ヒスイをキミの手のひらに



「みなさん、テリオンさんのことをよろしくお願いします」
 レイヴァース家の当主コーデリアが別れ際に残した言葉は、特別な重みを持ってオフィーリアの胸に響いた。
 よろしく、と言われた。それも竜石ではなくて、仲間の一人であるテリオンのことを。
(テリオンさんは、とても大切に思われているんですね)
 お茶会の間ずっと苦々しい顔をしていた本人は、すでにテラスを出ている。彼を追うべく、オフィーリアはコーデリアに再度礼を言ってその場を辞した。
 オフィーリアにとって今回のお茶会は貴重かつ、とても楽しい時間だった。テリオンの旅立ちのきっかけや、サイラスと屋敷で出会った経緯など、今まで知らなかった仲間の一面に触れることができた。
 何よりも、屋敷の人々があたたかい。コーデリアたちと話していると、反射的にフレイムグレースで待つ家族を思い出してしまった。テリオンの旅立つきっかけがこの屋敷で良かった、と心から思えた。
 屋敷を出れば、遠ざかる紫の外套が見えた。いつもより大きな足音を立てて歩くテリオンの隣に並んだ。後ろからはアーフェンとトレサが追いかけてくる。
 今日はボルダーフォールに宿を取り、明日にはサイラスたちと合流するため再び旅立つ予定だった。勝手にいなくなろうとするテリオンを引き止め、四人は輪になって話し合う。
「それでは、一時間後に酒場に集合ということでよろしいですか」
「分かったわ。それまで何しようかな」
「俺は薬の材料仕入れてこねえと」
「あ、それあたしも付き合う!」
 アーフェンとトレサは仲良く連れ立って町に繰り出していく。自然、オフィーリアはテリオンと二人で取り残された。
 いい機会だ。この自由時間に、オフィーリアは彼と話をするつもりだった。
「レイヴァースのお屋敷の方々は良い人ばかりですね」
 いつまで経っても彼女がどこにも行かないので、やがて諦めたようにテリオンは口を開いた。
「盗賊に腕輪をはめてこき使うようなやつらだぞ」
 彼の言葉は首元を覆うマフラーに吸い取られて少し聞き取りづらい。しかし、そんな状態でもはっきり分かるほど、今の声は普段より何割増しか不機嫌そうだった。
「最初からテリオンさんのことをよく知っていれば、そうする必要もなかった……とコーデリアさんは言いたかったのではないでしょうか」
 テリオンはすうっと緑の目をすがめた。
「あんたやあのお嬢様に、俺の何が分かるんだ」
 深く乾いた拒絶の言葉。その声がもう少し強い調子であれば、オフィーリアもひるんだかもしれない。だが今の語調はやや弱く、テリオンの抱えたどうしようもない切実さがにじんでいるようだった。
(もしかして……テリオンさんは、誰かに自分の気持ちを分かってほしいのでしょうか)
 リンゴの実るあの村で、サイラスが酒場に連れ帰ってきたテリオンはいきなり「自分は盗賊だ」と告白した。サイラスはそれを知っていて協力を依頼したらしい。その時点で、オフィーリアはもうテリオンを信じることに決めた。一緒に行動してしたトレサもすっかり懐いたようだったし、何よりもテリオンが己の罪状を告げる淡々とした態度には、どこか苦いものがあるように見えた。
 盗賊行為に対して開き直ることなく、「ろくでもない生き方だ」と認識し、それでも誇りを持って腕を磨く。それがどういった心持ちによるものなのか、まだオフィーリアには消化しきれない。
「今のわたしには分かりません。これから知っていきたいと思っています。それではいけませんか」
 正直に伝えると、テリオンはかぶりを振った。
「いい加減にしてくれ……」
 すべてを諦めたような言い方だった。だがオフィーリアはいい加減になどするつもりはない。まだ交わすべき言葉はたくさんあった。
「テリオンさんは、以前からサイラスさんとお知り合いだったのですね。わたしとハンイットさんもあの時ボルダーフォールにいましたが、このお屋敷には来なかったのです」
 だからテリオンと鉢合わせすることはなかった。彼はその時のことを思い出したのか、どこか遠い目になって、
「あの学者と関わるとろくなことがない」と慨嘆した。
 ろくなことがない——そうだろうか。オフィーリアの胸にむくむくと反抗心が湧き上がってくる。
