第三章 ただひとつ輝ける星



「ごめんね、タバサ」
 咳をしながら謝るアリシアを見て、タバサは息をついた。
 アリシアが風邪を引いて倒れた。と聞いたのはキャラバン四年目の旅支度を整えている最中で、タバサは伝えにきたヒルデガルドと一緒に、急いで粉ひきの家に向かった。
「明日が旅立ちだよね。お見舞いなんて、いいのに」
「なあに言ってるの。旅立ったら何ヶ月も会えないでしょ?」
 元気付けるように声を張れば、アリシアは熱で潤んだ目を細めた。
「あなた、最近無理をしていたそうですね」ヒルダが口を挟む。このユークは村一番の情報通だった。去年、ペネ・ロペとユリシーズの噂をそれとなく村中に流したのも彼女の仕業である。常々「情報も商売になる」と言っているだけはある。
「朝早くから夜中までパン作りに励んでいたとか。一体どうしたんです」
「今ね、スランプなの」
 アリシアはこほんと咳をして、
「いくらパンをつくっても、ちっとも上手くいかないんだ」
「どうして?」
 タバサが尋ねると、病人はくしゃりと顔を歪めて、頭まで布団を被った。声がくぐもる。
「……嫌なの。不安なのよ。友達が、キャラバンの旅に行ってしまうことが」
 タバサはヒルダと顔を見合わせた。友達というのはこの場合、明らかにハルトを示している。少女があの幼なじみへひたむきな思いを向けていることは、周知の事実だった。
「去年の旅、すごく大変だったんでしょ。知り合いの人がたくさん死んじゃったって……」
「! な、なんで知ってるのよ」タバサはぎょっとした。デ・ナムや黒騎士の死は、未だ心に黒々とした影を落としている。あんな重い話を祝いの席でするわけにはいかない、とローランと意見が一致したため、年代記もその部分だけ読み上げなかったのに。
「クロニクルを見ちゃったの」
 アリシアは布団からちょっと顔を出す。きっと、無理矢理村長に頼み込んで、貸してもらったのだろう。クラヴァットらしい穏やかな性格だが、そうと決めてしまえば一直線に走り出す、彼女らしい行動だった。
「なるほど。それで、ハルトまで『そう』なってしまったら……と考えたのですね」
 ヒルダの指摘は図星だったようで、アリシアは沈黙する。
 タバサはことさら胸を張った。
「そんなの、心配しすぎだって。ペネ・ロペさんやユリシーズさんなんて、もう七年目の大ベテランなのよ。それに、私がいるもの。そう簡単にあいつは傷つけさせないわ」
 何しろハルトは回復役という重要なポジションだ。彼がいなければ安心して前線に出られない。後衛を守るのが、武の民たるタバサの役目である。
「うん……」
 なおもアリシアは眉を曇らせた。「ねえ、タバサはどうして旅を続けるの?」
 キャラバンの少女は考え考え、答えを導き出す。
「それは——クリスタルキャラバンに、私が必要とされているから。リルティという種族の、他でもない私にしかできないことが、あるはずなのよ」
 先輩たち二人はクラリスと共に立候補し、ハルトは姉から譲られる形でキャラバンに入っている。一方でタバサは村長から直々に選ばれた。彼女には、求められて入隊したという自負があった。
「だからアリシアが安心できるよう、私は自分の役目を果たすわ」
「……ありがとう」
 長く息を吐いて、アリシアは瞳を閉じた。タバサとヒルダは目配せし合い、席を外した。
 粉ひきの家から出るとすぐに、カム・ラと遭遇した。
「あら、あなたもお見舞いですか」
「まあな」セルキーの手には野花が握られている。
 ヒルダは仮面越しにもはっきりと分かるほど、にやにやした。
「ふふふ。ごゆっくり」
「お、おう……」
 気味悪そうにヒルダを見やり、さっさと行こうとするカム・ラの背中に、タバサは声をかける。
「ね、ハルトがどうしてるか知らない?」彼が見舞いに来た様子はなかった。もしかすると旅の準備に忙しくて、アリシアが風邪を引いたことすら知らないかもしれない。
 カム・ラは何故か目をそらした。
「家にいる、けど……アリシアのことは教えてない。今、あの二人を会わせるのはまずいから」
「へ?」
「アリシア、水かけ祭りの時から様子が変なんだ。二人も話したなら分かるんじゃないか。あのままじゃ、ハルトに直接『旅をやめて欲しい』って言いそうでさ……」
 カム・ラは海のような色の目を伏せた。こうやって物憂げにしていると、普段の子供っぽい印象が消え、ぐっと大人びて見えた。
(そうかなあ?)タバサはその懸念にいまいち共感できなかった。アリシアの心配は一時的なものと思えたのだ。
 カム・ラは申し訳なさそうにしている。
「旅立ちの前日にこんなこと言って、ごめんな。今度帰ってくるまでには落ち着くようにするよ」
「そうですよ。あの子も、風邪を引いて心細くなっているだけです」
 ヒルダの励ましに、カム・ラは頷いて家に入っていった。
 タバサは首を回して、強張った肩をほぐす。
「アリシアもねえ。仕方ないじゃない、ミルラの旅は誰かがやらなきゃいけないことなんだから。心配したって無駄よ」
「そうかもしれませんね。ただ、キャラバンの気持ちが私たちに分からないように、残された者の思いはあなたには分からないのですよ。旅のもたらすものは計り知れません」
 饒舌なヒルダを前にして、タバサは口をつぐんだ。急に親友を遠くに感じた。アリシアもこんな気持ちを味わっているのだろうか。
「理由はどうあれ、あなたが旅を続けてくれるから、私たちは平和な暮らしを享受しているのです。感謝、してますからね」
 優しい言葉に「えへへ……」タバサはふやけた笑いを返した。



