第二章 エンドレス・ステップ



 レベナ平野へ続く瘴気ストリームの前で、四人はスティルツキンと再会した。
「お久しぶりです」
「よお。元気にしてたか」旅好きモーグリは、相変わらずあちこちを周遊しているらしい。
「……まあ、それなりに」
 とタバサは言葉を濁した。彼女を含め、四人はどうも浮かない顔をしている。
「何かあったのか?」
「スティルツキンさんは、しましま盗賊団って知ってますか」
 辛そうに唇を歪め、ペネ・ロペはメ・ガジの顛末を説明した。スティルツキンは、顔のパーツをぎゅっと真ん中に寄せて渋面をつくる。
「……そうか。よくよく、心に刻んでおくよ」
 モーグリという種族は、本質的に人間が好きなのだろう。彼は老人の末路に心を痛めたようだ。
「スティルツキンさんは、レベナ平野に用ですか」
「いや、そういうわけでもないんだが——ユリシーズ、ちょっといいか」
 長身のユークを捕まえて、スティルツキンは声をひそめた。
「デ・ナムの話は聞いたな」
 仲間たち三人は秘密の話と見て、知らんぷりしているようだ。彼は頷いた。
「里から出て研究を続けてるってことなら、知ってます」
 情報通のスティルツキンだ、ユリシーズがセルキーの研究者と仲がいいのは先刻承知だろう。
「前に一度、見かけたんだ。あいつ、瘴気の中でじっと耐えているんだぜ? 本人曰く、クリスタルなしで旅をする研究だって言ってたけどよ。オレには、無謀なことをしているとしか見えなかったね」
「そう、ですか」
 ユリシーズは短く相づちを打つ。
「そのデ・ナムが、近々こっちの方へ研究に向かうって聞いたんだ。この先なんてダンジョンしかないだろ。いいのか、あいつ、放っておいたら——」
「俺には口を挟む権利はありませんよ」
 ぴしゃり、と言い切る。スティルツキンは押し黙った。
「そうかもしれないが。メ・ガジの二の舞になることだけは、避けろよ」
「……はい」
 ユリシーズはスティルツキンの配慮に感謝し、こうべを垂れた。最近、ハルトが何かに勘づいたようで、しばしばこちらに目線を送ってきている。あまりおおごとにはしたくなかった。これはデ・ナムの夢であり、ユリシーズ自身の夢を叶えるための研究なのだから。
 別れ際、スティルツキンはふと独白をこぼす。
「覚えていられる思い出の数には限りがあるのかね? 仮にそうだとして、あふれた分、つまり……忘れてしまった思い出ってのは、どこへ行くんだろうな」
 タバサはきょとんとした。
「どうしたんですか、急に」
「いや、最近人里で、物忘れ病ってのが流行ってるんだよ。それが気になってな」
「物忘れ病?」
「そういえば。去年村に帰った時、妹が『今なにしようとしてたんだっけ』とか言い出して、びっくりしちゃった。老化現象のわけがないし——もしかしたら、それだったのかも」
 ペネ・ロペは芋づる式に思い出す。年の初めに出会ったルダキャラバンも、ル・ティパの眠る場所をすっかり忘れていた。
 彼女はぶるっと体を震わせた。少し怖くなる。よくよく考えれば、自分にも心当たりがありそうで。
「ま、オレの旅の目的には関係ないんだけどな、ちょっと気になってさ」
「忘れられた思い出の行く先、か」
 世界中どこを探しても記憶が見つからなかったら、ガーディや黒騎士はどうするのだろう。
「……」
 なぜか、話題が変わってからハルトはずっと顔を青くしていた。
 スティルツキンに別れを告げた四人は、それぞれに意味のある沈黙を保っていた。



 コナル・クルハ湿原は、現在確認されているダンジョンの中でも、ミルラの木への道のりが最も長い。さらに、マジックパイルが使いこなせなければ、最奥までたどり着くことは困難とされる場所だ。
 あたりは垂れ込める瘴気で昼間でも薄暗い。ヴェオ・ル水門を通らないシェラ湖からの本来の流れは、海に流れ込む前にこのあたりでどんより停滞し、大量の瘴気が溶け込む。うっかり足を踏み入れれば、焼け付くような痛みが襲うだろう。
