第一章 真夜中の王国



 天球の頂点にぽっかりと月が浮かぶ夜。かつて城下町を荒らし回った悪魔——現在はマリエルと名乗る女が、高さのそろった屋根の上をひらりひらりと飛び回っていた。
 少し前までは夜陰に紛れて獲物を物色したものだ。が、今はただの散歩である。不用意に目立って万が一にでも魔王に睨まれたくはない。今夜もハイラル城を覆う結界は黄昏色に光っていた。
 マリエルはひとつの屋根に腰を下ろし、月を見上げた。
 はるかな過去へと思いを馳せかけて、首を振る。月にまつわる記憶は彼女にとってあまり思い出したくないものだった。
 目線を下に戻すと、静かな町並みが広がっていた。
(クロスさんは今頃どうしてるかしら)
 結局、屋敷を乗っ取られた日に別れて、それきりだ。様子を探ろうにも位置がつかめない。クロスはあれだけの魔力を持つのに妙に気配が希薄だった。おかげでトワイライトの中で顔を合わせるまでは、同じ町にいてもまるで気づけないくらいだった。
(なんでこんなに気にかけてるんだか。うっかり最初の勢いに乗せられたのはあるけど、そもそもあの部屋貸しの契約だって……)
 ぶんぶん頭を振る。別にクロス個人が気になるわけではない。彼女の持つ豊富な魔力に惹きつけられただけだ。さらには中庭の例の扉。その先にあるはずの場所を、マリエルはよく知っていた。
 魔力についても扉についても知らぬ存ぜぬと言い張っているが、クロスはただ者ではない。時代が時代なら魔女と呼ばれてもおかしくない。彼女には確実に「何か」がある。それなのに、ほとんど隠居のような生活を送っていたことがマリエルには解せなかった。
 考えごとをしていたら、目の前にふわりと光の玉が漂ってきた。手を差し伸べると、触れた光が指先に宿る。ゴーストの魂だった。マリエルの手放した魔力が戻ってくる。ばらばらになったジョバンニの魂も、今頃本人に返還されたはずだ。
「ちゃんと仕事してるじゃないの、あの勇者」
 善意の行動が悪魔を助けることになるとも知らずに。マリエルはくつくつと笑った。
 不意を突かれたあの時とは違って、緑の衣を思い浮かべてももう震えることはない。しかし別人と分かっていても腹の底が冷たくなる。
 勇者がいるということ、マスターソードがすでに目覚めているということ——知識だけはあったが、今はハイラルにとって戦いの時らしい。
 もう一度、結界に包まれたハイラル城に視線を投げた。
(ま、勇者なんてあたしには関係ないわ)
 マリエルは立ち上がり、城に背を向けた。
「こんな夜中に一人で歩いていたら危ないよ、お嬢さん」
 屋根の上を移動するような悪魔にふざけた声をかけるのは誰だろう。振り返ったマリエルは軽く目を見張った。
「珍しいやつが来たものね」
 クロスの屋敷を奪い取った張本人、シークだった。相変わらず顔のほとんどを布で覆い隠し、疑ってくれと言わんばかりの格好である。悪魔のマリエルのほうがよほど堂々としていた。
「何よあんた、吟遊詩人気取りなわけ?」
 シークはハープを小脇に抱えていた。その指摘に肩をすくめる。
「これは嗜みというか……まあそんなところだね」
 マリエルは訝しげに相手を見つめた。
「で、あたしに何の用かしら」
「そう結論を急ぐことはないよ」
 シークは優雅にハープをつまびく。こちらを小馬鹿にしたような態度だ。マリエルは眉をひそめ、機先を制した。
「まさか、あんたもあの屋敷の扉を狙ってるの」
 シークのルビー色の片目が瞬いた。
「扉? ああ、屋敷の中庭の。いやそちらも重要だが、今は必要ではない。あの向こうに聖三角はないから、ガノンドロフが目をつけることもないだろう」
 マリエルは一瞬息を止めた。次いでにやりと唇の端をつり上げる。
「やっぱりあの扉、そうだったのね。あんた何者よ」
 しばし二人は睨み合った。同じ色の視線が真正面からかち合う。先に動いたのはシークだった。
 軽く頭を下げたのだ。
「キミがクロスの側についているというのなら、一つ頼みがある」
 マリエルは肩の力を緩めた。
「ふうん、あの人に関すること? まあ聞いてやってもいいけど、それなりの対価はいただくわよ」
 屋敷を奪われたクロスと違って、マリエルにはシークと敵対すべき明確な理由もなかった。相手が「顧客」になりたいのなら、喜んで態度を変えてやろう。
「ああ、分かった。キミにはなんでも望みのものを用意しよう」彼は非常に気前が良かった。「それで、頼みというのは——」
 彼は低い声でその願いを告げた。
 聞き届けたマリエルは面白がるように鼻を鳴らす。
「いいわ、引き受けましょう。このマリエルさんにそんな頼み事をするなんて、なかなか酔狂ねえ」
 シークは軽く首を傾けた。
「マリエルか……その名前はクロスがつけたのか?」
「ええ、響きが気に入ってるの。いい名前でしょ」
「そうだな」
 口元を覆う布の向こうで、彼はほほえんだようだった。
「じゃ、対価はあんたの願いがかなった時にいただくわ。それでいいわね」
「構わないよ」
 ハープをしまい、身を翻しそうになったシークを呼び止める。
「待って。話はまだ終わってないわよ」
「なんだい?」
 すらりとした体は華奢と呼べるくらいに中性的だ。空に向かって背を伸ばす若木を思わせる彼を、マリエルはじいっと観察する。
「ふふ。あんたの正体、半分だけ分かっちゃった」
 形の良い唇が、上弦の月のように弧を描いた。