「テリオンさんはきっとサイラスさんのことを勘違いされていると思います」
「は?」
「わたしはあの人がいなければ、今この場に立っていません」
 テリオンがサイラスを嫌っているのは、普段の様子からもなんとなく伝わってくる。だが、その判断はいささか一方的すぎるのではないか。
 オフィーリアはまぶたを閉じて、フレイムグレースで過ごした最後の夜を思い浮かべた。
「少し座ってお話しませんか。わたしがサイラスさんと出会った日のことを、お伝えしたいのです」
 それは賭けだった。にべもなく断るかと思いきや、テリオンは少し間を置いた末にうなずいた。
 二人はボルダーフォール名物といえる急勾配の階段を降りて区画を移動した。道端に置かれたベンチにテリオンを促す。彼はきっかり一人分の隙間を開けてオフィーリアの横に座った。
 彼女はゆっくりと唇を開く。
「わたしは、サイラスさんのおかげでこうして式年奉火の旅に出られたのです」



 ちらちら雪の舞う静かな夜、オフィーリアはフレイムグレースの町を小走りで駆け抜けていた。焦りで燃え上がった頬は、触れる前に雪が溶けてしまうほどに熱い。
 ——ヨーセフ大司教が倒れた。娘のリアナは今年の式年奉火を執り行う予定だが、すっかり気が動転してしまった。このままでは、とてもではないが父親から遠く離れて旅立つことなど不可能だ。それでも採火を行う日取りや運び手はずっと以前から決まっており、今更動かすことはできない。
 打ちひしがれたリアナを前に、オフィーリアはふと突飛な案を思いついた。
(もし、わたしが採火を行えば——)
 式年奉火の儀式では、種火を手に入れた者が正式な運び手となる。ならばオフィーリアが代わりにこっそり種火を取りに行くのはどうか。
 しかしそれには大きな障害があった。種火を守る原初の洞窟には、二名の聖火騎士が常駐している。部外者は当然門前払いだ。彼らを一体どうごまかせばいいだろう。
 堂々とリアナの代理であると名乗り、正面から原初の洞窟に立ち入るのは? 自分にそれができるほどの度胸があるだろうか。万一嘘だとばれたら、怒られるだけではすまない。
(でも、今のリアナをヨーセフ大司教様から離したくありません……!)
 大切な家族と過ごす時間は限られている。戦災孤児のオフィーリアはそれをよく知っていた。だから、自分勝手な願いと分かっていながら、種火を取りに行くことに決めた。
(誰か、人を連れて行きましょう)
 聖火教の神官には迷える人々を導く行為が許されている。快く協力してくれそうな人を見つけて洞窟まで導こう。
 そういえば、年若い運び手であるリアナには、今回付き添いが一人つくという話だった。その人物は教会の依頼を受けて町の外から来るらしいが、まだ大聖堂に到着しておらず、オフィーリアは顔も名前も知らなかった。もしその人物がここにいてくれたら、真っ先に協力を依頼できたのだが——今となっては仕方ない。
 この時間に人が集まる場所というと酒場だろうか。そうだ、フレイムグレースにやってきた巡礼者や旅人なら、町の人々と違ってあまり細かい話を気にせず手を貸してくれるかもしれない。
 酒場の看板を見つけたオフィーリアは息せき切って駆け込もうとした。
 ドアノブに手を伸ばした瞬間、扉が勝手に開いた。彼女は前のめりになり、そこから出てきた人にぶつかった。
「きゃっ」
 雪の上に倒れる——と思った時、伸ばされた腕に体を支えられた。
「大丈夫かい?」
 夜を切り取ったような漆黒のローブが雪景色の中に浮かぶ。この町でめったに見られない青空を思わせる瞳が、オフィーリアを見下ろしていた。
 その男性はびっくりするほど端麗な容姿をしていた。酒場から漏れる薄明かりに、聖画から抜け出してきたような顔立ちが照らされている。オフィーリアはしばしぼんやりと彼を見上げた。
「……あ、す、すみません!」
 頬に落ちた雪の冷たさで我に返り、慌てて体を離した。
 幸いにも相手の男は気にしていないようだ。朗らかにほほえむ。
「怪我は……していないようだね。こちらこそすまなかったよ」
「いいえ」と首を振りながら、オフィーリアは相手を観察した。
