第一章 私たちの生きる世界



 一年の仕事を終えたティパ村のキャラバンは、数ヶ月ぶりに故郷へ帰還した。
 懐かしい馬車とパパオを見つけ、村の入り口——聖域の境界付近には大勢の人が集まっていた。
「おかえりなさい!」
 誰もが四人の帰りを祝福し、口々に労をねぎらった。
 ハルトは初めての凱旋に緊張が隠しきれない。顔を紅潮させながら馬車の隣を歩く。
「なかなかいいものでしょ」
 横にいたタバサが囁いた。彼女はキャラバン二年目だが、この瞬間の感動は決して去年にも劣らない。
 キャラバンたちは、それぞれ友達や家族のもとへ駆け寄り、挨拶を交わす。
 ハルトも当然のように家族を探したが、姉と母、どちらも見当たらなかった。
「あれ、クラリスは?」
 不在に気づいたペネ・ロペが訝しむ。
「小麦農家が忙しいんじゃないのか」とユリシーズが推測した。
「これから村長へ報告に行くわ。それが終わったら、家に行ってみたら」
 仲間たちに促され、ハルトはこっくりと頷いた。
 ……なんとなく、嫌な予感がしていた。



「ウェル・カム・トゥー、ザ・ティパ農場!」と書かれた看板は、相変わらず何故か後ろを向いている。数ヶ月前と変わらない景色がハルトの心を和ませた。
 気まぐれに小麦畑の方を覗いてみるが、人影はなかった。子供の頃にクラリスが作った不細工なカカシが風に揺れている。麦の刈り取りはとっくに終わっていた。
「!?」
 ハルトは不意に寒気を感じ、身をひねった。目の端に映るのは、炎を象ったような美しい剣。それが見事な軌跡を描いて振り下ろされると、逃げ損ねた大地色の髪が数本宙に散った。
「よくぞ私の剣をかわした」
 襲撃者は不敵な笑みを浮かべ、伝説の武器エクスカリバーを鞘代わりの布で包んだ。ハルトと同じ色のロングヘアーに、彼よりも幾分明るい茶色の瞳を持った女性だ。
 ——彼女こそがハルトの行く先々で勇名をはせた姉、クラリスである。
「……」
 ハルトはじろりと姉を睨みつけた。
「そう怒るなよ〜、試すような真似して悪かった。キャラバンに入ってどこまで成長したか、見たかったんだ」
 彼女は馴れ馴れしく弟の肩を叩くと、そのままどこかへ行こうとする。
「?」家に帰らないのだろうか。
「ああ、いや、私はちょっと用があってだな」
「クーラーリースー? どこ行ったのよ」
 足早に立ち去る彼女の背中を、地の底から響くような声が追いかけた。玄関から、ハルトたちの母親ミントが姿を現した。
「げ、母さん……」
 クラリスは早くも逃げ腰だ。ミントはいつもの柔和な笑顔を崩し、目を三角に吊り上げている。
「あなた、また家の手伝いサボって!」
 ハルトは素早く後ろに回り、がっちり姉を捕まえた。クラリスが伸ばした手はむなしく空を薙ぐ。「くそっ、この裏切り者ぉ」
 観念した様子の彼女を見て、ミントは満足げに微笑んだ。そして、長旅を終えた息子に向き直る。
「帰ってきたばかりで、迷惑かけるわね。おかえりなさい、ハルト」
「……おかえり」
 ふてくされた顔で、クラリスも弟を歓迎した。
 その言葉を聞いて、ハルトはやっと「家に帰ってきたのだ」という実感がわいた。
「実はね、今年の水かけ祭りの料理当番に、うちも入ってるのよ。ただでさえ手が足りないのに、この子がすぐに逃げ出すものだから……。あーあ、クラリスのせいでうちは年を越せないかもね」
 母はほうっとため息を吐く。会話しながら、家族は台所に移動していた。火にかけっぱなしの鍋があったのだ。
「うう……母さん、私に料理が向かないってことくらい、分かるだろ?」
「じゃあ何が向いているのよ。剣の扱い? そんなのでお嫁に行けると思ってるの、あなた」
 母の発言には容赦の欠片もない。
「行けなくていい、ハルトがいるから」クラリスは胸を反らした。
「……つべこべ言わず、やる」
 ミントの笑顔が一段と深まった。姉弟は縮み上がる。母を怒らせてはいけない——言葉を交わさずとも意見は一致した。
「ハイ!」
 威勢良く返事をして、クラリスは鍋に向かった。
 ハルトは、彼女の指に巻かれた包帯に気づいた。剣を握れば敵なしだが、包丁の扱いはからっきしなのだ。
 ひとつため息をついて、姉の隣に立つ。
