第一章 真夜中の王国



 時計屋敷がシークに乗っ取られてから、もうかなりの年月が経過した——とクロスには思えた。
 生まれてこのかた屋敷を離れたことがなかった。つまり、成人した今になってはじめて自宅以外の場所で生活しているわけだ。それが珍しいだとか温室育ちだとかいう評価はどうでもいい。彼女が気にするのは自分のことだけである。
 今、彼女は伯父であるラフレルの家に厄介になっている。家は古くもよく手入れされていて居心地がよく、新たな同居人となる伯父夫妻もあたたかく迎えてくれた。本来ならば不満などないはずだった。
 だが、クロスにとっては「自宅ではない」というだけでストレスの源だった。何もしなくても食事が毎日用意される、洗濯も掃除も自分でする必要がない——それは代えがたい価値であるが、彼女の求める安らぎだけがここにはなかった。いくら親切にしてくれる親戚の家といえど、どうしてもクロスの側に遠慮があるからだ。昼過ぎまで寝て家から一歩も出ずに夜まで好きな本を読みふけるとか、三食お菓子しか食べないとか、そういう徹底的に堕落した生活を送ることは流石にはばかられた。自分の世間体に敏感な彼女は、他人の世間体を守ることにもそれなりに熱心だった。
 シークに家を追い出され、マリエルとも別れた彼女は恥を忍んでラフレルに頭を下げた。彼の仲間に騎士団の女性がいたのでシークについて調べてもらったが、結局正体は分からず終いだった。むしろ、仲間内で話し合った結果、屋敷は兵士たちを匿う場所として最適だということで、正式に提供されることが決まってしまったのだった。
 ショックを受けたクロスは何日も寝込んだ。普通なら「軟弱者」と罵られて家から放り出されてもおかしくないが、ラフレル夫妻は世話好きなのできちんと看護してくれた。そのおかげでなんとか体調だけは回復した。
 見知らぬ家のどこにいても心が休まらないので、近頃のクロスはよく外を出歩くようになった。徘徊老人ならぬ徘徊成人の誕生である。長年の引きこもり生活からの変貌っぷりには、まわりどころか本人すら驚いた。彼女としては不本意なことなので「怪我の功名」とは呼びたくない変化である。
 この前などは、その徘徊癖のおかげで旅人リンクと再び遭遇し、妙な出来事に巻き込まれたものだ。あの邂逅からもしばらく経つ。リンクは今日も元気にハイラル中を飛び回っていることだろう。もはやクロスが望みを託す相手は、勇者である彼ただ一人である。彼にはなるべく早く魔王を倒して城を取り返してほしい。そうすれば兵士を屋敷から追い出せる。彼女は以前よりも切羽詰った気持ちでリンクを応援していた。
 その日の朝食は、街角でラフレルの老妻が買ってきた焼きたてのパンと、濃い目に淹れた紅茶だった。それでもクロスの胃には重い。いつもはおやつのような軽すぎる食事しかとっていなかったせいである。
 食の進まない姪を見てラフレルは心配そうに、
「クロス、体の具合はどうだい」
「いいわけがないでしょう」
 近頃彼女は何を言われても万事この調子で、もはやだだっ子のレベルだ。まったくいい歳をした女性が取る態度ではなかった。それでもラフレルは諦めずに提案する。
「老輩の仲間にシャッドという者がいることは知っているね。一度、彼の家に行ってみないか。あそこは本が多いからクロスも気にいるだろう」
 あふれんばかりの書庫を想像し、わずかに彼女の気分は上向いた。
