第一章 真夜中の王国



「うわ、趣味悪っ」
 正直すぎる感想が漏れた。マリエル本人がいたらひっぱたかれていただろうか。
 クロスは家主の権限を使い、隣の部屋に堂々と侵入していた。
 城下町を騒がせた悪魔と同居しはじめてからしばらく経った。二人暮らしは想像よりもはるかに快適だったが、最近隣からよからぬものが漏れてくることに気づいた。すなわち異音、異臭だ。
 悪魔というからにはろくでもない調度品があるのだろう、と予想していた通りだった。薄暗い部屋には何に使うかも分からない道具がたくさん置いてある。天秤らしきものが机の上で揺れていたり、薬ビンの中でぼんやり光る液体が泡を出していたりする。マリエルの服装はシンプルなのに、家具がこうもごてごてしているのは何故だろう。
 クロスはおっかなびっくり奥に進み、部屋を物色した。異臭は薬ビンが原因である可能性が高い。そっと手を伸ばした。
「それ、触らないほうがいいわよ。指が溶けるかも」
 クロスは叫びそうになった口をおさえ、ゆっくりと振り返る。
 いつの間にか部屋の主が背後に出現していた。マリエルの目がうっすら細められる。表情からして、特に怒ってはいないらしい。内心胸をなでおろした。
「いたんですか。なら私が勝手に立ち入った理由も分かるでしょう。少しは片付けてくださいよ」
「好きに使えって言ったのはクロスさんでしょ?」
 マリエルは胸を張った。
「それに、片付けならあたしだって言いたいことがあるわよ。ここ以外の部屋、ひどい有様じゃない!」
 痛いところをつかれてクロスは押し黙った。
 この屋敷には規模にふさわしくたくさんの部屋があるが、そのほとんどが物置と化している。マリエルが文句を言ったのは、一度何も知らずにそういう部屋に入って、積み上げられた本の山に潰されかけたからだ。その時は「どれだけ罠が多いのよ、この家」と愚痴っていた。
 クロスは渋々、
「片付けたいのは山々ですけど、私の細腕で可能だと思いますか」
「魔法を使えばいいでしょ?」
 と意味不明な答えを返された。ここまで何度もマリエルに指摘され、「どうやら自分には魔力が宿っているらしい」とはクロスも認めていた。しかしそれを自由に行使できたことなど一度もない。
 それにしても「文句を言うなら家主が先に片付けろ」とは一理ある意見だった。今後、マリエル以外にも部屋を貸すことがあるかもしれない。その時のためにも使える空き部屋は増やしておくべきだろう。
 クロスは不毛な論争をあっさりと諦め、テルマの酒場に向かうことにした。
 仕事の斡旋を申し込むのだ。ジョバンニも、最初はあそこで紹介してもらった。クロスはとにかく友人も知人も少ないため、ここが数少ない外界とのつながりである。
 酒場の掻き入れ時は避け、昼間に訪れた。日傘をたたんで中に入ると、奥のテーブルにどことなく異質な空気を醸す者たちが数人集っているのが見えた。近寄りがたいものを感じ、視線を外す。
 気を取り直してまっすぐカウンターに向かった。
「いらっしゃい、クロス」
 店主のテルマは皿を洗う手を止め、顔を上げる。
「うちの書棚を整理してくれる人を探しているのですが、どなたか紹介していただけませんか」
「それは一日で終わる仕事かい」こういう申し出に慣れているため、テルマは飲み込みが早い。
「ええ、とりあえず半日だけでもやっていただければ」
 テルマは大きくうなずき、
「それなら——おおい、リンク!」
 奥のテーブルへと呼びかけた。
 緑の長帽子がぴょこりと揺れた。リンクと思しき人物が大股で歩いてくる。麦穂色の前髪と生気に満ちた表情は、どこかで見た覚えがある。
「彼が、イリアとゾーラの子をカカリコ村まで送り届けてくれたんだよ」
 少し前、テルマの酒場ではちょっとした騒動があった。クロスもその渦中にたまたま酒場を訪れていたが、自分の用事に気を取られて詳細までは知らなかった。
 ちょうど町が黄昏色に支配されていた頃の話だ。記憶喪失の少女イリアが突然やってきて、町の近くで倒れていたゾーラの少年を酒場に運び込んだという。二人を保護することになったテルマが気を利かせて町医者を呼んだが、異種族ということで診察を拒否されてしまい、困った末にカカリコ村の牧師を頼ることになった。しかし、カカリコ村は城下町を出て平原を二つも越えた先だ。ハイラル平原は近頃物騒になり、とりわけ夜は化け物であふれかえっている。馬車はテルマが用意するとしても、護衛がいなければ村までたどり着けるはずがない。