 熱い風の吹くゲルド砂漠から戻り、久々にハイラルの空気を吸った。リンクはほっとして肩を下ろす。
 ポータルによるワープのおかげで帰りは一瞬だった。城下町を目指してしばらく歩く。町を囲う城壁を見上げていると、ふと翠の髪を持つ青年を思い出した。
(もうノアも戻ってきたのかな)
 彼とは砂漠の処刑場の手前で別れたきりだ。帰りは処刑場の屋上にあった鏡の間からワープしてきたため、顔を合わせることはなかった。ノアはまた律儀に山越えをしたのだろうか。
 城下町を囲うお堀には橋がかかり、開いた西門の向こうに往来する人々が見える。わずかに町の喧騒も聞こえ、文明の世界に戻ってきた実感が湧く。リンクの気持ちは浮き立った。
 一方、影の中のミドナも晴れ晴れとしているようだった。懸案事項だった陰りの鏡はザントによって破壊された後だったが、ハイラルの各地に破片が散らばっているという情報を掴んだのだ。まだ手がかりは失われていない。自分たちは一歩一歩、着実にザントを追い詰めている。
 城下町には国中から情報が集まる。リンクは今後の方針を決めるため、以前テルマの酒場で紹介された「ハイラルの平和を願う者たち」の元に向かうつもりだった。
「なあ。この門の横って確か、あの金色のオオカミがいたよな」
 ミドナのつぶやきで、リンクは慌てて地図を取り出した。現在地の近くに打たれた印を確認し、進路を変更する。
「そういえばそうだった。すっかり忘れてたよ」
 ウインドストーンとでも呼ぶべき不思議な石碑を脳裏に思い描きながら、西門の脇を探索する。
「えーと、このあたりかな」
 きょろきょろしていると視界の端に金色の毛並みが見えた。リンクは小走りになって近づいた。
 金色のオオカミは赤い瞳を輝かせ、おとなしくこちらの到着を待っている——と思いきや、突如として立ち上がった。驚くリンクの目の前を通り過ぎ、全速力で逃げていく。
「ちょ、どこ行くんだよ!?」
 向かう先は西門の方角だった。リンクは青くなる。
「まずい、町の人たちを怖がらせるんじゃ」
「いや。あのオオカミは普通の人には見えないはずだ」
 ミドナの声を風とともに置き去りにしながら、彼はオオカミを追って城下町に飛び込んだ。
(今日に限って一体なんなんだよ!)
 正体も目的も不明だが、あのオオカミは基本的にリンクの味方のはずだった。逃げ出すことなんて一度もなかったのに。
 金色のオオカミは誰にも注目されないまま人ごみの中を走っていく。むしろ全力で町を駆けるリンクの方がよほど不審のまなざしを向けられた。唯一、路地に住む子犬だけはオオカミの姿を察知したらしく、可愛い声で吠えていた。
 オオカミが走っていく方向に、日傘をさした女性が歩いている。
「クロスさん!」
 リンクはとっさに大声を上げる。気づいた彼女は赤毛をなびかせて振り返り、目を丸くした。
 その眼前で金色のオオカミが立ち止まった。クロスは視線を下に向けて、びくりと肩を震わせる。
(あの人、オオカミが見えているんだ……!)
 なんとか追いついたリンクは、クロスをかばうように前に出た。間髪入れずにオオカミがジャンプしてくる。
 背中にそっと手が添えられるのを感じた。視界が暗転する。
 ——気づけば、リンクは濃霧の中にいた。
 霧の向こうにぼんやりとハイラル城が見える、不思議な空間だ。まわりの建物や人々は消え失せ、ただただ広い空地があった。彼はこの場所に何度も訪れたことがある。
 だが、今回はいつも違う点があった。すぐに後ろを振り向く。
「こ……ここは一体、どこなんですか」
 ミドナですら来たことがない場所に、何故かクロスが招かれていた。不安そうにあたりを見回し、日傘を握りしめている。
「ここは——えっと」
 彼女に説明するため、リンクは正面にいる「相手」、ぼろぼろの鎧をまとった謎の骸骨剣士と対峙した。
 むしろこちらが説明してほしいくらいの状況だった。この骸骨剣士は金色のオオカミが変化した姿である。その証拠に、オオカミと同じ色の赤い光が骸骨の眼窩に宿っていた。
 今となってははるかな昔のように思える、まだミドナと出会ったばかりの頃だ。「さらわれた子どもたちの手がかりがある」と言い聞かされて向かったフィローネの森の奥で、いきなりあのオオカミに襲われた。そして気づけばこの空間で骸骨剣士と対峙していた。
 彼は「奥義」と呼ばれる特別な剣技をリンクに授けてくれた。骸骨剣士はリンクを「勇者」と知っていて、そうしているらしい。相手が死者であるせいかあまり会話は通じず、いつも一方的に教えを受けるだけだ。未だに相手の正体もよく分からない。だから、クロスの疑問にもろくに答えられなかった。
「お前、なんで今回に限ってこの人を巻き込んだんだよ」
 とりあえず一番の疑問をぶつけてみる。
 骸骨剣士は剣と盾を構えたまま、低い声を出した。
「また会ったな。お前の働きでハイラルも幾分生気を取り戻しつつあるようだが、安心するのはまだ早い。更なる強敵との戦いに備え、次の奥義を得る心構えは出来ているか?」
「いや、そんなことしてる場合じゃないだろ! 質問に答えてくれよ」
 困惑するリンクに、後ろからクロスが囁いた。
「もしかして、この骸骨がさっきのオオカミなんですか」
 幸いにも彼女は十分すぎるほどに落ち着いていた。リンクは骸骨剣士から視線を外さず、返事した。
「そうなんだよ。俺、訳あってこの人に剣技を教えてもらっていて……」
