第二章 つながりとまじわり



 夢にまで見た自分の家にいた。
 いや、残念ながら事実ここは夢の中だ。
 クロスはそれをよく理解していた。何故なら知り尽くしたはずの屋敷の中に、見慣れぬ家具が、雑貨がある。どこにも本棚などなく、自分の部屋が自分の部屋でない。おそらくマリエルの部屋もそうだろう。
 それでも懐かしき我が家だ。ぴかぴかと輝いて見えるのは、掃除が行き届いているからだけではない。
(夢でもいいから帰りたい……!)
 永遠にこの場に留まっていたい気持ちをなんとか封じ込める。
 はじめ、クロスは屋敷の二階にいた。ひととおり自室を確認してからゆっくり階段を降りていく。
 階下からはずっと、赤子の泣き声が聞こえていた。
 居間へ向かう。かつて一日の半分を過ごしたここも、まるで知らない場所になっていた。
 何よりも、部屋の中央に見慣れぬ人影がある。ソファの上で、女が赤子を抱えていた。そこに男が寄り添い、なにやら話しかけている。まだ若い夫婦だ。
 ふと、色をうまく判別できないことに気づいた。妙に臨場感があるけれど、そこはやはり夢らしい。
 むずがる赤子の頭には、ぽやぽやと濃い色の髪の毛が生えていた。
(あれは……私?)
 もしかしなくてもそうだろう。ならば、この二人が両親か。
 クロスは思わず大股で歩み寄り、親の顔をじっくりチェックしてやろうとする。あと数歩というところで、男が赤子を抱き上げた。
「この子の名前はクロス。たくさんの人がまじわる場所の、真ん中にいる子になるよ」
 女が何か答えようとしたところで、夢は終わりを告げた。



「私にはきょうだいがいるんですか?」
 シークとの邂逅を終えたクロスは、真夜中にラフレルの家に帰りついた。伯父は急にいなくなった彼女を心配し待っていたようで、「どこに行っていたんだい」と至極真っ当な問いかけをする。
 だがクロスはそれを無視して、逆に間の抜けた質問を投げかけた。本人はあくまで真剣だった。
 ラフレルは虚をつかれたようだったが、沈んだ様子の姪を見て居住まいを正した。
「どうしてそれを……」
「親切な人が教えてくれまして。で、どうなんですか」
 梃子でも動かないという姿勢を見せる彼女に、ラフレルは折れた。
「老輩もそのあたりの事情にはあまりくわしくないのだが——」
 そう前置きして、彼はクロスの父親の話をはじめた。
 二十数年前、ラフレルの妹とクロスの父が結婚し、長女クロスをもうけた。妹は体が丈夫でなかったため、ほどなくしてこの世を去った。
 何年かして、父は再婚した。そして相手との間に子どもが——クロスのきょうだいが生まれたらしい。情報が曖昧なのは、その頃のラフレルはゼルダ姫の教育係に登用されたため多忙を極めており、妹の忘れ形見である姪にあまり気を配れなかったからだった。父親が失踪するという事件が起こるまで一家とは疎遠になっていたため、そのきょうだいがクロスの弟なのか妹なのかも判然としないという。
 つまり、クロスは一時期きょうだいと同じ家に暮らしていたはずだった。しかし彼女にはまるで覚えがなかった。
「キミはずっと忘れていることがある」とシークが言っていたのはこのことなのか。だがおかしい。いくらなんでも、そこまで重要な記憶が抜け落ちるなんて、ありうるのだろうか。
 クロスは考えを整理するためまぶたをぎゅっと閉じる。金色の髪がちらちら暗闇に揺れた。あれは誰のものだったのだろう?
