第三章 ただひとつ輝ける星



 もう二十年近くも前のこと。クラリスはまだ赤ちゃんだった弟を抱え上げ、ティパ村のクリスタルの前に来ていた。
「おはよーございます!」
 元気に挨拶し、頭を下げる。それは毎朝の習慣だった。
 小さなハルトは腕の中で、黒い瞳をまん丸にしている。
「ハルト、よーく覚えておくんだよ。何かあったら、すぐにクリスタルに報告するの。今日も美味しいご飯が食べられましたとか、新しい友達が出来ましたとか。
 クリスタルにはね、感謝の気持ちをいっぱい伝えるんだよ」
 と言っても、喋ることすらままならない弟は、聞いているのかいないのか。無邪気に微笑んでいる。
 彼女は台座に上り、結晶の表面へ顔を寄せた。無限に続く水色の中に、幼いクラリスが映っている。まるで海をのぞき込んでいるようだ。
 ……不意に、鏡像の唇が動いた。
『あなた、いつもここに来るのね』
「え」
 クラリスはびっくりしてあたりを見回す。誰もいない。もう一度、まじまじと結晶を眺めた。
 もしかして、クリスタルに映った私が——喋った?
『ずっと前から、何度も何度も。事あるごとにここにきて、祈ってるでしょう』
「知ってるの……?」
 おそるおそるクリスタルへ話しかける。クラリスの顔をした誰かは微笑んだ。
『ええ。あんまり熱心なものだから』
 いよいよこれは、ホンモノだ。クラリスは混乱しながら弟を揺さぶった。
「ハ、ハルト、大変だよ。クリスタルの精だ。精霊さまだっ」
 必死の訴えもむなしく、弟はむずがるだけだ。
 クリスタルの精(?)は赤ちゃんに興味を持ったようだ。クラリスと同じ長さの髪の毛が、結晶の中でちらちら白く光っている。
『この子は、あなたの弟なのね』
 クラリスはおどおどしながら、
「う、うん」
『どんな子に育つのかしら』
「わかんない」と即答しておいて、「けどね。ハルトは大きくなったら、私の夢を叶えてくれるんだよ」
『夢……?』
 クリスタルの中の少女は、過去へ思いをはせるように声色を変えた。
『夢、かあ。なんだか懐かしい言葉ね』
「精霊さんは、夢はないの」夢見ることを「懐かしい」と語るのは、相当ヘンなことではないか。幼いクラリスでさえ疑問を抱いた。
『ずうっと昔は、何かを夢見ていた気がする。でも今は、待ちぼうけているだけね』
「何を?」
 精霊は、寂しそうに微笑んだ。
『今の間違った循環の形を、壊してくれるような誰かを。思い出が自然に消えていくような、当たり前の世の中を取り戻してくれる誰かを。そんな人、いるわけないのにね』
 精霊の話は独りよがりで小難しく、クラリスには半分も理解できなかったけれど。
「……それ、うちの弟ができるかもしれない」
 クリスタルの中と外、二人のクラリスの目線を浴びて、ハルトはびっくりしたように目を見開いている。
『この子が? まさか』
「だって父さん、言ってたもん。父さんは目に見えなくなっても、いなくなったりしないって。ハルトは、きっと父さんの代わりに夢を叶えてくれる。——瘴気を晴らしてくれる。
 だからお姉ちゃんの私は、この子を支えてあげるんだ」
 クラリスは胸を張った。子供らしく論理には飛躍があったけれど、彼女の語る未来に、精霊は少しだけ心惹かれてしまったようだ。
 しかし。
『瘴気を晴らす? 無理よ。そんなこと、あの子が決して許さないわ……』
 鏡像のクラリスは顔を曇らせた。一瞬水晶がチカッと光ったかと思うと、気配はどこかに行ってしまう。後にはぽかんとしている少女だけが残された。
「あっ……。精霊さん、消えちゃったな」
 ハルトはじいっとこちらを見ている。たった今どんなに不思議なことが起こったのか、彼は分かっていないだろう。
「——ってことだから。お前も、クリスタルにしっかりお祈りするんだよ?」
 結局、成長した弟はその約束を守ったのかどうか、クラリスは忘れてしまった。「その日」の到来とともに。
 クラリスは気まぐれに姿を現す「精霊」と会話して、しばしば楽しいひとときを過ごした。精霊は彼女の夢を応援し、ハルトのことも気にかけているようだった。クリスタルに願いをかける習慣は、「その日」まで長く続いた。
「……精霊さん」
 夜、たったひとりで広場にやってきたクラリスは、クリスタルへ向けて低く呟く。髪の毛だけでなく背丈もすらりと伸びて、いつしか立派な「少女」になっていた。
 彼女は精霊がいようがいまいがお構いなしに、
「ハルトの声が、出なくなっちゃったよ」
 台詞は奇妙に乾いていた。悲しさだけでなく、自嘲の意味合いが混ざっている。それまで彼女にあった無邪気な部分、子供らしさを司る部分が消え失せてしまったようだ。
 クラリスは唇を噛む。
「私のせいだ。あの子を守り切れなかった。だから、もう……お願いはしない。クリスタルに祈るのはやめる。これからは、私があの子を導くんだ」
