第一章 真夜中の王国



 閉ざされた石の扉があった。
 正面には国を守護する鳥を象った王家の紋章が刻まれており、その下には扉の名が彫られている——「時の扉」と。
 それがつなぐのは場所ではなく時間だ。くぐり抜けた者をはるかな過去にも遠い未来にもいざなう、魔法の扉である。
 時を超えるすべがこの世にあることを知った「その人」は、強い願いを抱いた。
 自分はいつか、扉の向こうに行く。そして……時の勇者に会うのだ、と。



 ドアノブに手をかけ、ぐっと力を込めた。
 重い扉はなかなか動かない。まるで行く手を阻まんとしているかのように。
 ルビー色の髪を肩の下で切りそろえた背の低い女が、自宅の玄関扉と必死に格闘していた。
 彼女——クロスは細腕に目一杯力を込めながら、己の目的を再確認する。
(本当なら出たくない。家の外になんか一歩も行きたくない。一生引きこもって暮らしていたい!)
 強烈な衝動が沸き上がって一瞬力が抜けたが、
(でも……外に出ないと、もう食料が)
 萎えたやる気をなんとか奮い立たせた。いよいよ両手と肩まで使って扉を押し開けながら、彼女は自分が外出する羽目になった経緯に思いを馳せる。
 クロスはハイラル城下町の一角にある広い屋敷で暮らしている。出不精の彼女は、買い物のような外出の必要がある用事を、近所にいるジョバンニという青年に一括して頼むことで、人間らしい生活を成り立たせていた。
 だが、そんな親切な彼と突然連絡がつかなくなった。週に一度の買い出しの日である昨日、予定の時刻になってもジョバンニはやってこなかった。最近付き合いはじめたと噂のガールフレンドにかまけているのか、もしくは事故にでもあってしまったのか。当然引きこもっているので情報はまるで入ってこない。
 だから、クロスは夕闇の沈んだこんな時刻になってから、しびれを切らして町に繰り出そうとしているのだ。ジョバンニの家に直接押しかけるつもりで。
 ゆっくりと扉が開く。外の空気が冷たく吹き抜ける。
(この服で出て大丈夫だったかな……)
 と、クロスは今更不安になってきた。いつもの服装——寝巻きとほぼ区別がつかない——ではさすがにまずいということで、ほぼ唯一持っているよそ行きの服を引っ張り出してきたのだが。流行りを追いかける必要は感じないけれど、最低限の身だしなみは整えておきたい、という気持ちがあった。なぜなら——「あの家の女主人はボロボロの格好で外に出る」なんて噂が立ったら、我が家の評判に傷がつくではないか!
 全身で扉に体重をかける。ぎぎ……という鈍い音とともに、やっと開いた。十何日ぶりか何十日ぶりかは忘れたが、外の景色が目に入る。そこには見慣れた屋敷の前庭と城下町の小道がある——はずだった。
「……え?」
 クロスは深いアメジスト色の瞳を瞬きする。思わず数歩前に出てから振り返り、時計を確認した。「時計屋敷」なんてあだ名される彼女の家には、玄関扉の上に立派な時計がついていた。まめに整備しているため示す時刻は正確だ。今は午後の七時——確かに日没は過ぎたはず。なのに、どうして目の前にはぼんやりした黄昏色の景色が広がっているのだろう?
「夕方ではないのに……」
 はっとして手のひらを見る。薄ぼんやりした影がかかっていた。これは本物の光ではない?
 クロスは居てもたってもいられず、鈍い黄昏色に染まった髪を揺らしながら、裏通りを抜けて広場に出た。
「ひっ」
 危うく腰を抜かすところだった。
 ハイラル王国の中心部、城下町。町人と旅人が交差する中央広場は、今日も一番の賑わいを見せている——ただし、無数の青白い炎で。クロスは思わず体を引っ込めて、裏道の家壁に背中をつけた。
 よくよく目を凝らすと、炎の一つ一つに重なるようにして、うっすら人影が浮かんでいる。皆が——町人も旅人も兵士も皆等しく、人魂とでも呼ぶべき存在に成り果てている。誰もその事実に気づかないまま。
(一体いつから城下町があの世に……!?)
