第二章 つながりとまじわり



 はじまりの記憶は、揺れる水面とともにあった。
 リンクはぼんやりとその泉を見ていた。今より背丈はずいぶん低く、手足は短い。彼はまだ子どもだった。
「一緒にいられなくてごめんよ」
 誰かの声が上から降ってくる。リンクのそばには大人の男性がいるらしい。とん、と肩に手がのせられ、やがてゆっくりと離れていく。
 行かないでほしい、と願っても声は出ない。
「お前に……お前たちに全て押し付けることになってしまった。でも、必ず取り戻してみせるから。それまで、待っていてほしい」
 森の中の泉は眩しく陽光を反射し——否、自ら光を放っていた。
 白い光は水面で膨れ上がり、あるものの形をとる。それはまるで大きな角を持つ山羊のようだった。
「リンク、我が息子よ。また会おう」
 その人の手が離れた時、確かにリンクは「ある感情」を泉の底に置いていったのだった。



 久々にたどる家路は、記憶よりも色鮮やかに感じられた。
 フィローネの森はあたたかかな木漏れ日に満たされている。走り抜ける愛馬エポナの足取りも弾んでいるようだ。ラトアーヌの泉の脇を通り、自宅に荷物とエポナを置いて、リンクはトアル村に帰還した。
「ようリンク、おかえり」
 村の入り口で出迎えてくれたのは剣の師匠であるモイと——
「ノア! どうしてここに」
 すっかり見慣れた翠の頭に駆け寄る。相変わらず相手は眉ひとつ動かさないけれど、拒絶されていないことだけは分かる。
「町に帰ったんじゃなかったのか?」
 雪山の廃墟でそういう話をしたはずだ。ふと思い出して彼の腹部に目をやるが、怪我はすっかりよくなったらしい。ノアは黙って首を振る。
 その隣でモイは腕組みした。
「やっぱりリンクの知り合いなのか。それがさ、こいつ城下町の正門の前でうろうろしてたんだ」
 ノアは「町に入れなかった」と答える。どういうことだろう、さすがに兵士に追い返されたわけではないはずだが。もしや、ハイラル城に張られた結界が、何か悪い作用をもたらしたのだろうか。
 モイはノアと出会った経緯を説明する。
「俺はフィローネの森の奥にある古の森を調べるつもりで城下町を出た。その時、門の外でたまたまこいつと会ってな。観光協会の護衛役だっていうから、ついでに村まで送ってもらったんだよ」
「じゃあ結局町には戻れてないんだな、ノア」
 彼は別に辛そうでも悲しそうでもないけれど、どこか悲壮感が漂っているように見えてしまう。これなら、目的があって帰る家もあるリンクの方が幾分ましではないかと思えた。
 モイもそのあたりを気にして、護衛という名目でわざわざ村まで連れてきたのだろう。
「リンクも俺と同じように古の森を探索しに来たんだろ?」
「うん。今日は休んで、明日にでも出発するつもり」
 実のところ「古の森」の見当はついていた。フィローネの森の奥にある神殿から脇道にそれた先、以前マスターソードを手に入れた森の聖域が該当するはずである。
「なら、二人とも晩飯はうちで食べていけよ」
 え、と声を上げてノアと顔を見合わせる。
「でも……ウーリさんお腹大きいし、お邪魔じゃないかな」
「遠慮するなって、昔はよくうちで食べただろ。それに今はコリンがいなくてさみしいんだよ」
 どきりとした。モイとウーリ夫妻の息子は今、カカリコ村に避難している。ウーリはずっと一人きりで家族を待ち続けていた。
「なら、ご馳走になるよ」
「……よろしくお願いします」
 ノアも丁寧に頭を下げた。モイは二人を見下ろしてうなずく。
 そのまま彼はリンクをつかまえて囁いた。
「イリアのことは村長にまだ話してない。そのうち、なんとかなるんだよな?」
「ああ。あいつの記憶は絶対取り戻すよ」
 モイはにかっと笑い、勢いよくリンクの背を叩いた。
「晩飯まではノアに村の案内でもしたらいい。我が村にも思わぬ観光資源があるかもしれないしな!」
「いやーそれはないだろー」
 先に家に帰るモイと別れ、若者二人はのんびりと村を歩いた。相変わらずノアは荷物らしい荷物を持っていない。緑豊かなトアル村と彼の翠とリンクの緑衣で、色合いが妙に調和している。
