第二章 エンドレス・ステップ



 ティパの村で唯一の農家を営むミントは、その年新しい息子を迎えた。
 正確には、長女が夫となる男性を連れてきたのだ。女らしさなど微塵もない彼女が、である。この前まで夢にも見なかったことだ。
 ハルトから要請を受けたクラリスが、村に来ていたマール峠キャラバンに相乗りしてファム大農場へ向かったのは、つい先日のこと。どうやら途中で盗賊団を襲って時間短縮を図ったようだが——モーグリ便で知らせを受けた通り、姉弟は未来の家族ラケタと共に帰ってきた。
「いらっしゃい。……いいえ、ようこそと言うべきかしら。ラケタさん」
「よろしくお願いします、ミントさん」
 茶色の髪をのびのびと跳ねさせた青年は、きっちりお辞儀を返した。あの娘を娶とる男はいかなる変人だろう、とミントは妙な期待を抱いていたが、彼はごく普通の好青年で、初対面の印象はとても良かった。
 ラケタは義理の母になる女性を見て、嬉しそうにする。
「クラリスに良く似た美人さんですね!」
「あら、娘は父親似よ? でも嬉しいわ〜」
 ミントは白い頬に手をやり、身をくねらせた。確かに、女手一つで二人の子供を育てたとは思えないほど、若々しい人だ。短くそろえた黒髪はツヤツヤだった。
「それでですね。水かけ祭りが終わったら、式を挙げたいと思います」
「忙しくなるわね。クラリスも、しっかりラケタさんを支えるのよ」
「な、なぜ私に振るんだ」彼女は心外そうに口をとがらす。
 母親はにっこり笑った。
「うちで一番心配なの、間違いなくあなただから」
「ええーっ」
 少なからずショックを受けたクラリスを放置して、ミントは役目を無事に果たした息子の方に向き直る。
「ハルト。おかえりなさい」
「……」
 彼はぎこちない表情で応えた。心の底に、何かもやもやしたものを抱えているようだ。声を失う前から、家族に言えないことがあるとこんな顔をしていた。ほんの少しの変化だって、ミントにはお見通しだ。だてに二十年間母親をやっていない。
 ミントは息子の肩に手を置いた。
「祭りまで、家でゆっくり休みなさい。考え事は、その後でね」



 旅先から戻ってきたハルトの様子はどこかおかしかった。姉の結婚が決まったというのに、なんとなく暗い影を引きずっているようだ。
 おまけに今回の帰郷が遅れたのは、ファム大農場で彼が風邪を引いたからだという。アリシアは、そんな幼なじみのことが心配でたまらなかった。
 夕方、祭りの準備を終えた二人——アリシアとカム・ラは、農家の前にやってきた。キャラバンの少年へ「おかえり」を言うために。
「ハルト、風邪はもう大丈夫なの? 向こうの水が合わなかった? それともやっぱり瘴気の影響なのかな」
 と声をかけながら、アリシアは彼のおでこや腕をぺたぺた触った。
「……」
 ハルトは戸惑い、親友に助けを求める。カム・ラはしばらくぽかんとしていたが、必要以上に近づく二人に気づき、慌てて引き剥がした。
「アリシア、心配しすぎだって。タバサだって風邪引いたんだろ。きっと向こうで流行ってたんだよ」
「そうかもしれないけどぉ」
 彼女の目が潤んだ。また不用意な言葉を投げてしまった、とカム・ラは後悔する。
「うわっ。今のは謝る。だから泣くなよ!」
 当人にとっては深刻なのだが、端から見るとそうでもない。相変わらずの様子に、ハルトはくすりと笑った。二人は顔を見合わせる。
「お前、明るくなったなあ」
 カム・ラは感慨深げに呟く。
「ホントにそうだよね。でも——」言いさして、アリシアは口をつぐんだ。瞳に憂いが差す。
「どうした?」
 少年たちが問いただそうとした時、クリスタル広場からざわめきが聴こえてきた。
「あ、儀式が始まるみたい。早く行こうよ」
 彼女は無理に明るい表情をつくり、小走りで広場に向かった。
 追いかけようとしたハルトは、カム・ラによって引き止められる。
「アリシアの気持ちも、ちょっとは考えろよ。俺だってけっこう心配してるんだからな」
 漆黒の瞳が瞬いた。カム・ラは彼から視線を外し、暮れなずむ空を眺める。
「二年前の水かけ祭りでさ。お前、クラリスさんに指名されて、いきなりキャラバンに入ることになったろ。……正直、不安だったよ。本当は嫌々旅に出たんじゃないかって」
 ハルトは目を丸くする。
 そこでカム・ラは破顔し、真面目な雰囲気を自ら打ち破った。
「ま、そんなの思い過ごしだったけどな! いろいろ大変かもしれないけど、お前、楽しそうだ。キャラバンの旅、応援してるぞ。来年もちゃんと帰ってこいよ」