「なるほど。私が母と思っていたあの人とは、血がつながっていなかったんですね」
 自分は父親の失踪後に出て行った義母、つまり後妻の実子とばかり思い込んでいた。ラフレルとの血縁関係まで完全に忘却し改ざんしていたのだから、呆れるしかない。
 でも、今の今まで忘れ去ってしまえるほど、思い出したくなかったのは事実だ。
「あまり目をかけてやれず、すまなかったと思っている」
 ラフレルは沈痛な面持ちで目を伏せる。クロスはため息をついた。
「いえ、私こそいろいろ勘違いしていてすみませんでした。
 しかし……そのきょうだいはどこに行ったんでしょうね」
「タイミングとしては、おそらくクロスのお父上とともにいなくなったようだが」
 まさか父親が連れて行ってしまったのか。そのままそろって行方知れず、というわけだ。
 クロスは父親に思いをはせようとして、慌てて記憶に蓋をした。彼女にとっては母親よりも災厄の象徴だった。
 その夜はなかなか寝付けなかった。ラフレルの話は、おそらくシークが言及する「忘れていること」の全てではない。きょうだいの存在を含めて自分の記憶には欠損が多くある。
 ベッドに腰掛けてじっと考え続ける。
 窓辺の月明かりに影が差した。わざわざ窓を開けずとも、その影はすうっと忍び込んでくる。黒猫——マリエルだった。
 すぐにいつもの女の姿に戻る。
「シークには会えた?」
 夜中だというのにいつも通りのテンションだ。むしろ太陽が沈んでからの方が元気そうである。
「ええ、おかげさまで」
「あいつの正体は分かったの」
「ヒントらしきものをもらいました。どうも、私は家族のことを思い出さないといけないようです」
 マリエルは不審そうに眉根を寄せた。
「それって関係あるのかしら」
「さあ。でも何故かそういう話の流れになりました」
「ふうん。家族って、ご両親のこと?」
「それよりも、私に生き別れの妹か弟がいるらしいですよ」
「『らしい』って……もしかして、クロスさんって昔のことあんまり覚えてないの?」
 彼女が度を越して自分の過去を知らないので、さすがに訝しく思ったのだろう。マリエルは渋面を隠そうともしない。
「ええ。父親の失踪の後、相当ゴタゴタがありまして。よほどショックだったのかそのあたりのことを覚えていません。母親も荒れて、挙句の果てに家を出て行くし……」
「散々だったのね」
 その通りだ。クロスはぐっと腹に力を込める。
「まあ、人間関係がいくらこじれようが、私にはあの家があるから大丈夫です」
「その唐突な持ち直し方にはつくづく感心するわ」
 マリエルは心底、といった様子でうなずいた。
「要するに、思い出したくない記憶を胸の奥に封印してたら、そのうちに忘れちゃったのね。
 あたしはてっきり、記憶が仮面になってバラバラになったのかと思ったわ」
「どんな状況ですか。そんな非常識なことあるわけないでしょう」
「そうよねえ」とマリエルはぎこちなく笑う。クロスの頭にふと疑問が浮かんだ。
「マリエルさんには、嫌な記憶はないんですか? 私よりずっと長生きしていますよね」
 踏み込んだ質問だっただろうか。さりげなく顔色をうかがうと、相手は目をすがめる。
「まあ、あるけど。でも忘れたりはしないわよ。というか、どんなに嫌でも『あんなこと』はそうそう忘れられないわ」
 軽くかぶりを振った彼女は、仕切り直すように腕組みした。
「それで、あなたのきょうだいとやらが、あの不快な曲を流す男と関係あるかもしれないのね」
 どうやらシークのことを言っているらしい。
「不快な曲ってまさか、いやしの歌のことですか」
 ハープの音色を思い出したのか、マリエルは嘘寒そうに両腕をかきいだく。
「そうよ! 昔あの曲のせいでひどい目にあったんだから」
「ひどい目って……マリエルさんって実は浮かばれない魂とやらだったんですか?」
「魂っていうか、あたしの本体の仮面に大ダメージなのよ。場所も楽器も演奏者も違うから昔みたいな威力はなかったけど、聞こえた瞬間は肝が冷えたわ」
 本体が仮面? どういうことだろう。クロスはマリエルの体を上から下までジロジロ眺めた。本来の姿は猫でも女でもなく、仮面だったということか。ならば、何故悪魔などと名乗っているのだろう。
 そのあたりは答えてもらえないだろうなと思いつつ、クロスは肩をすくめた。
「マリエルさんって、そういう重要そうなことを簡単に私に話しますけど、いいんですか?」
「別に構わないでしょ。あたしにはその権限があるし、口に出しても大丈夫なことしか喋ってないわよ」
「はあ……」
 それにしても、とマリエルはまたもや震え上がる。
「あの曲を知ってるなんて、シークのやつ完全にただ者じゃないわ。あいつのもう半分は案外やばいやつかもね。気をつけた方がいいわよ」
 マリエルはそのまま黒猫の姿になって出て行ってしまった。
(もう半分?)