 クロスはため息をついて一歩下がった。
「なら早くその用事を済ませてください。そうすればこの変な場所から出られるのでしょう?」
 いくらなんでも飲み込みが早すぎるだろう、とリンクは驚いた。だがわめいたり文句を言われたりするよりはずっと助かる。
「ああ、そうするよ」
 彼は肩をすくめて戦闘態勢に入った。
 今回の奥義は「居合斬り」というものだった。得物を鞘に収めたまま相手に近寄り、隙をついて剣を抜き放つ。抜刀時の勢いとともに斬りつける大技だ。威力が高い分、逆にダメージを受ける可能性も高いだろう。使い所は難しそうだ。
 骸骨剣士を稽古相手にして、教わったばかりの技を放つ。全力で斬りつけるので骨がバラバラにならないかと思ってしまうが、相手はいつも平然と起き上がってきた。
「見事だった。更なる奥義を会得するため、日々剣の鍛錬を怠るでないぞ!」
 結局、骸骨剣士はクロスを巻き込んだ理由を話さないまま去っていった。
 視界が明るくなり、昼の城下町に戻ってくる。ざわざわという町のにぎわいが耳に蘇った。
 クロスは日傘の下で紫の瞳を茫洋とさまよわせる。
「あの骸骨とあなたは、二人とも左利きなんですね」と指摘した。
「そういえばそうだな」
 今まで気づかなかった。もしかして相当珍しいことなのだろうか。
「とにかく、あなたの用事が終わったのなら良かったです」
 彼女は当然思い浮かぶ疑問——あの骸骨剣士は何者か、どうして自分を巻き込んだのか——を全く口にしなかった。しかもそのまま行ってしまいそうになるので、とっさに肩を掴んで引き止める。
「あ、待ってくれ。これだけ迷惑かけておいて悪いんだけどさ、今日クロスさんの家に泊めてくれないかな……?」
 クロスの体が凍りついた。アメジストの瞳が揺らぐ。
「家は……無理です。今ちょっと、乗っ取られていまして」
 リンクはぽかんと口を開けた。乗っ取られた? 誰に?
「え、大丈夫なのかそれ」
「全く大丈夫じゃありません」
 そういえばいつもより顔色が悪い。もしや異様に物分かりが良かったのは、自分のことに手一杯で骸骨剣士などに気を配っている暇がなかった、ということかもしれない。
「乗っ取られたってどういうことだよ。今はどこに住んでるんだ?」
「親戚の家に身を寄せています」クロスは悔しそうに唇を噛む。「というわけなので、しばらくあなたを家に泊める約束は果たせそうにありません。ゴーストの魂を集めてもらっているのに、申し訳ないです」
 急にしおらしい態度になるのでリンクは戸惑った。
「いいって、お互い様だよ」
 クロスはふらふらと歩き去っていく。どうも心配になる後ろ姿だ。
「——さっきのクロスって女、どうして金色のオオカミが見えたんだ?」
 本人がいなくなった途端、ミドナの鋭い指摘が飛んだ。立て続けに不思議な出来事ばかり起こったので、リンクはそんなこと忘れかけていた。
「センス能力を持っているなんてただ者じゃない。注意しろよ、リンク」
 まさか、金色のオオカミはそれを警告するために彼女を巻き込んだのか? もう何もかも分からない。
 異国の雰囲気を醸す赤い髪が、ゆっくりと雑踏の中に消えていく。
「でもあの人、余計なこと勘ぐったりしないだろ。だから話してて楽なんだよな」
「それが逆に怪しいんだよ。普通はもっと気にするはずだ。あの酒場のやつらみたいに」
 ミドナはクロスに加えて、テルマの酒場に集う者たちも警戒しているらしい。どちらも十分に信頼できる、とリンクは思うのだが。
 それにミドナは知らないけれど、クロスはあの雨の夜、ケモノ姿になったリンクを助けてくれた。悪い人ではないと信じたい。
(あの人多分、他人の事情なんて本当にどうでもいいって思ってるだけだよなあ……)
 彼女の適度な無関心は、厄介な秘密を抱えるリンクにとってはある意味で心地よいものだった。
 その後、テルマの酒場に向かった。当初の予定通りハイラル各地の情報を得るため、そして宿の交渉をするために。
 奥のテーブルにはいつものメンバーが陣取っている。彼らこそ「ハイラルの平和を願う者たち」だ。合わせて四人いて、今日はその半分が集まっていた。
「おお、リンク殿!」
 真っ先にラフレルという名の老爺がリンクを見つけ、声をかけてくる。メンバーの中で一番の年嵩だが、背筋はぴんと伸びている。その身のこなしは熟練した武術を操ることを伺わせた。
「心配しておりました。やはり、あの砂漠の処刑場には何かがありましたか……?」
 リンクはハイリア湖で、彼から砂漠へ向かう方法を聞いたのだった。
「えっと……砂とか骨とか、いっぱいありましたよ。肝心の鏡はなかったけど」
 嘘はついていない。鏡は一欠片を残して破壊されていたのだから。陰りの鏡の噂を聞いたのはこの人からだったが、ミドナの存在を秘匿している以上、事情をすべて話すわけにはいかなかった。
 ラフレルは腕を組み、おもむろにうなずく。
「そうでしたか。実は老輩はその昔ハイラル王家に仕え、ゼルダ様のご幼少のみぎりに教育係を仰せつかっておりましてな。処刑場にある呪われた鏡のことはその頃に聞いた話なのです」
「へえー」
 なるほど丁寧な言葉遣いの通り、城仕えの偉い人だったのだ。
「そうだリンク殿、ハイラル城のあのおぞましい姿を見られましたか?」
 唐突に核心を突く話題を振られてぎょっとした。反射的にうなずく。
「一刻も早く、元の平穏な王国を取り戻さなければ。リンク殿、これからも是非力を貸してくだされ!」