 胸元を掴んで恐怖に耐えようとし——ふと自分の体を見下ろした。「もしや己も人魂になってしまったのでは」と思ったのだが、見たところ普通だった。自分では炎を認識できないのかもしれない。
 この時点でクロスはもう家に帰りたくて仕方なかった。だが、帰ったところで飢え死にするだけだ。彼女は広場に背を向け、裏通りからジョバンニの家を目指すことにした。
 ジョバンニの家の前には広い空き地がある。庭とも呼べないような荒れた土地は、町に住む野良猫たちのために解放されているのだ。しかし、いつもは集会を開いている猫たちが、今日は一匹もいない。人間よりよほど気配に敏い彼らは、いち早く城下町の異変を感じ取ったのだろう。
 クロスは空き地を横切り、意を決してジョバンニの家の戸を叩く。
「ジョバンニさん……時計屋敷のクロスです」
 耳を澄ませど返事がない。ドアには鍵がかかっていた。
 留守か、はたまた居留守か。後者だとしても、クロスはこの扉をこじ開けるような膂力を持ち合わせていない。
(あとの心当たりは、テルマさんの酒場くらいしか……)
 南の大通りから一本裏に入ったところにある酒場だ。クロスもごくたまに利用する。確かジョバンニは常連だったはずだ。あそこに行けば何か情報がつかめるに違いない。もしかすると、城下町の異変に関しても——
 クロスはビクビクしながら南通りの石畳を踏む。通り沿いには露店が並び、本日も活況を呈していたが、こんな状態ではものを買う気にならない。それに、ここで何か買ってしまったら最後、「自分で買えるんじゃないか」ということでジョバンニに用事を頼めなくなる可能性がある。彼女は大真面目に「それはダメだ」と思った。
 ゴロン族の商人が温泉水を売りさばく声を聞きながら、クロスは市場から目を背け、再び路地に飛び込んだ。
 城下町にはこういう道がいくつもある。人の多い場所が苦手な彼女は好んで裏道を歩いた。ただ、普段から歩き慣れているわけではないので、慎重に現在位置を見極める必要がある。壁のタイル模様や石畳のすり減り具合を頼りに方向を把握し、脳内で割り出した最短距離でテルマの酒場に向かった。
 不意に彼女は足を止めた。
「……あら」
 路地の真ん中に、黒っぽいものがうずくまっている。短い毛の野良猫だった。艶のある毛皮は血で濡れていた。
 心ない人間にいじめられたのか、同族同士の争いか。しゃがみこんでそっと体をなでると、まだあたたかかった。息をしている。
(もしやジョバンニのところの……?)
 こんな真っ黒な猫が集会に参加していただろうか、思い出せない。しかもこうして触ってしまった以上、見ないふりをして放っておくこともできない。
 ふと、よこしまな気持ちが湧いた。一人暮らしにも飽いたところだ。ジョバンニ家のゲンゴロウやテルマの酒場の看板猫ルイーズと接していて、前から猫を飼いたいと思っていた。この子は野良のようだし、連れ帰って看病すれば懐くかもしれない。
 怪我した脚に、持ち歩いていたハンカチを巻いてやる。血がにじんだ。クロスはそっと猫の体を抱き上げた。
 猫が「ぐにゃあ」と声を発した。小さな体がぶるぶる震える。持ち上げられるのは嫌だったのか、と腕の中の生き物に視線を落とした瞬間——クロスは息を止めた。
(後ろに誰かいる)
 濃密な黄昏の中で、誰かがこちらを凝視している。
 嫌な予感を無視してクロスは振り返った。ひゅっと喉の奥が鳴った。
 赤い髪をたてがみのようになびかせた大男だ。路地を塞ぐように仁王立ちしていて、金色の瞳がこちらをひたと睨んでいる。戦装束で全身を覆い、腰には白く光る大剣を佩いていた。
 大男は太い声で空気を震わせる。
「探したぞ」
(……っ!?)