「それに、歴史に関してはかなりの資料がそろっているはずだ」
 クロスははっとする。今のところ、シーカー族については全くと言っていいほど手がかりがない。シークについて調べた騎士団のアッシュも「城にそのような者はいなかった」と言っていた。おかしな話だった。まるで、彼はクロスの屋敷を乗っ取ったあの瞬間、突然この世に出現したようだった。
 あれ以来、シークは姿を現していない。「正体を当てれば屋敷を返す」という話について、正直彼女は半信半疑だったが、それはそれとしてシーカー族という存在は気になる。
「シャッドさんの家ですか……」
「クロスも会ったことがあるだろう?」
「ええ、まあ」
 最近のラフレルはテルマの酒場に入り浸っている。飲んだくれているのではなく、志を同じくする仲間たちとともに、危機に瀕したハイラルを救わんと奔走しているらしい。少し前、長く町を留守にしていた理由もそれだった。その時はハイリア湖まで出張していたという。
 マリエルから魔王の話を聞いたクロスを除いても、城の異変に気付く者は城下町の中に幾人か存在した。「自分たちの国をなんとかしたい」と思う彼らにテルマが場所を提供し、各地の情報を集めて何やら活動しているらしい。どうやらその輪にリンクも加わっているようだ。
「クロスも一度我々の集まりに顔を出してみないか? シャッドのように研究の一環として仲間に加わっている者もいるんだ。あそこにいる理由は皆様々だし、きっといい気分転換になる」
「いえ、遠慮しておきます」
 どうして好き好んで物騒な話に首を突っ込まなければならないのだ。自分のことだけで手一杯なのに。
 かたくなに拒絶するクロスに、ラフレルは苦笑を返した。
「ともかく、シャッドは今日家にいるらしい。クロスが来るなら歓迎すると言っていたよ」
「……分かりました、もしかしたら寄るかもしれません」
 そう返事したのは建前である。朝食を残し、彼女はいつもの日傘をさしてさっそく出かけていった。
 目的を持って外出するのは久々だった。シャッドの屋敷の位置は把握している。クロスの家からそこそこ近い場所にあった。未練の残る自宅付近はあえて通らず、大通りを抜けてまっすぐそちらに向かった。
 シャッドの家はクロスの屋敷よりはこぢんまりとしているが、それでも十分に立派なものだ。何よりも敷地全体に手入れが行き届いている。短く刈りそろえられた芝生を横目に、正面扉の横にある呼び鈴を鳴らす。すぐに手伝いの女性が出てきて応接間に案内してくれた。他人を雇う財政的余裕があるところもクロスとは大違いである。
 ソファで待っていると、程なくシャッドがやってきた。
「やあクロスさん。来てくれたんだね」
「突然押しかけてすみません」
 いくら傍若無人が売りの彼女でも、このくらいの挨拶はできる。
 シャッドはいかにも学者らしい出で立ちの、線の細い青年だ。仕立ての良い服を着ており、トレードマークの丸眼鏡が鼻の上できらりと光る。家柄の良さをひしひしと感じさせるが、生来の知性も併せ持っているおかげでそれが嫌味にならない。貧弱そうな見た目に反して、ハイラル全土を股にかけたフィールドワークもこなすらしい。クロスよりはよほど体力があるはずだ。
「ラフレルさんから話は聞いたよ。実はボクも楽しみにしていたんだ」
 二人はさっそく書庫へ向かった。
(これだ……!)