 他人を頼る時代は、もうおしまいだ。
「いつか全部終わったら、必ず報告しにくるね」
 クラリスの決然とした表情が月光に浮かび上がる。彼女はくるりと踵を返した。
『ごめんなさい、クラリス』
 結晶の向こうで、白い少女は胸に手を当ててうつむいた。その後ろには、深い深い黄金色の闇が控えている。
 少女は背後へ問いかけた。
『これはあなたがやったの、ラモエ……?』
 クリスタルの中に広がる世界——クリスタルワールドには、おとぎ話の『姫』と『魔』が住んでいた。



 今年の使命を終えたクリスタルキャラバンは、懐かしきティパ村に帰郷して真っ先に村長の家に向かった。
 リーダーの報告を受け、村長ローランは豊かなあごひげをなでた。
「ほほう、アルフィタリアの姫とともに、旅を……」
「はい。あ、でもフィオナ姫は、あんまりお姫様っぽくなかったです。元気な女の子って感じで。タバサなんか、すっごく仲良くなってました」
 ペネ・ロペはマレードが淹れてくれたお茶をすする。去年と違って深刻な話もない。気分はすっかりくつろいでいた。
「これって大手柄ですよね?」とユリシーズは得意げだ。
「ユリスの功績じゃないでしょ。
 それで、砂漠で見つけたのは新しいホットスポットだったんです。手紙でいろんなキャラバンに訊いてるんですけど、今のケージは多分、誰も知らない属性を宿してます。これがあれば、レベナ平野の先に進めると思うんです」
「あの先へ……」
 ローランも若い頃はキャラバンをやっていた。言葉の意味を正確に理解したようだ。ハルトが持つクリスタルケージを見やる。
「そこに何があるかは、まだわかりません。祭りが終わって落ち着いたら、みんなで行ってみようと思います」
 ローランはしわに埋もれた目を細めた。
「ああ。行ってらっしゃい」
 四人が村長の家を出るとすぐに、クラリスに出会った。
「おう、おかえりみんな」
「どうしたのよ、こんなところで」
 ペネ・ロペはきょとんとした。どうやらキャラバンが出てくるのを待ち構えていたようだ。
「いや……ハルトに用があってな」
 彼女は弟に向き直る。
「今夜、水かけ祭りの儀式が終わったら、私の元に来て欲しい」
 真剣なまなざしだった。一も二もなくハルトは頷く。
「お前に話したいことがある」



 というわけで、その年の水かけ祭りの宴を、ハルトは姉と一緒に、少し遠くから見ていた。
 雫によって清められ、再び輝きを取り戻したクリスタル。その周りを、村人たちが輪を描いてくるくる踊っている。中にはペネ・ロペとユリシーズも混じっていた。見慣れたはずの光景は、毎年少しずつ更新されていく。
「ペネ・ロペから聞いた。ついに、レベナ平野の瘴気ストリームに挑むんだってな」
 クラリスの口の端には、どうしようもない喜びがにじみ出ている。
「お前がそこまでたどり着いたこと、本当に……嬉しく思うよ。私がキャラバンを続けていたら、絶対になかったことだ」
 え? という風にハルトが首を傾けると、クラリスはばつが悪そうに、
「ガーディの話なんて、マトモにとりあわなかったからなあ」と頭を掻いた。
「星が輝けば、月のない夜も進むべき道を見つけられる。私はそう信じて、お前を導いてきたつもりだ。
 そろそろ、どうしてお前を私の代わりにキャラバンに入れたのか——話しておこうと思う」
 ハルトは弾かれたように顔を上げた。
 そう、あれから三年が経つ今でも、姉が道を譲った本当の理由を知らなかった。
「お前は優しいから、私のわがままも受け入れてくれる。今まではそれに甘えていたけど、ここまで来たなら話すしかないよな。
 ただ、その代わりに教えて欲しいことがある」
 一拍おいて、
「どうしてお前は、声を失ってしまったんだ?」
 濃い茶色と夜空のような黒、二対の瞳が真正面からぶつかった。
「……っ」先に目をそらしたのはハルトだった。
 秘密を一人で抱え込むあたり、彼ら姉弟はそっくりだった。
 クラリスは必死に言葉を重ねる。
「ハルト。お前は昔、外の世界に憧れていたよな。それが、あの日海に落ちてから、変わってしまった……」
 彼女が強引に旅へ連れ出さなければ、弟は村で一生を過ごしただろう。
「どうしてもだめなのか。私を信じてはくれないのか!?」
 少年は身を翻した。刹那に見えた横顔は、ひどく切迫していた。
「ハルト……」
 クラリスはたった一人の姉として、いつも一番近いところで弟を見守っていたつもりだった。だが、あれから十年も経っているというのに、未だにハルトの心の傷を取り除くことができない。
 ついに、キャラバンとして追い抜かされてしまった以上、自分には何が出来るのだろうか。クラリスは祭囃子を聞きながら、真剣に考え込んでいた。



