第二章 エンドレス・ステップ



「不思議な液体」というものがある。
 飲むと苦味がこみ上げ、ぴりっとした刺激が舌を刺す。原材料は、様々な動植物のエキスをベースとして、魔石の欠片、ミルラの雫、少量の瘴気などなど。ユーク族に伝わる古代呪法によってつくられ、精神力と生命力を高める効果があると言われる。
 ある日、幼いユリシーズはそれを飲みながら、ふと疑問を抱いた。
 聖域の外は、どうなっているんだろう。
 クリスタルに守られた境界の先は、キャラバンや行商人、郵便モーグリといった限られた旅人たちしか歩くことができない。でも、この不思議な液体ははるか北のシェラの里で生産された。ものは容易に境を超えるのに、何故人は聖域に閉じ込められているのか。
 思い立ったら吉日ということで、さっそく彼はベル川に架かる橋を渡った。村の最北端であり、向こう側は瘴気渦巻く死の世界……そう理解してはいたけれど、実感してはいなかった。彼がまだ、深い思考能力を獲得する前の話だった。
 ある地点を超えたところで、急に息が苦しくなった。重くなる足を引きずりながら「これが瘴気かあ」とユリシーズはのんきに考えた。
 霞れゆく視界の中、最後に目にしたものは。見渡す限り、どこまでも続く草原だった。世界は果てしなかった。
 膝から力が抜ける。彼はぱたりと倒れた。
 ——気がつけば、すすり泣く幼なじみに囲まれていた。
「良かったあ、ユリス……!」
 ペネ・ロペは大粒の涙を流した。青空を背景に、可憐な顔を悲しみと安堵に歪めている。一命を取り留めたユリシーズは、彼女の膝に頭を預けていた。
「なんで聖域の外に出たりしたの!」
 いつも強気なクラリスまで、目の端を光らせていた。
 村の外へ飛び出したユリシーズを一番最初に見つけたのは、家族ではなくこの二人だった。いつものように彼を遊びに誘おうとしたが、どこにもいない。まさかと思って橋の方まで来てみたら……。倒れていた彼を交代で息を詰めて引っ張るのは至難の業だった。
 仮面に冷たい雫を受け、彼はかすれた声を出す。
「瘴気がどんなものか、知りたかったんだ」
「そんなことしてたら……いつか、死んじゃうよぉ」
 泣きじゃくるペネ・ロペの言葉に少し笑って、ユリシーズは体の力を抜く。
「ちょ、ちょっとユリスっ」クラリスは焦った声を出す。
「もうしばらく、このままでいさせて……」
 せっかくペネ・ロペの膝を独占しているのだ。すぐに起き上がってしまうのは惜しい。
 脳裏には、まだあの緑の世界が焼き付いていた。
 いつか、あそこを旅してみたい。何にも縛られず、自分の足で歩いてみたい。
 幼き日に抱いた夢は、その後キャラバンに入った彼をいつまでも支え続けた。



 今年も旅立ちの日を迎えたティパキャラバンのもとに、一つの驚くべき知らせが舞い込んだ。
「ヴェオ・ル水門奪還に失敗? アルフィタリアとシェラキャラバン、両方が!?」
 リーダーのペネ・ロペに届いた手紙を覗き込み、タバサ=クックが驚愕の声を上げた。今年はどこのダンジョンに挑戦するか、四人で話し合って大まかな方針を立てようとした、矢先のことだ。
 前年のはじめ、突如としてジェゴン川の水が干上がった。大陸を二分する大いなる流れが姿を消したのだ。上流のシェラ湖で何かあったのでは、とティパ村民は気を揉んだ。
 追って、シェラの里から通達があった。曰く「ヴェオ・ル水門のポンプフラワーが耐久年数を超えたため、ジェゴン川へ水を流せなくなった。西岸のファム大農場とはしばらく行き来ができなくなるが、一年で解決するので安心して欲しい」と。
 しかし、今年になってもジェゴンに水は戻らない。手紙によると、キャラバンが魔物の妨害に遭い、水門の奥まで入れなかったそうだ。
「どっちのキャラバンも優秀なのに……」
「水門か。そんなに強い敵がいたか? グリフォンに、ギガントードくらいだろ」
 ユリシーズは不思議に思う。確かに初めて訪れた時は苦戦を強いられたが、ミルラの木にたどり着けないほどではなかった。
「世界のモデルケースなんかにうつつを抜かしてるからよ」とタバサは顔をしかめ、
「シェラキャラバンはそうとしても、アルフィタリアは違うだろうな」
 ユリシーズは苦笑した。
「あたしたちで、行ってみましょうか」
 ペネ・ロペは仲間たちの顔を順繰りに見る。
