第二章 エンドレス・ステップ



「ペネ・ロペさん……なんだか寒気がするの」
 ファム大農場まであと数時間の目印が見えてきた時。馬車の中で体をかき抱き、タバサは体調不良を訴えた。
「風邪引いたの?」
「そうみたい」
 リーダーがリルティの小さな額に手を当てると、なるほど熱い。雨のせいで昨晩は随分冷えたのだ。
「大農場で、ちょっと長めに休んでいこうか。しっかり治すのよ」
「ごめんなさぁい」
 タバサは申し訳なさそうに目を伏せた。水かけ祭りを目前にして、自分のせいでキャラバンが足止めを食ってしまう。
「いいのよ」ペネ・ロペは笑って後輩の背中を叩いた。
 ファム大農場に到着した四人は、何故か村人総出で迎えられた。
 御者台に座っていたユリシーズは首をかしげる。
「これは……?」
「ああ、ティパの方々か。ようこそ」大農場の長ブレディはわかりやすく落胆し、とってつけたような挨拶をした。
 ユリシーズははっとした。
「そうか、ファムキャラバンの帰りを待っているんだ」
 後ろにいたペネ・ロペが「しまった」と髪の毛をかき乱す。
「もしかして、今日が水かけ祭り?」
「みたいだな」
 村人全員で待ち焦がれる行事といえば、それしかない。他の集落の水かけ祭りに遭遇するのは初めてだった。
「ともかく、タバサを休ませたいわ」
 これ以上入り口で立ち往生していても、気まずいばかりだ。一行はそそくさと宿に向かった。
 大陸一の豊かな土壌を誇るファム大農場は、世界の食料生産をほぼ一手に引き受ける重要な拠点だった。三つのクリスタルが干渉し合ってつくりだす聖域は、ほとんどが農業用の土地としてあてられている。さらに、南のセレパティオン洞窟から年間を通して強い風が吹きつけるため、村のあちこちにつくしんぼうの形をした風車が回っていた。
 田舎出身のティパ一同には、大都会アルフィタリアよりもよほど心安らぐ場所だ。
 ペネ・ロペはぐったりしたタバサの手を引いて、宿屋へ向かう。
「おーい、みんなーっ!」
 宿の前で一行を待ち構えていたのは、ラケタだった。相変わらずのテンションの高さだ。予想よりもはるかに早い再会に、ペネ・ロペは苦笑が隠しきれない。
「ティパキャラバンが来るって聞いたら、もう居ても立ってもいられなくて。会いたかったよハルト〜」
 彼はご機嫌そのもので、愛しい人の弟に駆け寄った。対するハルトはぼんやりしたまま、大人しく手を握られている。
「……どうしたんだ? 元気ないな」
 ラケタはきょとんとして四人を見回す。ペネ・ロペは頬をかいた。
「ちょっと、あれからいろいろあってね」
「そうなのか」
 込み入った事情を感じ取ったのか、彼は詮索しなかった。強引なようで、この辺りの気配りは出来るらしい。
「ならさ、気分転換に、おれの家でも見ていくか?」
「そうねえ、気になるけどあたしはいいや。タバサを休ませないと」
「俺も羽を休めたいな。ハルト、行ってきたらどうだ」
「……」
 しばし逡巡していたが、少年はこっくり頷いた。
 ラケタの実家は果樹園だった。ティパ村のハルトの家よりも遙かに広い土地に、しましまりんごの木が列をなして生えている。
 たわわに実ったりんごを見て、ハルトは反射的にしましま盗賊団やデ・ナムを思い出してしまった。フラッシュバックする様々な場面。表情に雲がかかる。
「ハルト……」
 ラケタは心を痛める。キャラバンの抱えた悲哀の深さは、彼には想像がつかなかった。それでも、どうにか少年を元気づけたい。思いは言葉となってあふれ出た。
「——おれたちが暮らしてる世界には、さ。どうやっても逆らえない『流れ』みたいなものがあると思うんだ」
 一緒にりんごの木を見上げながら、ラケタは語り始める。
「流れっていうのは、自分一人じゃどうしようもないこと。それを、おれは運命って呼んでる」
 クラリスやハルトとの出会いも、彼にとっては「運命」だった。
「シェラの里で学んだことも、要するに『流れ』じゃないかな。空気中にある属性——魔法の源は固まると魔石になる。魔石はいつか崩れて空気に還る。そこには、一本の筋が通った流れがあるだろ。
 おれは農業やってるから、そんなこと考えたのかな。でも、リュクレール先生の言ってた世界の真理って、案外そういうものだと思うんだよ」
 ハルトは考える。ならば瘴気はどうなのだろう。瘴気は魔物を生み出し、人を苦しめる。それでは人は、失われた記憶は何になるのか。流れというのなら、どこかで終わりがくるのだろうか。
