明日に贈る組曲



「多分、ここだと思うんだけど……」
 リンクはクロックタウンの南、ウッドフォール地方にあるデクナッツ王国を訪れていた。
 最後に残ったデクナッツのお面は、クロックタウンで手に入れたものだ。正確にはスタルキッドによって無理やりかぶせられ、お面屋に呪いを解いてもらうことによって入手した。だから正確な出自は不明である。
 しかし、沼地でデクナッツ姿のまま行動していたところ、この王国の執事に「昔家を飛び出した息子に似ている」と言われたことがあった。可能性は、ありそうだ。
 リンクは何か未練を晴らす手がかりは得られないかと、王宮内をデクナッツ姿で回ってみた。——が、何故だか王宮の様子がおかしい。過剰警備感が否めない数の衛兵たちが、忙しそうに右往左往している。
「あのー、何かあったんですか」
 手近なひとりに話しかければ、デクナッツはものすごい剣幕で反応した。
「お前、知らないッピ!? 姫様と執事がいなくなったッピ!」
「えっ」
 姫はともかく、一番重要な情報を握る執事がいないとなると、ここに来た意味がなくなる。
 ここでリンクははっと思い当たった。
 サルだ。沼地に住む白いサルは、あのおてんば姫様と仲が良かった。姫と執事が一緒にいることを願いつつ、サルをさがしてみよう。
 デクナッツ王は姫の不在に怒り狂っているらしく、その怒号と側近たちのなだめる声が、代わる代わる玉座の間から聞こえてくる。そこには近づかないようにして、リンクは王宮から身を翻した。
 正常に戻った沼地を横切り、サルの住む不思議の森までやって来る。
「上からさがしてみよう」
 彼は独りごちて、人間の姿に戻った。いい感じの木を見つけ、幹に飛びつく。木登りなんて久々だが、体が自然と動いてくれた。故郷の森では散々こうして遊んだものだ。枝の上から森を見渡すと、白っぽい影が視界の隅を横切った。
「おーい、サルくん!」
 声を張り上げる。サルは気づいて、木の間をぴょんぴょん飛んできた。
「なんだよ、オマエ」
「デクナッツのお姫様がどこにいるか、知らない?」
 ごく穏やかに尋ねたつもりだったが、
「まさか……オイラたちを捕まえにきたのか!?」
 デクナッツと聞くだけでサルは血相を変えた。以前はデクナッツ王にサル鍋にされそうになっていたこともある。相変わらず仲が悪いらしい。リンクは慌てて首を振った。
「違う違う。デクナッツの国とは関係ないから。えーとえーと、ボク実はクロックタウンで新聞を書いてて。お姫様にウッドフォールの神殿のことをインタビューしに来たんだけど……」
 これまでの人生で一番、口からでまかせを言っている自信がある。リンクは調子に乗って、それらしくボンバーズ団員手帳を取り出してみせた。
「ふうん……?」
 サルは怪しんでいたが、やがて重々しく首肯した。
「まあ、お城と関係ないのは本当みたいだしな。いいだろ、教えてやるよ。姫はな、オイラが手引きして、クロックタウンにいるんだ」
「え!」
 思わずすっとんきょうな声を上げ、その拍子に枝から落ちかけた。危ない危ない、いつぞやのデクナッツのプレイスポットみたいに足を踏み外したら、恥ずかしいでは済まないところだった。
「そりゃまた、どうして?」
「姫が町のお祭りを見物したいって言い出してさ。もしものことがあったら危ないから、王様にはナイショで執事さんもついて行ったんだ」
 人騒がせなお姫様だ。何はともあれ、次の目的地は決まった。
「ありがとう!」リンクはひらりと地面に飛び降りる。
 去り際、上から声が降ってきた。
「カーニバルでうまそうな食いもんがあったら、おみやげに持ってきてくれよ〜」
 リンクは苦笑した。屋台の食べ物が情報料になるなら、安いものだ。



 このタイミングでクロックタウンに戻るのは、なかなか勇気のいることだった。気まずすぎる別れ方をしたルルや、チャットに出くわした時が怖い。今こそ石ころのお面が欲しかった。
 リンクは人目を気にしながら慎重に町を探索する。カーニバルの喧騒はまだまだ続いていた。人波が引く気配はない。
 ここでふと、リンクは重要なことを思い出した。タルミナで稼いだいくばくかの——否、それなりの大金を、クロックタウン銀行に預けっぱなしだったことを。
(あのままハイラルに帰ってたら、大損だった……!)