「返り討ちに合うのがオチじゃないの」
 タバサは不満げだ。去年、戦闘において散々苦汁を飲まされた記憶が蘇ったのだろう。
「でも、ファム大農場キャラバンが心配だわ」
 ジェゴン川以西には高レベルのダンジョンが揃い踏みだ。いかな熟練キャラバンといえど、あそこだけで雫を採取するのはきつい。
「ダメだったら、すぐ逃げる。絶対に無理はしない。これでなんとか、ね?」
 どれだけ反対しても、こういう時のペネ・ロペは絶対に意見を曲げない。タバサは諦めたように肩をすくめた。
 かくして当面の目的地は決まった。
 遠出のために様々な準備をしていると、旅立ちの日はあっという間にやってきた。
 村人に見送られながら、四人は馬車を引いて、村の出口となる橋にたどり着く。クリスタルの聖域が途切れるギリギリの場所だ。
 村長のローランと夫人マレードが前に出てきた。毎年恒例、旅立ちにあたって有り難いお話をしてくれるのだろう。
「年かのう。ここに出てくるのも辛くなってきたわい」
 村長はそろそろ腰の調子が良くないらしい。ペネ・ロペは頭の片隅で、来年あたりは見送りも遠慮しようかな、と考える。
「世界から瘴気を晴らすと言って、村を飛び出した若者の話は前にしたな」
 これもおなじみとなった話題だ。いつも話のオチは「雫が採れなくても、ちゃんと村に帰ってこい」だが、キャラバンとしては若者の話自体に興味があった。
 若者は、外の世界で出会った、誰かと似ているのだ。
「……結局、あやつは帰ってこなかった。マグ・メルという場所から届いた手紙を最後に、音信不通という奴じゃ」
 結果は言わずもがなだろう。今も世界は瘴気で満ちている。
「マグ・メルって、おとぎ話の村ですか?」
「そうじゃな。どこまで本当の話かは分からないが……」
 マグ・メルは、カーバンクルという生き物が暮らす架空の村だ。瘴気を晴らすなんて大それた夢を抱えた人は、きっと想像力が凡人とは違うのだろう。
「最近、村々で人々を助けて回っている者の噂を聞く度に、もしやと思うが、まあ他人のそら似じゃろうな。あやつは、そんなことで満足できるような男ではなかったからのう。もっと、まっすぐなやつじゃったよ」
 村長は遠い目になる。
「じゃが、まっすぐならよいとも限らん。ちゃんと帰ってくるんじゃ。わしらが待っとるのは雫ではなくキャラバンの帰りなのじゃからな」
 マレードも言い添える。
「家族や友達だけじゃなく、私たちも気持ちは同じですからね」
「分かりました」
 しっかりと頷くペネ・ロペは、一年前よりも凜々しい表情を浮かべていた。
 四人は最後に、見送りに出てきた村人たちと別れの挨拶をした。
「……お父さんは、いないか」
 人々を眺め回し、ペネ・ロペはかすかに肩を落とした。タバサは家族に手を振りながら、
「リーダーのお父さんって、キャラバンに興味ないんだっけ」
「ええ。反対されたことはないけど、応援されたこともないわ」
 きっと今日も漁に出ているのだろう。分かっていても、寂しいものだ。
「うちも、な。来てない奴がいる」
 隣でユリシーズがぼそっと呟いた。
「ユリスの……お兄さんね」
 幼なじみの彼女は、よく知っていた。彼は兄と折り合いが悪く、窮屈な家から半ば逃げるようにキャラバンに参加したということを。
「まだ認めてくれないんだね」
「あれはなあ。もう一生無理だろ」
 実兄に関して、もはやユリシーズは諦めきっていた。タバサは複雑な事情を感じ取り、鼻をすんと鳴らす。
 キャラバンが村の聖域を抜けようとした時。群衆からクラリスが飛び出した。
「ハルト! その……シェラの里では気をつけろよ」
「?」ハルトは目をぱちくりさせる。
「いや、やっぱり何でもない。いってらっしゃい」
 どことなく挙動不審なクラリスは、にこっと笑顔を作った。
 村が見えなくなるまで馬車のそばを歩いてから、ペネ・ロペを御者台に残して三人は荷台に乗り込む。
「……せ、狭っ」
 タバサが顔をしかめた。今回は最初に遠くのダンジョンに挑むと決めたので、その分食料がかさばるのだ。
「それにしても多くないか。日持ちするものならいいが」
 と料理担当のユリシーズが点検して行く。やがて、ある袋を開いた彼は唖然とした。
「これ、全部しましまりんごか!?」
