第一章 真夜中の王国



 ぱちんと泡が弾けるような感覚とともに目が覚める。クロスはあたたかい布団の中にいた。
(そうだ、昨日私はジョバンニさんを探しに行って、それから家に帰ってきて……)
 意識を失う直前まで、なんだかすさまじい出来事に立て続けに襲われていた気がする。あんなのはもうこりごりだ。体もだるいし、まだしばらくは夢とうつつの間をたゆたっていたい。
「……そろそろ起きてくれてもいいんじゃないの?」
 不機嫌な声色が耳に届き、心地よい時間を破った。クロスはまぶたを開けた。
 すぐ横に、喪服のようなワンピースに身を包んだ少女——例の悪魔がいた。
 クロスは居間のソファの上に横たえられていた。体には布団代わりにひざ掛けがかかっている。昨日の真夜中、家の中庭でとうとう体力が限界を迎えたことは覚えている。どうやら悪魔がここまで運んでくれたらしい。
「部屋、貸してくれるんでしょ。あたしはどこに住めばいいのよ」
 閉まったカーテンの隙間から光が差し込んでいる。もう朝か、それとも昼か。
 見慣れた我が家の無駄に広い居間には、ぽつんと黒い服の少女が佇んでいる。寝起きでぼんやりした頭では、何故かその光景をごく当たり前のように受け入れられた。
 そうだ、この悪魔に部屋を貸す約束をしたのだった。
「やっぱり猫じゃなかったんですね」
「当たり前でしょ!」
 いよいよ悪魔も痺れを切らしてきたようなので、クロスは慌ててソファから起き上がった。
「少し待っていてください、書類を用意しますから」
 力の入らない足で居間から出て玄関ホールを抜け、二階にある自分の部屋に向かった。
 机の引き出しにしまっていた書類を見つけると、戻る前に台所に立ち寄った。一人暮らしにはもったいないほどの広さを持つ、立派な厨房だ。食器棚から客用のカップを探して取り出し、二人分の紅茶を淹れる。ついでに残り物のお菓子を戸棚から出した。
「どうぞ。お腹が減ったでしょう」
 居間に戻って丸テーブルにカップを置いてやると、悪魔は目を丸くした。
「……朝ごはんにしては軽すぎるわね」とだけ漏らす。
「私はいつもこれですよ」
 途端に怪しむような目で見られる。クロスは平然としてバターの香りがする焼き菓子をつまんだ。
 悪魔の主食はやはり人間の魂なのだろうか……と真向かいの席についた少女を見つめる。彼女は恐る恐る紅茶に口をつけ、「意外といけるわね」とひとりごちた。並べたクッキーにも手を伸ばす。食事の所作はなかなかに洗練されていて、まるで良家の息女のようだ。こうしていると、城下町を震撼させてジョバンニの魂をバラバラにした悪魔には到底見えない。
 ——そのあたりの追及はあとだ。先に契約を済ませてしまおう。
 こんなこともあろうかと、賃貸契約のための書類だけは以前から用意していた。クロスはお菓子を食べて満足そうに息を吐く悪魔の前に、紙を差し出す。
「ここにサインしてください」
 彼女はじっと書面を読む。契約内容を慎重に確認する悪魔というのもおかしなものだ。悪魔用の文書など用意しているはずがないので、ごく普通の内容である。
 ペンを持つ手が、ふと止まった。
「別に偽名でもいいですよ」と言い添える。
「……あたし、自分の名前結構気に入ってるのよね」
「へえ。なんていうんですか」
 緋色の瞳がきらりと輝く。片手でかきあげられた金髪が椅子の背に広がった。
「聞いて驚きなさい。私はかつてハイラルの聖地を荒らしたムジュラ様よ!」
 クロスは興味なさそうな顔のまま頬杖をついて一言、
「なんだか呪われそうな名前ですね」
 悪魔は柳眉を逆立てた。周囲の空気がチリチリと音を立てて弾ける。
「あなたねえ……絶対信じてないでしょ」