 そこへ名乗り出たのが旅人リンクだ。彼が馬車の護衛を引き受け、無事にゾーラの子を目的地へと送り届けた。おまけに道中のハイリア大橋では、兵士たちが手を焼いていた厄介な魔物まで退治したという。
 カカリコ村から帰ってきたテルマは、事あるごとにその武勇伝を客に話した。おかげで城下町では「近頃珍しく、見どころのある青年がいるらしい」と噂になっていたようだ。
 もちろんクロスはこの瞬間までそんな話は知らなかった。マリエルなら聞き及んでいたかもしれない。
 テルマに紹介された青年は照れくさそうにしていた。妙に時代がかった緑の衣装と相まって、いかにも田舎の好青年といった雰囲気だ。しかし顔立ちは非凡である。マリエルのような派手な容姿とはまたタイプが違い、時代を選ばないストレートな格好良さを持っている。
 クロスは軽く目線を上向けた。リンクの青い目はずいぶん高い位置にある。
「あなたに頼みたいことは我が家の書棚の整理です。手伝っていただけますか」
「ああ、今日は時間があるし。力仕事は得意なんだ」
 よく通る声だ。名実伴った実力に加えて優れた容姿を持つとなれば、噂が立つのもやむなしである。
「リンクはトアル村で牧童をやっていたんだってさ」
 テルマが口を挟む。トアル村といえばはるか南、フィローネの森を越えた先にある僻地だ。クロスにとっては別世界である。そこの牧場で働いていた彼が、どういう経緯で故郷を離れて旅をしているのだろう。背負った金属製の盾はかなり使い込まれた様子なので、それなりの期間旅を続けているようだ。一方で、何故か剣は真新しかった。
 相手の事情は差し置いて、上背も腕の太さも力仕事では頼りになりそうだ。クロスは左手を差し出す。
「お願いします。私はクロスと申します」
「こちらこそよろしく」
 少し間をおいて握られる。大きな手のひらは無骨な篭手に覆われていた。クロスはこの感覚を知っている気がした。
 妙な既視感を振り切り、日傘をさして外に出た。先立って歩こうとしたら、リンクが大股で隣に並んだ。
「たまたま今日はもう用事が済んじゃってさ。かといって、これから出発するには遅すぎるし。ちょうど良かったよ」
 成人しているクロスより数歳は年下になるのだろう。リンクは人の良さそうな見た目通り、気さくに話しかけてくる。
「いつも宿はどちらで?」
「テルマさんの酒場の二階に泊まらせてもらってる」
「なるほど」
 そうやって旅人の世話を焼くのはテルマらしいが、あそこは田舎者には馴染めない場所かもしれない。夜遅くまで一階の喧騒が伝わってくるので、ぐっすり眠れないだろう。
 それにしても、男性と連れ立って町を歩くなんておかしな感じだ。こうして多少なりともクロスが行動的になったのは、マリエルの影響がないとは言い切れない。
 対人経験の少ない彼女にとってもリンクは非常に接しやすかった。話題も豊富で、異性とこんなに長く会話したのは初めてだ。気づいたら家に帰り着いていた。
 門を開けて前庭を通り、玄関にカギをさす。ここまで来て、リンクはやっと目的地に気づいたようだ。
「え、これが家……?」
 口を半開きにしている。どうやら彼の想像を超えていたらしい。それもそのはず、普通なら複数の使用人を雇って維持する規模の家である。それが酒場で片付け人員を雇う財政状態なのだから、驚いても仕方ない。
「ただいま」
 扉を開けて小声で呼びかけてみるが、返事はなかった。マリエルは外出しているようだ。もしいたら「クロスさんが男を連れてきた」なんて大騒ぎしそうなので、幸いだ。
 リンクは物珍しそうに玄関ホールを見回していたが、突然顔色を青くした。
「こ、ここって靴を磨かずに入っても大丈夫か?」
 何の話をしているのだろうとしばし考え、クロスは気づく。
「もしかして中央広場の高級店に行きましたか」
 彼はこっくりとうなずく。金持ち相手に営業している店で、店員もお高く止まっているとの噂だ。クロスは近づいたことすらない。ああいう店なら文字通り足元を見て客を判断するはずだ。
「うちは別にそういう決まりはありませんよ。それで、あなたには二階の掃除を任せたいのですが」