 メ・ガジやデ・ナム、黒騎士の死は避けられないことだったのだろうか。
「流れっていえば。昔、大クリスタルが輝いていた頃は、季節ってものがあったらしいな。太陽が眩しい夏、葉が落ちる秋、すべてが眠る冬、そして新たな命が芽吹く春。——最後のは、お前の名前に似てるな」
 ラケタは淡く微笑んだ。ハルトは黒い瞳でじっと見つめ返す。
「だからさ、上手く言えないけど……あんまり背負いすぎるな、ハルト。自分ひとりじゃどうにもならないこともあるって」
 じわり。かけられた言葉が胸にしみる。コナル・クルハ湿原からずっと、肩の上にのしかかっていたものが、少しだけ軽くなった気がした。
「今日は水かけ祭りだ。たっぷり楽しんでいけよ!」
 ラケタは少年の大地色の髪を撫で回す。ただでさえ無造作な髪型が、余計にぐしゃぐしゃだ。ハルトの口元が、久々にほころんだ。



 昼過ぎにファムキャラバンが帰還し、その夜水かけ祭りが行われた。村人の好意で、タバサを除いたティパ一同も見学させてもらった。
 儀式では三つのクリスタルを順番に浄化した。クリスタル一つ分でひいひい言っているティパキャラバンには、シューラたちの苦労は計り知れない。
 その大儀に見合うくらい、後に続く宴は盛大に催された。ファム大農場といえばやはり、目玉は料理だろう。今年採れたばかりの新鮮な食材がたっぷり振る舞われた。
 ペネ・ロペは何品もあるおかずの制覇に余念がない。香ばしいニクの串焼きやらバターのかかったほくほくのひょうたんいもやら、片っ端から胃に詰め込んでいく。
「あーおいしい。寝込んでるタバサに悪いわねえ。後で何か持って行ってあげようか」
 ハルトはぶどうを一粒ずつ口に放り込みながら首肯した。昼間よりは幾分顔色が良い。ラケタと言葉を交わしたことが、はっきりと好影響を及ぼしている。
 そのラケタはというと、友人たちに囲まれて談笑していた。妙に押しの強いところを除けばいわゆる好青年であるし、村では人気者らしい。ちなみに、ペネ・ロペが観察したところ、その場にいるのは男友達だけだった。
 中央広場から聞こえてくる宴の曲は、故郷でもお馴染みの旋律が少しアレンジされたものだ。と言うことは、このメロディの起源は四種族が一所で暮らした、レベナ・テ・ラの時代にさかのぼるのだろうか。踊りの振り付けは多少異なっていたが、あのくらいならティパ一行が混ざってもおかしくない。
「ほらユリス、ミルクも出てるよ。家の味と比べなくていいの?」
 ペネ・ロペはコップを差し出したが、その方向には誰もいない。
「あれ? どこ行っちゃったんだろ」
 ハルトは口にものを含んだまま、あたりを見回す。ついさっきまでここにいたはずなのに。
 よそのお祭りですら自由気ままな恋人に、ペネ・ロペは呆れ気味だ。
「ごめんハルトくん、ちょっと捜しに行ってくるね」
「……」
 少年はどきどきする胸に手を当てた。
 ついに、ユリシーズが行動を起こしたのだ。仲間たちの気が緩んだタイミングで行方をくらませたのだから、間違いない。彼は果たして「向こう側」へ行ってしまうのだろうか。
 いや、大丈夫だ。あの人なら、必ず来てくれる。



 ユリシーズは一人賑やかな輪から抜けだし、より人気のない方へ——大農場の入り口へと歩いていた。背中には最低限の荷物がある。
 聖域の境界まで来た。もう一歩踏み出せば、その先は瘴気の世界だ。
(よし)
 彼は自分がなそうとしていることを、よく理解していた。後悔がないとは言い切れないが、もう決めたことだ。
 しばらく暗がりを眺めてから、思い切って進もうとした時。前方に、あるはずのない人影が出現する。
 その背格好が、見知った人物に似ている気がした。
「デ・ナム……?」
 ユリシーズは呟く。
 軽快な足取りで茂みを割ったその人は、月明かりの下に挑戦的な表情をさらけ出した。
「久しぶりだな、ユリス」
 彼女こそ、もう一人の幼なじみ。「ク、クラリス!?」
 ユリシーズは混乱した。村から出られないはずの彼女が目の前にいて、しかも瘴気の中でクリスタルも持たずに平然としている。この光景は夢なのだろうか。
「お前、どうして……」
 クラリスは悠然と腕を組み、唇を三日月のように釣り上げた。
 ばらばら足音が近づいてきた。息を切らせて追いかけてきたのは、しましま盗賊団の二人——バル・ダットにアルテミシオンだ。
 ボスは荒々しくクラリスに詰め寄った。
「返せよ、オレのショートクリスタル!」