 さすがに少し言い過ぎたか、とクロスは素直に頭を下げる。
「すみません。でも、本名は隠したほうがいいですよ。私にも世間体がありますし、万が一でも悪魔本人が住んでいると知られたくありません」
 悪魔はふんと鼻から息を吐く。
「じゃあなんて書けばいいのよ」
「マリエル、はどうですか」
「ふーん。それが偽名?」
「王侯貴族にも使われる高貴な名前ですよ」
 マリエル、マリエル……と何度かつぶやき、悪魔はうなずいた。了承したらしい。クロスから綴りを聞いて、流麗な文字を書類にしたためる。
 それはいずれ飼い猫につけようと思っていた名前だ、ということは黙っておこうと心に誓う。
 書類を受け取ったクロスは安堵とともに右手を差し出す。
「これからよろしくお願いします、マリエルさん」
「はいはい」
 マリエルと名乗ることになった少女はクロスの手を握った。今度は力を吸い取られることもなかった。
 契約が完了した、腹ごしらえもした。次はいよいよジョバンニの魂について問い詰める番だ——とクロスが口を開きかけた時、
「さあて、あの扉について知ってることを洗いざらい吐いてもらおうかしら」
 椅子にふんぞりかえったマリエルに先手を打たれた。
「なんのことですか」本気で心当たりがなかったクロスは首をかしげる。マリエルがばしんと小さな手のひらでテーブルを叩いた。
「中庭の奥の扉よ! あたしはね、あれに触れた途端に幻術にかけられたのよ」
「知りません。あそこに開かない扉があることは把握していますが」
「いくらなんでも嘘でしょう。あれだけ重要なものが家の中にあって、知らないなんてありえないわ」
 重要なもの? マリエルは何か情報を握っているのか——探るように相手の緋色の目を覗き込みながら、
「文句があるなら、あれがどういうものか教えずに出ていった、うちの親に言ってくださいよ」
 少女は口を閉じた。勢いが止まる。変に同情されてもたまらないので、クロスは強気に尋ね返した。
「あなたこそ、あの扉のことを知ってるんですか」
「まあ、ね……。でも言う必要は感じないわ」
 ならば、これ以上追及する意味もないだろう。彼女は途端に興味を失い、話題を変えた。
「ところで、あなたは本当に噂の悪魔なんですか」
「そうよ」
「ジョバンニさんの魂をバラバラにしたのは、あなたですよね」
 途端に返事の歯切れが悪くなる。マリエルは言い訳がましく言葉を紡ぐ。
「あいつから魂を買ったのは確かよ。でもバラバラにするつもりはなかったわ。せっかく手に入れた魔力を手放すわけだもの。
 でも昨日、トワイライトの中を歩いてたらあいつに——魔王にうっかり出くわしちゃって、魔力をよこせって攻撃されたの。おいそれと従うわけにもいかないから、力の大部分をゴーストにして逃したのよ。
 その時、一緒に持ってたジョバンニってやつの魂もバラバラになっちゃったみたいね」
 魔王? もしやそれは、あの黄昏の中で出会った大男のことか。確かに相手はその称号にふさわしい威圧感を持っていたが、まるでおとぎ話の登場人物ではないか。
 クロスは菓子と一緒に話をゆっくり咀嚼し、相槌を打つ。
「なら、ジョバンニさんの魂は」
「ハイラル中に散らばったゴーストが、あたしの魔力と一緒に持ってるわ。取り戻したいなら一匹ずつ回収しないといけないわね」
 と、マリエルはまるで他人事である。クロスの胡乱な表情で察したのか、唇を尖らせて付け加えた。
「あたしに集めろって言いたいの? 残念だけど無理よ。もちろんあたしも魔力を取り戻したいけど、今はこの城下町から出られないの」
「何故です」
「いつの間にか町全体に強力な結界が張られていたのよ。多分、魔王が外に出ないようにあの王女様が仕掛けたんだろうけど、それがどうも『一定以上の魔力の持ち主を外に出さない、もしくは中に入れない』っていう大雑把な条件だったみたい。見事に巻き添えを食らったわ。
