第三章 ただひとつ輝ける星



 ジャック・モキートの館ですったもんだの末に一つ目の雫を得た四人は、次なるダンジョンを目指すため、マール峠に立ち寄った。その時、タバサの元に速達が届けられた。
「お手紙クポ〜」
 ハルトがメンバーに入って以来、モグは何を置いてもティパ一同への配達を優先してくれる。おかげで小さなモーグリはキャラバン五人目のメンバーと言えるほど、しょっちゅう顔を合わせていた。
「お姉ちゃんからだ」
 差出人を確認し、タバサは封を切った。家族からの速達——なんとなく、嫌な予感がしていた。読み進めるに従って、その表情は徐々に驚愕に彩られる。
「どうしたの」ペネ・ロペが不安そうに覗き込んだ。
「お母さんが、倒れた」
 タバサの顔面は蒼白になっていた。いつも締めている赤いマスクが、力なく肩に落ちる。
「もともと風邪気味だったのが、悪化したんだって」
 先だってもアリシアが熱を出していた。はっと息をのむペネ・ロペ。ユリシーズは、
「村に帰ろうか」
 と提案した。仮面の奥の暗がりにも、心配そうな光が宿っている。滅多にないタバサの沈んだ姿に、ハルトも気遣わしげに視線を送っていた。
「一晩、考えさせて……」
 少年が持つクリスタルケージには、まだ三分の一しか雫が溜まっていない。ここでキャラバンごと村に移動すれば、時間的なロスは大きい。
 消沈した四人は、宿に向かった。
 その夜、寝付けないタバサが外に出て、峠を吹き渡る風に当たっていると。後ろから近づいてくる影があった。
「ロルフ」
 彼女は足音だけで正体を言い当ててしまった。ぎくり、と影は立ち止まる。
「……よくわかったな」
 マール峠キャラバンのリーダー、ロルフ=ウッドだ。
「リルティの歩調だったからね。それに、武の民ならマール峠にはたくさんいるけど、歩くたびにカチャカチャ鳴るような靴を履いてるのは、キャラバンしかいないわ」
 冷静な分析を披露してから、タバサは茶目っ気たっぷりに付け加える。
「中でも——こっそり私の後ろをつけてくるのは、あなたくらいなものでしょ?」
 ロルフは顔を真っ赤にした。今日が月のない夜で助かった。彼はしどろもどろに弁解する。
「昨日帰ってきて、しばらく家で休むことにしたんだ。タバサ、何かあったのか?」
「うん……」
 マスクを外した彼女は、普段のきりりとした印象が抜けて、目を離せば夜闇に溶けてしまいそうな儚さがあった。
 しばし間を置いて、彼女は顔を上げる。
「ま、ロルフになら喋ってもいいかな」
 昼間の速達の話をした。ロルフは難しい顔をする。
「家に帰るのか?」
「それを迷ってるのよ。お姉ちゃんだけじゃ不安だし、帰った方がいいことは分かる……。でも、私にできることなんて何もないのよ。うち裁縫屋だけど、私は家を継ぐ気はないし、商売のことなんか全然わからないし」
 加えて、タバサには新たな不安が芽生えていた。自分は、キャラバンの旅に貢献できているのだろうか。ジャック・モキートの館でハルトが見せた剣技が、頭から離れなかった。
 今宵は月が霞むほど瘴気が濃い。ティパの村は、物理的にも心理的にも遠かった。
「ただ家族がいてくれるだけで、安心することもあるだろ?」元気付けるようにロルフは声をかけたが、タバサは力なく首を振る。
「それだと、私が納得できないのよ」
 彼女は真っ暗な夜空を見上げた。瘴気の間に、星が転々と散っている。あんなに弱い光でも、夜の底まで届いていた。
「でも、不思議ね。雫を求める旅の途中で、キャラバンをやめたいって何度も何度も思ったのに。今は、旅を続けたい」
 ロルフも隣に立って、同じように天を仰いだ。
「そうだよな。不思議だ」
 おそらくどの村のキャラバンも、一度は同じことを考える。それこそが、旅の魅力なのだろうか。
 タバサはくるりと身を翻した。
「話し込んでたら、体が冷えちゃった。宿に帰るね」
「おう。おやすみ」
「いろいろ聞いてくれて、ありがとう」
 彼女は微笑んだ。
「……はあ」
 後ろ姿を見送り、ロルフはため息をつく。悩み、迷い、それでも前に進もうとするタバサが、彼にはどうにも魅力的に映るのだった。



