第一章 真夜中の王国



 一面に広がる砂の向こうに、巨大な人工物が立ちふさがっていた。六つの尖塔が中央の塔を取り囲むように配置された、不思議な建物である。
「砂漠の処刑場」と呼ばれるリンクの目的地だ。しかし塔の手前には魔物たちがアジトをつくっていた。どこから運んできたのか大量の木材を使用し、トゲトゲの防壁が組んである。独特のにおいがぷんと漂ってきた。彼は緑の肌を持つ小柄の魔物を思い浮かべる。
(ここを抜けるのは骨が折れそうだな……)
 ごくりと唾を呑んだ。このアジトはもはや要塞といっても過言ではない。おそらく、かつて砂漠に住んでいた人間が作った遺構を利用しているのだろうが、使い勝手が良くなるように魔物たちによって整備されたようだ。今まで目にした中でも最大級の砦だった。
 彼はすでに手前の野営地でブルブリンたちと戦っている。ならば必ず、ここにはやつがいる。オルディン大橋とハイリア大橋で一騎討ちを演じた相手、キングブルブリンだ。
「陰りの鏡があるのはきっとこの先だ。十分気をつけた方がいいぞ」
 太陽が動いたわけでもないのに、不意にリンクの影が伸びた。そこから何かが飛び出してくる。
 相棒のミドナだ。影の結晶石と呼ばれる魔石を兜のようにかぶっている。小さな魔物と見間違えられそうな見た目だが、彼女こそがリンクの導き手だ。
「ミドナ、外に出て平気なのか?」
「ああ。ゼルダから力をもらったからな」
 ミドナは苦しげに顔を歪め、空っぽの手を握りしめる。リンクは何も言えなくなった。
 あの雨の夜、「敵」の襲撃を受けてオオカミの姿に変えられた彼は、瀕死のミドナを背負って城下町を駆け抜けた。ハイラル城に囚われているゼルダ姫に「相棒を助けてくれ」と頼むために。彼は動物たちや思わぬ協力者の助けを借りて、なんとか王女のもとにたどり着いた。しかし、願いを聞き届けたゼルダ姫は、力を使い果たしてミドナの代わりに消えてしまった。
「早くこの力をゼルダに返さないと。そのためにはザントを叩くしかない。王様気取りのあいつは今頃影の国に居座っているんだろう。あの城には……やつの気配はなかったからな。陰りの鏡を見つけて、影の国に渡ろう」
 影の僭王ザントにリンクたちは一度敗北を喫している。今度こそ、という気持ちとともにうなずく。汗があごを流れ落ちた。
「分かってる。急ごう」
 ミドナが影の中に戻る。リンクは再びアジトへと視線を向け、入口に向かって慎重に足を運んだ——その時。
 いきなり腕を掴まれた。
「えっ!?」
 背後にあった日陰の中から、誰かの手が伸びている。
 人がいたなんて全く気づかなかった。リンクだけでなく、ミドナもそうだったらしい。相手は完璧に気配を消していた。二人は硬直するしかなかった。
 眩しい日差しに目を細め、リンクはその人物を確認する。茫洋とした翠の瞳、同じ色の短い髪。リンクと同じくらいの年頃の青年が、ただこちらをじっと見つめている。表情は空白だ。
「だ、誰……?」
 敵意は感じない。というか感情そのものが抜け落ちているようにすら思える。リンクはやや脱力しながら問いかけた。
 青年は空いた方の手を無言で虚空に向けた。
 つられて目をやったリンクは「あっ」と声を上げる。見えづらい場所にやぐらが設けられ、その上に見張りのブルブリンがいた。あのまま飛び出していたら角笛を吹かれて、敵に囲まれていたに違いない。
「もしかして、助けてくれたのか……?」
 翠の青年は黙って身を引き、再び影に身を潜める。彼の背後は岩壁になっていて、太陽の光を遮蔽していた。