 踊り続ける人々を尻目に、タバサは村の中を歩き回って、カム・ラを捕まえた。聞きたいことがあったのだ。
「アリシアの様子はどう?」
「大丈夫だよ。あのな、お前らがいない間、結構苦労したんだぜー」
 カム・ラは自信満々に語る。こんな会話、アリシアが聞いたらどう思うのかな、とタバサは後ろめたくなる。
 彼の隣にはヒルデガルドがいて、料理をつまんでいた。
「風邪が治ってからは、ずいぶんと落ち着いたようですよ」
「良かった……カム・ラはともかく、ヒルダが言うなら本当ね」
「おい! どういう意味だよそれ」
 だが、タバサはアリシアを一気にどん底に叩き落すような案件を抱えていた。この先ハルトを含むキャラバンは、前人未到の地を目指す。それを知って彼女が不安にならないわけがない。
 できればギリギリまで隠しておきたかったが——
「みんな、何の話をしてるの?」タイミングの悪いことにアリシア本人と、
「おーい、ガキども〜」千鳥足のルイス=バークが登場した。
「ルイスさん、お酒くさい」
 やってきて早々、アリシアは鼻をつまむ。明らかに気分が高揚している錬金術師を見て、タバサは直感した。これは良くないことが起こるぞ、と。
 すぐに的中した。ルイスは大きな声でこう言ったのだ。
「みんな知ってるか? 祭りが終わったら、キャラバンがまた旅立つんだってよ!」
(わああ、余計なことをっ)
 タバサは額を手で押さえた。
「ええ、まさかあ。ルイスさん、冗談もいい加減にしてくださいよ」
 カム・ラが笑い飛ばしたが、
「いやいや本当なんだって。さっき、村長から直接聞いたんだ」
「へえ……」
 噂好きのヒルダが仮面をきらりと光らせた。キャラバンの新たな旅立ちは、明日には村中に知れ渡っているだろう。
 ここでルイスはタバサの存在に気がつき、
「なあタバサ。今の話、本当なんだろ?」
「う、うん……。フィオナ姫と仲良くなったから、アルフィタリアに招待されると思うわ」
 レベナ平野の先を目指すことは隠しておく。こっそりアリシアを確認しようとしたが、諦めた。怖くて直視できない。
「やっぱりなっ!」
 とルイスは手を叩いた。
 何故彼は気づかないのだろう。うつむいたアリシアから発せられる冷気が、急激に周囲の温度を下げていくことに。
「おおい、アリシア……?」
 カム・ラがびくびくしながら話しかける。彼女は返事もしないで、一目散に駆け出してしまった。
「あーあ」タバサは肩をすくめ、
「ルイスさんの考えなしーッ!」
 カム・ラは容赦なく罵って、アリシアを追いかけていった。
 幾分酔いも覚めた様子のルイスは、申し訳なさそうになべをガリガリ掻く。
「俺、何かやばいことした……?」
「ええ、まあ。ですが悪意はなかったのでしょう」
 ヒルダは慰めるように数歳年上の青年の肩を叩いた。
「アリシアも……困った子ねえ」
 タバサは顔をしかめ、嘆息した。
 今年の旅で、アリシアの心情をなんとなく理解できるようになった。だからこそ、彼女にはもう少し大人になって欲しい。本当にハルトのためを考えているなら、取るべき行動は自ずと分かってくるはずなのに。



 水かけ祭りの翌日は、みんなぼんやりしている。
 それまで一年間抑え続けてきたものを、一度に発散させるからだろうか。ルイスのように少々度を超して酒を飲む者も多い。大半の村人はしばらくふぬけのようになって、家の仕事にも身が入らなくなるものだ。
 だがティパ村のある一軒だけは、早朝からいつも通りに活動を始めていた。
「ほら、起きた起きた。農家の朝は早いんだよ」
 ハルトは母ミントにたたき起こされた。キャラバンの中で、祭りの翌日から仕事に駆り出されるのは彼だけだろう。
「……」
 不機嫌を隠そうともせずに、彼はのろのろ上体を起こした。母が開けた窓からなだれ込んだ冷たい空気が、容赦無く頬を刺す。薄い寝間着には酷な仕打ちだ。
「ラケタくんはもう起きてるわよ」
 義兄の名前が先に出てきたと言うことは、姉はまだ目覚めていないのか。……同じ部屋で寝ているのに。
「クラリスが来たら、朝ご飯にするからね」案の定だった。
 ハルトは目をこすって、無理矢理頭を覚醒させる。まだ祭りの高揚が体に残っているようだ。
「よお、ハルト。おはよう」
 食堂ではラケタが食器を並べていた。
「今日は種の選別だな。がんばっていこうぜ」
 ラケタはこの作業を見越して、早めに床についたらしい。朝にふさわしい爽やかな笑顔を浮かべている。
 ハルトが食卓についてぼーっとしてると、髪の毛がもつれたままのクラリスが入ってきた。
「まったく。なんでうちばっかり毎回毎回、こんなに早起きなんだよ」
 ぶつぶつ呟いている。今回ばかりはハルトも同感だった。姉弟の目が合って、すぐに離れる。水かけ祭りの記憶が蘇り、気まずい雰囲気が生まれた。
 ラケタは妻に近寄り、彼女の髪の毛を指で梳かし始める。