 ぎゅうと黒猫を抱きしめる。全身の震えが止まらない。猫の飼い主かと冗談を飛ばすには、あまりにも剣呑すぎた。まるで大型の動物に牙を向けられたかのように、正面から死の風が吹き付けてくる。
 大男がクロスににじりよってきた。その背後から、ふいに犬らしき動物の吠え声がした。
(今しかないっ)
 男の気がそれたのを感じ、即座に身を翻す。黒猫をしっかり抱えながら、こけつまろびつ角を曲がって大通りに出た。
 人魂の群れでも、あの男とまともに対峙するより百倍ましだ。彼女は後ろを振り返らず、全速力でテルマの酒場を目指す。
 息を荒げながら南通りの市場を抜けると、酒場のある路地への入り口が見えた。安堵の涙がこみ上げてくる。最後の力を振り絞って階段を降り、半地下に位置する扉を思いっきり開けた。
「おや、珍しい客じゃないか。いらっしゃい、クロス。でもちょいとタイミングが悪かったね」
 女主人テルマがカウンターの内側から声をかける。酔っぱらいの相手など片手でこなせそうな、いかにも肝が据わった風貌の店主だ。
 クロスは気が抜けて、その場にへたり込みそうになった。なんとか足を奮い立たせ、よろよろとカウンターに向かう。
 酒場の中をざっと見回す。あのおかしな黄昏の光も人魂も、何故かここでは見えなかった。ほっとする。
 足元に看板猫のルイーズが近寄ってくる。真っ白な毛並みとふさふさのしっぽが特徴的で、クロスが拾った猫とは真反対の見た目だ。
「こんばんは、ルイーズ。もしかしてこの子のお知り合いですか」
 精一杯気を張ったつもりだが、顔はこわばり、声が震えていた。ルイーズは黒猫を一瞥して去っていった。
 カウンターチェアに腰掛け、猫を膝に乗せてやる。いつの間にか拾い子はすやすや寝ていた。
(あんなことがあった後なのに、なんてのんきな)
 気の抜ける思いだった。
「やけに疲れてるようだけど、何かあったのかい」
「ええ、いろいろあったんですよ、いろいろ」
 むしゃくしゃしたクロスはテルマに強い酒を頼んだ。グラス半分を一息に仰げば、胃の腑が熱くなる。
 夜の黄昏、炎になった人々、消えたジョバンニに謎の大男。もはや一日に許容できる事件の数を完全に超えていた。「飲まなきゃやってられない」という気分だった。
 いくら喉を潤しても一向に酔えなかった。まだあの大男に出くわした時の恐怖が体に染みついているのだ。盛大にため息をついた彼女は、なんだか店内の様子がおかしいことに気づく。奥のテーブルで兵士たちが騒いでいるせいかと思えば、違った。
「大丈夫よ、今にお医者様が来てくれるから」
 酒場の喧騒に似つかわしくない、少女の柔らかい声が聞こえる。壁際のテーブルが片付けられて、誰かが床に寝かされていた。寒色の肌に繊細な装飾品——どうやら噂に聞くゾーラ族の子供のようだった。本物を見るのは初めてである。そのゾーラを、見慣れぬ服装の女の子が必死に看病していた。
「あれは?」
 テルマは肩をすくめる。
「北のゾーラの里からやってきたみたいなんだけど、町の外で倒れてたんだってさ。医者を呼びに行かせたから、もうすぐ来るだろうね」
「医者って東門のところの?」
「まあ、ヤブだけど」
 テルマは渋い顔になる。クロスは話題を変えた。
「あの人、町の人間じゃありませんよね」見知らぬ女の子はなんと裸足だった。酒場に来るような年齢とも思えない。クロスも実年齢よりずいぶん下に見られることが多いので、あまり他人をとやかく言えないのだが。
「さあ……いきなりあのゾーラを連れてきたんだよ。どうやら記憶がなくて、自分の名前も分からないらしいけど」
「それなのに、他人を助けているんですか」
 麗しい精神だがクロスは見習おうとは思わない。これが都会人らしい冷たさなのかもしれない。
 人情に弱いテルマは今にも仕事を切り上げて少女を手伝いたそうにしていたが、クロスには本来の目的がある。人心地ついたところで、それを思い出した。
「テルマさん。ジョバンニの行方を知りませんか」
 女主人は首を振った。
「ああ、あんたが珍しくうちに来たと思ったらそういうわけかい。それがね、恋人が捜索願を出したって聞いたよ」
「なっ……」
 絶句する。どうやら彼の失踪は確定してしまったようだ。ならば新たなる情報を求めて恋人を当たるべきだろうか? いや、捜索願を出したくらいだから、恋人でも手がかりがつかめていないということになる。
 もしかして、これからは自分で買い物しなければならなくなるのか。もしくはテルマを頼って新しくバイトでも雇うか。それにはどの程度お金がかかるだろう。近所のよしみで雑事を引き受けてくれていたジョバンニの存在が、これほどありがたく思えたことはない。
(絶対に彼を連れ戻さないと……!)
