第四章 空に樹にひとに



 ――嫌な夢を見た。だが内容は覚えていない。嫌な夢だった、という記憶だけが残り、さらにリンクの鬱々とした気分を加速させた。
「あれ……」
 彼はベッドに寝転がっていた。眠りについた覚えはまるでない。寝返りを打って確認した部屋の内装からすると、ここはどこかの馬宿のようだが――
「リンク! やっと起きたんだね。正直もうだめかと思ったよ……」
 ベッドサイドに近づいてきたのは、小麦色の肌の女性だ。その人はパウダという名前で、彼女をイチカラ村に送り届けるために旅をしていたことを思い出す。
(あれ……)ずきり、と頭の奥が痛んだ。
 リンクは上半身だけ起こす。
「あの、僕はなんでここに……?」
「ここはリバーサイド馬宿だよ。あのあと私はエポナのおかげでここにたどり着いたんだけど、いつまで経ってもリンクが来なくてね。そしたらなんと、あんたは川を流れてきたんだよ! 奇跡的に怪我もないし、水も飲んでないしで、こうやって宿の人に運んでもらったんだ。雨も、もう上がったよ」
 川に落ちた記憶などない。それに、怪我をしていないことも解せなかった。確か、直前まで自分は雨の中で、激戦を繰り広げていたはずではなかったか。
 そっと胸に手を当ててみる。
『リンクは私が守る……』
 心の中で優しい声が響いた。ミファー――ゾーラの英傑の力が発動したのだ。
 ミファーの祈りは癒しの力。だが、少し怪我をしたくらいでは発動しない。それが勝手に発動するほど、自分は危篤な状態にあったということだろうか? 
(ありがとう、ミファー)
 胸にあてた手をぎゅっと握り、加護の力に感謝する。
 そして彼はいつものように、ベッドの上から床に目をやった。途端に飛び起きる。
「いない!」
「え?」
 パウダは目を丸くした。そうだ、パウダには「彼」は見えないのだった。
「あ、えーと、エポナはどこへ……?」
「外につないでもらってる。荷物も無事だよ」
「ちょっと出てきますっ」
 リンクはベッドから飛び出し、馬屋へ向かった。駆け抜ける間にも宿の中をあちこち見回すが、どうしても「その姿」は見えなかった。
 エポナはリンクを見つけると、安堵したように鼻を鳴らした。リンクは手を伸ばし、頭をなでてやる。
「エポナ、パウダさんのことありがとう。それで、ウルフくんがどこに行ったか知らない……?」
 物言わぬ馬はなんだか悲しそうな目をしている。
 リンクは頭にずきずきと響く痛みをこらえて、記憶を掘り返した。
「そうだ、僕が、あそこに置いてきたんだ……。イーガ団とガーディアンに襲われて、ぼ、僕が――」
 勝手に全身が震えだす。雷に照らされて見た最後の景色が目に焼き付いていた。
「探しに行かないと……」
 だが足がうまく動かなかった。また平原でガーディアンと遭遇するかもしれないと思うと、だめだった。
 エポナがリンクに顔を寄せ、ほおをぺろりと舐め上げた。
「うひゃっ、エポナ? もしかして、ここで待てってこと……?」
 昼間の夜光石のように日差しを吸い込む真っ黒な瞳は、そうだと肯定しているようだった。
 リンクは眉を曇らせて少し考え込むと、宿に取って返した。
 パウダがすぐに気づいて、歩み寄ってくる。
「どう、馬は大丈夫だった?」
「ええ。エポナのことは本当にありがとうございました。それで……申し訳ないんですけど、ここから先、僕は一緒にいけなくなりました」
「ど、どういうこと?」
 パウダの動揺はもっともだ。リンクは頭を深々と下げる。
「やらなくちゃいけないことができてしまって……。この先のパウダさんの護衛は、僕が雇います。イチカラ村までは、その人と行ってくれませんか」
 約束を反故にする行為だ。やっぱりイチカラ村には行かない、と言われても仕方ないだろう。リンクは床を見つめながら唇を噛む。
 パウダは静かに口を開いた。
「それは、リンクにとって大事なことなんだね?」
「……はい」
 リンクは顔を上げ、思い詰めた表情でうなずいた。パウダは肩をすくめる。
「分かった。いや、リンクだって旅の途中だったんだ。ここまで付き合ってくれてありがとう。なんだかんだ楽しかったよ」
