3
「ミファー様~、お話しましょ」
唐突に、見知らぬゾーラが出てきた。体は赤く、娘と呼んで差し支えない年頃のようで、妙に装飾品が多い。彼女は身をくねらせてもう一人のゾーラにしなだれかかる。そこは、ゾーラの里のどこかのようだった。
「あ、コダー」
体重をかけられて微笑んだのは、あの像と同じ顔――ゾーラの姫君ミファーだった。優しげに目を細め、全身に柔和な雰囲気をまとっている。シド王子と似た緋色のヒレを持つが、水色の布を肩にかけているのが印象深い。その色は、前に見た夢で昔のリンクが着ていた服の色と似ていた。
(ミファー? 百年前に死んだはずじゃ……)
だが彼女は生き生きとして美しい。そうかこれは夢か、とウルフは気づいた。しかし、それでも夢は覚めなかった。
「何してるのミファー様?」
「これは……ちょっと、裁縫というか細工というか」
恥ずかしそうにほおを染め、ミファーは手に持っていたものをコダーから遠ざけた。
「それってもしかしてゾーラの鎧? 王女様がお婿さんにあげるっていう……自分のうろこを編み込むんだよね!」
「そ、そうよ」
「ミファー様には、鎧をあげたい人がいるんだね」
「うん」
ミファーは幸せそうにはにかむ。甘酸っぱい青春の会話だ――なんだかウルフはむず痒くなった。
「王様にはもう言ったの? 鎧をつくってるって」
「まだなの。いや、言えるかどうかは分からない……」
ミファーは大切そうに布を抱いた。
「でもつくりたいの。この気持ちはきっと、いつまでも変わらないから」
言葉から仕草から、ミファーが誰かを一心に恋い慕う気持ちが伝わってくる。
(誰だか知らないけど、こんな美人にそこまで想われるとか、ちょっと羨ましいな)
門外漢のウルフは好き勝手なことを考えていた。
コダーは難しい顔で腕を組む。
「うーん、少なくとも、ムズリに言うのは厳しいかな」
「そうだね、彼はハイリア人が嫌いだから……」
(え、ハイリア人? ハイリア人に渡すのか)
ゾーラのお姫様が異種族と恋をしても許されるものなのだろうか。王位はシド王子が継ぐから大丈夫、という論理が通用するのか否か。
コダーは彼女を勇気づけるように笑った。
「大丈夫、ミファー様の気持ちは絶対に伝わるよ。――リンクもきっと、喜んでくれるって」
*
(……リンク?)
ウルフはぱちっと目を覚ました。
双子馬宿でも、同じように夢を見た。自分の中にある思いや記憶が再構成されたものではなく、まるで過去にあった出来事をそのまま覗き見るような夢だった。
先ほどの夢によると、ゾーラの鎧は百年前のリンクのためにつくられたということだ。「まさか」と思うが、寝る前と同じくベッドサイドに放られた鎧は、確かにリンクの服のサイズと同じくらいだった。それに鎧を渡す時のドレファン王の意味深な目線――可能性は高い。
ウルフは窓から外を見る。ヴァ・ルッタによって降りしきる雨が、空気を濡らし続けていた。里にかかる雨雲は普通のものよりも少し薄いらしい。うっすら日の光が差し込むおかげで、暗い気分にはならなかった。それはいいが、
(だいぶ日が昇ってないか!?)
昨晩は確かに真夜中に寝付いたが、まさかリンクと同じように寝坊するとは。かろうじて彼よりも先に目が覚めたけれど、ほとんど慰めにもならない。
ほどなくリンクは大きく伸びをしながら起き出してきた。ベッドから降りると、扉に手をかける。
「おっと、危ない危ない」
リンクはパンツ一丁である。ハテノ古代研究所の時と違ってウルフが指摘するよりも前に気づいたのは、かろうじて進歩したと言えるのか。
シャツもズボンも一応部屋に干していたのだが、生乾きであった。
「……仕方ない、か」
リンクはズボンだけはき、その上にゾーラの鎧を着た。耐水性に期待したのだろう。
「あれ、サイズぴったりだ」
どうやら本当にミファーがつくった鎧のようだ。リンクは首をかしげていたが、そのことに思い当たるはずもなく、
「さて、まずは朝ご飯だね!」
宿の主人に商店の位置を尋ねる。リンクはさっそくマルートマートというよろず屋を訪ね、魚を買ってきた。
宿に必ず備えてあるはずの煮炊き場を利用しようと、彼はきょろきょろする。
「ええと、鍋は……」
「こっちよ、こっち」
宿の入口の脇、火にくべられた鍋のそばで赤色のゾーラが手招きしていた。
(もしかしてこいつ、コダーか?)