 クロスには目の前の光景が輝いて見えた。天井は高く、壁沿いに作り付けの棚が並び、そこには整然と本が詰め込まれていた。間違いなくこの家で一番、手間と費用をかけてつくった部屋だろう。やはり、自宅を改造してでも書庫をつくるべきかと思った。
 シャッドは誇らしげに棚を示した。
「ほとんどが天空人に関するものだから、クロスさんが求める本があるとは限らないけど」
「全く構いません」
 部屋の中にただよう独特な紙の匂いに安らぎを覚えた。自分に必要な癒しはこれだったのか、と一瞬で理解する。
「ここの本は全部好きに見ていいよ」
 許可を得る前にクロスはもう足を踏み出していた。夢中で棚に近寄り、まずは並んだ背表紙をじっくり眺める。
(確かに天空関連の本ばかりだ)
 シャッドの家系は「天空人」というものを代々追い求めていた。天空人はハイラルのはるか上空に都市をつくり、今もそこで暮らしているらしい。ハイリア人の祖先であり、王国の元々の住民とされる種族だ。
 ある程度本の題名で取捨選択し、次に目次を眺めてそれらしい内容の本を探していくことにする。一冊手にとると、シャッドが横に並んだ。
「手伝うよ。クロスさんが探している種族、なんだっけ?」
「シーカー族です」
「ボクも知らないんだよなあ。ハイラルの種族融和が始まったのが百年前だから、そのあたりの記述があればいいんだよね」
「ええ、おそらくはその当時に解体された種族でしょう」
「でもうまく探せるかな。あの頃は例の『断絶』があるから」
 シャッドが何気なくつぶやいた言葉に、クロスは眉根を寄せた。
 研究者たちの間では有名な話だった。このハイラルに現存する歴史書において、今から約百年以上前の資料とそれ以降に書かれたものとでは、内容に若干の食い違いがあるのだ。例えば山の位置、川の流れる方向、生息する動物の種類など。そうそう変わるはずのないものが資料によって別の記述をされる。どちらが間違っているのかも検証しきれない。
 その「断絶」が発見されたのもごく最近、十年ほど前だというのだから、ハイラルの歴史研究はお粗末だと言われてしまっても仕方ない。研究者たちは今でも必死に原因を解明しようとしているが、思うように進んでいないのが現状だ。
 もしシーカー族も「断絶」の影響を受けているならば、手がかりがあったとしてもそこで途絶えてしまう。
「ボクが研究してる天空については話の食い違いはないんだけど、ある期間だけぱったり研究が途絶えているんだよね」
「それも厄介なことですね」
 シャッドは一つ本を閉じた。隣で熱心に書物を読むクロスを見て破顔する。
「それにしても、クロスさんが本を探しているって聞いた時は、また論文を書いてくれるんじゃないかと期待しちゃったよ」
「え?」
 面食らうクロスに構わず、シャッドは夢見るようなまなざしを虚空に向ける。
「あの『ゲルド砂漠はかつて海だった!』って論文。初めて読んだ時感動したなあ。まさかフィールドワークなしであそこまで書けるとは思わなかった。ロマンだよねえ」
 手放しに褒められて、クロスはなんだか恥ずかしくなってきた。
 論文を発表したと言っても大したことではない。数年前、暇で暇で何もすることがなくて、手慰みに書いたものだった。家にある本を手当たり次第読んでいた彼女は、「断絶」の隙間を縫ってその仮説を閃いた。自分用のメモとして書き殴ったものがたまたまラフレルの目に留まり、シャッドを紹介され、「発想が面白い」と話題になって何故か正式に発表するところまで進んでしまった。
 ゲルド砂漠はかつて海だった。砂に埋もれた海洋生物の化石が見つかった、などという明確な論拠があったわけではない。クロスが偶然見つけた古代の地図に、大昔にハイラルに存在したという「海」の位置が示されていた。それを頼りに何枚もの地図を経由して地道に特定していくと、現在のゲルド砂漠の場所になる、というだけだった。
 クロスもメモを書きながら「さすがにこれは無理があるだろう」と思ったものだが、周囲の受けは意外と良かった。そして未だに反証も出ていない。
 ぼんやり思い出をたどる彼女の隣で、シャッドは新たな本を広げる。
「これは違うかな、ゲルド族ってやつ」