 トアル村は黄昏時を迎えていた。夕焼けを反射しながらゆるやかに水車が回り、山羊があくびをして、一日の仕事を終えた人々が帰路につく頃。リンクが旅立つ前から変わらぬ穏やかな時間だ。しかし、村の活気はあの頃よりずっと少ない。永遠に変わらないと思っていた日常は突如破られ、戻ることは決してない。今更リンクがただの牧童に戻れないのと同じように。
 思えば、ノアと一緒にこうして落ち着いた時間を過ごすのは初めてだった。何故かいつも戦いの渦中で出会ってばかりだったからだ。心なしか、例の無表情もいつもよりリラックスしているように見える。
「ここがリンクの故郷か」
 ひとけのない村を見渡して、ノアがつぶやく。
「うん。物心ついた時からずっとここで育ってきたんだ。ノアが見たいような観光名所はないけど、いいところだよ」
 わずかに細められた瞳には何が映っているのだろう。静かな翠は黄昏を宿し、小さな炎を揺らめかせている。
「あそこは水車のある家、こっちは村にあるたった一つのお店。で、あの奥がモイの家なんだ」
 大人の足だとあっという間に一周できる小さな村だ。旅に出る前は、まるでこの村の中だけが全世界であるように思えたものだった。
 他ならない故郷に帰ってきたというのに、消化しきれない郷愁に襲われた。リンクはざわめく胸の裡を隠し、どんどん村の奥に向かう。
「ここは村長の家。今は娘さんが——俺の幼なじみなんだけど、記憶をなくしてカカリコ村にいるんだ。でもさ、そんなことなかなか村長には言えなくて……」
「戻りそうなのか、記憶」
「分からない。でも、手がかりは絶対にあるはずなんだ」
 あえてそう言い切る。二度と戻らないことなんてあってはならない。存在ごと家族を忘れてしまったまま生きていくイリアを見るのは、どうにもやりきれなかった。
 村長への挨拶は後回しにしようときびすを返しかけると、ちょうど雑貨屋から出てきた人影と出くわした。
「おやリンク、おかえり。そっちの人はお客さんかい」
「ただいま。そうそうノアっていうんだ。城下町から来たんだよな」
 ノアは折り目正しくお辞儀をする。相手はふくよかな体を持つ女性セーラだ。おおらかな性格だが、飼い猫に「リンク」なんて名前をつけてしまう困った人でもある。
 彼女は目を丸くしてノアの格好をじろじろ見つめた。
「都会の人かい! へええ……モイよりよっぽど垢抜けてる服だねえ。よろしく、あたしはセーラだよ」
「雑貨屋の奥さんなんだ」
 相変わらず反応の薄いノアに気を悪くした様子もなく、むしろセーラは彼を通して遠い地に思いを馳せた。
「あんたみたいな人が平原を歩けるなら、もう少しでベスや子どもたちも村に帰れるのかねえ」
「ああ、きっと」
 リンクは力強く肯定した。
 敵の親玉であるザントさえ倒せば、やつとつるんでいるブルブリンたちだって大人しくなるはず。ハイラル平原に平和が戻れば、子どもたちが馬車で家に帰ることもできるだろう。
 セーラと別れたリンクは、ノアに説明する必要を感じて語りはじめた。
「少し前、この村は魔物に襲われたんだ」
 あの事件の傷跡は未だに深々と残っている。たとえ壊れた家が直っても、村人たちの心は傷ついたままなのだ。今はカカリコ村で保護されている子どもたちだって、さらわれた時のことを思い出して怖さに震える夜もあるだろう。
「砂漠で戦ったあいつ、キングブルブリンに村が襲われて、子どもたちがさらわれたんだ」
 ノアがじっと見つめ返してくる。リンクの握ったこぶしがわずかに震えた。
「運良く子どもたちは全員無事で——村長の娘のイリアだけは記憶をなくしてしまったけど、今はカカリコ村にいるよ。だからハイラルを平和にして、一刻も早く親の元に戻してやりたいんだ」
「それで、ハイラル中を巡っているのか」
「そう。ノアには何度も助けてもらってる。ありがとうな」
 その時、リンクは自覚していたよりもずっとこの青年を信頼していることに気づいた。
 はじめはたまたま居合わせただけだった。それでも彼らは二度も道行きを共にした。
 ならば、ノアは立派にリンクの仲間と呼べるのではないか。
(こいつに俺の——俺とミドナのことを話してみる、か?)
