第三章 ただひとつ輝ける星



 高レベルのダンジョンがひしめくレベナ平野を越えた先に、その瘴気ストリームは存在した。
 旅好きモーグリのスティルツキンですら、先を見たことはないという。あまりに瘴気が強く吹きすさぶため、軽いモーグリの体は飛ばされてしまうのだ。
 一方で、数多のキャラバンたちも、誰一人として通過したことがない。金色の瘴気と馴染むクリスタルケージの属性は、ペネ・ロペたちが発見するまで存在すら不明とされていた。土火風水、どの属性とも違う。無や全、ユークたちの研究では「究極」とも称される属性。
 たまたまレベナ平野で出会ったスティルツキンに、ペネ・ロペは質問した。
「スティルツキンさん。おとぎ話について、何か知っていることはありませんか」
 モーグリはきょとんとした。
「どうした、藪から棒に」
「だってあの話、ちょっと現実に近いことが書いてあるじゃないですか。夜這い星とか、魔物の出現とか。
 世界中を旅して回っているスティルツキンさんなら、きっと面白い考えがあるんじゃないかと思って」
 ペネ・ロペの真摯な態度を受けて、スティルツキンは可愛いうなり声を上げた。
「おとぎ話ねえ。なんだっけ。ええと、魔?」
「あっ、それです」
「その魔が、輝きを失った思い出を、ばくばくと食っちゃうんだって? それで魔物が生まれたとか、そういう話だったよな。さしずめ、魔物は思い出の涙なのか。
 フッ……ちょっとキレイなこと言っちまったようだな」
「いやいや、そんなことないですよ」
 タバサが苦笑を返した。
「思い出、か。オレたちは旅をして、その中で思い出をつくるだろ。いつしかそれを忘れても、また思い出をつくりたくなって、旅を続ける。そういう気持ちが自然に生まれるってのは、何らかの必然性があるのか?」
「さ、さあ……」
「思い出を忘れる意味、ですか」
 ユリシーズは考え込むそぶりをする。スティルツキンは声を張り上げた。
「そこで、おとぎ話と黒騎士の話がポイントになるわけだ! 『魔』が輝きを失った思い出を食べる。『光』が記憶を奪っていく。空想のおとぎ話と現実の黒騎士のこと、そこに関わっているのは『魔』と『光』だ。
 そうだ、おとぎ話にはもうひとり、『姫』ってのもいるな。ひとびとの思い出の輝きをあつめて、クリスタルの輝きに変える存在。
 おとぎ話のことだからマジメに考えてもアレなんだけどさ。『姫』が思い出をあつめたカタチってのが、もしかすると……ミルラの雫なんじゃないかって、ふと、そんなことを考えてみるんだ」
 ミルラの雫が、思い出の形? キャラバンは、空っぽのクリスタルケージに目線をやった。
 スティルツキンは慎重に話を結ぶ。
「例の物忘れ病も『魔』の仕業だとしたら、うなずけるよな。最近は、本当にどこかにいるんじゃないかって思うぜ。そんな存在たちがさ」
「そうですね。もしかしたら、私たちは姫や魔に会うために、この先に進むのかも知れません」
 ペネ・ロペが翡翠の瞳を細める。
「この先って……まさか、受難の大穴へ行くのか!?」スティルツキンは驚愕した。
 レベナ平野の向こうは、かつて大クリスタルがあった聖地。隕石の衝突によって瘴気の世界に変わってから、何人たりとも寄せ付けぬ「受難の大穴」と化した。
「道理でヘンな色のケージを持ってるわけだ。その属性なら瘴気ストリームを抜けられるんだな?」
 四人は同時に首肯した。
「はい。良ければ、一緒に行きませんか」
「もちろんオレも見てみたいよ。世界の果てってやつを」
 ……そして、ついにたどり着いた、黄金色の瘴気ストリーム。今までとは比べものにならない暴風が吹き荒れており、もしも属性不一致ではじき飛ばされたら、ただでは済まないだろう。
「本当に、大丈夫かしら」
 タバサがぽつりと言う。全員馬車から降りて、ケージ係のハルトは御者台にいるという、限界体制であった。
「なんとかなるだろ?」
 もともと楽天家のユリシーズであるが、返事に力が無い。
 一番前を行くリーダーのペネ・ロペは、凛とした表情を浮かべている。ハルトにしても、そうだ。いつも茫洋と宙をさまよう漆黒の瞳は前に固定され、きりりと引き締まった顔になっていた。そうしてみると、キャラバン入りたての二年前とは比べ物にならないほど、成長していることがわかる。
「……行くよ」
 ペネ・ロペは低く呟いた。誰ともなしに頷き返す。
 クリスタルケージが白く輝き、属性を中和して行く。瘴気と聖域のぶつかり合いで新たな風が生じた。
「!?」
 ハルトは目を見開いた。瘴気の向こうに、緑色の大きな生物が見えた気がした。
 しかし瞬きをすると、その生物は忽然と消えてしまった。
「パパオ、がんばって」
 タバサが馬を励ます。キャラバンをあらゆる場所へ運んできたその足で、パパオはのそりのそりと前に進み、ついに一行は細い橋のような瘴気ストリームを渡りきることが出来た。
「ふうー」
 思わず、大きく息を吸いこむ四人。ストリームを抜けたからと言って澄んだ空気があるわけではないのだが、気持ちの問題だ。
 ペネ・ロペは持ってきた地図を広げた。入手できた中でも一番古いものだ。大クリスタルが破壊されたすぐ後の時代の物らしい。目の前に広がる森の名前も記してある。
「デスポア大森林……」
 濃い瘴気にも負けずに育った原生林だ。「こりゃすごいな」とスティルツキンも感心している。
 誰も足を踏み入れたことがないはずなのに、森の中には細く獣道が延びていた。もしや、先ほどの生物が……とハルトは思う。
 そしてこの道の果てには、全てのはじまりであり、旅の終わりの地——ヴェレンジェ山がそびえ立っているはずだった。



 針葉樹林の道は、次第に上り坂になった。視界に入る木の数は減り、彼らは高台へと導かれていく。
 獣道が途切れた先は、深い霧に包まれた不思議な場所だった。くねくねと自在に伸びた白っぽい大地が、大森林の上に張り出している。
「ここ、クリスタルケージが必要ないみたいだ」
 瘴気に敏感なユリシーズが感じたとおりだった。窮屈な馬車から抜け出して、一行は大きくのびをする。