「あ、うん。任せてくれ」
 照れ隠しのように笑うリンクに、クロスは埃よけの布を渡した。それで口元を覆えば準備完了だ。
 二階に上がって自室の隣——マリエルの部屋とは反対側にある——を案内する。
「うわ、これはひどい」
 扉を開けた途端、正直すぎる感想がリンクの口から漏れた。
 本棚からあふれた本が、床にまで積み上げられている。いい加減片付けなければと思いつつ何年もそのままだったのだ。埃も積もってひどい有様である。
 そもそもこの家に書斎がないのがすべての原因だ、とクロスは強く主張したい。それなのに物心ついた頃には本棚からあふれるほどの本があった上に、現在の家主の趣味によりさらに蔵書は増えていった。二階のすべての部屋にそれぞれ備え付けられた棚をすべて本棚に改造しても足りなかった。もしもあの中庭の扉の先に王立図書館ばりの書斎があるのだとしたら、なんとしてでも扉をこじ開けてやりたいと思う。
 リンクは近くの山から一冊引き抜いた。埃の下から出てきたのは植物学の本だった。
「こんなに本があって何に使うんだ?」
「読むんですよ、もちろん」
 リンクは棚に並んだ背表紙を確認して首をかしげた。物語も歴史書も画集も何もかも、ほとんど無作為に並んでいる。
「私が指示する場所に、本を動かしてくれませんか」
「これは骨が折れそうだなあ」
 と言いつつ、手首を鳴らしてやる気になっている。クロスは純粋に頼もしさを感じた。
 窓を開け放って風の通り道を確保した。リンクは指示に従い、みるみるうちに廊下に本を運び出す。とにかく本を並べる場所を確保しなければいけない。今は平置きした本が棚に詰まっているためスペースを塞いでいるが、それをどければ少しは入るはずだった。クロスは棚の空きスペースを見極め、廊下で分類ごとに本を並べ直した。そうしてからリンクが棚に戻す、という算段だ。
 本の整理というものは無限に終わらないものであると彼女は知っていた。この本の横に置くべきはあの本か、それとも別の本か——それは永遠の課題だ。分類方法はいくらでも考えられるし、一人で整理整頓できるはずがない。だから割り切って、あくまでこの部屋の中だけで並べ直す。
 窓から差し込む日差しが傾いてきた。最後の本の束が棚に収められるのを見届けたクロスは、そっと息を吐く。
「そろそろ休憩しましょうか」
 リンクは腰を上げて伸びをした。
 疲労をにじませる彼を一階の居間に案内した。布を渡して汗を拭かせ、椅子で待っていてもらう。
「お疲れさまです。よければ食べてください」
 常にストックしている焼き菓子を出した。手作りジャムをのせたクッキーである。
「やった!」リンクは歓声を上げて手を伸ばす。小鉢に盛ったお菓子はあっという間に減っていって、「これが若者の胃袋か」とクロスはおののいた。
 おかげで食欲が失せた。彼の向かいに座り、紅茶をすする。
「今日はもう終わりでいいですよ。まさかこんなに進むとは思いませんでした」
 まだ別の部屋が同じ状態であることは黙っておく。しかし、彼のおかげで一部屋まるまる片付いたのだ。
「え、いいのか?」
「期待以上の働きでした。感謝します」
「へへ、じゃあ遠慮なく。にしてもうまいなあこれ」
「持って帰って構いませんよ」
 と言ったときにはもう遅く、リンクは菓子鉢を空にしていた。さすがに恥ずかしそうに耳を染める。
 クロスは紅茶碗を傾けながら、心地よい疲労に身を委ねていた。初対面なのに彼といると肩が張らない。
 空腹を満たしたリンクは手持ち無沙汰になったらしく、きょろきょろしている。やがて大きな張出し窓に目を留めた。レースのカーテンの向こうに中庭が見えている。
「やっぱり広いんだなーこの家」
 窓に近づいて何気なく中庭を眺め、「あんなところにも扉があるのか。奥の部屋はなんだ?」と例の扉を発見した。
「あそこは使っていません」
「……まさか、そっちも片付けがあるんじゃ」
「いえ、あそこは閉鎖したきりですね」
 鍵穴もなく、押しても引いても開かない扉なのだから、どうしようもない。悪魔のマリエルにだって開けられなかった。
 その時、「ただいまー」と玄関から元気な声が響いてきた。噂をすれば影だ。
「あれ、誰か一緒に住んでるのか」リンクが首をひねった。