 彼なら口も堅いし、影の国の話だってあっさり受け入れてくれるのではないか。いつものように無表情のまま。
 リンクは急にドキドキしてきた。誰にも打ち明けるはずのなかった事情を、洗いざらい話す? 想定すらしなかったそのタイミングが、もしかすると間近に迫っているのだろうか。
(い、今それを考えるのはやめておこう。あとでミドナにも相談してみないと)
 逸る気持ちを抑えて、村の一番奥にあるトアル牧場を案内することにした。二人は山羊の角飾りがくくりつけられた木のアーチをくぐった。
「仕事人間のノアにはここが一番の見所かな? 俺の職場!」
 豊かな牧草地では、立派な角を持つトアル山羊がそこここで草を食んでいた。良かった、数は減っていない。ここの牧場主は不注意で山羊を逃してしまうことがあるのだ。
 かすかな風に髪をなびかせ、ノアは目を細める。
「リンクは牧童なのか」
「今は休ませてもらってるけど、一応な」
 牧場の真ん中で山羊を世話している人物に向かって手を振る。牧場主のファドだ。こちらに気づいて駆けてくる。村で一番背の高い男だ。性格は若干気弱であるが、動物に対しては誰よりも優しい。
「ようリンク! 久しぶりだなあ。そっちの人は?」
「ノアっていうんだ。俺の友達」
 友達と紹介され、ノアが目をぱちくりさせている。
 リンクは腕まくりの仕草をした。
「よおし、久々に山羊追いでもやろうかな。俺の仕事っぷりをノアに見せてやらないと」
「おお、助かるよ」
 ノアに柵の外で待っているように言って、草笛でエポナを呼んだ。家の前で休ませておいたのだが、このくらいの距離なら軽く駆けつけてくれる。
 日中放牧していたトアル山羊を、夜露に濡れる前に小屋に入れる。リンクはその仕事を「山羊追い」と呼んでいた。独特の声を上げながら馬で後ろから追い立てるのだ。なかなか楽しい作業で、いかにすばやく全員を小屋に入れられるか、いつも一人で競ってしまう。律儀にファドも時間を計ってくれるから、リンクは常に記録更新を狙っていた。
 しかし、久々だったせいかその日はいまいちの成果で、何度も小屋の前で山羊を取り逃がしてしまった。なんとかすべての山羊を小屋に入れた頃には、すっかり日が暮れてしまった。張り上げた喉が痛む。
「ちょっと恥ずかしいところ見せちゃったかな」
 照れながらエポナから降りると、ノアがひらりと柵を越えてきた。
「いや。あれがリンクの仕事なんだな」
「そうそう、旅に出る前の日課だったんだよ」
 やはり仕事ということで、ノアははっきりと興味を示していた。山羊小屋を見る目が心なしか生き生きとしている。
 リンクは苦笑を漏らしながら、ぽんと彼の肩を叩いた。
「なあノア、今日はうちに泊まっていけよ。村にやってきた旅人は村長の家に泊まることになってるけど、まあいいだろ。話したいこともあるしさ」
「……いろいろと、ありがとう」
 ノアは小さく頭を下げる。「何を改まって」とリンクは笑った。
「それよりさ、お前も早く町に帰れるといいな」
 彼はそっとうなずいた。城下町でノアの帰りを待つ人はいるのだろうか。