「ハルト、手伝ってくれるのか?」
「……」
「さすがわが弟だ。助かるよ、ありがとな」
 クラリスは輝くような笑顔を見せた。「祭りの主役だから任せられない」とは言わないあたりが彼女らしい。久々に弟と一緒にいられることが嬉しいのだろう。
 こうして水かけ祭りの宴には、ハルトが作ったポトフが並ぶことになった。



 水かけ祭りは、キャラバンが帰った当日の夜に行われる。いくつもの松明で煌々と照らされるクリスタル広場に、村人たちが集まってきた。
 キャラバンに入ってから五回目になるその儀式を、ペネ・ロペは感慨深く眺めていた。
 今年は、初めてリーダーとして雫を集めた。悔やむべきことはたくさんある。彼女の力不足で、苦戦に次ぐ苦戦をメンバーに経験させてしまった。それでも、最後の峠を越えてティパの村が見えて来た時、胸にわき上がったのは確かな充実感だった。
 村を守るクリスタルの前で、キャラバンの四人は並んで松明を掲げた。アルフィタリアのものよりはるかに小さいけれど、静かな光を湛えたクリスタルは見る者に心の平安をもたらす。
 村一番の年寄りであり、当代の村長をつとめるローランがこの儀式を執り行う。温の民の老人は年代記を広げ、台座に置いた満杯のケージに向き合い、今年キャラバンが遭遇したいくつかのエピソードを読み上げる。自分が記した箇所を朗読され、ハルトは思いきり顔を背けたくなった。
 ローランはクロニクルの最後に記された呪文を唱えて、ケージに溜まったミルラの雫を解放した。クリスタルが目映い光に包まれると、器は空になっていた。これで聖域がまた一年、保たれる。タバサは、隣で息を詰めていたハルトの肩が下がるのを見た。
 神秘的な時間は終わりを告げる。ローランは村人へ振り返ると、深いしわの奥の目を細めた。
「皆の者、ご苦労じゃった。キャラバンに感謝し、今宵は宴をゆっくり楽しむといい」
 村の有志で構成された楽隊が軽快なメロディを奏でた。仮設のテーブルの上にはたくさんの料理が広げられ、広場は思い思いの踊りを披露する人々で輪が出来る。
 この瞬間キャラバンは役目を終え、ただの村人に戻った。
 ペネ・ロペはにぎやかな場所から少し離れた、錬金術師の家のあたりまでやってきた。
「お疲れ」
 遅れて到着したユリシーズは両手に杯を持っていた。その片方を恋人へ差し出す。
「ありがと」にじいろぶどうのワイン、彼はこれを取りに行っていた。
 二人きりで乾杯して、ぬるい液体をくいっと喉に流し込む。
「くぅーっ、これだよこれ」
「ペネ・ロペ、おっさんみたいだぞ」
「え、本当?」
 慌ててペネ・ロペは笑顔で取り繕い、話題を変えた。
「今年は、いろいろ大変だったね」
「そうだな。ダンジョンでは何度フェニックスの尾に頼ったことか」
 あんなギリギリの戦いを繰り返して、よくぞ無事に帰ってくることができたものだ。ユリシーズは松明の火に仮面をきらめかせる。
「クラリスが抜けたのも大きかったな」
「……うん」
 ハルトがメンバーに入って、ベテラン二人と新人二人の構成になり、戦闘時のフォーメーションも変わった。ペネ・ロペは自然と、遊撃を主とする戦い方を学ぶことになった。
「でも、ハルトくんがいなきゃ、今頃あたしたちはここにいないわ。一年前にクラリスが抜けるって宣言した時——ハルトくんの方がキャラバンに向いてるって言ってた意味が、ちょっとだけ分かった気がする」
「不思議な奴だよな。あいつの抱えてるものが、キャラバンの旅で軽くなるといいんだけど」
 ユリシーズがゆらりと首を傾ける。ペネ・ロペは酒が回って火照る体を、手で仰いだ。
「そうね。どうして声が出なくなったのか、何故ガーディさんを見て倒れたのか……ん?」
 かさり、と下生えを踏みしめる音がする。戦場に身を置く者として、ペネ・ロペはそのあたりの感覚は鋭い。もう一人の幼なじみ——クラリスがやってきたのだ。
「なあに深刻な顔してるんだよ、睦言の邪魔でもしてやろうと思ったのに」
 クラリスはにやにやしながら声をかけた。澄ました顔でペネ・ロペは答えた。
「ハルトくんの話をしてたのよ」
「弟の? ……どうだ、面白い奴だろ」
「これからが楽しみだな」