「気をつけろよリンク」とミドナがこっそり警戒を促した。心の中でうなずく。
 それにしても、ここまで一切相手は言葉を話していない。リンクは自分も影に入りながら、
「な、なあ。きみもこの先に行くのか」
 そもそも彼はどうやって砂漠を渡ったのだろう。ハイリア湖からここまでリンクを「飛ばした」大砲屋のトビーは、先客がいるなんて一言も告げなかった。人間大砲で砂漠を訪れる客などそうそういないはずだ。
 青年は城下町で見かけるような洒落た格好をしていて、旅人には見えなかった。剣を腰に佩いているものの、盾もないし荷物もほとんど持っていない。砂漠を旅するために日よけの外套を用意したリンクとは大違いだ。
 青年はちらりと目を上げ、「違う」と言った。
 しゃ、喋った! 意味のある言葉が返ってきたことが嬉しくて、つい前のめりになる。
「そっか、俺はリンク。このアジトの向こうに行きたいんだ。きみの名前は?」
「ノア」
 その声は静かだがよく響き、砂漠にそぐわない清涼感を持って耳に残った。
 ノアは腕組みして岩壁に背中を預ける。それきり口をつぐんで、ぼんやりとやぐらを見上げていた。
 つれない反応をされても冷たい印象は受けない。ただただこの青年は、コミュニケーションの仕方を知らないのではないか、と思われた。
 リンクはカカリコ村にいる弟分、コリンのことを思い出した。このノアの態度はコリンのように引っ込み思案な性格だからか、それとも。
 彼はどんどん興味を惹かれていた。生来の面倒見の良さが警戒心を上回ったのだ。ミドナは影の中で呆れているようだった。
「もしかして、ノアもブルブリンのアジトを攻略するつもりなのか。で、夜になるのを待っているとか……?」
 うなずいた拍子に翠の髪が揺れた。
 この謎だらけの青年のことがどうしても気になってしまう。リンクは普段、どちらかというと相手に勘ぐられる側なので、逆の立場になるのが珍しいということもある。
 改めて真正面から向き直る。相手は静かに目線を合わせてきた。
「なあ、ノアも座らないか? ずっと立ってたら疲れるだろ」
 まだまだ日は高い。夜まで待つのは相当な辛抱が必要だ。彼は言われて初めて気づいたように、腰を落とした。
 リンクも座り、ごく自然に距離を詰める。拒否されることはなかった。
 相手の話を聞くなら、まずは自己紹介から。軽く息を吸う。
「俺は、ハイラルの南にあるトアル村の出身なんだ。探しものがあって砂漠まで来た。ノアは——」
「仕事でもないのに?」
 突然放り込まれた質問に、リンクはぽかんとした。
「おれは仕事があるからここにいる」
 ノアは妙にきっぱりと言い切った。
(砂漠に来る必要がある仕事ってなんだ……?)
 さほど世間を知っているというわけでもないリンクの知識では、まるで心当たりがなかった。ミドナだってお手上げだろう。
 ゲルド砂漠と呼ばれるここは周囲を山に囲まれ、ハイラルから隔絶された土地だ。リンクのように特別なものが目当てでもない限り、まず一般人が来る場所ではない。
「あのさ、ノアの仕事って」
「ラネール観光協会」
 リンクはぱちりと瞬きした。聞き覚えがある名前だ。ハイラルの北部に位置するラネール地方で看板を見かけたことがある。そうだ、ゾーラ川で貸しボート屋を営むリズや、釣り堀を管理するヘナたちが所属している団体だ。
「ここってラネール地方じゃないよな……? え、どうやって来たんだ」
「山」
 まさか山を越えてきたのか!