「あ、はい」
 あのハイラル城の姿に気づいている人が他にもいたのか。町の人々があまりにもいつも通りなので、誰にも見えていないのかと思っていた。あの城はリンクがゼルダ姫と会った直後にああなった。あの結界が見える人にはどのような特徴があるのだろう。
 ザントは影の国にいるらしい。それでは、城には何がいるのだろう? もしや、そこにゼルダ姫が囚われているのだろうか。
 あの雨の夜、ゼルダ姫は瀕死のミドナを回復させ、そのまま消えてしまった。さすがに消滅はしていないはずだが、リンクは未だにあの時何が起こったのかよく分かっていない。
 テーブルについたもう一人、モイが話しかけてきた。
「リンク、砂漠の調査お疲れさん」
 モイとは故郷が同じで、村にいた頃は剣の師匠をしてくれていた。一児の父であり、もうすぐ二児の父になる。息子のコリンはカカリコ村に身を寄せていて、妻のウーリは大きなお腹を抱えたまま一人でトアル村にいる。そんな状況の中、モイはハイラルの危機を優先して、こうして城下町の仲間たちと行動を共にしていた。
 いかにもトアルの出身らしい温和な顔立ちだが、責任感や使命感は人一倍あるのだ。モイはテーブルに広げた地図のある場所を示した。
「今は仲間のアッシュがゾーラの里の奥にあるスノーピークに向かってる。あそこから妙な魔力を感じる、それがハイラルの異変に関係があるんじゃないか、って気にしていたんだ」
 アッシュといえば騎士団に所属する娘だ。ザントがハイラル城を急襲した時、たまたま遠方の任務についていたために難を逃れ、ラフレルたちの仲間に加わった。直感の鋭そうな彼女が気になるというのなら、きっと何かあるのだろう。
「なら、今度はそこに行ってみようかな」
 魔力といえば鏡のかけらがあるかもしれない。アッシュに会って話を聞こう、と方針を定めた。
「ああ。アッシュが困っていたら助けになってやってくれ。同じ志を持つ仲間として、な」
 モイはごく当たり前にそう言う。なんだかリンクは感動してしまった。
(俺みたいに勇者なんて呼ばれているわけでもないのに、こうして自分から行動するなんて……みんなすごいよなあ)
 例えば村の子どもたちがさらわれなかったら、ミドナと出会わなかったら。自分は確実に今ここにいなかっただろう。
 彼らは自らの意思で未来を切り開くことができる。そこに、リンクは少しだけ羨ましさを感じていた。



 ハイラルの西に位置するゾーラの里は、ラネール地方の水源だ。山林が雨を蓄え谷には豊富な水が湧き出し、その潤いがゾーラ川を通って南のハイリア湖にそそいでいる。そしてゾーラの里のさらに奥には、万年雪の積もる山スノーピークがあった。
 その山こそがリンクの次なる目的地であった。陰りの鏡のかけらは雪深き山、古の森、そして天空にあるという。雪深き山に該当するのはここしかない。
 すさまじい吹雪に巻かれながらもリンクはなんとか山を越えて、鏡のかけらがあると思しきこの廃墟にたどり着いた。
「ここの寝室に陰りの鏡がある——のは確かなんだけどなあ」
 影の中でミドナがぼやく。リンクは苦笑しながら大きなトアルカボチャを抱えて歩いていた。
 道中で氷人フリザフォスにやられた肩の傷がじくじく痛む。早く火のそばであたたまりたかった。
 雪山にぽつりと佇むこの廃墟は、かつては荘厳な屋敷だったのだろう。広すぎる屋敷というとクロスの家を思い出すが、こちらは半分雪に埋もれている上に魔物の巣窟だった。そして屋敷の主人は——
「何味がええかのぉ」
 台所に戻ると、獣人ドサンコフが巨大な鍋を前にうなっていた。リンクの何倍もある大きな体を真っ白な毛皮で覆っている。魔物かと見まごうような姿だが、言葉は通じるし人柄も良い。
 ドサンコフは足元のリンクに気づき、大きすぎる声を上げた。
「オメ、カボチャ持ってんのか? おーっ、ありがとな!」
 リンクが答える前に大喜びでカボチャを奪い取った。皮も剥かずにそのまま鍋に投入する。ニオイマスという魚で出汁をとったスープのおかげで、あたりはなかなか強烈なにおいに支配されていた。
「よしできた。ほら、オメェらも味見してええど!」
 ドサンコフは明後日の方角を向いてしゃべる。リンクが驚いて振り返った先に、見知った顔の二人がいた。
「あっ」
「やはり先に到着していたのはリンクだったんだな」
 軽鎧姿の騎士アッシュ。それに、ラネール観光協会のノアだ。相変わらず後者は無表情で無言である。
 アッシュは黒髪を結んで肩の両側に垂らした憂いのある美少女だ。ここしばらくスノーピークを調べており、リンクは麓で一度顔を合わせている。この廃墟にいてもおかしくはないが……。
「二人とも、どうやってここに」
「それはこちらのセリフだ」
 アッシュは疑いのまなざしを向ける。
 リンクはオオカミの姿に変身してニオイマスのにおいをたどることで、なんとか遭難せずにこの廃墟までやってきた。しかしそれを話すわけにもいかず、
「いや……俺って結構鼻が利くから、獣人のにおいをたどってきたんだよ」
 無理のある話だ。ミドナのため息が聞こえる。
 当然アッシュは氷よりも冷たい視線を向けてきた。
「ふうん。まあいい。
 私は吹雪でスノーピークの探索を諦めようとした時、ノアに出会ったんだ」
「そうだよノア、お前町に戻ったんじゃなかったのか」