夢の中でミファーと会話していたゾーラだ。ほとんど見た目が変わっていない。ウルフはゾーラの長寿っぷりに驚くばかりだ。
リンクはありがたくコダーの隣に陣取り、ふと気がつく。
「あれ、なんでここ、火がついてるんですか」
そこらじゅうものすごい湿気なのに、鍋の下の薪はぱちぱちと音を立てて燃えていた。
「特別な燃料を薪に塗ってるの。それで燃えるのよ。ゾーラの里にはなくてはならないものね」
「へえ……教えてくれてありがとうございます」
「いいわよ気にしないでリンリン。あなたと私の仲じゃない!」
リンクは反射的に身を引き、ゾーラをまじまじと見やる。
「あ、あの……?」
「ひどい、忘れちゃったのリンリン。私コダーよ」
コダーはウインクして身を乗り出す。リンクはのけぞった。
「ミファー様と一緒に厄災ガノンに倒されたって聞いてたけど、無事だったのね! あれから百年……お互いいろいろあったわよね」
「えっと、すみません。僕百年前のこと覚えてなくて……」
「そうなの? それじゃああの時、『私とミファー様どっちを取るの?』って困らせたことも忘れちゃったの」
「えッ!?」
百年前のリンクはなかなか面白いことになってたらしい。リンクは盛大に動揺するが、ウルフは笑いを噛み殺す。
「でも今では一児の母だから安心してね」「はあ……」
リンクはさっさと会話を切り上げて料理をしたそうにうずうずしている。コダーは彼の服に視線をやり、目を細めた。
「リンリン、ゾーラの鎧を着てるのね。きっとミファー様も喜んでいるわ」
「あ、ありがとうございます……?」
コダーはぺこりとお辞儀をしてから、去っていく。リンクは胸をなでおろしていた。
「なんか、いろいろ面倒だなあ」
記憶喪失という事情をいちいち説明するのは確かに面倒だろう。だがリンクはその一方で、「ウルフは味方だ」と説明する労を惜しんだことはなかった。その発言をする時は、たいてい事態が切羽詰まっていることもあるのだが。
リンクは気を取り直して魚に向き合う。他に料理に使えそうな食材をあさったが、荷物から出てきたのは、
「岩塩だけか……」
こうしてでき上がったのは、焼き魚に塩を振っただけの食べ物だ。鍋を使う必要すらない。
こいつの料理なんて食べない、と双子馬宿でウルフは誓ったが――
(焼き魚は料理じゃないだろ、たぶん!)
遠慮なくかぶりついた。火加減がちょうど良かったのか、身がふっくらしていて美味しかった。ポカポカマスといういかにも体を温める効果のありそうな魚で、一口食べる度に、水を浴び続けて減衰した体力が戻ってくるようだ。
「ん……おっ?」
リンクはもぐもぐ口を動かしながら、ピンときたような顔をしていた。
(そうそう、変に凝らなくていいんだよ、こういうので)
腹ごしらえがすんだら、いよいよ出発である。リンクは「どのくらい昔の知り合いに会うのかな」と億劫そうであった。
「ええと、シド王子がムズリさんを追いかけて行って……王宮の外に向かったんだよね。今は里のどこかにいるのかな」
幸いにも、他のゾーラに見つかる前にシドたちを発見できた。ちょうどミファー像の前にある広場だった。
リンクが近寄ると、ムズリが険しい顔になる。
「むぅ……こんなとこまで来たゾラか。お前に用はない」
じゃあもう帰っていい? と言いたげにリンクはシド王子に熱い目線を注ぐ。
「ムズリよ、聞いてくれ。お前に黙っていたことがある。本人を前にして言うのも何だが、リンクこそミファー姉さんの想い人だったのだゾ」
しれっと特大級のバクダンが投下された。
「ななッ……!」ムズリは叫び、
「ええッ!?」リンクまで動揺しきりである。
「オレはその頃まだ小さかったから分からなかったのだが、父上からは何度も、姉上がリンクのことを想っていたという話を聞かされてきた」
「な、な……」
リンクは心臓のあたりを押さえている。夢の様子からするとミファーは父に話していなかったようだが、どうもバレバレだったらしい。ムズリ以外には。
「そ、そんなつくり話を簡単に信じるムズリではございませぬゾ。ミファー様がこのようなハイリア人を想うわけがございませぬ!」
「そうですよ! お姫様がそうだったとか、何かの間違いです」
(お前まで同意するなよ!)