 思わぬ収穫があった。結果として、仮面の未練は面倒事ばかりを引き寄せたわけではなかったのだ。
 クロックタウン銀行のシステムは独特である。顧客は見えないスタンプを体に押され、それでルピーの残高を管理される。だから、リンクが一度も銀行に行っていなくても、スタンプさえ無事であれば引き出せるはずだ。
 銀行の前では、月の落下に備えて全財産を引き出した人たちが、またルピーを預け直すべく列を作っていた。銀行員の青年は「ほら見てみい、月なんか落ちへんって、ワイの言うた通りやったやろ?」と得意気に応対している。リンクは思わず苦笑してしまった。
 自分の番が来た。スタンプを確認された時はどきどきしたが、「アンちゃんは確か、五百九十ルピー預けてもらってるリンクさんやな」と言われてほっとした。
 きっちり全額引き落とせば、サイフがかなり重くなる。仮面の騒動が片付いたら、お祭りを回って少し散財してもいいかもしれない。頬がゆるんだ。
 さて、デクナッツのお姫様をさがさないと。彼が景気づけに軽く伸びをした時、誰かに呼び止められた。
「バッタくん!」
 この呼び方は、ロマニーだ。彼女は明るい笑顔でリンクの方へ駆けてきた。
「ロマニーも、町に来てたんだ」
「うん。私、お祭り初めてなの。すっごく楽しいね!」
 彼女はオトナの証であるロマーニのお面を手に持っていた。刻のカーニバルは、その年の豊穣を願うお祭りだ。昔、祭りで四界の神をかたどったお面をかぶったことから、今でも手づくりのお面を持ち寄る習慣がある——と、アンジュの祖母から聞いたことがある。しっかりお面まで用意して、ロマニーはお祭りを満喫しているようだ。
「バッタくんはお面、ないの?」
「いや、あるけど……あれをかぶるのはちょっと」
 残るはデクナッツの仮面、ただひとつだ。まさか、彼女の目の前で変身するわけにはいかない。
「じゃあバッタくんのお面はロマニーが買ってあげるよ! お姉さまからお小遣いもらってるんだ」
 町に並ぶ出店には、旅人用のお面も売っているのだ。そのままリンクの腕をとって引っ張っていこうとするロマニーを、必死に振り切った。
「いや、お面くらい自分で買えるから! それに、クリミアさんはどうしたの」
 見たかぎり彼女はひとりだった。ロマニーは表情を翳らせた。
「お姉さまはね、昨日うちに避難してきたお友達とお話してるよ。なんか、知り合いの人がいなくなったんだって」
 クリミアの友だちといえば、アンジュしかいない。それに、いなくなった知り合いというのは——久々に、リンクの胸に氷のような思いが蘇る——もしかして、カーフェイ?
 そうだ、カーフェイは「昨日」、イカーナ地方のサコンのアジトに向かった。まだあそこから戻っていないのか? 二人以上いないと絶対に攻略できないアジトの中で、ずっと立ち往生しているのか。「太陽のお面を手に入れないと婚約者のもとに戻れない」というかたくなな思いに取り憑かれ、まだアンジュの前に姿を現していないというのか。
 本来なら、アンジュとカーフェイは刻のカーニバルの日——ちょうど今日この日に結婚式を挙げる予定だった。カーフェイの焦りは最高潮だろう……。
 リンクは不穏な想像を追い出すように、ぶんぶん首を振る。余計な手を出してはいけない、これは夫婦の二人で乗り越えるべき壁なのだと、自分に言い聞かせる。
 きょとんとしているロマニーに、リンクは不意に心に浮かび上がった質問を投げかけてみた。
「ロマニーは、カーニバルの日を迎えられて、嬉しい?」
 と口にしてから、なんとなく、自分が旅をしてきた目的はこの質問と絡んでいるような気がした。ロマニーは天真爛漫に、大きくうなずいた。
「うんっ! もうね、まわりの人みんなにお礼を言いたいぐらい。もちろん、ウシを守ってくれたバッタくんにも!」
 笑顔のロマニーがリンクの手を握った。彼はぼんやりそれを見つめる。
「あ、ああ……どうも。そろそろ、クリミアさんのところに戻ったら」
「そうするね。またね、バッタくん」
 自然な「またね」が心地よい。昨日は次の機会なんてないだろうと思ったけれど——事実、「また」会えた。ならばその次も、きっとあるだろうと信じられた。



 リンクは背の低いデクナッツに変身し、人々の足の間を縫うように町を散策する。
 クロックタウン南広場だ。ここは屋台が集まるゾーンであり、祭りを満喫したいデク姫が喜びそうな場所だと思ったからだ。
 その途中、「そういえば」と思い出してサルへのお土産を買った。ゴロンまんじゅう——ゴロンの顔をかたどったお菓子だ。スノーヘッド地方の銘菓のようだし、ちょうどいいだろう。
 少し多めに買って、自分の分をもぐもぐ試食していたら、「キャン!」という甲高い声が耳に入った。数瞬後、彼ははっと身を固くする。
(わ、忘れてた!)