 まったく彼女は戯言のような調子で重大な情報を口走るから油断ならない。シークの正体は二つあるとでもいうのだろうか。とにかく、頭の片隅に留めておこう。マリエルがシークと何らかのつながりを持っているらしきことも含めて。
 結局、シークと会ってもさらに疑問が積み上がっただけだった。自分が前進しているのか後退しているのかすら、いまいち分からない。
 シークは一体、クロスに何を求めているのだろう。嫌な思い出を掘り返す作業の先に何があるのか。城下町の夜は長く、光明はまだ見えそうになかった。



 今日も今日とてクロスはテルマの酒場を訪れる。もちろん新たな情報を求めているわけだが、足を動かすと話が進展しているような気分になる、という理由も大きい。ひたすらラフレルの家と酒場を往復する生活はまだまだ続く。
 昼間の酒場は閑散としていた。最近の店主はクロスを見ても「珍しい」と言わずに普通に対応する。
 今日は、再び目を通したい書物があるためシャッドがいないかと期待したのだが——
「あ、クロスさん」
 テーブル席にいた青年が手を振ってきた。リンクだ。彼はハイラル中を回りつつ、ちょくちょく城下町に戻って酒場の仲間たちとつるんでいるらしい。クロスもこれだけ頻繁に酒場に出入りしていれば、彼と会うのはもはや必然だ。
 その横には、どこかで見た覚えのある女の子が座っている。クロスは促されて自分もテーブルにつきながら、
「そちらの方は?」
「イリアだよ。俺の……その、知り合いなんだ」
「こんにちは」
 ショートカットの髪を揺らしてイリアが微笑む。クロスもやっと思い出した。いつか酒場でゾーラの子どもを看病していた女の子だ。素朴な刺繍のある服を着ていて、ラフレルの仲間であり同じトアル村出身のモイと雰囲気がどこか似ている。翡翠色の目が印象的な少女だった。
「私はクロスです。城下町に住んでいて、リンクさんには何かとお世話になっています」
 ゴースト退治を依頼しているのだから、この紹介で間違いないだろう。
「いや、むしろ俺の方が世話になったというか……」とリンクは照れながら訂正した。
 イリアは目をキラキラさせて、
「リンクルさんのお知り合い、町にもたくさんいるんですね」
(リンク……ル?)
 聞き間違いだろうか、今おかしな単語が聞こえたのだが。
 目を向けると、リンクは明らかに困った表情をしていた。何か理由があるらしい。
 それについては追及しないことにして、話題を変える。
「確かイリアさんは以前カカリコ村に向かいましたよね。今日はまた、どうして町に来られたんですか」
 するとイリアは神妙な顔になって、膝の上に手を揃える。
「リンクルさんは、わたしの失われた記憶を探してくださっているんです。カカリコ村で『城下町に手がかりがあるかもしれない』という話になったので、今日は無理を言って連れてきていただきました。
 この前知り合ったばかりのリンクルさんに何もかも任せてしまうのは、申し訳がなくて」
 そうそう、テルマから彼女の記憶喪失については聞いていた。まだ記憶が戻っていなかったらしい。そして、どういうわけかリンクの名前を間違って覚えてしまったようだ。
 所在なさげに手の中の紙をいじっていたリンクは、ぱっと顔を上げる。
「そうだクロスさん、町医者がどこにいるか知らないか」
「それなら東門の近くです」
 あのやぶ医者はテルマの店の常連でもある。支払いはすべてつけにしているらしい。酒の飲み方が荒いので、クロスはあまり近づいたことがなかった。よく見ると、リンクが持っている紙は酒代の請求書のようだ。
「そこにイリアの記憶の手がかりがあるみたいなんだ。いいから案内してくれよっ」
 突然立ち上がったリンクに無理やり腕を取られる。思わぬ力の強さに驚いてしまう。
 彼は必死にぱちぱち目配せしてくるが、意図がよくわからない。とにかくこの場から逃げ出したい、という気持ちだけが読み取れた。