「僕もです……。約束を守れなくてごめんなさい。また、イチカラ村で会えたら……」
 パウダは「気にしないで」と言うように笑った。
 リンクは彼女のために、リバーサイド馬宿を訪れる旅人に片っ端から声をかけ、なんとか護衛の契約を取り付けた。その間にも内心ではウルフを待っていたが、彼は来なかった。
 出発するパウダを見送って、リンクは一人になった。
 なんとか心を落ち着けようと、エポナのたてがみをひたすらブラシで整える。何もしないでいたら後悔ばかりで頭が支配されてしまう。
「あら、可愛いたてがみね」
「え?」
 急に声をかけられ、リンクは挙動不審になる。馬宿を訪れていた旅人の女性が、いつの間にか横にいた。
「うわっ!?」
 思わず悲鳴を上げる。その人の顔は、襲ってきたイーガ団の変装にそっくりだったのだ。
「な、何よ。私の顔に何かついてる?」
「ごめんなさい、気のせいでした……それで、たてがみがどうかしたんですか」
「自分の馬を見てみなさいよ」
 あらためて確認すると、エポナのたてがみは三つ編みになっていた。無意識のうちにリンクが結んでいたらしい。
「あれ、いつの間に……」
 意外にも綺麗に整っている。リンクは自分にそんな能力があったことも知らなかった。確かに、自分の髪の毛を結い上げるのに苦労した覚えはないが。
「さっきからずっと熱心に結ってたわよ」
 と女性は笑っている。リンクはなんだか恥ずかしくなり、慌てて三つ編みをほどこうとした。
「ああ、もったいない。たてがみを変えてあげると、馬も喜ぶのよ」
「そうなんですか? エポナ、どう?」
 エポナはぶるると機嫌良さそうにいななく。
「おしゃれが好きなのね。この子、女の子だものね」
 リンクは目を丸くした。
「きみ、女の子だったんだ……!?」
 女性は苦笑した。
「そうよ。いい馬じゃない、大事にしてあげてね」
「はい……」
 リンクはエポナの首にもたれかかる。
「それじゃあウルフくんのこと、心配だよね……。絶対、帰ってくるよね……」
 だが焦がれる思いでじりじりと三日待っても、彼は来なかった。



 リンクはウルフと会うため、ありとあらゆる手段を試した。シーカーストーンでの召喚を試みたり、口笛を吹いてみたりもした。だが、ウルフは姿を現さなかった。
「こうなったら、プルア博士に相談しよう。それしかない」
 焦れたリンクはエポナを飛ばし、ハテノ古代研究所にやってきた。
 猛烈な勢いで机に向かって何かを書き記していたプルアが、扉が勢いよく開いた音にびくりと反応する。
「にっちゅー。リンクじゃん。そんなに急いでどうしたの」
「ウルフくんが……いなくなったんです」
 自分でも、声が震えるのが分かった。プルアはメガネをかけ直す。
「あの子がいなくなったぁ? まさか、愛想つかされたの」
「……そうかもしれません」
 リンクは暗い面持ちでうつむく。プルアはため息をつき、勇者を自分の部屋に誘った。
 書類が散乱した部屋の中で唯一無事な椅子を勧められ、リンクはすとんと腰を下ろす。プルアは机の上に立った。
「何があったのか、くわしく教えてヨ」
「ハイラル平原で、イーガ団とガーディアンに襲われました。もうだめだと思った時、僕は彼にかばわれて、川に落ちて……その場にウルフくんだけが残ったんです」
 リンクの手が小刻みに震えだす。
「近くの馬宿でいくら待っても帰って来なかった。シーカーストーンの召喚にも反応しない。プルア博士なら、彼がどこに行ったか、見当がつきませんか」
 プルアは幼い見た目に似合わぬ複雑な表情を浮かべ、こめかみを人差し指でおさえた。
「リンク。言いにくいんだけど……ウルフはもう、このハイラルにはいないんじゃないかな」
「……? 何を、言ってるんですか」
 リンクは大きく目を見開く。
「残念だけど、敵から逃げ切れなかったんだよ。あの子は瀕死になって……たぶん、元の世界に戻ったんだ。今のアタシには、それを呼び戻す技術はない」
「そ、そんなはず……だってウルフくんは」
 いつも一緒にいてくれたのに。
 リンクの口が無意味に動く。プルアは机の上から身を乗り出して、彼の肩に両手を置いた。