 だから、ゴーストは探しに行けないの」
「はあ……」
 クロスは全身から脱力する思いだった。複雑怪奇な状況に巻き込まれた哀れなジョバンニ。彼の体は一生元に戻りそうにない。
 魔王だの悪魔だの結界だのという物騒な話はすっぽり抜け落ちて、今や彼女は自分に関係のあることだけで頭がいっぱいになっている。
(結局どうやって買い物人員を確保すべきか……さすがに悪魔には下手に頼み事もできないし)
 などと考えていたら、マリエルがテーブルの上に両肘をついて、ずいと顔を近づけてきた。
「あのさ、魔王の話とかもっと聞かなくていいの」
「はい。別に興味ないです」
「いや普通気にするでしょ。自分のいる町やばいやつが住んでるのよ。あなただって昨日襲われてたじゃない」
 黄昏の中で魔王と対峙した瞬間を思い出し、背筋に寒気が走る。
「やはりあの大男が魔王とやらなんですね」
 マリエルは何故か得意げに胸をそらした。
「そうよ、魔王ガノンドロフ。今あの城でそっくり返ってるやつよ」
「城に? まさか、お城が乗っ取られているんですか」
 さすがのクロスもあっけにとられた。期待通りの反応だったのか、マリエルは満足そうだ。
「本当に誰も気づいてないのね。どうりで町が平和ボケしてると思ったわ」
 マリエルの話では、少し前にハイラル城は別世界からやってきた敵(!)に襲われたらしい。相手は城攻めにあたって城壁から順番に攻略するなどという悠長な手は選ばず、直接玉座の間に乗り込んできた。追い詰められた王女ゼルダは降伏を選択し、城を明け渡したのだという。
 だが、城につとめる兵士たちも町に暮らす人々も、誰もそんな事態に気づいていない。謎の黄昏に包まれていたことを除いて、町は平和そのものだ。
「……ずっと引きこもっていたので、気づきませんでした」
「そういう問題?」
 マリエルは肩をすくめる。
「まあ、魔王の術か何かで誤魔化してるみたいだし、普通の人間が気づかないのも仕方ないわね。
 で、降伏したハイラルはあいつらに『光』を奪われて、ちょっと前までトワイライトっていう状態になってたのよ。みんな魂になって黄昏の中をさまよってたアレね。
 あたしは動きやすくて助かったんだけど、まさか魔王本人がそこらへんを歩いてるなんて思わなかったから、うっかりまともに戦って負けちゃったわ」
 全盛期なら勝てたんだけどなー、と背もたれに寄りかかりながらうそぶく。マリエルは完全に異次元の話をしていた。
 ぽんぽん放り込まれる情報にどう反応すべきかわからず、クロスはひたすら自分に関係のあることばかり考えていた。
「あなたは魔王と敵対しているんですか」
「敵対ってほどじゃないけど、厄介だと思われてるでしょうね。また会ったら絶対に殺そうとしてくるわよ」
「……もしかして、あなたを家に置いたら、私も魔王と敵対することになりませんか」
「あーら、今頃気づいたの?」
 マリエルは愉快そうに笑った。クロスは大男と遭遇した時のことをまた思い出してしまい、ぶるりと震えた。そんな話は聞いていない。いざとなったら魔王にマリエルを引き渡してやろうと決意する。
「そういえばあの時、犬か何かが吠えてくれたおかげで私たちは助かったんですよね」
「ええそうね、あたしの大っ嫌いな気配がしたもの。魔王も同じ気持ちだったんでしょ、あれはきっと今代の——」
 そこでマリエルはしかめっ面になり、不自然に言葉を区切った。心の奥に刺さったトゲの存在を不意に思い出したかのようだ。クロスはそれ以上踏み込めないものを感じた。
 ティーセットを片付け、お盆を持って立ち上がる。