 しかし、あんな物騒な大男が歩き回る城下町に再び繰り出す勇気はなかった。
 悶々としながら一杯干した。追加注文するか迷っていると、眠りから覚めたのか、膝の上で猫が身じろぎした。
「あれ、その子はなんだい」とテルマが目にとめる。
「怪我していたのを拾ったんです。おそらく野良でしょう」
「ならその子に行方を聞いてみたらどうだい? 恩返ししてくれるかもしれないよ」
「ええ……?」
 テルマの口調は大真面目だった。確かにルイーズはたいていの人より賢そうだが。
 クロスは黒猫を抱き上げ、目線を合わせる。猫は綺麗な緋色の瞳をしていた。
「ジョバンニという人の居場所を知りませんか」
 黒猫はこくんとうなずいた。
「え」
 目を丸くするクロスの手から逃れ、猫はしなやかに床に降り立った。脚に巻いたハンカチが落ちる。猫は、すっかり怪我が治ったかのようにぴんぴんしていた。
 もしや本当に言葉が通じたのだろうか。クロスは浮足立ってカウンターに酒代を置く。
「待ってください、今向かいます」
 本当に道案内してもらえるなら儲けものだ。「夜も遅いし気をつけるんだよ」というテルマの言葉を背中に受けながら、黒猫に先立ち酒場の扉を開けようとして——ドアノブが勝手に動き、ぐいっと腕が引かれた。
「わっ」
「イリア!」
 と叫びながら、クロスと入れ違いに酒場に入ってきたのは麦穂色の髪を持つ青年だった。緑の古めかしい装束を着ていて、剣を背負っている。まるで芝居から抜け出てきたような剣士様だ。
 彼はクロスに見向きもせず、店の奥にいるゾーラと少女の方へ向かっていく。いつの間にかテルマも少女のそばにいた。
(ゾーラかあの子の知り合い……?)
 どちらにせよクロスには関わりのないことだ。
 黒猫はさっさと扉を抜けていったらしい。青年の存在を頭から追い出し、外に出る。
 途端にクロスはあっけにとられた。あたりが暗い。家々の屋根に切り取られた四角い夜空が頭上に広がっている。大通りの方に目をやると、炎と化していた人々はいつも通りの姿に戻っていた。
(いつの間に——いや、目の錯覚だったのか)
 勘違いというならそれでいい。何よりも、今は一刻も早くジョバンニを見つけなければ!
「さあ、案内していただけますか」
 クロスの視線を受け、待っていた黒猫はしゃなりしゃなりと町を歩いていく。
 普通、動物とこんなに意思疎通ができるものだろうか? 拾い子は特別賢い猫なのかもしれない。ますます飼う気が湧いてきた。
 下を向いて夢中で黒猫を追いかけるクロスを、すれ違う人々はまるで無視していく。城下町特有の無関心さだが、奇異の目を向けられるよりはよほどありがたい。
 猫は途中で裏通りに入った。例の大男のことを思い出して緊張が走ったが、猫を見失うわけにもいかない。
 早足で追いながら、どんどん見覚えのある景色が後ろに流れていく。今歩いているのは、彼女にとっての家路だった。
 建物の隙間から、馴染みのある屋根がちらりと見える。
(私の家が……)
 その瞬間クロスの足は止まった。
 帰りたい。一体何十分、いや何時間外を出歩いているのだろう。すぐにでもあそこに帰りたい!