 翌朝、タバサはモグに手紙を預けた。
「なんて返事したの?」
 おずおずとペネ・ロペが尋ねる。
「旅を、続けるわ」
「……いいのか?」
 期待がにじむユリシーズの問いかけに、
「うん。帰るのと旅を続けるのと、どっちが親孝行か考えて、ね」
 タバサは無理に笑った。胸の痛みに耐えるような表情だった。
「さ、次はセレパティオン洞窟でしょ? 早く行きましょうよ」
「そうだ、船の時間! 忘れてた」
 慌ただしく準備を終わらせたリーダーを尻目に、タバサは見送りに来たロルフと会話を交わす。
「それじゃ、行ってくるわ」
「ああ。気をつけてな」
 軽いようでいて、実は様々な感情が含まれたやりとりだ。不思議な親しさを漂わせる二人に、ユリシーズは仮面の内側でこっそりにやにやしていたらしい。
 一方、馬車のまわりを駆け回って準備するペネ・ロペに、近づく人影があった。一昨年に祖父セシルを亡くしたクラヴァットの少女、ラシェだ。
「ティパ村のみなさん……」
「ラシェちゃん、久し振りね」
 ペネ・ロペは反射的に背筋を伸ばした。どうしても後ろめたい気持ちが先に立つ。元はと言えば彼女やハルトのせいで、セシルが命を落としたのだ。
 ラシェは不安そうに訊ねる。
「おじいちゃんのお墓って——どこにあるんでしたっけ」
 ペネ・ロペははっとした。それは去年のはじめ、ルダキャラバンの二人からも質問されたことだった。
「ティダの村よ。思い出のある場所がいいと思って、そうしたんじゃない」
「そう、でしたか」
 隣にいたハルトと顔を見合わせた。自信なさげに目を伏せる少女を、ペネ・ロペは励ます。
「大丈夫。きっと二人は安らかに眠っているわ」
 四人は馬車に乗り込み、ラシェやロルフに手を振った。
 御者台にはユリシーズが座った。すっかりマール峠が遠ざかってから、
「ハナ・コールたちといい、ラシェちゃんといい。最近、どうしたのかしら」ペネ・ロペは不安を抱いた。
「これも物忘れ病の仕業じゃないのか」
 とユリシーズが背中越しに指摘する。
 荷物に埋もれるようにして座っていた少年は、不自然に体を強張らせた。
「ハルトくん……?」
 彼の腕には小さな本があった。まるで心の拠り所とでもいうように、後生大事に抱えている。
 タバサはぴんときた。あの表紙を彼女はよく知っている。
「それ、おとぎ話の本じゃない」
 ハルトが持っていたのは、子供向けの絵本だった。
「おとぎ話って、なんだっけ」ペネ・ロペが首をかしげる。
「昔お母さんから聞かなかった? 魔物が私たちの思い出を黒く塗りつぶしちゃって、それを食べた怪物がさらに魔物を増やすっていう、負のループを繰り返すやつよ」
「ああ、あれ……」
 ペネ・ロペたちも思い出した。子供心に嫌な読後感を覚えたものだ。『魔』や『姫』といった存在が登場した気がする。
「つまり、物忘れ病でなくなった思い出は、怪物に食べられてるってことか?」
「そうそう。この絵本、私も持ってたわ。内容なんてほとんど忘れちゃったけど。そっかー、ハルトくんはおとぎ話の怪物が怖いのかぁー」
 そう言ってタバサは後輩の頬をむにむにした。「〜!」彼は不機嫌そうに眉根を寄せる。
「大丈夫だよ、ハルトくん。思い出を食べる怪物なんて、どこにもいないんだから」
 ペネ・ロペはからっと笑い飛ばす。何故かハルトはきょとんとしていた。
「……?」
 黒い瞳が何度か瞬く。どうも様子がおかしい少年を、仲間たちが心配そうに覗きこむ。
「どうしたの」「何の話に反応したんだよ」
 ハルトは戸惑ったように、何度も絵本と三人とを見比べた。
「ペネ・ロペさん、今何て言った?」
「おとぎ話の怪物はいないって。それだけよ」
「——まさか。ハルトお前、あの話を信じていたのか」
 不審そうなユリシーズの問いかけに、ハルトは頷く。耳まで真っ赤にしながら。
 馬車が揺れるほどの勢いで身を乗り出したのはタバサだ。
「ええっ! こんな子供だましの絵本を、この歳まで!?」
「まあ、十年くらい誰とも喋ってないもんね、無理もないけど……」
 と言いつつ、ペネ・ロペでもフォローしきれない。魔物の親玉などという都合のいい存在が出てくる荒唐無稽なお話を、今の今まで信じていたとは……。純粋にも程がある。