ムズリはびしっと像を指さす。
「現にこやつは何も覚えておらんのですゾ。このミファー様の像を見ても、何も!」
「だが本当なのだムズリ。お前は知らないだろうが――」
ゾーラたちの応酬を聞きながら、リンクはぼんやりと像を見上げる。
そして唐突に目を見開いた。そのまま硬直する。
(どうしたんだ?)
きっと彼の異変にはウルフしか気づいていなかっただろう。ほんの数瞬、リンクは自失状態にあった。
彼はすぐに意識を取り戻し、
「あ、あれ?」
ぱちぱちとまばたきする。「今のは一体……」
シド王子が心配そうに顔を覗き込んだ。
「どうしたリンク、大丈夫か?」
「生まれたての稚魚みたいにフラフラと……どうしたゾラ」
「えっと、いきなり目の前に、ここじゃない景色が浮かんだんです。あれが神獣なのかな。それと、この像の人――ミファーさんが、僕と一緒にいました」
(記憶を思い出したのか!)
やったじゃないかとウルフは思うが、リンクは眉をひそめてしきりに首をひねっている。
「でもあれは本当に……?」
「ななッ、バカにするなハイリア人! そんな都合よく思い出したりするわけないゾラ」
「ですよね、たぶん気のせいですよね」
(おい)
ムズリは指をリンクの鼻先に突きつけた。
「とにかくこのムズリ、確たる証拠がなければ断じて信じぬゾ! 本当にミファー様がこのハイリア人のために鎧をつくったと証明できれば、電気の矢を集める方法でもなんでも教えてやるゾラ」
この発言に、シド王子は口の端をニッと持ち上げる。
「お前はまだ気がつかないのか。リンクが着ているものを、よく見てみろ」
美しい水色の鎧に注目が集まった。
「なななッ、それはゾーラの鎧!」
「ミファー姉さんが手ずからつくった鎧だ。それが、サイズがぴったりなのだゾ!」
決定的なことを告げて、シドは得意げに胸を張る。
「あ、いや、これは別にっ」
リンクは鎧を着てきたことを後悔したようだが、もう遅い。
「ここッ、これはどういうことゾラ」
「これで分かっただろう。姉上の想い人が誰だったのか、誰のためにこの鎧をつくったのか――!」
ムズリはうなだれる。
「昔からハイリア人嫌いだったお前には言うなと、ミファー姉さんが口止めしていたそうだゾ。さあ、協力する約束だぞムズリ。電気の矢はどうやったらたくさん手に入る。お前のことだ、もう調べてあるのだろう?」
ムズリは何かを問いかけるように、ミファーの像を眺める。そしてリンクに恨めしげな視線を向けた。
「ハイリア人の助けを借りるのは嫌ゾラが、仕方ありませぬ。ワシもゾーラの男。一度吐いた泡には責任を持ちますゾラ。電気の矢がたんまりと手に入る場所、教えましょうゾ」
(やれやれ、やっとか……)
とにかくこれで、矢を手に入れて神獣を鎮める準備ができるわけだ。
ムズリはミファー像よりも向こうの崖を指さす。
「あそこに見える雷獣山、そしてその先端の試しの岬――その雷獣山には、恐ろしいやつが棲みついているゾラ」
リンクの表情が不安そうに歪んだ。「なんでそんな物騒な話になるの?」と顔に書いてある。
「ワシらゾーラが喰らえばひとたまりもない電気の矢を、次々と放ってくる恐ろしい魔物――」
「そうか獣人ライネルか!」
シド王子が合点がいったように叫ぶ。
ライネル。ウルフも聞いたことがない魔物だが、なんだか危険な匂いだけは伝わってきた。
「アイツは電気の矢を使う魔物! やつから矢を奪うということだな。凶暴だが、リンクならなんとかなるだろう」
「え、えっ」
「神獣を沈めるには電気の矢が――そうさな、二十本以上は必要ゾラ」
「二十本も……?」
リンクの足が小刻みに震えるのは、体が濡れて寒気が走るからではない。ムズリはふんと息を吐く。
「お前に集めることができるゾラか?」
「何を言うんだムズリ、大丈夫に決まってる!」
「そ、それはどうでしょうか……」リンクは消え入りそうな声で答えた。
「よしリンク、早速行動開始だゾ。雷獣山には里の裏の滝をのぼるのが近道だから、さっそくその鎧が役立つゾ。オレは神獣のいる東の貯水湖で待機する。電気の矢が集まったら来てくれ」