 彼女は拍子抜けしたように、ポシェットから小さなクリスタルの欠片を取り出す。
「どうぞ。聖域はすぐそこだからな」
 差し出されたものをひったくると、ボスは慎重に懐にしまいこんだ。
「盗賊から物を盗むなんて、とんでもねぇクラヴァットだぜ」
 ユリシーズは事情を把握した。彼女が平気で外を歩けたのは、何らかの手段で盗賊団からショートクリスタルを奪い取ったからだ。
「ほんとにハルトのお姉さんクポ〜?」アルテミシオンは懐疑的だ。容姿はともかく、性格は正反対の姉弟である。
 彼女は盗賊へひらひら手を振った。
「もう用は済んだぞ、帰れ帰れ。今日は水かけ祭りらしいから、料理でもくすねてきたらどうだ」
 紫のモーグリは大喜びだ。
「お祭りだって! 見ていこうよボス」
「くそっ、態度が気にくわねぇ。いつか絶対やり返してやるからな!」
 バル・ダットは負け惜しみを投げて、村の方へ駆けていった。食べ物の誘惑には勝てなかったらしい。
 クラリスはボスの移動に合わせて、ユリシーズの隣に行った。ファム大農場の聖域に入り、高い位置にある幼なじみの仮面を見上げる。いつになく真剣なまなざしだ。
「だいたいの話は、手紙でハルトに聞いた。デ・ナムが死んだそうだな」
 ユリシーズは返事に詰まる。余計なことを、という苛立ちと、そこまで心配されていたのか、という驚愕がせめぎ合っていた。
「あの子はたまたま気づいたが、お前、詳しいことは誰にも話してないんだって? デ・ナムのお師匠さんにはどう説明するんだよ。それに今、何をするつもりだった」
 鋭い視線が仮面を刺した。つくづく、敵に回したくない女だ。彼は無言を貫き通す。
「デ・ナムは、瘴気の中を自由に歩くことが夢だったよな。お前はあいつの遺志を叶えようとしたんじゃないのか」
 図星だった。ユリシーズは、開き直った。
「逆に問うが、俺でなかったら誰が出来るんだよ。あいつの最後を知ってるのは、俺と……ハルトだけなんだ」
 本当に、何故ハルトに知られてしまったのだろう。ひたすらそれが悔やまれる。気遣わしげな色を映す、あの真っ黒な瞳を思い出した。
 今相対する女性は、少年より数段明るい目をすうっとすがめた。
「キャラバンの使命を放り出してもか」
「……ああ」
「瘴気を含んだ水を飲んで、魔物になって? それで、ペネ・ロペが喜ぶとでも思ったのか」
「っ!」
 いつも眩しい笑顔を向けてくれる恋人。リーダーになって隠れた才能を開花させ、最近とみに輝き始めた彼女。
 ペネ・ロペにだけは絶対に知られたくなかった。きっと、また泣かせてしまう。涙はもう見たくないのに。
 クラリスは、びしっと指を突きつけた。
「とっくに気づいてるんだろ。自由とか何とか言って、お前は逃げてるだけだ! 家族や仲間、ペネ・ロペからも」
「じゃあどうすればいいんだよっ!」
 ついにユリシーズは声を荒げた。本当に、誰でもいいから教えて欲しかったのだ。
 にらみ合う両者の間に入ったのは、来たるべき三人目だった。
「あたしに頼ればいいのよ」
 静かに歩み寄るペネ・ロペは、美しい顔に決意をみなぎらせていた。ユリシーズは吸い寄せられるように彼女を見た。
 肩の上で揺れる金髪も、よく動く緑の瞳も、白い服に包まれた肢体も。何もかも愛しいと思える、かけがえのない女性。
 クラリスは笑顔で親友に声をかける。
「やあペネ・ロペ。元気にしてたか」
「そこそこってところかな。クラリスは変わらないわね」
 二人はたった一度の会話で数ヶ月の時間を埋めてしまった。クラリスと言葉を交わしながら、ペネ・ロペの視線はしっかりと恋人に固定されている。
「忘れ物、届けに来たわ」
 彼女は紫色の布切れを高々と掲げた。デ・ナムのバンダナだ。
「! どうして、それを」
「忘れてるかも知れないけど、あたしだってセルキーなのよ」彼女の体には数百年前の盗賊の血が流れている。
「これをユリスが大事そうにしてるの、気づいてた。コナル・クルハ湿原から帰ってきた時には、荷物にあったもの」
 ユリシーズは何も言えない。どこまで楽天的だったんだ、自分は。
「これが何だか、知っていたのか」
「知らない。ユリスが教えてくれないから」
 ペネ・ロペはくしゃっと顔を歪めた。
「ユリス、いっつもそう。どんなに大事なことでも、あたしには話してくれない。重たい話だから? それを聞いたらあたしが傷つくから?」
「……」
「あたしは、辛いことも悲しいことも、あなたとともに感じたいの」