 ユリシーズの評価に、クラリスは満足そうに頷いている。
 ペネ・ロペはずいっと身を乗り出した。
「ねえクラリス。どうしてハルトくんをキャラバンに出したの」
 この一年、そればかり考えていた。何故彼女はキャラバンをやめたのか。弟にどんな思いを託したのか。未だにはっきりと答えは出ない。
「まだ分からないのか。ということは、私が教えてしまってもいいんだな?」
「何それ。どういうことよ」
 ペネ・ロペはむすっと眉を寄せる。
「ふふん。一年も旅をしていて、そんなことも分からないなんてな」
 クラリスは鼻で笑い、親友の緑の瞳に挑戦的なまなざしをぶつけた。
「……もーいいよ、自分で考えるから。ねっユリス!」
 突然話を振られたユリシーズがびくっとする。クラリスは笑いをかみ殺していた。
「ひとつだけ、ヒントを出すよ。私はハルトとある約束を交わした。あの子がまだ普通に声を出せた頃だ」
 思い返せば一年前のレベナ・テ・ラで、彼女はそのようなことを呟いていた。
「約束を果たすために、ハルトくんが旅に出たってことね」
「そんなところだな」
 会話が一段落すると、クラリスの耳に楽しげな音楽が入ってくる。
「……そうだ、お前らは踊らないのか?」
 ペネ・ロペはワインの残量を見て、
「今から行ってくるわ」
「なら、杯は片付けておくよ」
「ありがとう。——きゃっ!?」
 ペネ・ロペは突然持ち上がった体に驚いた。「ゆ、ユリス?」
「それじゃあな」
 恋人を横抱きにして、ユリシーズは悠々と歩いていく。二人の関係は家族にも秘密のはずだが。
「お、おう。仲良くな」
 取り残されたクラリスは乾いた笑いを漏らし、
「あいつ、完全に酔ってる……」
 空になった杯を見て、頭を抱えた。



「え? これ、お前がつくったの」
 カム・ラはポトフに入っていた大きないもを頬張りながら、隣のハルトに尋ねた。彼は首肯する。
「なんで主役が祭りの準備してるんだよ……」
「でもとってもおいしいよ、ハルト」
 アリシアは顔をほころばせた。
 セルキーのカム・ラとクラヴァットのアリシアは、どちらもハルトと同い年の幼なじみだ。昔から馬が合い、よく遊んでいた。
 しかし、強烈な個性を持つクラリスの影に隠れていた彼が、こうして雫を持ち帰ったのだから、驚きだ。
「さすがは俺の親友だな!」
 カム・ラは自分のことのように大喜びした。彼はかつてキャラバンを目指していたが、実家の都合でそれを諦めざるを得なかったのだ。
 そこでハルトは大きな包みを取り出し、カム・ラに渡した。
「何だこれ。土産? 開けるぞ」
 包みを解くと、中から現れたのは古びた剣だ。リバーベル街道で手に入れた逸品である。
 鍛冶屋の息子カム・ラは目下のところ、実家を継ぐため修行に明け暮れていた。
「もしかして、鍛冶の練習台にってことか」
 ハルトは頷く。
「〜! ありがとなっ」
 感極まったようにカム・ラは大声を出した。ハルトは少しうるさそうに片耳を塞ぐ。
 続いて、小さな袋がアリシアに手渡される。
「これ、手紙に書いてた花の種よね。マール峠でもらってきてくれたんだ。大切に育てるわ」
 彼女はぽっと頬を赤く染めて、はにかんだ。
「ところでハルト、外の世界はどうだった? お前の姉さんはめちゃくちゃ心配してたけど」
 カム・ラはキャラバンの旅の話が聞きたくて仕方ないらしい。
「……」
 確かに、クラリスは手紙でも何かとハルトの身を案じていた。自ら旅に送り出したくせに、勝手なものだ。
「ハルトも、お姉さんみたいに剣をぶんぶん振り回したりするの?」アリシアはどことなく不安そうだ。気の弱い彼女は、魔物相手の戦いがどういうものなのか、想像もできないだろう。
 いいや、という風にハルトは首を振る。回復魔法を担当する彼は、基本的にクラリスとは求められるものが違っていた。
 リバーベル街道でも、ティダの村でも、カトゥリゲス鉱山でも。何度となく危険な目にあった。しかし、彼はこうして無事にティパの村に帰ってきた。それが「キャラバンに向いているかどうか」という質問に対する答えではないだろうか。
「お願いだから、危ないことはしないでね」