 その表紙にはクロスも見覚えがあった。
「かつてゲルド砂漠に住んでいたという種族ですよね」
 論文を書く際に砂漠についてはそれなりに調べたので、知識は自然と入っていた。
「百年前に砂漠で処刑された大罪人がゲルドの王だった、って書いてあるけど。シーカー族とは関係ないのかなあ」
 そのような話は覚えていなかった。読み飛ばしていたのかもしれない。
「へえ。大罪人とは、よほど悪いことをしたんですね」
「ハイラルへの叛逆未遂だって。未遂だから、阻止されたってことか。王家の側もよく情報を掴んだものだよね。その王は魔盗賊ガノンドロフ、魔王ガノンなんて呼ばれていたみたいだよ」
 魔王……と復唱して、クロスは氷の塊を飲み込んだように身を固くした。
 確か、ゲルド族は基本的に女性しか生まれない特殊な種族だった。だが百年に一度だけ男性が生まれ、その男が王となって一族を統べる。
 今このハイラルにゲルド族は残っていない。なるほど、魔王をつくり出したせいで種族ごと排除されたのか。
(あの日、トワイライトの中で出会った魔王は、ゲルド族だった……)
 クロスの見た魔王は黒っぽい肌に灼熱の髪を持っていた。書物に記されたゲルド族の特徴と合致する。処刑されたはずの大罪人がどういうわけか復活し、今こうしてハイラルに害を及ぼしている。
 胸をざわりと風が吹き抜けていく。どことなく落ち着かない気分になり、クロスは話題を変えた。
「その本にはシーカー族についての記述はありませんか?」
「うーん……残念ながら。また別の本を探してみよう」
 あれこれ話しつつページをめくっていると、あっという間に時間が過ぎた。窓に差し込む日差しの傾きを見て、「さすがに長居し過ぎた」とクロスは腰を浮かす。
 結局ほとんど収穫はなかったわけだが、彼女の心は久々に満たされていた。
 玄関まで見送りにきたシャッドが朗らかに笑う。
「またいつでもおいでよ。ボクも余裕があれば探しておくからさ。
 クロスさんには、また砂漠の研究を進めてほしいなあ。ボクみたいに夢を追うのも楽しいよ?」
「それは心の安定を取り戻してからですね」
 つれない返事とは裏腹に、クロスは深々と礼をして感謝の意を示した。
 こうして一日中居心地のいい空間で過ごしたことで、彼女は「やはり一刻も早く家に帰りたい」という思いを強めていた。
(なら、ただ寝込むよりも足を動かして行動してみよう)
 そう思えたことが、今日一番の成果だった。



 屋敷を追い出されてからというもの、クロスは町をうろうろするか、酒場で足を休めるかの二択になっている。
 その日は昼間からテルマの酒場のカウンターで酒をあおっていた。店主はもう呆れを通り越して何も言わない。伯父も同じ店にいるから羽目を外しすぎることはないだろう、と思っているに違いない。
 実際、杯を干している間も様々な考えが頭にぐるぐる回るおかげで、酔いはほとんどなかった。
 あれからシャッドの家にも少し通ったが、めぼしい手がかりは見つからなかった。シーカー族の線をたどるのはこのまま諦めるべきだろうか。それとも——
 ゆっくりとグラスを回し、歪んだ水面を見つめる。その時、がちゃりと酒場の入口が開いた。
「あれ、クロスさん」
 来店したのはリンクだった。またどこかに遠征してきたのだろう、顔を合わせるのは久々だった。以前はぴかぴかだった剣が、どことなくしっくり馴染んだようにも見える。
 クロスが黙って会釈すると、リンクは隣の席に腰掛けた。ラフレルたちのいる奥のテーブルには行かなくていいのだろうか。どうやらクロスと話をするつもりらしい。
 注文を済ませたリンクは彼女の前に置かれたグラスを覗き込む。
「うわー、こんな時間からお酒かよ」
「なんですか、ちゃんと自分のお金で飲んでますよ」
 軽くにらみつけると、リンクは笑みをこぼす。
「文句を言うつもりはなかったよ。なんか前より元気になったな、クロスさん」
「おかげさまで」
 確かに、以前彼と会った時よりはずいぶん気分が明るくなっている。曲がりなりにも「とにかく家に帰る」という目標ができたことは大きかった。
(リンクさんなら、消えた種族について何か知っているかも……?)
