第五章 迷い子



 ――また、例の夢だった。
 一体何度見たら気が済むのだろうか。ウルフは自分でもうんざりしながら、しかし注意深く推移を見守る。
 少女と呼んで差し支えない年頃のハイリア人が、巨木の立ち並ぶ森の中を歩いている。長く伸ばした金の髪も、身にまとう白っぽい装束も、血と泥で見る影もなく汚れていた。
(ゼルダ姫、か)
 ウルフの知る「彼女」とは顔立ちなど似ても似つかないのに、何故だかそうだと分かった。彼女は布に包んだ長物を持って、とぼとぼと足を運んでいる。
 と、前方の木の後ろから突然白いモリブリンが出現した。棍棒をふりかぶり、ゼルダに襲いかかる。
(危ない!)
 だがゼルダはそちらを見ないまま、冗談のようにのろのろと右手を上げる。
 開いた手のひらから太陽のようなまぶしい金色があふれて、魔物は苦悶の声すら残さず掻き消えた。
(な、なんつう力だ……)
 ハイラルの姫といえばガノン討伐に必要な力を貸してくれたが、このゼルダの能力は完全に規格外だった。強すぎる。
(だから百年も厄災を抑えられるのか。ってことは、この夢はゼルダ姫がガノンを封印する前のことだな)
 ゼルダは足を止める。疲れたのだろうか。ウルフが不思議に思って眺めていると、彼女の目からはらりと涙がこぼれ落ちた。
(えっ)
 ゼルダの顔は、くしゃくしゃに歪んでいた。
「今さら……こんな力が何になると言うのですか」
 手から長物がすべり落ちて、布が開く。中から見えたのは刃こぼれだらけの、
(マスターソード!)
 何故リンクではなくゼルダ姫が持っているのだろう。もしや、ハテノ砦でガーディアンの群れに敗れたリンクから回収し、彼女が迷いの森に剣を持って行った――ということだろうか。
 彼女が泣き崩れて地面に膝をつくと、まるで励ますように剣がぴかりと光った。弱々しいが、目に優しい明かりだ。
「ごめんなさい。貴女の言う通りなら、まだ可能性はあるんですよね。デクの樹様のもとへ急がねば……」
 どうやらゼルダはマスターソードと会話しているようだった。残念ながらウルフには剣の声は聞き取れなかった。
 ゼルダは立ち上がり、再び前に進む。魔物も獣もいない、静かな森を確固たる足取りで抜けた。地図もないのに方角の見当もついているようだった。
 細い足で木の根を乗り越えてたどり着いた先には、ウルフにも見覚えのあるマスターソードの台座があった。
(時の神殿……はないみたいだな)
 見渡す限り、人工物は三角形の台座くらいだ。あの廃墟は森に呑まれたのだろうか。
 むき出しになったマスターソードを台座の上にそっと横たえて、ゼルダはひざまずく。
「いつの日か、貴女の主がここを訪れるまで、待っていてください。貴女の言うように長い眠りが彼の記憶を奪ったとしても……大丈夫。あの人はまたきっと、貴女の前に現れます」
(なんでそんな風に言うんだよ……)
 まるでゼルダは、自分がリンクと再会するようなことはない、と確信しているかのような口ぶりであった。少なくともウルフにはそう聞こえた。
 百年も厄災を封印しているのは、リンクの助けを待っているからではないのか? 
「ハイラルの姫巫女よ……」
 突然、上から声が降ってきた。ウルフはぎょっとしてそちらを向く。
 木だ。台座の奥に生えた大樹が――ウルフのハイラルでいうところの森の神殿に生えていたような巨木が、眉と髭のような木肌を動かし、言葉を紡いでいる。
(木が喋った!?)