「ひとまずお話は終わりにしましょう。うちを案内します。最後にあなたの部屋に行きましょうか」
 うなずくマリエルを伴って居間を出た。先に台所でカップを置いてから、玄関ホールに戻ってくる。
 屋敷は全て石造りで、ここで生まれ育ったクロスの目から見ても特別立派なものだった。玄関は二階まで吹き抜けになっていて、ホールに面して主要な部屋が並んでいる。正面に中庭へ出る扉があり、右手には居間と食堂や台所、左手には今は使っていない応接間がある。そして奥には二階へ続く階段が伸びていた。
「ダンスパーティでも開けるくらい広いわね。クロスさんって貴族なの?」
「まさか。それならもっといい暮らしをしてますよ」
 財政面の都合で人を雇うのは夢のまた夢だ。この屋敷は一人で維持できる規模ではない。いくつもの部屋を閉鎖し居住域を制限して、やっと掃除が行き渡るレベルである。
「それもそうね。そもそもクロスさんってどうやって稼いでるの」
「……いろいろあるんですよ、いろいろ」
 下手にも程があるはぐらかし方だが、マリエルは追及してこなかった。
 生活に必要な部屋を一通り紹介し、ホールから階段を上る。そして屋敷の主人たるクロスの私室と、その隣にある扉をマリエルに示した。彼女に貸し与える空き部屋だ。
「中の調度品は好きに使ってください。契約書にもありましたがお金は月払いで。基本的に食事や掃除はご自分でやってください。まあ、朝食くらいは何か用意しましょう」
「朝食っていってもお菓子なんでしょ」
「不満ですか?」
「いいえ。おいしかったわ、ごちそうさま」
 実際まんざらでもなさそうな顔をしている。部屋を覗き見て何やらうなずいているマリエルは、やはりいたって普通の子供に見えた。
 クロスはつい余計なことを言ってしまう。
「……その格好、やめませんか」
「は?」
 マリエルは訝しげに眉をひそめる。
「服自体はあなたによく似合ってると思います。でも全身黒尽くめなんて、少し辛気くさいのでは。いかにも悪魔という感じですし」
「あーはいはい、分かりました」
 マリエルはうるさそうに首を振ると、ばたんと部屋に入って扉を閉めた。
 おそらく相手の方がクロスより相当長生きしているのだろうが、どうも見た目のせいで年上ぶってしまう。態度を改めねば、とクロスは肩をすくめた。
 ほとんど間を置かず、再び扉が開く。
「これでいいでしょ」
 発せられた声はしっとりと落ち着き、緋色の瞳はクロスの目線よりも高い位置にあった。
「え」
 扉の向こうに、目の覚めるような美女が出現していた。
 すらりと伸びた手足に、均整のとれた体つき。その完璧な体のラインを見せつけるかのように、腕や足を大胆に露出していた。颯爽と肩にかけた乳白色の上着とその下の若草色のニットが、白い肌をさらに明るく演出している。
「ど、どちらさまですか」
 分かっていても頭が追いつかない。うろたえるクロスに、女性はいたずらっぽく笑った。
「マリエルよ。要するにあたしが子どもの姿じゃ嫌なんでしょ、例の世間体とやらで」
 ゆるやかに波打つ腰までの髪は、確かにあの少女と同じだった。だが、どこからどう見ても大人の女性だ。
 クロスの口が反射的に動く。
「……これなら、猫でもいいのでは」
 彼女は眉根を寄せて扉を閉めた。



 夕方頃から降り出した雨はますます強さを増して屋根を叩く。家の中にいても音がうるさいくらいだ。
「少し出かけてきます」
 クロスは廊下から同居人の部屋に向かって声をかける。
 外出のたびにこういう呼びかけをすることは今までなかった。最初はどこか気恥ずかしさがあったが、すぐに慣れた。
