第二章 エンドレス・ステップ



「ティパのご一行、よくぞ参られた。この度はご苦労であった」
 針葉樹林に囲まれたユークたちの隠れ里シェラ。その入り口で、四人は村長ジェラームに迎えられた。
「いえいえ、キャラバンとして当然のことをしたまでです」
 とペネ・ロペは返したが、完全に頬が上気していて、ちょっと自慢げな声色だった。ヴェオ・ル水門開放の知らせは、すでにここまで届いていたらしい。
 彼女は水門攻略時に抱いた疑問を思い出し、村長にぶつけてみた。
「そうだ、ジェラームさん。最近魔物が強くなってるって噂、聞きませんか」
「ああ……。その話は、アミダッティからも伺っている」
 シェラキャラバンのリーダーだ。ユーク族きっての変人として有名だが、もちろんまともな事も言うらしい。
「去年のヴェオ・ル水門でも、ベテランの彼らが魔物に苦戦したとか。残念だが、原因は不明だ」
「そうですか……」
「判明したら、すぐに村の方へ知らせよう」
「お願いします」
 ペネ・ロペは頭を下げた。智の民にも分からないとなると、彼女たちになすすべはない。
「どうぞ、ゆっくりしていってくだされ」
 ジェラームは四人の労ををねぎらい、シェラ湖の上に浮かぶ集落へと光の橋を架けた。
 村の中心部には、淡く緑に光るクリスタルが据えられ、周辺には学び舎や大聖堂、アクセサリ専門の鍛冶屋などが点在している。空気はひんやりとしていて、南方出身のティパキャラバンにとっては少し肌寒い。
 旅人は「シェラの証」という通行証か、もしくはユークの存在がなければ、村に入ることすらできない。
 かつて戦争の時代、大陸の覇者リルティたちは集落を襲ってクリスタルケージを奪い、行動の自由を独占していた。シェラの里は外への道を閉ざすことで、その被害を唯一免れたらしい。
 シェラの証は里で購入するか、ヴェオ・ル水門に落ちているものを拾って入手する。水門に証をばらまいたのは、実は村長ジェラームの仕業だった。「証を必要とするキャラバンが魔物を退治すれば、水門の管理が楽になる」というのが理由らしい。ひょんなことで真実を知った時、ペネ・ロペは苦笑するしかなかった。
 里には宿屋というものが存在せず、旅人は大聖堂に付属した簡易宿泊施設に滞在することになる。ついでに酒場や食堂といった、ささやかな娯楽に興じられる場所もない。つくづく生活の臭いがしない村だ。
 割り当てられた部屋に荷物を置いたペネ・ロペは、大きくのびをした。
「さてと。あたしは地図でも見に行こうかな」
 ここには何百年も前の大戦時の文献など、貴重な資料が山ほど保管されていた。中でも彼女が多大な関心を示すのは、古い地図だ。自分の持つ新しいマップと見比べて、時代の流れを考察するのが楽しくて仕方ない。前回訪問した時もすっかり夢中になってしまい、学び舎にある資料室に連日通い詰めた経験がある。
 軽やかなステップを踏んで外に出ようとした彼女を、タバサが引き留めた。
「だめよ。ペネ・ロペさんは私とアクセサリつくりに行くの」
「なんで?」小首をかしげるリーダー。
「地図見に行くとか、色気なさ過ぎ。私たち女の子なのよ。ここの鍛冶屋のスピラーンさんって言ったら超有名なアクセサリ職人じゃない。行かない手はないわ」
 ティパキャラバン一の乙女の瞳はきらきら輝いていた。基本的にアクセサリは戦闘用のものとして考えているペネ・ロペは、
「この前、速さの護符をつくったばかりよ」
「アクセサリはたくさんあっても困らないわ。用途に応じて付け替えられるでしょ」
「そ、そうかな……?」
 言われてみれば、確かに耐性防具は多く種類を揃えた方が便利だ。
「決まりね。それじゃ、いってきまーす」
 にっこり笑うと、タバサは先輩を無理矢理引きずっていった。
 ユリシーズはそんな二人を微笑ましく見送った。
「俺、友達のところに顔を出してくる。ハルトは……行くところがあるんだな?」
 こうして四人は久々の自由行動を満喫することになった。
 一人になったハルトは、のんびりと里を歩いた。吹き渡る冷たい風が、肌に心地よい。彼がクリスタル広場にやってくると、
「私は考えているのです。ぐるぐる、ぐるぐると考えているのです」
 ユークの女性が突然声をかけてきた。他に聴衆はいないので、ハルトに向かって話しているのだろう。
「……」困惑を隠しきれず、ただただ女性を見上げる。
「失礼しました。ティパ村の方ですね」
 優雅にお辞儀をされた。よく見れば、彼女は正式に認められた魔術師であることを示す、特別な衣をまとっていた。
「私はエレオノールと申します。あなたがたの噂、アミダッティから聞いてますよ。彼は私の恋人なのです」