 革袋いっぱいに赤と黄色の鮮やかな果物が詰め込まれていた。タバサは一瞬で犯人を特定し、その背中を叩いた。
「ハルト、あんたの仕業でしょ!」
 彼は去年も旅立ちにあたり、大量にりんごを持ち込んでいた。少しむっとした顔でハルトが振り返る。
「食べきれなかったらどうするのよ。今からでも遅くないわ、減らしてきなさい」
「〜っ!」
「だって、じゃない!」
 タバサは後輩の頬をつねった。もはや言葉を交わさずとも、彼が何を言いたいのかだいたい把握できるようになっていた。
「ねーねー、何の騒ぎ?」出発したばかりなのに賑やかな荷台へ、ペネ・ロペが顔を出す。
「ハルトの奴がね、しましまりんごをいーっぱい積み込んでたのよ」
 タバサは唇をとがらせた。
「りんご? ああ、ハルトくん好きだもんね。いいんじゃないの。おうちの木から採れたのを持ってきたんでしょ」
 しかしハルトは首を振る。その理由は、ユリシーズが知っていた。
「いや、今年は違うはずだぞ。クラリスが木を枯らしてしまったと言っていた」
「え。うちの村でりんごの木って、あの家にしか生えてないわよね」
 リーダーはきょとんとした。タバサが身を乗り出す。
「もしかしてハルト、そのりんごって、アリシアからもらったんじゃない?」
 彼は漆黒の瞳を大きく見開いた。
「あの子がにやにや——じゃない、にこにこしながらりんごを持ってたの、見たもの。あれ、ハルトからもらったわけじゃなかったのね」
 当然、そこで疑問がわいてくる。
「じゃあアリシアちゃんは、どこでりんごを手に入れたの?」
「他の村から買ったんじゃないのか」
 あり得る話ではある。だが、それについてはハルトがはっきりと否定した。表情から察するに、本気で心当たりがないらしい。
 ペネ・ロペは腕組みし、
「にしても、りんごがたくさんか。あれが心配ね」ふっと目を細めた。
「あ、確かに」「あれが来るかもな」
 タバサもユリシーズも同意する。ハルトは首をかしげた。
「しましま盗賊団」
 と、三人が口を揃える。
「街道でたまに出没するの。紫の格好してるから、すぐに分かるわ」
「ボスはセルキーのバル・ダット。他にも、セルキーのじいさんメ・ガジと、モーグリのアルテミシオンがいるんだ」
 セルキーはともかく、モーグリまでメンバーに入っているとは。ハルトは目を瞠る。
「あいつらのお目当てはその名の通り、道行く旅人のしましまりんごなのよ」
 去年キャラバンが彼らと遭遇しなかったのは、単に運が良かったからだ。
「でも、被害がりんごですめばいい方じゃない。ミスリルとか盗まれた日には叩っ切りたくなるもの」
 タバサは物騒なことを口走った。ハルトからすれば、アリシアからもらった大切なりんごを奪われるなんて、冗談じゃない。
「盗まれるか、食べきるか、それとも腐るのが早いか。見物だな」
 ユリシーズは他人事のように笑っていた。



 街道の先から、賑やかな音楽が聞こえてきた。水かけ祭りの曲だ。思わず踊り出したくなるような軽快なメロディに誘われて、ティパ一行は幌の外に出た。
 あの馬車はルダキャラバンのものだ。切り株の上でハナ・コールがタンバリンを叩きながら踊っていた。
「おっす、ティパキャラバン!」
 ダ・イースは笛を吹く手を止め、声をかけてきた。
 去年の暮れより、随分と明るい雰囲気だ。ペネ・ロペは安堵に顔をほころばせる。
「素敵な踊りね」
 ハナ・コールは「ありがとー」と笑った。
「どうだ、一緒に踊っていくか? 一曲五十ギルでいいぜ」
「お金、とるの」
 タバサが驚くと、頭頂部の髪の毛がぴょこんと揺れた。
「当然だろ。さ、どーするよ?」
 ダ・イースは笛の上で指を泳がせた。
「んーまあ、水かけ祭りの練習だと思って……」ペネ・ロペはギルを渡した。
「そうこなくっちゃ」
 再び、曲が流れ出す。
 タバサは早くも楽しげに体を揺らし、リズムを刻み始めた。
「ほらほら、みんなも踊るんでしょ?」
「ハルトくんはどうするの」
 ペネ・ロペは後輩に手招きした。彼が踊る姿は見たことがない。
「……」少年はかぶりを振ると、近くの原っぱに座り込み、自分専用の日記帳を取り出す。スケッチでもするのだろう。
 こうしてハナ・コールと、ハルトを除いたティパの三人は踊り始めた。
 四人の中で真っ先に目を引くのは、リルティ族のダンスを披露するタバサだ。小さな体に秘められた強靱な筋肉を使い、早いステップからゆったりした動きまで、何でも柔軟にこなす。