 契約を交わして以来すっかり屋敷に居着いたマリエルは、引きこもりのクロス以上に何をやっているのかよく分からない。いつも知らないうちに外出している。それでも朝食の時間にはいつも食堂にやってくるので、きっとお菓子が好きなのだろう。
 この日のマリエルはたまたま部屋にいて、すぐに顔を出した。
「今夜は外に出ない方がいいわよ」
 急にそんなことを言い出す。悪魔的な勘だというのなら尊重してしかるべきだが、
「もう食料がありませんから」
 クロスは目をそらしながら答えた。
 そう、ジョバンニが身動きできなくなった問題——すなわち買い物人員の確保については、未解決のままだった。なので、彼女は仕方なしにこそこそと買い物をしはじめた。人と会うのが嫌なので、こうした雨の日や夕方に出かけている。市場が閉まるギリギリのタイミングをあえて狙っていくスタイルだ。新鮮な食材は買えない代わりに、交渉次第で値引きしてくれることも不本意ながら覚えてしまった。
 マリエルだって、クロスの妙な行動は承知しているはずだ。それでも引き止めるからには理由があるのだろう。
「トワイライトの時のこと、覚えてるでしょ。今日も雨に紛れて変なのが町を歩いているわ」
 この言い方だとさすがに魔王ではないだろうが、「変なの」と出くわすのは困る。
 クロスがしばし逡巡していると、
「しょうがないわね、あたしもついていくわよ!」
 恩を押し付けるようにマリエルが胸を叩いた。これは親切というより、「家主がいなくなったら困る」という気持ちの混じった打算だろう。何はともあれ、不安な道行きには心強い味方だ。
「うーん、でもあたし濡れるの嫌なのよね」
 言うが否や、彼女の体は突然真っ黒に染まり、溶けるように崩れ落ちた。
「えっ!」
 何が起こったか分からずクロスが硬直していると、
「ここよ」
 足元からマリエルの声が聞こえた。視線を下に向けると、ゆらりとクロスの影がうごめく。
「今あなたの影に潜んでるの。何かあったら外に出るからよろしく」
「はあ……」
 真下から見られているようで若干気色悪いが、我慢するしかない。クロスは雨靴を履いて傘を持ち、屋敷の外に出る。あたりは薄暗かった。
 城下町の闇に何が潜んでいるかは知らないが、さっさと用事を済ませてしまおう。歩幅をいつもより大きくして早足になった。
 市場のある南通りはここからそう遠くない。水たまりを突っ切ってでも最短距離を選ぶ。
「……来たわ」
 マリエルが影の中で低くつぶやいた。途端にクロスの足が鈍る。
「な、何がですか」
「そんなにびびらなくても大丈夫よ。あなたに害を及ぼすようなやつじゃないわ。どうも勘違いだったみたい。ま、あたしにとってはどっちにしろ嫌な相手だけど」
 どういう意味だろう、とクロスは考えを巡らせる。
「きゃああ!」
 前方で叫び声が上がった。ぎょっとして立ち止まるクロスに向かって、髪を振り乱した女性が走ってくる。悲鳴の主らしい。クロスを見つけると一方的にまくしたてる。
「た、大変よ、町の中に魔物が!」
「え」
「こーんなに大きなオオカミみたいなやつがいたのよ!」
 言いたいことだけ言うと、傘も持たない女性はこけつまろびつ去ってしまう。
 雨の城下町を闊歩する「変なの」。マリエルが嫌がる相手。それに、オオカミ。脳内でそれらの要素が一つにつながった。
「もしかしてそのオオカミは、以前魔王から私たちを助けてくれた……」
「そういうことよ」
 マリエルは苦みの混じった声を出した。
 クロスの足は、自然と女性が逃げてきた方角へ向かった。
 中央広場に出た。普段なら多くの通行人に加え、噴水のそばで待ち合わせをする者や、楽器を奏でる芸人たちがいる賑やかな場所だ。今夜は雨のためかほとんど人影は見えず、しんと静まり返っている。