 動物や精霊とも会話した経験があるのに、これにはウルフも驚いてしまった。
 ゼルダは立ち上がった。
「デクの樹様でいらっしゃいますね。マスターソードが教えてくれました。私にはやることが……まだ、やれることがあります」
 その横顔は決意に彩られている。
「強うなられたの、姫巫女」
 ゼルダは小さく笑った。
「デクの樹様はご存知でしたか。私がどれほど弱くて……力もなく、彼に頼りきりだったのかを」
 浮かべた笑みはしかし、自嘲のものであった。デクの樹と呼ばれた老木は嘆息する。
「デクの樹様……いつの日か彼がここを訪れたら、伝えていただけますか?」
 ゼルダは一歩前に出る。
「私は彼に、ひどいことをしてしまいました。何もかも彼一人に押し付けて、挙げ句の果てに、大切な命まで散らせてしまった……。もう、私には彼と直接顔を合わせる権利など、ありません……」
 彼女は耐えきれないように両手で顔を覆う。
「勇者を救えるのは勇者だけだ、と最期にリンクは言っていました。私には彼を救うことはできなかった。ひどい仕打ちをした私のことを、リンクはいつも助けてくれたのに。だから、どうか……」
「姫巫女、あまり悔やむでない。それに彼の者に聞かせる言葉は、主の口より紡がれるべきではないか?」
「……そう、ですね」
 ゼルダは唇を噛んでうなずいたが、ウルフにはあまりその気がないように感じられた。深い深い後悔が彼女を包んでいた。
 ゼルダは退魔の剣を両手で持ち上げ、刀身を下に向けてゆっくりと台座に差し入れる。
 ウルフもあの剣を台座に戻した経験があるから、よく分かる。その瞬間、剣は活動を止める。傷ついたマスターソードは静かな眠りについたようだった。
 ゼルダは剣を見つめながら、ぽつりとつぶやく。
「リンク……いつか目覚めるあなたは、ここを訪れるのでしょうか。でも、再び剣を抜くべきかどうか、よく考えてほしいのです。勇者になれば、もう引き返せなくなります。
 こんなことを願う私は、きっと王女としても封印の巫女としても、失格なのでしょうね……。でもどうかあなたがあなたらしく、生きられますように」
 ゼルダは右手を天に差し伸べると、金色の光に包まれてその場から消えた。



 ゼルダ姫は瀕死のリンクを誰かに託し、一人で迷いの森に来てマスターソードをおさめた。そしておそらくは、その後単身でガノンを封印しに行ったのだろう。
 考えるだに、凄まじい精神力だ。その行動にはリンクへの思いがありありとあらわれている。
(こんなに思われてるくせに、本人はゼルダ姫のことあんまり気にしてないみたいだったな……)
 覚えていないとはいえ、薄情すぎるだろうとウルフは思う。「知らない人」と言ってインパに怒られるのも道理だ。
 ふと、ウルフは違和感を覚える。夢は終わったはずだが、目の前は真っ暗だった。
(そういえば俺、何してたんだっけ。そうだ、イーガ団が来て、ガーディアンが――)
 思い出した。あの後リンクは無事だったのだろうか。そしてもろに光線の直撃を受けた自分は、体が透けていったのだが――
(もしかして、元の世界に戻れたとか?)
 などと都合の良い期待をしてしまう。
 真っ暗なのは、まぶたが落ちているからのようだった。体が重く、なかなか持ち上がらない。ウルフは必死に目をこじ開けた。
 まず見えたのは、懐かしきくすんだ緑の勇者の衣だ。うつむいているため、自分の服装が目に入ったらしい。
(俺、元の姿に戻ってる!?)
 だが衣の緑は薄汚れて、赤いものが点々とついていた。怪我をしたのか? 首が変な角度に傾いている。全身が重くて動かない。ウルフは四肢をだらりと投げ出して、地面に座り込んでいるようだった。
(何か、おかしい……なんだこれ……)
 ウルフはなんとか首を動かして、横を見る。栗毛の馬の足が見えた。エポナだ、と心に希望が灯るが、それは――
(嘘だろ……)
 首はあらぬ方向に曲がり、エポナは地面に倒れ伏している。その体には生命が欠片も残っていないのだ、とウルフには分かってしまった。どういうことだ、エポナは先に馬宿へ逃げたはずではなかったのか。いや、それは向こうのハイラルでの話だ。
 それなら今、自分はどうなっているのだ。痛みはない。感じるのは、圧倒的な冷たさ――暗くてどこまでも底冷えのする、死の気配が全身を覆っていた。
(俺は、死んだのか。エポナと一緒に――だから、向こうのハイラルに呼ばれたのか?)