 セルキーの民はかつて、自分たちだけの楽園を目指して湿原を訪れた。しかし最果ての地に理想郷は存在せず、彼らは失意とともにこの地を去った。
 瘴気にまみれた水に架かる唯一の足場は、その当時つくられたものだ。ろくに整備されておらず、ところどころ沈みかけている。
 半魚人サハギンを始め、ヘルプラント、ボム、プリンなど見慣れた魔物も生息していた。四つ足の巨獣ベヒーモスや、ティダ村で苦戦したアバドンに出くわすこともあるという。とにかく、キャラバンたちが知る限り最高レベルに危険なダンジョンだった。
「……」
 そんな湿原に足を踏み入れて、真っ先に無口になったのはタバサだった。泥が跳ねて服は汚れるし、沼のあちこちに潜むサハギンには奇襲をしかけられるし、足場は極端に狭くて一列に並ばなければ前に進めないし。もはや彼女は不機嫌を隠そうともしない。
 敵の気配に聡いペネ・ロペすら、かなり神経を使っている。一度、四人で渡ろうとした足場が水に沈んで大パニックに陥ってからは、ケージを持つハルトを中心にして、それぞれ距離をとって歩くようにしていた。
「……ペネ・ロペさん、あれ」
 タバサが前方を指差す。
 コナル・クルハ湿原の所々に立つ古ぼけた石碑には、セルキーの祖先が独自に生み出したとされる古代文字が刻まれていた。特別習った覚えもないペネ・ロペがすらすら読み解けるのは、血のなせる業だろうか。
 古代文字のメッセージは、彼女のような未来のセルキーに向けられていた。
「後から来る者へ。我らが道を作る。この石版を目印に、理想の地まで来られたし」
 しかし彼らの求めた新天地は、この先には存在しない。石碑は挫折の過程を克明に記していた。
 ペネ・ロペはため息まじりに、
「理想の地、か。そういえばルダの村が出来たのって、新天地探しが行き詰まるよりも前だっけ、後だっけ」
「村の方が百年くらい先に出来ているわ。あの村を拠点に各地を放浪していたのか、新天地を探す別の派閥があったのかは知らないけど」
 歴史に詳しいタバサが即答した。
「ねえ、セルキーの新天地探しの話、ユリスは知ってる?」
 との問いかけに、ユリシーズは答えなかった。ひたすら泥にまみれた足場を凝視している。
「あのー。そこに素材はないと思うよ……?」
 おそるおそる仮面をのぞき込むと、彼は乾いた笑い声を立てた。
「ははは。そう、だよなあ」
 ハルトはぎゅっとケージを抱え込み、ユリシーズの横顔を見た。彼が探すものは、きっと素材ではなく——。
 長い長いコナル・クルハ湿原も、半ばまでやってきた時のことだった。
「そこ、右にサハギン二体とゴースト一体、正面にマジックプラント。ホーリーお願い」
 リーダーの的確な指示に従い、後衛二人が神聖魔法のマジックパイルを狙う。
「くそっ」
 だが、ユリシーズが横合いから攻撃を受けたため、発動寸前で中断されてしまった。
 敵が多くて前衛の手が回らないのだ。助けに入ろうとするハルトを、彼はすっと手で制した。
 ユリシーズは気づいていた。攻撃を仕掛けてきたサハギンが、見覚えのある紫のバンダナを身につけていることに。
「——!」
 衝撃が体を貫いても、戦いの手を止めるわけにはいかなかった。
 無言でファイアを詠唱する。ありったけの魔力をつぎ込み、一撃で仕留めるつもりだった。デーモンズ・コートでハルトが放ったアレイズを思い出す。あのくらい強烈な、魔石を壊すくらいの威力があれば。
 腕が円を描くと、サハギン目がけて魔力が爆発した。——ユリシーズの予想よりも、遥かに大きく膨らんで。
「なっ!?」
 ファイガだ。マジックパイルでなければ発動し得ない極大魔法。しかし、手の中の魔石は無事である。ここまで見事にタイミングを合わせることが出来るのは、一人しかいない。
 ハルトと目が合う。彼はばつの悪そうな顔になった。
(まさか、気づいていた?)