 それは数年前から変わらぬ思いだった。だからこそ彼女は告白を受け入れ、幼なじみという穏やかな関係を破った。
 ユリシーズは下を向く。今は、ペネ・ロペのまっすぐさに耐えられそうにない。
「でも、これは……俺が背負うべきことだから」
「去年のあたしには、もっと頼れって言ってくれたじゃない」
 ペネ・ロペは思い切って彼を引き寄せた。瘴気のぴりぴりした気配が遠ざかり、ユリシーズの体はあたたかい体温に包まれる。
「今だってそう。また、どこかに行こうとしてたでしょ。昔みたいに瘴気の中に飛び出して……いつかあたしの知らない場所に行っちゃうんじゃないかって、ときどき不安になるの」
 白い頬を涙が流れた。
 十年以上昔の話だ。当時からずっと、ユリシーズは自由への憧れを持っていた。
「あの日、村の外で倒れたお前を真っ先に見つけたのは、ペネ・ロペだった」
 クラリスは星空を眺めている。
「ユリスがどこまでも自由に歩いて行ける世界を探してるなら、あたしも一緒に見つけたい。大丈夫、ユークの伝統も家族も、あなたを縛るものじゃないわ」
 ペネ・ロペは目の端にいっぱい雫を溜めて、微笑んだ。ユリシーズは胸が詰まった。
「……ごめん。俺、みんなに迷惑かけた」
 こうべを垂れる。その脇腹をクラリスがどついた。
「そうだそうだ。うちの弟にまで心配かけやがって。あとでちゃんと謝るんだぞ」
「分かってるよ」
 半分本気で殴られたらしく、腹部がじわりと痛い。ユリシーズは苦笑した。
 そして、彼は天を仰ぎ、空の上で星になっているであろうデ・ナムに語りかけた。
「お前の研究とは別の形で、必ず自由な世界を見つけてみせるよ」
 ペネ・ロペはごしごし涙を拭った。恋人へ手を差し伸べる。
「ユリス、一緒に踊りましょう」
「……ああ!」
 彼はずっと、一人で踊ってきた。ただひたすらにステップを踏み、その瞬間だけしがらみから解放されたつもりになっていた。
 でも今、隣には愛する人がいる。まわりには大切な仲間がいる。——家族もきっと、背中を押してくれている。そう素直に信じることが出来た。



 ハルトは腕いっぱいに料理を抱えて、タバサが休む部屋に戻ってきた。ペネ・ロペが恋人を捜しに出てからラケタに事情を説明すると、思う存分持たせてくれたのだ。ユリシーズのことは気になるが、クラリスとペネ・ロペに任せるしかないと割り切った。
「おかえりー……けほっ」
 タバサは大人しくベッドで待っていた。お土産を見て、小さく歓声を上げる。
「ありがとう。とってもおいしそうね」
 いつもと違って大人しい反応をされると、調子が狂ってしまう。マール峠のロルフがうっとりしていたように、タバサは実は結構な美人なのだ。
 お腹があたたまると、彼女は眠気に襲われたようだ。
「ごちそうさまあ」
 習慣で手を合わせたけれど、ほとんど夢の中だった。ハルトは食器を片付けて、タバサに布団を掛けてあげた。
「すー……」
 あっという間に寝息を立て始める。規則正しいリズムに釣られてあくびをしたハルトは、何気なく窓の外を見た。
 白い影が浮かび上がる。あれはもしかして——ハーディ?
 祭りの賑わいから遠く離れて、何をしているのだろう。伝道師こそ、村人に歓迎を受けるべきなのに。
 気になったハルトは彼を追いかけて外に出た。
 広いファム大農場には、クリスタルの光が届かない場所も多くある。木々の影になった一際暗い場所に、ハーディはいた。白い服が背景から浮かび上がるようだ。
 少年を見つけた伝道師は、表情を緩める。
「こんばんは」
 ハルトは緊張しながら頭を下げた。全身真っ白なハーディは、幽霊のようにも見えてしまう。
「やはり、水かけ祭りはいいものですね。キャラバンの旅の集大成ですから」
 彼はうっすら微笑む。ハルトも同感だった。
「ミルラの雫を集める長い旅は、私たちに与えられた試練なのです。しかし、キャラバンの明るい若者たちによって、いつかこの試練から解かれる時が来るでしょう」
 唐突に話し始めた彼を、ハルトは不審そうに見やった。
 その時、雲が切れて月明かりが差し込んだ。ハーディの顔が照らし出される。
 ハルトは息を飲んだ。優しげな印象のあった彼の面立ちが、全く別のものになっていた。
「いや——そんなの嘘だね。瘴気も魔物も、決してなくならない。この記憶もいつか消えてしまう。確かなものなんて、どこにもないんだ」
 断定した「その人」は、もはやハーディではなかった。
(!?)
