第二章 イチから、ゼロから



 パーヤはカカリコ村の長老インパの孫娘である。彼女はいくつかの日課をこなし、毎日を穏やかに過ごしていた。朝起きて身支度を整え、宝珠を磨き、道祖神を参り、インパの世話をし、その日の出来事を帳面に記す――十数年続いてきた、何も変わらない日常だ。だがその何よりも大切な日課に、少し前から新たにひとつが加わった。ただそれだけで、突然一日一日が鮮やかに色づいたかのようであった。
 村を見下ろす高台に、「タロ・ニヒ」という賢者の名を継いだ祠がある。一万年前にシーカー族の先祖によって築かれた遺物は、今では封印が解かれ、古代エネルギーの宿った証である青色に光っていた。百年の眠りから目覚めた勇者だけが扱えるシーカーストーンにより、本来の機能を取り戻したのだ。パーヤは祠の中に入ることはできないが、リンクの助けになったというだけで、生まれてからずっと見てきた祠にもありがたみが生まれる。
 というわけで、彼女は祠周辺の草抜きをするついでに、異変がないか毎日見て回るようになった。
 今日も、祠の周辺には心地よい薫風が吹いていた。窪地の底にあるカカリコ村では、少し高台に来るだけで、景色がいつもと違って見える。それも、リンクがいなければ気づけなかったことだ。
 肝心のリンクは、少し前に慌ただしく別れたきりだった。その時は「イーガ団に襲われた」と言っていた。また、どこかで危険な目にあっていなければいいのだが――
(……リンク様)
 整備を終えたパーヤは祠の前にひざまずき、両手を祈りの形に組んだ。そっとまぶたを閉じる。祈るのはもちろん、勇者の無事だ。
 彼女にとって勇者は、小さな頃からインパに聞かされていた伝説の存在だった。ハイラル王家の近衛騎士としてゼルダ姫に仕え、大厄災に倒れて――回生の祠でシーカーストーンとともに復活を待つ、ハイラルの救世主。
 パーヤの人生は、ちょうど彼の眠りから百年が経つ年と重なった。その年は節目であった。ハテノ古代研究所のプルア博士が「百年も経てば勇者が目を覚ます確率は高い」と請け負っていたためだ。シーカー族たちは勇者の復活を心待ちにしていた。インパの娘である母も、パーヤと同じように勇者の話を聞いて育ったが、ついにリンクとめぐり合うことなく彼岸へと旅立った。母と違って勇者に会えた彼女は、恵まれているのかもしれない。
 だが、戦う力など持たないパーヤは、リンクに直接力を貸すことはできなかった。
(パーヤはリンク様の助けになりとうございます……)
 いつからその思いが芽生えたのだろう。ただ待つだけでなく、祈るだけでなく、彼の助けになりたい。だが、パーヤにできることなどほとんどなかった。
 不意に、まぶたの向こうで何かが太陽を遮った。驚いて目を開ける。
「――パーヤさん? どうしてここに」
「り、り、リンク様!? はわわ……」
 パーヤは反射的に顔を両手で覆った。そこにいたのはリンク本人であった。何故ここに、と焦るが、彼はシーカーストーンの力によって、祠やシーカータワーといった特定の場所へ一瞬で移動する能力を持っているのだった。
 指の間からおそるおそる覗くと、リンクは朗らかな表情を浮かべていた。
「もしかして、祠を見に来てくれたの?」
「は、はいッ! あ、いえ違いますっ」
 返事が支離滅裂だ。リンクは苦笑していたが、
「あれ、ウルフくん……?」
 きょろきょろあたりを見回しはじめた。不安そうな顔になる。
「ウルフ、とは?」
「ああそっか、前ここに来た時は名前がなかったんだっけ。あのオオカミのことだよ。プルア博士に名前を調べてもらったんだ。一緒にワープしてきたはずなんだけど、いない……もしかして僕、置いてきた!?」
 彼は真っ青になり、すぐさまシーカーストーンを起動させた。しかし。
「嘘、なんで!?」
 ワープは発動しなかった。石版の表示を見ていたリンクは「あっ」と気づく。
「古代エネルギーが足りないんだ……。エネルギーが貯まるまで待つしかないのかあ……」
 あからさまにがっかりしている。微笑んだり嘆いたりと、ここまで感情豊かなリンクを見るのは初めてだった。パーヤはぽかんとして見とれてしまった。
「リンク様……? あの、ご事情はよく分かりませんが、しばらく待つ必要があるのなら、屋敷にいらっしゃってください」
「あ、うん。そうだ、今日はインパさんに謝ろうと思って来たんだった。あーあ、ウルフくん……ゾーラの里で待っててね……」
 彼は名残惜しそうに祠から離れる。見慣れない水色の鎧を身に着け、観賞用とすら思える美しい銀の槍を背負っていた。旅の途中で手に入れたものだろうか。
 リンクを導くように坂を下りながら、パーヤは話しかけた。