 不意に思い当たる。辺境を旅しているというのなら、書物で調べきれない知識を持っていてもおかしくない。
「そうだ。リンクさんはシーカー族というものを知っていますか」
「いや。全然」リンクはあっさり首を振った。
「それならゲルド族は?」
「そっちも分からないなあ」
 クロスは大きくため息をつく。期待はずれだった。
 人の良いリンクは分かりやすく慌てた。
「な、なんかごめんな。そのゲルド族ってどんなやつなんだ?」
 赤い髪と焦げた色の肌を持つこと、ハイリア人と違って耳は丸いこと、金属や宝石の装飾品を好んだことなどを教える。かつて魔王を生み出した種族だということは伏せておいた。
 その特徴を聞いたリンクはしばらく目を閉じてうなっていたが、やがてピンと指を立てる。
「もしかして、クロスさんってゲルド族なんじゃないか」
「は?」
「髪赤いし。肌の色はハイリア人っぽいけど、耳も丸いし」
 どきりとして耳を触る。視界の端に真っ赤な髪がちらりと踊った。
 クロスの風貌は、あらゆる人種が揃う城下町の中でも珍しい方だ。町を歩いてもまずこんな見た目の人間にはお目にかからない。最近になって昼にも出歩くようになった結果、実感したことだ。
「……全く思い当たりませんでした」
 ゲルド族とは自分のことだったのか! 間抜けすぎる発見だった。親のゴタゴタがあってから、自分の血筋なんて全く考えたことがなかったのだ。
(だから、あの論文を書いたのかもしれない。砂漠と海の関係がどうしても気になったのも、そのせいだった……?)
 魔王がゲルド族と知った時、胸騒ぎを感じた。それは百年を経て復活した魔王の血が、自分の中にも流れているからだったのか。なんとも嫌なつながりだった。
 それに、ハイラルからいなくなったはずのゲルド族がどうして城下町に住んでいるのだろう……。
 黙り込んでしまったクロスに対し、リンクは目を丸くした。
「クロスさんって、まさか自分の種族を知らなかったのか……?」
「普通そんなこと気にしませんよ」
「お、俺なら気にするけどなあ。親に教えてもらわなかったのか?」
「そのあたりに関しては、あまり恵まれた環境ではなかったので」
 これ以上話すことはない、と口を閉ざす。するとリンクは真顔になって追及をやめた。
 今まで接してきた感覚からして、彼は幼い頃から多くの人に囲まれてきたのだろう。羨ましいほどまっすぐに育っている。
 リンクは自分のグラスを半分ほど飲む。とろりとした白い液体は、どうもミルクのようだ。
「あーえっと……そのゲルド族って、お屋敷のことと何か関係あるのか?」
「いえ、あまりないです。関係があるのはシーカー族の方ですが、あの人——シークさんの正体を当てたら屋敷を返すというのも、あまり話が通らないんですよね」
 確かになあ、とリンクは相槌を打つ。
「もう一回、その屋敷を乗っ取ったやつと会えないのか? ちゃんと落ち着いて話してみた方がいい気がするんだよな」
「そうですね……考えてみます」
 会えるものならまた会いたい。いちいち書物を調べるなどという迂遠な方法を取るより、本人に直接訊いた方がずっと早い。どこまで教えてくれるかは分からないが。
「俺にも手伝えることがあったら言ってくれよ」
 と、リンクは胸を叩いて気前よく請け負う。
「ありがたい申し出ですが」クロスは首を振った。「ゴーストの魂集めといい、他人のことばかり引き受けて大丈夫なんですか?」
 そんなことよりできるだけ早く魔王を倒してほしい、というのがクロスの本音である。そのためにはハイラル城の結界を破る必要があるから、今は準備をしている段階なのだろうか。
 リンクは不満げにほおを膨らませた。そういう子供っぽい仕草をすると、せっかくの男前が台無しだ。それはそれで需要があるのだろうか……とクロスは余計なことを考える。