 翌日は、キャラバンの旅立ちだ。いつものように見送りの人々がベル川に架かる橋の上に集まってきた。今年は腰の状態が悪化したため、ローラン夫妻の姿はない。
 すっかりリーダーの貫禄が出てきたペネ・ロペが前に立ち、ぐるりとあたりを見渡した。
「ねえ、ユリス。あの人って」
 指さす先にとある人物を見つけて、ユリシーズは狼狽する。
「兄貴だ……」
「やっぱり!」
 人垣の上に仮面がにょっきり飛び出ている。キャラバンのざわめきに気づいたのか、すぐに立ち去ってしまったが。
「良かったね、ユリス」
 にっこり笑うペネ・ロペに、ユリシーズは嬉しそうに何度も頷く。あの兄に認められたのだ、という喜びが胸にわいてくる。
「ハルトー! がんばってこいよっ」
 ここでひときわ声を張り上げたのは、ラケタだ。人当たりのいい彼は、休息期間の数ヶ月ですっかりティパ村になじんだ。ハルトは苦笑しながら手を振り返す。
 隣のクラリスは少し照れくさそうに、
「ご覧の通り、ラケタもいてくれる。家のことは心配するな」
 タバサは頷くハルトにゆっくり視線を合わせた。
 彼が姉から旅を託された経緯は、正直よく知らない。何故ハルトはこうもあっさりと旅を引き継いだのだろう。アリシアの「どうして旅を続けるの」という疑問を、彼にもぶつけてみたくなる。
 老いて毛並みにツヤがなくなってきたパパオを撫でながら、ユリシーズが確認する。
「そういえばハルト、今年は自分の家のりんごだよな」
 首肯する少年に、「よしよし」彼は満足そうだ。りんごの木を復活させた経緯は、ラケタを含めた三人だけの秘密だった。
「結局のところ、去年アリシアちゃんは、どうやってりんごを持ってきたのかしら」ペネ・ロペが小首をかしげる。
「それで、肝心のアリシアちゃんは?」
「風邪引いてるのよ」
 というタバサの発言に、ハルトは目を丸くした。どうして教えてくれなかったの——と非難する気配すらある。自分の周りで様々な思惑が渦巻いているとはつゆ知らず、のんきなものだ。白い目を返すタバサ。
 四人はそれぞれの思いを抱え、家族や友だちに別れを告げた。
「それでは、行ってまいります!」
 ここからパパオの手綱を握るのはハルトだ。三人は幌の中から遠ざかる村を見つめた。
 人里のぬくもりが離れるこの瞬間は、こみ上げる郷愁に胸が締め付けられる。いつまで経っても慣れないものだ。
 徐々に緑の草原に支配されていく視界。タバサはほうっとため息をついた。
「村長、腰の様子どうなの?」
「あんまりよくないみたい。ゆっくり治して欲しいわ」
 ペネ・ロペの返答に、タバサは肩を落とした。
 そして、ごく自然に唇を動かす。
「早く息子さんが帰ってきてくれたらいいのにね」
「息子……?」
 ペネ・ロペは怪訝そうに、「ねえタバサ。村長に息子っていたっけ」
「え」
「今あなたが言ったじゃない」
 指摘されてみれば、そうだ。ローランとマレードの夫婦に、息子なんていただろうか。タバサの背筋がぞくっとした。
「あ、あれ? 何でだろう。でも私、確かに記憶が」冷や汗で赤いマスクがずり落ちる。
 助け舟を出したのはユリシーズだ。
「いいや。俺にも覚えがあるぞ。あの家には昔、クラヴァットの兄さんがいたはずだ……」
 ペネ・ロペは焦ったようにぶんぶん首を振る。
「うそうそ。じゃあ息子さんはどこに行っちゃったわけ?」
「分かんないけど、絶対にいたのよ!」
 議論は堂々巡りした。ペネ・ロペははっと思い立ち、御者台の方へ身を乗り出した。
「そうだ、ハルトくんは? その人のこと、覚えてないかな」
 少年は肩越しに振り返ると、かすかに頷いた。彼もたった今、気が付いたようだ。
「……まさか、これも物忘れ病なのか」
 ユリシーズの口調は苦い。脳裏に昨年のスティルツキンの言葉が蘇る。自分だけは大丈夫だと思っていたのに。
 タバサはうそ寒そうに腕をかき抱いた。
「ああ、やだやだ。こんな大事なこと忘れてるなんて。息子さんってば、どこ行っちゃったのよう」
「もうどんな記憶を失っていてもおかしくないわね……」
 ペネ・ロペはそっとハルトの背中を見やる。クラリスは言っていた——弟は記憶にこだわると。もしかしたら、物言わぬ彼だけが覚えている出来事が、あるかもしれない。



 ティパキャラバンは花束を手に、アルフィタリアの食材店へ向かっていた。
「あら、みなさん。来てくださったんですね」
 女主人のジョナ=エズラが応対した。どことなく寂しそうな笑顔を浮かべながら。
「こちらですよ」
 案内に従い、四人は神妙な面持ちで家に上がる。
 それは部屋の奥にひっそりとあった。
 かつて、黒騎士と呼ばれた男が身につけていた鎧。武勇伝でならしたリルティにふさわしい、無骨なつくりだった。ジョナが手入れしているのか、よく磨き込まれている。
 ペネ・ロペは一行を代表してジョナに花束を渡した。そして、黙祷を捧げる。
「……ご主人の名前を、お子さんにも?」
「ええ。あの子、レオンが生まれて来る前に、主人はいなくなりました」
 ハルトの肩がわずかに揺れた。彼も同じように、生まれる前に父に先立たれた。
「あの瞬間まで、まさか彼が主人だとは思いませんでした。……あんなことになっていたなんて」
「ご主人は、記憶を失っていたようです」
 とユリシーズが言う。思い出を求めて暴れる黒騎士を思い浮かべながら。
 タバサが心配そうに訊ねる。
「あの、レオンくんに、そのことは?」
「言っておりません。……どうしても、これだけは」
 ジョナは首を横に振った。仇と信じて討った相手が父親本人だったなんて、言えるわけがない。