 ハルトは強烈なめまいを感じた。がくんと膝が折れる。崩れ落ちる体を、木に寄りかかって無理矢理支えた。ガーディと会う度に感じていた吐き気が、よりひどくなって襲ってきたようだ。
 目の前の人物はハルトに詰め寄ると、肩をつかんで強く幹に押さえつけた。一瞬、息が止まる。
「……っ」
 体に力が入らない。霞む視界の中、腰につけていたポーチが「彼」の手に収まったことを知る。探り当てたのは、黒騎士が残した結晶だ。そうだ、あれはハーディの忘れ物と、ほとんど同じものだった。
 やはり、黒騎士と伝道師は関係があったのだ。しかし何故この人が、あの欠片を必要とするのだろう。
「いくら必死に思い出そうとしても、いなくなった人は絶対に帰ってこないんだよ」
「——!」
 恨めしさがこもった断定は、ハルトの心に重い楔を打ち込んだ。彼はずるずると崩れ落ち、ついに地面に倒れ込む。
 雲間から覗いた月光が、意識をなくしたハルトに降り注ぐ頃。「その人」の姿は煙のように消え去っていた。



「今日は星が綺麗だな。おれ、願い事しちゃおっかな」
 ラケタが夜空を見て目を輝かせると、友達は「相変わらずロマンチックな奴だな」と呆れていた。
「いいだろー、お願いしない方がもったいないじゃないか」
 構わず彼は手を合わせた。もちろん、願うのはクラリスやハルト……彼の大好きな人たちの幸せだ。
 もう水かけ祭りも終盤だった。飛び入りで参加したユリシーズとペネ・ロペが、洗練された踊りで場を沸かせたのも、少し前の話だ。
「そういやお前、シェラの里で捕まえた彼女はどうしてるんだよ」
 友人がにやにやしながら尋ねてきた。彼とラケタは旧知の仲で、留学中の出来事も逐一知らせていた。
 ラケタはかぶりを振る。「彼女じゃないよ。友達」
「え、でもお前プロポーズしたとかって」
「したけど、返事は聞いてない。おれは彼女が幸せだったら、それでいいんだ」
 無理している風でもなく、本気でそう思っているようだった。あまりにストイックな物言いに、友人はかける言葉を失った。
「じゃあおれ、もっと星がよく見える場所を探してくる」
「お、おい……」闇に消える後ろ姿を、友人はなすすべなく見送る。
 ラケタは迷いなく農道を歩いた。目指すのは、村の北西にある小麦畑だ。木が少ないので、さぞ見晴らしがいいだろう。
 弾む足取りでそこへ向かう途中、ラケタは仰天して立ちすくんだ。
「な、クラリス!?」
 夢にまで見た愛しい人がそこにいた。何度瞬きしても消えないので、幻覚ではないらしい。
 だが彼女は、ある意味天敵のラケタと会っても眉一つ動かさず、それどころか真っ青な顔をしている。
「ハルトがいないんだ……」
 走り寄ろうとしたラケタの足が止まる。
「えっ。あいつが?」
「宿にもいなかったし、捜しても捜しても見つからないんだよ。ど……どうしよう」
 クラリスは両手で顔を覆う。彼女らしくない、酷く弱々しい姿だ。
 ラケタはその肩を抱きたくなるのをグッと我慢して、
「しっかりしろ。おれも一緒に探すから」
「ラ、ラケタ……」
 彼女の心を覆った濃霧に日が差した。初めてラケタと真正面から向き合った気がした。
 ラケタは彼女を元気づけるように微笑むと、その手を引いて歩き始めた。
 程なくして、二人は整った容姿を持つセルキーの男性に出会う。
「すみません、このくらいの背丈の男の子を見てませんか? 彼女の弟なんですけど」
 男性はクラリスに気づいて「げっ」と小さく声を上げた。だが、薄暗い上に彼女は俯いていたので、正体がばれることはなかった。
「しっ知らねぇなあ」妙に甲高い調子で答える。
「そうですか……」しょんぼりするラケタたちの元に、しましま模様のモーグリがやってきた。
「ボス〜」
「ばかっアルテミシオン、こっち来るなっ」
 とボス——バル・ダットはうっかりモーグリの名前を出してしまったが、
「大変なんだよ、ハルトが倒れてるの」
 アルテミシオンの言葉に、雷より速く反応したのはクラリスだ。
「何だって!? どこだそれは、あっちだなっ」右手にモーグリをひっつかんで走って行く。
「おい、待てよ!」
 ラケタも後を追った。反射的にバル・ダットの腕をとりながら。「何でオレも連れてくんだよ!?」というごく真っ当な抗議などお構いなしだ。