 タバサをはじめ、仲間たちは呆れ半分、おかしさ半分だった。時々ハルトはなんとも幼い反応をすると思っていたが、その原因がわかった気がする。
 タバサはビシィ! とハルトの鼻先に指を突きつけた。
「あのね、おとぎ話は存在しないからおとぎ話なの。そんな怪物がいたら、とっくの昔に私が倒してるわよっ」
「!」
 ハルトはショックを受けたようだ。ユリシーズは苦笑し、腕組みをした。
「しかし、物忘れ病の傾向は気になるな。悲しい出来事があって落ち込んでいた人が、その記憶をなくしてしまったんだろ。それってまずくないか」
「あんまり辛いから、自分で記憶を封印しちゃったのよ。思い出したくもなかったのかも」タバサが推理する。
「そうかな。あたしなら、大切な人の思い出はいつまでも残しておきたいけど……」
 ペネ・ロペは訝しげだった。考えても仕方のないことだが、どうも引っかかる。
 ティパキャラバンが村長の息子のことを覚えていなかったのは、彼の印象が薄かったからだとすれば何とか納得できる。でも、ラシェの心に鮮烈な印象を残したはずの記憶があやふやになるのは、どう考えてもおかしい。
 ハルトは頬を赤らめながらそっと本を胸に抱き、何かに耐えるように目を閉じた。



 ジェゴン川東岸にて、渡し守トリスタンは既に出発の準備を終えようとしていた。
「そ、その便待ったー!」
 全速力でパパオを走らせてきたティパキャラバンが、ジェゴンの聖域に滑り込む。ペネ・ロペは即座に乗船手続きをした。結局、到着はギリギリになってしまったのだ。
「荷物の積み込みがあるんだぞ。これからはもっと余裕を持ってだな……」渡し守も渋い顔だ。
 ハルトはキョロキョロ辺りを見回す。
「どうしたの?」タバサは、何かを伝えようとする黒い瞳に気がついた。
「キャラバン以外にも乗船者がいるんじゃないか」
 ユリシーズの思いつきだったが、トリスタンは少し驚く。
「よくわかったな。アルフィタリア城の、クノックフィエルナ侍従長だ」
「えっ?」
 お城のリルティが、一体何の目的で船に乗るのだろう。
「そういうことは、本人から直接聞けよ」
 トリスタンから釘を刺され、四人は侍従長に会いに行った。大きな鼻が特徴的なリルティだ。はち切れんばかりのやる気をみなぎらせている。
「おお、そなたらはティパ村の。ところで、姫様を見かけなかったか?」
 ペネ・ロペはあっと口元に手をやった。この前立ち寄ったアルフィタリアの城下町。彼女は侍従長から直々に、失踪したフィオナ姫の捜索を頼まれていた。……すっかり忘れていた。
「見てない、です」
 彼女はかろうじて無難な返事をした。
「そうか。実は、この先のファム大農場で姫様の目撃証言があったのだ。ディアドラの鼻も、噂を裏付けておる」
 クノックフィエルナはそばにいた毛むくじゃらの犬をなでた。見た目に似合わず大層な名前だ。
「本当ですか」ユリシーズは興味がわいたようだ。
「ああ。一刻も早く保護して差し上げねば!」
 クノックフィエルナは使命感に燃えているらしい。ペネ・ロペはたじたじになりながら、
「あたしたちも、見かけたら声をかけますね」
 と改めて約束する。そこで、タバサが前に出た。
「それにしても、どうしてお姫様は家出しちゃったんですか」
 気になっていた質問を、思い切ってぶつけてみる。
「うむ……。姫様は、お母上が亡くなられてから、気を落とされていた」
 クノックフィエルナは語る。母を失ったフィオナは悲しみに耐えかねて、数日の間ずっと自室に閉じこもった。だがある日、部屋から突然飛び出したかと思うと、以前にも増して政務に打ち込むようになった。まるで、母の思い出を忘れ去ろうとしているかのように……。
 父王はそんな彼女を心配したが、あれやこれやと構ってみても、全て逆効果だった。もはや彼や臣下たちになすすべはない。国葬の日以来、誰もフィオナの涙を見たことがなかった。
(そうだったんだ)
 王女はタバサと同年代だ。もしも自分の親が死んだら——なんて、想像するだけでも恐ろしい。手紙で薬を送ったけれど、母の病気は良くなったのだろうか。