 彼女は全身に濃い疲労を刻んでいた。
「最近、不安になるんです。主人のことを考えても、黒い鎧を着ている姿ばかりが浮かびます。なんだか、昔のあの人がよく思い出せなくて……。
 主人にとっては——レオン=エズラと黒騎士と、どちらが本当の自分だったのでしょう」
 問いかけは宙に投げられた。
 彼らは重い空気の食材店を辞した。
「レオンくんに、会って行こうか?」
 ペネ・ロペは遠慮がちに提案した。三人は顔を見合わせ、無言で賛意を表する。
 レオン=エズラは今日も堀の外で槍の素振りに励んでいた。
「あっ。ティパのキャラバンだ」
 彼は稽古を止めた。こちらの顔を覚えたらしい。心なしか、前に会ったときよりたくましくなった。子供の成長は早い。
 後ろからとぼとぼ歩いてきたハルトを見つけ、レオンは唇を尖らせた。
「クラヴァットのお兄ちゃん、危ないから槍の前には飛び出ないでよ」
 あの時、真っ先に黒騎士に駆け寄ったのがハルトだった。彼は小さく頷く。
 レオンは声をひそめた。
「……あのさ、みんなに相談があるんだ」
「どうしたの?」
 槍の使い方を教えて欲しいのかな、とタバサは予測したが。
「母ちゃんが、たまにあの鎧を見て泣いてるんだ……なんとかして元気づけてあげたいんだよ」
 四人ははっとした。いつもは率先して意見を述べるペネ・ロペも、顔を曇らせてしまう。代わりにユリシーズが前に出た。
「お前が立派に育つことが、何よりもジョナさんのためになるよ。間違いない」
「本当にぃ?」子供は懐疑的だ。
「そうよ、だからあんまり危ないことしないで、ね」
 無理に笑ったリーダーの目には光るものがあった。
 ハルトがレオンと初めて会ったのは、もう二年も前になる。あの時からすでに嫌な気配を感じていたのに、何も出来なかった。ケアルリングを手に入れても、誰一人として救えなかった……。
 ぎゅっと目をつむる。悲しみの連鎖を止めるために何が出来るのか、考えなければならない。



 エズラ家への弔問を終えた四人は、クリスタル広場で解散した。
 ペネ・ロペとユリシーズは情報収集のため酒場へ。後輩たちは武器整備のため鍛冶屋へ向かう。
「はぐれるなよ〜?」
 ユリシーズのからかいに、「あんたのことよ」タバサは前科持ちのハルトの頬をつねった。
「……」後輩は不満げな顔をしていた。
 このお仕置きが効いたのか、彼らはバラバラになることなく用事を終えられた。鍛冶屋に武器を預けてしまうと、途端に暇になる。
「あんた、どこか行きたいところある?」
 ハルトは答えず、首を横へ向ける。
「どうしたの」
 広場の方角だ。不意にそちらが騒がしくなった。人波をかき分け、身軽な影がこちらへ直進してくる。
「もしかして、ルダ村のキャラバン?」
 町中で会うのは初めてだった。セルキーの男女は、見知らぬ女性の腕を引いていた。
「おっす、ティパキャラバン!」
「ほんと、お疲れねー!」
 息を弾ませながら、元気に挨拶される。あっけにとられたタバサたちの返事も待たずに二人は通り抜けようとしたが、
「——ちょっとさ、頼まれてくれないか!?」
 ダ・イースが駆け戻ってきた。
「セルキーが貸し作っていいの?」ハナ・コールが眉をひそめる。
「その方が確実だろっ」
 会話の間にも、大勢の足音が近づいてくる。キャラバンに連れられた華奢な女性は、申し訳なさそうに、
「もういいのですダ・イースさん、私は……」
「いいや。あんたはやっぱり外に出るべきだって。とにかくティパ村、おまえらちょっとこの人を預かってくれよ」
 なんとなく事情を察したタバサは、迫り来るリルティの兵士を一瞥した。
「仕方ないわね。要するに、あの追っ手から逃げればいいんでしょう」
「察しがいいな、助かるぜ」
 ハナ・コールは地団駄を踏む。
「もうっ。こーなったら、あたしたちが囮になるよ、ダ・イース」
「わかってら!」
 ルダキャラバンは慌ただしく踵を返した。リルティの一団に真正面からぶつかるために。
 キャラバンからキャラバンへと身柄を預けられた女性は、どことなく不本意そうに頭を下げる。意志の強そうな青い瞳が印象に残った。
「……よろしくお願いします」
 タバサは人けの少ない方へ彼女を誘導した。ハルトも、後ろを気にしながらついてくる。追っ手はルダの二人が上手く撒いてくれたようだ。
「このあたりでいいかな」
 やってきたお堀のほとりは、石畳の道からは死角になる。アルフィタリアでも穴場中の穴場だった。
 タバサは辺りを見回し、安全だと判断した。
「ひとまず自己紹介しておくわね。私はタバサ。で、そっちのクラヴァットはハルト」
 台詞に合わせて少年が一礼する。
「タバサさんにハルトさんですね。私は……」
「名乗らなくていいわ。いざという時、私たちも知らないフリができるでしょう」
 女性は目を丸くした。頭頂部で結った金髪がふよふよ風に揺れている。肩やお腹をあらわにした服装といい、頬の入れ墨といい、ルダキャラバンと同じ我の民のようだ。
 タバサは気さくに訊ねる。
「あなた、アルフィタリアははじめて?」
「……ええ、そうです」
 何故か彼女は顔を背けた。
「なら、私が案内してあげましょうか。こっちにも道を覚えさせたい奴がいるしね」
 肘で小突くと、ハルトが頬を掻く。
「いいのですか?」
「目立たない程度になら。そうね……ハルト! あんたの大好きなあそことか、どうかしら」
 クラヴァットの少年は目を輝かせた。軽く鼻から息を吸って、歩き始める。
「あ、あの」
「ついて行けばいいから」タバサは戸惑う女性を促した。