「おはようクラリス。お前たち姉弟って、ホントそっくりだな」
「はあ? どのあたりが」
「だって、今のお前ら……くく」
 ラケタは含み笑いをした。二人は顔を見合わせる。まるで心当たりがない。
「ほらほら、無駄話してないで、朝ご飯出来たよ。さっさと自分の分を運ぶ」
「はーい」
 クラリスはあくび混じりに返事した。
「いただきます」キャラバンの習慣で、クラリスとハルトは両手を合わせてから食べる。
「母さん。私はともかく、ハルトをこんな時間に起こすのは酷だよ」
 サラダに入っているほしがたにんじんをつつきながら、彼女は早速文句を垂れた。ミントは首をかしげる。
「そんなこと言われても、わたしキャラバンじゃないから。旅の苦労とか、知らないもの」
「えー。そこは想像してよ」
「家の麦が収穫できないことの方が深刻よ」
 こともなげに言うミント。ラケタも同調した。
「ミントさんは、お前たちが成長するまで一人で家計を支えてきたんだぞ。それがどれだけ大変なことか……おれ、はじめて聞いた時は涙が出そうになったよ」
「ラケタ貴様、なんで母さんの肩を持つんだ!」
「農家の次男としては注目すべきポイントだろ」
「ハルトだって農家の長男だぞ」
 突然話題に上げられたハルトは、口の中のいなかパンを慌てて咀嚼した。母の焼いたパンはふわふわしていて、姉の失敗作とは大違いだ。
 ミントはぽつりと呟く。
「そもそもわたし、あなたたちをキャラバンに入れるのは反対だったんだから」
 クラリスのフォークから、ぽろり、ひょうたんいもがこぼれる。「え? 今何て」
「だから、二人をキャラバンに入れたくなかったのよ」
「……!?」
 ハルトも仰天し、食事の手を止めた。
「そりゃまた、どうしてですか」固まってしまった二人に代わり、ラケタが訊ねる。
「んー、人手が足りないってのもあるけど。一番は、エンジュさんもキャラバンだったから」
「父さんが、キャラバンだった!?」
 クラリスは叫ぶ。父エンジュは、てっきり農民として一生を過ごしたのだと思っていた。
「そうよ。エンジュさんはこの村で、十年くらい一人でキャラバンをやってたわ。私はマール峠からお嫁に来たの」
 何もかも初耳だった。自分たちの父親がまさか、一番難易度が高いと言われるシングルプレイヤーだったとは。エンジュが亡くなったのは、クラリスが四歳の時だ。きっと娘が生まれる前に引退したのだろう。
「そんな大事なこと、どうして今まで言ってくれなかったんだよっ!」
 クラリスが悲鳴を上げたのも当然だ。しかし、ミントは眉をひそめるばかり。
「しいっ。お隣さん、まだ寝てるかも知れないでしょ」
「〜っ、母さん!」
 必死に抑えた声を出す娘へ、
「ごめんなさい。エンジュさんに、口止めされていたのよ」
 ミントは申し訳なさそうに目を伏せた。
「……」ハルトは会ったこともない父に思いをはせる。
 十年間も、たった一人で旅をした——? 四人でもぎりぎりの戦いを繰り返しているというのに。どれだけ心も体も強かったのだろう。
「子供たちは、自分の生き方に関係なく、自由に道を選んで欲しい。それがあの人の願いだったから」
 クラリスは唇を歪めた。
「そうだったんだ」
「でも、あなたたちは勝手にキャラバンになっちゃったものねえ。止める隙もなかったわ」
 ミントは苦笑した。大元の原因であるクラリスは、苦虫をかみつぶしたような表情になる。
「二人にキャラバンになって欲しくなかった理由というのは?」ラケタもいつしか真剣に話を聞いていた。
「エンジュさん、キャラバンの旅がとっても楽しそうでねえ。それがあんまり羨ましくて、私は逆に嫌いになっちゃった」
 肩を揺らして笑うミント。マール峠で育った彼女は、十年の間にエンジュと親交を深めたのだろう。そしてクラリスの誕生時期からすると、少なくとも何年かは「待たされた」はずだ。自分よりも旅を優先されては、嫌いになるのも道理である。
「だからって、あなたたちを応援しないわけじゃないわ。……ただ、子供が旅立っていくのが、寂しいだけ」
 母の言葉はからりとしていた。きっと、何度も何度も自分の中で反芻した感情だ。エンジュが死んだばかりの頃は消化しきれなかった思いも、時が経てばすり減っていく。
「あなたたちを特別扱いはしたくない。家に帰ってきたら、できるだけいつも通りに生活して欲しいの。
 ……ほら、食べた食べた。せっかくのご飯が冷めるよ」
 三人は慌てて残りをかきこみ、
「ごちそうさま!」
 きびきびと身支度に向かった。もう誰の顔にも、眠気は浮かんでいなかった。
 ミントは一人になった食卓を、ぼうっと眺める。
「エンジュさんは、今の家に満足しているのかしら」
 瞳の奥には懐かしい人の——ヘアバンドで明るい赤茶の髪を留め、黒い大剣を背負って旅に出たあの人の——横顔が映しだされていた。