「リンク。ウルフにだって、たぶんやらなきゃいけないことがあった。それなのにアタシたち研究者が、無理にアンタを手伝わせてたんだ。帰りたくなっても当然なんだよ。
 それにアンタにも分かるでしょ、いつまでも誰かに頼ってたらだめだって。アンタは勇者なんだから……」
「う、嘘です。ウルフくんは勝手に帰ったりしない!」
「リンク!」
 プルアが鋭い声を上げる。彼女は怒っていた。だがそれに負けないほど、リンクは平静を失っていた。
「彼と一緒に旅ができないなら、僕は勇者になんてならなくていい」
 そう言い残し、部屋から飛び出した。下で待っていたエポナにまたがる。
「エポナ、ウルフくんを探しに行こう」
 リンクはいつもウルフを置いていく側だった。彼に数え切れないほど「待ってて」と言ってきた。シーカータワーでも、アッカレ古代研究所でも、神獣と戦う時にも、とにかく色んな場所で。その度に、ウルフは必ずその場で待ってくれていた。
 だが、一度だけそうでなかった場合がある。出会ったばかりの頃、初めてこのハテノ古代研究所に来た時のことだ。リンクが家を購入するためサクラダ工務店と交渉している間、ウルフは自分で判断して先に研究所に向かった。いきなりオオカミが訪ねてきたのでプルア博士が仰天する羽目になったが、その時リンクは「ウルフはただのオオカミではない、とてもかしこいのだ」と確信したのだった。
 そうだ、はぐれた時、ウルフは確実にリンクの前を行く。きっとそこで待ってくれている。
「ウルフくんが行きたい場所――僕が行かなくちゃいけない場所は、迷いの森だと思う。森や退魔の剣の話題が出る度に目が鋭くなって、耳がぴんと立っててさ。本当は分かってたんだ、彼が森を気にしてたこと。でも、なんでだろう、そこに行ったらウルフくんが離れていっちゃう気がして、嫌だった……。
 そうだよ、それなら彼は森に向かったのかもしれない。迷いの森の奥に行けば、ウルフくんに会えるかもしれない」
 エポナを襲歩で走らせながら、リンクはつぶやき続ける。ほとんど何かに取り憑かれたように。



 彼は東回りでハイラル大森林に向かった。せっかく見つけたシーカータワーも無視し、木の根でぐちゃぐちゃになった廃墟の脇を通り抜けていく。
 そうやってたどり着いた迷いの森は、木が鬱蒼と生い茂ってろくに光の差さない場所だった。
「ウルフくんはこの先に行ったんだ。そうだよね……」
 リンクは自分に言い聞かせながら、エポナを連れて恐ろしげな森に踏み出した。
 ただでさえ薄暗い森は、さらに霧に包まれていた。そして何故かところどころに燭台があり、火が灯っている。なんとも不気味だ。彼は言いようのない寒さを感じ、腕を掻き抱く。
 深い霧の中、リンクは燭台を頼りにして足を前に進めた。だが、途中でその道しるべがなくなってしまう。
「どっちに行けばいいんだろう……」
 シーカーストーンの地図を見ようにも、タワーを無視してきたせいで真っ黒だった。ここでは自分の感覚に頼るしかない。
 迷いの森を構成する木は、太陽の光という栄養を与えられず、枯れているものも多い。朽ちたうろが人の顔のように見えて、リンクは「ひっ」と声を上げた。驚いた動物が足元を逃げていく。
 リンクはエポナの手綱を握りしめ、闇雲に森の中をさまよった。
「……あれ?」
 そのうちに視界が白い霧が満たされ、何も見えなくなる。驚いて立ち止まると、急激に霧が晴れていった。そして、彼はいつの間にか、入口の石のアーチの下に戻ってきていた。
「迷いの森ってこういうことかあ」
 おそらく、正解の道を通らなければ奥にたどり着くことはできない、ということだろう。迷った末に行き倒れるよりはマシな処置であるが、最深部を目指すリンクにとってはなかなか厳しい仕掛けだ。
 困った時、リンクはいつも足元を見て、オオカミの姿を探してしまう。
(だめだ、ウルフくんは今はいないんだ。この先で待ってるんだから)
 なけなしの勇気を振り絞り、もう一度森に挑む。
 今度はまわりによく注意して歩く。彼はあることに気づいた。
(空気が動いてる……?)