 お堀に沿って橋の下まで行くと、
「……ここね」
 誰も気に留めないような小さな木の扉が現れる。ハルトは迷いなくノックした。
「どうぞクポ〜!」
 声を聞き、女性は合点のいった表情になった。「もしかして——」
 三人はモーグリの巣に招かれた。
 暖炉には火が入り、寒風に凍えた客人をあたたかくもてなす。トルマリンが埋め込まれた安楽椅子に座っていた主人が、ハルトの胸に飛びこんだ。
「やっぱりハルトだったクポ」
 それまで無表情だった少年の雰囲気はがらりと変わり、嬉しそうにモーグリを撫でている。以前訪れた時に友達になったらしい。全く、人間よりモーグリの友人の方が多いのではないか。
「お邪魔するわね、モーグリさん」
 タバサが会釈する。モーグリは金髪の女性を見つめて、
「その女の子は誰クポ?」
「私たちのお客さんよ」
「だったら、お茶を入れるクポ」と言って飛び立とうとしたが、ハルトがぎゅうっと抱きしめているため、
「もう! ハルト、離すクポ〜っ」
 その様子を見た女性はクスクス笑った。
 結局、お茶の準備に彼もついていき、タバサは暖炉の前で女性と二人きりになる。セルキーの彼女はおしとやかに膝を揃え、クッションに腰掛けた。
 台所では後輩が楽しそうにモーグリを手伝っている。タバサはふっと表情を緩めた。
「ハルトはね、声が出ないのよ」
「え——」
「出せない、っていうのが正しいのかな。とにかく、昔海に落ちたのがショックで、口がきけなくなったの」
「そうだったのですか……」女性の青眼に憂いが浮かんだ。
「でも、旅に出てからちょっとずつ変わってきた。ああやって幸せそうにしてるのを見ると、ほっとするわ」
 つられて女性も微笑む。
「お茶が入ったクポー」
 ハルトがお盆を持って登場した。カップを渡された女性は、タバサに向き直る。
「私、外の世界を全く知らないんです。キャラバンの旅のこと、教えていただけませんか……?」
「ルダ村のみんなからは聞かなかったの」
「いえ、その、慌ただしかったもので」
 女性はそこで、茶葉の芳醇な香りに唇を綻ばせた。
 何から話すべきだろう。しばしタバサは思考を巡らせた。
「私たちティパ村のキャラバンは、四種族から一人ずつ、四人でキャラバンを組んでるの」
「あ、それは聞いたことがあります。とても珍しい例ですよね」
「他の村からしたら、そうかもね。うちでは当たり前だからなー。
 とにかく、私たちの他にもリーダーのセルキーと、もう一人ユークがいるわけね。って言ってもリーダーは中身クラヴァットだし、ユークはセルキーとしか思えないから、微妙だけど」
 仲間たちをばっさり切って、ずずっとタバサは茶をすする。厳しい批評は気の置けない関係だからこそ。
「ええっと」女性はどう反応したものか、戸惑っているらしい。
「ハルトだって、中身はユークみたいなものよね」
「……」
 本人は居心地悪そうに座り直す。
 お茶を飲んで舌が滑らかになったタバサは、身を乗り出して力説した。
「私に言わせてもらえば、みんな種族としての誇りをもっと持つべきなの!」
 どうやら心の中にあった火種が、機会を得て一気に燃え上がったらしい。
 種族の誇り。リルティにとってそれは、アイデンティティに等しい。
 女性はカップを持ち上げる手を止めた。
「タバサさんなら、武の民の誇りを——ということでしょうか」
 少女は胸を反らす。
「そりゃそうよ。田舎リルティだって、誇りならアルフィタリアキャラバンにも負けないわ」
「では、リルティの誇りとは、具体的にどういうものですか」
 いつしか女性は真剣な顔つきになっていた。周囲には我の民らしからぬ厳粛な空気が漂う。
 タバサはしっかりと視線を受け止めた。
「戦いの場で率先して前に立つこと。私はキャラバンだからね。でも……それ以外はまだ、探してる途中なの」
 実家は裁縫屋だが、繕い物は苦手だ。キャラバン以外では、なかなか得意分野を見つけられないでいる。
 女性はそっとまぶたを閉じて、
「私にも、誇りを見つけられるでしょうか」
 タバサはにっこり笑う。
「旅をすれば、いつかは必ずね。
 ルダキャラバンと一緒にいたってことは、あなたも旅に出るんでしょう。じゃあ、競争しない?」
 女性は目をぱちくりさせた。
「競争、ですか」
「そうよ。どっちが先に種族の誇りを見つけられるか」
 セルキーの白い頬にぱっと赤みが差す。
「……はい!」
 いい返事だった。
 率直に、タバサは羨ましかった。これから先、彼女は数え切れないほどの神秘や不思議と遭遇するだろう。キャラバンにとっては色あせてしまった景色を、その眩しい瞳でとらえて記憶に刻みつけるのだろう。
「なら、約束ね」
 ハルトの目の前で、二人は指切りを交わした。出会ったばかりだというのに、言いようのない連帯感が生まれていた。



 モーグリの巣でたっぷりお茶を楽しみ、ついでに四方山話に花が咲くと、あっという間に時が過ぎた。お堀を渡る橋の上で、待ちくたびれた様子のルダキャラバンと再会する頃には、日が暮れかけていた。
「もー、探したんだよ!」
 ハナ・コールがかんかんになって仁王立ちしている。追っ手は見事に蹴散らしたらしい。さすが、身のこなしに定評のある我の民だ。
 女性はここまで送ってくれたティパ村の二人を振り返り、
「本日は、ありがとうございました」
 優美な仕草でお辞儀した。
 ハルトは改めて彼女を観察し、ちぐはぐな印象を受けた。セルキーらしく毛皮を身につけているが、腕は金属の小手に覆われており、肩はなめらかな線を描く。……何故か、自分と近しいものまで感じた。