 どしんと親友の背中を叩く。笑顔の下にはしかし、一抹の寂しさが隠れているようだ。
 カム・ラは昔、外の世界に憧れていた。大きくなったら一緒に旅に出ようと、ハルトと約束していた。だが、一足先にキャラバンに入った姉が、旅先で大怪我を負ってしまい……家族に無用な心配をかけまいと、カム・ラは旅を諦めたのだ。
 この旅は家族だけでなく、友達の願いも背負っている。ハルトは気を引き締めた。
「二人とも、遅ーい。みんな待ってるよ!」
 いつまで経ってもやってこない二人を、痺れを切らしたアリシアが迎えに来た。
 水かけ祭りの儀式がはじまる。いつもの通り、まずは村長による年代記の朗読があった。
 松明を掲げるハルトを村人に交じって注視していたアリシアは、ふと違和感を覚えた。読み上げられる日記の内容が、例年よりも短い気がする。しかも日付を確かめると、今年前半のエピソードばかりだった。
 この場で読まれるのはもちろん、クロニクルのごく一部に過ぎない。事前に印象的な出来事を絞っているのだろう。それにしても……今年は何かがおかしかった。
 アリシアはこっそり周りを見回す。カム・ラも村人たちも、これといって疑問を感じている風ではない。
(もしかして、村の人には知られたくないことがあるのかな)
 あの年代記には、ハルトが心にダメージを受けた原因が記されているかもしれない。
 彼女はぎゅっと手のひらを握りしめ、食い入るようにクリスタルの浄化を見つめた。
 儀式が終わったその瞬間から、なんとなく場の空気が華やぐ。彼女はすぐに人垣から抜け出した。
「あ、おいっ」カム・ラが気づいて手を伸ばすが、届かない。
「村長! そのクロニクル、私に読ませてくれませんか」
 アリシアはローランの真正面にやってきて、頭を下げた。唐突な申し出に村長は厳しく眉を寄せ、
「これはキャラバンの日常を綴ったものじゃ。そう簡単に見せるわけには——」
「でもっ。キャラバンは村のために旅をしてくれてるのに、私が読めないなんておかしいです!」
 普段は引っ込み思案な彼女だが、ハルトが関わると前後の見境がなくなる。この点はどこか、クラリスに似ていた。
「むう」勢いに押され、ローランは渋い顔をする。
 一方で、村長に寄り添うように立っていた奥さんのマレードは、にっこりと目を細めた。
「いいではありませんか。お若い方が、外の世界に興味を持たれたのですよ」
「そうじゃが、今年の日記は……」
「お願いします。ハルトに何があったのか、知りたいんです」
 重ねて懇願する彼女に、ついに村長も折れた。
「分かっておるな、他言無用じゃぞ」
「はいっ」
 アリシアは分厚い年代記を受け取った。儀式では何度も見たけれど、手にするのは初めてだった。もちろんティパ村七百年の記録を一冊にまとめられるわけがないので、この本も数代前から引き継がれたものである。ずっしりと腕に響くのは、歴史の重みそのものだ。
 錬金術師の家の前に積まれた木箱へ腰を下ろし、一番新しいページから順番に遡っていくことにした。はじめは、他人のプライベートを覗くことに、ほんの少しだけわくわくしたけれど——読み進めるにつれて、徐々に血の気が引いていく。
 四人の筆跡で代わる代わる綴られた物語の中では、キャラバンと少なからず交流があった人の命が、いくつも失われていた。悲哀、むなしさ、後悔といった感情が、筆跡の乱れににじみ出ている。アリシアには、立て続けに起こった悲劇が墓標のように並んで見えた。
「こんな、こんなことが……」
 それ以上言葉が出てこない。年代記を持つ手が小刻みに震えていた。
 打ちのめされた彼女は、なんとか重い腰を上げてクロニクルを返しに行く。
「村長。どんなに辛いことがあっても、旅は続けなくちゃいけないんですか?」
 暗い目をしたアリシアの問いかけに、ローランは返答できなかった。
 確かに、最近の大陸は異変続きだ。干上がったジェゴン川、魔物増強の噂。何年も巷を騒がせた黒騎士は、非業の最期を遂げた。キャラバンの旅はますます困難になっているように思われる。
 アリシアはうっすら涙を浮かべた。
「こんなのおかしいです。私たちを守ってくれるキャラバンが、命を削っているなんて……」
「村のためには、やむを得ないことじゃ」村長は目を伏せる。
「誰かが死んでしまっても、仕方ないって言うんですか!?」
 押さえた叫びは陽気な音楽にかき消され、祭りの中心には届かない。それでもこの場に苦い沈黙を流すには十分だった。
(ハルト……)
 彼女は幼なじみを脳裏に思い浮かべる。旅に出てから一見、明るくなったようだけれど、実はひどく傷ついているとしたら——?