「案内くらいなら構いませんが……」
「よかった。じゃあ行ってくるな、イリア」
「はい。お気をつけて、リンクルさん!」
 そのまま酒場の外に出た。リンクはクロスの腕を握ったままだったことに気づき、「ごめん」と顔を赤くして手を離した。
 彼女は日差しを浴びる前に悠々と傘をさしながら、
「構いませんよ。でも、イリアさんを残してきてよかったんですか?」
「あいつテルマさんに気に入られてるし、積もる話だってあるだろ。……正直、ちょっと気まずくてさ」
「そうなんですか」
 リンクはうつむいた。そうすると一人前の旅人から、年相応の子どもになる。
「どう接していいかわからないんだよ。あいつ、トアル村では幼なじみだったんだ」
 それほど近しい間柄だったのに、名前を間違えるほど完璧に忘れ去られてしまったのか。それは確かに辛いだろう。
 とはいえクロスも最近まで家族のことをほとんど忘却していたので、何も言えなかった。
「あいつの記憶は俺の探し物につながってる可能性があるんだ。なんとかして取り戻さなきゃいけない。もちろん俺のことだってちゃんと思い出してほしいし……」
 言いよどむリンクは、胸に秘めたものの重さに耐えかねているようだった。
 東地区に向かって歩きながら、彼は気を取り直して、
「クロスさんの家は相変わらず乗っ取られたままなのか?」
「ええ、まあ。でも少しだけ話が進展しました。きっと取り返してみせますよ」
「そっか、俺も泊まるの楽しみにしてる」
 リンクは小さく笑った。いささか人がよすぎる青年だ、とクロスは思う。他人の家にまで気を配るとは、若いのに苦労が絶えないだろう。自分のことしか考えていない彼女とは大違いだ。
(でもどうせなら勇者の使命……というかお城の解放を優先してくれないかなあ)
 そのついでにゴーストの魂集めも進めてくれると助かるのだが。
 裏道を通って医者の家についた。クロスは看板を指さす。
「では私はここで」
「ありがとう、クロスさん。えっと……」
 急にリンクは黙りこくり、何か言いたそうに見つめてくる。
「どうかしましたか」
「いや、やっぱりいいや」
 彼は装備を鳴らして医者の家に入っていった。
 扉が閉まるまでその背を見送ってから、はたと気づく。
(そうだ、酒場にはシャッドさんに会いに行ったのに)
 すっかり本来の目的を忘れていた。来た道を引き返す。
 昼間の閑散とした店内で、イリアはカウンターに座って店主と話をしていた。二人はころころと笑い、あたりは酒場らしからぬ雰囲気に包まれている。確かに仲が良さそうだ。
 イリアは戻ってきたクロスに気づき、顔を明るくする。
「リンクルさんは?」
「医者の家です。すぐに帰ってきますよ」
 イリアは「そうですよね」とわずかに眉を曇らせた。テルマは気遣わしげにそんな彼女を見つめ、
「なあクロス、あんたイリアに町を案内してやっておくれよ」
 唐突すぎる提案だった。クロスは目をぱちくりさせる。
「何故私が……」
「いいだろう、最近は毎日うちに来るくらい暇してるんだし」
 暇ではない。毎日毎日、大真面目にシークや自分の記憶の手がかりを探しているのだ。
 それに生まれ育った場所とはいえ、長年引きこもり続けた彼女は町のことをあまりよく知らない。足を踏み入れたことのない場所なんて山ほどある。
 だが、テルマの絶対的な命令と、イリアの期待のまなざしを受けて彼女は折れた。
「……分かりました。ではイリアさん、行きましょうか」
「あ、はい」
 イリアは小走りで後をついてくる。クロスは外に出ると同時に日傘をさした。
「都会の人って感じですね」燦々と日光を浴びながらイリアが笑う。彼女の方がよほど健康的だろう。
「そうですか?」
「はい」
 イリアはなんだか楽しそうだった。クロスは年下の女の子とほとんど接したことがない。マリエルとも勝手が違うので、距離感が掴めなかった。
「どこか行きたい場所はありますか」