 アミダッティといえば、詐欺師ガーディから世界のモデルケースを買っていた人だ。一体どんな噂を流されたのだろう。
 二人は初対面のはずだが、彼女は一方的にハルトのことを知っているらしい。
「リュクレール先生に手紙を書いたそうですね。私は昔、先生に師事していました。紹介いたしましょう」
 エレオノールは、学び舎へ向けて彼の腕を引く。親切心で行動しているのだろうが、やや強引だった。ユークという種族には変わり者が多い。クラリスが出立の時に「シェラの里では気をつけろ」と言ったのは、このことだったのだろうか。
 今日は天気がいいので、校舎の前で青空教室が開かれていた。教壇の隣には魔法でつくられた天球儀がふよふよ浮いており、ハルトの目は吸い寄せられた。生徒はユークだけでなく、他の村からやってきたリルティや、クラヴァットの姿も見受けられた。
「先生は授業中でしたか。しばし待ちましょう」
 どうやら教壇に立っているユークこそが、かのリュクレールらしい。
 漏れ聞こえる内容だけでも、ハルトはわくわくしてきた。リュクレールは属性研究の大家だ。今日はホットスポットについて講じているらしい。属性のことは、去年のハーディの忘れ物騒動以来、ずっと気になっていた。
 残念ながら、ハルトが聞き耳をたてた途端に、授業は終わりを告げた。
「さあ参りましょう」エレオノールは落胆する少年を先導する。
 先生のもとにたどり着く寸前、予期せぬ出来事が起こった。
「クラリス!」
 何の前触れもなく耳に入った姉の名に、思わずハルトは立ち止まった。直後、誰かがどしんとぶつかってくる。
「!?」
 彼はびっくりした。気がつけば、見知らぬクラヴァットの青年に手をしっかり握られていたのだ。
「ずっと、ずっと待ってたんだぞ」
 年齢はハルトよりいくつか上だろうか。青年は訳の分からないことを口走ると、にじり寄ってきた。
「〜っ」ハルトは反射的に手をふりほどいた。
 ばくばくする心臓を押さえながら、青年を観察する。あちこち跳ねた柔らかそうな茶色の髪。満面に笑みを浮かべている。悪い人ではなさそうだが……。
 頼みの綱のエレオノールは「あらまあ」と他人事のように二人を見守っていた。
「あれっ。クラリスじゃ、ない?」
 青年は目をしばたたく。「そのまま立ち去って欲しい」というハルトの願いはしかし、聞き届けられなかった。
「いや、あいつに聞いたことがあるぞ。お前は確か——」
 ほとんど恐慌状態に陥った少年が後ずさりする分だけ、彼は足を前に進める。
「その辺にしておきなさい、ラケタ」
 暴走する青年をいさめたのは、リュクレールだった。ひときわ背が高く、高位の魔術師であることを証明する帽子を被っている。
「あ、リュクレール先生」ラケタと呼ばれた青年は歩みを止めた。
「先生、ハルトさんを連れてきました」
 やっと前に出てきたエレオノールは、師に向けて彼を紹介する。リュクレールは顎をしゃくった。
「ということだ、ラケタ。積もる話もあるだろうが、後にしてくれ」
 名残惜しそうにするラケタから、リュクレールは問答無用で少年を引き離す。ハルトはほっとして息をついた。どうやら、ラケタは姉とただならぬ関係にあったらしい。
 今、はっきりと分かった。クラリスが「気をつけろ」と言っていたのは、このことだ。
「分かりました……」不承不承頷いたラケタの隣で、「ハルトさん。いずれまた、お会いしましょう」エレオノールが優美に手を振った。
「それではあらためて。私がリュクレールだ」
 智の民の尊敬を一身に集める先生が腰を折った。ハルトも慌てて返礼する。
 クラリスが出した推薦状をきっかけに、彼はリュクレールと文通を続けていた。声が出ないという事情も伝えている。
「クラリス殿の弟だったな。年若いのに立派な書簡であった」
 正面から褒められ、彼は照れくさそうに頬を掻く。
「直接ここを訪れたということは、本格的に癒しの道を学ぶつもりなのだな。よし、それについては中で話そう」
 二人は学び舎の玄関をくぐった。廊下には歴代の主席学生の肖像画が並んでいる。先ほどのエレオノールもその一員だった。描かれているのはユークばかりで、時代によって仮面の形が変わるのが面白い。
 案内されたのは、リュクレールの私室だった。壁面は全て本棚に覆われており、床にはあふれた本が平積みされている。どこもかしこも、触れるだけで雪崩が起きそうだ。
 その狭間に置かれた来客用の椅子へ、ハルトはおそるおそる腰掛ける。
「ここで行われている研究の目的は、魔法や世界の根源を探ることだ。キャラバンの旅には直接役に立たないかもしれないぞ。それでも、いいのだな」