 ペネ・ロペは持ち前の身の軽さを生かし、アクロバティックな宙返りを連続で決めた。同じセルキーでも、ハナ・コールとは全く違う踊りだった。二人は目配せし、タイミングを揃えて同じ振り付けを取り入れた。
 そして、ユリシーズは。
「!」スケッチしていたハルトの手が止まった。
 はじめ、彼は何故かだらりと腕を垂らしていた。足だけがタン、タタン……と拍子を取る。曲がループしたところで、大きな手が天に差し伸べられた。
「へえぇ〜」
 いつしかハナ・コールはダンスを止め、タンバリンを叩くことだけに集中していた。それほど、彼の踊りに心を奪われたのだ。魔法を詠唱する時もそうだが、ユリシーズの手の動きはなめらかで美しい。あらかじめ定められた軌跡をなぞるように、空気の中をすべっていく。
 ダ・イースはユリシーズの動きに合わせてメロディを変化させ、より場を白熱させた。観客気分のハルトもすっかり釘付けになっていた。
 あまりに長く続く旋律に、ペネ・ロペが、次いでタバサがギブアップした。
 永遠に終わらないかと思えたステップは、唐突に終止符を打たれる。ユリシーズが手をぴたりと停止させたのだ。
「とまあ、こんなものかな」
 息が切れた様子もなく、平然としている彼に、惜しみない拍手が降り注いだ。
「いやー、いいもん見せてもらったよ!」
 ルダキャラバンも大興奮だ。それでもギルはもらっていくあたり、ちゃっかりしていたが。
「そーだ。おかしらのこと、ありがとうね。去年お礼を言いそびれたわ」
 去り際、ハナ・コールが言った。ペネ・ロペはどきりとする。前年の水かけ祭り後に起こったティダ村の悲劇は、彼女の心に深く刻まれていた。
「ううん。たいしたことじゃないよ」
「それでさ、おかしらはどこに眠ってるんだっけ」
 ペネ・ロペはきょとんとしてハルトと顔を見合わせる。
「えと、お墓ならティダの村よ。思い出がある場所の方がいいからって。前に説明したと思うんだけど……?」
 ハナ・コールはぽんぽん、と自分の頭を数度叩いた。
「そうよね。変なこと聞いてごめん。なんか、あのあたりの記憶があやふやになっててさー」
「辛いことがあったんだもの、しょうがないわ」
 取りなすようにペネ・ロペは笑顔をつくったが、胸には一抹の不安を抱えていた。
 楽しいひとときを過ごしたルダキャラバンに、四人は感謝しながら別れを告げた。
 その夜、野営地にて。
 本日のクロニクルはハルトが担当していた。彼は迷いなくペンを動かし、踊るユリシーズを描いているようだ。横合いからペネ・ロペが近づく。
「ユリスはね、きっと踊ってる時が一番自由なのよ」
 ハルトは年代記から顔を上げた。
「ああやってくるくる回ることで、自分にまとわりつくいろんなもの——しがらみを解いていってるような、そんな気がするの」
 だからこそ、彼の踊りは人の心を動かす。仮面の奥に潜んだ憂いや悲しみを、最も綺麗な形で発散させるから。
「ユリスの家は、お兄さんが厳しい人でね。キャラバンにも反対されてるの。そういう面倒くさいことも、踊っている時は忘れられるのね」
 ペネ・ロペは翡翠色の瞳を閉じた。恋人ですら踏みいることの出来ない部分が、彼には存在する。あの優雅なダンスを見る度に、はっきりとそれを思い知らされる。
 すっかり沈黙した彼女の横顔を、ハルトは気遣わしげに見つめていた。



 しましま盗賊団の今日の獲物は、ティパキャラバンだ。
 ボスのバル・ダットは、茂みに潜んでじっと様子をうかがう。注意の欠けていることに、彼らは馬車を止めて、近くの清流で釣りに興じているようだった。
「どう、これが漁師の娘の底力ってもんよ!」
 ひときわ大きなさかなを釣り上げて、金髪のセルキーが騒いでいる。確か、彼女がこのキャラバンのリーダーだ。我の民らしくない性格で、バル・ダットが盗賊だとも気づかず、親しげに話しかけてきたことがある。
 他の仲間たちも、川で遊んでいるようだ。彼は後ろのアルテミシオンとメ・ガジに合図をして、走り出した。
 草むらから飛び出し、素早く馬車の中に潜り込む。すぐにアルテミシオンが、遅れてメ・ガジじいさんが。三人とも揃って紫のしましま模様の服を着ているので、とかく緑の背景からは目立つのだ。
