はこちらににこやかなまなざしを向けた。黙って当主の後ろに立つヒースコートも生暖かい目をしている。テリオンはその無言に含まれた意味を察してしまった。要するに「仲間ができて良かったですね」とでも言いたいのだろう。
 ——冗談ではない。第一、彼らは仲間でもなんでもないのだ。
 紅茶を一口飲んで、当主が言った。
「ノーブルコートでみなさんがどのように赤竜石を手に入れられたのか、是非教えてください」
 待ってましたとばかりに薬屋と商人が身を乗り出し、神官の補足を交えて順番に語り出した。
 前情報の通り、ノーブルコートではオルリックという学者が赤竜石を所有していた。しかし彼は竜石研究のために屋敷に引きこもっていて誰も近づけない。そこでテリオンはオルリックと仲違いしたかつての共同研究者バーラムを見つけ、実験素材の入手と引き換えに屋敷への侵入方法を教えてもらった。
 あのバーラムたちは昔「兄弟」と呼び合う仲だった——己の嫌な過去まで思い出してしまい、テリオンは苦虫を噛みつぶす。
「んで、実際に屋敷に入ったのはテリオンとトレサとあと二人で、俺とオフィーリアは待機してたんだ」
「わたしもテリオンさんのお芝居と鍵開けを見たかったです」
「すごかったわよー、芝居はもう顔つきから声まで全部変わってたわ。鍵開けだって、どんな扉でもあっという間だったもの」
「まあ、わたくしの仕掛けた罠をくぐり抜けるくらいですから、そのくらいはできないとね」
 ヒースコートは横からいちいち嫌味を挟んでくる。
 水晶の鍵で守られた研究室には、テリオンと商人、それに剣士と学者というメンバーで侵入した。いよいよ赤竜石を手に入れるという直前、手下を引き連れたオルリックと鉢合わせてしまったが、戦力が揃っていたおかげでなんなく相手を昏倒させて竜石を奪った。
(そういえばあいつ、何かをお嬢様に渡せとか言ってたな)
 オルリックを倒した後、学者は何故かおもむろに研究室の本棚に歩み寄って一冊の本を抜き取り、「コーデリアさんに渡してくれないかな」とテリオンに託した。
「これを」
 テリオンは外套の中からそれを取り出し、真正面の当主に向かって押し出す。
「まあ、この本は……サイラスさんが取り戻してくださったのですね!」
 当主は嬉しそうに本を掻き抱いてから、「では、もしかしてテリオンさんはサイラスさんと一緒に旅を……?」
 何故だかそれを認めたくなかった。テリオンはこのテラスに来てからほぼ初めてまともに口を開く。
「あんたとあの学者はどういう関係なんだ」
 両者の間に何らかのつながりがあることは分かっていた。直接学者に聞けば教えてくれるだろうが、テリオンとしてはそれは避けたかった。まだこちらに尋ねたほうがマシだ。
 当主の口から学者の名が出たことに驚いていた薬屋たちも、首をかしげて返事を待つ。
 集まる視線の中心で当主はぱちぱちと瞬きし、ひとつうなずいた。
「そうですね。みなさんにもお教えした方がいいでしょう」
 彼女が語り出そうと息を吸った、ほんの刹那。
 テリオンは、竜石を巡る旅のはじまりとなったあの日——レイヴァースの屋敷に侵入した時のことを思い出した。



 盗賊殺しとはよく言ったものだ。
 今までも大層な呼び名のついた屋敷には何度も侵入してきた。たいてい、予想に反して拍子抜けするレベルだった。しかしレイヴァースの屋敷は違った。衛兵や番犬に対しては当然のごとく対策を練っていたテリオンも、魔導機の配備までは想定していなかった。一体これでどうやって普通の生活を送るのだ、と訊きたくなるほどの過剰防衛である。酒場の店主から聞いた噂の通りだ。それだけ素晴らしい宝物が眠っているに違いない。
 とはいえ所詮は人間の考えること、完全に死角のない警備などありえない。テリオンはえさで番犬を誘導し、衛兵の交代の隙を狙い、時には魔導機を破壊して、最奥の広間にたどり着いた。
 そこには四つの台座が並んでいる。埋まっているのはひとつだけのようだが——唯一宝物が置かれた台座の前に、その男がいた。
(屋敷の者か……?)