 最初にプルア博士は言っていた。シーカーストーンによる召喚は、命のないものを呼び出すのだと。もしそうであれば、ウルフが向こうに召喚されたこととも一致する。
 彼は動かない唇でも、枯れた喉でも「嘘だ」と叫びたかった。勇者が死んでいいはずがない。
 その時、雷鳴のように閃くものがあった。
(いや、俺はもう勇者じゃないんだ。こっちでも――あっちのハイラルでも)
 彼は魔王を倒し、勇者として使命を全うした。とっくの昔にその任を解かれたのだ。自分はいつまで勇者気分でいたのだろう。向こうのハイラルにだって、少し頼りないけれど立派な勇者がいたのに……。
 全身全霊を込めて持ち上げたまぶたが、また重くなってきた。このままでは、本格的に死の淵に引きずり込まれてしまう。
(そんなの嫌だ。まだやってないことが、山ほどあるのに)
 何よりも、名前も思い出せない「相棒」を、彼はまだ見つけていないのだった。
 ちかりとまぶたの裏に金色の光が灯った。女神のような優しい声がする。
 ――ごめんなさい。今の私では、これが精いっぱいでした。
 ――どうか、リンクのことをよろしくお願いします。



 かさりと草が体の上から落ちた。ウルフは飛び上がり、ぶるぶると体を震わせた。
(……生きてる)
 だが、四つの足と黒灰色の毛皮を持つ、ケモノの姿であった。それでもいい。死んでいるよりずっとマシだ。すっかりこちらの姿にも慣れてしまった。
 先ほどは何が起こったのだろう。連続で夢を見たのか、それとも――考えても仕方のないことだ。とにかく、今はきちんと目が覚めて体が動く。自分が生きていることは確かなようだった。
(どこだ、ここ)
 薄暗い部屋の天井に、さやえんどうのような形の明かりが灯っている。どうも木の内部のように思われた。そしてウルフは、葉っぱでつくられたベッドの上にいた。
「オオカミさん、起きまシたか?」
 草花の絨毯を踏みしめてぴょこりと顔を出したのは、葉っぱのお面をかぶった人形のようなものだった。
(こいつ、どこかで……あ、コログってやつか)
 何度かリンクが石の下から見つけていた気がする。部屋の中には、他にも何匹かのコログが見受けられた。ウルフはコログたちの集落にやって来たらしい。
 それにしても、ウルフは直前までハイラル平原にいたはずだった。何故ここまで移動したのだろうか。
「オオカミさん、ゆうしゃサマが探していまシたよ。ちょっと前まで、このコログの森にいたんでスけど……」
 リンクとは見事にはぐれたようだ。そして、ここはコログの森――もしかすると、迷いの森のことだろうか。
「あ、オオカミさん!」
 ウルフは矢も盾もたまらず駆け出した。
 大樹の外に出る。すれ違うコログは、ウルフを見ると皆怯えて震えていた。
 木の根を飛び越えた先には、見覚えのある光景が広がっていた。
(……マスターソード)
 台座に刺さった退魔の剣は、ゼルダが運んできた百年前の無残な姿から見事に復活を果たしていた。刀身は何者にも汚されぬ清浄な輝きを放ち、そこにだけ帯のように光が差している。
 ウルフは夢見るような足取りで剣に近寄った。
(どうか、俺の気持ちに応えてくれ……!)