 ハルトは真面目な顔で首肯する。それこそ彼の知りたいことだった。
 この世界は、よく分からないことであふれている。瘴気がどこからやってきたのか、魔物はどうして現れたのか、ミルラの雫は何故生み出されるのか。当然とされていることほど、謎に包まれているようだ。
 彼はそういう疑問について、自分なりに答えを見つけたかった。単に「研究」ということなら、シェラの里にいる学徒よりも深く追究することは決して出来ないだろう。しかし、キャラバンの旅はそれらの謎と深く結びついている。旅の中での発見は、研究者にはない視点をもたらすのではないか。
 この動機には、前年の終わりに起こったティダ村の事件が、大きく関係していた。あのような悲劇を繰り返さないために、出来る限りのことをしたい。
「……そうか」
 みなぎる決意を感じ取り、リュクレールはひとつ頷いた。
「ならば訊ねよう。ハルト殿は、どうやって魔法を使っている? 魔石を持ち意識を集中させる時、どのようなビジョンを頭に思い描くのだ」
「?」
 ハルトは首をひねった。イメージと言われても、特に思い浮かばない。相手を癒したいという思いが高まると、ふっと魔力が解放される。
「レベナ・テ・ラの時代、人々は魔石を介さず魔法を扱っていた。しかし瘴気が世界にあふれると、それができなくなった。人々から何か、大切なものが失われたのだ——と我々は仮定している。
 今なされているあらゆる研究は、その失われた真理にたどり着くためのものなのだ」
 リュクレールは窓辺から植木鉢を持ってきた。
「たとえば、この植物。まだつぼみの状態だな。しかし、世界のことわりを理解すれば、ケアルの魔法によって花を咲かすこともできる」
「!」
 ハルトは目を丸くした。癒しの魔法は怪我を治すためのもの、と思いこんでいた。
「ヴェオ・ル水門では、枯れたポンプフラワーにレイズをかけて復活させただろう。原理は同じだ。ただ、あれは魔法でつくられた植物だからこそ、誰の魔法でも蘇った」
 十分に注意を引きつけると、リュクレールはティパ村では遊びに使うような、純度の低いケアルの魔石を取り出した。短い集中を解き放てば、みるみるうちにつぼみは成長していき、花心を覗かせる寸前でぴたりと止まる。
「……!」
 少年は息を飲んだ。師は大きな手で花に触れる。
「私の力は不完全だがな。本来、魔法とはこういうものなのだ。作用は自然界にも及ぶ。
 ——私は今、完全なる真円を想像した。魔石は純度が高いほど球体に近くなる。これが長年の研究で分かってきた、真理に一番近いビジョンだ」
 ハルトは瞬きもせず、花を見つめている。
「これは、宿題だな」とリュクレールは笑った。
 二人で植物をためつすがめつしていると、部屋の扉がノックされる。
「先生、入ります」
 やってきたのは、先ほど場を騒がせたラケタだった。
 ハルトの身が強ばる。ラケタはそんな少年の方を向いて、ぱっと頭を下げた。
「さっきはごめんな、つい興奮しちゃって。クラリスの弟なんだろ。おれ、あいつの知り合いなんだ。
 そうか……あいつ、引退してたのか」
 寂しそうな物言いだった。ハルトはぽかんとしている。
「実は、頼みがあるんだ。おれをファム大農場まで連れて行ってくれないか」
 リュクレールはふむふむと顎をなでた。
「里帰りするのだな、ラケタ」
「はい。故郷を離れてだいぶ経ちますし、やっとジェゴン川も開通したそうなので」
 そこでラケタは少年を振り返り、
「おれはあそこの出身なんだ。ハルト、どうかな」
「……」
 じっと考え込む彼に、ラケタは真剣なまなざしを注ぐ。
 ついに、ハルトは承諾した。
「やった! ありがとうハルト」
 嬉しそうに手を広げて突進してきたラケタを、さっとかわす。リュクレールは声に苦笑の響きを含ませて、
「ちょうどいい。ラケタ、デ・ナムのところに彼を案内してくれないか」
「えっ。おれがですか」青年は微妙に眉を曇らせた。
「デ・ナムの研究は独特だ。きっとキャラバンの旅の刺激になるだろう」
 あのリュクレールが一目置くとは、どんな人物なのだろう。名前からすると、セルキーのようだが。
「ではハルト殿。また来るのだぞ」
 師に見送られながら学舎を出る。思いもかけず、彼はラケタと肩を並べることになった。工房へ向かう間ずっと、隣の青年はうんうん唸っていた。
「デ・ナムか……鍛冶屋のスピラーン先生のお弟子さんだな。おれたち学生とはあんまり交流がないんだ。でも、研究内容は面白いと思う」
 ハルトは興味をそそられたが、
「あいつの研究? 会ったら教えてくれるさ」