 リンクは身を乗り出す。観光協会の青年は相変わらずの軽装だった。防寒具すらなく、この寒さをどうやって耐えているのだろう。騎士団のアッシュのほうがよほど旅支度が整っている。
 ノアは涼しい顔で答える。
「砂漠の後、ラネール地方に行った」
 キングブルブリンのアジトを壊滅させた彼は、もう一度山を越えた。本部への報告は手紙で済ませ、観光協会に所属する釣り堀や貸しボート屋があるラネール地方の様子を見て回っていたらしい。相変わらず己の職務に対して忠実すぎる男だ。
 そのついでにゾーラの里に寄った時、アッシュと出会った。彼女は雪山からゾーラの里にやってくる獣人が怪しいと見て調査を進めていたが、吹雪に阻まれて足止めを食らっていた。
「どういうわけかノアを連れてスノーピークに踏み入ると、突然空が晴れたんだ」
 そうアッシュは語る。風も和らいで日差しがぽかぽかとあたたかいくらいだったらしい。ならば雪崩などが発生する前に、と獣人の痕跡をたどって一気にここまでやってきたという。
「へ、へえー」
 リンクはどう反応していいか分からない。ノアは天気の神様にでも愛されているのだろうか。本人は相変わらず何の感情も読み取れない顔をしていた。アッシュにあからさまに怪しまれていることにも気づいているのかどうか。
 廃墟の台所で冷たい壁に背中を預け、アッシュは腕を組む。
「私はスノーピークの異常な冷気はこの廃墟が原因とみた。リンクもそれを調べに来たんだろう?」
「う、うん。そうだけど……とりあえずスープ飲んでいいかな」
 ドサンコフが「なんかよく分かんねぇけど、休むとええど」と言って空きビンになみなみと注いでくれる。癖のある魚の出汁にカボチャの甘みが加わり、なかなか美味しいスープになっていた。
 リンクはドサンコフに聞こえないように小声になる。
「どうも、ここの寝室に異変の原因があるみたいでさ。俺はそれを探してるんだ」
 こうなれば素直に打ち明けてしまったほうが早いだろう。ミドナは嫌がるかもしれないが。
 アッシュはうなずいた。
「なるほど。であれば私も手伝おう」
「えっと、ノアはどうする? 観光の仕事とはあんまり関係ないけど」
 ずっと黙っていた青年に水を向ける。翠の瞳がひとつ瞬いた。腰に提げた剣がかちりと鳴る。
「やる」
 こうして三人で廃墟を探索することになった。オオカミには変身できなくなったが、味方がいるのは心強い。雪山の廃墟は氷の力を持つ強敵がわんさかいて、苦戦する場面が多かった。
(こういう場所を大勢で攻略するのって初めてだな……)
 リンクは少しどきどきしてきた。
 スープで体をあたためてきちんと手当すると、肩の傷も少しはましになった。休息を終えて隣の部屋に赴く。そこには獣人の奥さんマトーニャが待っていた。
「あ、寝室のカギは見つかりましたか?」
 居心地の良さそうな居間で暖炉の火にあたっている。体がドサンコフの数分の一程度なので、最初は本当に同じ種族なのかと疑ってしまった。
 砂漠の処刑場で砕かれた陰りの鏡のかけらはハイラル中に飛び散り、一つがここの獣人夫婦に拾われた。すると鏡の魔力によって(獣人たちは鏡のせいとは気づいていないが)マトーニャが体調を崩してしまったため、今はカギをかけた寝室に安置しているそうだ。
 リンクは獣人たちから屋敷の見取り図をもらい、寝室のカギを置いたという部屋に向かった。だが、氷の魔物たちの猛攻をかいくぐった先で見つけたものは——
「それが寝室のカギじゃなくて、カボチャだったんですよ」
「えっカボチャ? どうしてそんな所に……」
 こちらが聞きたいくらいだ。「あのオスの獣人がこっそり隠してたんじゃないのか?」とミドナが訝る。
 マトーニャはうなりながら記憶をたどりはじめた。
「うーん、すみません。じゃあ一体何処に……あっ! あの部屋かも知れないわ。地図を貸してくださらない?」
 今度こそ正しい記憶であってほしい。マトーニャは差し出された地図の一点を示す。
「この部屋なんですけど……もう一度見てきてください。お願いします」
 リンクは後ろの二人と顔を見合わせ、部屋を出た。
 途端に冷たい空気に肌を刺されて震え上がる。こんな場所早く攻略してしまいたい。
 アッシュはほおを紅潮させて剣を抜いた。
「リンク、道案内を頼む。私が前に出よう」
「お、おう」
 彼女はこの場をまとめるつもりのようだ。確かに三人の中では一番まともに訓練を積んでいるはずだ。リンクの知らない戦いのセオリーに精通しているかもしれない。単純な戦闘能力ならばマスターソードを抜いた彼だって負けるつもりはないが、集団戦における有効な策についてはさすがに知識がなかった。
 一列になってアッシュが前、ノアが真ん中、リンクが最後尾を歩く。冷気をまとったアイスキースが襲ってくるとすかさずアッシュの長剣がひらめき、雪原から飛び出す獣ホワイトウルフォスにはノアのボウガンから飛び出た矢が突き刺さる。リンクの出番はほとんどなかった。
(まずい、味方が優秀すぎて全然活躍できないぞ……)
 せめて道案内くらいはせねば、と地図とにらめっこした。
「えーっと、この先に行かなくちゃいけないんだけど」
 部屋の中は氷の壁で塞がれていた。アッシュが剣の柄で軽く叩く。氷とは思えない重く鈍い音が返ってきた。
「この氷を破壊するのは厳しいな」
 なら一度引き返そうと体を反転させた時、すっとノアが横に出た。何ごとかと問いただす前に、両手で振り抜いた剣が一閃する。
(あれ……居合斬り?)