 心の底から祈りを捧げた。その足が止まる。剣に近づく者は、彼だけではなかった。
「……ウルフくん?」
 マスターソードを挟んだ向こう側に、リンクがいた。
 彼は別れた時に着ていた服ではなく、あたたかそうなもこもこの服を着込んでいた。肩で息をしながらも、とびきり晴れやかな表情をしている。
「やっぱり、ここに帰ってきてくれたんだ……!」
 リンクはマスターソードの横を素通りして、ウルフに駆け寄った。地面に膝をつき、ぎゅっと抱きしめる。
(お、おいっ)
「無事で良かった、本当に。この前はごめんね。もう二度とあんなことさせないから」
 ウルフがかばったことを気にしているのだろうか。あれは仕方ないだろうと思う。死の恐怖を乗り越えることは勇者といえど難しい。自分とエポナの死という悪夢を味わった今のウルフには分かる。
 リンクはよりにもよって首のあたりをぎゅうぎゅう締め付けていた。
(く、くるしい)
「あ、ごめん。そうだ、エポナも無事だよ。ほら」
 リンクはぱっとウルフから離れると、口笛でエポナを呼んだ。エポナはもちろん五体満足で、かっぽかっぽと歩いてきた。悪夢で見た愛馬の変わり果てた姿が一瞬だけ重なり、ウルフはぶるりと震える。
(ウルフ、おかえりなさい)
(あ……ああ。迷惑かけて、悪かったよ)
 恐ろしくて、エポナに悪夢のことを尋ねられなかった。もし彼女にも「そうだ」と肯定されたら――立ち直れそうにない。
「やっとみんなそろったね。これでもう大丈夫!」
 リンクは心底嬉しそうに笑っていた。その脳天気な顔を見ていると、ウルフは自分が悪夢に怯えていたことが阿呆らしくなってしまう。
 それにしても、コログの話によるとリンクは一度ここへ訪れていたようだった。その時に剣は抜かなかったのだろうか。ウルフはマスターソードを注視する。リンクは顔を曇らせた。
「マスターソードだね。実は僕、あれを抜けなかったんだ。剣に主と認められなかったんだよ」
 そんなはずはない。間違いなくリンクは勇者だ。ゼルダが思いを託した相手が、どうして剣を抜けないなどということがありえるのだろう。
「でも、退魔の剣の力はこの先きっと、必要になる……」
 リンクは剣にゆっくりと近づいていった。
 言葉は発さないが、デクの樹がじっと見守っている気配があった。
 リンクは剣の柄に手をやるわけでなく、台座の上に片膝をついた。いつもウルフに対してやっているのと同じく、まるでマスターソードと目線を合わせるかのように。
「ねえ、僕じゃきみを扱うには力不足だって言いたいんだよね?」
(マスターソードに話しかけてる……!)
 リンクにはゼルダと同じように声が聞こえるのだろうか。だがどうもそういうわけではなく、彼は一方的に喋っているようだった。
「……いや、自分の実力はよく分かってるよ。でもだからこそ、きみの力を貸してほしい。僕のことは主と認めなくてもいい。ただ、ガノンを倒すっていう同じ目的に向かって協力してほしいんだ。仲間として――!」
 リンクはまるで騎士が主君に対してそうするかのように、こうべを垂れた。
 ウルフはごくりと唾を飲む。永遠のような一瞬が過ぎて、マスターソードの柄にはめ込まれた黄色い輝石が、ちかりと光を放った。
(マスターソードが応えた!)
 リンクは息をととのえ、両手を剣にかける。
「おお……」
 デクの樹が声を漏らす。マスターソードはろくに力を込める必要もなく、するりと台座から抜けた。
 かつてウルフは、あの剣に認められた勇者であった。その時は「使うもの」と「使われるもの」として勇者と剣の関係があった。
 だがこのリンクは違う。肩を並べて戦う仲間として、剣を抜いたのだ。
 彼はじっと剣を見つめ、まばたきすらせずに硬直する。
 感慨にふけっているのかと思えば、違かった。どうやらまた、よみがえった記憶に足を浸しているらしい。
 彼が意識を取り戻すのを待って、デクの樹は言った。
「今主が見たは、百年前のこの場所……その剣が主の手を離れ、ハイラルの姫巫女によってこの地に運ばれた時の出来事よ」
 ということは、ウルフの夢とほぼ同じ光景を見たのだろう。ゼルダの願いが少しでも彼に伝わればいいと思ってしまう。
「あの娘は、今もハイラル城で懸命に戦っておる。主が必ず来てくれる、と信じてな……」