 熱い視線を虚空に向ける彼女に気づいたのだろう、猫も少し先で立ち止まった。クロスはかぶりを振った。
「すみません。行きましょう」
 無理やり未練を断ち切って、足を踏み出す。やがて猫の案内のもと、クロスは再び空き地のある家にたどり着いた。
 ジョバンニの家の前には、ぽつりぽつりと猫たちが戻ってきていた。彼らのボスであるゲンゴロウの姿は見えない。
「やっぱりここなんですか?」
 黒猫はぴょんとジャンプして家の窓枠に飛び乗る。まさか、ここから侵入しろというわけか。
 あたりを見回し人がいないことを確認してから、窓に手をかける。
 玄関と違ってこちらは鍵がかかっていないらしい。不用心なことだ。だが、建て付けが悪くなっている。いくら腕に力を込めてもびくともしない。
 悪戦苦闘する彼女を見かねたように黒猫が前足を持ち上げ、窓に触れた。途端に手が軽くなって窓がスライドする。おまけに前傾姿勢になっていたせいか、開いた窓に上半身が吸い込まれる。「うわ!?」と情けない悲鳴をあげつつ、クロスは家の中に倒れこんだ。
 腰をおさえながら起き上がる。ジョバンニの家は薄暗いのにギラギラしていた。
 足元で金属音が鳴った。彼女が踏んでいるのは床ではなく、金貨の山だった。
(何これ……)
 見渡す限り、狭い室内が宝の山に埋め尽くされている。それも何故かルピーではなく外国の貨幣ばかりだ。
 あのジョバンニがこんなものを溜め込んでいたのか! と驚くクロスの前に、玉座と見まごうばかりの豪奢な椅子があった。そこに、金ぴかの人形が鎮座している。
「あっ……もしかして、クロスさん?」
 人形の喉が動いて言葉を発した。それは紛れもなくジョバンニの声だ。クロスは震え上がる。
「あ、あなたは……」
 肌は黄金、両目はエメラルドに置き換えられ、しかしひげと髪の毛が生えている。この声がなければ気づけなかっただろう、痩身だったはずのジョバンニは何故か見る影もなく太っていた。頭の上には、同じく金ぴかの彫像と化したゲンゴロウがいる。
「そう、ジョバンニだよ! もしかして、ボクを探しにきてくれたんだよね」
「ええ、まあ。これは一体、どういう状況なのですか」
 クロスはうそ寒そうに腕をかき抱き、身を縮める。金貨も宝石も不気味で仕方ない。
「それが……ボク、悪魔に魂を売ったんだ。彼女にプレゼントをしたくてさ。お金持ちにしてくださいって願ったら、こんな姿にされちゃったんだ」
 その話を聞いて呆れたらいいのか怯えたらいいのか、クロスには判別がつかなかった。
「悪魔」とは、近頃城下町でまことしやかにささやかれている噂だった。引きこもりの彼女でも知っているくらいには有名な話である。この町には、魂を奪う代わりになんでも願いを叶える悪魔がいるらしい。中央広場の誰それが魂を抜かれて寝たきりになったとか、曖昧な話は聞いたことがあるけれど、実際に被害者と会ったのはこれが初めてだ。
「魂……というより、身体の自由を奪われていませんか?」
「ボクの魂はばらばらにされて、ゴーストが持って行っちゃったんだよ。一応体にも魂の一部が残ってるみたいだけど……その体もこんな調子だし」
 自業自得、と切り捨てるわけにもいかない。お金欲しさに魂を売った——それは、もしクロスが気前よくバイト代を払っていたら防げた事態だったかもしれないのだ。
「それで、そのゴーストは」
「ボクの魂を持ったまま、ハイラルのあちこちに散らばっちゃったみたい……」
 声色だけで遺憾の意を表現する彼に、クロスは恐る恐る尋ねる。
「もしかしてそれを集めないと、あなたは元に戻れないとか……?」
「た、多分」
 冗談ではない。ハイラル中を巡るなど、悠長なことをやっていられるか。私は今晩の食事にも困っているというのに!
 つい先ほどまで噂だけの存在だった悪魔が確かな輪郭を持ち、今やクロスの生活を脅かしている。ふつふつと腹の底から怒りが湧いてきた。
 黙って考え事をする彼女に、ぼそりとジョバンニがつぶやく。
「それにしても、あの黒猫がまさか悪魔だとは思わなかったよ」
「……黒猫?」
 そういえばここまで案内してきたあの猫は、いつの間にか姿を消していた。
 ——まさか。
「もしかしてその猫、赤い目をしていませんでしたか」
「よく分かったね。会ったことでもあるの」ジョバンニは驚いたように声を上げた。
 クロスは開いた窓を睨みつける。月が出ているおかげで外の方が明るいくらいだ。
(あの子が悪魔? それなら、なんで怪我なんかして……)
 考えても仕方ない。クロスはジョバンニに向き直り、紫の瞳を燃え立たせた。
「いちいち魂を集めるより、直接犯人を問い詰める方が早いですよね」



 とはいえ手がかりを失ったクロスは、飛ぶように帰宅した。今日はもう何もしたくなかった。そのままベッドに飛び込んで、空腹を忘れてしまおうという魂胆だ。
 我が家の前庭を突っ切り、例の重い玄関扉を渾身の力で開く。すると、ほおに明るい日が差した。
(……は?)