「競争、負けませんよ」
「こっちこそ」
 タバサは短く答え、表情を明るくした。
 そこでハルトは女性に歩み寄ると、ポーチからしましまりんごを取り出した。
「まあ。ありがとう」
 彼女は嬉しそうに受け取った。去年もこうして、デ・ナムやアルテミシオンに渡したものだ。彼は様々な思いを込めて、出会った人にりんごを託していく。
「それでは……」
 女性はルダ村キャラバンとともに去って行った。
「あの人。盗人に間違えられて、同族のダ・イースたちが逃がした、ってところかしらね」
 タバサが自分の所感を話した。ハルトはかすかに首をひねる。
「ふふ。例の競争、絶対に負けないわよ〜」
 彼女は腰に手を当て、決意を新たにした。



 その夜、新鮮な空気を吸いにハルトが宿の外へ出ると、厩でパパオの世話をしていたペネ・ロペと出会った。
「あらハルトくん。遅くまでご苦労様」
 ご苦労様なのはペネ・ロペの方だ。彼はリーダーの負担を軽くしようと、手を差し出す。
「もう終わるところよ。でも、せっかくだから手伝ってもらおうかな」
 世話をバトンタッチし、彼女はこみ上げてきたあくびをかみ殺す。
「そういえば、ハルトくんたちはルダの二人に会ったんだって? どう、元気にしてた」
 こくこく頷く彼を見て、「良かった。また手紙でも書こうかな」微笑を浮かべた。
 そして、ペネ・ロペの思考は昼間の出来事まで遡っていく。
「そうそう。今日ね、お城で侍従長をやってる、クノックフィエルナさんって人に捕まって、大変だったのよ」
 続いて声をひそめる。
「ここだけの話、お姫様が家出しちゃったんだって」
 ブラッシングをするハルトの手が、一瞬止まった。
「キャラバンにも捜索に協力して欲しいみたいなの。そのうち正式に依頼状が届くわ。
 でもあたしたち、お姫様の顔も知らないのよ? どうすればいいのかしら。しかもその人って、リルティとクラヴァットのハーフなんでしょ。ますます想像がつかないわ」
 武の民と温の民のハーフ。青の瞳と金の髪、すらりとした背丈を持ち、無骨な小手をつけていた女性の姿が連想される。おまけに彼女は城の兵士に追いかけられていた。
「……」
 ハルトは黙って手を動かし続けた。



「ごめんください、かな。それともお邪魔します、がいいかな」
 ペネ・ロペはダンジョンの玄関先を、行ったり来たりしていた。
 ジャック・モキートの館。巨人の中の巨人ギガースロードと半人半蛇ラミアの魔物夫妻が暮らす、一風変わった屋敷だ。アルフィタリアからごく近く、中庭にはミルラの木が生えているため、様々な村のキャラバンがよく訪れる。
 タバサはいつまでも逡巡しているリーダーにすっかり呆れきって、
「そんなこといいから、早く入りましょうよ」
「だ、だって、人様の家にお邪魔するのよ! 勝手に上がるわけにはいかないわ」
 彼女は妙に礼儀にこだわっている。
「まったく……何回ここに来てるのよ。ここはダンジョンで、私たちはキャラバンなんだから」
「わ、分かってるってば〜」
 ついに、ペネ・ロペは意を決して扉を叩いた。
「たのもーっ!」



 中庭に一歩足を踏み入れた途端、ティパキャラバンは大混戦に巻き込まれた。
「ガーゴイルが一、二……六体!? 先に蹴散らすわ、グラビデよろしくっ」
 群がる有翼の魔法生物を発見し、ペネ・ロペは悲鳴に近い号令を放った。しかし。
「だめだ。まだ魔石が揃ってない!」
 ユリシーズの所持するサンダーリングだけでは、どうやってもマジックパイルは行えない。
「し、しまった。ええと魔石のある場所は——」
 ペネ・ロペが記憶を辿りながら首を向けた部屋は、最悪なことにガーゴイル地帯を抜けた先にあった。
「とにかくここを突破するわよ!」
 魔法を操る豹クアールと踊る植物オチューの相手を、前衛の女性二人が引き受ける。火氷雷毒、あらゆる魔法が飛びかう戦場をかいくぐり、ラケットと槍が魔物をなぎ払っていく。
 前年にハルトが入手していたケアルリングのおかげもあり、数十分に及ぶ格闘の末、なんとか扉にたどり着くことが出来た。
 素早く部屋に入る。皮のマスクを被った小鬼グレムリンを倒して魔石を回収すると、全員その場にへたりこんだ。
「な、なんだったの……」タバサは足の力が抜けて、倒れそうになった。すぐにハルトが体を支える。
「ありがと」声に元気がない。最前線で攻撃にさらされ続けたのだ、辛くないはずがなかった。
 ユリシーズもすっかり集中が切れてしまい、辛そうに仮面を下に向ける。
「今日はまた、一段と警戒されてるな」
「うん……肌が痛いわ。なんだか魔物たちがピリピリしてる」
 ペネ・ロペが膝の上のラケットをなでた。ずいぶん長く愛用した武器だが、そろそろ新調しようかな、と思いながら。
「目立たないように行動して、トンベリコックだけやっつけましょう。あたしたちの目的は魔物を倒す事じゃなくて、ミルラの雫を取る事なんだから」
 ミルラの木が待つ館の奥へと進むには、鍵が必要となる。だが、それを持つ主人のジャック・モキートは昼間寝ていて、よほどの騒ぎがない限り起き出してこない。長年各地のキャラバンが通いつめて検証した結果、それには夕食の準備をしているトンベリコックをやっつけるのが一番手っ取り早い、という事実が判明していた。
 軽く休憩を挟み、彼らは中庭に面した六つの部屋を順番に攻略していった。グラビデさえあれば、もうガーゴイルも怖くない。
 最後に訪れたのは厨房だった。包丁を持ってのろのろ応戦してきたトンベリコックを撃退し、一息つく。