「ちゃんと自分のことだってやってるよ。この前は寒い寒い雪山に行ってきたんだぞ」
「物好きですねえ。探し物でもしているんですか」
「そうそう探し物。ちゃんと見つかったんだ」
 それを集めて結界を打破するつもりなのか、と彼女は勝手に納得する。
「あと二つ見つけたら俺の旅も終わり、かな」
 リンクはどこか寂しげに眉を下げる。壁の向こうに視線を投げて、思い浮かべるのはどんな景色なのだろう。
「そのあとはトアル村に?」
 故郷に帰ってそのまま暮らすのか。そう尋ねると、リンクはかぶりを振った。緑の長帽子が揺れる。
「どうしようかな、って思ってる」
 それが素直な気持ちなのだろう。おそらく、あまり親しくないクロス相手だからこそ打ち明けられた本音だ。
「あなたはきっと、誰が止めても勝手に外に出ていくタイプでしょう」
 杯を傾けながら指摘する。リンクはきょとんとした。
「えー、そうかなあ」
「私にはあまり理解できませんが、そういう生き方もあるということです」
 リンクはその言葉をミルクと一緒にゆっくり飲み込んでいるようだった。やがて照れくさそうに笑う。
「……なんか人生相談みたいになっちゃったな。でも、聞いてもらえてよかった。また話そうよ。クロスさんはいつも酒場にいるんだろ?」
「いる時もいない時もありますが、誘ってくだされば応じますよ」
 二人はそのまま普通に会話を終えて、普通に別れた。奥のテーブルに移動したリンクは仲間たちに歓迎され、何やら熱心に話し込んでいる。
 クロスとリンクは生きる世界が違う。けれども、その道の途中でほんの少しだけ交わった。クロスにとって彼はもはや完全なる他人ではない。
 魔王を倒してくれる勇者だからではなく、知り合いのリンクだから応援したいと思えるのだった。



 シークともう一度会う。
 確かにそれさえ叶えば、彼の正体に関するヒントも、屋敷を取り返すための手がかりも、多少は得られるだろう。
 だがシークの所在は完全に不明だった。一つ可能性があるとすれば、この町に住むもう一つの謎多き存在——悪魔マリエルなら何か知っているかもしれない。彼女は驚くほど知識が広く、魔王のことも知っていたくらいだ。クロスと別れてから、シークと接触などして独自に情報を得ていてもおかしくはない。
(でも、どうやってマリエルさんを呼び出そう)
 ジョバンニから悪魔召喚の方法でも聞くべきか? いや、もはやマリエルの性格は大体分かっている。ならば別のアプローチがあるはずだ。
 あれこれ考えた結果、一番可能性の高そうな方法を実践してみることにした。
 居候先に帰ったクロスは、編み物をしていたラフレルの老妻に申し出る。
「すみません、台所を貸していただきたいのですが」
 彼女はクロスの積極的な行動を喜び、わざわざかまどに火を入れてくれた。
 市場で買ってきた粉やバターなどを調理台の上に揃える。そう、彼女は久々にお菓子をつくるつもりだった。腕が鈍っている可能性が高いため、簡単に仕上がるクッキーを選んだ。だが一手間加えて生地にチーズを練りこむつもりだ。
 お菓子作りは正確無比に重量を計るのがコツだ。むしろ忠実にレシピさえ守れば、たいてい結果はついてくる。クロスは普段よりも丁寧に生地をつくり、慎重に火加減を調整した。
 心を配った甲斐あって、二十枚のほどの生地はどれもいい具合に焼けた。天火から取り出すと、食欲をそそる香りがぷんとあたりに漂う。
 クロスはまず老妻に礼を言い、焼いたクッキーの半分を謹んで進呈した。相手は涙を流さんばかりに喜んだ。無為に時間を潰すばかりだった義理の姪がやっとまともに生産的な活動をはじめたのだから、その反応も当然だろう。ラフレルはあいにく外出中だったが、戻ってきたら一緒に食べると請け負ってくれた。
 ここからが本番だ。クロスは自室として使わせてもらっている部屋に、残りの半分を持ち帰った。窓を開けて、鼻孔をくすぐる香りを外に逃がす。