 おそらく、この町に到着したばかりの旅人だ。何故なら羽織ったローブは分厚いが、明らかに防寒が甘い。それでも寒そうにはしていないので、ある程度慣れているのかも知れない。
「キミは聖火教の神官だね」男は自然に会話を続ける。
「はい、そうです」
「もしや、式年奉火の運び手となる方のことを知っているだろうか」
 オフィーリアは瞠目した。
「それは……わ、わたしです」
 思わず胸を手でおさえ、そう名乗っていた。「ちょうどこれから原初の洞窟に向かうところなのです」
 これは賭けだ。町の人間なら、まず間違いなくリアナが真の運び手であることを知っている。彼はどうだろう——
 男の形の良い眉がぴくりと動く。疑われたかとオフィーリアが一瞬危惧した時、
「そうなのかい!」
 彼は顔を輝かせ、身を乗り出した。大人びた第一印象と違い、笑み崩れた表情は子供のように屈託がなかった。
「ならば、是非とも私を洞窟へ連れて行ってもらえないだろうか」
「えっ?」
 突然の申し出に固まってしまう。男はその動揺を別の意味に受け取ったらしく、優雅に一礼した。
「ああ申し遅れたね、私はサイラス・オルブライト。アトラスダムから来た、見ての通りの学者だ」
「ええと、わたしはオフィーリア・クレメントです」
 サイラスと名乗った学者は目を細める。
「それで、どうだろう。やはり式年奉火の秘蹟は、部外者には見せられないものなのだろうか」
 落ち着いた声に反して、サイラスのまなざしには星がきらめいている。それを真正面から浴びてオフィーリアはくらくらした。
「……いえ。むしろ、わたしからお願いしたいくらいです」
 ここでサイラスと出会ったのも聖火神の導きだ。オフィーリアは彼に賭けてみることにした。杖を振り、雪の上をとんと叩く。それは教会に伝わる導きの仕草だ。
「わたしと一緒に原初の洞窟に来ていただけませんか」
「喜んで。ありがとう、オフィーリア君」
 なんだか耳慣れない呼び名だった。くすぐったくなってしまう。
 二人は雪道を踏みしめ、フレイムグレースを出て、すぐそばの山の麓にある洞窟に向かった。
 並んで歩きながら、オフィーリアは隣の黒いローブをちらと見やる。彼は魔導書らしきものを小脇に抱えていた。
「サイラスさんは旅人なのですよね」
「ああ。いくつか魔法が使えるよ」
「原初の洞窟の内部では、種火を得るための試練が待っているそうです。ですが、わたしはあまり戦いに慣れていなくて……足手まといになってしまうかも知れません。代わりに、聖火神様の奇跡に預かり、傷を癒やすことはできます」
 洞窟で待つ試練の話は、リアナの旅の準備を手伝った時に知った。後出しで説明することになってしまい、申し訳なさがこみ上げる。
 だがサイラスは「本当に、こうして二十年に一度の儀式に携わることができるのだね……」としみじみ別のことに感動していた。少し気が抜けてしまう。
 やがて洞窟の入口が見えてきた。左右に分かれた聖火騎士二名が厳重に守っている。
 この奥にエルフリック神がもたらした原初の炎がある。オフィーリアはこっそりつばを飲み込んだ。
 ここからが本番だった。隣のサイラスにうなずきかけ、意を決して歩を進めた。
「オフィーリア様……?」
 近づいてくる彼女に聖火騎士は怪訝そうな顔をした。当然の反応だった。なんとかして乗り切るしかない。
「たとえ聖火教会の関係者といえど、式年奉火以外での立ち入りは厳禁ですが」
「わたしがその、式年奉火の担い手です」
 言い切ってしまうと、聖火騎士たちは顔を見合わせた。
「どういうことですか? リアナ様と交代されたのですか」
「……はい」
「こちらはそのような連絡は受けておりませんが——」
 元来嘘のつけないオフィーリアではもうごまかしきれなかった。口を閉ざし、ぎゅっと目をつむった。
 その時。
「連絡に手違いがあったようだね、オフィーリア君」
 後ろから静かな声が降ってくる。神官服の肩にあたたかい手がそっと置かれた。
「サイラスさん……?」
「あ、あなたは?」
 聖火騎士たちも急に前に出てきた学者にあっけにとられている。
「失礼。私はこういう者だ」
 サイラスがさっと荷物から取り出したのは、手紙のようだった。聖火騎士は手元のランタンで照らしてそれを読み、驚愕に目を見開く。