 驚愕した。リンクの人間大砲だって十分とんでもない方法だが、ゲルド砂漠とハイラルを隔てるのは特別に高い山だ。それをノアはこの軽装で突破したというのか。
 ミドナもにわかに信じがたい、と息を吐いている。だが彼が嘘八百を並べているようにも見えなかった。
「あのさ、きみがわざわざここに来た理由を聞いてもいいかな」
 ノアはこくりとうなずいた。それから長い時間を——それこそ夜までかけてぽつりぽつりと話した内容をまとめると、こうなる。
 近頃、ラネール観光協会ではハイラル平原における魔物の増加および活性化が問題視されていた。特に、ブルブリンと名付けられた種族が明らかに勢力を伸ばしていた。やつらは従来から平原にいたボコブリンよりも知能が高く、徒党を組んで行動し、巨大猪ブルボーに乗って火矢まで使いこなす危険な敵だ。ハイラル城下町では、近くのハイリア湖のほとりにある精霊の泉への参拝客が昔から多かったため、ブルブリンの台頭を不安視していた。
 そこで、ノアが派遣された。彼は観光協会に所属しているが見ての通り口下手なので、道案内ではなく主に護衛としての役割を果たしていた。今回は一人きりでハイリア湖への旅路の確保を命ぜられたという。
 本部のある城下町から出発し、ハイラル平原を探索してブルブリンの動向を伺った彼は、ついに湖にかかるハイリア大橋の上でその首魁を見つけた。キングブルブリンと名付けられた魔物は、手下の数倍はある体躯を持ち、ひときわ立派な武装をしていた。そしてブルボーにまたがり、まるで誰かを待つように橋の上に立ちはだかっていた。
(そうだ、俺がイリアたちをカカリコ村に送り届けた時、あいつと戦った)
 リンクははっとした。少し前、記憶喪失になって何故か城下町にいた幼馴染を見つけ、彼女の乗る馬車をカカリコ村まで護衛していったことがある。その途上でリンクはキングブルブリンと一騎打ちをした。相手が固めた防具の隙間を狙って矢を放ち、橋から叩き落とした。
 あの戦いをノアもどこかから見ていたらしい。彼は何も言わなかったが、きっとキングを負かしたのがリンクであると気づいていたのだろう。だから、先ほど腕を引いてくれたのかもしれない。
「おれは、橋から落ちたあいつを追いかけた」
 職務に忠実なノアは、キングブルブリンの最期を確認するためひそかに湖畔へ向かった。あそこは断崖絶壁で、リンクの持つ移動用アイテム・クローショットを使っても容易に降りられないはずだが、とにかく崖を降りたらしい。ノアはその先で、湖のほとりに待機させていた部下のもとに泳ぎついたキングを見つけたという。
 魔物は傷ついた体を引きずるようにして移動し、やがて立ち止まった。湖からそう遠くない場所だ。彼らの頭上には何やら見慣れぬ黒い模様が浮かんでいた。息を殺して観察するノアの前で魔物たちは黒い粒子となり、空中の模様に吸い込まれるようにして消えてしまったという。ノアはすぐさま模様の下に立ったが、何も起きなかった。
(ポータルで移動したんだな)
 リンクの相棒ミドナや、今戦っている相手——影の者たちが使うワープポイントだ。
 キングブルブリンは影の者たち、すなわち僭王ザントと手を組んでいる。今思えば、一番最初にリンクがラトアーヌの泉であの魔物と遭遇した時からそうだったのだろう。
「え? それならなんで、キングブルブリンが砂漠に行ったって分かったんだよ」
 すでに夕方になっていた。一気に空気が冷え込んでくる。火を焚くわけにもいかないので外套にくるまって耐えるしかない。妙に長い黄昏の中で、ノアの話はいい気分転換になった。
「他のやつの後をつけたから」
 どうやら「ブルブリン一党の規模からして、親玉についていった部下の数が少なすぎる。きっと他の場所からも部下を呼び寄せるに違いない」と考えたらしい。彼は推測にしたがい、近くのブルブリンを見つけては観察を繰り返した。やがて砂漠方面へと向かう一団を発見し、後を追いかけた。
 そうして気づいたら山を越えていた、というわけだ。