 肩に羽織った黒いローブには金糸の刺繍があり、だいたいの身分が知れた。レイヴァース家の当主にしては若すぎるか。男は熱心に宝物を観察しているようで、当然テリオンには気づいていない。その背中はいかにも無防備に見えた。
(適当に気絶させるか)
 最悪、奇襲に失敗しても後ろから剣を突きつければおとなしくなるだろう。一人くらいならいくらでも無力化できる。
 だが、テリオンはここにきて慎重になりすぎていたらしい。宝物を目の前にしての思わぬ障害の登場に、知らず知らずのうちに調子を狂わされていたのか。とにかく彼は判断を誤り、柱の陰に長くとどまりすぎた。
 魔導機というものは定点型——すなわち一箇所にとどまり警戒を続けるものと、巡回型——一定のルートをぐるぐる哨戒するものにわかれる。レイヴァースの屋敷に配備されたものは定点型ばかりだったので、テリオンは後者の可能性を見落としていた。
 はっとした時には、巡回型の魔導機が背後に忍び寄っていた。察知してすぐに身を翻し、短剣を突き刺す。警報が鳴る寸前に仕留められたが、ぱきりという破壊音は予想外に大きく広間に響き渡った。
 はっとして目を戻す。ローブの男が振り返り、こちらを注視していた。
 一瞬、時間が凍った。テリオンはその青い双眸にエレメントの光が宿るのを見た。
「氷よ——切り裂け」
 落ち着き払った声とともに、一切の躊躇なく魔力の束が浴びせられた。テリオンはとっさに床に身を投げ出す。槍のような氷が床から突き出し、半瞬前まで彼がいた場所を貫いた。逃げそこねた外套の裾がたちまち凍りつく。
(こいつ……!)
 テリオンは素早く体勢を立て直す。魔法を扱うとは、また厄介な相手だ。
「キミは侵入者だね」
 男はおもむろにそう断定し、片手に本を持って立ちふさがる。はためくローブの向こうには青い宝石が見えた。あと少しなのに、手が届かない。
 テリオンは相手の正体をはかりかねていた。格好からして警備の者ではないだろう。だが屋敷の住人とも思えなかった。男は背後の宝石を、まるで初めて見るもののように扱っていたからだ。それなら一体何なんだ、この男は?
(いや、考えてる場合じゃないな)
 のんびりしていたらまた魔法が飛んでくるだろう。剣か、それとも短剣で攻めるか。瞬時に判断し即座に短剣を振りかぶれば、男は杖を翻し迎え撃つ。が、相手は受けそこねてよろめいた。幸いにも身体能力は大したことはなさそうだ。このまま接近戦に持ち込めば——
 二撃目を叩き込む直前、小さく男の唇が動く。
(後ろか!)
 ひやりと冷気を感じて飛びすさる。ギリギリのところを太い柱が突き上げた。どこから氷が湧き出すのか、まるで予測できない。
 テリオンは戦いながら違和感を覚えていた。何故かこの相手からは殺気や怒りを感じない。冗談かと思うほど整った顔の下で何を考えているのか、まるで読めなかった。それなのに表情は静かに澄みきっている。
 一旦距離をとり、二人はひたとにらみ合う。テリオンは形勢の悪さを悟らざるを得なかった。
「お二人とも、そこまでにしてください」
 唐突に、しゃがれた声が広間を通り抜けた。背筋の通った老人がゆっくりと歩いてくる。仕立ての良い服に身を包んでおり、ひと目で屋敷の者と知れた。
「ヒースコート氏」
 黒いローブの男は老人にそう呼びかけた。
 新たな敵は年齢にそぐわず、身のこなしにまったく隙がなかった。足音もほとんどない。おまけに声を発するまでテリオンに気配を悟らせなかった。そのあたりはローブの男と違い、相当な手練のようだ。
 ヒースコートと呼ばれた老人はローブの男に目を向ける。
「調査は切り上げてください。どうか、わたくしと彼を二人きりにしていただけませんか」
「……そうですね、私はこれで失礼します」
 男はあっさりうなずくと、靴音を響かせて去っていった。
(なんだったんだ、今のは)
 調査がどうという話といい大層なローブといい、もしや学者なのか。なおさら何故こんな場所に?