 いた、噂のオオカミだ。黒っぽい毛皮をべしゃべしゃに濡らしつつ、何故か広場をうろうろしている。あれは怯えられても仕方のない大きさだ。だが、魔物の類ではないはず。クロスはオオカミを遠巻きに見守った。
「あのオオカミ、何をしているんでしょうか」
「気になるの?」
「まあ……動物といえど、恩を売られっぱなしというのは癪です」
「相手はそんなつもりはなかったと思うんだけど。たまたま通りかかったら魔王が反応しただけでしょ」
 そうかもしれない。しかし妙に気になってしまう。
 唐突に、その理由に思い当たった。飼うなら猫がいいが、眺めるだけならああいう大型犬が好きなのだ。
 ずっとオオカミの様子をうかがっているクロスに、ついにマリエルが折れた。
「あーあー、あなたはそういう人なのね。借りを返したいんでしょ。ならあいつ多分、城に行きたがってるわよ」
 確かにオオカミは城の正門がある方向にちらちら視線をやっているようだ。だが門番はおびえながら槍を構えて追い返そうとするし、そもそも門は閉ざされている。
「あそこには魔王がいるという話では」
「そっちじゃなくて、お姫様に会いに行くのよ」
「オオカミが、ですか」
「人間にしてくれーとか頼みに行くんじゃない?」
 マリエルの冗談を流し、クロスはひとつうなずいた。とにかく城へ案内してあげよう。それで貸しはなくなる。
 クロスは城につながる抜け道の存在を知っていた。以前、テルマの酒場で店主から聞いたことがある。「うちの店、実は奥から地下水路に出られるんだよ。実際入ったことはないけど、かなり古い通路だし、もしかするとお城にも行けるかもしれないね」と。
 意を決して広場を横切り、オオカミの進路を塞ぐように前に出た。
 傘の向こうで青い瞳がじいっと見上げてくる。オオカミは両耳にピアスをつけていた。クロスよりもおしゃれに敏感らしい。どうやら野良ではなさそうだ。
 オオカミの怜悧な顔は何故か辛そうに歪んでいた。よほど城に行きたいらしい。近づいてみて初めてわかったが、背中に見たことのない生き物をのせていた。
 クロスはしっかりオオカミと目を合わせ、唇を開く。
「こちらです」
 何も説明せずに酒場に向かって歩きはじめた。不用意に他人に見つからないよう、ことさら狭い路地を選んで進むことにする。
「あいつ、ついてきてるわね」と影の中でマリエルがつぶやく。
 オオカミを先導しながら、不思議とクロスの心は凪いでいた。背中を見せたら飛びかかられるかも、というような不安は全く感じない。
 無事にテルマの酒場の前にたどりついた。そこでやっと振り返り、オオカミの姿を確認する。ここが目的地と悟ったのか、「彼」はおとなしく座り込んだ。しかも、背中の生物をかばうように軒先に入って雨粒を避けている。
 さて、どうやってこのオオカミを酒場の中に送り込もう。今は客が大勢押しかけている時間帯だ、ばれずに店を通り抜けるのは難しいだろう。
 悩んでいると、酒場の外壁にあいた穴から白っぽい影がひらりと石畳に舞い降りて、にゃあと鳴いた。テルマの飼い猫ルイーズだ。
 クロスは露骨にほっとする。
「ルイーズさん、この方をお城まで案内してもらえませんか」
 動物同士ならばきっとクロスよりも意思疎通できるだろう。それに、ルイーズは城下町の猫たちの裏のボスとも呼べる存在だ。うまくやってくれるに違いない。
「では私はこれで」
 オオカミはまるでお辞儀をするように、軽く頭を下げた。クロスは口元を綻ばせる。
「借りは返しましたよ」
 その足で市場に向かった。店じまいをしていたところに突撃し、迷惑そうな顔をされながらもいくつか欲しいものを見繕った。
 家に帰るとマリエルが無言で影から出てきた。夕飯を食べてからそれぞれの部屋に引き上げる。