「マジかよ……」
 ミドナが思わずつぶやくくらいには信じられない話だ。ノアの行動は、観光協会が想定したであろう仕事の範疇を完全に超えている。ハイリア湖までの道を確保するため、魔物の親玉を叩こうというのだから。
 薄暗がりに座り込むノアは、よく見たらずいぶん薄汚れた格好をしていた。山越えの苦労が伺い知れる。
(まるでクロスさんと正反対だなあ)
 リンクはつい最近知り合った城下町の女性を思い出した。いい家に住んでいて仕事をしている様子もなく、悠々自適の生活を送る人だ。テルマの話によるとあまり外に出ないらしい。ほとんどリンクの理解の外にいる人物だった。
 そして、今日出会った仕事人間のノアである。同じ都会人でもこんなに違うのか、と驚くしかない。
「……なあ、仕事でそこまでする必要あるのか?」
 リンクはうっかり余計なことを聞いてしまった。
「仕事じゃなかったらしていない」
 ノアはかすかに首を振った。それも確かに納得できる話だ。
 翻って自分自身はどうなのだろう、とリンクは考える。理由があって砂漠に来ている点は同じだが、はっきりいってノアのように強烈な使命感があるわけではない。ラトアーヌの泉でキングブルブリンに襲われ、影の領域に入ってしまって、ミドナと出会った。旅の途中では、状況に流されて行動を選択してしまった場面も多い。だが、「身近な人のために」という根本はずっと変わっていなかった。最初はさらわれたイリアや同郷の子どもたちを探すため、そして今は相棒ミドナのために、彼は剣をとる。
 それは決して仕事ではない。光の精霊には勇者だなんて呼ばれることもあるけれど、生まれ持った使命ではないと思っている。
 だが、背中の剣——退魔の剣マスターソードは、やはり「勇者としてハイラルの敵を倒せ」と言っているのだろう。だから剣はリンクを選び、台座から解き放たれたのだ。
 そのマスターソードも、実は勢いで抜いてしまった部分がある。この剣がなければリンクは一生オオカミ姿から戻れないところだった。追い詰められた末の選択だったので、今更「これで良かったのか」と思わなくもない。
 だから、クロスのように道楽一辺倒にも、ノアのように仕事に邁進することもできそうになかった。
 リンクは人生の先輩に教えを請うつもりで、身を乗り出した。
「ノアはここまで来るの、大変じゃなかったのか? つらくなかったのか」
「別に」
 そう答える声は小さく、ぼんやりした視線はどこか所在なさげに見える。
「そっか。俺がここに来たのは仕事じゃない。でも趣味ってわけでもない。うまく言えないけど、やりたいことではあるんだと思う」
 ミドナも静かに耳を澄ませている気配がした。
「ノアだって、多分ちょっとは楽しみがあるから一生懸命仕事してるんじゃないかな」
 青年はかすかに首をかしげている。
 いつしか太陽はすっかり山の向こうへと消えていた。
「リンク」
 静かな声が胸に染み入る。今、初めて名前を呼ばれた。
 夜がやってきた。ノアの翠の瞳が、アジトに煌々と焚かれたかがり火を映してほのかに光っていた。
 いよいよ魔物の本拠地に挑むのだ。一気に全身に血が巡っていく。
 ノアは音を立てずに立ち上がった。腰の剣ではなく、違う武器を構える。
「それは?」
「ボウガン」
 小型の弓のように見えたが、矢をつがえるべき場所の下には見慣れぬ大きな持ち手がある。それを引いて矢を射出するらしい。
 ノアはボウガンでやぐらの上の見張りを狙うようだった。
「あ、そういう時はホークアイがあるから……」
 リンクは望遠鏡になる仮面を所持していた。だから自分が先陣を切る、と申し出ようとしたのだが。
 ノアは何気なく腕を持ち上げ、ほとんど狙いをつける間もなく矢を発射した。
 大して力を入れていないようなのに、目一杯引き絞った弓と同じくらいのスピードで矢が解き放たれる。遠くでブルブリンが悲鳴もなくやぐらから落ちていった。
(この距離、この暗さでこの精度かよ!)