「カカリコ村でお世話になった人たちに、お土産を持って帰りたくて……でもお金の持ち合わせがないから、思い出話になるようなことがあればいいと思うんです」
 などと殊勝なことを言っている。「なんて心が清らかなんだ」と、薄汚れた大人として感動してしまった。
 とは言え、思い出になるような出来事など、なかなか思いつかない。
「占いにでも行きますか」
「うらない……?」
「この先自分にどんな事が起こるのか、専門家が教えてくれるんです。当たるかどうかはわかりませんが、恋占いもできるそうですよ」
 言い添えた言葉にイリアはぽっと顔を赤くしていた。
 テルマの酒場からもほど近い場所にある「占いの館インパレス」に向かった。花の模様が織り込まれたカーテンが入口の前に垂れている。初めて入る場所だが、評判が悪くないことは知っていた。
「お邪魔します」「失礼します……」
 イリアはおっかなびっくり後ろをついてきた。
 内部は薄暗く、お香が焚かれていて、用途不明の小瓶などが棚に置いてある。不意にマリエルの部屋を思い出した。
 あの部屋といえば、屋敷を追い出された後「部屋はそのままでいいのか」とマリエルに尋ねたところ、「大丈夫、ちゃんと封印したから。無理やり入ったやつはタダじゃ済まないわよ」と笑顔で答えていたものだ。一体どんな罠を仕掛けたのだろう。
 当たり前だが占いの館にはそういう本物の呪物など存在しないため、おかしなにおいもしなかった。
 入るとまず待合があった。カーテンで仕切られた奥に占い師が控えているらしい。他に客はいないようだ。
「恥ずかしいので結果を聞かれたくない」とイリアが言うので、代金だけ渡して(このくらいの甲斐性はある)自分は待合で待機する。
 占いが終わるまで、大して時間はかからなかった。奥から出てきたイリアを見て、クロスは椅子から腰を浮かせた。
「どうでした?」
「難しいですね、占いって」
 イリアは少し疲れた様子だ。あまり良くない結果だったのかもしれない。
「クロスさんは何か占わないんですか?」
「こういう類のものはあまり馴染みがないのですが……」
 ふと、壁の張り紙に目が吸い寄せられる。「仕事が失敗続きだ、恋愛が上手くいかない。当インパレスでは、そんな子羊達の悩みを即時解決! 新しい人生の一歩を踏み出しましょう!」——近頃のクロスは何かと悩みを抱えてばかりだ。ならばシークについて訊いてみるか、と思いついた。
「すみません、少しの間ここで待っていただけますか」
「はい」
 イリアを待合に残して中に入る。
 分厚い布で囲まれた小さな空間に、着飾った女が座っていた。その前にはこれ見よがしに水晶玉が光っている。
「占いの館インパレスによくぞ参られた……。オヌシにさだめられし運命の一端を、わらわが占ってしんぜよう。さあ、未来の扉を開くのじゃ!」
 手を差し出してきたので、代金の十ルピーを渡す。
「よかろう。では仕事運、恋愛運、金運、どの扉を開くのじゃ」
「人を探しているんです。神出鬼没で、私の大事なものを奪った男です。私はあの人の正体を絶対に暴かなくてはいけないんです。何かヒントを占えませんか」
 説明しながら「この説明は誤解を招くな」と思った。これではまるで——
「なるほど、恋愛運じゃな」
「違います」
 即座に否定した。ある意味では厄介な感情の矛先であり、会いたい相手ではあるが。
「うけたまわった。オヌシにさだめられし使命を聞かせてしんぜよう。では参るぞ!」
 占い師は何やら呪文らしきものを唱える。
 マリエルは変身するとき呪文など使わない。占い師のこれは、雰囲気をつくるための単なるポーズだろう、と見当をつける。
「ふむ、オヌシはもう見つけておるな」
 その言葉にクロスは一気に現実に引き戻された。
「は?」
「探している者は、オヌシのとても近くにおる。昔も、今も……。よほど愛されているのじゃな」