 翌日は早朝、軽いノック音で目が覚めた。寝間着のまま廊下に出ると、完璧に身支度を整えたマリエルが待っていた。そういえば、クロスは彼女が寝ているところを見たことがない。
「おはよう。外、見ておいた方がいいわよ」
「おはようございます……?」
 マリエルはごちゃごちゃしたクロスの部屋を問答無用で突っ切り、バルコニーに出ていく。クロスは寒風にあたるのが嫌なので、部屋の中から外を眺めた。
 雨は上がっていた。半分乾いた家々の隙間から少しだけハイラル城が覗いている。その見慣れた白亜の城の様子が、いつもと違った。クロスは目をこする。
「ほら、センス能力があるならあなたにも見えるでしょ」
 城は黄昏色をした巨大な薄板に覆われていた。薄板は二つの四角錐の底面同士を重ね合わせたような形をしていて、表面には何やら文様が浮かんでいる。まるで中にいる者を閉じ込める檻のようだ。
「あれは……!?」
 あんなもの、昨日までなかったはずなのに。マリエルは腕組みした。
「魔王が結界を張ったのね」
 起き抜けから頭の痛くなる話だった。クロスは発熱しそうな額に手をあて、記憶をたどる。
「ゼルダ姫が城下町に張ったものとは、また違うんですか」
「それがあるせいで魔王も動きづらいから、ああやって守りを強化したんでしょう」
 いよいよ城下町は魔境になってしまったらしい。しかし、町はいつも通りの静けさを保っている。トワイライトが発生した時と同じように、誰も異変に気づいていないに違いない。
「おまけにお姫様の気配まで消えたわ。さすがに粛清はされてないと思うけど、何かあったみたい」
 クロスはやや呆然としながら城とマリエルを見比べる。あまり不吉なことばかり言わないでほしい。
 そういえば昨晩のオオカミはどうなったのだろう。ゼルダ姫には会えたのだろうか。
(もしかして、『彼』が城に行ったから魔王が守りを強化したとか? まさか)
 マリエルは混乱する彼女と違って楽観的だった。
「ま、あれは放っておいても勇者がなんとかしてくれるわよ」
 クロスは怪訝な顔をする。
「知ってるでしょ、勇者の伝説くらい。持ち前の正義感で魔王をやっつけるのよ。弱っちい人間たちの民間信仰を、ハイラルの守護神が制度化して定着させたんじゃなかった?」
 なんとも不可思議な言い回しをするものだ。クロスは「勇者……」とつぶやいてみる。
「その勇者がハイラルにいるんですか」
「少なくとも今はね。昔も……百年くらい前にも、いたのよ」
 マリエルは遠い目をして城を眺めていた。
 少し視線を下げれば、いつもと変わらない日常がある。そろそろ人々が起き出し、町が活気づいてくる頃だった。
 何にせよ、クロスが無闇に不安がってもいいことはひとつもない。一般町民がまともに魔王に対抗できるはずもなく、姿を消したというゼルダ姫の救出も魔王退治も何もかも、その勇者とやらに任せるしかない。
 クロスはマリエルを促し、バルコニーの扉を閉めた。
「朝食にしましょう。昨日粉を買い足したので、パンケーキを焼きますよ」
 マリエルも真面目な表情を拭い去り、嬉しそうに唇を持ち上げた。
「よしよし。あれが食べられるだけでも、ここに住む甲斐があるってものだわ」
「まさかそれ目当てでうちに居座っているのでは……」
「もちろんそれだけじゃないわよ?」
 紅の塗られた唇がきれいな弧を描く。彼女がどうしてあっさり居着いたのかは未だに謎である。どうも最近は例の悪魔稼業も休んでいるようだ。
 とはいえ、マリエルはもはや得難い同居人だった。クロスは毎日二人分の朝食を用意することが全く苦にならない自分に気づいていた。

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