 負の感情が噴き出して、頭が割れるように痛かった。村長の声も聞こえない。どこに向かうのかも分からないまま、アリシアはふらふら歩いていく。
 いきなり、誰かにぶつかった。顔を上げると、カム・ラが心配そうに彼女をのぞき込んでいた。
「アリシア? 探したんだぞ。ルイスさんからもらったあのレシピ、そろそろ仕上げないとまずいだろ」
 前年からはじめたアクセサリ作りだが、今年はそれぞれ家の手伝いで忙しく、未だに完成していなかったのだ。
 アリシアはぶんぶん亜麻色の髪を振り乱した。
「私、もうつくるのやめる」
「へ……? どうしてだよ。ハルトの役に立ちたいんだろ」
 カム・ラはどきりとする。わずかな光源からうかがった彼女は、ひどく思い詰めた顔をしていた。
「だってこのままじゃ、いつかハルトは——」
 アリシアは言葉を切る。その先は恐ろしくて口に出来なかった。
 気まずい一瞬の後、クリスタル広場の方からどよめきが上がった。
「なんだろう」
 カム・ラが抜群に良い視力で見通すと、ペネ・ロペとユリシーズが手を取り合ってステップを踏んでいた。束の間、見とれてしまう。二人の間には、明らかに仲間の一線を越えた空気が漂っていた。
「あの二人、そういう関係だったのか」
 恋人たちを中心にして、さらに大きな輪が出来ていた。ラケタとクラリスは二人に優しいまなざしを向け、ハルトは隣のタバサの話に耳を傾けている。
「……」
 アリシアは胸の辺りをぎゅっと掴む。彼女が慕う幼なじみは、キャラバンという分厚い壁の向こう、どうしようもなく遠い場所に立っていた。



「ユリシーズ、漁師の家のペネ・ロペと付き合ってるっていうのは本当か」
 と、牛飼いの家の長兄は威圧的に訊ねてきた。
 水かけ祭りが終わり、村人たちは三々五々帰路についた。ユリシーズも疲れた足を引きずって、実家まで帰ってきた。もう深夜である。
 踊ってへとへとになった彼は、一刻も早くベッドに寝転がりたかった。返事は投げやりだ。
「ああ、そうだよ。それがどうした?」
「……相手はセルキーだぞ。種族違いだ」
「分かってるさ。だからこそ好きになったんだから」ユリシーズは意にも介さない。
 兄は仮面に難しい色を浮かべた。
「確かにうちの村なら、種族を越えた恋愛も受け入れられるかもしれない。だがな、たとえばアルフィタリアだったらどうだ? 無条件で迫害される可能性だってあるんだぞ。だとしたら、相手にとってもよくないさ。それくらい、分かるだろ」
 かちんと来たユリシーズは、勢いよくテーブルを叩いた。
「兄貴は固すぎるんだよ!」
「お前が自由すぎるだけだっ」
 昔から、この兄弟は折り合いが悪かった。何事にもきっちりしている模範的なユークの兄と、規律に縛られるのが大嫌いな弟ユリシーズ。正反対な性格の二人は、ことあるごとに衝突を重ねていた。
「よおく思い出した。俺、こんな家から一刻も早く出たくて、キャラバンになったんだ」
 ユリシーズは低い声を出す。
「……」兄は返答せずに寝室へ向かった。
 入れ替わりに起き出してきた妹が、眠気で頭をこっくりこっくり揺らしながら、
「ユリス兄ちゃん、また喧嘩?」
「あ、悪い。起こしたか」
「いつものことだもん、いいよ」
 家族は兄弟の起こす騒ぎにすっかり慣れていた。もはや日常茶飯事だ。
「ユリス兄ちゃんは、ペネ・ロペさんとお付き合いしてるの?」
 噂はすでに村中を駆け巡っていた。ユリシーズは肩をすくめる。
「まあな」
「昔っから、好きだったもんね」
 ぐさりと胸に刺さる台詞。思えば、初対面のラケタにすら恋心を見抜かれていた。
「そんなにバレバレだったか……?」
 こみ上げる恥ずかしさに、ユリシーズは頭を抱えた。
「上のお兄ちゃんも、別にユリス兄ちゃんたちのこと、認めてないわけじゃないと思う。ただ、もっと自分のことを考えて行動して欲しいんだよ」
 と分かったような口をきく妹に、彼はデコピンをお見舞いする。
「あうっ」
「いいから、お前は早く寝なさい」
「またそうやってはぐらかすー」
「……明日、ちゃんと兄貴とも話すよ」
 ユリシーズは嘆息した。疲れ切っているのに、今夜は眠れそうにない。