「——さて。ここまでたどり着くとは、あなたは素晴らしい腕をお持ちですね」
 老人はテリオンに考える暇を与えなかった。こちらが盗賊であることは承知済みのようだ。やはり屋敷の警備を預かる者と考えていいだろう。
 このヒースコートだが、ある意味では学者よりよほど厄介な存在であった。すれ違いざまにテリオンに罪人の腕輪をはめるという離れ業をこなし、彼が竜石奪取の旅に赴く直接のきっかけとなった。
 屋敷で対峙した学者とは、その存在を忘れかけた頃になって、赤い果実の実る村で再会することになる。



「サイラスさんがアトラスダムの学者さんということはご存知ですよね。彼はあの日、我が家の竜石について調べにいらっしゃったのです」
 商人であれば信用状がなければ通さないところだが、学者はウォルド国王直筆の書状を持っており、この上なく身元がはっきりしていた。そうなると話は別だ。
「そして、サイラスさんは屋敷から竜石とともに盗まれた本を取り戻すことを約束してくれました」
 当主はそっと本の表紙を撫でる。こちらも竜石にまつわる書物らしい。学者はオルリックの屋敷でそれを見つけ、ボルダーフォールに戻るテリオンに託した。
(そういうことだったのか……)
 となるとフラットランドであの村に立ち寄らなくても、どのみちどこかで出くわしていたかもしれない。どうやらこの屋敷をターゲットに定めた時点で、テリオンは大きな失敗を犯していたらしい。そのせいで、本来なら決して交わるはずのない旅路が交差したのだ。
「テリオンさんとサイラスさんが竜石の前で武器を交えていた、と後からヒースコートに聞いて驚きました」
 当主が不要な一言を付け足したおかげで、「どういうこと?」と商人が首をひねる。
「サイラス様をお招きする際、屋敷に盗賊が忍び込んでくるかも知れない、という話は伝えておりました。彼も警戒されていたのかもしれませんね」とヒースコートが言い添える。
 それにしては、あの時の学者からは何も感じ取ることができなかった。ただただ落ち着いて目の前の出来事に対処していたようだった。彼が何を考えていたのか、テリオンにとっては未だに謎である。
 当主は両手を組み合わせ、どこか夢見るような目つきになった。
「それにしても……テリオンさんにもたくさんお仲間ができたようで、良かったです」
 もしや、それは「テリオンが学者と旅をしている」という話を受けての発言か。「どこがだ」と思わず口に出しそうになった。代わりに薬屋がいやに嬉しそうに「だろ〜?」と答え、商人たちは何度も首を縦に振る。
 そこで、何故か当主はうつむいた。やがて意を決したように、忠実な執事に向き直って、
「あの、ヒースコート……やはり腕輪は外してあげても良いのでは?」
「余計な気遣いはやめてくれ」
 テリオンは間髪入れずにそう返した。このお嬢様は、自ら持ちかけた取引きの内容を忘れたらしい。
「それに、腕輪が外れれば俺が逃げ出すとは思わないのか」
「……そうは思いません」
 当主はまっすぐに見つめ返し、言い切った。「物事を途中で投げ出すような方に、テリオンさんは見えません」
 その瞬間、煮えたぎるような思いがかっと全身を駆け抜けた。
 あんたは簡単に人を信じすぎだ。世間知らずのお嬢様に一体何が分かる——感情のままに言葉を投げつけそうになって、薬屋たちやヒースコートの視線に気づき、かろうじて抑えた。
 代わりにこう告げる。
「どれだけ信じようと、人は裏切る。裏切られてから泣いても遅いんだ」
 言ってしまってから失敗に気づいた。唇を噛む。今の発言は心の裡をさらけ出したようなものだ。現に薬屋が「おい、テリオン……」と声を上げる。
「お嬢様、そこまでです。テリオンの言う通り、腕輪はまだ外すべきではありません」
 ヒースコートはこちらにやってくると、無造作にテリオンの右腕を掴み、腕輪に触れた。魔力で縛られた罪人の腕輪だ。一応あの学者にも見せたが、「それは術者にしか外せない魔法具だね」と説明された。つまり解錠できるのはこの老執事だけだ。