「何かしらね、ここ」
 そこかしこに大きな繭のようなものがある。空気はどんより沈んでおり、風もない。まるで時が止まっているようだった。
 踏むとざくざくいう草にいちいち驚きながら、ひとつひとつの繭を点検していく。中身は見えないが、何かがうずくまっている気配がした。
 スティルツキンが独りごちた。
「なんだ、ここのやつらは。みんな寝てるじゃないか」
「分かるんですか?」
「なんとなくな」
 なるほど、この停滞した雰囲気は微睡みのひとときとよく似ていた。
 ペネ・ロペは少し肌寒さを感じて、腕をかき抱く。
「ね、あれ、あそこの繭だけ透けてない?」
「本当ね」タバサが頷いた。
 近寄ると、そこには頭にルビーのような赤い石をつけた、緑色の生き物がいた。丸まってまぶたを閉じている。ハルトが瘴気ストリームで見かけた生物と同じようだ。
「……ぐうぐう」
 わざとらしく大きな寝息を立てている。四人は顔を見合わせた。
「なんか、ウソっぽくない?」
「狸寝入りだな」
 むくむくした生き物はごろんと寝返りを打つ。
「怪しい。何でいまのタイミングで動いたわけ」
「おーい、起きろー」
「ぐうぐうぐうぐう」
 なかなか強情な奴だ。キャラバンは目配せする。ハルトだけをその場に残し、三人はよく聞こえるように足音を立てて遠ざかった。
 安心したその生物は、ぱちりと目を開けた。
 眼前に夜空が広がった。——否、それは小さな一対の瞳だ。
「……」
 ハルトが生物をじっと見上げていた。
「あっ」
「そいつ」は声を上げ、慌ててもう一度頭を伏せる。隠れていた他の三人がすかさず駆け寄った。
「やっぱりー! 起きてるじゃないの」
 タバサは憤る。しかし、意地でも起きないと決め込んだのか、それ以降はうんともすんとも言わなくなってしまった。
「せめて、ここはどこなのか、あの子たちは誰なのか、教えて欲しかったわね」
 馬車に戻ってペネ・ロペがため息をつく。ひとまず今晩はここにキャンプを張ることになるだろう。
 ハルトは自分の荷物から、一冊の本を探し当てた。
「おっ。例のおとぎ話の本だな」
 スティルツキンが興味深そうに覗き込んだ。ぱらっとページをめくり、ハルトが指し示したのは、見覚えのある生き物の挿絵だ。
「さっきの緑にそっくりだ。カーバンクルって言うのか」
 ユリシーズは紙面を眺めて、素早く必要な情報を拾った。カーバンクルの住まう町の名前は、マグ・メルだ。
「ハーディさんは、ここから手紙を出したのかな」
 ペネ・ロペは目を瞬く。もしかすると彼らは、伝説で語られる存在に出会ったのかもしれない。
「なんだか私たちの旅も大層になってきたわね」
 というタバサの発言には実感がこもっていた。ハルトは本を閉じ、じっと考え込んでいる。心なしかその横顔は青ざめていた。
 ぬるい風が吹いて、ペネ・ロペの髪を揺らした。北に濃密な瘴気の気配がある。下の針葉樹林を越えた先には、大きなクレーターがあった。ヴェレンジェ山に夜這い星が衝突して生まれた、受難の大穴だ。
「あそこに何があるのか、確かめないとね」
 大穴の奥で待ち構える不気味な存在を、誰もが意識し始めていた。



 翌朝スティルツキンは、
「オレ、マグ・メルに残るよ。カーバンクルたちと何とか話をしてみる」
 とキャラバンに告げた。彼は初めて見る生物に多大な関心を示していたので、ある程度予想はしていた。
「それじゃあ、また迎えに来ますね」
「頼むよ。……あ、そうだ。アルテミシオンって奴に会ったら、よろしく伝えてくれよ! 奴とオレとは古くからの親友なんだ」
 四人は驚いた。アルテミシオンといえばしましま盗賊団の一員だ。きっとスティルツキンは知らないのだろう。
 何日も道なき道を進んだ末、ついにキャラバンは最後の目的地にたどり着く。目の前に横たわるのは、夜の闇よりもなお暗い瘴気の塊だった。
「ここは……」
 四人は絶句してしまう。ペネ・ロペが持つ地図に記された名は間違いなく「ヴェレンジェ山」となっていた。
 大クリスタルが存在した時代、レベナ・テ・ラの住人からは聖地としてあがめられていた場所。だが、かつての姿はもうどこにもない。登山道は落石で寸断され、時々斜面を大岩が転がり落ちていく。瘴気が濃すぎて昼夜の区別もつかず、点々と顔を覗かせる謎の鉱物が唯一の光源だった。
 そして、闇にうごめくこの気配——魔物がいるのは間違いない。
「……」
 ハルトは、クリスタルケージを強く抱いた。渦巻く瘴気に、ケージの聖域は弱々しく抵抗している。
 怖じ気づかない者はいなかった。それでも、彼らは退かなかった。
「行きましょう」
 四人は揃って足を踏み出した。
 少しクレーターを降りただけで、キャラバンは激戦のさなかにたたき込まれた。
 ペネ・ロペが叫んだ。
「もう無理、支えきれないわっ。撤退しましょう!」
 彼女はメイスやスピアを持った幽霊・シェードに囲まれ、さらに毒や時の魔法を操る魔法生物スフィアの注意を引きつけていた。
 ヴェレンジェ山の魔物のほとんどは、文献にのみ記された存在だった。すなわち対処法が確立しておらず、その場その場の判断が要求される。ペネ・ロペは、これまでいかに先人の知恵に頼っていたかを痛感した。おまけに地形にも疎いため下手に動き回れない。
 これ以上の戦闘は命に関わる。シェードとつばぜり合いしていたラケットを振り抜き、ペネ・ロペが後ろを確認した。それでもクリスタルケージは動かなかった。
「ハ、ハルトくん!?」
 魔物に阻まれて彼の姿は見えない。乱戦状態で指示も通らず、頼みの綱のマジックパイルも数回不発に終わった。このままではフェニックスの尾が尽きて——行く末は全滅だ。
「阿呆ハルト、何してんのよっ」
 タバサの怒号が響き渡る。凶悪なデスナイトの猛攻を籠手で防ぎながら、なんとか前線を保っている状態だ。冗談抜きで、一刻も早く戦線から離脱したかった。
 やっとのことで聖域が動いた。ただし、期待していた進路とは逆の方向へ。
(この状況で、前に進むっていうの!?)