「し、しましまりんごっ……こんなにたくさん!」
 アルテミシオンが歓喜の声を上げた。ボスはしいっと唇に指をあてる。気持ちはよくわかるが、今は盗むことが優先だ。
 袋からりんごをかき集めたバル・ダットは、仲間を振り返った。
「よしお前ら、ずらかるぞ——」
 ぺらり。紙のめくられる音がした。
 大きな荷物の影に隠れて、本を膝に乗せたユークの青年が座っていた。ボスの背中にどっと冷や汗が湧いてくる。
(や、やべえ)
 だがユークの体はピクリとも動かず、仮面は下を向いたままだった。もしかすると、眠っているのかもしれない。
 彼はホッとしかけたのだが。
「なんだ、早く逃げないのか? 俺の仲間が戻ってくるぞ」
 突然ユークが喋った。バル・ダットの肩が大きく震える。
「お前ら、先に行け」ボスとしてのプライドで二人を先に逃がし、自分はユークと対峙した。
「……それはどういう意味だ」
「俺はお前たちに干渉する気はないってことだ。まあ、ハルトは間違いなく怒るだろうが」
 後半はほぼ独白であった。
「情けをかけるってか?」バル・ダットは目の前が真っ赤になるような怒りを感じる。
「違う。単純に、どうでもいいんだ。むしろそんな生き方に……ちょっと憧れもする」
 セルキーの盗賊はきょとんとした。おおよそ智の民らしくもないことを言うものだ。
「自由に生き方を決められるのが、正直羨ましいよ」
 その言葉は、どことなく寂しい響きを持っていた。



「な、何これーっ。またしましまの奴らの仕業!?」
 晩ご飯のさかなを調達して、ほくほく気分で馬車に帰ってきたタバサであったが。荷物が荒らされ床にりんごが転がる光景を見て、愉快な気持ちはいっぺんに吹き飛んでしまった。
 彼女にとって、りんごが盗まれたこと自体は、大した問題ではない。自分たちのプライベート空間に、文字通り土足で踏み込まれたのが許せなかった。
「悪い、ちょうど居眠りしていて」
 ユリシーズは申し訳なさそうに頭を下げた。
「まあまあ、ユリスのせいじゃないわ。ちょっとデザートがなくなっただけで……痛っ、ハルトくん、つっつかないで」
 ほとんどの事象に薄い反応を貫くハルトだが、今回は完全におかんむりのようだ。子供のように不機嫌をあらわにしている。
「ハルト、殴るなら俺を殴れっ」
「いいえハルト、今すぐしましまに復讐しに行きましょ!」
 血気にはやる仲間たち。
「み、みんな落ち着いて……」
 困った顔になけなしの笑顔を貼り付けて、ペネ・ロペはその場をおさめるのだった。



 アルフィタリア盆地から西に瘴気ストリームを抜ければ、そこはヴェオ・ル高地。年間を通して涼しい土地で、ここにやってくると誰ともなしにくしゃみが出て、パパオのもふもふが羨ましくなる。
 千年ほど前、リルティの大陸支配に対してユークたちが反旗を翻し、大きな戦争が巻き起こった。戦は二百年も続いたが、双方疲弊していたこともあって、クラヴァットの仲裁により和解の運びとなった。
 戦争が終わると、武の民は街道を整備して旅人の安全を確保した。対する智の民は水門を築いてシェラ湖の水をジェゴン川に流し、豊かな大地をつくった。下流の平原は今「ファム大農場」という、クラヴァットたちの大農耕地帯になっている。
 そう、ここは大陸の平和を象徴し、約束のうるおいをもたらす地であった。
 ヴェオ・ル水門には種族の融和を祝福するようにミルラの木が生えたが、いつしか魔物たちが住み着き、今ではすっかりダンジョンと化している。
 タバサは馬車の中でも武器の手入れに余念が無い。その様子を眺めていたユリシーズは、
「随分熱心に準備するんだな」
「まあね。これが無駄に終わればいいんだけど」
 はあ、と嘆息する。彼女が愛用する武器は、かつてマール峠キャラバンから譲り受けた物だ。少しだけ不格好な槍が、幌の隙間から差し込んだ日の光を反射している。
 ハルトは寒さでかじかんだ手のひらを、何度も開いたり閉じたりしていた。
「着いたわよー」
 ペネ・ロペが、御者台から気の抜けるような声をかけた。馬車の中で思い思いに腰を休めていた三人は、顔を上げる。
 ——戦いの時だ。
 ヴェオ・ル水門はいくつものため池が段になって配置される、特殊な地形をしていた。しかしどのため池も、今ではすっかり空っぽになっている。