「何言ってんだよアリシア。危ないこと引き受けるのがキャラバンの仕事だろ」
 カム・ラの強い物言いに、アリシアはくしゃっと顔を歪めた。ハルトが白い目で見る。ガサツな友人は、何年経っても繊細な彼女の扱いに慣れない。
「でも、ハルトが怪我したらって思うと……」
 実際は怪我どころではすまなかったのだが、彼女にそれを告げたら卒倒しかねない。ハルトはいつも通りに沈黙を保った。
 カム・ラはぶっきらぼうにアリシアの頭を撫でた。
「キャラバンの先輩はベテランなんだから、大丈夫だろ」
「うん……」
 その様子を、ハルトは何とも言えない目で眺めていた。やがて短く嘆息すると、身を翻す。
「ハルト?」
 アリシアから物言いたげな視線を受け、彼は手をひらひらさせた。
「あ、えと、お前は踊らないんだっけ。俺たちはこれから行くつもりだけど……」
 戸惑うカム・ラたちを置いて、ハルトは静かにその場を離れた。



 祭りの儀式が終わってから、タバサは一度帰宅した。姉が仕立てた新しい服に袖を通すために。
「どう、いいデザインでしょ?」
 裾にたっぷりとレースがあしらわれた衣装は、タバサの好みにストライクだった。鏡の前でうっとりしてしまう。
「……うん、とっても素敵よ。でもまさか、この日のためだけに作ったわけじゃないわよね」
 裁縫屋の跡取りとして抜群の才能を発揮している姉は、得意げに笑った。
「もちろん違うわ。これから先、何かと必要になるだろうからね、一張羅よ。大事にしなさい」
 という姉の計らいに、内心感動してしまったタバサであったが。キャラバンの旅で鍛えられた毒舌は、心ない一言を発した。
「なんだか、踊りにくそう……」
「あーっ、人が気にしてることを!」
「だってここの縫製、結構弱そうじゃない?」
「それは繊細なデザインを生かすためなの。仕方ないのっ」
 軽い喧嘩に発展してしまった。二人が人目もはばからずにぎゃあぎゃあ言い争っていると、裁縫屋の玄関が無遠慮に開かれた。
「タバサ。早く祭りに行きましょう」
「あ、ヒルダ」
 同い年のユークの少女・ヒルデガルドが誘いに来たのだ。彼女は商人の跡継ぎになるべく、兄や姉と日夜しのぎを削っている。ハートにリボンを巻き付けたような仮面の装飾がチャーミングだった。
「おや。素晴らしい衣装ですね」
 着飾った友人を見て、ヒルダは率直な感想を漏らした。タバサは大いに気をよくする。
「うふふ、そうでしょ?」
「とても似合ってますよ。さすがはお姉さん。クック家も安泰ですね」
 姉も、タバサ同様に会心の笑みを浮かべる。ヒルダはこっそり肩をすくめた。なぜ自分が姉妹喧嘩を仲裁しているのだろう。
 とにもかくにも彼女のはからいで、二人は円満に仲直りした。
「行ってきまーす」
「思いっきり見せびらかしてきてね!」
 タバサとヒルダはクリスタル広場に向かい、踊りの輪に加わった。
 結局のところ新しい服は伸縮性に優れていたため、動きの面では問題なかった。いつもの赤いマスクを脱ぎ、おしゃれな格好をしているタバサは、人々の目を引いた。なかなかに気持ち良い経験だった。
 やがて踊り疲れたタバサはヒルダと別れ、さらなる友人の誘いもかわし、ティパの岬を目指した。潮風にあたりたくなったのだ。
 今日は満天の星空だ。明るい広場から離れるほど、星がよく見える。
 岬には先客がいた。
「あら。ハルトじゃない」
 膝を抱えてぼうっとしていたクラヴァットの少年は、ゆっくりと振り返った。
「隣、いいかしら」
 腰を下ろし、低い位置から海を眺める。黒々とした水面はごく穏やかで、潮騒が心地よく耳に響く。
 ふと、タバサは共に役目を果たした新人に、思い出を語りたくなった。
「去年、この海を越えてキランダ火山に行ったのよ。暑いし、ボスの鉄巨人は強いし、最悪だった。二度と行きたくないって思った。でも、なんでか今年もキャラバンやってるのよね。こんな調子でずっと続けちゃうのかな。……変なの」
 少し笑う彼女。ハルトは静かに傾聴している。
「そういえば、ここって。あんたが」
 言いかけて、口をつぐんだ。彼はこの崖から落ち、それをきっかけに声を失ったのだ。昔は絶景スポットとして人気のあった岬だが、以来あまり人が寄りつかなくなっていた。