 結局、魔物の相手もそこそこに、ティパキャラバンはヴェレンジェ山のさらに奥へと歩を進めた。
 しばらくすると足元の様子が変わってきた。普通の土ではなく、まるで星空のようにきらきらした、固い鉱石になった。体に重くのしかかる疲労さえなければ、感動的な光景だったのだろうか。
 一人でずんずん先に行ってしまうハルトを、ユリシーズが疲れた足に鞭打ち、やっとのことで捕まえた。
「どうしたんだよ、お前」
 明らかに様子がおかしい。意地でもヴェレンジェ山最奥にたどり着こうとしているようだ。もう物資も尽きかけているというのに。
 彼が足を止めるのと同時に、聖域の移動も終わった。疲れを溜め込んだ前衛二人はその場にへたり込んだ。
「はあ、はあ……」
「キツすぎるわよ、ここ」
 キマイラのように砂漠で苦戦した魔物に加え、見たことも聞いたこともない魔物がわんさか襲ってくるのだ。皆、体力の限界だった。
 山を征くうちに、四人にもなんとなく分かり始めていた。この先にミルラの木はない。にもかかわらず、魔物はキャラバンの行く手を激しく阻む。それは何故か? 魔物が瘴気から生まれたのだとしたら……本能的に、魔物たちは瘴気の根源を守っているのではないか。
 ハルトは肩で息をしながら、振り返った。黒の瞳は決意——もしくは恐怖に彩られている。
 ペネ・ロペは無理に笑顔を作ると、
「ねえ、ハルトくん。これ以上、回復役のあなたを守り切れる自信がないの。一度、出直しましょう」
 と手を差し伸べた。しかし、ハルトは頑なにクリスタルケージを抱え込む。
 ぐったりしていたユリシーズが、愕然と立ち上がった。
「……まずいぞ」
 キャラバンを囲むようにして、音もなく忍び寄るのはトンベリたちだ。ジャック・モキートの館にもコック姿の同種がいるが、それよりも数段邪悪な魔物だった。トンベリは揃って包丁を振り上げる。
「迎え撃つわよっ!」
 ペネ・ロペが叫ぶ。痺れる腕に喝を入れ、各々武器を握り直した。
 その時、常に揺れ動いていたクリスタルケージの聖域が、異音と共に消失した。
「っ!?」
 四人は瘴気の真っ只中に放り出される。衝撃で息が詰まり、次々にくずおれる。
(何が起こった……!?)
 種族柄、多少なりとも瘴気に耐性があるユリシーズは、必死に原因を探した。クリスタルケージにまとわりついた紫のもやが目に入る。あれが聖域を封じているようだ。
 さらに、膝をつくハルトの近くで、ひとつの鉱石が怪しく光っていた。ダーククリスタルとでも呼ぶべきその結晶は紫の光をまとい、ジジジ……と嫌な音を放っている。
(あれだな)
 ユリシーズは全力で毒の海を駆け抜けた。ペネ・ロペは瘴気に弱いタバサを助けながら、邪魔するトンベリを蹴散らす。ついに、彼が振り上げたハンマーが、ダーククリスタルを粉々に砕いた。聖域が復活する。
「ふっ、はあっ……」
 急いで清浄な空気を肺に満たす。即座にユリシーズのケアルが発動して、キャラバンの傷ついた体を癒していった。
「ハルト!?」
 タバサが倒れ伏している少年を見つけた。魔物にやられたのか、完全に意識を失っている。ユリシーズが彼を抱え上げた。
 闇の中には何体ものトンベリとシェード、さらに奥には花のようなシルエットのテンタクルが蠢く。
「——逃げよう」
 ユリシーズが呟く。ペネ・ロペも同意した。ケージは彼女が持ち、タバサがしんがりをつとめる。
 タバサはやや不安げに、ユークに背負われた少年を見やった。
「どうしちゃったのよ、ハルト……」
 以前フィオナは彼を「クリスタルのようだ」と表現していた。ヴェレンジェ山にかつてあった大クリスタルの末路と、ハルトの姿が重なる。頼むからそう簡単に砕けないでよ、とタバサは切に願った。



 ハルトの意識は、水底に沈んでいた。
 なんだか懐かしい感覚だった。十年も前、ティパ村の崖から落ちた「その日」、彼は長い間冷たい海中をさまよった。ほとんど意識はなかったけれど、心のどこかで覚えていたようだ。
 息苦しさはない。彼がゆっくりまぶたを開ければ、真っ先に「光」が目に入った。
 光は、聞き覚えのある少女の声を発する。
『この場所へ来てはいけない……あいつの、ラモエの餌食になるだけよ。まだ、数多くの思い出を紡いでゆかなければいけないあなたには、ふさわしくない場所だわ』
 真っ青な水底の空間に、光がぽっかり浮かんでいる。ふと、あれが黒騎士が求めていたものだろうか、と思う。
 ハルトがぼんやり目線を合わせると、少女の声は震えた。
『あなたは、まさか』
 光が揺らめいて、彼女の輪郭を浮かび上がらせた。クラヴァットに似たシルエットだ。
 ハルトは息を呑む。何故だか、クラリスに似た気配がした。どういうことだろう。
 光はかぶりを振った。
『ついに来てしまったのね。でも、もう私たちには関わらないで。放っておいてちょうだい。瘴気を晴らすなんて、おかしなことは考えないで……』
 弱々しい懇願の中に、ハルトは言葉を拾った。やはり、この山には瘴気の源がある——?