 その動作に妙に見覚えがあった。骸骨剣士から習ったばかりの技を、彼が使った?
(まさか。勘違いだよな)
 びっくりするリンクと首をかしげるアッシュの前で、何もない場所からカンテラが出現し、がしゃんと床に落ちた。
「あ、またゴーストがいたのか」
 まるで気づかなかった。ノアはわずかにあごを引いてうなずいた。
 正直、リンクの方のゴーストの魂集めははかばかしくない。この様子だとノアはあれからも律儀に退治を続けていたようだ。きっとラネール地方はほとんど狩りつくされたに違いない。
 そのあたりは今度クロスやジョバンニに話しておくべきだろう。万が一何かお礼をもらった場合、リンク一人の手柄とするのは気まずすぎる。
「今、ノアは何をしたんだ?」
 アッシュは本人とのまともな会話を諦めたのか、何故かリンクに話題を振ってくる。真横でそんな扱いをされても、ノアはどこ吹く風でぼんやりしていた。
「えーっと、そこにいた目に見えない敵を倒したんだ。だよな?」
「ポウフィーの魂を集めろって、リンクが言ったから」
 あのゴーストの正式名称らしい。調べたのか、元から知っていたのか。どちらにせよ「本当に真面目だなあ」と感心するしかない。
 アッシュは難しい顔でリンクに耳打ちした。
「なあリンク、彼は一体何者なんだ」
 疑われても仕方ないと思う。ノアの存在は明らかに場違いだった。アッシュたちのようにハイラルの異変を解決したいわけでもなく、勇者として選ばれた使命を抱えているわけでもなく、何故か「仕事」と言い張って危険な場所に足を伸ばしている。実力も十分に伴っているし、リンクとしては助かっているのだが——
「俺もこの前会ったばっかりだよ。ラネール観光協会の人だって」
「それは私も聞いた。ラネール観光協会といえば、ラフレル殿が長をやっている団体だが」
 初耳だった。あの老爺はゼルダ姫の教育係を引退してからそちらに席を移したようだ。
「やはり気になる。ただ者とは思えないな」
「うーん、少なくとも悪いやつじゃないんだけどなあ」
 とはいえノアがあまりに不自然なおかげで、リンクへの疑いがそらされている面はあった。少しありがたい。
 中庭に出て氷の壁を迂回する方法を探した。真っ白な雪をブーツでかき分けていると、アッシュが庭に放置されていた大きな物体に目を留めた。
「いいものがあるな。大砲か」
 これがそうなのか、とリンクはまじまじと見つめた。黒っぽい筒が台座から斜めに飛び出している。リンクは人間大砲を利用したことはあっても、このような本格的な兵器には触れたことがなかった。
「動かせるのか、アッシュ」
「ああ。弾と火薬があれば、あの氷を壊せるかもしれない」
 弾は近くの部屋の中に無造作に置いてあった。火薬はリンクの持っていた爆弾で代用する。
 三人は協力して大砲を氷の壁の前まで移動させた。弾を込めて爆弾を仕掛ければ、轟音とともに発射される。弾が当たった氷はバラバラに砕け散った。なかなか爽快感のある光景だ。
 氷で塞がれていたおかげか、その先の廊下には比較的綺麗な内装が残っていた。
「こういう場所を歩いてると、城下町で入ったお屋敷を思い出すんだよなあ」
 リンクは何気なくつぶやいた。
「もしや、クロスという女性の住む屋敷か?」
 アッシュの言葉に目を丸くする。
「そうそう。ここほどじゃないけど広くてびっくりしたよ。ノアはあの人のこと知らないよな?」
 翠の頭は横に振られた。
「アッシュもクロスさんと知り合いなんだ」
「ああ……彼女は騎士団の先代団長の娘だからな」
「えっ」
 意外な一面だった。騎士団とのつながりなど全く感じさせなかったのに。なるほど、だから悠々自適の生活を送れるんだな、とリンクは納得した。名家のお嬢さんというわけだ。
 ふと思い出す。はじめて握手をした時クロスが左手を差し出したのは、リンクの剣の背負い方から利き手を判断したからかもしれない。
「そうそう、あの人家から追い出されたって聞いたけど、本当なのか?」
「ああ。今は伯父であるラフレル殿の家に身を寄せているはずだ」
「親戚の家にいる」というのはラフレルのことだったのか。思わぬつながりがどんどん判明していく。
「彼女の話を聞いて、少し調べさせてもらった。兵士たちが城から避難してきたことに不審な点はない。確かに、強引に屋敷を接収したという人物の出自は不明だが……今はハイラルの一大事。屋敷の一つや二つ、提供してしかるべきではないのか」
 という考えに、クロスは絶対うなずかないだろう。リンク個人の意見としてはアッシュ寄りだが、もし敵と戦うためにトアル村を占領させろという話が出たら彼は反発する。だからクロスの気持ちも分かる。
 それにしても「乗っ取られた」というのは、城から避難した兵士たちの仕業だったのか。魔窟と化した城に取り残されていた兵士の中にも無事な者がいたのだ。リンクは気がかりが解消されて少しほっとした。
 ノアにはほとんど関係のない話だったが、彼は何故か真剣に耳を澄ませているようだった。
 雑談しながらも順調に魔物を退け、やがて三人はある部屋の前にたどり着いた。
「この先にカギがあるみたいだ」
 リンクは屋敷の見取り図から顔を上げた。記された部屋の形を見た瞬間、なんとなく嫌な予感がした。こういう場所には多分、強めの魔物がいる。
「二人とも、気をつけた方がいいぞ」
 注意を促さずにはいられなかった。アッシュが真剣な面持ちでうなずき、ゆっくりと扉を開ける。
 おかしなつくりの部屋だった。広間の両側が鉄格子で仕切られ、まっすぐ正面に通路が伸びていた。さらには通路の真ん中に甲冑がいくつか飾ってある。この屋敷にはあちこちに錆びた武器防具が陳列されていたから、その一部だろう。大砲の存在といい、何のためにつくられた施設なのだろうか。
 寝室のカギはさらに奥にあるらしい。妙に静かな部屋を、三人はそれぞれ警戒しながら通る。
 最初にその音に気づいたのはノアだった。ちょうど二つ目の甲冑の横を通り過ぎた時、彼は体を反転させてすばやくアッシュの前に出た。
「何っ」
 高い金属音とともに甲冑が破壊される。敵などどこにもいないはずなのに——否、最初から潜んでいたのだ、一番目の甲冑の中に!