「ハルト、やるぞ」
 その日の農作業を終えたクラリスが、目に強い光を宿してそう言った。ハルトはげんなりした気分で首肯する。
 彼女はキャラバン時代に手に入れた愛剣エクスカリバーを持ち出してきた。対するハルトは、すっかり手に馴染んだバスタードソードだ。
「なんだお前ら、今日もやるの?」ラケタは興味津々といった体で見物に回る。
 農家の利点は、家の土地が広いこと。つまり、模擬試合に使える面積がいくらでもあると言うことである。
 二人はそれぞれ剣を構えた。
「ラケタ、合図頼む」
「任せろ。……せーの、はじめ!」
 その声を皮切りに、二人は同時に飛び出す——ことはなく、剣を握ったままにらみ合った。ただ立ち止まっているわけではない。相手の隙を探っているのだ。
「そうそう、ただ打ちかかるだけじゃだめだ。ハルトも分かってきたな」
「……」
 楽しそうに口角を釣り上げる姉に、表情を殺す弟。じりじりと足だけが動き、視線は絡み合ったまま離れない。
 強い風が吹いた。瞬間、二人が同時に踏み込んだ。
「!」
 斜めからの切り下ろしを、クラリスは正眼に構えた切っ先ではね飛ばした。そのままぐっと前に出て、容赦なく弟の首筋を狙っていく。ハルトは体をひねってかわした。
「手元だけに集中しない!」
 クラリスは足をかけて相手を転ばせようとした。これも彼女の十八番だ。体術を予期していた弟は、軽くジャンプして避けた。
「やるなあ」姉の笑みが深くなる。
 何合も打ち合った。そのたびハルトの腕は痺れるような痛みを訴える。姉の細腕に、一体どれほどの力が宿っているのだろう。
 にわかに戦場となった農家の庭は、観戦するラケタが瞬きも忘れるほど緊迫していた。彼は去年から幾度となく二人の戦いを見物して来たが、とりわけ今日は鬼気迫るものを感じた。
 意を決したハルトが、上段に剣を振り上げる。すかさずがら空きの胴を狙いに行くクラリス。
「なっ!?」
 バスタードソードが斜めに閃いた。火花が散って、クラリスの剣が弾かれる。わざと隙を見せて攻撃を誘ったのだ、と姉は気づく。
 ハルトは渾身の力を込めて突きの姿勢に移った。避けようのないスピードで刀身が迫る。
「だが、甘い!」
 対するクラリスは最速で反応し、ハルトの手を狙った。
「……っ」
 柄で手の甲をしたたかに打たれ、痛みに剣を取り落とす。クラリスは冷静に弟ののど元へ剣先を突きつけた。
「なかなかいい太刀筋だったぞ、ハルト」
 にっこり笑う。息はまったく上がっていなかった。前線を退いて三年も経つのに、恐ろしい技の冴えだ。
「お疲れさん。二人とも、すごかったよ」
 ラケタは拍手しながら駆け寄る。ハルトは不服そうにそっぽを向いて、赤くなった手をひらひら泳がせた。
「まあまあ、機嫌悪くするなってー。お前回復役なのに、あの動きはなかなかだぞ」ラケタは彼の肩を抱き、家に戻っていった。
 姉弟の模擬試合は、六、七年前から続いている。キャラバンに入ったクラリスが「戦いの感覚を忘れたくない」と言って、弟を練習台にしたことが始まりだ。もちろん当初は圧倒的な戦力差があり、あっさり終わる試合ばかりだったが、最近になって状況が変わった。ハルトがキャラバンに入ってから——さらに限定すると、去年から。弟の意識に変化が生じたのは明らかだった。
「ふふ、これからが楽しみだな」
 クラリスの唇は自然に弧を描く。
 彼女はゆっくりとエクスカリバーを布で包んだ。……先ほどから、何者かの視線を感じていた。
「私に何か用かな、アリシア」
 粉ひきの娘が、精一杯足音をしのびつつ、木の陰から顔を出す。
「クラリスさん。お話があります」
 真剣な表情だ。アリシアは剣聖が持ったままのエクスカリバーを、食い入るように見つめている。
「いいだろう。剣を置いてくる」
 二人はベル川のほとりにやってきた。夕日を反射して、水面は宝石のように光っている。
「お話っていうのは、ハルトのことなんですけど」
 アリシアが切り出す。だいたい予想はついていた。昔から、彼女は弟を慕っていた。ほとんど依存していると言っていいほどに。
「どうしてクラリスさんがハルトを旅に出したのか、理由を伺ってもいいですか?」
 意外なところに話が飛んだ。クラリスは軽く息を吸い込む。
「そういえば、ろくに他人に話したことがなかったな。ざっくりかみ砕いて言うと、それがあいつにいい影響を与えると考えたからだ」
「キャラバンの旅に出ることが?」
「ああ。近ごろハルトは変わった。素直に感情を表に出すようになった。あの事故の前みたいに、な」
 姉は顔をほころばせた。どうしても心を開いてくれない一点があるとしても、十分な進歩だったと思う。
 一方アリシアは、不安げに眉を曇らせる。