 こちら目掛けてまっすぐに白い犬が駆けてくる。南広場を縄張りとするあの犬は、一体何の恨みがあるのか、デクナッツ姿だとやたらと追いかけてくるのだ。リンクは浮足立ったが、右も左も人だらけで、とっさにどちらに逃げるべきか迷った。
「こちらへ!」
 ぐいっと横合いから手を引かれた。リンクが連れて行かれたのは、洗濯場だった。いくらカーニバルの日でも、ここだけは誰もいなくて、静かだ。
 リンクの手をつかんでいたのは、ひらひらと色鮮やかな花飾りを身につけた、デクナッツの姫だった。なんというタイミングだろう。
「あ、ありがとうございました」
「いえいえ。あの犬は、こちらを敵視しているようですね」
 どうやらお姫様も追いかけられたクチらしい。むうっと黄色い瞳を険しくしている。
 執事の姿は見当たらなかった。どうしたのだろう。リンクがキョロキョロしていたら、姫の可愛らしい手があごのあたりに触れて、視界を固定された。彼はびっくりして硬直する。
「あの……ど、どうしたんですか?」
 姫はうーむ、とうなる。
「アナタ、もしかして私をウッドフォールの神殿から助けてくださった方ですか……?」
「へっ」
 身に覚えはある。けれども、それはありえない話だ。「今回」彼はデク姫を助けていない。沼地で何が起こったのかは知らないが、デク姫の中では不思議な解釈がなされているようだ。ちょうど、ルルたちと同じように。
「違います。ボクはずっとクロックタウンにいたから」
「そうなのですか。残念です……一言、お礼を言いたいと思っていたのに」
 姫はふうっとため息をついて、夢見るような瞳で語り出す。
「私はついこの間まで、バケモノたちによってウッドフォールの神殿に囚われていました……でもその時、デクナッツの勇者様が助けてくれたのです! ですが、緊張の糸が切れた私は、助けられてすぐに意識を失ってしまって。そのお方の顔をほとんど見ておらず、名前も知らないまま別れてしまったのです……」
「はあ」
 時の歌は、都合よく事実をねじ曲げて、時間を定着させてくれたのかもしれない。あるいは、案外本当にそんな出来事があった可能性もある。
 デク姫は両手で自分自身を抱きしめた。
「沼地のどこをさがしても、彼はいませんでした……。ですので、町に来たら何か手がかりが得られるのでは、と思ったのですが」
「そうなんですか」
 本来の目的を隠し、サルにはあえて「町へは遊びに行く」と説明したのだろう。そんな大切な用事があるならきちんと父王に告げておけばいいのに……とリンクは思う。
 デク姫が、デクナッツリンクの気弱げな顔を覗き込んできた。
「アナタ、本当に違うんですか?」
「違います」
 改めてきっぱり否定した。——と、リンクの後ろの方で足音がして、デク姫がぱっと顔を明るくする。
「姫様、こんな場所におられたのですか」
「ジイ!」
 執事の登場だった。立派な巻きひげと、頭の両側面にこんもり生えた緑の葉っぱが特徴的である。姫にジイと呼ばれるだけあって、外見だけでなく仕草にも落ち着きがあらわれていた。
 リンクは執事と真正面から向かい合った。じわりと緊張がこみ上げてくる。ミカウになりきるのはまだ楽な方だった。リンクは生前の彼に会っており、ミカウがどのような性格なのかだいたい把握していたからだ。しかし、このデクナッツの面に宿った魂に関しては、ほとんど情報がない。どうふるまえば正解なのか——
 デク姫が無邪気に執事へと質問を投げた。
「この方、町で出会ったんですけれど、どこかで見覚えがありません?」
 執事はじっと小さなデクナッツを見た。リンクは内心冷や汗をかく。
「……いえ」
 だが執事はおもむろに首を振った。
 この仮面は執事とは関係なかった……? となると、手がかりがゼロになる。リンクは気が遠くなりかけた。
「そう、ですか。一体、私を救ってくださった勇者様はどこにおられるのでしょう……」
 姫は嘆いて、青空を仰ぐ。
「それとも、やっぱりジイの言う通り、勇者様はあなたの息子さんだったのかもしれませんね」
(えっ)
 リンクがとっさに確認すれば、執事はすっと目線を下げた。
「姫様、こんなところで何をおっしゃいます」
「でも前に、ジイの息子がその勇者様かもしれないって言ってたじゃないですか」
 デク姫が不満そうに頬をふくらませた。執事は、説明を求めるようなリンクの目線に気づいたのだろう、しぶしぶ話しはじめる。
「ワタクシの息子は昔、家を飛び出したんです。ささいなことが原因でして……」
 部外者に対して、多くは語らない。彼は沈黙の中でじっと考えているようだ。
「あなたはワタクシの息子と、どこか似ている」
 全てを見透かすようなまなざしがリンクを貫いた。呼吸が止まりかける。おそらくそれは、似ているなどというレベルじゃなくて——
「ほら、見覚えがあるじゃないですか」
「いくら似ていてもこの方は別人ですよ」