「平気なの? ここにいても」
 ハルトはただ首肯する。そこには何の感情も浮かんでいない。
「高いところが怖いとか、海が怖いとか、そういうことも?」
 同じく、彼は首を縦に振った。
「どういうことよ。あの事故がトラウマになったんじゃないの」
 ハルトは漆黒の瞳を少し細めて、タバサの顔を覗き込んだ。
 夜空よりもなお暗いまなざし。その奥に映るものは何だろう。
 ——この場所でも、高いところでも、海でもない。本当に怖いものは——
 かすかにハルトの唇が動いた。
「え……?」
 彼女が思わず身を乗り出したところへ、風が吹く。無造作に伸びた髪が乱され、ハルトははっとしたように目をそらす。
 タバサは夢から覚めたような心地で、立ち上がった。
「もう行くわ。来年もよろしくね、ハルト」
 茶色の頭がこっくり揺れるのを見て、タバサは歩き出す。
 星空の下ハルトはひとり、海の音を聞いていた。



 その年の水かけ祭りが終わった後。キャラバンリーダーであるペネ・ロペは、農閑期で暇そうにしていたハルトをつれて、ライナリー島を訪れていた。
 ティパ半島から西へ海を渡ると、小さな孤島にたどり着く。セルキーたちの集落がある他は、ライナリー砂漠がほとんどの面積を占める島だ。その奥地にはミルラの木が生えているらしい。
 今回は、雫集めが目的ではない。ルダの村の長から、物資援助の要請を受けたのだ。クリスタルケージを所持し、瘴気の中を自由に歩けるキャラバンが負うべき仕事のひとつである。今年は地理的な事情により、世界の食糧生産を一手に握るファム大農場ではなく、ペネ・ロペたちに依頼が回ってきた。最近になってティパの港が解禁されたため、こういう用事は今後さらに増えていくだろう。
 ハルトにとっては、これが初めての船旅だった。何でもかんでも初めてづくしで、ペネ・ロペは羨ましいばかりだ。砂漠から吹きつける熱い風に、彼は目を白黒させていた。
「ここに来るのは、あたしも初めてなの」
 ルダ村は海辺の岸壁に張り付いた、小さな集落である。住民といえば、右を見ても左を見ても我の民しかいない。これはなかなか恐ろしい環境だ。基本的にセルキーは「他人のものは自分のもの」という価値観を持っているので、無防備な旅人はたちまちサイフを盗まれるという。今回はペネ・ロペが目を光らせているので、常にぼーっとしているハルトといえど、被害には遭わないだろう。
 二人は船から下りて、舟守トリスタンの荷下ろしの手伝いをする。
 リルティの彼は、高い運賃を要求する代わりに、危険な航海を引き受けていた。普段はジェゴン川で渡し守をしているが、今年は川が干上がってしまったので、ティパの港に船ごと移動してきた。彼なしではキャラバンの旅に支障を来すこともある。たとえどれだけ法外な料金を吹っかけられても、良好な関係を保つべき人物だ。
 トリスタンは、みっちり食料が詰め込まれた馬車をしげしげと眺めた。
「それで、この荷物をどこに運べばいいんだ」
「『おかしら』さんのところです。……どこか知ってますか?」
 ペネ・ロペはキャラバン宛に届いた手紙を取り出して、トリスタンに見せる。「おかしら」とはルダ村の長、ル・ティパのことだ。気性の荒いセルキーたちを女だてらに取り仕切る、やり手の首長だと聞く。
「ああ、ル・ティパさんのところか。案内するよ」
 トリスタンは立派なひげを触って頷いた。
「よろしくお願いします」
 頭を下げ、トリスタンの先導に続いて馬車を走らせる。パパオは慣れない砂地で歩きにくそうだ。
「大陸からこんなに遠いのに……ルダのキャラバンってすごいよね」
 テントのような住居群を眺めながら、感慨に浸るペネ・ロペ。ハルトが初めて遭遇した他のキャラバンはルダ村の二人だったが、その活躍に見合わず自由気ままな性格をしていた。
 狭い荷台に乗り込んだハルトは、ル・ティパの手紙が気になるようだった。
「どうしたの」
 彼は本文中からある単語を示した。指摘されてみれば、妙な癖のある綴り方だ。どこかで見たような気がする。彼女はあっと声を上げた。
「そうだ、あの手紙!」
 ハルトが大きく頷いた。ティダの村で拾ったボロボロの手紙。あの筆跡とル・ティパの文字が、よく似ているのだ。