「部屋を貸しているんです。マリエルさんという方で——」
 勢いよく居間のドアが開く。入ってきた女のにこやかな顔は、幽霊でも見たかのような形相に変わった。
「げえ、時の勇者!?」
 その場が凍りついた。クロスはぽかんと口を開き、何故かリンクも気まずそうに目線をさまよわせる。
 叫ぶだけ叫んで、マリエルは勢いよく扉を閉めた。階段を駆け上がる足音が続く。
 リンクはひくひくとほおを動かした。
「え、っと……俺、お邪魔したかな」
「気にしないでください、彼女の妄言はいつものことです」
「えぇ……?」
 あっという間に平常を取り戻したクロスにつられて、訝しげだったリンクも徐々に落ち着いていった。
 自室に閉じこもったであろうマリエルのことは一旦頭の隅に追いやって、彼女は目の前の青年に向き合う。
「リンクさんは、ハイラルのあちこちを旅しているんですか」
 振られた新たな話題に、リンクは「助かった」と言わんばかりに飛びついた。
「ああ。ゴロンたちのいるデスマウンテンにも行ったし、ゾーラの里にも行ったよ」
「明日からはどこへ?」
「ハイリア湖に向かおうと思ってる」
 あそこは今、湖に降りる道が崩れてしまって精霊の泉に参拝できないらしい。町民の非難が殺到して大変だ、とラネール観光協会に勤める知り合いが嘆いていた。
 リンクはきっと腕も立つのだろう。彼の持つ装備は立派なものだ。テルマの紹介もあるし、先ほどの働きぶりからも十分に信頼できる。
 彼と出会った時から、クロスはある提案を胸に秘めていた。いよいよそれを口に出すべく腹を決めた。
「あの……折り入ってお願いがあるのですが」
 彼はあっさりうなずいた。
「俺にできることなら聞くよ」
 果たしてリンクは、出会ったばかりの「知り合い未満」の面倒な申し出に、耳を貸すだろうか。クロスは緊張しながら話を切り出した。
「ハイラルのどこかに散らばった、ゴースト……というものを探していただきたいのです」
 彼女はその居場所も、そもそもゴーストがどういうものかも知らないのに、リンクに託そうとしている。断られて当然の話だった。
 しかし、返ってきた答えは意外なものだった。
「もしかしてクロスさん、ジョバンニの知り合いなのか」
 はっとして顔を上げる。
「え、ええ、そうです」
「ジョバンニなら会ったことがあるよ。俺も本人から頼まれたんだ。ゴーストの魂を集めてほしいって」
「本当ですか!」
 こんな偶然があったなんて! 彼女は内心飛び上がらんばかりに喜んだ。
(それなら私が報酬を用意する必要もないし)というせこい考えが頭をよぎる。
 二人は互いに金ピカ状態のジョバンニと会っている。トアル村出身の彼が、家に閉じこもったジョバンニと出会うなんて、おそらく相当面倒な事情があったのだろう。そのあたりの話に踏み込まれたくないのはお互い様というわけだ。
 リンクも詳細を尋ねることはせず、代わりににやにやした。
「こんなに真剣に頼むなんて、もしかしてクロスさんってジョバンニの彼女なのか?」
「まさか、違います。あの人には家のことを手伝ってもらっていましたから」
 リンクは「なんだ」とつぶやいた。
「とにかく、俺もジョバンニに助けてもらったんだ。ゴースト退治はするよ。
 それと——」
 何故か言葉を区切り、リンクはじっとこちらを見つめてきた。図らずも真正面から向き合うことになって、しばしクロスは口をつぐむ。両耳に揺れる銀色のピアス、それにこの澄んだ青い目——どこかで見たことがある気がする。
 リンクは視線を外し、
「お菓子、ありがとう」と頭を下げた。
 もちろん、片付けの報酬をこの程度で済ませるつもりはない。リンクには十分なルピーを渡した。この程度でも路銀の足しにはなるだろう。
「機会があれば、また何か頼むかもしれません。……そうだ。これからはうちに泊まってもいいですよ」
 思いつきの提案だったが、リンクはこの日一番の笑顔を見せた。
「本当か! 助かるよ、酒場の二階ってちょっと騒がしくてさ」
「今度あなたが来るときまでに、泊まれる部屋を用意しておきますね」
「……もしかしてその部屋も俺が片付けるのか?」
 クロスは返事を濁して微笑んだ。
 彼を泊めるとなるとマリエルは嫌がるかもしれないが、知ったことではない。家主はクロスである。