 ラケタは話題をそらしてしまった。
「それよりも。積もる話がたくさんあるんだ。クラリスの話とかクラリスの話とかお前の話とか!」
 きらめく双眸に見つめられ、ハルトは動揺した。必死に目をそらした先に、偶然にもそれらしきセルキーの姿がある。
「おっと、あいつがデ・ナムだな。一緒にいるのは——」
 これ以上ラケタに付き合っていられない。少年はこれ幸いと駆けだした。
「ちょっと、待てってば〜!」



 シェラの里を訪問する度、ユリシーズは必ずある場所に寄っている。パーティ解散で手持ち無沙汰になると、すぐに町の外れへ足を向けた。スピラーンの工房の脇を抜けた、さらに奥。静かな里の中でも、輪をかけて人気がない場所だ。
 折しも、一人のセルキーが木箱に座り、風にあたっていた。紫のバンダナで水色の髪をまとめている。学生というよりも研究者といった風体だ。
「デ・ナム」
 ユリシーズが声をかけると、彼はゆっくり頭をこちらに向けた。
「なんだ、ユリスかよ。久しぶりだな」
 そのあだ名を許可しているのは、家族や幼なじみなどごく親しい人物だけだ。無愛想なデ・ナムはこれといって再会を喜びはしなかったが、口元をうっすら緩めた。
「お前もキャラバン六年目、だよな。よくやるぜ」
「まあ、調子はぼちぼちだな。そっちはどうなんだ」
 デ・ナムは我の民ながら、ユークたちに混じって研究をしている。ユリシーズが水を向けると、彼は端正な顔を歪めた。
「どうもこうも、まるきり進展がねえよ。何年もここに篭って勉強してきたけど、もう限界みたいだ。
 オレもキャラバンだったらなあ。村の支援を受けて自由に外を歩けるなんて、研究し放題じゃねえか」
 対するユリシーズは、静かに眼下のシェラ湖へ視線を投げた。
「……キャラバンもそこまで自由じゃないさ」
 聞き返すのがためらわれるような独白だった。
 こういうとき、デ・ナムは深入りしない。その適度な距離感を、ユリシーズは心地よく思う。
 デ・ナムは素知らぬ顔で話題を変えた。
「オレ、里を出ようと思うんだ」
 ユリシーズはぴくりと肩を揺らす。
「それはまた、どうして」
「実地で試してみたいことがある」
 彼の瞳は爛々と輝いていた。研究に熱意を燃やすのはいいことだが……ユリシーズは漠然とした不安を感じた。
「実地ってあれか、瘴気ストリームとか?」
「ああ。そんなところだな」
 デ・ナムは何か隠している——ユリシーズは確信した。
 しかし気の合う友達とはいえ、デ・ナムとは年に一回会うか会わないか。人生に関わる大問題に、自分ごときが軽々しく口を出せるわけがない。
 ユリシーズ自身、他人に悩みを相談するのは苦手だった。出来ることといえば、デ・ナムの身を案じることだけ。
「……気をつけろよ」
「おう」二人は軽く拳を付き合わせた。
 その後ぽつぽつ会話していると、小気味よい足音が近づいてきた。
「ハルト! こっちだ、こっち」
 ユリシーズが手招きした。里を散策しているうちに、ここへたどり着いたのだろうか。怪訝そうにしているデ・ナムに向けて、後輩を紹介する。
「こいつはハルト。新しいキャラバンの仲間だ。で、こっちはデ・ナム。瘴気の研究をしてるんだよな」
 ぺこりとお辞儀する少年を見て、デ・ナムの記憶の引き出しが開く。
「……お前、誰かに似てるな?」
「クラリスの弟だよ」
「ああ、あの暴力女!」
 彼は合点がいったように手を叩く。ユリシーズは含み笑いし、「暴力女」の弟は瞳に複雑な色を浮かべた。
「そうだ。お前の研究内容、話してやれよ」
 ユリシーズは隣の学者を肘で小突いた。親しげな二人をハルトはしげしげと見やる。
「おうよ。オレはな、クリスタルなしで旅をする方法を探しているんだ」
 自慢げに言うデ・ナム。少年は漆黒の目を大きく見開いた。
「余計な心配なんてせず、気の向くまま世界を旅してみたいだろ? この研究が上手くいけば、クリスタルに頼らずに生活できるようになる。そしたら、キャラバンの旅そのものが必要なくなるんだ。余計な苦労がひとつ減るわけだ。魅力的な話だろ」
 かつては猛毒の大気に触れるとあらゆる命が死に絶えた。だが今は種族差はあれど、少しだけなら耐えることが出来る。瘴気が薄くなったわけではない。人々は徐々にこの環境に慣れてきているのだ。デ・ナムは、瘴気を取り除くことが出来ないのなら、自分たちがこの世界に順応してしまえばいいと言っていた。
 キャラバンが必要とされない世界は、レベナ・テ・ラのような理想郷かもしれない。しかし、ハルトはそれを素直に信じることが出来なかった。旅の目的を否定されたように感じたからだろうか。いや——瘴気という歪みは、自分たちとは本質的に相容れないものだと、彼は思っていた。ティダ村の一件はまだ、心の底にわだかまっている。