「……って、どういうこと?」セルキーの頭領と例の恋文と、何か関係があるのだろうか。彼女は首をかしげた。
 トリスタンが前方からペネ・ロペを呼ぶ。
「着いたぞー。馬車はここに置いていくといい」
「はーい。とにかくあの手紙、おかしらさんに見せてみようか」
 二人はトリスタンと別れ、長の住まうひときわ豪華な家に荷物を運び込んだ。
「ごめんくださーい」
 薄暗い中に、ル・ティパはいた。明るい水色の髪にはごてごてと装飾品がぶら下がっており、いかにもセルキーといった見なりだ。年老いても眼光は鋭く、向かい合う者に自然と緊張を走らせる。
 老女は口を開くなり、
「……クラヴァットを連れてきたのかい」
 苦々しく吐き捨てた。ハルトはびくっと身をすくめる。
「ごめんなさい。空いてる人手が他になくて」
 ペネ・ロペが冷や汗をかきながら弁解した。ル・ティパはクラヴァット嫌いらしい。
「頼まれた物資は、外の馬車にあります。積み荷のリストはこれです。確認してください。それと——」
 内心ひるみながら、彼女はボロボロの手紙を取り出した。
「この手紙に見覚えはありませんか」
 今にも崩れそうな紙きれを目に入れた途端、劇的にル・ティパの表情が変わった。
「これを、どこで?」
 老女は低い声で訊ねる。ペネ・ロペは「少し前も誰かとこんなやりとりをしたな」と思いながら、
「ティダの村で見つけたんです」素直に答えた。
「そうか……」
 長は、目を伏せた。
「もういいよ。荷物を置いて、お前たちは帰りな」
 先ほどまでとは打って変わって、静かな口調で促される。それだけに有無を言わせぬ迫力があった。年老いても、長としての威厳は消えていない。ゴクリと唾を飲み込んだペネ・ロペは、ハルトとともに一礼した。
「お、お邪魔しましたっ」
 ル・ティパの屋敷から帰る途中、二人はルダ村キャラバンと出会った。
「あっれー、ティパのキャラバンじゃーん。ごくろーさん」
 ゆるい言葉で出迎えたのは、ダ・イースだ。その手にはクリスタルケージがある——が。
「……雫、足りなくない?」ペネ・ロペは目を丸くした。
「そーよ。これから取りに行くの」
 ハナ・コールが悠然と笑った。ティパの村はもちろん、他の集落もとっくの昔に水かけ祭りをすませている。そんな時期に、これからダンジョンへ行くとは。呆れを通り越して、尊敬の域に入る計画性のなさだ。
「が、がんばってね」
 トリスタンの船が出航するのは明日だ。きっと、ペネ・ロペたちと同じ便で大陸へ向かうのだろう。同じセルキーといえどかなり性格が違うので、道中仲良く出来るかどうか、不安になる彼女であった。
 その晩は、ルダの村で宿を取った。波の音を間近に聞くうちに、ペネ・ロペはすぐ心地よい眠りに誘われた。
 翌朝。彼女は何故か、部屋に押しかけてきたハナ・コールに起こされた。
「おかしらがいないの……」
 いつもの元気は雲散霧消し、ハナ・コールは不安で押しつぶされそうな顔をしていた。
「失踪したってこと? ル・ティパさんが」徐々に広がる驚愕により、ペネ・ロペの脳は覚醒していく。
「ええ。どこを探しても見つからないのよ。それで、クリスタルケージも持って行かれちゃったみたい」
 とうとう彼女は飛び起きた。
「一人で旅に出たってこと!?」
 嫌な予感がした。思い当たる節はひとつ、昨日ル・ティパに見せたあの手紙だ。そういえば、マール峠のセシルもあれを読んで、不思議な反応をしていた。
「でも、トリスタンの船はまだ出てないでしょう?」
「あたしたちが去年まで使ってた小舟がないのよ……」
 いよいよ確定だ。ペネ・ロペは息せき切って隣の部屋へ駆け込んだ。
「ハルトくん!」
 クラヴァットの少年は、すでに支度を調えていた。落ち着いた様子でゆっくりと振り返る。
「ルダのキャラバンを連れて、ル・ティパさんを追いかけましょう」
 ペネ・ロペは、この直感が外れていればいい、と心から願った。
 事情を話すとトリスタンはすぐに出航してくれた。
 小さくなる島影を船の上から見つめ、ハナ・コールがぽつりと呟く。
「おかしら……やっぱりクラヴァットだったのかな」