 テーブルを囲む皆がまじまじと腕輪を見つめている。耐えきれずにテリオンの顔が熱くなった。ヒースコートの手を振りほどき、すぐに外套の下に隠す。
 それまで黙りがちだった神官が、不意に声を上げた。
「安心してください、コーデリアさん。テリオンさんは腕輪があってもなくても、頼まれたお仕事はやり遂げる方です」
「あたしたちもいるしね!」商人も調子よくうなずく。
 何を勝手なことを——と神官を見やったテリオンは、彼女のブラウンの瞳に宿る力強さに一瞬たじろいだ。
 神官はレイヴァース家当主と穏やかに目を合わせる。この二人、どこか似ている。いやに落ち着いた雰囲気をまとっているからか。それだけでなく——
「オフィーリアさんもそう思いますか?」「ええ」
 無防備に他人を信じられるところが、そっくりなのだ。
 まったく、どうして神官などが旅の連れになってしまったのだろう。しかも彼女はあろうことか、今回の式年奉火の担い手だった。
 テーブルの上に置かれた青い炎は、物言わずとも特別な存在感を放っている。それこそが今、大陸中の注目を浴びる聖火の種火だった。
 テリオンはボルダーフォールを発つ時点で、近々フレイムグレースから式年奉火の儀式がはじまることを把握していた。情報の正しさを証明するように、聖火騎士や巡礼者も明らかにそちらに流れていた。だから人目を避けるため、中つ海を南まわりにノーブルコートを目指したのだが——結局その努力は無に帰した。
 忍び込んだ屋敷では学者に出くわし、うまく式年奉火を避けたつもりが今度は薬屋と当たり、最終的に運び手の神官本人が旅の連れになる。テリオンの旅は失敗と判断ミスの連続だった。
「……それで、次の竜石はどこにある」
 これ以上自分の話題を続けられるのは都合が悪い。いい加減しびれを切らしたテリオンはヒースコートに話を振った。
「探りを入れている最中です。分かり次第、手紙か使いを出してお知らせしますよ」
 ここまで無駄に時間を割いておいて収穫なしとは。肩を落としたい気分だった。
 しばらくテリオンの旅の目的は宙に浮いたままというわけだ。そろそろ学者の交換条件に付き合う必要が出てきそうだ。
 テリオンは問答無用で立ち上がった。もちろんカップにも茶菓子にも手を付けないまま。
「えーっもう行くの?」「もっとゆっくりして行こうぜ!」
 招待された身分で勝手なことをのたまう商人たちに、「こんな場所にこれ以上用はない」と告げた。
 三人は渋々席を立った。最後に神官が深々と礼をする。
「コーデリアさん、ヒースコートさん、この度は楽しい時間をありがとうございました。お茶もお菓子も美味しかったです」
「いえ、こちらこそ。ボルダーフォールにお立ち寄りの際は、またいつでもいらっしゃってください」
「やったあ!」「またなーコーデリアさん!」
 テリオンはだらだらと続く別れの会話を耳に入れず、すぐにテラスを後にした。見送るヒースコートももう何も言わなかった。
 もはや、今の自分を取り巻くあらゆる環境が気に食わなかった。
 誰かを信じても裏切られるだけ。それなら最初から信じない方がいい。そう決めている彼のまわりには、屋敷の当主や運び手の神官、あるいはあの学者のように、何かを強く信奉する者たち——理解不能な人々ばかりが増えていく。
 大股で歩いて屋敷を出る。クリフランドの乾いた風を浴びると、少しだけせいせいした。
「待ってください、テリオンさん」
 当主との別れを済ました神官が追いかけてきて、隣に並んだ。何か用かと横目で見れば、無言でほほえまれる。
(本当に、なんでこうなったんだ……)
 すべてを信じるブルーの瞳に送り出され、今こうして何もかも見透かすようなブラウンの瞳がそばにある。それは不可解で不愉快なだけでなく、時々テリオンを空恐ろしい気分にさせるのだった。

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