 炎によって魔物は一掃された。前線で駆け回っていたペネ・ロペとタバサが戻ってくる。
「ありがとユリス、助かったわ」
 返事がないことを不安に思った彼女は、背伸びをして恋人の仮面を見つめる。
「んー、大丈夫?」
 ユリシーズは、手元のバンダナに落としていた目線を上げ、
「なんでもないよ」
 と言った。



「ユリス、ぼんやりしないで!」
 群がるストーンサハギンを捌きながらペネ・ロペが叫ぶ。いつの間にか意識を飛ばしていたユリシーズは、大きく息を吸った。
 コナル・クルハ湿原のボス、ドラゴンゾンビの巻き起こした旋風を受けて、気絶していたらしい。というのも、どうにも戦闘に集中できなかったからだ。ハルトが気遣わしげな目線を投げてきた。
「もう大丈夫だ」
 ユリシーズは起き上がった。体に満ちるあたたかさは、後輩のレイズによるものだろう。ハルトは回復役として求められた役割を立派に果たしている。
「ホーリーやるぞ」
 ドラゴンゾンビはその名が示す通り、竜のなれの果てであり、楽園を求めてやってきたセルキーたちの前に立ちはだかった最後の関門だ。死闘の果てに体は倒れたが、魂だけがこの世にとどまり、亡霊となってキャラバンの行く手を阻んでいる。
 アンデッドと言えばもちろん神聖魔法が有効だ。キャラバン六年目ともなると、呼吸をするように魔法を扱える。ユリシーズは何気なくファイアを放った。
「!?」
 しかし、合体魔法は発動しなかった。ハルトのレイズとタイミングがずれたのだ。後輩のせいではない。ユリシーズの集中力不足が原因だった。
「……」
 ハルトが感情の読めない黒い瞳を向けてきた。そこに映る己を見て、ユリシーズは呆然とする。
「しっかりしてよ、後衛!」ホーリーの不発を悟り、タバサが叱咤した。
 ユリシーズはぶんぶん首を振った。
「悪い悪い。さあハルト、気を取り直してやるぞ」
 明るい声で動揺を誤魔化す。幸いにも二度目のホーリーは成功した。
「もらったあ!」
 ドラゴンゾンビの実体化を見届け、タバサが必殺技・真空突きを放った。
 一刻も早く家に帰りたい、という思いが詰まった渾身の一撃を受け、ドラゴンゾンビはゆっくりと横倒しになった。
 ミルラの木までたどり着いた時には全員へとへとで、しかも体は薄汚れてドロドロだった。
「ふー。やっと帰れるわねっ」タバサは疲労困憊から一転して、晴れ晴れとしていた。
 一方のハルトは浮かない顔で、ケージが雫で満杯になるさまを眺めている。
 ペネ・ロペもあの石碑を読んでから、心が沈んでいた。新天地を求めて旅した同族の末路。それは自分にとってどんな意味があるのか。ティパの村は果たして、セルキーがセルキーらしく生きることのできる、楽園たり得るのだろうか。
 それでも彼女は重い気持ちを振り払い、隣で不自然に黙る恋人を慮った。
「……ユリス、やっぱり元気ないよね」
 精一杯の心遣いだったが、ユリシーズは軽くかわした。
「誰だってこんな場所に来たら気が滅入るさ」
「でも——」
「お手紙クポーっ」それ以上の追及を遮るようなタイミングで、モグが手紙の配達にやってきた。
「あっ……」
 ユリシーズに背を向けられ、ペネ・ロペは俯いた。仕方なく受け取った手紙だが、読むと気分もいくらか上向いた。大好きな故郷へ帰れる日が近いのだ。
 そんなとき、ハルトが静かに立ち上がり、ユリシーズの近くに座った。ついに来たか、とユリシーズは身構えた。クラヴァットの少年は、荷物からあるものを取り出す。
「どうした? ……それは」
 泥で薄汚れた手紙だった。宛名は読み取れないが、差出人なら分かる。デ・ナムだ。
 いつの間にか近くにいたモグは、申し訳なさそうにしていた。