「あのオオカミ――ウルフ様と、旅を続けられているのですね」
「うんっ。強くてかっこよくて、いつでも僕のこと待ってくれてる……大切な相棒なんだ」
 彼は誇らしげにオオカミを相棒と呼ぶ。パーヤは少し――いやかなりウルフを羨んだ。勇者の隣を歩けるだなんて、想像しただけで幸福だった。
 屋敷に帰ると、広間の定位置にいたインパが顔を上げた。いつものように三段積んだ座布団の上に、ちょこんと座っている。
「……リンクか」
 重々しいつぶやきにリンクの肩はびくりと跳ねたが、彼は自ら前に出て、頭を下げた。
「インパさん。この前は、すみませんでした。僕が今ここにいるのは、全部ゼルダ姫のおかげなのに……ひどいことを言ってしまいました」
 リンクだけではない。ゼルダの存在を知らない旅人すら、彼女の犠牲によって仮初めの平和を享受しているのだ。もちろん、パーヤだって。
 ゼルダ姫について考えると、パーヤは胸が苦しくなる。リンクはゼルダのことをどう思っているのだろうか、気になって仕方ない。だがあまり立ち聞きするのも問題だろうと思い、彼女は二人の横で日課の宝珠磨きをすることにした。
 インパはゆるゆると息を吐いた。
「それが分かれば良い。それで、どうじゃ、ゼルダ様の記憶は取り戻したのか」
「ええと、それがまだ……」
 彼が説明に入る前に、インパは目を細めてリンクを見透かす。
「ほほう。ミファーの力を手に入れたか」
「分かるんですか?」
「そなたに宿る力を見ればな。間違いない。まだ一体とはいえ、神獣を厄災ガノンの手より取り戻してくれたこと――礼を言うぞ」
「いえ、そんな」
 パーヤは宝珠を布で拭きながら、耳をそばだてる。リンクは水の神獣を解放した。この百年、他の誰にもできなかったことを成し遂げたのだ……! 
「ミファーの力は癒やしの力。もしそなたが力尽きるようなことがあれば、救ってくれよう。残る神獣は三体……それぞれの英傑の出身地に赴き、一族の長に話をしなさい」
「はい」
「そなたはゼルダ様の――このハイラルの希望なのじゃ。さあ、もう後戻りはできん。己の心に従い、突き進むがよい!」
 そしてインパは付け加える。
「くれぐれも、記憶のことも忘れるでないぞ」
「分かりました!」
 リンクは背筋を伸ばして答えた。この前とは別人のようだった。彼はどんどん前に進んでいく。快進撃を続ける勇者の姿はなんてまぶしいのだろう。
 そのまま屋敷を出ようとした彼を、パーヤはとっさに呼び止める。
「あっあの……リンク様!」
「なあに?」
 先ほどの見せた勇ましさとは打って変わって、穏やかな声だった。
「どうか、ご無事で……またカカリコ村にいらっしゃってください。パーヤは……待っております」
 それだけをやっと伝えると、パーヤのほおはぼうっと燃えた。
「大丈夫。僕にはウルフくんがいてくれるから」
 リンクはとびきりの笑顔を残し、扉の向こうへ消えた。
 宝珠を拭くための布を握りしめ、パーヤは立ち尽くす。
「パーヤ」
「は、はひっ!? なんでしょうかおばあさまっ」
 分かりやすく動揺する彼女に、インパはリンクの前では決して見せない苦笑を閃かせる。
「屋敷の書庫に、百年前ハイラル城から持ち出した資料が眠っておることは知っておろう」
「あ……はい」
 普段はカギがかかっていて入れない場所だった。そこには王家に伝わる貴重な書物もあると聞いた。シーカー族の研究者が城から逃げる際に持ち出したものの他に、城に盗掘に入った旅人からも地道に買い集めたのだ。安全な場所で保管して、いつかゼルダ姫に返すために。
 インパは戸棚の引き出しを指さし、
「そなたに書庫のカギを預けよう。自由に書物を調べて良いぞ」
「お、おばあさま!」
「勇者について調べることは、そなたのためにも、リンクのためにもなろう」
 祖母の目は優しく細められていた。
「……はい。私は、リンク様の助けになりとうございます」
 初めてはっきりと口に出したその想いは、胸に甘い響きを残した。



(まさか俺を置いてワープするとは思わなかったぞ……)
 神獣ヴァ・ルッタとの戦いから一夜が開けた。里を救った礼に、とシド王子に用意してもらった特殊なベッド――ウォーターベッドで、リンクは一晩中跳ね回って遊んだ。そして疲れ果てて昼過ぎに起きるという失態をしでかした(ちなみにウルフも便乗して遊んだ、楽しかった)、その後のこと。リンクはゾーラの里を出る前に「やり残していたことがある」と王宮の下層に向かった。
 そこにはハスの花が咲き乱れる池があった。中心に、オレンジ色に光る不思議な建造物がそびえている。
(なんだこれ……?)
