第四章 春を告げる者



 穏やかな午後の日差しが差し込む、ハルトの自室にて。クラリスは、すやすやベッドで眠る弟を眺めていた。
 怪我は治れども、目覚める気配はない。数週間そのまぶたは伏せられたままだ。
「ごめんな、ハルト」
 こぼれ出すのは後悔の気持ち。そして、悲壮な決意だった。
「私が無理矢理、旅に連れ出してしまったせいで、こんなことになったんだ。恨んでくれても構わない。
 ……もう、お前に全部背負わせたりしないよ。瘴気は私が晴らす」
 彼女は実に三年ぶりに、キャラバンの服装に身を包んでいた。腰には真新しい剣を提げている。
 最後にもう一度ハルトの頬に触れ、クラリスは泣きそうな顔で微笑んだ。
「それじゃあ……行ってきます」
 光の中へ進む背中に、声をかける人はいなかった。



 数週間前にティパの村で起こった事件は、村人たちに衝撃を走らせた。一歩間違えば死人が出ていた。被害者は、十一年前に同じ場所で事故に遭ったハルト。次々と農家に降りかかる苦難に、誰もがやるせない気持ちになった。
 事件と言うからには犯人がいる。目下のところ「そうではないか」と囁かれている人物が、また悩みの種だった。
「やっぱり……アリシアがやったんだ」
 タバサは後悔の念に苛まれていた。胸騒ぎがしていたにも関わらず、破局を阻止できなかった。自分はなんて無邪気だったのだろう。ハルトならば必ずアリシアを説得できると、根拠もなく信じていたのだ。
 臥せったハルトの代わりに、姉のクラリスがキャラバンに入ることになった。「今年はヴェレンジェ山に挑戦する。だったら準備が出来次第、すぐにでも旅立つべきだ」と彼女が主張し——あっという間に旅立ちの日がやってきた。
「……」
 村人に真実を伝えた張本人であり、キャラバンを見送りに来たカム・ラは、目に見えてやつれていた。タバサは胸が苦しくなる。
「アリシアはどうしてるの?」
「事件の記憶がないんだ。見舞いに行きたいらしいけど、必死に断ってる」
 カム・ラは大きくため息をつく。
「最悪だよな、俺たち。応援しなきゃいけないキャラバンの足を、引っ張ってばかりでさ」
「そんなことは——」
「いいえ、そうでもありませんよ、カム・ラ」
 ぴしゃり。言い切ったのは商人の娘ヒルデガルドだ。彼女は気づかぬうちにタバサの後ろに立っていて、
「あなたたちの不甲斐なさは、私がまとめて補います」
 何故か自信満々な様子である。カム・ラたちは目を白黒させた。
「どうしたんだよ、ヒルダ」
「先ほど決めました。私はキャラバンに投資します」
「はあ? 賭けでもするの」タバサも親友の思考についていけない。
 ヒルダは胸をそらした。金属製の飾りが天を突く。
「まさか、これは賭けではありません。何が何でもあなたがたにはヴェレンジェ山を攻略してもらいます」
 二人はあっけにとられて声も出ない。
「瘴気さえなければ、世の中の物流は百倍以上になるのですよ。このチャンスを逃す手など、商人にはありませんから」
 兄や姉を出し抜いて跡継ぎになるべく、彼女は究極のハイリスク・ハイリターンへ手を出すつもりだった。それでも収益は十分にあるという計算である。
「すでに村長やペネ・ロペさんには許可を得ました。ヴェレンジェ山に挑む際の積荷や装備は、こちらで用意させていただきます」
 ヒルダが両手で広げた長い紙は、最果てのダンジョンを攻略するために必要なアイテムのリストだった。ざっと一読しただけで、その無駄のなさは分かる。
「ということですから、今まで以上に期待していますよ、タバサ」
 何とも頼もしい申し出だった。タバサは満面に笑みを広げた。