「これは……なるほど、あなたがそうだったのですか!」
「ああ。運び手がオフィーリア君に代わったのは事実だよ」
「失礼しました。どうぞお通りください」
 あまりに劇的な変化だった。聖火騎士は深々と敬礼すらして、二人を迎え入れる。
 オフィーリアは化かされたような気分で洞窟に入り、肩の雪を払うサイラスに尋ねる。
「あ、あの、今のはどういうことなのですか」
 サイラスはほほえみ、先ほどの手紙を渡してきた。
 そこにはこう記されていた。サイラス・オルブライトはウォルド王国から派遣された、式年奉火の記録係である、と。
 そうか、彼がリアナの付き添いだったのだ! 驚くと同時に、あることに気づいたオフィーリアは蒼白になる。
「……では、わたしが嘘をついていることは最初から分かっていたのですね」
「運び手の名前は知っていたから、キミが名乗った時点でね。だが、キミにも何か事情があるのだろう。良ければ話してもらえるかな」
「は、はい」
 オフィーリアは、自分が運び手になろうと考えた経緯について、洗いざらい話した。
 最後まで話を聞き、サイラスはそっとまぶたを下ろす。あたたかな闇の中で長いまつげが震えた。
「教皇様や大司教様には後で私が話そう。キミはひとまず、この洞窟で種火を得ることに集中するんだ」
 ここには種火の守り手がいるようだから——サイラスの言う通り、誰かに見守られているような視線を感じていた。
 杖を握り直す。種火のもとに向かう前に、もう一つ彼に尋ねておく必要があった。
「サイラスさんは、どうしてわたしを助けてくださったのですか」
 素性を偽ったオフィーリアに対し、事情も聞かずに協力して、聖火騎士を説得してくれた。それは何故なのだろう。つい先ほど出会ったばかりなのに、サイラスにはどんな感謝の言葉も釣り合わないほどのことをしてもらっている。
 彼はゆるゆると首を振った。
「少なくとも、キミが私利私欲で運び手の地位を欲しているようには見えなかった。それにキミの噂は町中で聞いたよ。リアナさんとともに人々の尊敬を集めている、とね」
「まあ……」
 そうか、自分は多くの人に助けられていたのだ。ぽうっと胸に火が灯るようだった。
「では、行こうか」
 サイラスはランタンを持って前に立つ。それはオフィーリアを守るためでもあり、未知の場所を思う存分探検するためのようでもあった。
 その証拠に、肩越しにこちらを見る彼の横顔はこんなにも好奇心で輝いている。
「はい。よろしくお願いします、サイラスさん」
 オフィーリアは笑みをこぼし、頼もしい黒い背中を追いかけた。



「……だから、あの学者はいいやつだとでも言いたいのか」
 オフィーリアの旅のはじまりの話を、テリオンは案外おとなしく聞いていた。長話は嫌いらしいとサイラスは言っていたのだが。
 切り立った崖に目線を投げて、オフィーリアははるか遠くのフレイムグレースに思いを馳せる。
「いいえ、そうではありません。人はそれぞれ別の視点を持っています。誰しも、見えるものが違うのです」
 ただ一つの側面だけを見て、誰かを「こういう人だ」と断定はできない。特にサイラスは多くの面を持っていて、まだオフィーリアにも見せていない部分がたくさんあるようだった。
 彼がどのような人物かはまだ断定できないけれど、それでもあの時オフィーリアを助けてくれたのは確かだ。彼女はかつて自分を孤独からすくい上げてくれた大司教やリアナたちへ抱く気持ちと同じように、旅へ連れ出してくれたサイラスにも感謝しているし、その助けになりたい。
「だが、あいつは屋敷で俺を見るなり氷をぶつけてきたんだぞ」
「え? それは……」盗賊とみなされて攻撃された件だ。「そういう時もありますよ」
「フォローになってない」
 容赦ない言葉が飛んできて、オフィーリアは思わずくすりと笑ってしまった。
 今の話に、テリオンはどういう感想を抱いたのだろう。少しでもサイラスと歩み寄るきっかけになれば嬉しいのだが。何故なら、二人はもう立派な仲間なのだから。