 ぼんやりしているからまるで小さな子どものように見えることもあるけれど、戦いでは十分頼りになる。ノアになら背中を任せられるかもしれない。リンクはそう考えはじめていた。



 木の葉の隙間から差し込む月の光を受けて、ラトアーヌの精霊の泉は静かにきらめいている。
 皆が寝静まった時刻、リンクはこっそり家を抜け出してきた。ノアが客用の寝床で眠っていることは確認済みだ。
 念のため泉の周囲に誰もいないことをチェックして、そっと足元に声をかける。
「もういいだろ、ミドナ」
「そうだな。ふーやれやれ」
 リンクの影から小さな生物が出てくる。闇夜によく映える赤い瞳がにこりと細められた。
 ミドナはこのハイラルと隣合わせに存在する別世界、影の国からやってきた。そのせいではじめはトワイライトの中でしか行動できなかったが、ゼルダ姫から力を借りることでこうして光の世界でも活動できるようになった。
 せっかく日の光を浴びられるようになったのに、彼女は自分の存在をひた隠しにしている。光の世界で彼女のことを知っているのはリンクやゼルダ、光の精霊くらいではないだろうか。その理由は何となく分かる。同じ影の国出身のザントがハイラルを侵略したからだ。彼女が表立って行動するにあたり、それが負い目となっているに違いない。
 だから二人が顔を合わせて会話するには、こうして夜にひとけのない場所を選ぶしかなかった。
「今日はもったいなかったよなあ、ミドナ」
 リンクは泉のほとりに浮かぶ彼女を見上げる。
「どうした藪から棒に。何がだ?」
「晩ごはんだよ! 今晩のメニューは最高だったのに……ミドナが食べられないなんて」
 ウーリの用意した夕食はトアルの特産物づくしだった。雪山の廃墟で舌鼓を打った豪快なスープとはまた違う、こだわりの料理だ。メインはミルクでじっくり煮込んだカボチャを皿に並べ、刻んだチーズを振りかけて天火で焼き色をつけたもの。その横では、焼きたてのパンが香ばしい匂いを漂わせる。
 テーブルに並んだ品々に、リンクは歓声を上げてがっついた。あのノアだって一切手を止めることなく食事していたくらいだ。
 夕食の間もずっと影に潜んでいたミドナは、肩をすくめる。
「あのなあ、ワタシが光の世界の人たちと一緒に食事するわけないだろ」
「でも……せっかくゼルダ姫に力をもらったんだから、もっと活用しないともったいないよ!」
「そういう問題か? ゼルダはそんなことのためにワタシに力を託したわけじゃない」
 ふと、ハイラル城に囚われていたかの姫を思い出す。喪服から覗くドレスやティアラ、憂いに満ちたその表情——月並みな表現だが、ゼルダ姫は人形のように整った容姿を持っていた。
「ゼルダ姫、大丈夫なのかな」
 リンクがつぶやくと、ミドナは痛みをこらえるように顔を歪めた。
「ああ、心はここに……ワタシの中にある。体の方は、おそらくハイラル城だろうな」
「え?」
 初耳だった。リンクは口をぽかんと開ける。「それじゃあの時、消えたように見えたのは——」