 あんな嫌がらせをしてくるやつに、愛されている……? しかも、ごく近くにいるなんて。一体占い師は水晶玉の中にどんな景色を見たのだろう。
 それきり占い師はうんともすんとも言わなくなった。十ルピー程度ではこの程度か、と諦める。
 釈然としないままイリアの元に戻った。
「おかえりなさい、クロスさん」
「あなたの言っていたことがわかりました。この占いは難しいですね」
 イリアは神妙な顔でうなずいた。クロスは息を吐いてから、わずかに表情を緩める。
「ちょっと休みましょうか」
 二人は中央広場にあるカフェに向かった。
 この店の最大の売りは食事ではなく景色だ。人々の往来と流れる噴水、バックにはお城、というハイラル城下町の象徴的な風景を眺めながら食事を楽しめる。素晴らしい立地条件により、いつも席は埋まっていた。普段のクロスなら絶対に立ち寄らない場所だが、イリアには物珍しいだろうと思い誘ってみた。彼女は他人を気遣える「いい子」であるし、多少は奢ることだってやぶさかではない。
 今日は幸いにもすぐに座ることができた。クロスがメニューを見せながら内容を説明し、イリアはおずおずと果実のジュースを頼む。
 給仕が離れ、彼女はテーブルの上でこぶしを握った。
「クロスさん……リンクルさんについて教えてくれませんか」
 イリアの真剣な様子にクロスは面食らってしまう。もしや、テルマの提案に応じたのはこれを訊くためだったのだろうか。
「はあ。何を知りたいんですか」
「わたしの知らない彼のことを」
 リンクは、自分が幼なじみであることをイリアに話していない。記憶喪失の彼女をあまり混乱させたくないらしい。ならばそのあたりの事情はクロスも汲み取るべきだろう。
「私が彼と出会ったのはごく最近です。あの人に、我が家の……片付けを依頼して……」
 思わず当時を思い出して喉の奥に苦いものがこみ上げる。そう、あの頃はまだ自分の屋敷に住んでいたのだ。意識が遠のきそうになるのを、水を飲んでごまかした。
「リンクさんは力持ちでしたので仕事が捗りましたし、彼も多少は路銀の足しになったでしょう。その後は会うたびに少しお話ししています。まあ……それだけの関係ですね」
 彼は勇者をやっているそうだが、正直クロスはあまりピンとこない。戦っているところなんてあの骸骨剣士相手の稽古しか見たことがないし、きっと本気の戦いなど一生見る機会はない。
 リンクは自分にとって何なのだろう。適切な呼び名が見つからなかった。
「イリアさんは、どうしてそこまで彼のことを気にされるんですか」
 逆に質問した。イリアはさみしげに笑う。
「わたし、リンクルさんには出会った時から助けられてばかりで……今回町に来てからもそうなんです。このままじゃダメ、ですよね。だから少しでもお役に立ちたくて。
 占いでもそのことを聞いてみました。でも、まずは自分の問題を解決しなさい、と言われました」
 クロスはうなずいた。
「そうでしょうね。だって、あなたはリンクさんと一緒に旅することができないわけですし」
 イリアはひるんだようにうつむく。厳しい言い方だったかもしれない、とクロスは慌てて付け加える。
「リンクさんは、あなたにそういう手伝いを求めていませんよ。むしろ彼の帰るべき場所を守ってあげてください。たとえあの人の親切と釣り合わなくても、それがあなたにできる唯一のことでしょう」
 言葉の途中からイリアは顔を上げ、唇を引き結んで聞いていた。翡翠色の瞳が揺れている。
 それきり彼女は黙り込んでしまう。柄にもなく説教してしまった、とクロスが一人で反省していると——
「なんだ、あれ!?」「きゃああ、魔物よ!」
 広場の向こうから悲鳴が上がった。
 ぎょっとして視線を飛ばす。すると、建物の陰から見覚えのある黒灰色のオオカミが駆けてきた。
 どうもこちらを目指しているようだ。まさかカフェに来るのか? クロスは椅子に縛り付けられたように身をこわばらせる。