 入ってすぐ、四人は武器を持った蜥蜴人リザードマンと、冷気を操る巨大な蛙ギガントードからなる混成部隊に囲まれた。
 たちまち魔法の冷気があたりに吹き荒れた。ユリシーズが対抗して放ったサンダーがぶつかり、空気中に小さな氷の粒が舞う。
 意外に鋭い粒子に頬を切り裂かれながら、ペネ・ロペが走る。彼女を追いかけるようにリザードマンがメイスを振りかぶった。
「てやあっ」
 気合とともに、ラケットからダブルシュートを放つ。前年にカトゥリゲス鉱山で手に入れたレシピから「速さの護符」を作成したおかげで、ペネ・ロペは一呼吸もおかずに武器の持つ力を引き出せるようになった。
 打ちもらしたリザードマンは、タバサが地に叩き伏せる。
 やられっぱなしで黙っているティパキャラバンではない。装備を新調し、コンビネーションを高め、前年の失敗を乗り越えようとしていた。
 それに一役買っているのは、ハルトだ。キャラバン歴も二年目に突入した彼の手元では、ケアルの魔石が優しく緑の光を放っていた。もともと回復のタイミングは良かったが、輪をかけて上手くなったようだ。クリスタルケージの位置調整という重大な役割もしっかりと果たしていた。
(ここを攻略し終わったら、ルーンシールドをつくってあげないとね)魔法の射程を伸ばす防具はご褒美にふさわしいだろう、と考えるペネ・ロペだった。
 こうして魔物の群れを返り討ちにした四人は、誇らしげに目配せし合った。



 全員が持ち場についた。ユリシーズはそれを見届けると、
「じゃ、行ってくる」
 軽く息を吸ってから、瘴気の海へ飛び出した。
 ヴェオ・ル水門にはユークの知恵が詰まっている。すなわちシェラ湖から水を汲み上げる魔法植物ポンプフラワーであり、門を開くためのカギの隠し場所だ。
 まず枯れてしまったポンプフラワーにレイズをかけて水の供給を確保する。次に、付近にあるスイッチを踏む。すると、圧力により小さなため池から水が吹き出し、底からカギが押し上げられてくる。
 ただし、噴水とスイッチの間にはしばしば距離があった。ケージ聖域の範囲外だと、誰かが息を詰めて瘴気の中を走り抜けなければならない。水門を守るための仕掛けだろうが、面倒な話だ。
 ユーク族は瘴気に対する耐性が高いため(なにせ瘴気が混じった不思議な液体を好んで飲むくらいだ)、ユリシーズの出番となる。
 体を瘴気に侵されながらも、なんとか彼はカギを確保した。
「ハルトくん!」
 すぐにケージ係が動く。肩で息をするユリシーズが聖域に入った。
「毎回、こればっかりは慣れないわね……」
 見ているだけのタバサですらげんなりするような光景だ。
「私なんかは瘴気がすんごく苦手なんだけど、ユリシーズさんはどうなの? 痛くないの」
 ハルトにケアルを施された彼は、
「うーん……息が苦しくて、肌がぴりぴりするな。あんまり長い間瘴気の中にいたら、気絶するみたいだけど」
「えっ。まさか、試したの?」
 ユリシーズはしれっと頷く。
「大昔な。今より数段阿呆だったから、聖域の外に出たらどうなるか気になってさ」
 タバサは呆れてものも言えない。ハルトも唖然としていた。思慮深い今の彼からは想像も出来ない話だ。
「本当に大変だったのよ、あの時は……。クラリスと必死になって引きずってきたわ」
 寒気を感じ、ペネ・ロペは腕をかき抱く。
「あんなこと、二度としないでよね」
 じと目で見つめる恋人に、ユリシーズはからりと笑った。
「分かってるさ」
 カギで開いた門をくぐる前に、加速魔法ヘイストをかけようとペネ・ロペが提案した。ハルトはケージを地面に置いて、ケアルの準備をした。
「そういえば、なんで魔物の死骸は消えるんだろうな」
 始動役のユリシーズが、ふと疑問を呟いた。
「残ってたら怖いじゃない」とタバサが言う。何を当たり前なことを、という調子だ。
「でも、そのせいで素材がとれないこともあるだろ」
 目に入ったアイテムは根こそぎ奪って行く性分の彼は不満そうだった。
「え? あれって、瘴気に還ってるんじゃないの」
 困惑するペネ・ロペを、三人が振り返った。
「だって、倒れてから紫の煙が出るじゃない。それで瘴気になったんだって、勝手に思ってたんだけど」
「それじゃ、魔物は瘴気から生まれたって言うのか?」
「わ、分かんないよ、そんなの」ユリシーズの詰問調にびびるペネ・ロペ。