 リンクはしっかりと頭を縦に振った。
「ゆうしゃサマー!」
 マスターソードが抜かれたのを見て、隠れていたコログがわらわらまわりに集まってくる。細っこいの大きいの小さいの、お面の形も様々で、なかなか壮観だ。
「これをお使いくだサい!」
 コログが三匹がかりで運んできたのは、群青色の地を金で縁取った、豪華な剣の鞘だった。
「マスターソードの鞘でス。昔ゆうしゃサマが使われていたというものを真似っこしてつくりましタ!」
「ありがとう、みんな」
 リンクははにかみながら剣を鞘に収める。ぴたりと寸法はあっていた。
 デクの樹が口を開く。
「マスターソードは厄災ガノンややつの怨念を帯びし者に対した時、聖なる光をまとい、真の力を発揮するじゃろう……じゃが、分かっておろうな」
「はい」
 リンクは一度鞘に収めた剣を抜こうとしたが、無理だった。
「こういうことですよね」
 肝心な時にしか使えないということか。リンクは剣の主ではないのだから、仕方ないかもしれない。
(でもなんか厳しいな、このマスターソード)
 ウルフの時は大した覚悟がなくともあっさり抜けたというのに。このリンクに一体何が足りないのだろう。
「百年前の主の相棒、大事に使うことじゃ。主を待っておる者のためにもな」
 リンクは抜けない剣を背負った。即エポナの背に放り投げないだけマシだろう。
「どう、ちょっとは勇者っぽくなったかな?」
 彼が自慢げに胸を張ると、「さすがはゆうしゃサマです!」とコログたちがころころ歓声を上げる。
 だがこの晴れやかな場で、ウルフは一人、静かに消沈していた。リンクが心配そうなまなざしを向ける。
「……ウルフくん? どうしたの」
(ああ、どうせこうなるって、分かってたさ)
 マスターソードに近づいても、ウルフの姿は元に戻らなかった。それはつまり、ウルフは何かの呪いによってケモノの姿と化しているわけではないということ。そもそも、退魔の剣の力で解消できるような問題ではなかったのだ。
 それに、たとえ元の世界に戻れたとして、そこで自分がもう死んでいるのだとしたら――あの悪夢はウルフの心に大きな影を落としていた。
 リンクの旅についていこう、と決意する。勇者の旅路を手助けすることくらいしか、もう自分にはできないのだ。
「ウルフくんみたいな人が勇者だったら、マスターソードも素直に認めてくれただろうにね。でも、やっぱり勇者は僕しかいないみたいだから。僕はやるよ」
 リンクは口の端を持ち上げて、にっと笑った。いつの間にこんな顔をするようになったのだろうか。勇者の後輩は着実に成長していた。
「そうだ。きみがいない間、いろんな人に迷惑をかけたんだった……。ちゃんと謝りにいかないとね」
 リンクはしゃがみこみ、ウルフの頭をさっとなでる。
「またよろしくね、ウルフくん」
(……仕方ねえな)
 大切な相棒の名前を思い出せない。本来のハイラルではもう死んでいるかもしれない。追い詰められたウルフにとって、今やリンクの存在が拠り所になっていることは確かだった。



 ウルフはなんだか久々にカカリコ村を訪れた気がした。リンクはいつものように、真っ先にインパの屋敷に向かった。
 その脇にある道祖神の前で祈りを捧げていたパーヤが、気配を察して振り返った。
「リンク様! それにウルフ様も……ご無事で良かった」
 ほっと胸をなでおろすパーヤに、リンクはずかずかと近づいていく。
「り、リンク様……!?」
「本当にありがとうパーヤさんっ!」
 大胆にも、リンクは彼女の両手を自分の手のひらで包み込む。かわいそうに、パーヤは真っ赤になった顔を隠すこともできず、彫像のようになっていた。
「カッシーワさんをウオトリー村に向かわせてくれたの、パーヤさんなんだってね。あれがなかったら僕はずっとうじうじしてて、今でもウルフくんと再会できてなかったと思う。ありがとう」
「い、いえ……っ! プルア博士から手紙があったのです。ウルフ様の姿が見えなくなって、リンク様が落ち込まれていると。だ、だから私は、自分にできることをしただけでございます……!」
 なるほど、確かにリンクは各方面に心配をかけたらしい。きっとウオトリー村とやらにも厄介になったのだろう。ウルフがいなくなってから、予想以上に時間が経過していたようだ。