 内心舌を巻く。ノアは一人きりで山越えをする間にも、数え切れないほど危険に晒されてきたはず。それを切り抜けるだけの実力を持っているということだ。
「ノア、矢は任せた。俺が前に出るよ」
 彼の薄い唇から息が漏れた。了承したらしい。リンクは剣と盾を構えた。
 やぐらから落ちた死体がそろそろ敵に見つかった頃だ。アジトの中が騒然としてくる。
 いつもと違って味方が二人になったとは言え、多数に囲まれたらまずい。一体ずつ確実に対処すべきだろう。
 アジトの中は石の壁で複雑に仕切られているようだった。まずは入口の横に張り付いて、半分だけ顔を出す。ブルブリンの後ろ姿が見えた。背後に従うノアに合図し、リンクは物影から飛び出した。マスターソードは素晴らしい冴えを見せ、哀れな最初の犠牲者を脳天から真っ二つにする。続いて横合いから襲いくる棍棒を盾で弾いた。ノアは指示通り剣は抜かず、少し下がったところからリンクを援護すべく矢を放つ。
 ほどなくして入口付近の敵を殲滅した。また少し進んで、やぐらを見つけたのでノアが即座に潰した。ここからは退路を確保しながら戦わなければならない。
 どうやら魔物たちは夕飯時だったらしく、広場でブルボーの丸焼きがいい香りを放っていた。リンクはごくりとつばを飲む。
「そういえば腹減ったな」
「気持ちは分かるけど、ここの攻略が先だろ」
 影のミドナに叱られ、「はいはい」とふてくされる。
 ここだ、と思って入った道が行き止まりだった。その代わりに敵に囲まれることもないだろう。食事は抜きにしても一度息を整えることにした。そろそろアジトも半ばまで進んだ頃だろうか。処刑場の尖塔がより大きく見える。
 敵がやってきてもすぐに対処できるよう十分注意をしながら、小声で隣に話しかける。
「にしてもノア、強いな。一体どうやって鍛えたんだ」
「別に……普通だ」
 照れたのか? と顔を覗き込むが、表情に変化はない。リンクは苦笑し、短い休息を終えて再び戦闘態勢に入った。
 進めども進めども、出てくるのはブルブリンだけだ。キングはどこに行ったのだろう。
 徐々に焦りがこみあげてきて、早足になる。「後ろと距離が離れているぞ」とミドナに指摘されて振り返れば、ノアが死体のそばにしゃがみこんで何かを拾い上げていた。
「リンク」
 彼は小さなカギを差し出した。
(カギのかかった扉なんて今まであったかな?)
 ノアがすっと前方を指差す。そこに閉ざされた鉄の扉があった。
「もしかして、ここにキングブルブリンが?」
 そうだ、と言うように彼は首を縦に振った。
 ならば突入あるのみだ。剣を握り直し、覚悟を決めた。
「俺が先に入ってみる。罠かもしれないから、ノアは合図したらついてきてくれ」
 扉を開けた。ちょうどアジトの中心部であり、他と違って屋根がかかっている。中にはブルボーが一匹だけいた。馬小屋なのかもしれない。
 ひとまず異変はなさそうだ、とノアに合図をしようとした途端、音を立てて扉が閉まった。
「後ろだリンク!」
 ミドナの鋭い声に、慌てて体を反転させる。
 探していた敵の親玉が、巨大な斧を引きずりながら登場した。どうも別の入口から進入してきたらしい。そしてあの斧こそが、おそらく本来の得物だ。
 今までの二度の対決は、どちらも狭い橋の上だった。エポナの助けなしで、こうして真っ向からぶつかり合うのは初めてだった。
 外から漏れる薄明かりの中でキングはにやりと笑った。それが開戦の合図だった。横薙ぎに斧が襲う。風圧だけで前髪が切れそうな一撃だった。リンクはとっさにバックステップで避けた。
「相手の武器が大きすぎる。懐に潜り込まないと、どうにもならないぞ!」