 どことなくシーカータワーと似た意匠だった。カカリコ村でよく見かけた例の目玉模様が正面に刻まれており、入口らしき部分の脇には、プルアが勇導石と呼んでいた台座がある。
「これは一万年前につくられた祠で、勇者の助けになるためのもの。こうやって解放すれば――」
 勇導石にシーカーストーンを押し当てると、不思議な音とともに祠が反応し、オレンジの光は下半分だけ青色になった。
「これで、起動状態。こうなったらシーカーストーンのワープポイントとして使えるんだ」
(ワープ? ってあれか、ポータルでの移動みたいなものか)
 リンクもかつてのウルフと同じように、遠く離れた場所に一瞬で移動する手段があるということだ。
「水の神獣を解放したわけだし、一回カカリコ村に戻ってインパさんに報告しようと思う。さあウルフくん、行くよ――」
 リンクは石版を両手で構える。ウルフは「ワープの感覚はポータルの時とどう違うのだろう」と、それなりにわくわくしたのだが。
 青い光が視界に満ちた。それはワープが発動した証拠であったが、ウルフはそのまま池のほとりにいた。リンクだけが消え失せている。
(あいつ……失敗しやがった!)
 ウルフはその場でしばらく待った。しかしリンクは一向に戻ってこなかった。これは、そもそもシーカーストーンでは一人しか移動できない、という間抜けなオチではないだろうか。
(どうするんだよ。俺一人であちこち行って、また魔物だって言われて追い回されるのはもうゴメンだぞ)
 相棒とまで言っていたくせに、置いてけぼりにするとは。
(まあ、徒歩だろうがなんだろうが、いつかは帰ってくるだろ……)
 ウルフはそう決めつけて、池を出てとぼとぼと里を歩く。そのうちに、王宮の外で景色を眺めていたシド王子に見つかった。
「ウルフか? どうした、リンクはいないのか」
 シド王子はしゃがんだが、それでもだいぶウルフより目線が高い。
(あいつ、なんか勝手にワープしちゃって、戻ってこないんだよ。王子からもなんとか言ってやってくれよ)
 と伝わらない言葉で必死に訴えてみた。
「ふむ、リンクはどこかに行ってしまったのか。ならばオレが責任を持って見つけるゾ!」
 果たしてシド王子は最低限の状況を把握してくれたが、自ら走って探しに行きそうになるので、ウルフは必死に前に回り込んで止めた。
「どうしたんだ。ここで待つのか?」
(迎えにいく必要なんかないって、あいつが来れば済む話だから!)
「すまない、また突っ走りそうになったゾ。だがリンクが来るまで何もせずに待つというのは――そうだ、ならウルフ、オレの話し相手になってくれないか?」
(別にいいけど、王子なんだし公務とかないのかなあ)
 ルッタを倒した功績により、一日くらいは休みをもらっているのかもしれない。そう解釈することにした。
 シドは里の手すりに手を置いてウルフから視線を外し、まるで独り言のように話した。
「ウルフ。キミがどんな理由でリンクと旅をしているのかは分からない。でも、リンクに相棒と呼べる存在がいることが、オレは嬉しいゾ。里から動けないオレの分も、どうか彼のことを助けてやってくれ」
 双子馬宿で見た夢と、プルアに言われたことがよみがえる。「勇者を救えるのは勇者だけ」――呪いのようにつきまとう言葉だ。
(本当にそうなのか。一人で問題を解決できるからこそ、勇者なんじゃないのか?)
「ミファー姉さんがいたら、少しはリンクの助けになれたのだろうか――」
 手すりに寄りかかったシドは、そのまま目を閉じる。自らの心の内側を探索するように。
 話し相手というよりも、物言わぬオオカミにただ近くにいてほしかったのかもしれない。誰にでもそういう時はある。
 ウルフも一緒になってぼうっとしていたら、ふと、背後から聞き覚えのある足音がした。シド王子はぱちりとまぶたを見開いた。
「案外早かったな」
「や、やっと戻ってこられた……!」
 リンクが息を切らせながら戻ってきた。
 なんだか急にもやもやが胸にこみ上げたので、ウルフは彼にどしんと軽く体当たりしてやった。
「ごめんってば! まさかシーカーストーンの移動が一人しかできないなんて思わなくて。次からは気をつけるから~!」
 リンクはひとしきり謝った後、「ところで何故シド王子と一緒に」と言いたげに二人を見比べる。
「ウルフにはオレの話し相手になってもらっていたんだゾ」
「そうなんですか。いろいろとありがとうございます、シド王子」
 リンクが律儀に頭を下げると、
「シドでいいゾ。敬語もなしだ!」
 気さくな王子は胸を張ってポーズを決めた。
「さ、さすがにそれは……」
「オレはリンクと友でありたいのだ」
(おお、なんてできた男なんだ)
 ウルフはもう何度目か分からない感動を覚える。
 リンクはしばらく悩んでいたが、やがて諦めたように肩の力を抜いた。
「じゃあ、シド。ありがとう……!」
 頼もしい友人を得て、二人はゾーラの里を後にした。向かうは北の、アッカレ地方だ。

inserted by FC2 system