(そんなにこいつが落ち込んだ姿、見てみたいもんだな)
 ウルフの知る限りのリンクは大抵にこにこ明るいので、自分の不在時にどうなったのかあまり想像がつかなかった。
 パーヤは心臓が破裂してそのまま死にそうな顔をしていた。
「カッシーワさんの詩は素敵なものですから、き、気分を変えるのも大切かな、と思って……パーヤは、その……!」
 その光景が見ていられなくなり、ウルフは二人の間に割り込んだ。
「わっ。ああ、ごめんパーヤさん、ちょっと近かったね。男の人は苦手なんだよね」
「は、はいぃ……」
 パーヤは安心しつつも、何故だか残念そうにしていた。彼女から向けられる好意はいかにも分かりやすいのだが、リンクが全く意に介さないのが不思議だ。
(ゼルダ姫のこともあんまり話題に出さないしなあ)
 その上ゲルド女性とも友達感覚で接していた。こんなに長い付き合いになっても、彼の女性の好みが見えてこないのは不思議だった。
「それじゃ僕、インパさんに挨拶してくるね」
 リンクはウルフを伴い、きびすを返しかける。
「あっあの――」
 パーヤは慌てて声をかけた。
「何?」
 彼女はリンクの背中にある、豪華な鞘に収まった剣を指さす。
「マスターソード……おめでとうございます」
 リンクは何も言わずにこりと笑った。
 外階段を上り、屋敷の扉を開け放つ。リンクは堂々とした足取りでインパのもとに参上した。
 いつもの定位置に腰を下ろしたインパは、顔をほころばせる。
「おお、ウルフが無事に戻ったか」
「はい。その節はご迷惑をおかけしました。もう大丈夫です」
「それに……マスターソードを抜いたのだな」
「まあ、一応ですけど」
 リンクは照れ笑いする。台座からは抜いたが、鞘からは抜けない状態だ。それでも厄災に挑むにあたって彼は大きな一歩を踏み出せた。
 インパはうんうんとうなずき、
「他に何か進展はあったのか。どうやら、新たな力を得たようだが」
「神獣ヴァ・メドーを解放し、英傑リーバルの力を手に入れました」
(え!)
 そんな話、ウルフは聞いていない。リンクは一人で神獣を攻略したということか。
(なんだ、こいつ一人でもやれるのかよ……)
 それでは、リンクは何故「ウルフがいないとだめ」などと、ことあるごとに言うのだろう。
 インパは膝をぱしんと叩く。
「残るは神獣ヴァ・ナボリスだな。おそらくナボリスについては砂漠の民、ゲルドが知っておろう」
「分かりました。すぐに向かいます」
(でもゲルドの街は男子禁制なんだろ? どうすりゃいいんだよ)
 インパはそのことを知っているのだろうか。もしくは分かっていて、勇者がどのように切り抜けるのか図っているのかもしれない。
 リンクが立ち上がったと同時に、パーヤが息を切らせて屋敷に帰ってきた。もしかして、リンクの見送りのために仕事を終わらせたのだろうか。
「リンク様! その……勇者の魂、という言葉を知っておられますか」
 彼女の発言はいささか唐突であった。ウルフはまばたきしたが、リンクはぽんと手を打つ。
「ああ、カッシーワさんの詩にあったよね。勇者は代々、その魂を持って生まれてくるとかっていう……それがどうかしたの?」
 もしその言い伝えが本当だとすると、ウルフとリンクは同じ魂を持つことになる。果たして、そんな者が同時に存在できるものだろうか。もしくはもう勇者でないウルフからは、魂すら抜けているのかもしれない。
 パーヤはうつむく。
「いえ、勇者の魂がどういうものなのか、気になりまして。リンク様に関わることですから……」
 パーヤはごく控えめに己の気持ちを表現した。もちろんそんな程度ではリンクには伝わらない。彼は不思議そうにしていた。
「勇者の魂かあ……もしそれが本当にあるなら、今の僕にはもう残ってないだろうね。記憶が飛んだ時に一緒に消えちゃったんじゃないかな。僕には勇気なんて全然ない。マスターソードだって僕を主と認めたわけじゃなくて、ガノンを倒すために協力してくれてるだけだから」
 意外と冷めた発言をするものだ。こういう時、ウルフはもどかしくなり、全力で反論したくなる。そうじゃないだろ、と。
 パーヤはおもてを上げ、強い光を瞳に宿らせた。