「確か、瘴気が発生してから百年くらい後に魔物が出始めたのよね。ありえなくはない話だけど」
「なるほど。だとすると、瘴気がなくならない限り魔物は消えないということになるな。そもそも、二千年前に隕石が落ちてきたせいで、瘴気が発生したんだろ。あれは——」
 ハルトはぼんやりと議論の行く末を見守っている。夢中で話し合う二人を前に、ペネ・ロペはちょっと涙目だった。
「へ、ヘイストかけようよ……」



 干上がったため池に殺到したグリフォンの処理に時間がかかったものの、一行は無事に水門の守護者・ゴーレムの元までたどり着いた。
「ボスのおともはウォータープリンよ。みんな、スロウ対策はいい? タバサは火か氷にも耐性つけておいてね」
 プリンというのは、バケツをひっくり返したような形の魔物だ。べたべたするアシッドブレスを吐いてきて、まともに浴びれば体を動かすのに不自由する。ジャイアントクラブの泡や、減速魔法スロウと似たような作用を持つわけだ。
 最終確認が終わり、一行はリーダーを先頭に決戦の地へと足を踏み入れた。
 目の前にある丸い舞台には、石材が散らばっていた。
「気をつけて、あれがゴーレムよ」
 キャラバンの気配を感じ取ると、石片が次々と組み上がって巨人を形作った。胸部のコアが赤く光り、侵入者を排除しようと動き出す。
 この魔法生物は元々、ユークの魔導師が水門を守るために配備したものだ。しかし主の死後に思考回路に狂いが生じ、雫を取りに来たキャラバンを敵と認識するようになってしまったらしい。
 豪腕を生かしたロケットパンチに、火や氷の属性を持った各種ビームが厄介である。
 ゴーレムの足下には、プリンが四匹もうごめいていた。タバサがボスに向かって行き、ペネ・ロペは雑魚の足止めを担当する。
「ファイガ!」
 出し抜けに、ユリシーズとハルトのマジックパイルが炸裂した。魔法の炎に包まれるプリンを、ペネ・ロペが次々と叩きのめす。
 ゴーレムは大きな上半身に比べ、笑えるほど頼りない足腰しか持たない。しかし術者から注がれた魔力に寄るものか、なかなかどうして素早かった。タバサはその体を捉えきれずにいた。
「ああもう、動かないでよ!」
 スロウ効果のある煙はアクセサリで無効化できるのだが、それでも追いつけない。ペネ・ロペが武器をバタフライヘッドに持ち変える。
「ユリス、魔法剣はどう?」
「行けるっ」
 ユリシーズのファイアに合わせて、ラケットキックを放った。相手の懐に入り込み、流れるような三連撃をお見舞いする。
「よし……!」
 戦闘は順調に進んでいた。ペネ・ロペは(どうして二つのキャラバンが失敗したんだろう)と考える余裕すらあった。
 前衛二人が足並みを揃えて一気に畳みかけようとすると、ゴーレムは両腕を振り上げた。
「あ」
 間抜けな声が出る。攻撃対象は、キャラバンではなかった。巨人の打撃は真下に向かい、床のタイルが勢いよく割れ散った。
 水を運ぶポンプフラワーの一部が傷ついたのだろう、タイルの割れ目からは水流が吹き出した。
「!」一番近くにいたハルトは頭から水を浴び、目を白黒させた。
 ゴーレムはキャラバンそっちのけで、でたらめな破壊活動を始めた。衝撃で足下はぐらぐらし、体重の軽いタバサなどは立っていられないほどだ。
「ちょ、や、やめなさいっ!」
 これがアルフィタリアとシェラの里、両キャラバン敗走の理由だ。ゴーレムは意地でもこの先に通さないつもりだろう。心を持たない石の巨人は、狡猾な知恵を備えていた。
「まずいな」
「リーダー、どうする!?」
 びしょびしょのハルトもペネ・ロペを見つめている。決断は素早かった。
「いったん退避するわっ」
 彼女をしんがりに、ティパキャラバンは撤退した。
 門のあたりまで戻ってきて、四人は地面に座り込む。地響きはもう聞こえない。
「まさか、あんな強攻策に出るなんて……」
 ペネ・ロペがため息をつく。
「石くれ相手じゃ、交渉も出来ないわよ」
「なんとか機能停止に追い込めないかな」
 三人は協議を始めた。ゴーレムを倒さない限り、復活させたポンプフラワーも再び枯れてしまうだろう。
 蚊帳の外だったハルトが、おずおずと手を上げた。
「どうしたの」
「……」
 彼は自分の日記を開いて、真っ白なページにさらさらとペンを走らせた。脇から三人がのぞき込む。内容は図解で示してあった。