 胸のあたりにそっと手をやる少年の隣で、ユリシーズは朗らかに笑った。
「クリスタルに頼らない自由な旅……いいよなあ。期待してるぞ、早く夢を叶えてくれよ」
「任せておけ」
 楽しげに言葉を交わす彼らには、ハルトとは違う景色が見えているのだろうか。頼れる先輩が、いつになく遠い場所にいるようだ。
 少年は決心して、ポーチから何かを取り出した。デ・ナムに渡す。
「なんだこれ……しましまりんご? 餞別ってことか」
 ユリシーズは呆れた。
「お前、知り合いには誰彼構わずりんごを渡すのに、盗まれたら怒るんだな」
 ハルトは首をかしげた。彼としては、当たり前のことだった。
「有り難くもらっておく。また会うことがあれば、よろしくな」
 デ・ナムの台詞には、その内容と正反対のものが含まれているようだ。ざわりと少年の胸が騒ぐ。
「ああ、また」
 ユリシーズが明るく応じた。
 ハルトは気づいてしまった。かわした約束と裏腹に、二人の道はこの先、決して交わらない。彼ら自身もそれを悟っている……。どうしてだろう。ペネ・ロペが語っていた、ユリシーズの抱えるしがらみと何か関係があるのだろうか。
 近いうちに、デ・ナムとは思わぬ形で再会を果たすことになる。



「というわけで、よろしくお願いしますっ」
 ラケタはティパの四人と向かい合い、丁寧に頭を下げた。
 デ・ナムとの会話を終えたユリシーズとハルト、そしてウィンドウショッピングを思う存分楽しんだペネ・ロペとタバサは、大聖堂の一室に勢揃いしていた。ハルトが連れてきた、同乗希望者を迎えるために。
 何故かすっかりくつろいだ様子のラケタは、キャラバン年長組へ笑いかけた。
「ええっと、ユリシーズとペネ・ロペだったよな。久しぶり」
「知り合いなの?」タバサが青色の目を丸くした。
「三年くらい前かな、いろいろあったのよ。まさか、ラケタくんと一緒に旅することになるなんて、ねえ」
 回想に浸るように、ペネ・ロペは視線を遠くに飛ばした。
「うん……いろいろ……あったよな」
 合間合間の沈黙に様々な意味を含ませながら、ユリシーズは何度も頭を上下させる。
「えーどういうことよ、気になるぅー!」
 タバサはじたばたした。この青年は先輩二人と同年代のようだが、一体どんな関わりがあるのだろう。
「そうだな。ハルトだって、知りたくて知りたくてたまらないはずだ」
「……」
 ユリシーズにからかわれ、後輩はむすっと頬を膨らませた。ペネ・ロペはさらりと髪をかき上げて、
「ラケタくん。クラリスのこと、話してあげたら」
「いいよ。じっくりたっぷり、聞いてくれ」
 一呼吸置き、彼はもったいぶって口を開いた。
「これが、おれと彼女の『運命』の物語だ」



 三年前、今年と同じようにヴェオ・ル水門を攻略したティパキャラバンは、戦いの疲れを癒すためシェラの里に滞在していた。当時はハルトの代わりにクラリスが所属しており、またタバサの先任であるリルティのルイス=バークがリーダーを務めていた。
 三日の予定だった滞在期間はしかし、大幅に伸びてしまった。ヴェオ・ル高地がちょうど雨季にさしかかっていたのだ。整備された街道も泥の中に沈み、まともに馬車が動ける状態ではないという。
 こうして盛大に暇をもてあますことになった四人は、各々の興味の赴くままに行動を始めた。ルイスは生業である錬金術を勉強するためその道の巨匠に師事し、ペネ・ロペは図書室に眠っていた古い地図を片っ端から頭に焼き付け、ユリシーズは知り合ったセルキーの学者デ・ナムと友好を深めていた。
 と、他の三人はそれなりに楽しく雨の日を過ごしていたが、クラリスだけは連日大聖堂でぼうっとしていた。
 自室に閉じこもる彼女に、幼なじみたちが心配して声をかける。
「クラリスー、そんなにじめじめしたところに引きこもってたら、キノコ生えちゃうよ」
 テーブルに突っ伏したクラリスはもごもごと反論する。
「うるさい……雨は嫌いなんだ、外に出られないし、ストレスは溜まるし」
「農家的には恵みの雨だろ」
 ユリシーズが家業に引っかけて茶化したが、クラリスは遠い目になる。
「ふっ、農家か。ハルトはどうしてるかなあ」
 母と二人で実家を支えているはずの、弟に思いを巡らせる。
 ペネ・ロペたちは顔を見合わせた。いつもキャラバンを元気に引っ張っていく彼女がこうも後ろ向きだと、調子が狂ってしまう。ちなみに、当時の二人はまだ恋人同士ではなかった。
「ねえクラリス。気分転換に、学び舎に行ってみない?」