「そうでしょうか。魂の有無にかかわらず、リンク様は神獣を三体も解放しました。いえ、その前からずっと、パーヤにとってはリンク様が勇者です」
 リンクは微笑む。そして、ウルフにだけ聞こえる声でつぶやいた。
「だめなんだよ、神獣だけじゃ。ちゃんとガノンを倒さなくちゃ、勇者とは呼べないんだよ」



 まっすぐゲルドの街に向かうとインパに宣言したくせに、リンクはついでとばかりにアッカレ地方へ足を伸ばし、イチカラ村に顔を出していた。
「サヴァーク、リンク! 心配したんだよ、もう」
 無事に村までたどり着いたパウダを訪ねると、彼女はリンクを見つけた途端に怒り出した。
「ごめんなさいパウダさん、放ったらかしにしちゃって」
 リンクはウルフとはぐれた後、別の旅人にパウダを任せてウルフを探しに出たと語っていた。怒られて当然だ。それなのにちゃんと村に居着いて、自作の服を売って商売までしている様子のパウダには頭が下がる。
 リンクは首をかしげてパウダの隣を見る。
「そうだ、エノキダさんはどんな調子です?」
 珍しくエノキダはツルハシを持たず、何故かパウダの服屋に居座っていたのだ。
「早速作業着を繕ってもらった。しかもいい匂いがする」
 そういえば、作業着がぼろぼろになるから裁縫上手のゲルド族探しを頼まれていたのだった。その依頼を受けたのが、もはやはるか昔の話のように思える。
「ゲルドの香を焚きしめた石鹸を使ったからね。あれで洗うと汚れにも強くなるんだよ。でも毎日作業着がどこかほころぶから、あまり変わらないのかもしれないけど……」
 自慢げにパウダが言った。何故だかウルフには惚気のようにも聞こえた。
「他に僕にできることってありますか」
 リンクはいつものように申し出た。もはやそれを止める気にはなれない。勇者業ときちんと両立させた上で村づくりに携わっているのだから、ウルフがとやかく言う理由などなかった。
「ああ……いよいよここを村らしくしたいのだが、そのためには物流をつくらないとな」
 物流。それはさすらいの料理人マッツが言っていたことと合致する。いよいよ人を呼ぶ体制が整ってくるわけだ。
「そんなわけでよろず屋を招きたいんだが、俺たちにはそのノウハウもコネもない」
「ああー、確かに……」
「なので物流も含めて、即戦力になるよろず屋をできそうなやつを探してくれないか?」
「物流……なら、リト族がいいかもしれませんね」
 リンクが初めて積極的に意見した。リトの神獣を鎮めてきたと言うから、すでに顔は知れているのだろう。
「そうだな。リト族なら翼で飛び回っていろいろ仕入れられそうだ」
「名前の最後が『ダ』の人ですよね。また見つけてみます」
「悪い。頼んだ」
 エノキダとリンクは歳も離れているし、職業や生き方など正反対なのだが、妙に呼吸があっていた。
 エノキダは休憩が終わったのか、ツルハシを担いでいく。
 途端にパウダは小声になった。
「それにしてもエノキダってば、つっけんどんだし、つまらないヴォーイね。せっかくここまでヴォーイ・ハントに来たのに、あんなのしかいないのかしら……」
 リンクは苦笑した。
「エノキダさんは派手じゃないかもしれないけど、すごい人ですよ。岩だらけだった土地を、どんどん人の住む村に変えていくんですから。もしかしたら、勇者よりもずっとすごいかもしれない」
「えっ、勇者?」
「なんでもありません」
 とリンクは少し寂しげに笑った。
(もしかして、エノキダが羨ましいのか……?)
 その問いの答えは当然返ってこなかった。
 リンクは村を一周し、知り合いに一通り声をかけ終えた。入口のアーチの下に戻ってシーカーストーンのマップを表示する。
「さて、リトの村へ……って言いたいところだけど、次はゲルド砂漠に向かうよ」
 リンクと出会ってから思いがけず月日が経ったが、今回彼はほとんど初めて、神獣解放を優先させたのではないだろうか。ウルフの胸にじわりと感動がこみ上げる。
(勇者らしくなったじゃねえか)
 だから、わずかにリンクの顔がこわばっているのは、気のせいと思うことにしておいた。

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