「もしかすると、姫様は自分を取り戻すために、旅立たれたのかも知れぬ……」
 城にいては、どうしても母親のことを考えてしまう。その息苦しさは、ペネ・ロペたちにもなんとなく理解できた。
「それでも、連れ戻すんですか?」
 侍従長は苦渋をにじませた。
「姫様の居場所は、アルフィタリア城なのだ」
 キャラバンにとってティパの村がそうであるように、フィオナにはあの石の城が故郷であり、帰るべき場所なのだろう。
 ハルトはうつむき、タバサは胸に手を当てる。クラヴァットとリルティ、フィオナに分けられた血の片方を受け継ぐ二人には、それぞれ思うところがあった。



 定刻から少し遅れてジェゴン川を渡ったティパ一行は、クノックフィエルナとともにファム大農場を訪れていた。直接次のダンジョン——セレパティオン洞窟に向かってもよかったのだが、フィオナ姫のご尊顔を一目拝したいと考えた結果である。
 ファム大農場に着いたのは、日が暮れた後だった。キャラバンはひとまずその日の宿を決め、部屋に荷物を置いた。この時間からでも、クノックフィエルナは王女捜しに奔走するのだろうか。
 タバサは同室のリーダーに尋ねた。
「ペネ・ロペさん。今から外に出てもいい?」
「いいけど……夕飯はもうすぐだよ」
「それまでには帰ってくるから!」
 居ても立ってもいられず、タバサは宿を飛び出した。
 月の綺麗な晩だった。清浄な光が真っ黒な木立を照らす。その中を、彼女はぱたぱた駆け抜けていった。農村の住民たちは夕飯の支度でもしているのだろう、静かなものだ。水路のせせらぎが耳に心地よい。
 彼女は侍従長の手助けをするつもりだった。
 クノックフィエルナが語った、フィオナの過去。母を失った悲しみから立ち直るために、王女は旅に出たという。
 しかし裏を返せば、フィオナはやるべきことを放棄して、責任から逃げ出したことにならないだろうか。
 年頃も近く、半分は同じ血を引いている——タバサは反射的に、自分とフィオナの境遇を比べてしまった。
 タバサがいなくても裁縫屋は存続する。キャラバンだっていつかは引退の日がやってくる……。フィオナは、他の誰であっても代わることのできないものを背負っているというのに。
 リルティには歴史がある。そして歴史に対する誇りがある。ユークと戦争を起こしたことは、ティパの村に住むタバサにとっては恥ずべき過ちであるが、その後街道を整備して、物流を担っている点については、リルティの誇りを受け継いでいた。
 だから、それを投げ出すようなフィオナの行為が、どうしても許せなかったのだ。
 もやもやした気持ちを抱えながら、クノックフィエルナを探しに出かけた先で、彼女は思いもかけない人物と再会することになる。
「あら、あなたは」
 高く声を上げてしまった。アルフィタリア城下町で出会った、金髪のセルキーの女性だった。
「まあ……」驚いて、女性は隣にいた人物と顔を見合わせる。よくよく見れば、仲間の少年である。
「ハルト! なんであんたがここに」
「偶然そこで会ったのです」
 女性は優雅に微笑んだ。知り合いとはいえ、一体どんな話をしていたのやら。
 それについては後で十分に問い詰めるとして、タバサは女性へ親しげに話しかける。
「どう、旅は順調?」
「ええ……たくさんのキャラバンの方にお世話になってます」
 彼女は微笑んだ。頭の天辺で結わえた金髪が、月の光をほんのり反射している。
「だったら種族の誇りの方は。何か見つけられた?」
「それがですね、実は」
 と、女性が声をひそめたとき、鋭いセリフが割って入った。
「姫様!」
 ワン、と犬が吠える。アルフィタリアの侍従長クノックフィエルナと、そのお供ディアドラの登場だ。
「えっ」
 タバサは固まった。次いで、ゆっくりと顔を向ける。目の前の——「姫様」と呼ばれた、金髪の女性へと。
 彼女は、先ほどまでの柔和な雰囲気とは打って変わって、厳しい目つきをしていた。
「クノックフィエルナ」声まで凛としている。
 ずかずか歩み寄る侍従長。動けないでいるタバサをハルトが引っ張り、王女フィオナと間を開けた。
「探しましたぞ。城の皆も心配しておりまする。早く帰って頂かないと」