「この料理は……」
 ユリシーズが立ち止まった。視線の先には、ぐらぐら煮えたぎる鍋がある。ペネ・ロペは不思議そうに、
「どうしたの」
「いつもの料理と違うんだ。なんというか、薬くさい」
 料理人のはしくれは敏感だった。
「誰かが寝込んでるのかもね」
 タバサの適当な推測に、ケージを抱えてぼんやりしていたハルトが、目を見開く。
 ユリシーズはぽんと手を打った。
「……それだ」
「えっ」
「マギー奥さんかモキートのどちらかが、病気なんだよ」
 タバサは(本当かなあ?)と首をかたむける。
「ハルト。魔物が中庭で襲ってきたとき、特に俺たちを近づかせなかった場所は分かるか?」
 後輩の観察力を当てにした発言だ。去年ヴェオ・ル水門を攻略した時も、ゴーレムを倒す作戦を立てたのは彼だった。
 ハルトは頷き、ペネ・ロペが取り出した館内見取り図の、ある一点に指をさす。
「寝室……マギー奥さんの部屋ね」
 なるほど、魔物たちが異様に殺気立っていたわけだ。
「悪いときにお邪魔しちゃったわね」ペネ・ロペは肩を落とし、意気消沈しているようだった。
 タバサは嫌な予感がした。リーダーが次に何を言い出すのか、予想出来たのだ。
「あたしたちで、治してあげられないかな」
 案の定彼女はそう呟いた。耳ざといタバサはきっと目を釣り上げて、
「リーダー。それ、本気?」
「いやあ、その……」ペネ・ロペは困ったように笑みを浮かべる。
 タバサは拳を固くした。
「むしろチャンスでしょ! 奥さんがいないってことは、いつもより安全に雫を入手できるのよ」
 ジャック・モキート戦が開幕すると、マギー夫人は毎度部屋から飛び出して援護に回る。範囲減速魔法スロウガを操る、厄介なサポーターだった。
「いいや。向こうに協力した方が、余計な戦闘をしなくて済むじゃないか」
 地図を見ながらハルトと何かを検討していたユリシーズが、話に割って入った。
「つまり、交換条件ってこと? 病気を治す代わりに雫をくれって? 相手は魔物なのよ、そんなの無理に決まってるわ」
「だが、ここの本は俺たちにも読めるんだ。マギー奥さんの言葉だって、一応理解できただろ」
 屋敷には書斎があって、天井まで届く本棚に、身の丈ほどもある本がぎっしり詰め込まれている。以前彼らは気まぐれに何冊か選び、目を通したことがあった。
「ミルラの木が、雫を落とすようになったのは、瘴気の世界になってからだ」「瘴気が世界にあふれた後、しばらくしてから魔物が現れた」「古き時代には瘴気がなく、また魔物もいなかった。人々が授かっていたのは大クリスタルの輝きのみ」——といった文章が並んでいた。魔物のすみかにはふさわしくない内容だと、不可解に思った記憶がある。
 タバサは眉をひそめた。
「言葉がわかっても、会話なんて成り立たなかったじゃない」
 もの言いたげなハルトの視線を受けて、ユリシーズが説明した。
「マギー奥さんがいる寝室には、火と水のホットスポットがあるんだ。昔必要があって侵入したんだが、奥さんが気配を悟って俺たちに声をかけてきた。『ディナーの用意はまだかしら』ってな。トンベリコックと勘違いしたんだろうが、その時は縮み上がって一目散に逃げ出したよ。
 とにかく魔物の枠から外れた夫婦なんだ。その気になれば、意思疎通だってできるかもしれないぞ?」
 このような理路整然とした話を聞いても、タバサは考えを変えなかった。ぎゅっとマールの槍を握りしめ、
「言葉が通じても話がかみ合わない相手なんて、魔物以外でもたくさんいるわ。だいたい、相手は私たちを晩ご飯にしようと襲ってくるのよ」
 彼女が言及したのは、クリスタル・グースの有名な童謡だろう。
『お腹を空かせたジャック・モキートは、いますぐディナーをと、コックトンベリを叱った。
 眠りから覚めたマギー奥さまは、まだディナーの用意が出来ないなんて信じられないわ、と、ジャック・モキートを叱った。
 慌てたジャック・モキートは、とにかく急いでディナーを、と、ふたたびコックトンベリを叱った。
 それでもコックトンベリは、慌てずいつものマイペース』
 ディナーとはキャラバンのことを示しているのではないか、という説が根強い。しかし、実際にここでキャラバンが全滅したという噂はとんと聞かなかった。
「魔物と私たちは相容れないって、デーモンズ・コートでも話したでしょ」
「ここのトンベリは、あそこのリザードマンよりよっぽど愛嬌があるじゃないか。歩み寄りの可能性を否定してもいいのか?」
 押し問答になり、置いて行かれた形のペネ・ロペがおろおろしていると。ひとつ手が挙がった。
「ハルト?」
 漆黒の瞳に射抜かれて、タバサの背筋は何故だかしゃんと伸びた。
「まさか、あんたが交渉役をやるっていうの」
 表情や言葉に頼らずとも、これだけ意思を伝達できるハルトならば……と三人は考えてしまった。しかし。
「そんなの危険よ。ここはリーダーであるあたしが」
「いやいやそんな面白そうな事、他人には任せられない。俺がやる、すごくやりたい」
「ユリシーズさんは後先考えなさすぎ。そもそも交渉するって決まったわけじゃないでしょ!」
 キャラバン全体を巻き込んだ言い争いに発展しかけた時。ずしん、ずしん……扉の向こうから地響きがした。
 ペネ・ロペは毛皮に包まれた肩をびくっと揺らす。
「今の足音、もしかして」
「ジャック・モキート——!?」
 トンベリコックはもういない。静かになった厨房では、謎のスープが煮え続けている。
 三人は小声になった。
「様子を見にくるかもしれないわ」