 幸いオオカミは急に方向転換した。離れていく瞬間、ちらりとこちらを見上げる。
 その青い瞳を確認して、はっきりと思い出した。いつかの雨の日、城へ案内したオオカミだった。
(またこのあたりに用があったのかな)
 あの時背中にのせていた小さな生き物の姿はなかった。結局、目的は達成できたのだろうか。
 さっきまで騒然としていた中央広場の人々は一人、また一人とそれぞれの日常に戻っていく。クロスも濃い紅茶を飲んで人心地ついた。
「クロスさん、今のは——」
 イリアは呪縛が解けたように立ち上がろうとする。それをなだめて、座らせた。
「安心してください、兵士がどうにかしてくれますよ」
「いえ、そうではなくて」
 キッと顔を上げたイリアは、どこか思いつめた目をしていた。何かを決意したように口を開く。
「リンクルさんは、東門の近くにある医者の家へ向かったんですよね」
「ええ。用事が終わればすぐ帰ってきますよ」
「さっきのオオカミは東の方角から来た——リンクルさんと入れ替わりに、オオカミが出てきたんじゃありませんか」
 クロスは瞬きした。
 彼女が言わんとしていることは分かるが、あまりに突飛な想像すぎる。
「リンクルさんは何かとても大きなことを成し遂げようとしていますよね。それこそ、ハイラル全土を救ってしまうような……」
 それなりにリンクの近くにいて、イリアは何かを感じているのだ。そして彼が事情を話してくれないことに対して不満を覚えている。
 彼の目的は「ハイラルを救う」ことなのだろうか。マリエルの言う通りリンクが勇者だとすれば、そうなる。彼は人知れず旅を続け、ハイラル城にいる魔王に一歩一歩着実に近づいているはずだ。
 しかし、動機はそこまで大層なものではない気がする。リンクと接していてあまりそういう印象を受けないからだ。それこそイリアのような身近な人々を守りたいからなのではないか、とクロスは推測する。
「イリアさんは、それを知りたいんですか」
「はい。リンクルさんの重荷を少しでも分かち合いたいんです」
 なんとも麗しい想いだった。これまでもこの先も、クロスが絶対に持ち得ないものだ。
「そうできるといいですね」と濁してしまえばいいのに、彼女はつい水を差してしまう。
「ですが、少なくとも今、リンクさんは自分のやっていることをあなたに打ち明けたくないのでは?」
 イリアの唇が辛そうに歪む。またやってしまった。クロスはすぐに頭を下げた。
「すみません、余計なことを。ええと……彼にとって、まだその時が来ていないだけです。いつかきっと、あなたには話してくれますよ」
 ただ町ですれ違うだけのクロスとは違って、イリアはリンクの帰る場所でもある。すべてが終わった後、彼は必ず胸襟を開くはずだ。
「はい……ありがとうございます」
 イリアはそっと微笑み、さらに言い添える。
「クロスさんは、リンクルさんのいいお友達なんですね」
 友達か。それよりも、良き隣人でありたいと思う。
 彼のすべてを知る必要はないだろう。だがクロスとリンクの道は、たまたまほんの少しだけまじわった。彼に対して悪い印象は抱いていないし、城下町に巣食う悪を退治してくれるというのなら、できる限りの協力はしたい。
 すっかりぬるくなったグラスを空にし、イリアは立ち上がる。
「わたし、酒場に戻ります。そこでリンクルさんの帰りを待ちます」
「案内しなくて大丈夫ですか?」
「はい。道は覚えましたから」
 彼女はぺこりとお辞儀して、きびすを返した。
 その後、また酒場に寄りそびれたことに気づいたクロスは慌ててイリアを追いかけて、非常にきまりの悪い再会を果たした。
 しかも、最終的にテルマから「シャッドなら研究の手がかりが見つかったからって、カカリコ村に向かったけど……」と聞いて、がっくり崩れ落ちるのだった。

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