「ごめんなさい、黙っていなくなったことは謝ります。ですが、まだ……私は旅を続けたいのです」
 フィオナは強く訴えた。もちろん、侍従長が譲るはずがない。
「そもそも一体、どこの誰が手引きしたのですかッ」
「言えません。責任は全て私にあります!」
 二人は頑固に己の主張を続ける。タバサはつい、我慢できなくなって口を挟んだ。
「フィオナ姫。あなたにはやるべきことが、あなたにしか出来ないことがあるはず! なのに、どうしてそれを放棄するの!?」
 リルティの王女は愕然として振り返った。「わ、私は——」青い瞳がはっきりと動揺を映している。
(しまった)タバサは内心頭を抱えた。ただでさえぐらついている旅人の心を、不用意に傷つける言葉だった。
 ハルトは突っ立っている仲間の腕を掴むと、無理やりその場を立ち去った。
 ラケタ実家のりんご園近くまで歩いてくる。タバサは悄然として切り株に腰掛けた。
「あんた、気づいてたの。あの人がフィオナ姫だって」
「……」
 彼は控えめに頷いた。タバサはほうっとため息をつく。
「さっぱり分からなかったわ。セルキーの旅人だとばっかり。でも、よくよく考えれば、服装もどこかおかしかったわね」
 微風が頬をなで、葉ずれの音がささやかに鼓膜を叩いた。
「あーあ、お姫様には悪いこと言っちゃったな」
 とはいえ、あの言葉には本心が含まれていた。ざらざらした感覚が胸に残る。自らの胸の裡にある深淵を覗いた気がした。
 沈んだ気分で迎えた、夕食の席。ペネ・ロペたちはタバサの話を聞いて、うらやましがった。
「それじゃあ二人はお姫様の顔を見たわけ? いいな〜」
「完全に野次馬気分だろ、ペネ・ロペ」
「あっはは、分かった?」
 事情を知らない二人はのんきなものだ。「うん、そうね……」答えるタバサは、自然と口数が少なくなる。
 美味しそうにデザートのにじいろぶどうをつまんでいたペネ・ロペは、顔を上げた。
「ハルトくん、もう食べ終わったの」
 彼が一番に席を立つとは、珍しいこともあるものだ。いつもはゆっくりゆっくり咀嚼しているのに。何やら、用事があるようだった。
 さっさと食堂を後にした彼を見やり、ユリシーズが不思議そうにしている。
「日も暮れたってのに、何の用だろうな」
「モーグリの巣じゃないの?」ペネ・ロペが言った。
 タバサには、ひとつだけ心当たりがあった。



 フィオナはひとり、宿の一室にいた。口論の末クノックフィエルナに押し込められて、ひとまず大人しくしていたところだ。
 開け放たれた窓から、風と共に紙切れが入ってきた。
「……あら?」
 拾うと、紙面に几帳面な字がびっしり並んでいる。彼女は顔を上げ、窓を見た。外には澄み渡った夜空に溶け込むように、誰かが立っている。
「ハルトさん!」
 彼はしいっと人差し指を唇にあてた。フィオナは申し訳なさそうに笑うと、素早くメモに目を通して、
「わかりました。ありがとうございます」小声で言った。
 満足そうに首肯し、ハルトは背を向けようとしたが。
「待ってください。あなたは何故、ここまでしてくれるのですか」
 フィオナが真剣な調子で問いかける。ハルトは肩越しに振り返った。星空のような漆黒の瞳が、何よりも雄弁に物語っていた。
 旅が、好きだから。あなたにも旅を好きになってほしいから——
 決して発せられることのない、彼自身の言葉を聞いた気がした。フィオナは夢を見ているような心地になる。
 少年のいなくなった窓から冷風が吹き込んできた。我に返り、彼女はメモを大切にしまいこんだ。



 翌朝、惰眠をむさぼっていたティパキャラバンの元に、焦りを隠しきれないクノックフィエルナが訪ねてきた。
「姫様を見かけませんでしたか?」
 大声で叩き起こされ、慌てて身支度を整えたペネ・ロペは、寝ぼけまなこで答える。
「ふぇ? いや、別に。いなくなっちゃったんですか」
「そうなのだ。無事でおられるとよいのだが」
 フィオナ姫はショートクリスタルという貴重な逸品を所持しており、ケージに頼らずとも瘴気の中を歩けるらしい。思えばしましま盗賊団も同じものを持っていた。
「ここから西に行っても、魔物だらけのレベナ平野だ。また川を渡ったのかもしれないな」ユリシーズが推察する。