「あそこのリュクレール先生は、属性研究の分野では大陸で右に出る者はいないと言われる人だぞ。きっと魔法について教えてくれるんじゃないか」
 クラリスは思いっきり眉を寄せた。
「魔法ぉ〜? 二人が行くべきだろ、それは」
「何言ってるの。クラリスが苦手な魔法をマスターできたら、ハルトくんにも自慢できるでしょ!」
「そうだそうだ。弟だって嬉し涙で溺れるかもしれないぞ」
 当時はろくにハルトの性格を知らなかったので、二人は言いたい放題だった。
 少しは悩む素振りを見せるかと思いきや、クラリスはぱっと顔を輝かせた。
「ふむ。悪くないな」
 こうして学び舎の学生だったラケタと、たまたま見学に来たクラリスが出会うことになった。
 ラケタがのちに語った第一印象は、「温の民にしてはずいぶん度胸があるなあ」。何しろ目撃したのが、彼女の居眠り姿だったのだ。
 キャラバンに所属する者が授業の見学に来ることは珍しくない。だから、長い茶髪を垂らした彼女が同じ教室にいても、これといって目を惹くことはなかった。本来ならば。
「……ぐうぐう」
 クラリスは机に伏せていた。明らかに眠りに落ちている。しかも、リュクレール先生の目の前で。
 同じクラヴァットながら、ラケタには考えられないような剛胆な態度だ。彼は後ろの方の席から、ぴくりとも動かない大地色の頭をまじまじと観察していた。
 明くる日もそのまた次の日も彼女は教室に現れて、その都度気持ちよさそうに眠りの国に旅立った。リュクレールは諦めているのか、一向に起こそうとしない。ラケタは彼女のことが気になって仕方なかった。
 ある日の授業後、彼はついに勇気を振り絞って話しかけた。
「あの……教科書貸そうか?」
 クラリスはまだ眠そうに目をこすっており、いまいち状況が把握できていないようだった。
「きょーかしょ?」
 切れ長の瞳で無遠慮に見つめられ、ラケタはどきっとする。
「い、いや。いつも疲れてるみたいだからさ。授業に追いついてないんじゃないかと思って」
「ああ。私には向かないらしいな」
 その美貌に似合わないざっくばらんな物言いだったが、不思議とラケタは心地よさを感じた。
「そ、そうなのか」
「気遣いはありがたいが、教科書を見せられても、分からないものは分からない」
 なんだかリルティのようにさっぱりした性格である。にこっと微笑むクラリスに、ラケタはすっかり心を奪われていた。
 二人は横に並んで廊下を歩く。
「おれ、ラケタ。友達に誘われて、ファム大農場から留学してきたんだ」
「私はクラリスだ。ということは、ラケタの家は農家かな」
「ああ。果樹園だけど……おれは次男だから家は継がずに、学び舎で魔法を農耕に生かす方法を探してるんだ」
「魔法を農業に?」
「いや、これは願望なんだけどさ。自分で戦うわけじゃないし、魔法を別のことに使いたいんだ。クラリスはキャラバンだから、学び舎に来たんだろ?」
 ほんの一瞬、彼女の目が泳ぐ。
「……まあ、な。私の家も農家だよ。小麦を作ってる。ティパの村の、小さな家だけど」
「へえー奇遇だな!」
 故郷こそ違えど、種族も親の職業も同じとなれば、否が応でも話が弾む。二人は実家の話題で盛り上がった。
 気が付けば学び舎の玄関先にたどり着いていた。相変わらず、雨は鬱陶しく降り続いている。
 クラリスは暗い雲を見上げ、頭を掻いた。
「あ。傘、忘れた」
 ラケタは驚いて目を見開く。
「えっ! まだまだ雨季は続いてるぞ」
「朝晴れてたからなあ」
 彼女は悪びれもしない。そんなところもまた素敵だ、とラケタは思った。
 ひとつ決意を固めた彼は、自分の持ってきた傘を差し出した。
「クラリス。この傘を貸す代わりに、頼みがあるんだ」
「う、うん……?」その意図を察し切れていないクラリスは、とりあえず相づちを打つ。
 ラケタは勢い込んで彼女の手を取る。
「おれと結婚して下さい」
「!?」
 思わぬ告白に面食らい、しばらく胸の中で台詞を繰り返し——やっと意味を飲み込んだクラリスは、
「な。な、な……! 冗談だろっ」
 顔を真っ赤にして叫んだ。しかしラケタは大真面目だった。
「冗談じゃないさ。家族のことが心配なら、おれが婿養子に入るから!」
「そういう問題じゃない。いくらなんでも唐突すぎるんだっ。大事な段階をいくつもすっ飛ばしてるだろ。くそ、何故こうなった……」
 動揺して足がふらつく。無下に断ることも出来ず、彼女は煩悶した。
「あのな。私はラケタのこと、ほとんど何も知らない。それはお前だって同じはずだ」
「これから知ればいいさ」
 即答され、クラリスは少しの間押し黙る。