 まるで執事は自分に言い聞かせているようだった。年を重ねている分、こうした区別はきっちりしているようだ。だが、瞳に浮かんだわずかな期待は隠しきれていなかった。
「デクナッツだから、そういうこともありますよね」
 鈍いお姫様はうんうんうなずいた。執事の研ぎ澄まされた視線が外れて、リンクはほっとする。
 デクナッツ王家の二人はぺこりと頭を下げた。
「それでは私たちはこれで。あなたも犬に気をつけて、カーニバルを楽しんでくださいね」
「……失礼いたします」
 リンクも「ありがとうございました」と手を振った。
 二人は閑散とした洗濯場から、にぎわいあふれる南広場へと戻っていく。その背中に、リンクは声をかけた。
「ボクも、息子さんがお姫様を助けたんだと思います」
 デクナッツはそれぞれ振り返った。姫は満面の笑みで、執事は表情の読めない顔で。
 すっかりその姿が見えなくなってから、リンクはデクナッツの仮面を外した。そして大股で彼らを追いかける。
「あの、そこのデクナッツさんたち!」
 二人は足を止めた。面識のない緑衣の少年を、不思議そうに見返す。
「このお面を渡すようにって、さっきデクナッツの子どもに頼まれて。カーニバルを楽しんでくださいっていう伝言でした」
 リンクは、執事の方に仮面を渡した。
「……ワタクシに、ですか?」何故姫ではないのか、気になるのだろう。でも、説明はしない。
「はい。それで、女の子の方には、ボクからこっちを」
 ゴロンまんじゅうの紙袋を押しつける。
「沼地でサルにお世話になったので。渡してください」
「は、はあ」
 デク姫が紙袋を抱えると、顔の半分が隠れてしまった。なんだか申し訳ない。執事はデクナッツの仮面とリンクの顔を、ゆっくり見比べている。
「それじゃ、ボクはこれで」
 リンクは足早に立ち去った。
 執事にあの仮面を渡しても、何の解決にもならないことは、分かっている。それでもこれ以上リンクにできることはなかった。彼の息子に関する謎は、執事の中でこれから時間をかけて消化されていくべきなのだ。
 ——これで全ての未練は断ち切った、はずだ。すぐそこにある時計塔の扉をくぐれば、今度こそハイラルに帰還できる。エポナを迎えに行って、それから一緒に帰ろう。



「嘘だ……」
 しかし、時計塔の扉はびくともしなかった。
 リンクは呆然とする。もう打つ手は何もない。またお面屋が助言をくれないか、と期待しながらあたりを見回してみたが、今度ばかりは誰も来なかった。
 祭りの長い一日は、日が傾いてもまだ続いている。あたりが暗くなってきて、クロックタウンの人々はますますエキサイトしはじめたようだ。
 リンクは重い足を引きずって、あてどもなく町の中をさまよった。
「あらアンタ、こんなところにいたのね」
 下ばかり向いていたので、チャットと鉢合わせたことにもまるで気づかなかった。リンクは不本意ながら立ち止まる。クロックタウン北の、芝生と遊具があるあたりだ。
 彼女の横には、弟とスタルキッドもいた。おまけにスタルキッドはお祭り用のお面をかぶって、手にはミルクまで持っている。彼はからからと笑いながら近づいてきた。
「リンク、元気にしてたか」
「あんまり……」
 もはや意地を張る余力もない。「落ち込んでるの?」とトレイルが気遣ったが、無言で肩をすくめた。
「カーニバルを満喫しすぎて疲れたんでしょ」
 チャットが断定すると、リンクは不機嫌そうに「忘れ物を探してたんだよ」と弁明した。仮面に宿る未練という名の忘れ物だ。
「忘れ物? ちゃんと探したのかしら。案外、ポケットに入ってたりするんじゃないの」
 チャットはにやにやしている気配すらある。リンクはムキになった。
「ぜぇーったいに、そんなことない!」
「はいはい。それよりリンク、ちょっとここで待っててよ。これから面白い人に会えるんだから」
 彼女はスタルキッドたちと目配せし合う。(まさか、ルルを呼ばれるのか——?)リンクの背筋が凍った。平静を失い、何もかも悪い方向に考えてしまっていることに、彼自身は気づいていない。
「そんな時間なんてない。ボクは忙しいんだよっ」
「あ、ちょっと!」
 すっかり情緒不安定になったリンクは、イライラしながらエポナの手綱を引いて立ち去る。その後ろで、チャットたちは困ったように何やら相談していた。
 今日一日駆けずり回った、あの時間が全て無駄だったなんて——残されたのは徒労感ばかりだ。意味のない焦燥による早足も、だんだん疲れてのろくなってきた。隣のエポナが心配そうに頭を寄せてきた。
「連れ回してごめんね、エポナも早く帰りたいよね……」
 ふと、チャットの言葉が脳裏に蘇った。忘れ物は、ポケットの中に。なんとなくポケットを探ってみる。空っぽだ。やっぱり何もないじゃないか。リンクは安堵し、ふと思い立って、エポナの背にくくりつけた荷物袋に手を突っ込んでみた。すると——何か硬いものに指が触れる。
「あっ。ああーっ!?」
 リンクの目が大きく見開かれた。
 今の今まですっかり忘れていた、鬼神の仮面だ!