 ベンチの上に置いた採火燈の中で、ぼんやりと青い火が揺れていた。今、この採火燈には風よけという名目で布が被せられている。それを提案したのはシ・ワルキで出会ったハンイットだった。式年奉火の神官としてあまり目立ちすぎると、今後治安の悪い町を訪れた場合には命取りになるだろう、と指摘してくれたのだ。オフィーリアもサイラスもそのような事態はまったく想定しておらず、喜んでそれに従った。この風よけもハンイットが縫ってくれたものだ。
 布越しに青い炎を眺めるうちに、ふと思い浮かべることがあった。
「それにしても、先ほどの竜石……」
 聖火とは正反対の深い真紅。だが、どこか似たものを感じた。
「あんたでも宝石に興味があるのか?」
 テリオンが面白がるように尋ねた。
「いえ、そうではなく、あの石からは何か力のようなものを感じられました」
「……そのあたりは正直俺にはよくわからん。だが、あんたみたいな年頃の女が宝石に興味をもつのはいいことだ」
 珍しくテリオンが積極的に会話をつなげてくる。オフィーリアは目を丸くした。
「そ、そうでしょうか?」
 聖火教会では「清貧を旨とする」とまではいかないが、あまり過剰な装飾は好まれない。宝石を身につけようとは考えたことがなかった。
 テリオンは白銀の前髪を流し、オフィーリアの顔を覗き込むようにする。
「あんたの場合、もう少し飾りっ気があってもいい。あの宝石もあんたみたいな美人にこそお似合いだ」
「……え?」
 オフィーリアはぼうっと頬が燃え上がるのを感じた。
(いきなり何を……!?)
 こちらを見るテリオンの片目が笑っている。これは、つまり——
「か、からかわないでください!」
 ノーブルコートにおける彼の活躍を嬉々としてコーデリアに教えた仕返しだろうか。火照った頬を手で隠しながら、オフィーリアはつぶやく。
「もう、テリオンさんまでサイラスさんみたいなことを言うなんて……」
「は?」
 地の底から響くような声だった。
 驚くオフィーリアの眼前で、みるみるテリオンの眉間にしわが寄っていく。
 たった一言でこれだけ不機嫌になるとは、よほどサイラスと同一視されたくないのだろう。図らずもオフィーリアは見事にやり返した形になってしまったらしい。
 なんとも言えない沈黙が二人の間に流れた。
「オフィーリアさん、テリオンさーん!」
「もう集合時間だって。早くしないと酒場の席埋まるぞー!」
 トレサとアーフェンの声が階段の下段から届く。妙な空気になった二人はこれ幸いとベンチから立ち上がった。
 前をゆくテリオンに従いながら、オフィーリアは紫の外套の下に隠れた罪人の腕輪を思い浮かべる。
(少なくとも、テリオンさんはご自分のことは信じられる人なんですよね)
 いくら他人を信じられないと言っても、裏を返せば自分だけは信じられるということだ。
 十数年前、孤児になりフレイムグレースに引き取られたばかりの頃のオフィーリアは、そうではなかった。幼い身に降りかかった重い悲しみに囚われて、自分がそこから立ち直れるとすら思っていなかった。リアナが手を差し伸べてくれるまでは。
 テリオンは盗賊を生業としていることについて、あのフラットランドの村では「それしか道がなかった」と言っていた。大司教に拾われなければ、オフィーリアだって同じような道をたどっていた可能性は大いにあっただろう。二人はただ、運やめぐり合わせによって道が分かれただけだ。ただしオフィーリアはテリオンよりもはるかにひ弱だから、同じ状況ならこの歳まで生きていられたかも怪しい。
 テリオンは少なくとも、自分を信じて一人で生き抜くだけの強さを持っている。そこから先の一歩を踏み出すことは、彼にとってどのくらい困難なのだろうか。
(それでも、きっかけはいくらでもあるはずです)
 人によって、見えるものも受け取るものもまったく違う。テリオンの前にもすでに「それ」は差し出されている。「それ」は目に見えない宝石のようなもので、コーデリアやヒースコート、またオフィーリアたち旅の仲間を含めて、多くの人が彼に与え続けているものだ。
 だから、オフィーリアは胸の中で祈りを捧げる。
 どうかテリオンさんが、誰かの優しさを当たり前に受け取れる日が来ますように。わたしがそれを見届ける日が、いつか訪れますように。

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