「へ?」ペネ・ロペは目を丸くした。
「前々から、そういう噂があったの。おかしら、昔のことはあんまり喋らないから、あくまで噂だったんだけど」
 確かに他種族と違って、クラヴァットとセルキーの身体は似通った部分が多い。服装や体型に気を遣い、上手に相違点を隠せば区別もつかなくなるだろう。
「……そうなんだ」
 物憂げに風を受ける彼女を甲板に残し、ペネ・ロペは船室に入った。これから自分が話すことを、ルダキャラバンに聞かれないように。
「ハルトくん、ちょっといい?」
 船室でクロニクルを紐解いていた少年は、顔を上げた。
「あの手紙は、ティダの村に残ってた。文面からして、宛先は最後のティダキャラバンだと考えれば自然よね」
 早口でペネ・ロペが喋ると、ハルトが相づちを打つ。
「そして、あのボロボロの手紙は明らかに女性の筆跡で、ル・ティパさんと同じ癖があった……」
 それが指し示すところは明白だ。
「何年か前、セシルさんの孫娘ラシェちゃんから聞いたことがあるの。『おじいちゃんは黙ってるけど、昔キャラバンだったかも知れない』って。確かにお年を召してもかくしゃくとしていたわ」
 さらに、ル・ティパが温の民であった可能性が浮上した。ティダ村の悲劇に、引き裂かれた恋人たち——ペネ・ロペとハルトの行動は、彼らの眠っていた記憶を呼び覚ましたのだろうか。



 ティパの港に到着すると、ペネ・ロペはパパオにむち打ち、大急ぎで街道を駆け抜けた。すぐ後ろにはルダキャラバンの馬車がついてくる。
 ダ・イースたちとは、道中ほとんど会話がなかった。いつも陽気な彼らが、打って変わって消沈している。ペネ・ロペは胸を痛めた。それだけル・ティパは慕われていたのだろう。
 大陸を北上する途中で、一行はマール峠に立ち寄った。年の終わりが近づいて瘴気ストリーム属性が変わったため、ハーディの忘れ物に頼らずともアルフィタリア盆地に行けるのは幸いだ。
 峠についてすぐ、ペネ・ロペはセシルの姿を探した。
「あ、ラシェちゃん。おじいさんは……?」
 花壇の世話をしている孫娘を見つけ、声をかける。おもてを上げたクラヴァットの少女は、全身に色濃く疲労を刻んでいた。
「あなたはティパのキャラバンの。実は、おじいちゃんがいなくなっちゃったんです」
 隣にいたハルトが息を飲む。ペネ・ロペは唇を噛んだ。
「シェラの里のキャラバンと一緒に、いきなり出て行っちゃって。急いで手紙を書いたんですけど、おじいちゃんとはアルフィタリアで別れたみたいで……」
 今は水かけ祭りを終えたマール峠キャラバンに頼み、行方を捜索しているのだと言う。
「あたしたち、心当たりがあるの。必ずセシルさんを捜し出してくるわ」
 とペネ・ロペは請け負った。ルダキャラバンのためにも、早く二人を発見しなければ。彼女は使命感半分、焦燥感半分で行動していた。
 あの日、ティダの村から持ち帰ったボロボロの手紙は、思いもかけず大勢の人間を巻き込む事になった。その責任の一端は、ティパキャラバンの二人にあるのだ。



 ぬるい風が吹いた。
 あの手紙を見つけた木の根元には、二人の老人が寄り添うように眠っていた。セシルとル・ティパ——。
 やっとの思いで辿りついたティダ村の入り口で、ルダのクリスタルケージを見つけた。とにかくそれを持ち、急いで別の場所へ雫を取りに行くよう、ペネ・ロペはダ・イースたちを説得した。どんなにおかしらが心配でも、村全ての命には代えられない。ルダキャラバンは暗い顔をしていたが、すぐにきびすを返して一番近くのダンジョンであるジャック・モキートの館へと旅立った。
 彼らにもラシェにも、明るい報告は出来そうにない。
「こんなことって……」
 ペネ・ロペは口元を押さえた。自責の念が、後から後から沸いてくる。
(いいえ、本当に責任を感じているのは、たぶん)
 隣のハルトをそっと盗み見る。
 事件の発端は、彼がティダの村で手紙を見つけたことだ。ペネ・ロペが持ち帰ったそれをセシルが目にしたのは偶然だったけれど、ハルトがいなければル・ティパは手紙を読まなかった。責任を感じないはずがない。
 感情らしい感情を示したことのない彼でも、これはさすがに——
(あれ……?)