 その仮面は、ムジュラの仮面との最終決戦の際、何十ものお面を渡した代償としてムジュラ本人からもらったものだ。あの時の鬼神の仮面は禍々しい気配を放ち、嫌でも存在感があったのだが、今ではすっかり生気が抜けたように冷たい表面を外気に晒している。
 リンクは小声で仮面に向かって問いかけた。
「もしかして、キミがボクの帰りを邪魔してるの……?」
 もちろん返事はない。しかし、これ以外に原因は考えられなかった。お面屋の言っていた、仮面の未練——これにもあてはまるのだろうか。
 鬼神の仮面は、デクナッツの仮面よりさらに出自が不明である。何故ムジュラが持っていたのか、どうしてそれをリンクに渡したのか、さっぱり分からない。戦う以上は相手も強くなければ不満だったのだろうか。もはや、ムジュラの仮面からその答えを聞くことはできないのだが。
 そういえば旅の途中、ゴシップストーンに「鬼神の仮面は全てのお面を飲み込むお面だ」と紹介されたことがあった。確かにこれは、ほとんど全てのお面を犠牲にした上で手に入れたようなものだ。
 だとしたら……もしかすると鬼神の仮面ではなくて、その糧となった他のお面たちの中に、未練を残したものがあるということかもしれない。
(一体どれなんだ……!?)
 リンクは必死に考えながら、クロックタウン西のゆるい階段を上がったり下がったりした。エポナも黙って付き合ってくれた。
「あー、バッタくんだー!」
 今度はロマニーと出くわした。彼女はベンチに座って足をぶらぶらさせていた。存外早い再会だ。熟考に一旦区切りをつけて、リンクは彼女に近寄る。
「クリミアさん、まだ忙しいの?」
「うん。今は町長さんの家でカイギ? してるよ」
 きっと、いなくなったカーフェイを見つけようとしているのだろう。カーフェイの父親ドトール町長、プロを雇って息子をさがしていた町長夫人アロマ、婚約者アンジュ、その親友クリミア。全員雁首を揃えて話し合っているに違いない。
 その時、リンクの脳内に雷鳴が轟いた。カーフェイのことを考えた瞬間に胸をよぎった痛みが、ある直感を連れてくる。未練を持ったお面は——めおとのお面だ。
(夫婦はまだ、誕生していない!)
 リンクはさっとボンバーズ団員手帳を取り出した。不思議そうにしているロマニーの目の前で、猛スピードでページをめくる。
 時の繰り返しの中でつくりあげた完璧な手帳には、過ぎ去った三日間における人々の行動が全て記されている。だが、これから先——未来の予定は分からない。リンクだけでなく、誰にも分からないのだ。ならば、考えるしかない。
 現時点で得た情報は、カーフェイが行方不明のままということだ。昨日、彼はサコンのアジトに向かったが、リンクの助けなしでは太陽のお面を奪還できないはずだ。やはり、カーフェイはまだ、イカーナ渓谷にいる?