『また私のせいであなたが酷い目に遭うのは、嫌なの』
 ハルトは目を見開いた。
 青色の空間に、光が満ちた。体がすくい上げられるような感覚がして、彼は覚醒した。



「目が覚めた?」
 薄汚れた顔のペネ・ロペが、ほうっと息を吐いた。あのタバサまで、心配そうにハルトをのぞき込んでいる。
 空は真っ暗で、青色も「光」も見当たらない。ヴェレンジェ山に「帰って来た」のだ。
 切羽詰まった表情を浮かべる彼を、リーダーはまっすぐ見つめた。
「帰ろう。今のあたしたちじゃ太刀打ちできない。キミが先を急ぎたいことは分かったけど……今は、指示に従って。仲間を信じて。誰か一人でも失ったら、あたし、村長に合わせる顔がないよ」
 目だけで微笑むと、彼女は地面に置かれていたクリスタルケージを持った。ハルトの眉が曇る。
「……」
「謝るのは後。さあ、麓まで帰るよ」
 棒のようになった足を動かし、キャラバンは撤退を始めた。
 最後尾にいたハルトはふと、こわばっていた手のひらを開いた。そこには紫の破片があった。
 遅れがちな後輩のために戻ってきたユリシーズが、それを見て嫌そうな声を出す。
「うわっ。それ、ダーククリスタルの欠片か」
 何かに似ているとハルトは思った。全く同じものを、どこかで手にしたことがある。
 だが疲労困憊の今、ややこしいことは考えられそうにない。後でリュクレールあたりに相談しようと思い、彼はそっと結晶をポケットにしまい込んだ。
 敗北、の二文字がこの年最後の日記に刻まれた。



 その年の水かけ祭りを終えて静まりかえるティパの村に、かっぽかっぽと馬車の音が届いた。
 普段なら、キャラバンは束の間の休みを満喫している時期だ。この度四人揃って出かけたのは、フィオナ姫を助けたお礼にアルフィタリア城へ招待されたから——村人たちはそう聞いていた。身に余る名誉だと笑い合い、キャラバン不在の寂しさを紛らわせた。
 しかし四人はアルフィタリアからまっすぐ帰って来なかった。「世界の果て」まで遠出した挙げ句、何故かぼろぼろに疲れ果ててしまったらしい。村長宛に届いた手紙には、そう綴られていた。
 村の者からすると、何が起こったのかさっぱり分からない。誰もが四人の帰りを興味津々で待ち構えていた。
 そして、帰郷の日。アリシアは一番にキャラバンを迎えるため、一人で村の聖域の端っこに立っていた。
 馬車と共にとぼとぼ歩いてきたハルトを見つけ、心配そうに駆け寄る。
「おかえり、ハルト。えと、その、大丈夫……?」
 言葉は途中でしぼんでしまった。少年の瞳は暗く沈み、顔には深い疲労が刻まれている。
「……」
 彼は少しだけ顔を上げたが、すぐに背けてしまった。
「ごめんねアリシアちゃん。先に村長の家に行くわ」
 同じく疲れ切った様子のペネ・ロペ。少女はそれでも強い視線を送るが、ハルトは一顧だにしなかった。
「ハルト——」
 四人は問答無用で人垣を分け入り、まっしぐらに村長の家を目指す。アリシアはその後ろ姿を呆然と見送った。
 と、彼のポケットから何かが落ちた。紫のきらきらした石だ。「なんだろ、これ」美しさに魅入られ、拾い上げてみる。
 本来ならばすぐにでもハルトを追いかけて、渡すべきなのだろう。だが、四人には余裕がなかった。用事を終えてからでも遅くない、と彼女は考える。
「きれい……」
 結晶を光にかざしてみる。ダーククリスタルの欠片は、なんとも妖しい魅力を放っていた。



「皆、ご苦労だった」
 村長の家に上がり込むと、マレードがお茶を出してくれた。いつもと同じ味だからこそ安心できる。胃の辺りがほっこり暖かくなった。
 ペネ・ロペは返事もそこそこに、すぐ報告を始めた。
「結論から言えば、あのクリスタルケージでレベナ平野の瘴気ストリームを抜けることが出来ました」
 その先には、カーバンクルが住むおとぎ話の町マグ・メル、そしてヴェレンジェ山があった。受難の大穴を探索してみると、途中で魔物の激しい妨害に遭った。ということは、あの奥から瘴気が発生しているのだろう——事実に推測を織り交ぜ、ペネ・ロペは一気に話しきった。
 村長は静かに目を閉じ、ゆるゆると息を吐いた。
「前に、瘴気を消すと言って旅立った若者の話はしたな」
「はい。マグ・メルから手紙が届いた、という話も聞きました」
「あの若者が誰だったのか、わしはもう忘れてしまったが——ついに、このときが来たのじゃな」
 ペネ・ロペはごくりと唾を飲む。
「……はい」
 黒騎士とハーディの話は、すでに四人の中でまとまっていた。彼らはたった二人でヴェレンジェ山を目指し、瘴気を根絶しようとした。だが何者かに阻まれ、挙げ句の果てに記憶を失う。黒騎士は「光」を求めた旅路に果て、ハーディはガーディという別人格を生み出してしまった、と。
 そして、ハーディは村長の息子だった……。
「来年、あたしたちはもう一度ヴェレンジェ山に挑むつもりです」
 デ・ナムのこと。ティダの村の二人のこと。メ・ガジのこと。悲劇の源をまるごと取り除けるのであれば、彼女らは「やるしかない」と決意する。どれだけ苦しく困難な道のりであろうとも、ハーディやレオンが目指したように。
「……うむ。今はとにかく、ゆっくり休みなさい」
「ありがとうございます。来年の水かけ祭りの後、また挑戦してみます」
 四人は村長の家を辞した。
「ううーん、カタイ話で肩が凝っちゃった」
 タバサが外の空気を吸ってのびをした。前衛で怪我も酷かったわけだが、辛そうなそぶりはない。
「じゃあ、また来年よろしく」
 やはりフィオナ姫との語らいが好影響を及ぼしたのだろう。ひらひらと手を振るリルティの背中は堂々としていた。
「あたしたちも、これで。ハルトくん、またね」
 ペネ・ロペもユリシーズと連れ添い、歩いて行く。二人は村の中でも、一緒に行動するのが当たり前になっていた。
「……」
 故郷の風が吹き抜ける。一人になったハルトの元へ、ある人影が歩み寄ってきた。