 場所によって一定の方向に風が吹いているようだった。ほんの短い距離でも、移動すると風向きが変わる。
 もしかして、と閃いたリンクは荷物に入れていたたいまつを取り出し、燭台から火をもらった。火が風に流されて揺れ動く。少し考え、リンクは風が流れていく方向へと歩いてみた。
 あの白い霧はやってこない。いけるかもしれない。
「きみも早くウルフくんに会いたいよね、エポナ」
 はやる気持ちを抑えて、リンクは駆け足で森を抜けた。
 平時であれば、彼は森のおどろおどろしさに恐れをなして、まともに抜けられなかっただろう。だが今のリンクは強い意志に突き動かされていた。
 奥へ奥へと進むと、だんだん足元が明るくなる。空を遮る木の葉の密度が下がっているのだ。彼はやがて、木々の少ない開けた場所に到着した。いつしか夜になっていて、森の隙間から月の光が差し込む。
「やった……!」
 厄介な霧はどこかへ消えた。リンクはエポナに乗り、とにかくまっすぐ走り出す。彼は獣道の上にいた。
 ふと、視界の端で何かが動いた。まるでリンクの視線を避けるように。どことは分からないけれど、無数の気配を感じる。
 それでもリンクは駆け抜けた。この先にウルフがいると信じて。
「エポナ、ちょっと待って」
 リンクは上半身を起こし、手綱を引いた。馬を止めて豊かな下生えをブーツで踏みしめる。
 目の前には、三角形に切り取られた石の台座があった。その中心に一振りの剣が刺さっている。
「……っ!」
 まるで心臓に直接響くような、重い衝撃が走る。刀身は月そのもののごとく白く輝き、戦闘用として使われることを否定しているかのようだ。しかし、それは絶大な威力を秘めた刃なのだった。
 リンクは雷に打たれたようにその場に立ち尽くしていた。
 やがて夢見るような足取りでふらふらと剣に近づくと、青紫の柄に手を触れる。
 突如、頭の中に膨大な情報が流れ込んできた。始まりの台地で何度か聞いた声が、耳元でささやく。
『リンク、後を託します……』
 ゼルダ姫だった。そして猛スピードで見知らぬ景色が目の前を流れていく。写し絵で手に入れた記憶も混ざっているようだ。
『あなただけが最後の希望。どうか……』
 これ以上は耐えきれない。リンクは、とっさに剣から手を離した。
(今のは、一体)
「……うたた寝しておったようじゃの」
 今度は現実の声だ。老人のようなしわがれ声は、リンクのはるか頭上から降ってきた。
 慌てて見回すが、人はいない。代わりに、剣の台座の向こうにこの森の天井をつくる大樹があった。木肌にはまるで人のような顔が浮かび、唇が動く。
「え、えええー!?」
 危うく腰を抜かしかけた。
「主はリンク! おお、やっと現れたか」
 ピンク色の可憐な花を枝につけた大樹は、安堵の息を漏らした。
 どうやらこの樹も昔の知り合いらしい。知り合いの幅が広すぎるだろうと彼は思う。
「百年の時、主がここを訪れるのを待っておったぞ。いささか待ちくたびれてしもうたがな……」
「それは……お疲れさまです」
 なんとかリンクが返事をすると、大樹の枝の裏から小さな生き物が顔を出した。葉っぱのお面をかぶった、リンクの膝くらいの背丈を持つ森の精だ。旅の途中で幾度か見かけたことのある、コログたちだった。コログは遠巻きに二人の会話を見守っている。