「ロマニー、ありがとう! お姉さんによろしくねっ」
 リンクは一方的に別れを告げると、考えるより先に走りだした。「う、うん、またね」困惑のにじんだ返事が後ろに流れていく。察しのいいエポナはすぐに追走してきた。町の中で大翼の歌は目立つから、門の外に向かう。
 真正面の西門の外から、妖精チャットがやって来るのが見えた。今度はひとりだ。
「あーいたいた。あのね、アンタに会わせたい人がいるのよ」
 リンクは絶えず足を動かしながら、すれ違いざまに、
「ごめんまた後で! 忘れ物が見つかったんだ!」
 チャットが何か言ったが、風に紛れて聞こえなかった。リンクは振り返らず、タルミナ平原に出ると、呼吸を整えてすぐにオカリナを吹いた。
 待っててエポナ。いつもみたいにさっさとすませて、すぐ戻るから!



 歌に込められた魔法の力で空間を転移する。やってきたのは、イカーナ渓谷にあるフクロウ像の前だった。すでに空は夕焼けのオレンジに染まり、どこからともなくカアカアとグエーの声が響いてくる。リンクはサコンのアジトがある脇道へと疾走した。
 前回ここに来たのが、もはや大昔のことのようだった。あの時はチャットがいて、ついでにカーフェイもいて、三人で一緒に攻略した。今度はひとりで、カーフェイを迎えに行くのだ。
 アジトの入口はすでに開いていた。リンクは中へ飛び込む。
「カーフェイ!」
 大声で呼んでみるが、返事はない。隅々まで部屋を見渡しても、どこにもいない。おまけに、ガラスケースの中には太陽のお面すらなかった。もしや、カーフェイは無理やり奥の部屋に進んで、閉じ込められてしまったのでは——?
 焦ったリンクはしかけを承知で、部屋の真ん中に据えつけられたスイッチを踏んだ。しかし扉は開かない。
「そんな……」
 熱に浮かされたような足取りで、閉ざされた扉に近寄る。こぶしを叩きつけても、当然びくともしない。
 ——前にも後ろにも進めなくなった。それはリンクの短い人生の中で、初めての経験だった。
 彼にとって、「道」は歩いていけば自ずと開けるものだった。四方の神殿攻略は辛かったけれど、やりとげれば巨人が力を貸してくれた。月だって止められた。タルミナの人々との関わりでも、団員手帳を埋めていけば、人々が必要とする行動がすぐに理解できた。リンクはそうやってたくさんのお面を集めてきた。
 タルミナの旅は、決して苦しくはなかった。それは、苦労しただけきちんと報われていたからだ、とリンクは気づく。そしておそらくそのサイクルは、チャットがいて、さらに力を貸すべき相手がいたからこそ、成り立っていた。
 結局、自分はひとりだと何もできないのだ。ずっとひとりで進んできたつもりだったのに、本当は多くの人に助けられてきた。彼が完璧主義を貫けたのは——そして今、どこにも進めなくなったのは、それに気づかず、石ころのお面をかぶってつながりを捨てたからだ。今さらリンクは悟った。地団駄を踏みたいくらい、悔しかった。
 ひどく打ちのめされていたリンクは、背後から迫る足音にも気づかなかった。
「本当だ、人がいる」
 聞いたことのない低い声だった。リンクの肩がぴくりと跳ねた。次いで、おそるおそる振り返る。
「きっとね、そこにいるリンクはアンタがまだアジトの中にいると思って、迎えに来たのよ。まあ無駄足だったけど」
「え、それは申し訳ないことをしたなあ」
 軽口を叩くのは二人。ひとりは、青紫の髪の毛に、涼し気な瞳——よく知った顔立ちだが、ずいぶんと大人びている——間違いない、大人に戻ったカーフェイだった。ムジュラの呪いが解けたのだ。そばには白い光を散らすチャットが、薄暗闇の中に浮かんでいる。
「キミ、大丈夫?」
 リンクは赤くなった頬に手を置いて、ぽかんとしている。チャットが楽しそうにはやし立てた。
「完璧な手帳なんてあてにならないわね、リンク」
「な、なんでここに……?」
 リンクの動揺を、カーフェイは理解できないのだろう。ひょいと横を指差す。
「いや、この妖精の子に、キミが婚礼のお面を持ってるって聞いたから。追いかけてきたんだ」
 どういうことなの、とリンクは妖精へ視線を移す。
「昨日ここにカーフェイが来た時ね、どこにも太陽のお面がなかったらしいのよ」
 驚いたカーフェイはどうすることもできず、ひとまず人目を避けてこのあたりにひそんでいた。見つけ次第サコンを問い詰めるつもりだったが、こそ泥は姿を現さなかった。そのまま、彼はイカーナの山越しに、月が消えていくのを見た。