 ペネ・ロペは、ユリシーズと共にキャラバンの先輩であるルイス=バークの元を訪ねていた。
 錬金術師の工房はいつも通りごちゃごちゃしていて、三人分の椅子を確保するにも苦労した。無事に全員が座ると、
「眉間にしわが寄ってるぞ。さては、相談事か」
 ルイスは元キャラバンリーダーだ。いくら冗談好きとは言え、その辺りの勘は鋭い。
 彼女はハッキリと頷いた。「はい、その通りです」
「そういえば金色の瘴気ストリームを抜けたんだって。お前ら、すごいよなあ……世界最大の謎の一つを解き明かしたんだ」彼は感嘆の声を上げる。
「たまたまですよ、たまたま〜」
 謙遜しつつ照れ笑いするペネ・ロペ。微妙に話題がそれたことに気づいたユリシーズは、
「その先で、俺たちはおとぎ話の町のマグ・メルと、昔大クリスタルがあったというヴェレンジェ山を見てきました」
 村長への報告と同じ内容を繰り返した。
 ルイスは息をのむ。瘴気の発生源など、ユークの研究者すら未だに特定できていない。ティパキャラバンの後輩たちは、途方もない真実にたどり着こうとしていた。
「奥まで行きたかったんですけど、途中で引き返してきました。今のあたしたちじゃ、歯が立たなかったんです」
 悔しそうにペネ・ロペが唇を噛んだ。
「俺たちは今まで、雫を持ち帰ることを優先してました。でもこれからは攻めの戦いをしなくちゃならない。ということは、つまり……」
 ユリシーズが言いよどんだ言葉を、ルイスは察した。
「ヴェレンジェ山に挑んで瘴気の根源を絶つことは、クリスタルキャラバンの使命とは別かもしれない。ってことだな」
「はい」
 ペネ・ロペは暗い顔になった。その論理の行き着く先は、彼らがキャラバンをやめることに繋がる。
 命を紡ぐ旅人の死は、すなわち村全体の死。ティダの村の出来事を一度として忘れたことはない。キャラバンの旅は、決して不帰の旅であってはならないのだ。
 仮に次代へ引き継ぎをするといっても、ケージや馬車の問題がある。四人の協議は堂々巡りした。
 それでも、もはや今のメンバー以外で、魔の山を攻略することは考えられなかった。実力的にも、心理的にも。
 重々しい沈黙が下りた。ルイスは腕組みをほどく。
「でもさ、瘴気をなくすってのは、クリスタルキャラバンにしかできないことだろ」
「え……」
「旅をして、世界を見てきて、二人はどう思った。何を感じた。楽しいことだけじゃない。瘴気や魔物に苦しめられている人々を、いっぱい見てきただろ」
 かつてリーダーをつとめた男の言葉は、力強かった。
「瘴気が発生して楽園は失われ、たくさんの人が不当に命を奪われた。その悲しみの連鎖の大元を絶つことが、キャラバンに課せられた使命じゃないのか。
 少なくとも俺なら、喜んで戦うよ。今キャラバンをやってないのが悔しいくらいだ」
「ルイスさん……」
「とりあえず、他の村のキャラバンに手紙を書け。金色の瘴気ストリームを越える方法と、自分たちが瘴気の根源であるヴェレンジェ山に挑むこと。同じキャラバンなら、何をどうすればいいかってのは、分かるはずだろ」
 ペネ・ロペは大きく首肯した。そこで頼もしい先輩は、破顔一笑する。
「でも、俺は『万が一』ってのはないと思う。手塩にかけて育てた、可愛い後輩だしな」
 ルイスは椅子に座った二人の肩に、ぽんと手を置いた。
「あんなに泣き虫だった新人が、立派になったもんだよ」
「みんながいてくれたからです。仲間がいるから前に進めるんです」
 ペネ・ロペの翡翠の瞳がきらきら輝いた。
「ユリシーズ、補佐は頼んだぞ」
「任せて下さい」
 ルイスがリーダーの頃から、ユークの青年は自発的に先輩を助けていた。
 ミルラの雫でつなぐ命だけではない。キャラバンの中でも、脈々と受け継がれゆく絆があるのだ。



「よっタバサ。おかえり」
「カム・ラじゃない。どうしたのよ」
 裁縫屋への帰り道、タバサはセルキーの少年と出くわした。日中で親の手伝いがあるはずなのに、彼はハンマーを持ったままウロウロしている。
 そして開口一番「アリシア、見なかったか」だ。タバサはしかめっ面になる。
「村の入り口で真っ先に出迎えてくれたわよ。いないの?」
「ああ。どこにも……」
 カム・ラは不安げにすみれ色の髪を揺らした。まったく、他人に迷惑をかけるクラヴァットに、他人を心配するセルキーとは。ティパの村にいると種族を超えて性格が混ざるものだろうか。
 さっと左右に目を走らせ、タバサは声を潜めた。
「本当に、大丈夫なの、あの子」
 かなり含んだ物言いだ。それでも内容は正確に伝わる。カム・ラの口調は苦い。
「お前らがアルフィタリアに行ってる時は、落ち着いてたんだよ。ハルトに頼んでマメに手紙も書いてもらったし。でも、キャラバンが変なところに寄るって聞いてから……」
 変なところ。詳細を知らないとはいえ、村人にとって瘴気の根源とはその程度の認識だった。外の世界はどこも一緒なのだ。このあたりが、なかなか相互理解が深まらない理由だろう。
 アリシアにも旅を経験させればどうかしら、とタバサは考えた。ハルトと同じものを見れば、彼女だってキャラバンで得るものの大きさが、分かるのではないか——
 タバサは夢想に一区切りつけ、盛大にため息をつく。
「っていうか、なんであの子、ハルトが関わるとああなっちゃうのよ」
「人見知りだからな。信頼できる人にはとことん入れ込むんだよ……」
 最初は親同士の些細なやりとりだった。ほんの赤ん坊の頃から、アリシアは母親以外になかなか心を開かなかったらしい。娘の将来を不安視した粉ひきの母は、同じクラヴァットのミントに助けを求めた。農家には少し後に生まれたハルトがいたので、友だちになって欲しいと頼んだのだ。試しに二人を引き合わせてみると、泣きわめくばかりだったアリシアが、いつしか笑い声を上げてハルトと遊んでいた。はじめて彼女が他人に気を許した瞬間だった。
「赤ちゃんの頃から一緒だったんだ。友だちが変わっちゃうのが怖いんだろ」