 翌朝、家の手伝いの合間を縫って、恋人たちは外で落ち合った。ベル川のほとりはいつも閑散としていて、秘密の会合にはうってつけだ。
 先にペネ・ロペが報告する。
「あたしの方は、家族も納得してくれたよ。多分家は継げないって言ったけど、ほら、うちは弟が優秀だから。ユリスは?」
 ユリシーズは短い沈黙を挟み、突然頭を下げた。
「頼みがあるんだ。一緒に、兄貴を説得してくれないか」
 彼女は目を丸くする。
「いいけど……やっぱり、難しそうなのね」
「古くなったいなかパンよりも固い頭だからなー。俺一人じゃ厳しい」
 ペネ・ロペは苦笑いする。
「でも、あたしがいたところで何か変わるかなあ?」
「いてくれるだけでもいいんだ。俺も、決心がつくから」
 売り言葉に買い言葉を繰り返さないためには、どうしても第三者が必要だった。
「じゃ、行こうか」
 二人は立ち上がり、連れ立って牛飼いの家へ向かった。
(ん?)
 途中、ペネ・ロペの視界の隅を、誰かが横切った。木々の間に見えたあのシルエットは——ハルト?
(どうしたんだろ)
 ベル川に向かっているらしい。おまけに、腰には剣を下げていた。回復役としてのイメージが強いので、かなり違和感がある姿だ。
「おい、ペネ・ロペ。出番だ」
 ユリシーズの声に、はっとする。今は少年を観察している場合ではない。
 件の兄は、庭で牛の世話をしていた。
「お兄さん!」とペネ・ロペが機先を制した。だが、
「……俺はあんたの兄じゃない」
 ぐ、と詰まる。出鼻をくじかれ、彼女の繊細過ぎる精神は早くもへこたれそうだ。
「ユリスのお兄さん。ちょっとお時間よろしいですか」
「ここでいいなら、聞くけど?」
 さあ、執念の勝負だ。ペネ・ロペは下腹に力を込めた。
「大事な弟が、よりにもよってセルキーとこういうことになっちゃって、怒る気持ちは分かります。でも、キャラバンで一緒に過ごすあたしは、知ってるんです。ユリスが自由を求めるのには、ちゃんと理由があるんだって……」
 小細工として上目遣いをしてみるが、残念ながら兄は一顧だにしなかった。
 金属の仮面は冷たく輝く。
「どうせ、規則で縛られる家が嫌だっていうんだろ」
「そ、それは」
「だったら二人で旅に出て、もう帰らなければいいじゃないか」
 どうしよう、と涙目になった恋人を見て、ユリシーズは覚悟を決めた。
「……俺、三年前にシェラの里で友達が出来たんだ。セルキーの男、デ・ナムっていう研究者だ。あいつは瘴気の研究をしていた」
 思わず兄は牛をブラッシングする手を止めた。弟の台詞には常ならぬ真剣さがあふれていた。
 二つの目線が真っ向からぶつかり合う。
「セルキーの、学者?」
「そうだ。今年の初めに会ったとき、あいつは実地で試したいことがある、と言った。クリスタルに頼らず瘴気の中を歩くため、実験をするんだと。コナル・クルハ湿原っていう、沼の水に瘴気が溶け込んだ場所でな」
 初めて彼自身の口から事件の推移が語られる。ペネ・ロペの心臓は早鐘のように鳴り始めた。ハルトが読んだというデ・ナムの手紙も、彼女には見せてくれなかったのだ。
「あいつから届く手紙は、どんどん酷いものになっていった。どうも、瘴気を含んだ水を飲んで生活していたらしい。居ても立ってもいられなくなった俺は、仲間に理由を伏せて湿原を目指した。
 そこに、一匹のサハギンがいた。——デ・ナムと同じ、ぼろぼろの紫色のバンダナをつけていた」
 空は晴れているのに、牛飼いの家だけがぽっかり沈んでいるようだった。
 ユリシーズは俯いた。こんなに頼りない恋人の姿を、ペネ・ロペは初めて目の当たりにした。
 仮面で表情を覆い隠したユークだって、泣くことがあるのだ。体ではなく、心で。
「デ・ナムは瘴気から自由になれる世界を求めた。夢を叶えるために、ユークに混じって研究をした。でもその結果が、これだ」
 彼は大切そうにボロボロのバンダナを取り出した。布きれは風の中をひらひら泳ぐ。
「俺、正直言うと、現状から逃げてた。家にいるのが嫌で嫌で仕方なくて、キャラバンに入った。それが自由な生活だって信じてな。
 でも、違ったんだ。やっと気づいたよ。逃げるんじゃなくて、どっしり構えて現実と向き合うこと。それが俺の求めていた本物の自由だ」