 夜が明けて、カーニバルの日になる。チャットはカーフェイの行方がどうしても気になり、弟とスタルキッドと一緒にアジトの様子を見に来たと言う。そこで、大人の姿になって途方に暮れているカーフェイを見つけ、彼女は「リンクが婚礼のお面を持っているに違いない」と断言した。
 人間と小鬼と妖精の不思議な混成部隊は、クロックタウンに舞い戻る。カーフェイはひとまず潜伏し、主にチャットがリンクの行方を探った。すると、彼は何かを求めてあちこち走り回っているようだ、とルルやロマニーたちから情報が入った。
 そしてつい先ほど、リンクと町ですれ違った。外へ急ぐ彼の目的を察した妖精は、カーフェイを連れて谷まで追ってきたのだ。
 道理でチャットがしきりに「会わせたい人がいる」と言っていたわけだ。いくら慌てていたとはいえ、リンクは思いっきり彼女を無視してしまったことを恥じた。
 カーフェイは腕組みする。
「ねえキミ、リンクって名前だったかな。あれをサコンから取り返して、持ってくれているんだよね」
 彼が求めるものなんて、ひとつきりだ。リンクは懐に手を入れた。
「めおとのお面……」
 鬼神の仮面、ではなかった。すさまじい力を秘めた仮面は、いつの間にか、つるりと白いあのお面に変化していた。
 カーフェイはみるみる表情を崩す。今まで見せたことのないような明るい笑顔が花開いた。月迫るナベかま亭で死を覚悟していた時の、安らかな顔とは違う。前へと進む力にあふれた顔立ちだ。
「ああ、これだよ。ありがとうリンク!」
 その笑顔と、素直な感謝が、じわりとリンクの胸に染みこんできた。
 知らず知らずのうちに冷えきっていた心に、ぽっと火が灯ったようだった。
「アンタがあちこち走り回ってたのは、タルミナを去る前に、カーフェイにお面を返したかったからでしょ」チャットが「分かってるわよ」とでも言うように、耳元でささやく。
「いや、別にそういうわけじゃ……」
 本当に、そのつもりはなかった。でも——めおとのお面を本来の持ち主に返したいという気持ちは、はっきりと形作られないまま、リンクの心に確かに宿っていたのだ。お面の抱えた未練は、もしかするとリンク自身の未練だったのかもしれない。もしくは彼の心残りを晴らすために、お面が力を貸してくれたのか。
「そうだ、ボクたちの結婚式に来てくれないか。時間があれば、だけど……。ボクたち二人の証人になってほしいんだ。めおとのお面を預かってくれていたキミにさ」
 今のカーフェイはもう、以前の「三日目」とは違う。自ら未来をつかみ、アンジュとともに生きていく明日を見つめている。
「——ボクでよければ!」
 リンクは胸を張って答えた。それからやや意地悪そうに、唇で三日月をつくる。
「アンジュさん、カーフェイがいなくてすごく不安がってるよ。早く帰って安心させてあげないと」
「うわ、やっぱりそうなのか。まずいな……」
 カーフェイは難しい顔になった。実際、アンジュはカーフェイを信じずに牧場へ逃げたことを悔やむだろう。結婚した後も、それは大きな引け目になるはずだ。だがそうと分かっていても、リンクは助けない。
 それはやはり、二人で埋めていくべき溝なのだ。
 カーフェイとともに外に出る。「待ってろよアンジュ!」途端にカーフェイは走っていった。前にも見たような光景だ。しかし、これほど爽快な気分で彼の背中を見送ったことはない。
 チャットはふわふわ羽ばたいて、リンクに寄り添った。
「ねえ。リンクはなんで、ここに来たの」
 その答えは知っている。ハイラルに帰りたいから——だけではなかった。何故彼が戦うのか、どうしてタルミナを救いたいと思ったのか。それら全ての答えはもう、胸の中にあった。
「人助けが好きだから」
 ただそれだけだった。「ありがとう」と言われても言われなくても——誰かが笑っていて、それを見ているのがリンクは何よりも好きだった。
 にこにこしながら答えると、チャットは呆れた。
「アンタって、本当にどうしようもないわね」
 だが、その声には笑いの成分が含まれているのだった。
 夜闇の中から、軽やかなひづめの音が届く。エポナの手綱を大切そうに握ったスタルキッドが、リンクたちを見つけて手を振った。トレイルも一緒だ。エポナもすっかり小鬼に心を許したらしい。帰りはにぎやかになることだろう。
 明日は、アンジュとカーフェイの結婚式。これから「初めて」出会う、馴染みのある人々をまぶたの裏に思い描いて、リンクは胸を高鳴らせた。



 細身で繊細な婚礼衣裳は、新婦アンジュを美しく飾り立てた。真っ白なレースが太陽の光を反射して輝く。ブーケを持って登場した彼女を、白いタキシードに身を包んだカーフェイが迎えた。結婚式は、町のしきたり通りにタルミナ平原で行われた。