「その手紙、ユリシーズさん宛だって、分かってたクポ。でもボク、あの人のことが心配で……それでハルトに見せちゃったクポ」
 ハルトと揃って頭を下げる。勝手に読んでごめんなさい、ということだろう。
 ユリシーズはかぶりを振り、手紙を開けた。デ・ナムの特徴だった几帳面な文字は、もはや見る影もない。
「ああ……おまえもこい。おまえもこつちがわへこい。こなル・くルは湿原でまている。はやくこい、まている」
 瘴気を含んだ水を飲んでいた彼、研究は順調だと言っていた彼。ユリシーズはその結末を半ば悟りながら、デ・ナムを止めなかった。成果を楽しみにしている、と返信したのだ。
「そうか。これを、お前が読んだのか。……悪かった、余計なものを背負わせて」
 ハルトの肩が小さく跳ねた。
「だが、もうお前は関わるな。いいな」
 ユリシーズは突き放すような口調で言う。仮面はいつになく冷たい光を宿していた。
「……っ」少し、黒の瞳は潤んでいるようだった。
 なんでお前が泣きそうなんだよ。ユリシーズは全てを笑い飛ばしたくなる。
 もしかすると、彼は泣けないユークの代わりを果たそうとしているのかもしれない。
「このこと、他の二人には内緒な」
 きびすを返し、その場から離れる。仮面が錆びてしまってもいい。ユリシーズは、雨に当たりたい気分だった。
 ぽつんと取り残されたハルトは、腕で顔を覆った。
「クポ……」
 モグが必死に言葉を紡ぐ。
「ハルトのせいじゃないクポ。ボクだって、たくさん手紙を届けていたのに、何にも出来なかったクポ」
 二人は寄り添ってしょんぼりしていた。
 ユリシーズは、不透明な闇の向こうへ進もうとしているようだ。タバサがデーモンズ・コートで語った通りだった。彼を日の当たる世界へと繋ぎとめていたものが、デ・ナムとともに失われてしまった——そんな風に思えた。このままでは、本当にユリシーズは一人きりになって、悲しくも美しいステップを踏み続けるだろう。
 もはや引き止める術は……不意に、ハルトはがばっと顔を上げた。
「クポ?」
 驚くモグの目の前で、彼は猛然と便箋にペンを走らせていく。
 一人だけいた。ユリシーズをこちらへ引き戻すことのできる人物が。そして、ハルトの頼みなら何でも聞いてくれる、唯一無二の味方が。



 帰り道、彼らは崩れかけた小屋を見つけた。
「これ、昔のセルキーがつくったものかなあ」
 ペネ・ロペが腐って落ちた壁材を拾う。タバサが反論した。
「にしては新しくない? セルキーの新天地探しって、七百年くらい前の話よ」
 ハルトはこっそりユリシーズの様子をうかがった。金属の仮面には何の感情も浮かんでいない。
 ユリシーズは、黙って小屋に入っていく。
「あ、ちょっと」ペネ・ロペは立ち尽くすハルトを促し、後に続いた。
 小屋の中は荒れていた。それでも、机や椅子、ベッドなど、生活に必要な家具は一通り揃っている。
 彼は背を向けたまま立ち止まった。普段はおしゃべりな青年が、別人のように黙り込んでいた。恋人の思考がさっぱり読めず、ペネ・ロペはおろおろする。
「ユリス……?」
 彼は机から何かを拾い上げた。そして、ゆっくりと振り返る。
「——やったぞ、みんな」
 声には喜びがあふれていた。
「これを見ろよ」
 三人がのぞき込む。タバサは精一杯に背伸びをして。
 ユリシーズの手の中できらりと光るのは、緑の石がはまった指輪だ。
「ケアルリング!」
 ペネ・ロペの顔がぱあっと輝いた。
「これって、どれだけ使ってもなくならない魔石よね!」
 とてつもなく貴重なアーティファクトだ。ユリシーズの持つサンダーリングと同じ永久魔石であり、どこにいても回復魔法が使い放題になる。量産してキャラバンに配って欲しいような便利アイテムだが、当代ではシェラの里の鍛冶職人スピラーンしか作成技術を受け継いでいないらしい。