「でも。ハルトは思い詰めることも多くなりました。私、去年のクロニクルを読んじゃったんです。そうしたら、知り合いの人がたくさん亡くなったみたいで……」
 ペネ・ロペから聞いた話だ。デ・ナムだけでなく、ひそかに対抗心を燃やしていた黒騎士が倒れ、しましま盗賊団は今や二人だけと知ったときは、寂しさがクラリスの胸にぽっかりと穴を開けた。結婚まで暗い話題を隠してくれた親友に感謝したものだ。
 気の強い姉でさえこうなのだから、あの弟が思い詰めていないはずがない。
「旅をして、ハルトはたくさん辛い思いをしました。あの子はそういうのを抱えこむ性格です。ハルトだって、いつか……そうなるかもしれない。なのに、なんで危ないことをさせるんですか」
 痛いところを突かれて、クラリスはうめいた。
「そうだな。あいつは妙に記憶にこだわるところがある。たくさん辛い目に遭わせて、悲しい思い出をつくらせて、あいつを苦しめている元凶は他でもない、私だ。
 でも、私の——私たち家族の夢を叶えられるのは、あの子だけなんだ。それは間違いない」
 語りながら、クラリスは考える。きっとこの思いは、半分もアリシアに伝わらないのだろう。家族の一員でなく、さらにエンジュを知らない彼女には。
 アリシアはくしゃりと顔を歪めた。
「でも、ハルトに全部任せるだなんて。そんなの……私は我慢できません!」
 おとなしい子だと思っていた。激情に任せて叫ぶなんてありえない、と。
 しかし想像に反して、アリシアは心の奥に煮えたぎる感情を秘めていた。それを今爆発させているのは、他でもないハルトのため——と、彼女がかたく信じているからだ。
「全部任せているわけじゃない。あの子の進むべき道を照らすのが、私の役目だ。だから先にキャラバンに入った。そして道を譲った」
 クラリスは語気を強める。
「お前がハルトを危険から遠ざけたいのは、エゴだよ。私の気持ちと同じくらい、自分勝手なわがままなんだ。
 でも、あいつが選んだ道はキャラバンだった。それくらい、認めたらどうなんだ?」
「〜っ!」
 アリシアは立ち上がると、まっしぐらに駆け去った。泣いているようだった。
「……はあ」
 クラリスは深く深くため息をついて、肩を落とす。
「我が弟ながら、同情するよ。なんでみんなお前にばっかり思いを託すんだろうな」
 その筆頭は彼女自身だが、自覚しつつも彼に寄りかかることはやめられなかった。
 一方アリシアは、行き場もなくとぼとぼと聖域の縁を歩いていた。
「やあ、こんにちは」
 突然声をかけられた。おもてを上げると、金色の巻き毛が特徴的な、クラヴァットの青年が目に映る。
「あなたは……?」
 夕焼けが眩しくて、顔の造作が分からない。旅人だろうか。しかし、ティパキャラバンが誰かを連れてきたという噂は聞いていない。
 彼は質問には答えず、
「どうして泣いているんだい」
「……」
「何か悩んでいるんだろう?」
 アリシアは赤くなった目をこする。初対面の人にこんな惨めな姿をさらしたことが、恥ずかしかった。
 自他共に認める人見知りの彼女だが、感情の高ぶりが舌をなめらかにした。
「私の友達が、キャラバンの旅で苦しんでいるんです。なのに、黙って耐えるだけで——見ているこっちが辛いくらいなんです。ハルトはどうして、キャラバンを続けるんだろう」
 青年は深い紫の瞳をうっすら細めた。あやふやな表情にも関わらず、その明るい闇だけははっきりと見えた。アリシアは、底なしの淵を覗いている心地になる。
「キミは、彼にどうして欲しいんだい」
 彼は目と同じ色の結晶を掲げていた。きれいだな、と思う。
 胸の奥深くにしまっていたはずの欲望は、するりと口から飛び出した。
「私は、ハルトに、キャラバンをやめて欲しい。ずっと私のそばにいて欲しい……」
 それを聞くと、青年は満足げに結晶を握った。くるりときびすを返し、光の中に消えていく。
 肌寒い風が吹いた。アリシアは震え、腕をかき抱く。
「——あ、あれ? 私、えっと」
 誰か、いた気がしたのだが。気のせいだということにして、彼女は家路についた。



 水かけ祭りの熱狂から覚めて、人々が普段の生活リズムを取り戻しかけている頃。ティパ村のキャラバンリーダー宛に手紙が届いた。立派な封蝋は、アルフィタリアの正式文書の証だった。
「みんな、例の招待状がきたわよ」
 約束通り、城に戻ったフィオナが舞台を整えてくれたのだ。
 半端な衣装では失礼に当たる。新たに礼服がつくられることになり、タバサの裁縫屋はしばらく大忙しだった。
 体調が優れない母に代わり、タバサは姉の手伝いに入った。
「どうしたのよタバサ、急に素直になって」
「うるさい。雑用でも何でもいいから、手伝うわ」
 姉は始終にやにやしていた。どうやら彼氏が出来て花嫁修業をはじめたのだ、と勘違いしているらしい。タバサは訂正しないことにした。