 マスターソードを使いはじめてからこちらのリーチは伸びたが、キングはさらに攻撃範囲が広い。「了解!」と影に向かって叫んでから、リンクは相手の隙を見極めて距離を詰める。
 兜割り。とある人物から教わった技だ。右手に持った盾をぶつけ、敵がよろけた隙に脳天を飛び越えて背中に回りこむ。
 しかし、今回はいつもと勝手が違った。キングの腹回りの分厚い脂肪に盾アタックが阻まれる。相手がひるまない! どきりとした瞬間、斧が振るわれた。
 ギリギリで身を引き、刃をマスターソードで受け流すが、勢いは殺しきれなかった。全身が吹き飛ばされ、壁に叩きつけられる。
 息が止まり、一瞬目の前が赤く染まった。
(ノアは……大丈夫かな)
 戦闘がはじまってから頭の外に飛ばしていた存在が、急に気になりだした。まずい、意識が混濁してきているかもしれない。
 改めてキングブルブリンを見据える。相手は勝ち誇ったようにわざとゆっくり歩いてくる。
 あいつはリンクの故郷の村を襲った。幼馴染のイリアや弟分であるコリン、それに子どもたちをさらってその心を傷つけた。ハイリア大橋に陣取って、城下町の人々に不安を振りまいた。
(でも、心の底から殺したいわけじゃない)
 リンクは受けた被害と同じかそれ以上にブルブリンたちを葬ってきている。相手を一方的に憎むことはもうできなかった。
「……リンク!」
 ミドナの声が耳に蘇る。ずっと呼びかけてくれていたのか。
 頭が妙に熱かった。血が出ているのかもしれないが、それでも構わない。
 リンクの命を刈り取ろうと振り上げられる斧——それは大きなチャンスだった。
 相手の前に飛び込むように前転した。目の前の大きな腹に向かって、気絶しかけても握ったままだったマスターソードを突き出す。鋭い切っ先は分厚い皮を切り裂き、確かにその奥に入った。
 キングは苦悶の声を上げてよろける。しばし睨み合いが続いた。相手は観念したように身を翻す。
「あっ」
 魔物は閉じた扉を殴りつけて無理やりこじ開けた。そこに、剣を両手で構えたノアが立ちふさがる。山越えしてまでキングを追ってきたのだから当然の反応だ。しかし——
 ぱちぱちと木が爆ぜるような音がする。同時に焦げたような匂いが流れてきた。リンクははっとした。ブルブリンの残党が小屋に火を放ったのだ!
「おいまずいぞっ」ミドナが叫ぶ。
「ノア!」
 その呼びかけに彼が気を取られた隙に、キングは意外にすばやく脇を通り抜けていった。あの逃げ足の速さが生き延びるコツなのかもしれない。
 悠長にキングを目で追っている暇はない。何しろリンクは燃え広がる小屋の中にいたのだ。すぐさま近くにいたブルボーに飛び乗った。手綱を引いてなんとか言うことを聞かせると、そばに駆け寄ったノアに「行くぞ!」と手を伸ばす。彼はそれを握り、リンクの後ろに乗り込んだ。
 両足でブルボーの脇腹を叩く。そうやってブルブリンたちが猪を操るのを何度か見たことがある。ブルボーは命の危機を感じたのか炎の中を駆け抜けた。降りかかる火の粉に身をかがめつつ、リンクたちは燃え盛るアジトから脱出した。
 一体どのくらい走っただろうか、ブルボーが疲れ果てて動かなくなった。長いこと揺られてがたがたになった体で砂の上に降りる。すっかり鼻の奥が焦げくさい。
 後ろでノアも軽やかに降り立った。リンクは彼の無事を確認して安堵してから、頭を下げる。
「ごめん、あいつ逃しちゃって」
「別にいい」
 言葉通り、ノアはなんとも思ってなさそうだ。いつも通りの無表情である。
「……それより」
 突然左手を持ち上げ、リンクの帽子の上にぽんとのせた。
(え、何?)