「渡し守にでも聞いてみるか、ううむ……」
 難しい顔をしながら、クノックフィエルナは去って行った。
「宮仕えも大変ねー」
 ペネ・ロペからすれば完全に他人事である。お姫様はキャラバンの旅のついでに見つけられたら、という程度に考えていた。
 タバサはこっそりハルトに耳打ちした。
「あんた、何か知ってるでしょう」
 ハルトは首をかしげてみせる。肯定とも否定ともとれる動作だった。
「まあいいけどね」
 彼女は肩をすくめた。フィオナ姫とはまた会える、そんな予感がしていた。



 ダンジョンの中には時々、水つぼや油つぼが置かれている。
 その代表的な例であるセレパティオン洞窟には「風が生まれる場所」という別名があった。この地を発見し、風の力で動くエレベータを整備したのはクラヴァットの先祖たちだ。おそらくつぼは、ミルラの木へ至る道のメンテナンス用なのだろう。
 キャラバンはしばしばつぼを利用して戦った。水にはブリザドかサンダーを、油にはファイアの魔法を。それらは地形トラップとなって、まとめて魔物を葬ることも可能となる、が……。
「くっ、敵が多すぎるわ! サンダガ一発撃って逃げましょう」
 リザードマンの群れと巨大な甲虫ブレイザビートルに囲まれ、ペネ・ロペは悲鳴を上げた。タバサは必死に槍をふるって詠唱時間をひねりだし、マジックパイル担当の男二人が魔石を構えた。
 その隙にペネ・ロペは、魔法で手一杯のハルトの代わりにクリスタルケージを拾い上げる。
「!? リーダー、それケージじゃないっ」
 タバサが叫んだ。え、と呟き手の中を見ると、掴んでいるのは水つぼだった。ケージはちょうどブレイザビートルの体の下にある。
「やっちゃった!」
 彼女はつぼを放り投げる。
「あ」誰かが間抜けな声を出した。つぼは放物線を描いて飛び、キャラバンの真ん中で砕け散った。ペネ・ロペ以外の三人は頭から水を被った。
 ユリシーズが濡れそぼった黒い衣を翻して叫ぶ。「まずい!」もうサンダガの発動は止められない。
「……っ」
 詠唱完了から魔法が効果をあらわすまで、ほんの数秒だけ猶予がある。ハルトは動いた。水を浴びたタバサを、全力で突き飛ばす。
 刹那、空中を走った絶大な魔力が、魔物とキャラバンをあまねく蹂躙する。
 普通なら味方に魔法は当たらない。しかし水を伝う電撃や、燃えさかる油は本物の自然現象である。すなわちハルトは——。
 間一髪で難を逃れたタバサは、マスクの奥の目を見開く。
「あ……ああっ」
 ペネ・ロペは自分のしでかしたことの重大さにいまさら気づき、真っ青になった。体が麻痺して動けないハルトへ、サンダガから逃れたブレイザビートルの角が迫る。
「逃げてえっ!」
 リーダーの叫びもむなしく、彼は血の線を引いて地面にたたきつけられた。
 同じくサンダガの効果範囲内にいたユリシーズは、ぎりぎりのタイミングで体を透明化させていた。素早く魔物にサンダーを浴びせ、意識を失った後輩を救出する。
「逃げるぞ、ペネ・ロペ」
「で、でもケージが」
「タバサが拾ってる!」
 痺れてうずくまる魔物たちの横を、キャラバンは走り抜けた。
 十分離れた場所までやってきて、腰を下ろす。ユリシーズは黙ってハルトの手当を始めた。幸いレイズは効力をあらわし、ほどなくして少年はまぶたを開けた。四人は近くの湧き水で喉を潤して、小休止する。
「ご、ごめんね、みんな」
 膝を抱えたリーダーは震える声を絞り出した。
「ペネ・ロペさん、キャラバンに入って何年目よ。ドジも大概にしてよね!」
 タバサの怒りが噴出した。ファム大農場あたりから、彼女はちょっと不安定で、つつけばすぐに破裂しそうな雰囲気を醸していた。
「ごめんなさい……」
「やっぱり、リーダーなんて向いてないんじゃないの?」
「おい。そんなに言うことないだろう」
 低い声で反論したのはユリシーズだ。ペネ・ロペはぎょっとする。これは、結構本気で怒っているときの声だ。
 タバサのイライラはさらに、レイズで起き上がったハルトにも向かった。
「あんたもどうして私をかばったのよ。私は前衛なんだから、あんたの盾にならなきゃいけないの。わかってるでしょ」