「ここで戦うのは勘弁だな」
「どうする、リーダー」
 ペネ・ロペはゴクリと唾を飲んだ。
「……隠れましょう!」
 戸棚の奥、テーブルの下。すべての家具がとびきりのビッグサイズなので、身を隠すのは容易だった。
 誰も見つからないことを祈りつつ、四人はそれぞれの隠れ場所で息をひそめた。
 派手な音を立てて扉が開く。特大の扉は大人のユークですらノブに手が届かないくらいだが、ジャック・モキートならば余裕である。かくして屋敷の主人が姿を現した。
 たまたまペネ・ロペはいい位置にいたので、魔物の様子がよく見えた。ギガースロードは立派なガウンを羽織り、たっぷりと髭を結っている。身だしなみにはよく気をつかっているらしい。
 なんとなく、前に戦った時よりも元気がないように見えた。やはり奥さんの件で疲れているのだろう。ペネ・ロペは親友のクラリスに散々「甘い奴」と評されてきたこともあり、すぐにジャック・モキートに同情した。
 幸い彼はトンベリコックの不在に気づいていない。ましてや部屋の中にキャラバンが隠れているなんて、夢にも思わないだろう。誰もがほっとしかけた、その瞬間。
 テーブルの下からハルトが這い出してきた。
(! ちょっと、何やって——)
 慌てて家具の裏から飛び出そうとしたペネ・ロペだが、近くにいたユリシーズに止められる。
(あいつに任せるんだ)
 何か考えがあるらしい。ペネ・ロペは渋々引き下がった。ここから表情はうかがえないが、タバサもきっとはらはらしていることだろう。
「!」
 ジャック・モキートは宿敵たるキャラバンを見つけ、警戒に身をこわばらせた。
 仲間の心配をよそに、ハルトは落ち着いて懐から袋を取り出す。
(あれは?)
 何かの素材だろうか。少年は武器すら置いてきたらしい。無防備そのものの姿で、煮えたぎる鍋を示しながら、袋を持ち上げた。
「……」
 ジャック・モキートは渋面を刻み、彫像のように固まっている。
 永遠に思われた沈黙は、ついに破られた。ギガースロードが動く——自分の五分の一ほどの大きさの少年から、袋を受け取るために。魔物はいかにもおっかなびっくりといった様子で、ペネ・ロペは思わず笑いそうになった。
 ハルトは表情を緩めた。屋敷の主人はそれを驚いたように見つめると、どすどす足音を立てながら中庭へ戻っていく。
「——ハルト! この馬鹿っ」
 戸棚から転がり出てきたタバサが、後輩の背中をぽこりと叩いた。本当は頭を狙いたかったのだが、背が足りなかったのだ。
 リルティのパンチはなかなか効いたらしく、わずかに渋い顔をして、彼は背中をさすった。
「ハルトくん、今のは叩かれても仕方ないわよ」タバサが動かなければ、ペネ・ロペが何らかの措置をとっていただろう。ハルトはぺこりと礼をした。
 ユリシーズが、あごに手を当てる。
「今渡したのは『かいふくやく』だな?」
 なるほど、万病に効くという珍しい素材だ。ユリシーズが入手したものを、キャラバンの癒し手であるハルトが預かっていたようだ。
「貴重な素材を〜。マール峠キャラバンが聞いたら卒倒するわよ」タバサはまだ怒りがおさまらないらしい。
「まあまあ。でも、雫を取るまでは油断できないわ。気を緩めないようにね?」
 扉を開けるスイッチを踏んで、傾いた日が差し込む中庭へ出た。やはり、マギー夫人のいる寝室の前は厳重警戒モードだった。クアールやらガーゴイルやらが、うようよいる。
 四人は魔物を刺激しないような位置に腰を下ろし、ジャック・モキートの帰りを待った。
「あ、出てきた」
 ギガースロードの足取りは心なしか軽い。「ズシン、ドシン」が「ドンドコ」くらいにはなっている。
「ハルトくん、出番よ」ここは彼に任せることにして、三人はバックアップの体制をとる。
 先輩たちの期待を一身に背負ったハルトは、傍目には堂々とした歩調でジャック・モキートの前に出た。クリスタルケージを高く掲げる。
「さあて、どうかな」面白がるようにユリシーズが呟いた。
 ケージを認めたジャック・モキートは、ミルラの木がある方を指さす。ハルトは首肯した。
 仕方ない、という風に鍵を放ると、ギガースロードは配下を引き連れ食堂に消えた。どこまでも人間くさい魔物だった。
 ペネ・ロペが柱の影から躍り出て、大役を成し遂げた後輩へ抱きつく。
「やった! ありがとーハルトくんっ」
 あくまで親愛の域を出ないふるまいだったが、ユリシーズから刺すような視線を感じ、「〜っ!」ハルトは必死に体を離す。
「悔しいけど、今回ばっかりはあんたのお手柄ね」タバサもふうっとため息をつく。なんだかんだ言って、心配していたのだ。
 ハルトは、少しだけ誇らしい気分になった。



「あのさ、ユリス……」
「なんだい」
 すっかり恒例となった、ミルラの木での手紙タイムにて。ペネ・ロペは恋人のそばに身を寄せた。
「今回はあたしたち、すっごく楽できたわけだよね。でも、次もこうなるなんて保証はないし、他のキャラバンの事を考えると、マギーさんが弱っているうちに倒しちゃった方が、良かったのかも……」
 ジャック・モキートとディジー・マギーは、戦ったとしても毎回「撃退」で済んでいる。とどめを刺す前に相手が逃亡するからだ。もしも館から魔物を駆逐できたら——タバサに対しては否定してみせたけれど、ペネ・ロペは考えずにはいられなかった。
 ユリシーズは彼女のさらさらした金髪を、優しく指ですいた。
「そうかもしれない。だが他のダンジョンみたいに、何度でもボスが甦ることだってあり得るぞ。逆に、ここの魔物とは歩み寄れる可能性がある、と分かったんだ。それは良いことだろう」