 空の甲冑を壊した程度では攻撃の勢いは落ちなかった。鎖のつながった鉄球がまっすぐに飛んできて、ノアを打ちのめした。アッシュを巻き込んで床に叩きつけられる。
 ひゅっと息を呑むリンクの前で、鉄球が戻っていく。その魔物は高く掲げた腕を支点にしてぶんぶん鉄球を振り回した。どうやら、甲冑の中にリザルフォスのような魔物がひそんでいるらしい。
「ハンマーナック……!」
 アッシュが険しい顔で叫ぶ。倒れたノアの頭を支えながら。
「ノアは私が見る。やつの後ろに回れ、リンク!」
「ああっ」
 あの鉄球は威力が高い。盾でも防げるかどうか怪しいだろう。リンクは気合を入れ直した。
 アッシュの発言からすると、背後に弱点があるのだろう。背面斬りという奥義を使って回り込むか、それとも——すばやく部屋を見回したリンクは、天井が金網状になっていることに気づいた。斜め上に向かってクローショットを打つ。
 放たれた鉄球を間一髪でかわし、入れ違いに宙を駆ける。天井に飛びついてすぐ床に降り立てば、そこはもう相手の背後だ。ハンマーナックが一度繰り出した鉄球を手元に戻すまではまだ間がある。
 このタイミングなら居合斬りが使える! 手に持っていたクローショットをしまいこみ、利き手を剣の柄にかけた。甲冑の裾から飛び出たしっぽを狙って斬りかかる。
(よし!)
 手応えがあった。苦悶の声とともに魔物の体は消滅し、その場にはチェーンハンマーとでも呼ぶべき鉄球だけが残った。
 リンクは手柄を誇る間もなく、同行者のもとに駆けつける。
「無事か!?」
 アッシュは気を失ったノアの頭を抱えている。ハンマーの一撃は青年の腹部に直撃したらしく、広範囲に血がにじんでいる。すでに応急手当は済んでいたが、彼が目覚める気配はない。
「私をかばったんだ……」
 ぽつりとつぶやく彼女は消沈していた。リンクは持ち歩いていた赤いクスリを取り出す。
「カギはこの先だから、俺がとってくるよ。アッシュはノアにこれを飲ませて待っててくれ」
「ああ……」
 行きがけに、魔物が落としたハンマーを拾ってみた。かなり重いが、その分抜群の攻撃力を持つことは分かっている。何かに使えるかもしれない。
 チェーンハンマーはさっそく役に立った。奥の部屋は壁も床も氷だらけで、そのままではカギの入った箱までたどり着けなかったが、見よう見まねでぐるぐる回したハンマーをぶつけることで氷を破壊できたのだ。大砲並みの威力を持つ武器となるとこの先も使える場面があるだろう。振り回す際に腕が疲れてしまうのが唯一にして最大の欠点だ。ミドナに持っていてもらうことにして、影の中に入れた。
 砕け散った氷のかけらを払い、箱に飛びつく。
(やっと寝室のカギが手に入る!)