 星の光も届かぬ木の下で、ハルトは幹に寄りかかるように倒れていた。
「こ、これは……」
 クラリスの肩がわなわな震える。追いついたラケタはすぐに少年を助け起こした。
「すごい熱だ」
 額の熱さに驚く。意識を失っているのに、ハルトは荒い呼吸を繰り返していた。
「とにかく宿に運ばないと。症状が重そうだ、医者を呼んできてくれないか」
 呆然としているクラリスではなく、バル・ダットに話しかける。
「だから、どうしてオレが!」
「すまない。この通りだ」ショートクリスタルを奪った時とは打って変わってしおらしい態度のクラリスに、バル・ダットは渋い顔をした。
「ちっ」舌打ちと共にアルテミシオンを連れていく。
 ラケタはぐったりしたハルトを背負った。手持ちぶさたでおろおろしている姉に、
「クラリス。狼狽えるのもいいけど、ハルトが起きた時は堂々としてろよ。弟に余計な心配かけたくないだろ」
「あ……ああ。そうだよな、私がしっかりしないと」
 彼女は頬をぱしぱし叩いた。
「ありがとうラケタ」
「どういたしまして」
 ラケタは目を細め、踵を返した。クラリスには、その背中がとても頼もしいものに見えた。



「……ねえ、なんでハルトが風邪引いてるわけ」
 翌日、見事に全快したタバサは、昏々と眠り続ける後輩を呆れたように見下ろした。
 彼女が寝込んでいる間に、いろいろな出来事があった。水かけ祭り、クラリスの登場、ユリシーズとペネ・ロペのダンス、そしてハルトの昏倒。よくも一日の間にこれだけのエピソードを詰め込めたものだ。
 ところでタバサが一番気になるのは、ハルトの枕元で看病しながら、何やら親密な空気を漂わせている男女のことだった。
「あの二人、いつの間に」
 タバサはため息をつく。ラケタとクラリス。話を聞いた時はちぐはぐな印象を受けたのに、こうして並んでいると妙にしっくりくる組み合わせだ。
「クラリスはハルトくんが呼んだのよ。デ・ナムさんのことで思い詰めていたユリスを説得するためにね。でも、もしかしたらラケタさんとこうなることも、狙ってたのかも」
 ペネ・ロペは得意げにウインクした。ユリシーズは顎を引き、
「それにしても、ここまで進むのは早かったな。ハルトも目が覚めたら面食らうだろう」
「ねー」
 と笑いあう恋人たちを横目で見やり、タバサは「私も早く彼氏欲しい……」と切実に願うのだった。
 勝手な噂を流されている二人は、眠り続ける少年にのみ注目していた。
 布団からはみ出た弟の右手を、クラリスがそっと握る。すると、ハルトのまぶたがゆっくり開いた。
「あっ」「ハルト!」
 ようやく意識を取り戻した彼は、視界に入る姉の姿にびっくりした。「あ、悪い」彼女は照れたように笑って手を離した。
「体は大丈夫か?」
 答えず、彼はぼうっと手のひらに視線を落とす。何故自分はここにいるんだろう、という風に——
 ペネ・ロペは思考を遮るように口を挟んだ。
「無理しないで。キミ、風邪引いちゃったのよ」
「言っておくけど、私がうつしたわけじゃないからね!?」
 復調したタバサはぶうっと頬を膨らませた。
「とにかくゆっくり休めよ。おれ、医者呼んでくるな」
 ティパキャラバンにごく自然に混ざっているラケタは、席を立った。
 ハルトはふと思い出したように、ベッドサイドに置いてあった荷物から、小さな日記帳を取り出した。村の所有物であるクロニクルとは別のものだ。ペンを手にとって、もの言いたげに四人を見つめる。
「ああ、ごめんごめん。中身は見ないよ」
 ペネ・ロペは大げさに目をそらした。彼は日記を覗かれることを極端に嫌がる。
 瞳に浮かぶ色で様々な感情を伝えるハルトだが、自分に関してはとことん秘密主義だった。年代記を担当した時すらほとんど文章はなく、絵ばかり描いている。きっとあの日記は、その内心を知るための大きな手がかりとなるのだろうが……。
 ハルトは少しも悩む素振りを見せず、さらさらと文字を書いていく。
「起きたばっかりで元気ねえ、あんた」
 タバサは呆れ返った。クラリスはなぜだか自慢気に、
「昔から何でもかんでも日記に書いてたんだ。もう完全に癖だよな。家にはバックナンバーが何冊も眠ってるぞ」