 タバサも嬉しそうに後輩の肩を叩く。
「やったじゃない、ハルト。これで、少しはましな戦力になれるわよ」
 と、ひとしきり歓喜に沸いた一行だったが。
「……あ、でも、誰かの持ち物なんじゃ」ペネ・ロペは余計なことに気づいてしまう。
「いいだろ、どう考えても使われてない小屋だぞ。もらってしまえ」
「ユリスったらワルだな〜」
 と言いつつ、にやにやが隠しきれない彼女だった。
「ほら、ハルトくん」
 もちろん所持するのは、キャラバンきっての癒し魔法の使い手だ。だが、彼の顔に浮かんでいたのは戸惑いだった。
「どうしたの?」
 ユリシーズはハルトの腕を掴み、無理矢理その手に指輪をはめた。
「いいんだよ。このリングはお前に使われることを望んでる」
 少年はまぶたを閉じた。
「……」
 この小屋はデ・ナムが暮らしていたのだろう。ユリシーズもとうに気が付いているはずだ。遺品にあたる大切なものを、ほとんど交流もなかったハルトが使っていいわけがない。
 しかし、彼はどうしても断りきれなかった。デ・ナムの残したものを、未来のために活用して欲しい——リングを通して、ユリシーズ自身の思いが伝わってきたようだ。
 ハルトにとってケアルリングの重さは、命の重さと同等だった。
「あら」
 タバサは床に落ちていたものを拾い上げた。干からびた何かの皮のようだ。
「これ、しましまりんごじゃない?」
 シェラの里で、ハルトはデ・ナムに餞別を渡していた。こめかみがずきりと痛む。
 ボロボロのバンダナ、汚れた手紙、りんごの残骸……それらは一人のセルキーの末路と重なった。まるで新品のようなリングの緑はいっそ、虚しかった。



 ジェゴン川以西には、ほとんど人里は存在しない。玄関口であるファム大平原を抜けて西のレベナ平野に向かえば、キャラバンたちはずうっと瘴気の中をさまよい続けることになる。
 だから、瘴気ストリームを抜けて一面緑の草原が目に入ると、自ずと安心感がこみ上げてくる。もうすぐベッドでぐっすり眠れる。水かけ祭りの日取りも近い。道もよく整備された石畳になって、格段に歩きやすくなった。
 傾いた太陽が世界を赤く染め上げる頃、ティパ一行はうきうき気分でファム大農場へ向かう脇道に入った。が、前方が何やら騒がしい。御者台にいたペネ・ロペが目を凝らす。人影はアルフィタリアキャラバンのようだ。しかし、それにしては数が多すぎる。
「あれは、黒騎士!?」
 リルティの狂戦士がまとった鎧が、夕日を跳ね返す。武器を持って暴れている彼を、ソール=ラクトたちが必死に防いでいるらしい。
「大変よ、みんなっ」
 ペネ・ロペは幌の中へ声をかけ、パパオのスピードを上げた。
 暴れる黒騎士をアルフィタリアキャラバンが取り囲む。どうやら、同乗した民間人を守ろうとしているようだ。怯えたように母子が抱き合っている。あれは城下町で食材店を営むエズラ親子だろう。最悪なことに黒騎士との距離は近い。
「ユリスとハルトくんは、子供の方を!」走りながらペネ・ロペが叫んだ。
 彼女たちが加勢に入ったことで、一瞬アルフィタリアキャラバンの気が緩んだ。円陣が崩れ、黒騎士が切り込む。「しまった!」
 その先には子供がいた。
「な、に……?」兜の奥から鈍い声が響く。動きの止まった黒騎士めがけて、子供が走った。その手には槍がある。
「父のカタキーッ!」
 は、と大きく息を吸い込んだのは、誰だっただろう。素人同然の子供が繰り出した攻撃は、戦士の体を見事に貫いていた。
「し、死ぬのかオレは……記憶をなくしたまま? オレが空っぽになる——この命はどこに帰る?」