 リンクはルピーをしっかり財布にしまい、剣と盾を背負った。いっぱしの旅人の完成だ。古びた緑の服もよく似合っている。
 先程のマリエルの言葉を思い出す。勇者——確かにその称号にふわさしいと思える風貌だった。
 玄関に立ち、黄昏に暮れる町へと繰り出すリンクの背を見送る。
「お気をつけて」
「いってきまーす」
 リンクは軽い足取りで前庭を駆けていった。日中あれだけ働いたのに、元気なことだ。
(さて、と)
 二階の閉ざされた扉をホールから見上げた。さすがにあのままほうっておくわけにも行かない。
 階段を上がってマリエルの部屋の戸を叩くと、中でごそごそ動く気配がする。鍵のかかっていないノブを掴んで開けた。
 城下町を荒らしたあの悪魔が、部屋の呪物に隠れるようにしてがたがた震えていた。しかも初めて会った時と同じ、幼い子供の姿に戻っている。クロスは絶句したが、気を取り直して近寄った。
 マリエルは潤んだ瞳でにらみつける。
「なんで……なんで退魔の剣なんて持ってる勇者を家に入れちゃうのよ!?」
 退魔の剣。なんだろう、聞いたことがなかった。リンクの持っていた剣のことだろうか。金の縁取りがある鞘に収まっていて、彼の装備の中では浮いていた。
 それに、マリエルは「リンクこそが勇者である」と認識しているらしい。
「一瞬、あいつが化けて出たのかと思ったわ……よく見たら全然似てなかったけど」
 彼女は色の失せた唇をわななかせる。しきりに「割られる」「真っ二つにされる」などとつぶやきながら。あまりの怖がりように、なんだかかわいそうになってきた。
「前言っていた勇者というのが、リンクさんのことなんですか」
「そうに決まってるわよ! ほら、緑の服で金髪だったでしょ」
 まるで勇者の容姿が決まりきっているかのような発言だ。
「なら、あの人に任せていたら魔王を退治してくれるんですね」
 怯えるマリエルを差し置いて、クロスは未来が明るく開けるような感覚を得ていた。退魔の剣で魔王と戦う勇者様! おとぎ話のようだが、今は何よりも頼りになる存在だ。いくらリンクが力持ちでも、魔王とはずいぶん体格差があるのではないか? と一瞬不安を覚えたが、それは忘れることにした。
 彼が魔王を討伐してくれるなら、クロスも積極的に支援したい。宿屋代わりになるくらいはお安い御用だ。
「……クロスさん、変なこと考えてない?」
 一人でうっとりしていたら、マリエルが胡乱な目を向けてくる。
「いいえ全然。今度リンクさんが来るときは、前もってあなたにお知らせするようにしますね」
「やっぱりまた連れてくる気なんじゃない!」
 それどころか家に泊める約束をしたことは伏せておいた。



 眠っていても本を読んでいてもお菓子を食べているこの間にも、元の平穏が着実に近づいてきている!
 勇者リンクと出会ったおかげで、クロスは久々に心の平和を取り戻していた。彼がいればジョバンニの魂もいつかは解放される。そうしたらまた煩わしい買い物だって任せられる。そして魔王という最大の懸念事項が晴れてしまえば、夢の引きこもり生活の再来だ。
 とにかくじっと待ち続ければ、状況は好転する。クロスはそう信じ切っていた。
 その日、珍しいことに屋敷の呼び鈴が鳴った。
「お客さん?」
 たまたま部屋にいたマリエルが顔を出す。彼女は再び大人の姿に戻っていた。
「おそらくは」と答えて階段を下りながら、クロスは疑問符を浮かべていた。
(おかしい、この家に客人なんて来るはずないのに)
 予期せぬタイミングで知り合いが訪ねてくることはまずありえない。ならばポストマンだろうか。手紙も久しく受け取っていないのだが。
 警戒しながら重い扉を開ける。マリエルも廊下に出てきて、こっそり様子を見守っているようだ。
「あの……どちらさまですか」
 ポストマンではなかった。金髪に赤い目で、マリエルと少し似た風貌だ。しかし服装が怪しいことこの上ない。頭には白いターバンを巻き、首から口元までそれと似た素材の白い布で覆っている。おまけに前髪が片目を隠していて、顔立ちがほとんど分からない。服は体にぴったり張り付いた不思議な形状で、前掛けの胸元には赤く目玉模様が染め抜かれていた。
(完全に不審者だ)
 警戒を強める。訪問者は緋色のまなざしをまっすぐ彼女に向けた。
「ボクはシーカー族のシーク」