「あ、これゴーレム? 相変わらず絵が上手いわね〜」
「こっちはペネ・ロペじゃないか。本人より可愛いな」
「ユリス……」
 恋人の心ない冗談に、リーダーはしょんぼりした。
「嘘だって」軽く笑いながら、ユリシーズは彼女の金髪をなでた。
 ハルトは作戦概要を描き終え、手を止めた。段々三人にも話が飲み込めてきた。
「つまり、ペネ・ロペさんはおとりってこと?」
「俺はこれで構わないぞ」
「いい作戦だと思う。ハルトくん、ありがとう」
 少年はいそいそと日記を閉じた。うっすら頬が赤らんでいる。
 作戦のために魔石の受け渡しが行われ、キャラバンは円形広場へと舞い戻ってきた。
 敵を感知して、ゴーレムが起動する。幸いにも先ほど倒したウォータープリンは復活していないらしい。
 注意を引きつけるため、ペネ・ロペはゴーレムの前へ飛び出した。
「ほーらほら、こっちだよ!」
 ラケットを頭上でぶんぶん振り回す。下手な芝居ね、とタバサは冷めた気持ちで見ていた。
 挑発に乗ったのかは不明だが、とにかくゴーレムは目標を彼女に定めたようだ。他の三人は息をひそめ、それぞれ魔石を準備する。
 ペネ・ロペは、ロケットパンチやアイスビームなどの危険な攻撃をひらりひらりと回避しつつ、ゴーレムを誘導していった。結果、一見するとため池のふちに追い詰められた形になる。
 日を遮る巨大な影を見上げて、彼女はごくりと唾を飲む。
「よ、よおし。計画通りね」
 ゴーレムが一歩踏み出したのを合図に、ペネ・ロペは大きく真横へ跳んだ。
 同時に、控えていた三人のマジックパイルが発動する。
「グラビガっ!」
 魔法で生じた重力が、片足立ちになったゴーレムをとらえた。バランスを崩した巨人が向かう先は、空っぽのため池だ。
 すさまじい音とともに、ゴーレムは転げ落ちていった。
「やった……」
 ペネ・ロペは激しく鳴る心臓を押さえた。おそるおそる確認した池の底には、バラバラになった石片があるだけ。作戦は大成功だ。
 恥ずかしそうなハルトも含めて、四人はハイタッチを交わした。
「これでアルフィタリアとシェラキャラバンに自慢できるわね〜」
「ミルラの雫も清々した気分で受け取れるな」
 疲労もどこかへ吹き飛んだ。彼らは軽い足取りでミルラの木までたどり着く。周囲の池が、美しいたたずまいを鏡面のように映していた。
 今年初めての雫が、クリスタルケージをほんの少し満たす。キャラバンは木を眺めながら近くに腰を下ろした。
「お手紙クポ〜」
 恒例の手紙タイムだ。すっかり顔なじみとなったモグがやってくる。
「はいはーい」
 ペネ・ロペはさっそく一行を代表して、二つのキャラバンへ自慢たらたらの手紙をしたためているらしい。
「最近、魔物が強くなってるよな」
 ユリシーズは妹への返事を書きながら、ぽつりと呟いた。
「……どういうこと?」
 ペネ・ロペが顔を上げる。
「俺たちがキャラバンに入って、もう六年目だぞ。最初の頃とは比べものにならないくらい、強くなってるはずだ。それなのに毎回、結構苦戦してるだろ。新人がいるかどうかは関係なく、な」
「私もそれ、考えてた。なんだか、ダンジョン攻略が一昨年よりも大変になってる気がするの」タバサも首肯した。
「やっぱり、そうなのかな」
 ペネ・ロペは不安そうに膝を抱えた。彼らの言う通り、魔物の数が増えて質が上がっていることは間違いないだろう。ただでさえキャラバンの旅に危険はつきものなのに、さらに悩みの種が増えるなんて、ちっとも嬉しくない展望だ。
「……」
 話を聞いていたハルトの顔にも、影が差す。
「シェラの里で、聞いてみましょう。何か分かるかもしれないわ」
 ペネ・ロペの提案に、三人は揃って頷いた。
 書き上げた便りをモグに託し、キャラバンは来た道をのんびり歩いて帰った。魔物を駆逐するのに時間がかかったため、すでに日は暮れようとしていた。
 四人は黙って水門を振り返る。オレンジに染まる湖面は、声も出ないほど綺麗だった。
「こんな景色をまた、みんなで見たいわね」
 ペネ・ロペは微笑んだ。誰の記憶にも、この日の出来事は深く刻まれたことだろう。

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