 もちろん家族の誰もページをめくったことはない。親しい人だからこそ、踏み込めない部分がある。
 ペネ・ロペは日記を書き続ける後輩を見やり、彼が覚醒する前にクラリスが言ったことを思い出した。
「——みんなに、聞いてもらいたいことがあるんだ」
 こんこんと眠り続ける弟の、乱れた前髪を直しながら。クラリスは一つ一つ、噛みしめるように話す。
「もしも。もしもハルトが、意識を失う前の出来事を覚えていなくても、何も言わないで欲しい」
「どういうこと?」ペネ・ロペが訝しむ。
「『記憶が失われた』という事実を認識させてはいけない、ってことか」
 ユリシーズの推測は、ずばり当たっていた。クラリスは生真面目な顔で頷く。
「ハルトは……記憶や思い出に、すごくこだわるんだ。何故かは知らない。少なくとも、声をなくしてからああなった。どんなに些細な出来事も日記に書くし、本当に物覚えがいい。
 だから、他でもない自分が、大切な思い出を忘れていると気がついたら——」
 彼女は灰色の未来を想像して、口をつぐんだ。
「姉としての勘ってやつね」タバサには正直、過保護に思えたが。
 ユリシーズの意識はさらに過去へ移る。
「そういえばあいつ、スティルツキンさんの物忘れ病の話にも反応してたな」
 あの時は、ガーディと初めて接した時と同じくらい、顔色を悪くしていたものだ。
 ペネ・ロペは神妙な面持ちで相づちを打つ。
「分かったわ、それには触れないようにする」
「うん……ありがとう」
 頼まれた内容もそうだが、いつも自信満々なクラリスが、なんとも歯切れの悪い物言いをしたことが気になった。
 ——回想から戻ってきたペネ・ロペは、何気なく横へ視線を飛ばし、親友へ声をかけた。
「あ、ラケタさんってば、お財布忘れてるわ。届けてあげないと。ほらクラリス」
 リーダーの手にはギルの詰まった袋が握られている。
「そうか」とクラリスは腰を浮かしかけたが、すぐ怪訝そうに首をかしげる。
「……なんで、私が行くんだ?」
「いいじゃない。今ならまだ間に合うわ、ほらほら」
 何かをもごもご口の中で呟き、クラリスは名残惜しそうにハルトの元から離れた。
 扉が閉まるのを確認してから、タバサはガッツポーズをする。
「ナイスよペネ・ロペさん。見事にラケタさんのポケットから掠め取ったわねえ」
「へっへっへ、ちょろいもんよ」
 ここのところ一気に盗賊の才能が開花しているペネ・ロペだった。もちろん財布の件は彼女たちの計略である。
「ハルト、体調が優れないところを悪いな。クラリスとラケタの話なんだが」
 ユリシーズが切り出す。ハルトはぱたんと日記を閉じた。
「あいつらをくっつけるのは、今しかない」
「というか、もう本人たちがくっつきたがってるように見えるわ」
 タバサはふくれっ面になる。せっかく再会したというのに、ハルトにかかりっきりな二人に対して不満が募るのだろう。
「問題なのはクラリスの方だけか?」
「ラケタくんも、はじめはあれだけ押せ押せだったのに、肝心なところで引いちゃうのよねえ。クラリスを気遣ってるんだろうけど」
 ペネ・ロペは腕組みした。
 参謀役のユリシーズが、大きな指で宙にハートマークを描く。
「そういう問題はいいとして。あいつらが帰ってきたら、俺たちは出払ってる。ハルトもぐっすり寝てる。二人は弟の枕元で次第に距離を近づけ、愛の告白をする」
「都合良すぎないかなあ」
「病人のそばで結ばれるの? どこがロマンチックなのよ」
 ハルトは少し笑った。いつも通りの会話に、心が安らぐのを感じる。メ・ガジやデ・ナム、黒騎士の最期——それらが残した大きな傷は、魔法のようにたちどころに治ることはない。日常を繰り返すことによって、少しずつ癒していくしかないのだろう。鮮烈な痛みもやがては薄れ、思い出となっていつまでも心に残り続ける。
 突然、ハルトの胸がずきんと痛んだ。記憶や思い出について、ごく最近誰かに指摘された気がする。
「……」
 彼はまぶたを閉じた。
 一方、緑の眩しさに目を細めながら農道を行くクラリス。前方からは医者帰りのラケタが歩いてくる。茶色の髪をあちこち跳ねさせ、だぼっとしたズボンを履いた彼は、どこか弟に似ていた。