 槍が引き抜かれる。真っ赤な血がほとばしり、地面にしみこんだ。
「オレはこのままゆくのかッ!? 光よ、こたえろッ」
 虚空に向けて吠える黒騎士。
「ひかりじゃない! レオン=エズラだい!」
 体の震えを必死に押し隠し、レオンは強く名乗りを上げる。
 その名前を聞いて、黒騎士はぴたりと足を止めた。
「レオン=エズラ? そうか、見つけたぞ。オレの記憶を」
 そして母親の方へ首を向け、
「ジョナ=エズラ。オレの……」
 続きは永遠に聞けなかった。黒騎士はどうと倒れた。遅れて母親から悲鳴が上がり、凍りついていた時が流れ出す。
 がっくりと肩を落としたペネ・ロペの横を、小さな影が走り抜けて行った。
「ハルトくん!?」
 彼は黒騎士に駆け寄ると、ケアルリングをはめた指を傷にかざした。さらにはフェニックスの尾の魔力を解放する。
 しかし、何度やっても反応がない。血はあふれるばかりだ。服を真っ赤に染めても治療をやめないハルトの肩を叩いたのは、アルフィタリアのキャラバンリーダー、ソール=ラクトだった。
 無言でソールはかぶりを振った。
「〜!」ハルトはじわじわと理解したのか、黒い瞳に物言わぬ鎧を映し、呆然としていた。
 握りしめた手のひらを開くと、小さな石があった。黒騎士からこぼれ落ちたものらしい。赤い液体にまみれた石にぼんやり見るうちに、ハルトは不思議な声を聞いた。
『ごめんなさい、こんなはずではなかったの。人が生きようとすれば、ラモエは悲劇を繰り返してしまう。クリスタルを継ぐ者たち……私は、どうすればいいの?』
 少女の嘆きに、ハルトは答えられないまま、こうべを垂れる。
 血なまぐさい街道を洗い流すように、ぽつぽつと雨が降ってきた。



「レオンくんのお父さんは、あの子が生まれる前に旅立ったんだって。それで、いろんな噂を聞くうちに、お父さんは黒騎士に殺されたって思い込んだみたいなの。エズラさんの食材屋にはいつもお世話になってたけど、こんなことになるなんて……」
 ソールから聞いた話を、ペネ・ロペは疲れた顔で報告した。ジョナ=エズラ夫人はすっかり塞ぎ込んでしまったらしい。
 夜、馬車の中で雨をしのぎながら、ティパキャラバンは車座になった。ハルトは服を着替え、立てた膝に顔をうずめていた。
「黒騎士は、エズラさんの名前を知っていた。きっと失われた記憶が甦ったんだな」
 ユリシーズは続きを口にするのをためらった。「あの子供の父親は、おそらく……」
「そんな。黒騎士がそうだったっていうの?」
 タバサが愕然とする。
「たぶん、な」
 やるせない話だ。ペネ・ロペは突っ伏した。
「あたし、笑顔で村に帰れる気がしないよ。なんで、こんなことになっちゃうんだろう。瘴気のせい? 魔物のせい? それとも、他の何かのせいなの?
 こんな、理不尽な悲しみは……いらないよぉ」
 ぐすぐすと鼻水をすすり、しゃくりあげるペネ・ロペ。そのほっそりした肩をユリシーズは抱き寄せた。
 ハルトは、手の中にある物をそっと確認する。少女の声が聞こえた石。うっかり現場から持ってきてしまった。今思えば、ガーディの白昼夢で「あなたたちではラモエに勝てない」と言った声と、同じではなかったか。どちらの台詞にも登場した「ラモエ」。それは一体、どんな存在なのか……。
 血を洗ってみると、石は見覚えのある紫色をしていた。いくつもの記憶の断片が集まって、真実を結ぼうとしている——だが、彼の胸に押し寄せた深い後悔の波が、それ以上の思考をさらっていった。
「……」
 真っ暗な空に降り注ぐ雨。沈黙だけがあたりを支配していた。

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