「はあ」
 シーカー族とは種族名だろうか。普通のハイリア人にしか見えないが。
 なんだか気障ったらしくて鼻につく態度だ。クロスは若干強気の態度をとる。
「それで、シークさんはうちに何の用ですか」
「この屋敷を少し貸してほしい」
「部屋貸しですか」
 つまり第二のマリエル候補というわけか。彼女が積極的に宣伝するとも考えられないし、いつの間に話が知れ渡ったのだろう。
 相手の身元が不確かなことが気になるが、正直なものでクロスの食指は少し動いた。
「話によっては受け入れますよ」
 シークは首を振った。さらさらした前髪が流れる。
「いや、この屋敷全部だ」
「は?」
「そしてキミには出ていってもらう」
 抗議の声を上げる前に、シークの後ろから騎士団の甲冑を着た兵士がやってきた。ぞろぞろと十数人も整列している。
「屋敷を貸していただきありがとうございます、クロス殿」
 代表者と思しきひときわ立派な装備をつけた兵士が頭を下げる。予想外の展開が続き、クロスはうろたえた。
「どうして私の名前を知っているんですか」
「え? だって前の騎士団長の娘さんですよね」
 兵士は兜の下で目を丸くしている。クロスは視線をそらした。
「まあ、そうですが……。そもそも、何故ここを貸す必要があるのですか」
「シーク殿から伺っておられないのですか? 我々は……あの城から逃げてきたんです。シーク殿の手引きのおかげで」
 兵士は順を追って説明した。だいたいはマリエルから聞いた話と同じだった。現在ハイラル城は未知の敵に乗っ取られているという。
 襲撃を受けた時城に詰めていた兵士たちはばらばらになり、城内にあふれた魔物と戦って多くの者が無念にも命を落とした。生き残ったのはわずかばかりの人数で、彼らもまた風前の灯火だった。そこに、突然シークがやってきて生き残りを集め、城から脱出させたらしい。
 しかし町は平和そのもので、いきなり兵士たちが城の話を広めても混乱に陥るだけだ。今はどこかで英気を養い力を蓄えて、いつか城を奪還する日に備えたい——シークは兵士らの思いを汲み取り、この屋敷を兵士の隠れ家として見つけてきた。屋敷の主人は先代の騎士団長の娘であり、事情を知って貸すことを快諾してくれた、と彼は説明したそうだ。
 兵士の立場には同情の余地があるが、それはそれとしてクロスはふつふつと怒りが湧いてきた。素知らぬ顔で話を聞いていたシークをきつくにらみつける。
「一体どういうことですか。何の権利があってこんな——」
 その質問には答えず、シークは余裕の微笑みを見せた。
「キミがボクの正体を見破れたら、立ち退いてあげるよ」
「はあ? なんですって」
 シークはいきり立つ彼女を完全に無視した。
「さあ、話は済んだ。しばらくここでゆっくり体を休めるといい。ボクは他の仲間を見つけてくるから」
 ありがとうございます、と兵士は頭を下げる。見れば鎧はボロボロだ。お城が魔物だらけになっていたという話はどうも本当らしい。
 とはいえ、クロスはそんなことはどうでも良かった。
(私の……私の家が)
 立ち尽くす彼女を不審そうに眺めつつ、兵士たちがぞろぞろと玄関をくぐっていく。
 暑い日差しの下で、日傘のつくる小さな影の中に縮こまる。ぼーんぼーんと時計が鈍く鳴った。
 気づけば、シークという名の青年はすっかり消え失せていた。
「あーあ、厄介なことになったわねえ」
 いつの間にか影に潜んでいたマリエルが低い笑い声を立てる。
「この場合、あたしはどうしたらいいのかしら。確か契約書には『何らかの理由で契約が続行できなくなった場合は、日割り計算で家賃を払う』って書いてあったわよね」
 声のする方をぼんやりと見た。自分の影からちゃりんと音を立ててルピーが出てくる。
「残りのお金がほしかったら早いところ屋敷を取り戻してね、クロスさん」
 それじゃあね、と言い残し、マリエルの気配が影から消えた。
 クロスはその場で崩れ落ちたい気分だった。
「う、嘘だ……」
 細かい事情は頭から吹き飛び、胸の中にはただ一つの「答え」が回り続けている。すなわち——安住の地は目の前にあるのに、もう手が届かないほどに遠いということだ。

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