 お姫様のような新婦を眺めてうっとりするロマニーの横で、クリミアはどことなく浮かない顔のまま式に参加していた。あのトライアングルも、きっとそれぞれに折り合いをつけていくのだろう。
 夫婦を祝福するように、マップ描きチンクルが無数の紙吹雪を空に投げた。それを合図に、厳粛な雰囲気は破られる。散々まわりに迷惑と心配をかけたカーフェイは、早速友人たちにもみくちゃにされてしまった。
 リンクは証人——婚礼のお面を取り返した功労者として式に出席した後、人々が宴会に流れていくタイミングを見計らって、こっそりその場を離れた。
 その背中を白い妖精が追いかけてくる。
「もう帰るの?」
 リンクはうなずき、真面目くさった顔を苦笑に切り替えた。
「……ちゃんと帰れるか、試してみてからだけど」
 すでに、昨日あちこちを走り回っていた理由については全て話してある。ルルにゾーラの仮面を押しつけて逃げたエピソードなどは、大笑いされてしまった。
 クロックタウンにはまだまだ刻のカーニバルの熱気があふれていた。三日三晩騒ぎ通しても冷めそうにない。すれ違う人々ひとりひとりをじっくり観察しながら、リンクはエポナとチャットと一緒に、時計塔の扉の前にやってくる。
「押してみるよ」
 そうっと手のひらを置く。本格的に力を加える前に、扉は拍子抜けするほどあっさりと動いた。時計塔の中からひんやりした空気が流れ出し、リンクの頬をなでる。
「良かったわねー、ようやくおうちに帰れるわよ」チャットはやれやれと羽ばたいた。
「本当だよ、もう! よくも手間かけさせてくれたな」
 彼は扉を軽く蹴った。また機嫌を損ねられたらたまらないから、かなり控えめに。
 それから、じっと扉を見つめた後、相棒の妖精を振り返る。リンクの瞳は雨上がりの空を写し取ったように、さっぱりしている。
「あのさ、チャット……最後に反省会、しない?」
 藪から棒になんなのよ、とチャットがいぶかると、リンクは少し照れたように、使い古したボンバーズ団員手帳を開く。
 そこには、誰かを助け、幸せにした証拠である「幸せシール」がずらりと貼られていた。もちろん、最後の空白だったアンジュとカーフェイの欄にも。
「この自慢をしたかったわけ?」
「まあね。これぞボクの完璧主義の集大成ってわけだよ!」
 そっくり返るリンクに対し、チャットはほほえましい気分になる。
 この手帳ははじめ、人々の行動を把握し、より三日間を攻略しやすくするために書いたものだった。しかし今や、無数のページのひとつひとつの情報が、どれも大切な思い出となっている。
 リンクはしばらくにこにこしながら手帳を眺めていたが、
「そういえば。ボクってチャットに何かお返しできたのかな。たくさんお世話になったけど……」
 チャットは虚をつかれたように、ぴくりと羽を動かした。
「いきなり何よ。アンタが弟を助けてくれたんじゃない」
「それは最初からの約束だったでしょ。もっと別のことだよ」
 さも当たり前のように言い張る。リンクが誰かの役に立ちたいと思うのは本能なのだ。もはやどうしようもない。以前、めおとの二人が死を覚悟していたことに対して大きなショックを受けたのは、「助けた人には幸せであってほしい」という強い願いがあったからなのだろう。
 それにしても、お返しか。チャットは真面目に考えこむ。
「……そうねえ。アンタはこれからも旅を続けるんでしょ」
「まあね」
「それじゃ、行く先々で今回みたいな人助けをやってよ。それで、アンタの噂をタルミナまで届けて。スタルキッドたちと一緒に楽しむから」
 リンクはきょとんとし、すぐに不敵な笑みを作った。
「そんなことでいいなら、いくらでもやってあげる」
 タルミナのほとんどの人々は、リンクが月の落下を防いだことを知らない。だが、自分や隣人が助かったことは、無邪気に喜んでいる。そして親しいデクナッツやゴロンやゾーラの勇者が助けてくれたのだと、信じている。
 それこそが、リンクがタルミナを旅したことの何よりの証拠だった。
 誰もリンクを覚えていなくても、チャットだけは彼を「勇者」と呼びたい。声には出さなくても、心の中で、その旅路を思い出した時にはいつでも。
「ボク、もう行くよ」
 エポナに乗って、時計塔の扉を開け放つ。
 その先はもうタルミナの外だ。別れが訪れる直前、二人の声が重なる。
「いつか、また!」

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