「……」後輩は不満そうに唇を歪める。身を挺して守ったのに文句を言われては、当然の反応だ。
 今にも爆発しそうな空気に、ペネ・ロペは恐れおののいた。
「た、タバサ、そのへんにしておいてよ。さっきのはあたしが悪かったから!」
 リーダーが必死にとりなしてその場を収めたが、ダンジョン攻略を再開しても、四人の間にはなんとも居心地の悪い空気が漂っていた。
(困ったなあ)ペネ・ロペは頭を掻く。ここのボスはケイブウォーム。今の彼女たちなら、さほど苦戦する相手でもないが……。
 紫にほの光る水晶を叩き、スイッチを作動させる。音によって門を開閉させる仕掛けは、クラヴァットの知恵だろう。この先にはミルラの木の門番がいる。
 いつものように、ペネ・ロペはてきぱきと指示を飛ばす。
「ケイブウォームは、不用意に近づくと危険な相手よ。攻撃に巻き込まれないように、あたしとタバサで、タイミングをずらして戦いましょ。叩きつけには十分に注意してね」
 返ってきたのは、沈黙だった。
「そ、それと最後に。みんな、仲良くしてね……?」
 不安だらけのまま、セレパティオン洞窟のボス戦が開幕した。ケイブウォームは肥大化した芋虫のような魔物で、体の半分以上を土の中に隠している。その全長は誰も確かめたことがないという。
 ボスの出現と同時に、雷を纏った空飛ぶクラゲ——エレキクラゲが数体やってきた。ペネ・ロペは自分で対処しようと駆けだしたが、小さな影に先を越された。
「あ、ちょっとタバサ!」
 今のタバサは、二年前のペネ・ロペのようだ。リーダーとしての責任を必要以上に重く考え、後輩を危険に晒すまいと意地を張っていた自分自身を思い出す。ひとつ息を吐いて、彼女はサポートに徹することにした。
 しかしこの日のティパキャラバンは、連携もできなければ運もなかった。詠唱のためにハルトがケージを置けば、ケイブウォームがあたりの空気を吸い込み始める。風にケージが引きずられ、同じく足を取られた少年まで瘴気の中に放り出されて、途端にエレキクラゲの襲撃に遭う。助けようとしたユリシーズは、ボスの吐いたサンドブレスを真正面から受け——といった具合で、結局ペネ・ロペが予備のケアルを唱える羽目になった。
 数の有利をさっぱり生かせず、完全に個人の技能に頼りきっていた。本格的に危機感を覚えたリーダーは、すぐに新たな号令をかけた。
「タバサ、下がって! ハルトくんと組んで魔法剣よっ」
 すでにエレキクラゲは片付けた。ペネ・ロペ=ユリシーズコンビと共に、聖域の左右に別れて波状攻撃を仕掛ける算段だ。
 後輩たちは視線を交わす。実はキャラバンを組んで三年目にして、初めての合体攻撃だった。
 タバサはぷいっと顔を背けた。
「あんたなんか援護だけで十分よ」
 ハルトは不満そうに目をすがめたが、「……」唇を真一文字に引き結んで、ケアルリングを構えた。
(こんな敵、私一人で大丈夫なんだから)
 タバサが槍を振りかぶった——次の瞬間。どおん! ケイブウォームが巨体を地面に叩きつけた。足元が大きく揺らぎ、同時に天井から鍾乳石が降ってきた。
「きゃああっ」「ペネ・ロペ!」
 落下、衝撃、白煙。とっさにハルトがケージを拾い上げる。もうもうと巻き上がった塵が晴れてみれば、キャラバンは落石によって完全に分断されていた。
「しまった……!」
 叫び声を上げていた先輩二人が心配だ。翻ってタバサたちは五体満足だが、半分以下の戦力でボスに立ち向かわなくてはならない。
 足がすくんだ。目の前のケイブウォームが、突然大きくなったようだ。
 彼女は思わずハルトを見た。悔しいことに、後衛へ助けを求めてしまったのだ。少年は黙って黒く深い視線を返す。その手には、ファイアの魔石が握られていた。
「……そ、そうよね。早くボスを倒して、二人を助けに行かないと。魔法剣、やるわよ」
 迷いを振りきる。間髪入れず、槍の穂先が燃え盛った。
「はあッ!」
 一閃。ファイア剣が洞窟の薄闇を切り裂いた。タイミング、角度、速さともに、望みうる限り完璧な斬撃だった。
 魔法剣を放った時、タバサの心に新鮮な風が吹き込んだ。
(あれ——?)