「ええっと……」
「よし、協力して神獣に挑むゾ!」
シド王子は一方的に宣言して、走り去った。
「……ミファー様の想い、しかと引き継ぐゾラ」
ムズリも一瞥をくれてから退場する。
ゾーラ里の中心に取り残され、リンクは立ち尽くした。
「獣人、ライネルだって? そんなこと聞いてないんだけど……」
(だけど、さすがにもう逃げられないぞ、リンク)
電気の矢を次から次へと打ってくるとなると、ウルフでも相手をするのは厳しいかもしれない。リンクはうつむいて目を伏せ、こぶしを握った。
「行きたくないけど、行くしかない……か」
ぱっとまぶたを開いたリンクは、宿に取って返した。
――食料をそろえるために。
*
雷獣山に挑むにあたり、まずリンクは滝をのぼらずに済むルートを探るため、里で聞き込みをした。英傑だの懐かしいだのと言ってくる年寄り連中とは適当に話を合わせながら。
滝のぼりを選ばない理由は、
「だって滝をのぼったんじゃウルフくんと一緒に行けないからね!」ということだった。
(自慢げに言うことじゃないぞ)
しかし好判断ではある。おそらくライネルにはリンク一人ではかなわないだろう。ウルフがくっついていても焼け石に水かもしれないが。とにかくウルフは遠距離攻撃に対処法を持たないのだ。
そうやって探り当てたのは、ごくわずかな抜け道だった。雨に濡れて今にも崩れそうな細い崖の道を、二人は足をすべらせかけながら登りきる。その時点ですでにずいぶんと疲れていた。
たどり着いた高台は雷獣山、そしてこの先に試しの岬がある。
(何を試すんだろ。実力か、度胸か?)
相変わらず天候は悪いが、頂上付近では雲が少なく、空が明るい。というか日がすでに傾いてきている。寝坊にはじまり雷獣山攻略の準備と、今日は無駄に時間を過ごしすぎた。
頂上に向かう道の横に生えた針葉樹には、三本ほど矢が刺さっていた。矢じりが黄色い石でできていて、電気を帯びているようだった。
「これって、もしかして」
二人は顔を見合わせる。
(たぶん、ライネルとやらが試し打ちした矢だろうな……)
リンクはため息をつき、矢じりに触れないように慎重に矢を抜いた。
なだらかな坂を上る。その終点に、道案内の看板があった。
「この先、度胸試しはほどほどに……だって」
リンクが読み上げる。
「誰も好んで試しに来たわけじゃないんだけどなあ」
何度も引き返したくなりながらも、彼は頂上にたどり着いた。そこは広い台地になっていた。
雨の影響で水たまりができている。平地のあちこちで岩がむき出しになっており、そこにも矢が刺さっていた。
「い、いた……!」
リンクとウルフは件の魔物を見つけると、すぐに岩の陰に隠れた。そこからじっくりとあたりをうかがう。
なんと形容すればいいのだろう。ライネルは馬の体に人の上半身――ただし頭からは赤いたてがみが生え、角までついている――を持っていた。なるほど獣人だ。獣人と聞いてウルフが想像したのは自分のハイラルにいた毛むくじゃらの雪男だったが、あちらより数段恐ろしく、見た目からして殺意に満ちている。
そして、ここからが問題なのだが――ライネルは馬鹿でかい剣と盾、それに弓を備えていた。すなわちそれを扱う膂力と知能を兼ね備えた魔物ということだ。
「あれは戦っていい相手じゃない」
リンクは即断した。ウルフも同意だ。少なくとも、ケモノ姿でやりあうべきではない。
「ウルフくん、これ飲んで」
リンクが問答無用でウルフの口に突っ込んだのは、紫色の見るからに怪しい液体だった。チュチュゼリーのように見えたが味は違った。まずい。しかもオオカミの口はビンから何かを飲むようにはできていないため、ウルフは苦労して嚥下した。
「しのび薬。自分の立てる物音を小さくする効果があるんだって。カカリコ村で、前にもらったんだ」
お前は飲まなくていいのか、とリンクを見上げるが、
「ここで待ってて。矢を集めてくる」
と彼は何故か岩陰から出て、そろりそろりと移動をはじめる。
(え……? じゃあ自分で薬飲めば良かったのに。もしかして、撹乱が狙いなのか?)