 しかし、箱を開けたリンクは嘆息する。そこにはトアル山羊のチーズが入っていた。
「こんなときにまた食いモンとはな……いい加減にしてほしいよ」
 ミドナのぼやきには完全に同感だ。
「もう一度あの奥さんに何とか思い出させるしかないな。仕方ない、また戻って聞いてみるか」
 急いで部屋を出て、アッシュにチーズを見せる。彼女はあっけにとられていた。
 リンクはノアを背負い、先行するアッシュに魔物の対処を任せて台所まで戻った。山羊のチーズはまたドサンコフに渡すことにする。
 火のそばに寝かせると、あたたかさを感じたのか翠の瞳が開いた。
「大丈夫か、ノア」
 回復しきらない体のまま起き上がろうとしたので、慌てて座らせた。
 山羊のチーズが入って極上の味になったスープを飲ませた。白っぽいほおに赤みが戻っていく。だが彼はいつも以上にぼんやりしていた。もしかすると、ひどい痛みに耐えているのかもしれない。
 リンクは覚悟を決めて立ち上がった。
「アッシュはここでノアを見ていてくれないか。カギ探しは俺が行くよ」
「ああ……すまないが、任せる」
 アッシュはうなだれるように頭を下げる。民間人に怪我をさせた、という思いに囚われているのかもしれない。
 リンクだって彼に守られたようなものだ。一人で戦って何も知らずにあのハンマーの攻撃を受けたら、どうしようもなかった。山の冷気が鏡の魔力によるものなら、一刻も早くそれをどうにかすることが、ノアを助けることにもつながる。
 居間でマトーニャに再び事情を話し、曖昧だった記憶を呼び覚ましてもらう。
 奥さんはつぶらな瞳を閉じて、うーんうーんと考え込んだ。
「あ、思い出しましたよ! 忘れないようにってわざわざ寝室のすぐそばの部屋にしまったのに、結局忘れちゃってたなんて。わたし、恥ずかしいわ」
 最初からそれを思い出してくれ! と叫びたいのをこらえて、「今度こそ」と地図に印をつけてもらう。
 一人きりになると、襲いくる冷気もより厳しさを増したようだ。無言で廊下を歩いていたら、ミドナが影の中から出てきた。
「結局お前だけになったな。ま、やりやすくていいけど」
 肩の荷が下りたのは事実だが、そう言い切ってしまうと少しさみしい。
「あんまりみんなを巻き込まないほうがいいのかなあ……」
 懐に入れたスープのぬくもりが急速に消えていくのを感じる。リンクは珍しく弱気になっていた。
「陰りの鏡がどういう状況になっているか分からないからな。何か悪影響があると大変だろ。それにあの女騎士はともかく、観光協会には関係ないんじゃないか」
 それはそうだ。リンクは勇者で、マスターソードが味方してくれて、光の精霊たちのバックアップだって受けている。アッシュやノアにはそれがない。彼らは影の国の事情だって知らない。
(でも……選ばれなかった人たちだって、ハイラルをより良くしたいって思ってくれてる。それは別にだめなことじゃないはずだ)
 もやもやした考えを抱えたまま、彼は残りの部屋を攻略していく。
 やっとたどり着いた寝室には、確かに鏡のかけらが飾られていた。陰りの鏡は表面に不思議な紋様が刻まれており、普通の鏡とは材質も存在感も明らかに異なる。ミドナは「やっと鏡が手に入る」とほっとした顔で近寄った。
 しかし、そこにマトーニャが様子を見に来た。彼女は自分でも気づかぬうちに鏡の魔力に取り込まれていたらしい。リンクの前に立ちはだかると、「鏡は渡さない」と恐ろしい形相で言い放ち、覚醒大氷塊フリザーニャとなってしまった。氷の魔力を暴走させたフリザーニャは巨大な氷塊を操り、部屋ごと破壊しかねないほどの力でリンクを追い詰めた。彼はミドナの協力やチェーンハンマーの威力、その身に宿した様々な加護のおかげで、なんとか戦いを切り抜けた。
(やっぱり二人を連れてこなくてよかったな……)
 リンクですら死ぬような思いをして鏡を手に入れた。あんな戦いに二人を巻き込んで、ハンマーナック戦よりも被害を抑えられる自信などない。
 寝室から戻ってきたリンクは、共に戦った仲間と顔を合わせても何も言わず、台所で火にかけられたままのスープをビンに移してごくごくと飲み下す。鍋をかき回していたドサンコフは異変を悟って台所を飛び出し、今頃は寝室でマトーニャとイチャイチャしているはずだ。
 極上のスープで人心地ついたリンクに、アッシュは鋭い目を向けてきた。
「リンク。お前は我々と同じように、ハイラルの平和を願う者だよな」
「も、もちろん」
「山を覆っていた異様な冷気は消えたようだが、寝室で何があったのかは聞かないでおこう。私はノアの回復を待ってここを出る。またテルマの酒場で会おう」
「ああ……」
 アッシュは完全にリンクを信用したわけではないだろう。しかし硬質な輝きを持つ視線には、彼の実力を認める気持ちが含まれているようだった。
 リンクは肩の力を抜いて、静かに座っているノアに声をかける。
「あのさ、ノア。お前一回町に戻ったほうがいいんじゃないか? 仕事の報告だって、手紙じゃなくて口頭でした方がいいと思うし——」
「リンクは」
 突然ノアが口を開いたので、言葉を飲み込む。
「どうしてハイラルを救おうとしているんだ」
 リンクは瞬きした。
(俺、ハイラルを救おうとしているのか……?)
 自問自答する。いつも目の前のことに対処するばかりで、一番大きな目的について考えることは後回しにしていた。
 実際にやっていることといえば、そのとおりだろう。王国に攻め込む外敵を排除しようとしている。しかしその理由は、故郷を救いたいというミドナの思いに同調している部分も大きい。
 ならばリンク自身の気持ちは一体どこにあるのだろう。自身の内面を探るのはあまり得意ではないが、この無口な友人の抱いた疑問には、しっかり向き合うべきだと思った。
「そんな大層なことを考えてるわけじゃないよ。城下町やカカリコ村の知り合い……何よりも、トアル村の皆が傷つくのは嫌だからな」
 それに——と心の中だけで続ける。言葉には出さなかったが、彼の脳裏には常に影の国の存在がある。
 ザントに侵略されたミドナの故郷。この旅の果てに、いつか必ずたどり着く場所だ。勇者という称号に誰かを救う力があるというのなら、影の国だって例外にはしたくない。
 ノアは薄く唇を動かす。
「トアル村に、家族がいるのか」
「俺に家族はいないんだ。でもあの村ではたくさんの人に世話になったから」
 十分に腹を満たしたリンクは、新たな地に陰りの鏡を探しに行くため立ち上がった。
「いつか、二人とも俺の村に来てくれよな。このスープに入ってたカボチャやチーズはうちの村でとれたものなんだ。村にはこれよりもっとうまいものがあるからさ!」
 アッシュはわずかに目元を緩め、ノアはこくりとうなずいた。

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