 それはクラリスに指摘され、ハルトに背中を押されてたどり着いた答えだった。
 兄は無言で、恋人たちに向き直る。
「コナル・クルハ湿原は、あたしたちセルキーが新天地探しを断念した場所でもあります。あそこを探索するのは辛かったけど……だからこそあたしは、まだまだ旅を続けたいと思いました。ユリスと一緒に」
 ペネ・ロペは愛しい人に体重を預けた。
「彼女と一緒に世界を旅すること。俺が率先して種族の壁を壊すこと。これって、最高に自由な生き方だろ?」
 ユリシーズは胸を張った。
 長い長い演説が終わると、兄は大きく息を吐いた。
「俺が言いたいことは、ただ一つだ」
 二人は身構える。
「——絶対、幸せにしろよ」
 それだけ言うと、兄は家の中に入ってしまった。牛の世話も中途半端のまま。どうやら照れたらしい。
 ペネ・ロペはくすっと笑う。
「お兄さん、いい人だね」
「素直じゃないんだから……」
 初めて兄に認められた。真正面から向き合ってもらえた。そのことが、ユリシーズはこの上なく嬉しかった。彼の心には今までにない、確かな達成感が宿っていた。



 祭りからきっかり七日後、クラリスとラケタの挙式は盛大に催された。
 一度にたくさんの晴れ着が必要になったため、村の裁縫屋は大忙しだった。繕い物が不得手なタバサまで駆り出され、夜も寝ないで仕事をこなした。
 花嫁の衣服は、母ミントが大切に保存していたドレスをリメイクし、新郎のものはクラヴァットの伝統的な衣装を元にデザインされた。ついでに、まともな服を持っていなかったハルトの分もつくられた。
 結婚式の数日前。サイズ調整のため、ハルトは仮縫い状態の一張羅に袖を通した。色の濃いベストの上に、白いスカーフがふわりと踊る。まじまじと観察して、タバサは「……意外と似合ってるじゃない」と評した。姉の見立ては確かだった。
 ハルトは首をかしげながら、鏡の前に立つ。タバサが言うからには似合っているのだろう、と納得することにした。
 そして当日がやってきた。式場であるクリスタル広場で待つ新郎の元へ、家からクラリスを導くのは、弟の役目だ。
「!」
 部屋まで姉を迎えに行ったハルトは息をのんだ。複雑な刺繍でいっぱいのドレスに身を包み、化粧を施したクラリスは、別人に思えるほど完璧な「花嫁」姿だったのだ。
 彼女は長いまつげをゆっくりと持ち上げる。
「ハルト……」
 何故か泣きそうな顔をして、
「き、緊張してきた」
 しなやかな生地に覆われた腕はがたがた震えていた。ハルトは思いっきり嘆息する。一瞬でもドキッとしたことを訂正したい。
「あっ」
 姉の手をとり、安心させるようにもう片方の手のひらで包み込んだ。少しだけ頬を緩めた弟に、クラリスも釣られて微笑む。
「ありがとう。ちょっと落ち着いた。エスコート、よろしくね」
 一緒に家を出ようとする二人を、母ミントが引き留めた。
「ハルト。今日ぐらいその髪型、どうにかならなかったの?」
 指摘され、彼は頭に手をやる。精一杯直したのだが、どうしても横の方が跳ねてしまう。いつもよりはましだと思ったのだが——
「その癖っ毛は誰に似たのかしら。お父さんはもっとまっすぐだったわよ」
「母さん……今日は私の結婚式なんだけど?」
 すねたようなクラリスに、ミントは片目を閉じてみせる。
「結婚したからって、特別扱いはしてあげないわよ。うちの子であることに変わりは無いわ」
 言いながら娘の前髪を整えた。ぎゅっと目をつむるクラリスは二十歳を迎えたというのに、子供のようだった。
「ほら、時間よ。いってらっしゃい」
「うん……!」
 クラリスはふわりと笑った。なんとも温の民らしい表情だった。
 姉弟は横に並んで、クリスタル広場へ向かう。ミントは二人を見送ってから、遠回りして会場へ赴いた。
 外にはすでに大勢の人々が集まっていた。皆の発する静かな興奮が目に見えるようだ。
 ラケタは背筋をぴしりと伸ばし、花嫁の到着を待っていた。明らかに肩のあたりが強張っている。思わずクラリスは笑いをこぼす。ハルトの視線を受けると、「ごめんごめん」と言うようにちょっぴり舌を出した。
「それじゃ」