ウルフがライネルを引きつける間に、リンクが矢を集める。そんな役割を期待されているのかもしれない。確かに逃げに徹すれば、なんとかなるだろう。
(よし……!)
ウルフは水たまりを跳ねて隠れ場所から飛び出した。吠え声をあげる。
たちまちライネルに気づかれた。魔物はすかさず電気の矢を打ってきた。直線的な軌道だ。弓勢が強すぎて、地面に刺さった途端に矢が折れる。ライネルは相当な剛弓使いだった。
だが直接ウルフを狙う分、まだ避けやすい。ひょいとジャンプでかわしてやると、ライネルは業を煮やしたのか剣を持ち直し、馬の体で足踏みをして突進の体勢に入った。
注意を引きつける役割は十分に果たせている。リンクはどうしているだろう。もう十本くらいは集めただろうか。
「ウルフくん――!」
だが、リンクは叫びながら姿を現し、魔物に向かって弓を構えた。
(なんでそうなるんだよ!?)
ウルフは危ういところでライネルの突進をかわす。魔物の背にリンクの矢が刺さった。ライネルににらみつけられ、リンクはすくみ上がる。彼はなし崩しに戦闘に突入した。
「わ、わ、わっ」
すぐさま肉迫してきたライネルの剣撃を、リンクは連続の宙返りで避ける。見事な回避だが、反撃に転じられない。
(お前はいいから矢を集めろよ!)
ウルフはライネルを邪魔するように前に出た。一声吠えると、相手も対抗して咆哮を上げる。音が大きすぎてびりびりと空気が震えた。
「あ、危ないから、ウルフくんは下がってて!」
(お前に任せる方がよっぽど危ないだろっ)
びびって剣を持つ手が震えている割に、リンクは言葉だけは達者だった。ライネルが二人の真ん中に割り込むように武器を振り下ろしたので、それぞれ左右に避ける。次にどちらが狙われるか――
(こっちだ!)