 見慣れた調度品が迎えてくれるはずだったのに、家の中は何故か太陽の光に満たされた草原に様変わりしていた。
 背中で音もなく扉が閉まる。振り向けば、そこにあるはずの壁も入り口も消失していた。彼女の視界は青空と草原で二分されている。昼下がりのハイラル平原はこのような場所なのだろうか、と場違いなことを考えた。
「これは、ど、どういう……」
 散々走ったおかげで足が鈍く痛む。どうやら夢ではないらしい。ぼんやりした日に手をかざすと影ができる。どきりとした。あの黄昏のように、これも本物ではない。体を包み込む陽の光はどこか温かみに欠けていた。
 疲れた体に鞭打って、のぼり坂になっている草原を歩いた。どうやら丘の途中にいるようだ。あたりは驚くほどのどかで、どこからか鳥の鳴き声すら聞こえてきた。
 しばらくのぼると、丘の頂上に一本の大樹が見えた。その根元に黒っぽい影がうずくまっている。
 それは例の黒猫のように見えた。すなわち悪魔だ。そう、クロスは酒場からの帰り道、あの猫に家の位置を教えてしまった。もしや彼女がジョバンニの話を聞いている間に、悪魔が家をこんな風にした——ということだろうか?
 肩で息をしながら丘の上にたどりつくと、大樹の足元に座る「それ」の正体がはっきりした。
 飾り気のない黒いワンピースを着た女の子だった。ずいぶん幼く、十歳そこらだろうか。波打つ蜜色の髪が背中に踊っている。彼女は木陰で膝を抱え、顔を伏せていた。
 どう見ても猫ではない。だが、怪しいことこの上ない。意を決して口を開く。
「あの」
「——ダメなのよ」
 くぐもった声がクロスの呼びかけを遮った。
「あたしには帰る場所がない……ずっと、ここにいるしかないんだ」
 女の子は肩を震わせていた。どうやら泣いているようだった。
 クロスは脱力する。相手が何を言っているのか、まるで意味が分からない。どうも深刻そうな様子だが——相手は悪魔なのだ。
「ずっとここにって……ここは私の家ですが」
 刺のある声で割り込むと、少女は初めてクロスの存在に気づいたように顔を上げた。
 黒猫と同じ緋色の目だ。ほおに涙の跡がある。
 クロスは確信する。彼女こそが、世間を騒がせる悪魔なのだと。
「あなたは私の家を不当な占拠しています。出て行ってください」
 黄昏の中で出会った大男よりはよほど話が通じそうだ。だいたい悪魔はジョバンニとだってそれなりに取引きを成り立たせているのだ。おまけに相手は弱りきった女の子——急に強気になったクロスはごく冷静に喋った。
 悪魔は何かを考えるようにちらりと視線を外すと、再び顔を伏せた。
「なっ……」
 今、明らかにクロスを無視した。話を聞く気がないに違いない!
 目の奥が焼けるような怒りを味わいながら、必死に考える。
 先ほど悪魔は何とつぶやいた? 帰る場所がない、ずっとここにいる——ならば、帰る場所があればいいのか。クロスの頭に、それこそ悪魔的な考えがよぎる。
「この家をあなたの居場所にしたらどうですか」
 ぴくりと悪魔の肩が揺れる。クロスの言葉に耳を澄ませているようだ。
「私に毎月家賃を払えば、一部屋あなたに貸しますよ。屋敷が広くて部屋が余ってるんです」
 再び悪魔がおもてを上げる。面白い話を聞いた、というふうに口の端を吊り上げながら。
「ふうん……悪魔と取引きしようっての?」
「いや、ただの賃貸契約です。あなた、住所がほしくありませんか」
 悪魔はスカートの埃を払って立ち上がる。クロスよりも頭一つ分ほど小さいが、体のサイズに見合わず迫力は満点だった。そこにいるだけで妙に存在感があるのだ。彼女はふうっと息を吐く。
「何言ってるのよ、そんな話に乗るわけないでしょ」
「私が拾ったときに怪我をしていたのは、あの大男にやられたんですか?」
 悪魔の表情が変わる。整った眉が鋭く跳ね上がった。
「あなたはあの男に狙われているのではないですか。ほら、悪魔同士の縄張り争いとかで」
「まさか。あいつは悪魔なんかじゃなくて——」そこで言葉を区切り、「まあいいわ。とにかくトワイライトも解消されたし、そうそうあいつが出歩くことはないはずよ」