「……うん、そうね。そうよねっ。あたし、他のキャラバンに手紙書くよ。今日の不思議な出来事を、教えてあげなくちゃ」
 ペネ・ロペは、ぱっと笑顔を作った。
 一方、年少組はというと。
 返事を書き終えたタバサが、ハルトに近寄った。彼は手紙をさっと後ろに隠す。日記の時と同じ反応だ。ちらりと確認できた宛名は、何故か「ルダキャラバン様へ」となっていた。
(案外仲がいいのかしら?)頭の隅に疑問が浮かぶ。
 怪訝そうにするハルトへ、タバサはずいっと顔を近づけて、
「もうあんな危なっかしい事しないでよ。この中じゃ、あんたが一番弱っちいんだから」
 アリシアの心配も念頭に置きつつ、文句を言った。
「……」後輩は半眼になる。拗ねているのかもしれない。自分だって認めたくせに、と。
「そりゃ、私だって戦わずに済むならそうしたいわ。でもね、魔物って、問答無用でこっちに襲いかかってくるでしょう。身を守る為には戦うしかないのよ。
 もし今のキャラバンにクラリスさんがいたなら、こんな結末にはならなかったわね」
 ハルトは虚をつかれた。確かに姉がいれば、ジャック・モキートは容赦無く斬られていただろう。体調不良だからといって、魔物相手に容赦をするような人ではない。
「ともかく! あんたは後ろで逃げ回っていなさい。ケアルのタイミングと位置だけは信用してるから」
 素直になれない言葉を投げつけて、タバサはずかずか歩いて行った。
 その後ろ姿はなんだかジャック・モキートそっくりで、ハルトはほんの少しだけ微笑んだ。
 モグに手紙を託した四人は、中庭を横切って帰路につこうとする。
「あれ?」
 だが、そこに魔物たちが立ちふさがった。今にも飛びかかってきそうなクアールに、威圧的に羽ばたくガーゴイル、独特の構えをするグレムリン——どうも穏やかな雰囲気ではない。
「何よこいつら」
 タバサは立ちすくんだ。もう槍を持ち上げる力など、残っていない。
 ジャック・モキートが味方についたことで、完全に油断していた。いくら主人が認めても、不満分子などどこにでもいるものだ。おまけにボスと講話しているだけに、こちらからは手が出しにくい。
(まずいな……)ユリシーズは息を殺して、じいっとサンダーを放つ機会をうかがった。
 気づいた時にはもう魔物が肉薄していた。ペネ・ロペが叫ぶ。
「逃げて!」
 疲れて動けないリルティの少女を目がけて、ガーゴイルの爪が振り下ろされる。
「ひっ——」彼女が目を覆いかけた時、すっと流星が走った。
 危険な一閃を受け止めたのは、ペネ・ロペでも、ユリシーズでもない。
「ハルトくん……!?」リーダーが驚愕する。
 右手に剣を、左手に盾を構えた少年は、そのままなし崩しで戦闘に巻き込まれた。慌ててペネ・ロペたちも助太刀に入る。
 タバサは一人、呆然としていた。視線は、前で戦う後輩に固定されている。ハルトのバスタードソードが閃く度に、魔物たちの戦意が揺らぐのが分かる。意外に鋭い動きは剣聖の姉を彷彿とさせた。だが、厳密には武の民に迫るあの剣技とは違う。力を軽やかに受け流し、決して誰も傷つけない——温の民特有の「守るための剣」だった。
 回復役の少年が積極的に武器を握る姿なんて、仲間たちすら見たことがない。いつの間にここまで鍛え上げていたのだろうか。
 ペネ・ロペはラケットを閃かせながら、ふと思い出す。前年の終わりに、剣を持ってティパ村を歩くハルトを目撃したことがあった。もしかすると、秘密の特訓をしていたのかもしれない。
 次にリーダーは、立ち尽くすタバサをちらっと確認する。ショックを受けていることは間違いない。ペネ・ロペにとっても、常に背中にいるはずのハルトと肩を並べて戦っているのは、おかしな感覚だった。
「!」
 気配を察知したハルトは、対峙していたクアールから飛び離れる。屋敷からジャック・モキートが現れたのだ。
「……」
 少年が冷えた視線を向けると、ギガースロードは腕を振り上げた。
 大変だ! ペネ・ロペは真っ青になる。しかし、「無敵の右」と呼ばれる強烈なパンチで吹き飛ばされたのは、クアールの方だった。主人の怒りを目の前にして、ガーゴイルたちも恐れをなして逃げていく。
 ハルトはほっとして緊張を解く。その肩に大きな布がかけられた。
「ロードガウン!?」
 ユリシーズが飛び上がった。ジャック・モキートが羽織っている、伝説級の合成素材だ。
 巨人はむすっとした顔でひとつ頷くと、再びキャラバンに背を向けた。
「し、心臓に悪いわ……」
 ペネ・ロペは胸を撫で下ろし、タバサはその場にへなへなと崩れ落ちた。
 もふもふした毛皮に頬をすり寄せ、ハルトは無邪気にはにかんでいる。
「お前、肝が据わってるなあ」
 呆れたようにユリシーズが言い、リーダーが頭を振って同意した。
 ペネ・ロペは、力なくこうべを垂れる少女に歩み寄る。
「タバサ……大丈夫?」
 守るべき回復役のハルトが、あそこまで卓越した剣さばきを見せた。タバサには、自分の領域が侵されたように思えてしまったのだ。
 どうしてタバサは旅を続けるの? アリシアの言葉が蘇る。そして、アルフィタリアで出会ったセルキーの女性と交わした約束も。
「なんでもないわ」
 自分が率先して前に立ち、仲間を守ること。それは武の民としての確固たる誇りだったはずなのに、だんだん薄らいでいくようだ。
 私はどうすればいいの——その呟きは、空に溶けた。

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