ウルフが足に噛みつくと、ライネルは怒りを燃やした。
至近距離の薙ぎ払いだったが、ウルフが大きく飛びすさって空振りになる。彼はタートナックとの激戦を思い出した。
だがライネルが次に振りかぶったのは盾だった。刃のついた特殊な盾だ。
(げっ)ウルフは反応しきれず、弾き飛ばされた。最悪なことに、背後にあった岩に叩きつけられる。肺の息が全部吐き出されるような衝撃を受けた。
「ウルフくん!」
(い、痛ぅ……)
朦朧とした意識の中、リンクが必死に呼ぶ声が聞こえる。
(ばか、俺のことはいいから、早く……)
追撃が来ない。うっすら目を開けば、リンクが濡れそぼった岩の上に登っている。彼は冷たい炎を瞳に灯し、リザルボウを水平に構えた。
ライネルが吠える。リンクは足をすべらすことなく、弓を持ったまま完璧なタイミングでジャンプした。
「喰らえ――っ!」
その瞬間、時の流れが歪んだ。
ウルフは自分のまばたきの速度が遅くなったのを感じた。ライネルの迎撃も、振ってくる雨粒も、ほおを叩く風も、感じる痛みすらも、何もかもがスローになっている。景色の色味も時間に置いていかれたようだった。
全てがゆっくりになった世界で、リンクだけが変わらない速度で判断し、行動している。彼は空中にとどまったまま矢を放った。そのまま次々と新しい矢をつがえ、二発、三発と打ち込む。
はっ、とリンクが息を吐くと、突然時間が動き出した。連なった矢はライネルの額へと吸い込まれる。
濁った断末魔が雨空を貫いた。剣と盾を落とし、ライネルがどうと倒れた。
「やった! ……ぎゃっ」
リンクは着地で水たまりに真正面から突っ込み、情けない声を出した。
ウルフは傷ついた体を草の上に横たえて呆然とする。
(なんだったんだ、今の)
分かっているのは、あのリンクがライネルを倒したということ。
(……なんだ、思ったよりやるんだな、こいつ)
「だ、大丈夫ウルフくん!?」
駆け寄るリンクの姿がまぶたの暗闇に消える。
一度ウルフの意識は途切れた。
*
細く開けた目に、優しい月明かりが差す。薄い雨雲の向こうに満月が輝いていた。
リンクがすぐに気づき、そっとウルフの頭を押さえた。
「目、覚めたんだね。平気……?」
雨が体に当たらない。頭の上を見ると、切り倒された針葉樹が岩に寄りかかり、屋根代わりになっていた。即席でリンクがつくったらしい。小器用なものだ。ゾーラの里で例の燃料も借りていたのか、焚き火もあった。
「ごめんね、きみに勝手に回復薬を飲ませたんだ。前に街道で人を助けた時もらった、妖精の力水」
ウルフはぼんやりとまばたきした。
(結局足を引っ張ったんだな、俺……)
オオカミだから仕方ない、とは言えない。彼は一度自分のハイラルを救った勇者であり、それなりのプライドもあった。駆け出しの勇者未満には負けない自信があった。なのに。
「きみがいなかったら絶対に勝てなかった。ありがとう」
リンクは微笑んだ。ゾーラの里に来て面倒事に巻き込まれて以来、彼の曇りのない笑顔は久々の気がする。
「きみには安全なところに隠れててもらって、僕だけで矢を集めるつもりだったんだけど。でもきみがあの時飛び出してくれなかったら、ライネルは倒せなかったと思う」
わざわざ忍び薬を飲ませてまで、戦いから遠ざけるつもりだったのか。わけが分からない。
(そうだ、電気の矢!)
「大丈夫、二十本集まってるよ」
考えが通じたのか、リンクは矢束を掲げてみせた。
「もう立てる? 夜になっちゃったし、ゾーラの里に帰って休もうか。シド王子は……ちょっと待たせることになるけど」
焚き火を消し、屋根の下から出る。リンクは夜空を仰ぎ――さっと青ざめた。
「まずい」
そして突然ウルフを両腕で抱き上げると、全速力で駆け出した。
(なんだよいきなり!?)
ぶらぶらと四つ足が頼りなく揺れる。オオカミの姿でこうやって運ばれるのは初めてで、妙な気分だった。体がだるく、抜け出す気にもなれない。
「ブラッディムーンだ……!」
半ばリンクは恐慌をきたしていた。月がどうかしたのかとウルフが首をひねって空を見れば、先ほどまで正常な白色だった月光は、血のような赤に染まっていた。
「あの赤い月が出る夜になると、魔物が……」
山の頂上を駆け抜けるリンクの背後、月明かりに浮かび上がるシルエットは、
「復活するんだよ!」
――ライネルだった。
あれだけ苦労して倒したのに、もうよみがえるなんて。
(理不尽すぎるだろ……!)
リンクは完全に魔物に背を向け、恥も外聞もなく逃げる。電気の矢が肩をかすめた。
(なんだ、どこに行くんだ!?)
二人がたどり着いたのは、試しの岬と呼ばれる断崖絶壁だった。
(ま、まさか)
「ちょっと我慢しててねっ!」
リンクはウルフを抱えたまま――はるか下の貯水湖に飛び込んだ。