 予想に反してハルトの横顔は静かだった。夜よりも深い色の瞳を軽く見開き、決してこの日を忘れまいと、心に刻み込んでいるようだ。彼は事実を真正面から受け止めていた。
 ハルトは眠る二人に近づき、その手に握られていた真新しい手紙を取る。
『私たちは長い時を経て、ついに一緒になります。もう誰にも邪魔されることなく、永遠に……』
 癖のあるル・ティパの文字が綴られていた。
「責任」という言葉を、ペネ・ロペは考える。きっとあの老人たちも、何度も思い巡らせたのだろう。自分だけが生き残った責任、村に雫を持って帰れなかった責任。そうして背負った重すぎるものを、失われた故郷で果たそうとした。ペネ・ロペたちに記憶の奥底を刺激されて。
(あたしは、あたしとユリスなら——)
 手紙を拾った時、リーダーの責務についてユリシーズと話をした。あの時彼女は「自分だけ生き残るなんて嫌だ」と弱音を吐いたけれど、今この胸に湧き上がるのは、全く別の気持ちだ。
 自分は生きている。ティパの村も無事だ。だからこそ、彼らと異なる道を歩むことが出来る。
(あたしはユリスと心中出来ない)
 ペネ・ロペが強く感じたのは生への執着だった。
(やっぱり、あたしは我の民で、セルキーなんだ)
 セシルたちはクラヴァットだった。時に自己犠牲をも厭わない種族だからこそ、こういう終わりを選んだのかもしれない。
 私たちの生きる世界は、私たちにちっとも優しくない。瘴気に魔物、危険と隣り合わせのキャラバンの旅。それでも……いや、だからこそペネ・ロペは、起伏だらけの道を歩いて行きたいと思った。仲間たちとともに。
 真新しい手紙を胸に抱くハルトへ、ペネ・ロペはほとんど独り言のように話しかける。
「あたしは、責任を果たしたい。絶対に期日までに雫を持ち帰って、村のみんなにあたたかく出迎えてもらいたい。村長はさ、雫がとれなくても命だけは落とすなって言うけど……村も自分も、どっちも大切なものだから、失ったり出来ないよ。キャラバンは命を紡ぐ旅なんだから、片方だけを選ぶなんて絶対におかしい」
 常々「セルキーらしくない、温の民のようだ」と言われる彼女だが、今はっきりと自分に流れる血を自覚していた。雫も命も欲しいから、彼らのように美しくは死ねない。
 ハルトがかすかに息を吐き、ペネ・ロペはひっそり心の奥を燃やす。
 愛を貫いた二人の亡骸は、安らかな顔をしていた。



 ティダ村の悲劇の噂は風に乗って、大陸に広がっていった。マール峠で、ルダの村で、しめやかにそれぞれの葬儀が執り行われた。ペネ・ロペたちは悲しみに沈むラシェやルダキャラバンの姿を見ていられず、逃げるように村に帰った。
「何かあったのか、ペネ・ロペ?」
 思わぬ遠出から戻ってきた彼女にクラリスが訊ねても、
「村長に報告しておいたから、そっちから聞いて……」とろくに取り合ってくれない。
 そして、リーダーとともに今年最後の旅を終えたハルトは、心配する姉に一つの頼み事をした。
「えっ。魔法をもっと知りたいから、シェラの里に行きたい?」
 クラリスは腕組みをする。シェラの里といえば、遙か北のヴェオ・ル高地にあるユークたちの町だ。そこには学び舎があって、各地から集まった学生が日々研鑽を積んでいる。
「キャラバンの針路を決めるのは、リーダーであるペネ・ロペの仕事だからな。そこには関与できないが……そうだ、学び舎のリュクレール先生に紹介状を書いてあげよう。私はあの人にお世話になったことがある。シェラの里に行く機会があれば、役に立つだろ」
 ハルトは怪訝そうに眉根を寄せた。剣の道一本の姉が、魔法に手を出していたとはとても考えられなかったのだ。
「なんだよ。そんな顔するなら手紙を書いてやらないぞ」
「!」
「そうそう。いつもそうやって素直になれば、可愛いらしいのに〜」
 にやけるクラリスに全力でそっぽを向きたくなったが、ハルトは我慢した。
「それにしても、お前がこんなことを頼んでくるなんてな。理由が何にせよ、嬉しいよ」
 彼女がハルトに道を譲った目的も、その辺りにあるのだろう。見事に姉の術中にはまってるわけだが、ハルトは悪い気はしなかった。
 ティダ村の悲劇を繰り返さないためにも、彼はもっと魔法について学ぶ必要があったのだ。来年からも、キャラバンの旅は続くのだから。

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