 カム・ラは遠い目をしていた。誰の心にもそういう部分があることを知っているから、彼はあえてアリシアの立場で考えようとしている。
 ハルトが崖から落ちた「その日」以降、アリシアの心配性には拍車がかかり、また彼女は変化を極端に恐れるようになった。あの事件は、誰の心にも等しく暗い影を落とした。
「あんたがびびってるのは、直談判でしょ。アリシアがハルトに直接、旅を止めて欲しいって言うんじゃないかって」
 ずばり言い当てると、カム・ラは顔を歪めた。
「その通りだよ。ただ、アリシアの気持ちも分かるんだ。あいつにはハルトしかいない。だからキャラバンなんて、他の誰かがやればいいんだって……俺も、思ったことあるから」
 タバサは青い瞳をすうっと細め、過去に思いをはせた。
「ハルトね、ヴェレンジェ山でちょっと暴走したの。一人で突っ走ろうとした。よっぽど先に進みたかったのね。残念だけど、あいつは旅を止めないわよ」
「……」
「だからといって、アリシアを切り捨てられるわけがない」
 クリスタルのように固いハルトの意志が砕けるとしたら——原因は、案外身近にあるかもしれない。
 それでも彼は必ずアリシアを説得してくれる、とタバサたちは信じた。他人がどれだけ心配しても、こればかりは自分で決着をつけなくてはならない。
 カム・ラは静かな決意をみなぎらせ、こぶしを握った。
「俺、一応アリシアを探してくる。思い過ごしだったらそれでいいもんな」
「頼んだわよ」
 裁縫屋の脇道を行けば、そこは例の岬だ。「その日」ハルトが崖から落ちて、全てが始まった場所であり——もしかすると、何かが終わるかもしれない場所。



 湿った潮風が吹いて、無造作に整えられたハルトの髪を揺らした。
「話がしたい」と言って彼を岬へ誘ったアリシアは、何故か大きな包みを片手に持ちながら、無理に作ったような笑顔を見せた。
「ハルトがキャラバンに出てから、もう三年かあ。なんだか、ハルトがすっかり遠くに行っちゃったみたい」
「……」
 アリシアは一歩前に出ると、彼の腕を取った。ぶかぶかした袖をまくり、肌にそっと指を這わせる。らしからぬ距離感に、ハルトは目をしばたいた。
「傷、いっぱいだね」
 キャラバンの旅は厳しい。いくらケアルをかけても、傷の深さによっては跡が残ってしまう。
「去年より増えたんだよね。これからも、また……。
 ハルト、今まで見たこともない顔をするようになった。ねえ、どうして旅を続けるの? 外の世界には瘴気が満ちていて、辛いことばっかりだよ。そんなところに行かないで。もう傷つかないでよ。キャラバンなんて、他の人に任せればいいのに。どうしてハルトが引き受けなくちゃいけないの!?」
 言葉を重ねるうちに興奮してきたのだろう。ぎゅうっと掴まれたハルトの腕に痛みが走る。
「私は——ハルトに、キャラバンをやめて欲しい」
 ぞくり、不可抗力で肩が揺れる。ハルトは彼女の顔をおそるおそるのぞき込んだ。
 アリシアの瞳はいつもの澄んだ茶色ではなく、夕闇のような紫に染まっていた。
「!?」ハルトは混乱しながら、ぶるぶる首を振る。家族との約束のため、仲間のため、何よりも自分のために、旅を止めるわけにはいかない。
 アリシアはまなじりを決して、
「どうして。なんでよっ!
 私、ハルトが帰ってこなくなるんじゃないかって、それしか考えられないの。もうどこにも行かないでよ」
 胸が痛むような訴えだった。それでも彼は、アリシアの懇願を受け入れることが出来なかった。
 あともう一息で、瘴気を根絶できるかも知れない。自分がどれだけ傷ついても関係ない。あの悪夢のようなヴェレンジェ山へ、もう一度挑むのだ。
「ひどい。ひどいよ……」
 呟きながら、アリシアはゆっくりと包みを開いた。中から現れたのは、炎のような流線型を描く、クラリスの愛剣エクスカリバーだ。何故姉の剣がここに。そして、アリシアは何をしようとしているのか……?
 彼女はたどたどしい手つきで剣を持った。暗い紫の瞳がハルトを突き刺す。
 唇から流れ出すのは、別人のような低い声だ。
「いつだって『キミ』はひどい奴だったよね。どうして『ボク』を、いなかったことにしたの。こんな仕打ちをしておいて、どうしてキミはのうのうと生きていられるんだよ!?」
 アリシアは——否、彼女の顔を持った誰かは泣き叫んだ。
「っ!」
 目の前にいるのは幼なじみではない。愕然としたハルトに、突如として思い出の波が押し寄せてきた。
(——)
 彼の意識はライナリー砂漠の夜へと舞い戻る。リーダーとフィオナと、三人でたき火を囲んだあの夜へ。
 フィオナが夢中になって話すうちに、ペネ・ロペは眠り込んでしまった。王女は小さく笑い、膝を揃える。
「……ハルトさん。あなたが声を出せないのは、崖から落ちた時に、喉を痛めてしまったからですか?」
 直球で切り込んできた。
 当然と言えば当然の質問だった。ハルトは少し驚いたが、静かにかぶりを振った。
「では、心の問題なのですね」その通りだった。
 王女は長いまつげを憂いに沈ませる。
「あなたは優しい方ですから、きっと深い傷を負ったのでしょうね……」
 それは違う。優しいのではなく、弱いのだ。どうしようもなくもろい心が、内側から声を封じる結果となった。
 その時、ハルトの中で不思議な心の動きがあった。今まで誰にも伝えたことがなかった、本当の原因。そのごく一部を打ち明けてみたくなったのだ。今思えば、王女がティパ村の出身でないから告白できたのだろう。
 ハルトは日記の切れ端に、真相のひとかけらを綴った。
「まあ」フィオナは目で文字を追った。その様子を、彼はどきどきしながら注視している。
 王女は柳眉をきゅっと寄せた。
「なるほど。それではハルトさん……あなたは、その人を見殺しにしてしまったのですか」
 見殺し……確かにそうだった。
 ハルトは「彼」の存在を殺してしまった。自分のしでかしたことの恐ろしさに心を閉ざし、声を失った。
(……っ!)