「だ、だいたい、私のどこがそんなに気に入ったんだよ。全部とか言ったら斬るぞ」
 脅し文句にもラケタは全くひるまず、むしろ瞳をキラキラさせた。
「クラリスはさ、授業が分かんないって言うのにちゃんと出席してるだろ。普通なら二度と来ないよ。それに毎回最初の方は、がんばって聞こうとしてるじゃないか。それはきみが本当はいい子だからだよ」
 随分と偏った見解だが、そこにありありと表れるのはストレートな好意だ。クラリスは耳まで熱くなる。
「どっどこまで観察してるんだよ。部屋にいたら仲間がうるさいから出てきただけだ。——と、と、とにかく。今、返事はできない!」
 思いっきり叫んで、自分の声の大きさにぎょっとする。彼女の肩はぶるぶる震えていた。
「それじゃあ前向きに考えてくれるんだな。良かった。また今度、返事を聞かせてくれよ!」
 太陽を思わせる笑みを浮かべ、ラケタは彼女に傘を押しつけると、雨の中を走って行った。
「あ、ちょっと……!」止める暇もない。
 クラリスは空を仰ぎ見た。今なら体の熱で雨粒も蒸発させる自信がある。
「私の方が雨に当たりたい気分だよっ」
 翌日、彼女は学び舎に行かなかった。
 部屋で布団をかぶって沈黙する幼なじみを、ペネ・ロペとユリシーズは訝しげに見やった。
「どうしちゃったのかな、クラリス。毎日しっかり学び舎に通ってたのに」
「飽きたにしては反応がおかしい。よほど、行きたくない理由ができたのか」
 大聖堂の共用スペースで話し合う二人のもとに、訪問者がやってきた。
「あの、ここにクラリスって名前の人はいませんか?」
 茶色の髪を持つクラヴァットの青年を見て、二人は同時に確信した。彼こそ、クラリスが寝込んだ原因であると。
「いますけど、何の用ですか」
 と訊ねた時、タイミングの悪いことに、部屋から噂の人物が出てきた。
「すまないペネ・ロペ、ラケタって奴が来たら追い返して——げっ」
 当の本人を発見し、彼女はたちどころに引っ込んだ。
「クラリス……っ」
 ぴしゃりと音を立てて閉められた扉へ、ラケタは何やら切なそうな眼差しを向けた。もちろん、ペネ・ロペたちは非常に興味をそそられた。
「もしかして、訳ありなのー?」「俺たちで良ければ、話聞くけど」
 と(表面上は)優しい言葉をかけてくれる二人に、ラケタは感激したようだ。
「助かるよ。実はさ——」
 だいたいの事情を伺った二人は、驚きを隠せなかった。目の前の青年の飛び抜けた積極性にも、クラリスが彼の心を射止めたという事実にも。幼なじみたちのよく知る彼女は、父親譲りの温の民らしからぬ冷たい容姿を持っている。見た目だけで評価するならランクは高い方だろう。だが例のごとく性格に難があり、これまでナンパの類は自然と両脇を通過していた。
 驚愕から冷めたペネ・ロペは、唇に人差し指を当てた。
「クラリスって、そういうアプローチに慣れてないからね。びっくりしちゃったんだよ」
「でもおれ、あいつが授業で居眠りしてる姿を見ないと、どうも元気が出なくて……」
「あいつ居眠りしてたのか」
 ユリシーズは呆れ返った。ふざけた態度をとったクラリスはもちろん、「元気が出ない」と言い切ったラケタに対しても。
「うーん、とりあえず、クラリスがどうしたいのか聞いてみるね」
 ペネ・ロペは彼女の部屋をノックした。扉越しにくぐもった声が響く。
「どうって言われても。そもそも、何故私がこんな目にあっているか、分からないんだよ」
 まるで帰り道を見失った子供のように、困り果てている。いつもはどんなことでも、すぱすぱ決断を下すのに。
「その辺も含めて、直接二人で話せばいいじゃない」
「こっぱずかしくて顔なんか合わせられるか!」
「じゃ、おれと文通しよう! それしかない」
 突然ラケタが割り込んできた。扉の向こうで、クラリスがもぞもぞ動く気配がする。
「……! 文通、だと」
「そう。おれ、クラリスに会えなくても我慢するからっ。キャラバンの旅だってあるんだし、手紙のやりとりなら気楽だろ?」
 この提案に、クラリスは大きく心を動かされたようだ。これ以上の好条件が望めるとも思えない。事実、ラケタからすると精一杯の譲歩だろう。
「む。別に、そのくらいなら応じないことはない」
「代わりにさ、次会った時は返事を聞かせてくれよ」
「……分かった」
 ついに了承をもらったラケタは、晴れやかな笑顔で二人を振り返った。
「いやーありがとうな二人とも! ええっと」
「あたしはペネ・ロペ、こっちはユリシーズよ」
 自己紹介の間にも、ラケタの足は大聖堂の外へと進む。
「そっか。また世話になるかもな。じゃ、おれ行くよ。一刻も早く手紙書かないと!