 大樹は残念そうに声を沈ませた。
「主の方はやはり覚えておらぬようじゃな」
「……面目ないです。あなたが誰なのかも、分からなくて」
「構わぬ。わしはこのハイラルを見守り続ける者――皆からはデクの樹と呼ばれておる老木よ」
 コログを従える彼は、森の守護神のような存在なのだろう。リンクは台座に眠る剣を指さす。
「デクの樹――様。この剣は、もしかして」
 あらためて刀身を見ると、ハイラル王家の紋章が刻まれていた。
「それは太古の女神が創られた武器。選ばれし騎士のみが持つことを許され、厄災を打ち倒せるという退魔の剣、マスターソード」
 やはりこれが! その辺の魔物が持っているような武器とは、圧倒的にオーラが違った。
「そして百年前、それを手にしておったのは他ならぬ主なのだ」
「あ……」
 記憶の中の光景で、確かに背負っていた。リンクは自分の背中にある鞘の模様まではっきりと確認していた。
 コログたちはもっと話をよく聞こうと、手に持った葉っぱをくるくる回しながら、地面に落ちてくる。
「だが気をつけろ……その剣を手に入れようとする者は、剣自身に試される。今の主に果たしてそれを抜けるかどうか」
 さっとリンクの顔が青くなる。
「もし主が、衰えた体のまま引き抜こうとすれば、たちどころに命を失うことになるでな」
 リンクの目の前に出てきた一匹のコログが、土に刺さった木の枝を引っ張る。力が足りなかったのか、抜けずにぱたりと背中から倒れた。もう一匹のコログがわあわあと嘆く芝居をする。
「……!」
 リンクは目を見開いた。可愛い見た目で残酷な真似をするものだ。
「気をつけるがよいぞ」
 デクの樹はふぉっふぉっふぉ、と笑って唇を閉じた。
 リンクは剣を見下ろす。ゆっくりと息をととのえ、口を開いた。
「デクの樹様、僕がここに来たのは剣を抜くためではありません。僕の前にもう一人――いや一匹、オオカミが来ませんでしたか」
「オオカミか……見ておらぬな。コログたちにも聞いてみるとよい」
 デクの木に促され、コログがわらわらと足元に集まってくる。
「オオカミなんて怖い動物、見てないデス!」
「ぼくも~」「来たらすぐに分かりマスから」
 リンクの全身から力が抜けた。エポナが悲しげにいなないた。
 ……本当は分かっていた。リバーサイド馬宿で、彼が戻ってこなかった時点で。プルアに言われるよりもずっと前から、もうこのハイラルからウルフが消えてしまったことに、気づいていた。
 自分の力が足りないから、ウルフをあんな目に合わせてしまった……。
 リンクのうつろな瞳は、石の台座に刺さったマスターソードに向けられる。
 彼は幽鬼のような足取りで剣に近づいた。
「退魔の剣に挑戦するのじゃな。しかと見届けさせてもらおう」
 デクの樹の声もろくに届かない。リンクは無造作にマスターソードの柄に手をかけた。
「……!」
 足を踏ん張って引き抜こうとするのに、どんどん力が入らなくなっていく。立っているのも辛いくらいだった。
 目が霞む。リンクはそれでも手を離さなかった。必死に食らいつけば、徐々に刀身が持ち上がるのを感じる。ただの剣がこれほど重いだなんて。
(これを抜いたら、ウルフくんもきっと、また……!)