 それを聞いてクロスはこっそり安堵した。トワイライトとやらが何かは分からないが、もうあの大男に怯えずに済むらしい。
「それよりもこの家、なんなの? 侵入者よけの罠にしては豪華すぎるでしょ。トラウマ級の精神世界の再現とか、趣味が悪いわ」
 悪魔は腰に手を当て、下からクロスをねめつける。
「罠……? あなたが我が家をこんなふうにしたのでしょう」
「言い逃れするつもり? あの扉に触れたらいきなり——」
 急に悪魔は半眼になって口をつぐむ。よく分からないことばかり言う彼女に対し、クロスは結論を急いだ。
「それで、部屋を借りるか借りないか、どっちなんですか」
「あのねえ……どうしてそこまで熱心なのよ」
「不労所得を得たいからです」
 悪魔はぽかんとした。そうすると年相応の顔になる。何も知らない人が見たら騙されそうなほど、無垢な雰囲気だ。
「家賃収入さえあれば、住む人が悪魔でもなんでもいいです。とにかく、この家を元に戻してくれませんか」
 クロスは本気も本気だった。買い物人員の確保、そして安定した収入。それはクロスが自分の家に引きこもって生活していくにあたり、必要不可欠なものだった。ジョバンニから魂を奪う代わりにどっさり金品を恵んだ悪魔のことだ、きっと金持ちに違いない。部屋を借りて正当な対価を払うくらい、わけないはずだ。
 それに、ジョバンニの件がある。彼の魂をバラバラにした張本人を近くに置けば、問い詰めるのも容易だ。
 悪魔は呆れたように肩をすくめた。
「……あとで後悔しても遅いわよ」
「まあ、その時はその時ですから」
 悪魔は大樹に背を預け、草原の向こうを見る。遠景はぼやけていて、まるでそこに世界の果てがあるかのように思われた。
「でもね、あたしだってなんでこうなったのか分からないのよ。こんな場所……思い出したくもなかったのに」
「戻る手段がないということですか」
 露骨にがっかりするクロスに、悪魔が一歩近寄ってきた。
「なくはないわよ。ね、あなた名前は?」
 一瞬躊躇する。悪魔に本名を教えていいのだろうか。しかし、部屋を貸すのだからそのくらいのリスクは覚悟しなければ。
「……クロスです」
「クロスね」
「初対面の相手をいきなり呼び捨てなんて、失礼じゃありませんか?」
 悪魔はしばし絶句していた。
「……ほんといい度胸してるわね、そういうの嫌いじゃないけど。じゃあクロスさん、あなた魔力持ってるでしょ。それもとびきりの。それ貸してくれない?」
「魔力? そんなものに覚えはないし、返ってくる保証もないじゃないですか」
「トワイライトであの男を見たでしょ。センス能力がある証拠よ。ほら、元の家に帰りたいなら、黙って力を貸して!」
 悪魔の小さな手のひらがクロスの手に触れた。途端に、クロスはがくんと膝から崩れ落ちた。「え?」と声を上げることもできないほど、全身の力が抜けていく。
 ぱっと手を離した悪魔は虚空から大鎌を取り出した。
「まだ足りないけど、これならいけるわ」
 得物を握りしめ、まさしく悪魔らしい笑顔を浮かべてぺろりと唇を舐める。
 一閃。クロスが捉えられない速さで大鎌が空を走り、見えない壁を裂いた。そうとしか思えない変化が巻き起こっていた。大鎌の軌跡で空間に裂け目ができ、その向こうに涙が出るほど懐かしい我が家が見える。裂け目はどんどん広がっていった。
 帰ってきた——!
 気づけば中庭にいた。真夜中、月の光が真上から降り注いでいる。青空からの落差でしばらく目が慣れなかった。やっと視界が戻ったので、クロスはあたりを見回した。
 ワンピース姿の悪魔は立ち尽くし、中庭の奥にそびえる重厚な石造りの扉を注視している。
 緋色の瞳が暗く輝いた。
「なんでこんなものがここにあるのよ……」
 その質問に答えようとしたクロスの体がゆっくりと横倒しになる。悪魔に力を吸い取られたことに加えて、忘れかけていたけれど空きっ腹のまま酒を飲んでいたのだ。
(酒場で何か食べておけばよかった……)
 そんなことを考えながらクロスは気を失った。

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