 ハルトは去年の結婚式の、タバサ自身は一昨年の姉お手製の服がある。リーダーとその恋人、二人分の仮縫いが済んだところで、彼女はある疑問を抱いた。
「このデザインだと、いまいちペネ・ロペさんの体型を生かせないわ」
「どういうことよ」
 姉はむっとしたようだが、「リーダーはすらっとした脚線美が魅力だから、もっと足を強調すべきよ」という提案を聞き入るにつれ、表情が変わっていく。
「……たしかに、そうかも」
 渋々とはいえ姉に認められたのだ。妹は照れ笑いをした。
 かくしてできあがった正装は、タバサが行く先々でチェックしていた最新の流行を取り入れている。
「ペネ・ロペさんユリシーズさん、ちょっと試着してくれる?」
「いいわよ」
 二人はお互いの姿を確認をした。
 ペネ・ロペはセルキーらしく、大胆に切れ込みが入った丈の短いスカート姿だ。あまり彼女は露出を好まないが、恋人からの強い勧めもあって承諾した。
 ユリシーズは前開きの外套を肩にかけ、魔道師然とした服装である。軽い性格には似合わないほど立派な姿だ。
「なんだか別人みたいだな」
 ユリシーズの正直な感想が身にしみた。
 とはいえ、それぞれによく似合っている、素晴らしい出来ばえとなった。
 水かけ祭りで広まった噂通り、再びキャラバンが旅立つと聞きつけて、村人が見送りに集まってきた。
 カム・ラは無邪気に喜んでいる。
「本当にアルフィタリアに招待されたんだ。すげーよなあ」
「うん……」
 アリシアは暗い目で馬車を見送った。
 対照的に、ペネ・ロペは明るく手を振る。
「えへへ、行ってきます!」
 四人はミルラの旅とは全く別の目的のもとに、村を出発した。
(帰ってきたら、みんなびっくりするだろうな)
 誰も知らない場所の話がお土産だ。仰天する家族や友人の顔を想像して、ペネ・ロペはくすっと笑った。



 時は移って、晩餐会当日——。
 夕刻アルフィタリア城の正門をくぐり、四人は巨大な卓を真ん中に据えた部屋に通された。リルティの居住空間にしては高めの天井からぶら下がるのは、シャンデリアというランプの一種だ。
「何本もろうそくが立ってるだろ。ああやって明るさを確保しているんだな」
 ユリシーズの発言に、タバサは目を瞠る。村とは何もかもスケールが違った。
 と、フィオナが部屋に入ってきた。王族の権威が具現化したような白いドレスを身にまとっている。
 ペネ・ロペは慌てて立ち上がった。
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
 がちがちに緊張している。いつもよりさらに涼しい服装だが、皮膚が火照って寒さを感じない。
 フィオナは鷹揚に頷いた。
「みなさん、どうぞおくつろぎください」
 王女がこぼす笑みは、旅の中で見せたものと寸分の違いもない。
(フィオナ……)
 タバサは無性に嬉しくなってしまう。緊張で凍り付いていた心臓が、だんだん動き始めた。
 卓についてすぐ、料理が運ばれてきた。絵でも知らないような凝った見た目のものばかりだ。鮮やかな色のソースが食欲をそそる。
 四人は誰ともなしに唾を飲み込んだ。食器に手が伸びる。
「あれはやらないのですか」
 フィオナが不思議そうに訊ねた。
「あれ、とは?」
「も、もしかして、手を合わせるやつですか」
 そういえば王女は砂漠で彼らの食事風景を目撃していた。ペネ・ロペはテーブルクロスの上に突っ伏したくなる。
「はい。では音頭は私が取りますね。——いただきます!」
 ハルトを除いた三人は、おそるおそる唱和する。
「これ以上ないくらい恥ずかしいわ……」
 恋人の小さな呟きに、ユリシーズは苦笑を漏らした。
 リルティの食事と言えば、やはりニクがメインになる。祭りでも食べられないような分厚いステーキが皿の上に鎮座ましましていた。
「うう、最高」
 タバサは咀嚼に夢中になった。味付けはごく上品で、噛めば噛むほど味わいが増す。
 ペネ・ロペなどは料理の味もわからないほどだったが、ユリシーズはむしろ調理法や見慣れない品種の野菜に注目しているようだ。後輩たちは慣れないテーブルマナーに悪戦苦闘していた。
 食事は和やかに推移する。フィオナは近況を話してくれた。城に帰ってすぐ、父親にこってり絞られたこと。家族に心配されたことが、とても嬉しかったこと。これからは城を離れていた分まで、民に尽くそうと決意したこと……。
 デザートの前に、いい香りのする茶が供された。フィオナは上品な仕草でカップを傾ける。
「私は、みなさんが家族を信じ、旅を続ける姿に心を打たれました。そして、私がすべきことを悟ったのです」
 王女はタバサに向かってにっこりした。
「姫としての私の責務。それはこの平和を保ち、次の代につなげること。旅をして希望を紡ぐ、キャラバンのみなさんのように……」