「そこまでじゃ!」
 デクの声が制止の声を上げる。それでもリンクは手を離さなかった。
「リンク、やめるのじゃ!」
 コログたちがカラコロ騒ぎはじめ、エポナが竿立ちになるのを感じながら、リンクの視界はふっと闇に閉ざされた。



 どれだけ目覚めたくない朝を迎えても、死んでいない限りはいつかまぶたを開けなくてはならない。回生の祠で目覚めた時も、こんな気持ちだった気がする。
 リンクはまだ生きていて、葉っぱのベッドで目覚めた。
 木のうろの中にいるような、不思議な部屋だった。かけ布団の大きな葉っぱが体の上からずり落ちる。
「ゆうしゃサマ! お目覚めになられたのデスね」
 空っぽのベッドの足元に、一匹のコログがやってきた。葉っぱのお面が青々としてまぶしい。
「勇者じゃ……ないよ。だって剣を抜けなかったんだから」
 リンクはもごもごと返事をして、また枕に頭を預けた。
「朝ゴハン、いらないのデスか?」
「いらない……」
「おっきなお馬さんのゴハンは、キノコでもいいデスか?」
「荷物にニンジンがあるから、それあげて……」
 リンクはひどく疲れていた。マスターソードに奪われた体力だけでなく、体を動かすための気力が底をついていた。
 二度寝をしたかったが、眠れなかった。リンクが目を閉じて葉っぱの中に埋もれていると、やがていい香りが漂ってきた。
 何もしていなくても腹は減り続ける。彼はもぞもぞと起き出した。
 小部屋から出ると、木の内部にも関わらず、コログが火を焚いて鍋を使っていた。食欲を誘う芳香の正体はこれだ。
 コログは嬉しそうに体全体を弾ませた。
「ゆうしゃサマ! お馬さんにニンジン、あげておきました。お馬さんは外にいマスよ。それと、ゆうしゃサマのご飯を用意しておきました」
 寝ぼけ眼をこすり、リンクは鍋の中身を確認する。何種類かのキノコがぐつぐつ煮込まれていた。
「……待って」
 リンクは近くにあった自分の荷物をあさって、ゴロンシティで買いだめしていた香辛料を取り出す。そのまま一瓶まるごと鍋の中にぶちまけた。
「ひゃーっ!?」コログは飛び上がる。
「ごめん、こうやって一味足すと、目が覚めるから」
 おたまを借りてさっと中身をかき回す。鍋の脇に用意してあった器を取り、無意識に盛り付けた。水分が多いのでスープかと思っていたが、すくうと米が出てきた。どうやらキノコのリゾットだったらしい。
 ピリピリと辛いスープを口に含むと、一口ごとに意識がはっきりしていく。気まぐれに「食べてみる?」とコログに差し出してみれば、おっかなびっくり受け取ってくれた。小さな手で皿に触れて熱い熱いと言っている。
 何度かまばたきして意識をはっきりさせ、リンクはコログに質問した。
「きみの名前は?」
「ペパパでス。ゆうしゃサマのためにはっぱで寝床をつくる係でス!」
「そっか、いいベッドだったよ。ありがとね」
 礼を述べながら、彼はぼんやりと物思いに沈む。まだお腹はいっぱいになっていないのに、スープをさじですくう手が止まっていた。
 ペパパは心配そうに顔を覗き込んできた。
「ゆうしゃサマ……落ち込んでるでスか?」
 もちろんそうだ。これ以上ないほど、彼は打ちのめされていた。
「……ごめん、これ食べたら、森を出るよ」
 リンクはリゾットの残りをかきこむ。香辛料が皿の底に溜まっていて、思わずむせた。そうやって馬鹿なことをしても、呆れた目を向けてくれる相棒がいない。
 ペパパは精いっぱい背伸びをした。
「また来てくださイ。マスターソードも、ペパパも待ってまス! ここに泊まる時は、好きなだけむにゃむにゃゴロゴロしていってくださイ!」
「うん……」
 だが、リンクが自分の帰りを待っていてほしいのは、ただ一人だけだった。
 リンクはエポナとともに森を出る。デクの樹と、マスターソードに背を向けて。
「もうここには来ないかもしれないな」
 と言い残し、勇者は消息を断った。

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