 繋いだ手が離れる。クラリスはクリスタルの正面、新郎の隣に並び立った。
 こほん、と進行役の村長が咳払いをする。
「ラケタ、そしてクラリス。互いに伴侶となるにあたって、まずクリスタルへ祈りを捧げなさい」
「はい」
 二人は同じタイミングで頷いた。きらめく双眸には、明日への希望が映し出されている。
 祈りの形に手を組み、クリスタルに向かってこうべを垂れる。ティパ村の挙式では、村の象徴とも言えるクリスタルに、新郎新婦の未来を祈願するのが習わしだ。クラリスは隣のラケタにだけ聞こえる声で、そっと囁く。
「昔もよくここに来て、こんな風に祈ってた」
「何を?」
「いろいろなことを。明日もいい天気でありますように、とか、ペネ・ロペと喧嘩した日は早く仲直りできますように、とか。それと、父さんの病気が治るように。願いが叶う前に、父さんは空に昇ってしまったけど」
「そっか……」
 彼女はこっそり首を横に向けた。花を飾った髪が可憐に揺れた。
「でも、私の夢はハルトが叶えてくれる。だから私はあの子を助けて、導くんだ」
 ラケタは素直に「いいな」と思えた。嫉妬の感情はない。むしろ、彼女の心を占めるものを、共有したいと思った。
 二人は示し合わせたようににっこり笑った。
「おめでとー!」神聖な祈りを終えて、真っ先に二人を言祝いだのはペネ・ロペだ。それを皮切りに、広場は喜びの声で満たされた。
 水かけ祭りともひと味違う宴の幕が上がった。祝いの席にふさわしく、赤や黄色など、明るい色が取り入れられた料理が太陽の下に並ぶ。
 ペネ・ロペとユリシーズは、新郎新婦の元へ二つの杯を運んだ。この日のために村長が開けた、秘蔵の酒だ。
 四人は晴れやかな顔で乾杯した。
「うふふ。末永く幸せにね、お二人さん」
 月並みな言葉だが、目一杯ペネ・ロペの気持ちがこもっていた。クラリスは満更でもなさそうに、
「お前らもな。親兄弟にも、正式に認められたんだろ」
「ああ」
 ユリシーズの答えは短いが、どうしようもない嬉しさが滲んでいる。出会ったばかりの頃を思い出し、ラケタも満足そうにしていた。
 和気あいあいと話しながら杯を干していく四人へ、新たな客が参入した。
「いやーめでたいなあ、まさか後輩が先に嫁に行くなんて」
「ルイスさん!」
 背は低くとも存在感がある。こんな日でもお気に入りのなべを被った、ルイス=バークの登場だ。彼はクラリスたち皆の大先輩だった。
「あなたは?」
 ラケタだけは面識がなかったため、クラリスが紹介する。
「元キャラバンリーダーの先輩。タバサの前任だよ」
「ルイス=バークだ。よろしくなラケタ」
 二人は握手した。ルイスはこつんとなべを叩いて、
「その剣聖の相手をするのは大変だぞ。今まで幾多の戦士が散ったことか」
「えっ。まさか、クラリスにそんな男性遍歴が……」
「冗談だよ」
 挨拶代わりのジョークだ。慣れっこの後輩たちは、呆れ半分で笑っている。ラケタはへそを曲げるかと思いきや、
「良かったー、クラリスに変な虫がついてたわけじゃなくて」と胸をなで下ろした。
「なかなか素直な反応する奴だな、気に入った」
「本当ですか。ありがとうございます!」
 妙なところで友情が芽生えていた。ルイスはひとしきりラケタで遊ぶと満足したのか、くるりと振り返る。
「ユリシーズたちも、穏便に済んで良かったな」
「えへへ、おかげさまで」ペネ・ロペははにかんだ。
 このカップルが誕生したのは、ルイスがキャラバンリーダーをつとめていた時代のことだ。ときどき相談にも乗ってもらい、何かとお世話になっていた。
 彼も、そんな過去のごたごたを思い返すと感無量だ。
「二人とも、俺がいた時よりも輝いてるよ」
 うんうん、とクラリスも首を縦に振っていた。ペネ・ロペはじんわり幸福を感じた。
「きっとあたしたちだけじゃ、成し遂げられないことでした」
 彼女には、思い当たる節があった。時が移り、自分の周囲で一番変わったものといえば。
「そうだ。俺、あいつにお礼言わないと」
 ユリシーズはあたりを見回し、「彼」がこの場にいないこと確認すると、「悪い、ちょっと行ってくる」と言って席を外した。
「あいつって?」
 遠ざかる背中を見送り、不思議そうに首をかしげるラケタ。