 しばらく本を読みながらその時を待った。きりの良いところまで読み終わってふと顔をあげると、かたりと窓枠が鳴った。
 開いた窓から一匹の黒猫が入ってきた。クロスが黙って見つめる前で、猫はすぐに大人の女性に変化する。
「いい香りね」
 しばらくぶりに会ったマリエルは、いつもどおりの悠然とした佇まいだった。つややかな蜜色の髪が相変わらず見事にウェーブしている。出会った時の子供の姿ではなく律儀に大人の姿を保っているのは、クロスの前だからだろうか。
 それにしても、もう少し時間がかかると踏んでいたのに、こうもあっさり釣れるとは。実はずっと監視されていたのではないか、と疑ってしまう。
 クロスはあくまで平然として皿を差し出した。
「作りすぎたので食べてください」
「なら、ありがたくいただくわ」
 マリエルは遠慮なく手を伸ばした。ぱきりとクッキーを噛んで、ほおをほころばせる。
 その瞬間、
「あなたに頼みがあります」
 クロスはすかさず切り出した。マリエルは片手にクッキーを持ったままうなずく。
「そんなことだろうと思ったわ。頼みって?」
「シークさんと会いたいので、彼を呼び出す方法があれば教えてください」
「ふうん。本気であいつの正体を当てるつもりなの?」
「ええ、まあ」
 要するに、クロスは「この謎を解き明かしてみろ」とシークに勝負を挑まれたのだろう。相手の目的も何もかも不明だが、とにかく喧嘩を売られたに等しい。はじめは彼女も身の不幸を嘆くばかりだったが、近頃では逆に闘志が燃えてきた。だからこうして行動を起こしているのだ。
 マリエルはごくりとクッキーを飲み込んで、「飲み物が欲しいわね」とつぶやいた。すかさず傍らに置いていたティーセットを渡す。マリエルはにやりとしてうなずいた。
「あいつに会いたいなら簡単よ、真夜中に一人で町を歩いたらいいわ。ただし二度は使えない手でしょうね」
「それって危険なのでは……?」
「大丈夫大丈夫」
 マリエルは無責任に手を振った。クロスはアメジストの瞳でじっと彼女を見つめ、
「あなたが言うなら確かなのでしょう。残りのクッキーは全部あげます」
「やった!」
 彼女は満面に笑みを浮かべて、優雅に紅茶をすすった。貴族かと見紛うばかりに堂に入った所作だった。まったくどうして悪魔なんてやっているのか理解に苦しむ。
 にこにこしながらクッキーを平らげる彼女を見ていると、どうも餌付けしているような気分になってしまった。クロスは開いた窓に目をやり、この町のどこかにいるであろうシークに思いを馳せた。



 その晩は大きな月が出ていて、街灯よりも明るい光を町に注いでいた。クロスはマリエルの助言どおり、こっそり家を抜け出して一人きりで町を歩いていた。
 わざと路地を選んでさまよう。狭い道には濃い闇が吹き溜まっているようで、びくびくしながら足を運んだ。黄昏時から夜にかけては魑魅魍魎がうごめく時間帯である、とさすがの彼女も理解しはじめていた。
(また前みたいに魔王が出てきたら笑えないな……)
 思わず立ち止まってハイラル城の方を確認した。建物の隙間に例の結界が見えた。ゼルダ姫が町を守るために張ったものとは別だが、とにかくあれがある限り魔王は城にこもっているはずだ。
 軽く息を吐いて、再び歩き出そうとした時——
「最近は、よく外に出るようになったんだね」
 涼しげな声が鼓膜を叩いた。彼女が会いたくて会いたくてたまらなかった、憎き相手の登場だ。
 マリエルの情報は正しかったわけだ。クロスはゆっくりと振り返る。
「……誰のせいだと思っているんですか」
 シーク。長い前髪の間で、赤い片目が静かに光っている。
「出歩くこと自体はいいだろう。引きこもっているよりはね。だが、さすがに時間を選ぶべきじゃないかと言っているんだ」
「あなたどこまで知って——まあいいです。私はあなたとお話がしたかったので」