「今先生が往診中でさ、帰ったら真っ先にこっちに来てくれるって」
 彼は朗らかに言った。クラリスは心底不思議そうに、
「ラケタは——どうしてそこまでしてくれるんだ」
「どうして? だっておれ、クラリスのこともハルトのことも、好きだから」
 ストレート過ぎる告白だ。彼女は頬が熱くなるのを誤魔化すため、くるりと後ろを向いた。
「へ、返事」
「え?」
「シェラの里での返事だよ、聞かなくていいのか。前はあれだけ催促してきたくせに」
 腰に手を当て、虚勢を張る。彼女の一世一代の演技にも気づかず、ラケタは首を横に振った。
「そうだな。でも、クラリスが言いたくないならいいよ」
 手紙のやりとりを続けるうちに、ラケタの内心にも変化が生じた。シェラの里では無邪気に求婚できたのに、長い年月を経て、だんだん返答を聞くのが怖くなってきた。今だってそうだ。「クラリスは自分に会いに来てくれたわけではない」と、ラケタは自らに言い聞かせていた。
 翻って、クラリスの胸の裡にはじりじり炎にあぶられるような、もどかしさがこみげていた。やけに物わかりのいいことを言うラケタに、怒りすらわいてくる。首筋に汗が滲んだ。気分が妙に高揚している。
 原因は何だろうと昨日から考え続けて、やっと答えが出た。——この距離感は、今の彼女には物足りない。
「じゃあ、言いたいなら言ってもいいんだな」
 かかとを支点にして振り返る。その拍子に、長い茶髪が風を受けて広がった。
「いいよ。私はお前を受け入れる!」
 驚いたラケタの顔が、みるみる喜色に塗り替えられていった。
「本当に!? それじゃ、おれと結婚してくれるんだな」
 途端に、彼特有の短絡的思考が復活した。クラリスはゴクリとつばを飲む。
「う……やはりそうなるのか」
「そりゃそうだろ。早ければ早いほど、より長く一緒にいられるもんな!」
 正直に肯定するにはこっぱずかしい台詞だ。だが、予想以上の反応だった。彼女の心中にぬくもりが満ちた。
「もちろんおれが婿養子に入るから。家族にもクラリスの話はしてあるんだ」さすが、気が早い。これでは親兄弟も苦労するだろう。
「本当に、それでいいのか?」
 改めてクラリスは念を押した。ラケタは故郷を遠く離れて暮らすことになる。しかし、彼は動じなかった。
「いいんだよ。今だって、家にお母さんを置いてきてるんだろ? 農業やるなら、人手は多い方がいい」
「た、たしかに」
「ハルトの風邪が治ったら、二人で早速おれの家族に会ってくれよ。式はティパの村で挙げるのがいいかな」
「ああ……ええと」
 クラリスはしどろもどろになる。恥ずかしさに耳まで赤く染め、視線は下がる一方だ。
「あ、悪い悪い。つい突っ走った」
 ラケタは彼女の手を握った。ハルトのものと似たしなやかな手のひらは、彼の手にすっぽり収まった。
「ずっと前からこうしたかったんだ。おれ、すっごく嬉しいよ」
 太陽のような笑顔を見せる。クラリスの胸は不可抗力で高鳴った。しかし、あくまで表に出すのは懸念だった。
「もう一度確認するぞ。私でいいんだよな? 自慢じゃないが、私は下手をしたら弟を優先しかねない女だ」
 ラケタは即答した。
「うん。ハルトもいい奴だもんな、気持ちはよーく分かるよ」
「そうか、お前にもあいつの良さが分かったか」
 クラリスは不敵な笑みを浮かべた。それはラケタが大好きな表情だった。
 彼女は未来の夫に向き合い、腰を折る。
「ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
 手を繋いで帰ってきた二人に、キャラバンは目を丸くした。せっかく立てた作戦は不発に終わったわけだが、残念がっている暇はない。すぐに、二人を祝福する気持ちでいっぱいになった。
「おめでとう、クラリス、ラケタ!」
 という言葉が異口同音にかけられた。
「ハルト、ありがとう。お前のおかげだよ」
 クラリスは弟に心から感謝を述べた。ハルトは寝返りを打ってそっぽを向いてしまう。
「あ、照れてる?」
 タバサがからかうと、楽しげな声が上がった。布団の中よりも、部屋の空気はあたたかくなった。

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