「内緒よ」
 ペネ・ロペは茶目っ気たっぷりにウインクした。
 ユリシーズが完全に行ってしまったことを確認してから、クラリスは唐突に別の話題を持ち出した。
「あいつは気づいてないみたいだけどさ。牛飼いの兄貴がめちゃめちゃ頑固になったのって、どう考えてもユリス自身のせいだよな」
「へえっ。そうなのか」
 ルイスは軽く驚いた。彼女は頬を掻く。
「はい。覚えてますかね。ちっちゃかった頃、あいつ、瘴気の中に飛び出したことがあったんです。兄貴は、そのことに責任を感じたんじゃないかな」
 クラリスの推量を、ペネ・ロペが引き継ぐ。
「あたしもそう思います。お兄さんは二度とユリスをあんな目に遭わせまいとして、厳しくしていたんでしょう。……彼には逆効果だったみたいですけど」
 とことんかみ合わない兄弟だ。今となっては笑い話である。
「それさ、ユリシーズに言わなくていいのか?」ラケタが横やりを入れるが、
「ま、別にいいだろ」
 ルイスは笑いをかみ殺した。
 一方、ユリシーズは閑散としたティパの岬で、いかにも心細そうに膝を抱える人物を見つけ出した。
「ハルト」
 声をかけてから、隣に腰を下ろす。
 しばらく二人は穏やかな海を一緒に眺めた。青い水面が陽を反射してきらめいている。光と水が織りなすコントラストは、瘴気の存在などまるで感じさせなかった。
 ユリシーズは、わずかに仮面を持ち上げた。
「今年は、お前やみんなにたくさん迷惑かけたな。悪かった。それと、クラリスを呼んでくれて——ありがとう」
 率直に気持ちをぶつける。不思議と、気恥ずかしさはなかった。後輩の判断がなければ、今ごろ自分はここにいない。最悪の場合、デ・ナムと同じような末路を辿っていたのだ。
「……」
 彼は反応しない。表情は無造作に伸ばした髪に覆い隠され、ほとんど見えない。だが、どんな顔をしているのか容易に想像できた。
「やっぱり、しましま盗賊団や黒騎士のこと、気にしてるのか」
 ハルトは指にはめたケアルリングをさすった。緑の輝石に一粒、雫が落ちた。
 予想通りだ。たとえ慶事が続いたからと言って、あの悲劇の連続から彼が簡単に立ち直れるわけがない。何せ、事故のショックで声を失ってしまうくらいなのだから。
 もうひとつ、ハルトが落ち込む理由がある。本人は認めないだろうが、きっと姉が結婚して寂しくなったのだ。所在なげにこんな場所にいたのは、クラリスに置いて行かれたと感じているから。ユリシーズは自分自身が「置いていく側」であると知っていたが、ファム農場でペネ・ロペに引き戻されてから、後ろを振り返ることを覚えた。
「無理に立ち直れとは言わないよ。ただ、あいつらと同じ過ちを繰り返しそうだった俺を止めてくれたのは、お前だ。兄貴に認められる日が来るなんて、考えもしなかった」
 もしかしたらキャラバンの旅だって、いつかは「終える」ことができるのかもしれない。愚直に自由を求めたユリシーズ自身が、考えを変えたように。
「来年もよろしくな」
 そう言い置いて、岬を後にした。後輩には、一人で考える時間が必要だ。
 ユリシーズはゆっくりと村道を下っていく。知らぬ間に宴は解散していた。もはやクリスタル広場も空っぽだったが、なんとなくめでたい雰囲気の名残がある。
 広場を横目に見ながらぐるっと農家へ回り込むと、玄関前で新郎が何やら唸っていた。
「ユリシーズ」
 下生えを踏みしめる音に気づき、ラケタが振り向く。
「ユリスでいいよ」許可を出すと、彼はぱっと顔を輝かせた。
「本当か! 実は、みんなのあだ名呼びに憧れてたんだ〜」
「ははは。にしても、こんなところで何してるんだ」
 ラケタは一張羅を着替えもせずに、庭に出ていた。ズボンの裾に土がついている。作り手のタバサが見たら怒り心頭に発するだろう。
「ラ、ラケタ。大丈夫なのか」
「何が? ああ、この木のことか」
 彼はユリシーズの心配を勘違いして、庭木を見上げる。
「この木……理由は分からないけど枯れちゃったって、クラリスが言ってたんだ」
「りんごの木か。確かに、もうだめだな」
 素人目にも分かる。葉は落ち木肌はかさかさして、実をつけるような生命力はどこにもない。本来なら今頃しましまりんごをたわわに実らせていたのだろうが。