「一度力を使い果たして目に見えなくなっただけだ。だから、ゼルダを早く助けださないと。ザントに奪われたワタシの魔力か、せめて影の結晶石がないと城の結界は破れないんだ」
「そっか。やっぱり急ぐ必要があるんだな」
 一見平和に見えるハイラルは、影の僭王に侵略されている。ハイラル城の惨状がおおやけになれば、人々を混乱させてしまうだろう。だからリンクたちはこうして周りに真の目的を隠し、旅を続けているのだ。
 リンクは今、自分がすべきことを指折り数えてみた。
「子どもたちも家に帰してあげたいし、イリアの記憶は取り戻したいし、ノアだって町に戻してやりたいし、ゴーストの魂は集めなきゃいけないし……」
「オマエ、他人のこと気にしすぎだぞ?」
 げんなりしたようにミドナが指摘する。以前クロスに同じことを言われたな、とリンクは眉間にしわを寄せた。
「それを言うなら、俺が一番気にしてるのはミドナのことだけど」
「へ」
 不意に彼女は目を逸らした。リンクはその横顔を覗き込むように身を乗り出す。
「ミドナも早く故郷に帰れるといいな。影の国、どんな場所か楽しみだなー。黄昏の黒雲が綺麗なんだろ?」
「まあ、な……」
 リンクはトアル村が好きだから、他人もそれぞれの故郷に当たり前のように帰ることができるといい、と思っていた。彼にとってのふるさとは癒しの場所なのだ。
(俺は、いつか村を出るのかな)
 以前テルマの酒場でクロスに言われたことを思い出す。誰に止められても、どこへでも勝手に行ってしまう。あなたはそういう人だ——
 今はそこまで考えられない。ミドナと一緒にザントを倒す。その後のことはまだ放っておこう。
(だから今、俺にとっての一番はミドナなんだよ)
 リンクは思いを溜め込むのがあまり得意でない。だからいつものようにすぐ告げようとした。しかし、ミドナの思いつめたような瞳のせいで、少しためらう。
「なあミドナ……」
 その時。背後でさくりと下生えを踏みしめる音がした。
「誰だ!?」
 ミドナが慌てて影に戻る。リンクは反転しながら剣を抜き、闇の中に切っ先を向けた。
 息を呑む。月明かりの下に、軽く目を見開いた——ノアがいた。
「うわ、ごめん! もしかして起こしたのか」
 家を出る時うるさくしてしまったのだろうか。焦るリンクに、ノアは首を振った。
「いや。泉を見に来た」
 ハイリア湖にあるラネールの泉は有名な観光資源だ。だから同じ精霊の泉を見ておこう、と思ったのかもしれない。だからといって夜に来る必要はないのだが、たまたま起きたついでに散歩しようとでも考えたのか。
 それにしても非常にまずいタイミングだった。
(もしかして、ミドナのことを知られた……?)
 とにかく何か話をしてごまかそう。夜中に家を抜けて泉まで来た、別の理由を作り上げてしまおう。
 リンクは即座に作戦をたてて、口を開く。
「俺は……俺の記憶のはじまりは、この泉の前なんだ」
 気づけば彼は、ミドナにすら話したことのなかった己の出自について語りはじめていた。
「一番最初の記憶」が幻のように蘇る。彼の隣には大人の男性がいた。あれは誰だったのだろう?