 二人も、仲良くな」
「う、うん?」きょとんとするペネ・ロペ。ラケタは不思議そうに、
「えー、お前らあれじゃないの、付き合——」
 ユリシーズがとっさに大声を出した。
「いいからさっさと帰れ!」
 その反応で、ラケタは事情を察したらしい。にやりと笑う。
「あーそういうことか。了解、それじゃまたな」
 軽くスキップしながら、訪問者は大聖堂を後にした。
 ペネ・ロペは、頭を抱えた幼なじみを見る。
「ユリス、いきなりどうしたの」
「なんでもない……」
 彼女の鈍感さについては、とっくの昔に諦めているユリシーズであった。まさか、初対面の人物に見抜かれるとは——一生の不覚だ。
 当然彼の苦悩にも気づかず、ペネ・ロペはラケタが去って安堵しているであろう親友へ、扉一枚挟んで問いかける。
「ところでクラリス、返事って何のこと?」
「……絶対教えない」彼女はかたくなに答えを拒んだ。
 やがて雨季は終わり、ティパキャラバンはシェラの里を去った。ラケタはきちんと約束を守って、見送りすらも我慢した。
 それ以来、時折交わされる手紙だけが二人を繋いでいた。



「そんなわけで、お前を見つけたとき、クラリスかと思って思わず抱きしめたくなったんだ。その、悪かったよ」
 話を聞かされたハルトは身震いした。想像するだにぞっとする光景だ。
「でも、あいつはキャラバンをやめたんだよな。おれ……知らなかった。あの返事はもう、聞けないってことだよな」
 諦めたように目を伏せるラケタ。ハルトは俯き、じっと考え込む。
 一方外野は、好き勝手に感想を述べた。
「ふうん……クラリスさんってば、やることやってたのね」
「ちょっとタバサ、やらしい言い方しないでよ」
「まさかプロポーズされていたとは。そんな楽しそうなこと、独り占めしてたのかよ」ユリシーズの不平はどこか観点がずれている。
 ラケタは三者三様の反応に苦笑いした。
「ははは。もう、終わった話だけどな。話したら喉渇いた。ちょっと水もらってくる」
 その後ろ姿を見届けて、タバサは下を向いたままのハルトに駆け寄った。
「あんた、これでいいの」
 彼はゆっくり首を持ち上げる。
「このまま放っておいたら、きっとラケタさん諦めちゃうわ。そうなると一生、クラリスさんはお嫁に行けないわよ!」
 タバサの力説に、ペネ・ロペは「そ、そこまで言うことないんじゃないの……」と弱々しく口を挟んだ。
「だって、あの剣聖に声をかけて、求婚してくる男性なんてあの人以外いないでしょ。しかも実家も学歴も申し分なし! こんな話、逃す手はないわ」
 正直に言うと、はじめタバサは「運命」などという都合のいい論理を持ち出すラケタの性格が気にくわなかった。しかし長い長いなれそめ話を聞いた後では、すっかり二人を応援する気持ちになっていた。
「……!」
 彼女の熱気にあてられ、ハルトは力強く頷いた。
 やる気に満ちた年少組に、幼なじみたちも負けてはいられない。
「もちろん、あたしたちだって手伝うよ! ねえユリス」
「おうよ。照れるクラリスをおちょくりまくるチャンスだな!」
 その日はラケタが寝てしまってから、四人は夜遅くまで作戦会議を繰り広げた。

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