「ありがとうヒルダ。それじゃ、行ってくるわ」
「あ、ああ……」ヒルダと自分を比べてしまったのだろう。自己嫌悪の表情を浮かべるカム・ラへ、タバサは気遣わしげな視線を投げる。
「ハルトのこと、よろしくね。あいつもきっと……寂しいだろうから」
 二人へ手を振り、彼女は最後の旅路についた。
 その横では、ある家族が別れの挨拶を交わしていた。
「クラリス!」
 きっちり旅装を整えたクラヴァットの女性は、ラケタの声に振り返った。
「本当に行くのか」
 不安そうに顔を歪める夫へ、クラリスは笑いかける。
「何を今更。安心しろ、腕の方は衰えていない。お前だってよく知ってるはずだ」
 おまけに、彼女は前掛けの下に大地の鎧——ガイアアーマーを着込んでいる。ハルトやユリシーズが持って帰った素材で作ったものだ。軽さに反比例した硬度を持つ、クラヴァットに伝わるとびきりの防具だった。
 ラケタは頭を振る。
「そっちじゃないよ。なあ、大丈夫なのか」
 意味深長な二つの視線が絡まり合った。クラリスはふっと肩をすくめる。
「なんとか持つだろ」
 夫の言いたいことは察したが、あえて口には出さなかった。
 涼しげな態度を装う彼女を見て、ラケタはぎゅっとこぶしを握った。
 好奇心に突き動かされて読んだハルトの日記には、十一年前に彼の心を揺るがしたものの正体が記されていた。
 少しでも彼女をこの場に引き留めるため、ラケタはその真実を打ち明けようとした。
「ハルトは——あいつはさ、実は」
 クラリスは夫の唇に人差し指をあてた。
「言わなくていい。続きは帰ってから聞くよ」
「あ、ああ……」わずかに頬を染め、ラケタは引き下がる。
 次に彼女は母に向き直った。
「母さん。私は父さんが出来なかったこと、絶対やり遂げてみせるよ」
 ミントは答えず、神妙な顔で頷いた。
「行ってまいります」
 決然と言い切って、クラリスはきびすを返した。
 いつもの通り、ペネ・ロペが代表して出立の挨拶をする。村人たちを安心させるように、彼女は終始笑顔だった。
「必ずミルラの雫を持って、帰ってきます」
 人々はかすかな不安を感じながら、キャラバンを見送った。
 もしかすると、これが最後のミルラの旅になるかもしれない——喜ばしいはずなのに、その予感には寂しさがつきまとった。
 すっかり馬車が見えなくなってから、ミントは隣にいた義理の息子へ話しかける。
「ラケタくん。クラリスのことで何か隠してるでしょ」
「ぎくっ!」
 青年の両肩が跳ねた。分かりやすい反応だ。「どっ、どうしてそれを?」
 ミントは嘆息する。
「だって、さっきのクラリス……嫌ぁな意味で、エンジュさんにそっくりだったもの。あの人もバレバレの嘘をついていたわ」
 何十年も彼の血筋と付き合ってきた彼女には、手に取るように分かってしまった。
 観念して、ラケタは事情を打ち明けた。情報共有の天才たるヒルダに聞こえないよう、こっそりと。
 ミントは軽く目を見開くと、口元を引き締めた。
「ふうん、それであんなに急いで出発したのね。だったらこっちにも考えがあるわよっ」
 ビシィ! とミントは橋の向こうへ指を突きつけた。脳裏には頼りない息子の姿が浮かんでいる。何としてでも、彼に起き上がってもらわなくては。
 彼女が持ち前の行動力を発揮してラケタを驚かせるのは、ごく近い未来の話だ。



 メンバーを入れ替えたティパキャラバンは、旅の相棒パパオが引く馬車に乗って、半島を北上していた。
「ごっくろーさんッ!」
「ほ〜んと、お疲れね」
 クラリスは幌の中でうつらうつらしていたが、懐かしい挨拶を聞いて覚醒する。
「ルダのみんなじゃない。こっちこそ、お疲れさま」