 草の上に腰を下ろすと、ノアもそれに従う。
 誰かに語るなんて想定していなかった話題だったけれど、思ったよりもスムーズに言葉が出てきた。
「多分、捨て子だったんだと思う。十年くらい前かな、子どもの俺が一人でぼーっとここに立ってたんだって。たまたまモイに見つけてもらって拾われて、それからトアル村でいろんな人に世話になって生きてきたんだ」
 特定の誰かが親代わりになる方法もあったのだろうが、リンクの場合は皆が面倒を見てくれた。五年ほど前に村のはずれに家を建ててからは、牧童としてほとんど独り立ちしていた。
 家族がいないのだから、成長する過程でもっと不安を抱えるべきだったのかもしれない。けれども自分は限りなく幸福に育ったと思う。親のような人々にも、きょうだいのような子どもたちにも囲まれていた。トアル村には、勇者になって旅をしている今でも返しきれないほどの恩がある。
「リンクはトアル村が好きなのか」
 その一言に、リンクは満面の笑みを返した。
「そう、大好き! ご飯もうまいし空気もうまいし水もきれいだし人はいいし……ハイラルのどこにも負けない村だと思ってる」
 ご飯のくだりでノアがこっくりうなずく。モイの家で出された料理を思い出したのだろう。
「リンクは、好きなものがあるんだな」
 その言葉にはどこかさみしげな響きが含まれていた。
「ノアにはないのか?」
「……よく分からない」
 そんなはずはない、とリンクは内心反論する。ノアが自覚できていないだけで、その萌芽は確かにある。
「仕事は好きじゃないのか……?」
 ノアは翠の目を暗く沈ませる。
「おれもリンクと同じだった。気づいたら、城下町にいた」
「え、それって」
 同じということは、捨て子か何かだったということか。
「身寄りも知り合いもいなかった」
 言葉の足りない答えをリンクは脳内で補う。ノアはその状態から、どうにかして観光協会につとめはじめた。一人で生計を立てる苦労は、筆舌に尽くしがたいだろう。
 リンクの周囲には常に支えてくれる人々がいた。ノアにはそれすらなかったのか。
「だから、仕事をしないと……生きていけない」
 それこそ彼にとっては死活問題なのだ。
 リンクは絶句していた。ノアにとっての仕事は、好き嫌いの問題ではないのか。
「リンクは、どうしてそういうふうに生きられるんだ」
 翠の瞳は真剣そのものだった。きっと心の底から出てきた疑問なのだろう。完全に環境の差で二人の道は分かれた。
「……たまたまだよ。まわりの人たちに恵まれてたからこうなっただけだ。ノアが変に気に病むことなんて、ないよ」
 何かが違っていれば自分がそうなっていたかもしれない。リンクにとってその話は他人事ではなかった。
「大変だったな」
 うつむくノアの肩にそっと手を置く。
「あのさ、町に戻れなくて辛かったら、いつでもこの村に戻ってきていいんだぞ。俺が留守でも家は自由に使っていいから。大したものも置いてないし」
「……すまない」
 ノアはますます消え入りそうな声を出す。その背中を叩いた。
「なんで謝るんだよ。むしろ目一杯感謝してくれよ、ノア!」
 ノアは顔を上げた。見開かれた二つの翠色には、感情のゆらめきのようなものが宿っている——ように感じられた。
「ああ、ありがとう」
 はじめてノアのことを少し理解できた気がした。似通った出自の彼に対し、心の底がほのかに明るくなるような連帯感を覚えた。
(こいつなら、もしかしたら——)
 ゴーストを見通す不思議な力を持つ青年を、リンクは「共に戦うもの」として意識しはじめていた。



(モイに借りた金色のコッコ……どこに置いてきたっけ)
 それを思い出したのは、すでに森の聖域に入ったあとだった。いくら考えても記憶がはっきりしないので、「きっとモイのもとに戻ったんだろう」と考えて先に進むことにする。
 久々にトアル村で夜を過ごした翌日。リンクはノアと別れ、陰りの鏡のかけらを求めて「古の森」に挑んでいた。ちなみにノアは「昨日挨拶できなかったから」と言って朝から村長の家に出かけていった。生真面目なことだ。
 フィローネの森から崖をいくつも乗り越えてやっとたどり着く先に、森の聖域がある。かつてゼルダ姫の導きによって訪れ、マスターソードを抜いた場所だ。今回はモイの相棒である金色のコッコに手伝ってもらい、崖を乗り越えた。
 森に住む魔物スタルキッドと追いかけっこをした末、ひらけた場所にたどり着いた。そこだけ生い茂る木の葉が避け、ぽっかりと空が覗く。地面は平らで広場のようになっていた。中心には石材のかけらや壁の残骸が散乱し、何かの遺構であることを伺わせる。
「鏡のかけらってどこにあるんだろう?」
「多分、あっちじゃないか」ミドナが影を伸ばして示した。マスターソードの台座とは反対方向だ。
 モイはこの森の奥に「悠久の時を眠る神殿」があると言っていた。だが、建物なんてまったく見あたらない。
 あたりに散らばる瓦礫を見て、不意に思い立つ。
(もしかして、神殿ごと朽ち果ててるとか……?)