 今までに無い爽快感。ハルトと息を合わせて放った合体攻撃は、意固地になっていた自分がつまらなく思えてしまうほど、気持ちよかった。
 自分は一人で戦っているんじゃない。当たり前の感覚が、難敵に立ち向かう勇気を与えてくれる。
 確かにケイブウォームの体はぐらついたが、まだ倒すには至らなかった。
(もう一度!)
 タバサは槍を握り直す。何度も攻撃すれば、いつかは必ず倒せる。それは今までひとつの例外もなかった事実だ。
 ケイブウォームは大きく体を持ち上げた。再び地面に体を叩きつけるつもりだ。
 走って避けるでは間に合わない。彼女は叫んだ。
「お願い、ハルト!」
 タバサの体はふわりと宙に浮かんでいた。ハルトが後ろから手を伸ばし、攻撃範囲から遠ざけたのだ。
「ありがとっ」お礼を言われて、少年は目をパチクリさせる。一体何があったらここまで態度が変わるのだろうか。
「いい、ハルト。しっかり私を守るのよ」
 あの魔法剣を放ったことで、タバサは精神的に脱皮したようだった。横顔はきりりと引き締まっている。
 ハルトは頷き、盾でケイブウォームの攻撃を受け止めた。その間にタバサは必殺技の準備をする。
 これこそ、あるべき形の温の民と武の民のコンビネーションだ。槍と盾を自在に操り、二人は一人のように戦う。
 隙を見て、ハルトが再び魔力を解き放った。リルティの槍は炎を帯びて、深々と芋虫の体に突き刺さる。
「やった!」
 苦悶の声を上げて退散するケイブウォームに、喜ぶタバサ。ハルトは肩の力を抜いた。
「おーい、こっちよこっち」
 瓦礫の向こうから、元気なリーダーの声が聞こえくる。鍾乳石の山を乗り越えてみれば、埃で真っ白になっていたけれど、二人は無事だった。
「ありがとう。結局そっちに任せちゃったわね」
「見事な魔法剣だったぞ」
 ユリシーズは魔力の流れを感じたらしい。大きな手で、二人の頭をなでてやった。
「えへへ」「……」後輩たちは照れくさそうにしている。
 ケイブウォームの出てきた穴を越えると、すぐそこはミルラの木だ。
 タバサは隣を歩くハルトに少しだけ身を寄せた。
「……いろいろ、変なこと言ってごめん。ちょっとムキになってたわ」
 ジャック・モキートの館では、思わぬ活躍をしたハルトに嫉妬してしまった。武の民の領分を荒らされた気がしたのだ。けれど、思い返せば三年前までは、温の民のクラリスがキャラバンの切り込み隊長だった。
 セレパティオン洞窟でハルトが終始不満そうだったのは、姉と比べられたように感じていたからかもしれない。
 ならば、一緒に戦おう。武の民だから、温の民だから、ではなくて……キャラバンの大切な仲間だから。守り守られ、タバサたちの旅は続く。
「でもね、出来るだけ私の後ろにいてよ。あんたに怪我されたら、アリシアに怒られちゃうわ」
 突然幼なじみの名前を出されて、ハルトは小首をかしげた。タバサはおかしそうに肩を揺すっている。
 やっと辿り着いたミルラの木。その背後には、どこまでも青い海が広がっていた。洞窟は大陸の端に通じていたのだ。
 ペネ・ロペは金髪に風を受け、気持ちよさそうに目を細める。
「セレパティオン洞窟は、伝説だと風が生まれる場所って言われてるけど——」
 キャラバンの間では「ケイブウォームが風を巻き起こしている」という説もあった。しかし、
「海から風がやってくるって思った方が、よっぽどいいよね」
 リーダーの眩しい笑みに、誰もが同感だった。
 一行はこれから、海を越えてライナリー島へ向かう。風の生まれる場所、そしてまた別の伝説が眠る場所へと。

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