「せめて何が原因なのか知りたいんだ。ほら、農家の婿養子になるわけだし」
「なるほど。手伝うよ」
 そうして二人であれこれ知恵を搾っていると、
「ハルト……!?」
 まぶたを腫らした少年がやってきた。ラケタは驚愕して飛び上がる。
「どうしたんだ、誰かに泣かされたのか?」
 ユリシーズは軽く笑い、
「目にゴミが入って、洗ってきたんだよな」
 とフォローした。ハルトは二人がりんごの木の下にいることに気づいたようだ。
「おれ、果樹園の次男の名にかけて、絶対に原因見つけてやるからな」
 ラケタは闘志をみなぎらせ、もう一度木をよく調べてみた。「おっと、これは……」次第に表情が変わる。土を掘り返してみると、大事な根っこの部分が黒ずんでいた。
「根腐れか。この村で洪水でもあったのか?」
「そういえば。一年くらい前に大雨があったな」
 なるほど、とラケタは相づちを打つ。普段彼らが見ているのは木のごく一部、幹と葉だけだ。しかし木は根から水と養分を吸い、生きる糧を得ている。土台の部分がぐらぐらでは、どんなものでも立ちゆかない。
「水はけが悪かったのか。だめになった部分は切るしかないな。それでしばらく様子を見て——ハルト?」
 ハルトはおもむろにりんごの木へ近寄り、しゃがみ込んだ。ぽかんとする二人の目の前で、根元近くに手を当てる。ケアルリングが優しい緑の光を放った。
「えっ?」
 ユリシーズとラケタはあっけにとられる。
 枯れた枝からみるみる新芽が出て、葉は目にも鮮やかな緑へと塗り替えられる。まるで、時を巻き戻したかのように。
 息を呑んでその光景を見守るラケタには、思い当たる節があった。
「そうか、リュクレール先生の魔法!」
 かの魔術師は、魔法で植物の生長を操ることを得意としていた。あの特殊な技術を、この少年が一年も経たずにものにしたと言うことか。
「で、でもあれって、世界の真理ってやつを理解しないと使えないんだろ」
 ハルトは静かに、義理の兄となった人に目を向ける。
「おれ?」
「ラケタが何か言ったのか」
 ユリシーズの問いには無言の肯定が返ってきた。
「もしかして、あのことかな」ラケタは、ファム大農場のりんご園で彼に語ったことを思い出した。「つまり、真理は『流れ』だってことか?」
「『流れ』か……いや、それだけじゃないな」
 乾いてぼろぼろだった幹まで、今やすっかり潤いを取り戻していた。ユリシーズはミルラの木を思わせる生命の力強さを感じ取り、今年遭遇した様々な事件を思い出す。
「この世界の本来の形は、何かの繰り返し。すなわち『循環』だな?」
「!」
 ハルトは大きく頷いた。いまいち理解できていないラケタへ、ユリシーズは懇切丁寧に説く。
「植物は光と水によって生長し、腐り落ちるとあらたな種が育つための養分になる。これも一つの繰り返しだろ」
「ははあ、なるほど」
 農民にはわかりやすい例えだ。ラケタはぽんと手を叩いた。
「だったらキャラバンの旅も、循環だよな。二千年前からずっと続いてきたんだから」
「そうだろうな。だが、ミルラの旅のはじまりについて、俺たちは何も知らない」
 ミルラの雫は何によって生み出されているのか? 魔物はどこから生まれてくるのか? 消えてしまった思い出は、どこへ行くのか?
「疑問ばっかりだなー。でも、ハルトやユリスたちなら、きっと全部解明出来るって」
「んな無責任な……」
 苦笑する。だが、ラケタの無条件の信頼は心地よかった。
 ハルトの目はりんごの木を映し、星空のようにきらめいている。どうしようもない苦境に立たされても、その瞳は力を失わない。月なき夜に瞬く星のような、希望の光がある限り。
 無作為に奪われゆく記憶、黒騎士を襲った負の連鎖。それもまた、ひどく悲しい形での「繰り返し」だった。ちっぽけな自分たちではどうしようもなかった。
 それでも、「もしかしたら……」とユリシーズは思う。
 彼はハルトと関わり、一人で踊ることをやめた。この少年ならば、間違った循環を終わりへと導くことができるのではないか、と。

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