 一応、そこに眠る古の文明の力を探し出すという名目でモイにコッコを借りてきたのだが、このままでは空振りに終わってしまう。
 焦ったリンクは早足であたりを探索する。見れば見るほど、この広場は建物の跡地のように思われた。
「この奥……かな」
 ミドナが指した先に、ぽつんと扉が残っている。両側を塞ぐ壁はもうないので扉としての体をなしていない。
 その扉の前を、苔むした像が塞いでいた。見慣れぬ紋様を体に刻まれた巨人の像だ。
「扉の奥ってことか? 開けても何もないはずだけど」何せ、歩いて扉の反対側に回り込めてしまうのだから。
「でもこの先から鏡の魔力を感じるんだ」
 ミドナが言うのだからそうに違いない。
 ならば、前を塞ぐ像をどかす必要がある。材質は不明だが頑丈な像で、チェーンハンマーを当てても壊せそうになかった。
「この像、マスターソードを守ってたやつらと似てるよな」ミドナがつぶやいた。以前ケモノ姿でここにやってきた時、門番としてリンクたちの前に立ちはだかったのも、このような像だった。その時は突然脈絡もなくパズルのような課題を出され、散々苦戦したものだ。
「うーん、じゃあ剣を台座に戻したら像が消える……とか?」
「よしやってみよう」
 冗談で提案したらミドナに大真面目に肯定されてしまった。
 リンクは期待と不安を半分ずつ抱えてマスターソードを台座に戻す。切っ先は石の穴にぴたりとおさまり、腕に軽い痺れが走った。
 この剣を抜いてから、ずいぶん時が経ったように感じる。自分は退魔の剣にふさわしい勇者になれたのだろうか。例の骸骨剣士にもやたらと「勇者らしくなれ」と怒られるが、いまだに実感は湧かない。
 だが、近頃は周囲の人々との違いを自覚することが増えてきた。多分、リンクは勇者という称号を持つおかげで、他人よりもできることが多い。ザントを倒せる人材としては唯一だろう、という自負もある。気づけば抱えてしまったものの大きさに戸惑うこともあるが、押しつぶされるほどではない。
(それも、ミドナがいてくれるからかな)
 この旅路のすべてを知るのはお互いだけだ。彼女となら、喜びや楽しさだけでなく、恐怖や憂いをも分かち合える。かけがえのない相棒だと胸を張って言える。だからこそ、リンクとしてはミドナの存在をもっと広く知らしめたいのだが——
「どうしたリンク」
 考え事をしていたら不審がられてしまった。リンクは台座におさまったマスターソードを見て、うなる。
「この剣、刺しっぱなしじゃまずいよなあ」
「抜いてみたらどうだ?」
 しばらく待ってから、恐る恐る台座から抜き放った。これでいいのだろうか。
 再び扉の前にとって返すと、思った通り像は消え失せていた。これで扉の中に入ることができる!
「……あれ?」
 リンクは首をかしげた。この扉と同じものをどこかで見た気がした。
(そうだ、クロスさんの屋敷の中庭!)
 いつか本棚の片付けを手伝った日、「開かずの間だ」とクロスが説明していた。ハイリアの盾と似た模様があるので妙に記憶に残っていたのだ。あの中庭の扉と目の前の扉は、意匠も大きさも瓜二つのように見えた。
(でも……森の聖域とクロスさんの屋敷って、何か関係あるのか?)
 直後、扉をくぐった先で起こった変化に仰天し、その疑問は頭の片隅に追いやられてしまった。

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