 二人の背丈は同じくらいだ。相手の真意を探るように翠の瞳を見つめる。唐突に、ラネールの精霊の泉を覗き込んだ時のことを思い出した。どこまでも澄んでいるけれど、底は意外と深くて吸い込まれそうになる——
「頭。怪我」
「ああ、忘れてた」
 ぱっと手が離れる。リンクは帽子を外して麦穂色の髪を触った。
(痛くない……意外と浅かったのかな。もうふさがってる)
 あるいは後で痛むかもしれないが、そうなったらその時に考えよう。
 びゅうと夜風が吹き抜けた。今になって気づいたが、ここはリンクの目的地である砂漠の処刑場の入口だった。
 ブルボーを無茶苦茶に走らせた結果、偶然たどり着いていたのだ。だんだん意識が切り替わってくる。
(よし、やっと陰りの鏡を探せる!)
 その時、ぐうう、とリンクの腹が鳴った。ミドナが影の中で「あーあ」と笑っている。
「あのブルボーの丸焼き、持ってきたら良かったなあ」照れ隠しに伸びをしながら言うと、
「あるけど」
 ノアは保存用の革袋を取り出した。中にはよく焼けた肉が入っていた。
 あの戦いの中で食料を確保していたのか。目端の利く男だ。ノアはそれを袋ごと放った。
「え、食べてもいいのか?」
 つい期待をにじませてしまう。
「リンクはあそこに行くんだろう」
 ノアの視線の先には尖塔がそびえている。そう、リンクにとってはこれからが本番なのだ。だから英気を養え、ということらしい。
「ああ……ありがとう!」
 入口の石段に座ってそれぞれの保存食を分け合い、二人で食事することにした。
 たっぷり栄養と水分をとって腹を満たした。息をついたリンクは隣の男に尋ねる。
「ノアはこれからどうするんだ」
「またあの魔物を追う」
 確かに彼の目的は果たされていないが——その真面目さには嘆息するしかない。
「リンク。仕事でもないのに手伝ってくれてありがとう」
 ノアはこの日一番長いセリフを言った。リンクはなんだか感動してしまう。
「どういたしまして。こっちこそ一緒に戦ってくれて心強かったよ」
 ノアは静かにその言葉を咀嚼していた。
 リンクの半分ほどの食事量で満足したらしい彼は、休憩するリンクを差し置いてすっくと立ち上がった。ボウガンを持ち上げる。
 宙に向かって矢を放つ。矢は何かにあたったようで、夜空に光が弾けた。
「え、今……何?」
「魔物がいた」
 ノアが手のひらを上向けると、そこに赤くぼんやり光る玉が浮かび上がる。玉はふわりと夜空に飛んでいった。あれはゴーストの魂と呼ばれるものである、とリンクは知っていた。
(まさか、ゴーストが見えているのか!)
 リンクがそれを見るにはミドナの力を借りてオオカミに変身し、センス能力を発動させなければいけないのに。あれを肉眼で捉えられる人物がいるのか。
 驚愕はすぐに冷めた。だんだんノアが何をしでかしても驚かなくなってきた。むしろリンクは「いいことを思いついた」と勢い込む。
「そうだ、俺はそのゴーストの魂を集めてるんだ。それがないと困る人が城下町にいてさ。良ければノアも魂集めを手伝ってくれないか?」
「仕事のついでなら」
 相変わらず仕事を引き合いに出して即答するノアに、苦笑を返す。
「そうだな、報酬とかは特にないから本当に仕事じゃないんだけど。助かるよ」
 彼はどことなく困ったように首の後ろをかいていた。
 砂漠に来てから一日でたくさんの出来事があった。正直疲労は感じるけれど、それ以上にリンクはこの状況を楽しんでいた。
 思わぬ出会いと見たことのない景色、知らない味。五感を目一杯使って感じるあらゆるハイラルの空気が、リンクは好きだ。
 きっと、仕事人間のノアにもそれを感じる萌芽はある。なぜならリンクの唐突な申し出を断らなかった。ただ仕事に邁進するだけでなく、新たな提案を受け入れて未知の世界に身を投じることができるのだ。
「いつか、ノアも旅を楽しめるようになったらいいな」
 そう言ってリンクは隣に笑いかけた。

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