 ——そして、今。眼前に「その人」が居る。ハルトがいなかったことにした「彼」が、アリシアの姿を借りて現れた。
「っ!」
 衝撃が足を揺るがす。今やハルトは恐怖に支配されていた。
「なんでボクだったんだよ。許せない……絶対に、許せない」
 アリシアはゆっくりと剣を構える。紫の瞳が怪しく光った。
 刹那、彼女の細い体がエクスカリバーごと飛び込んできた。
「……!」
 とっさに身を捻って狙いをそらす。完全に目的を遂げることは出来なかった。鈍い音がして、腹部が焼け付くような痛みを発する。あたたかくてぬるぬるしたものが流れ出す。何体もの魔物を屠ってきた剣先が、初めて人間を獲物にした瞬間だった。
 本来なら避けられないはずのない、素人同然の動きだ。でもハルトは、自ら罰を受けることを選んだ。
「ふ……あはは」
 彼女は乾いた声で笑った。ずるりと剣が抜かれ、近くに投げ捨てられる。
「どれだけ思い出を大切にしても、忘れてしまったら無駄だよね。必死に心に刻みつけて、どんな意味があるのかな」
 この台詞を吐いたのは「彼」とアリシアと、どちらだったのか。彼女は冷たくハルトを一瞥し、歩み去った。
 傷を押さえた手のひらから、赤いものは容赦なくあふれ出していく。膝の力が抜けて、ハルトは草の上に崩れ落ちた。
 闇に閉ざされかけた視界の中に、紫色のダーククリスタルの欠片が見える。アリシアの手からこぼれ落ちたものだ。
(……)
 ヴェレンジェ山から持ち帰った結晶は、彼女の変貌した瞳と同じ色だった。ハルトがうっかり落としたそれをアリシアが拾って、「あの人」を心に宿したのだ。
 体を貫く鮮烈な痛みすら、何故か遠い。感じていたのは、苦い後悔だった。
 彼が今死に瀕しているのは——アリシアの心をあそこまで追い詰め、「彼」の存在を殺してしまったのは——全て、ハルト自身のせいだった。
 それだけではない。「あたしを信じて」と、ペネ・ロペは言った。クラリスにも水かけ祭りで同じことを言われた。しかし一度だって、その言葉に応えられたことがあっただろうか。全てを秘密にして、家族や仲間との間に線を引いていた……。
 思考の袋小路の先にあったものは、暗い闇だ。魔物たちによって塗りつぶされた思い出のなれの果て。「魔」に食べられる寸前の、儚い思い。
 ついに、彼は力尽きてまぶたを閉じた。芝生が赤く染まっていく。血の気が引いて白くなる頬には、透明な雫が伝っていた。



 湿った風が吹いて、ラケタは顔を上げた。今日も今日とて農作業に励んでいる最中だった。
 分厚い雲が天蓋を覆っている。キャラバンが帰ってきたというのに、嫌な天気だ。額に浮かんだ汗をぬぐい、胸元を引っ張って空気を送り込む。
 農場の外がどうも騒がしかった。ジョウロを持ったミントも入口の方を気にしている。
「何かあったのかしら」
 すると、焦った様子のユリシーズが農家の敷地を横切り、まっすぐこちらへやってきた。
「ハルトの荷物はあるか!?」彼は走りながら叫ぶ。
「部屋にあるけど……」
 馬車からおろして、そのままだった。肝心のハルトは村長の家から戻ってきていない。
「ちょっと借りるぞ」
 ユリシーズは問答無用で家に踏み込む。いくら友人とはいえ、これでは領土侵犯だ。ラケタたちは唖然として青年を見送った。
 玄関先のドタバタを聞きつけて、家にいたクラリスは声を張り上げる。
「おーいラケタ、私の剣を知らないか」
 日課の素振りをした後、そのあたりに置いておいたのだが、何故か見つからなかった。
 返事がないので廊下に顔を出せば、長身のユークと鉢合わせた。
「! なんだユリスか。どうしたんだ」
「ケアルリング、あるよな」
 決め付けるような発言だ。ユリシーズの仮面の奥には奇妙な光が宿っている。
 ハルトの荷物を探ればリングは見つかるはずだ。しかし、なぜ村で魔法を使う必要があるのだろう。
 クラリスは説明を催促するように、友人の無機質な仮面を見上げた。
「ハルトが怪我をした」
 ユリシーズが言う。彼女は顔色を失った。「なんだって……」
 それが控えめな表現だということは、すぐに知れることになる。



 結局その日のティパ村は、キャラバンの帰還ではなく、ハルトが大怪我をしたという話題で持ちきりになった。幸いにも致命傷には至らなかったが、魔法で傷が塞がっても一向に目覚める気配がない。高熱にうなされながら、こんこんと眠り続けているらしい。
 岬で倒れていた彼を一番最初に発見したのは、カム・ラだった。彼は取り乱しながらも、近所の住民に助けを求めた。話を聞いたユリシーズがすぐさま動き、ケアルリングで応急処置を施した。おかげで際どいところで命をつなぐことが出来た。
「また来年」と言って別れたばかりのキャラバンは、夜、疲れた様子で村長の家に集まった。キャラバンの話し合いは客間を借りて行われるのが通例だ。
 ユリシーズの仮面には、鬱々とした表情が刻まれているようだ。
「とりあえず、生きてるよ。目を覚ますかどうかは分からないが……数ヶ月は確実に動かせないだろう」
 魔法のエキスパートである彼が言うことに、誰も異議は唱えなかった。ハルトの怪我に関して、これ以上三人にできることは何もない。ペネ・ロペは唇を噛み、あえて別の話題を出した。
「来年の旅、どうしようか?」
 キャラバンとして真っ先に議論すべきことだ。タバサも泣き言は吐かず、努めて平静を保っている。内心はカム・ラにも負けず劣らず混乱していたが。
「そうね。私としては、新人は入れたくないな。たった三人でも、行くべきだと思う」
「あたしも同感よ」