 神出鬼没のくせにクロスの性格や現状を完璧に把握しているらしい。背筋が寒くなった。
「なるほど、ボクは誘い出されたわけか」
 何かを理解したらしく、シークは目を細めた。「ついてきたまえ」と言い、身を翻して足音を立てずに歩いていく。クロスは慌てて追いかけた。
 路地を通り抜けて中央広場に出た。昼間と違ってがらんとしており、人の代わりに野良猫がうろついている。シークはまっすぐ建物の中に入っていく。そこは広場に面した展望台だった。
 展望台の存在は知っていたが、こうして内部を見るのは初めてだ。装飾も何もなく、寒々しい場所だった。廊下で何故かゴロン族が大きな体を丸めてすやすや眠っており、クロスはぎょっとする。息をひそめて脇を通り抜けた。
 階段を上ってバルコニーに出ると、真正面に黄昏色の結界に包まれたハイラル城がそびえていた。シークはあそこから兵士を連れて脱出してきたという。ならば、それまで彼は一体どこにいたのだろう。兵士を助けるためにわざわざ城に忍び込んだ? まさか——
 膨れ上がる疑問を口に出そうとした時、シークは背負っていた荷物を体の前に抱え直した。それは黄金色の弦楽器、ハープだった。クロスが何か言う前に、長い指でぽろりとつまびく。
 単純な三音からなるメロディを何度も繰り返す。クロスには演奏の良し悪しはいまいち分からない。
「その曲は?」
「いやしの歌。浮かばれない魂を癒すための曲だよ」
 胸のあたりがぎゅっと締め付けられるようなメロディだった。彼女は安らぎよりも物悲しさを強く感じ、「これで魂が癒やされるのだろうか」と疑問に思う。
 シークはひとしきりハープを奏で、その余韻が消えるとクロスに向き直る。
「ところで、ボクの正体は分かりそうかい」
 来た、とクロスは腹に力を入れた。「キミには到底わからないだろう」という態度にむかむかしてくる。
「今調べているところです。すぐに当ててみせますよ。兵士もろともあなたを追い出します」
 つい反射的に大口をたたいてしまったが、実情は真逆である。
「それは頼もしいな」
 物騒な宣戦布告にも動じず、シークは穏やかに笑っている。クロスはどうも調子が狂って仕方ない。
「それで、正体を当てれば屋敷を返すという約束は本当ですか?」
「もちろん。その時は兵士たちには別の隠れ家を用意しよう」
 別の隠れ家なんてものがあるなら、最初からそちらに行けばよかったではないか!
 そう叫びたいのをなんとかこらえた。今は夜中だ。
「……あなたはもしかして私に嫌がらせしたいんですか?」
 シークは不思議そうに首をかしげる。「そういうつもりはなかったんだが」
 月明かりに雲がかかり、展望台に影が差す。青年の真摯な瞳がクロスを貫いた。
「どうやら混乱させてしまったようだ。これくらいは伝えておこうか。キミには、思い出さなければならないことがある」
「はあ?」
「キミはずっと忘れていることがあるだろう。いや、思い出そうとすらしていなかったことだ」
 いきなり何を言い出すのだろう。クロスは混乱しながらも思考を走らせる。
 思い出そうとすらしていなかった——その言葉が胸を抉る。シークの発言は、確かに彼女がひた隠しにしてきたものを刺激した。
(まさか、私の……)
 彼女には自ら封じていた記憶があった。わざわざ思い出して嫌な気分になるなんてまっぴらごめんだ、と思っていたから。
「ボクの言いたいことが分かったかい? そう、キミの家族の話だよ」
「……失踪した両親のことでしょうか」
 クロスはこわばった顔で身構える。
 その緊張がまるで伝わっていないかのように、シークは片目だけできれいにほほえんだ。
「いいや、もうひとり。忘れているかもしれないけど、キミにはきょうだいがいるはずだよ」

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