 御者台でタバサが受け答えしているようだ。
 セルキーの二人が作り出す賑やかさにつられて、クラリスが思わず外へ顔を出すと、
「あれ、クラリス!?」ダ・イースが目を丸くする。「なんでこんなところにいるんだよ」
 まるで珍しい動物のような扱いだ。彼女は不満そうに唇をとがらせた。
「弟の代わりだ。あいつが怪我をしたからな」
 ルダキャラバンは顔を見合わせる。
「怪我したのか。去年会った時はぴんぴんしてたのに。大丈夫なのか?」
「一時は危なかったんだけどね。ゆっくり休めば、治るわよ」
 タバサは胸を叩いた。その横で、クラリスは顔を曇らせている。
 キャラバンが旅立った時点で、ハルトは数週間眠り続けていた。怪我の具合が悪いわけではない。ならば、心に問題があるのではないか。アリシアに刺された現実に向き合えず、目覚めることを拒否している——クラリスにはそうとしか思えなかった。
 沈みかけた空気を察して、ハナ・コールが笑顔を作った。
「てか、クラリス結婚したんだよね。おめでとう」
「あ、ありがとう……」面と向かって祝福されると、今さら恥ずかしくなる彼女だった。
「結婚祝いはないけどな!」
 とダ・イースは偉そうに言ってから、表情を改める。
「もう三年前だっけ。ハルトに初めて会った時は、クラリスがいなくて寂しかったんだけどな。今は逆だよ」
「どういう意味だ、ソレ」
 クラリスはむすっと眉根を寄せた。が、彼らの気持ちも理解できる。
「変だよね、あの子って一言も喋らなかったのに、いなくなると寂しいなんて……」ハナ・コールは思い出に浸るように目を細めた。
 そこでダ・イースは身を乗り出し、
「でもさ、怪我が治れば帰ってくるんだろ?」
 旅に「帰ってくる」とはおかしな表現だったが、彼らの心情にはあてはまっていた。
「……」
 クラリスは答えない。顔に憂慮をたたえ、唇を噛む。
「帰ってくるわよ。絶対にね」
 一方、タバサは断言した。ダ・イースはにかっと笑った。
「だよなー!」
「そしたらまたお喋りしたいね。フィオナ姫のこともさ」
 あのちっぽけな後輩を、二人は大切に思っている。タバサはあたたかい気持ちになった。
「とりあえず、あいつに手紙書いてあげてよ。起き上がれなくてヒマしてるはずだから」
「おっけー!」
 ルダキャラバンは、名残惜しそうに手を振りながら去って行った。
 相変わらず馬車そっちのけで移動する二人を見やり、クラリスはひとりごちた。
「なんだよみんな、ハルトハルトってさ」
 一番寂しいのは私なのに——という言葉は省略した。
「……三年前は、ハルトくんも同じ事を思ったはずよ」
 いつの間にか後ろにいたペネ・ロペの発言に、「え?」とクラリスは振り返る。
 リーダーは時の彼方を見透かすように視線を飛ばした。
「クラリス、影響力あったからねえ。どこに行っても『あのクラリスの弟』として見られてたから、大変だったと思うわ」
 クラリスはぽかんとする。
「考えたこともなかった……」
 しかし彼は、三年という月日で印象を塗り替えたのだ。弟の新たな一面を発見した気分だった。
「姉弟二人で一緒にいたら、相当目立つかもね」タバサが目をくりくりさせれば、
「うんうん! 面白い絵面になりそう」
 ペネ・ロペも楽しそうに乗っかってきた。
「二人で……か」
 クラリスはまぶたを閉じる。
 弟と彼女は同じ目的を持っているはずだった。なのに、二人の間には「秘密」という透明な壁が立ちはだかる。
 そもそもクラリスが旅をやめたのは「ある予兆」を感じたからだが、弟と共に旅をしようとは、何故か一度も考えたことがなかった。
(私は、あいつを認めていない——?)