 そこまで褒められると、照れくさくなる。
「微力ながら、お手伝いします」
 こういう時のセリフは、きちんと決めるペネ・ロペだった。
 四人は王女の好意で、城に宿泊することになった。なんと一人一部屋だ。下手をすると、ティパ村の自分の部屋より広いかも知れない。
 ふくれたお腹も落ち着いてきた頃、タバサはフィオナに呼び出され、城のバルコニーに出た。
 そこからはアルフィタリアの町並みが一望できた。
「きれいね……」
「はい」
 夜だというのに所々明かりが灯っている。まるで地上に星空が現れたようだった。ティパ村ではあり得ない光景——これが、フィオナが守りたい豊かさなのだろう。
 夜着に着替えた姫君は、リルティの少女に向き直った。
「あなたにはとても感謝しています……ありがとう」
 タバサはくすっと笑みをこぼす。
「その敬語、やめてよ。タバサって呼んで」
「いいのですか!」
 フィオナの顔がパッと華やぐ。
「ほーら、そうじゃないでしょ」タバサは片目をつむってみせる。
「あ……えっと、普通の言葉でいいの?」
「もちろん!」
 バルコニーにいるのは、種族も身分の壁も越えた、ただの女の子二人だった。
「お城の中、とっても明るかったわよ」
 タバサは唇の端を吊り上げる。二人だけの暗号だ。くすくす笑い合う。
「そう。私が気づかないだけで、既に小さな光は灯ってたの」
 フィオナは胸に手を当てた。
「ド・ハッティさんやハルトさん、それにタバサといろんな話をしてね……お母様のことも、よく思い出すようになった。けど、悲しい記憶じゃないの。ただ懐かしくて、心があたたかくなるような思い出だったわ」
 タバサの頭にはある台詞が浮かぶ。
「月のない夜も、星が輝けば夜道は明るい」
「え?」
「ハルトのお姉さんの言葉よ。三年前のレベナ・テ・ラでそんなことを言ってたけど……その通りねっ」
 タバサはフィオナに飛びつき、ぎゅうっと抱きしめた。
「私はキャラバンで、フィオナはお城で、それぞれ照らすべきものがあるわ。でも、いつかまた、一緒に星空を眺めたい」
「ええ、私も……!」
 またひとつ生まれた新しい思い出は、二人の心の中でちかちか光っていた。



 城からの帰り道、キャラバンはエズラの食材屋に寄ることにした。
 四人に応対した女主人ジョナは、顔色を失っていた。
「みなさん、大変なんです。息子のレオンが——」
 話を聞いて、一行はいつもレオンが槍の練習をしていた場所へと急ぐ。
 レオン=エズラはお堀を眺めてぼうっとしていた。ペネ・ロペは一瞬、声をかけるのをためらってしまう。
「レオンくん」
「あ、ええと……キャラバンの人?」
 数ヶ月ぶりに顔を合わせたわけだが、彼はとっさにこちらの名前が出てこないようだ。
 少年——もはやそう呼べる年齢にまで成長したレオンはハルトを見つけて、すがりつく。
「ねえ、お兄ちゃんなら分かる? ぼく、なんで槍の練習なんかしてたんだっけ」
 びくりとハルトの肩が揺れた。
「キャラバンに入るわけでも、兵士になりたいわけでもないのに。変なの……」
 ハルトはしゃがんで、レオンの力強い筋肉を秘めた肩を抱いた。
「お兄ちゃん?」
 クラヴァットの少年は震えているようだった。
「ハルト……」タバサはなすすべもなく、右手を握りしめる。
 父の仇を取るために槍を振るったリルティは、もうどこにもいない。
 キャラバンは励ますことすら出来ず、半ば逃げるようにレオンと別れた。
 馬車に戻った。ユリシーズはかぶりを振って、はっきりと宣言した。
「間違いなく物忘れ病だ。それも重度の」
 異常な事態が発生していることを、改めて四人は意識した。
「やな感じがする。どうして、最近こんなことが起きるの……?」
 寒気が背筋をかけあがり、ペネ・ロペは腕をかき抱いた。ルダキャラバンといい、ラシェの件といい……。はっとしてハルトを見やると、彼は真っ青な顔をしていた。
「やっぱり、おとぎ話の怪物の仕業かしら」
 ペネ・ロペが呟くと、ハルトは苦しげに首肯する。
 二人のただならぬ雰囲気に、タバサは眉間にしわを寄せた。
「おとぎ話って、あの?」
「まさか……記憶を食べる怪物なんて、いるわけないだろ」
 残りの二人は半信半疑である。ペネ・ロペは、おとぎ話も馬鹿にしたものではない、と辛抱強く説いた。
「あの話、結構真実に近いと思うの。この世界のどこかには、あたしたちの手に負えないような怪物が潜んでいて、真っ黒な思い出を食べようと、手ぐすね引いて待ってる……そんな気がするのよ」
 西から嫌な風が吹いた。黄金色の闇が満ちる場所は、もしかすると、世界の果てにあるのかもしれない。ハルトは旅路の果てに待つものを予感していた。

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