 無言のままユリシーズも頷いた。三人は、ハルトの帰りを待つつもりだった。彼は必ずまた旅に出ると、固く信じていた。
 その時。部屋の扉が、ぎいい……と音を立てて開いた。
「面白そうだな、その話。私も混ぜてくれないか」
 声にまで不敵さがにじみ出る。誰もがよく知る人物の登場だ。
「クラリス!?」
 ハルトの看病をしているはずの彼女が、なぜここにいるのだろう。
 総立ちになった友人たちを手で制し、クラリスはうっすら笑ってみせる。
「来年のキャラバンの話だろ。人員が足りないなら、私があいつの代わりに行く」
「……なんですって?」
 ペネ・ロペはムッと眉を寄せた。彼女にしては珍しく、険悪な雰囲気を漂わせていた。
 親友の様相にも気づかない風に、クラリスは人差し指を唇にあてた。
「来年もヴェレンジェ山に挑むんだから、ミルラの旅の出発は早ければ早いほどいい。ハルトが目覚めるまで待つわけにはいかないだろ。どうだ、戦力的にはそう衰えていないつもりだが」
 ペネ・ロペはつかつかと彼女へ歩み寄ると、真っ向から鋭い視線をぶつけた。
「ハルトくんを置いていくの?」
「お前らだって、あいつ抜きで旅に出ようとしたじゃないか。だから、こんなところで相談していた」
「そうじゃなくて。こういう時こそ、あなたがハルトくんのそばにいてあげるべきでしょ!」
 ユリシーズが口を挟む。
「クラリスお前、変だぞ。何をそんなに焦ってるんだ」
 指摘されて、彼女は表情を沈ませた。
「私が、あいつを旅に出したんだ。あらゆる責任は私にある」
「ハルトとの約束はどうなるの? あの子のことを信じたからこそ、送り出したんでしょう」
 というタバサの発言に、クラリスは胸をつかれたようだ。苦しげに目を閉じて、
「約束、か。私はそれでハルトの心を縛った。父さんが果たせなかったことを、私たちでやろうとした。なんで弟に任せきりにしていたんだろう。こんなことになるなら——」
 それ以上は口に出せない。
「弟から奪ってしまった夢を、自由を、誇りを。あの子のもとに取り戻す」
 クラリスは茶色の瞳を激しく燃え立たせた。
「私はたったひとりでも瘴気を晴らしてみせる!」



 夜も更けた頃、ひとり家の片付けをしているラケタの元に、カム・ラがやってきた。
「おう、今日はお疲れ様。どうしたんだ」
 眠るハルトのそばにはミントがいる。衝撃を受けた様子のクラリスも、無理やり部屋で休ませていた。——その実、彼女はこっそり家を抜け出していたのだが。
 家族全員が参っている今、自分が潰れてはいけない。そう思ってラケタは気丈に振る舞っていた。
 セルキーの少年は、端正な顔いっぱいに無念を浮かべていた。
「……エクスカリバーは、俺が海に捨てました」
 一瞬、言葉の意味が掴めなかった。
「まさか、あの剣が凶器なのか?」
 今回の事件には、おかしな部分があった。ハルトの傷は刃物に貫かれたものと推測されたが、肝心の凶器が見つからなかったのだ。
 この話が本当なら、カム・ラが犯人と言うことになる。しかし、「それは違う」と勘が告げていた。顔を伏せる少年へ、ラケタは詰め寄る。
「カム・ラお前、犯人知ってるんだろ? 言いにくいのは……なんとなく分かるけど。村長じゃなくて、おれの所に来たのはどういうわけなんだ」
 やがて、少年はぼそぼそ話し始めた。
 アリシアが長い包みを持って農場から出てきた、という目撃証言があったこと。その少し後、自分は岬の方角から走り去る彼女にぶつかったこと。岬に足を伸ばしてみると、血の海に沈んだハルトがいたこと——。
 震える声で語る内容を、「そうか……」ラケタはしっかりと受け止めていた。
 驚かなかったといえば嘘になる。だが、カム・ラよりも少しだけ長く生きた彼は、深呼吸して冷静になることができた。
「で、でも、アリシア、何にも覚えてないみたいなんです」
「え?」
「ハルトのことを訊いたら、知らないって。ウソついてるわけじゃなくて、本当に知らないって言うんです。で、あいつの見舞いに行きたがってました。それは止めたんですけど、い、一体なんでこんなことに——」
 言葉は尻すぼみになって消えていく。
「物忘れ病」
 ぽつり。ラケタが呟いた。
「最近、自分が何をしようとしていたか、忘れることが多くないか? あれ、ユリスの話じゃ、どうもいろんな場所で流行っているらしくてさ。アリシアの件も、もしかしたらその一種なのかもしれない」
 あまりに辛く悲しい思い出に心が耐えきれず、蓋をしてしまう。奥底にしまい込まれた思い出は、いつしかなかったことにされてしまう。
 そこまで考えて、ラケタは薄ら寒さを感じた。
「とにかく、お前はアリシアの面倒をよく見てくれ。村長にはおれからうまいこと話しておくよ」
 ぽんぽん肩を叩くと、力なくカム・ラは頷いた。
 今日はもう遅いからと少年を送り出し、ラケタは椅子にぐったりと腰掛けた。
「はああ……」あまりに重い話だ。このままぐっすり眠るなんて、出来そうにない。それこそ物忘れ病にでもならない限り。
 ラケタはふと思い立ち、部屋に放置されていたハルトの荷物を片付けようと、腰を上げた。
「……これは?」
 手紙の山と共に出てきた、小さな日記帳に目を引かれる。クリスタルクロニクルとは別に、個人でつけていた日記のようだ。
 これを読めば、決して表に出ないハルト自身の思いを知ることが出来る。しかも今、当人は意識を失っていた。究極のプライベートを覗ける誘惑に、彼は勝てなかった。
 ラケタは一ページ目を開いた。

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