 自問自答する。十一年前から、心のどこかで「弟は後ろをついてくるもの」と思い込んでいなかっただろうか。
 黙ってかぶりを振るクラリスを、仲間たちが心配そうに見つめていた。



 ゴブリンの壁——ティパ半島の東・クトリーマ山脈に位置する、ゴブリンたちの巣窟である。首領のゴブリンキングは一番奥にある祭壇で日夜怪しげな儀式を行っており、例によってミルラの木はその先に生えていた。
 洞窟内には天然の段差がいくつもあって、下から見上げると壁のように積み重なっている。それが「ゴブリンの壁」という名前の由来だった。
 以前からティパの村では近くにあるこのダンジョンを危険視しており、キャラバンは雫と安全を確保するため、勇んで攻め入った。
「宝箱!」
 洞窟の中に安置されていた箱へ、ユリシーズが突進していく。が、お宝は頑丈な木の格子の向こうにあった。彼は悔しそうにこぶしを握りしめる。
「ユーリース、敵だよっ」
 ペネ・ロペが文句を言った。一行を囲むのは、様々な武器を持つゴブリンや、セレパティオン洞窟で苦戦したエレキクラゲ。四人はさっと気持ちを切り替え、応戦した。
 とりわけ動きが光るのは、先陣を切って戦うクラリスだ。腰までの茶髪を翻し、優美なステップで敵を蹴散らしていく。彼女の操る白刃に、黒き獣ケルベロスがどうと倒れた。
「こっちは終わったぞー」
 クラリスは、固まって戦っていた三人に手を振った。
「お前……一人でケルベロスをやったのか」
 ユリシーズはハンマーを下ろし、瘴気に還っていく亡骸を見つめた。ケルベロスは廃都レベナ・テ・ラにも出現する強敵だ。異常に発達した前足の一振りと、巨大な牙をあらわにした強力な顎での噛みつき。並のキャラバンでは束になっても苦戦は必至だろうが、彼女は誰の助けも借りず、鮮やかに勝利してみせた。
「あの程度の敵、楽勝さ」
 片目を瞑るクラリス。しかしユリシーズにはどうも、彼女が強がっているように見えた。
「ユリス、ケージお願いね」というペネ・ロペの声で我に返る。
「ちゃっちゃと先に進みましょ!」
 タバサは威勢良く槍を振り上げた。
 特攻のクラリス、必殺技のタバサ、魔法のペネ・ロペ、回復とケージのユリシーズ。実に四年ぶりのフォーメーションだ。
 道中、ペネ・ロペは魔法の勘を取り戻すのに必死だった。
「ご、ごめんユリス、また失敗した」
 マジックパイル・ホーリーが不発に終わる。ゴーストは半透明のままぴんぴんしていた。ユリシーズは苦笑し、
「もう一度やるぞ」
 こういうとき、ハルトがいればと思う。あの少年は合体攻撃のタイミングに関して、特別な才能があった。
 幸い二度目の魔法は成功した。
「おいクラリス、あまり近づくな!」
 実体化したゴーストが手を上げたのを見て、ユリシーズが叫ぶ。あれは冷気を周りに集めて、ブリザドに似た攻撃を仕掛ける合図だ。サンダーを使って間合いの外から安全に倒すべきだ。
 しかし、彼女は歩を緩めなかった。
「すぐに片付けるッ」
 宣言通り、ゴーストを一刀のもとに斬り伏せる。魔物はホワイトシルクを残して消えた。
「クラリスさ〜ん、しっかり盾役も引き受けてよね。ペネ・ロペさんが大変よ」
 タバサが苦言を呈する。リーダーは複数のエレキクラゲに囲まれ、冷や汗をかきながらブリザドを詠唱していた。クラリスは剣を持ち替えて、気合い弾を放った。雷をまとった魔物は次々と地に落ちる。
「すまんすまん。久々に体を動かすと楽しくてな」
「いいなあ。あたしも動きたい……」
 いつもは自在に戦場を駆け回るペネ・ロペも、今は剣聖の活躍を指をくわえて眺めるだけだ。
「俺もケージ持つの飽きた。アイテムあさりたい」ユリシーズがぼやく。
「あたしが持とうか?」
「んー……まあ、いいや」
 だって、ハルトの仕事だからな。彼は言外にそう言っていた。聖域の位置調整が抜群に上手かった少年を思い出し、二人はしんみりしてしまった。
「……」
 意味ありげに沈黙する幼なじみたちを、クラリスは不審そうに観察していた。
 配置換えがあったとは言え、戦力的には申し分の無いベテランメンバーだ。ユリシーズのわがままによる宝箱回収で多少ロスはしたが、ボスの待つ祭壇までたどり着くのはあっという間だった。
「ここのボスはゴブリンキング。ファイラとかバイオラみたいな強めの魔法を使ってくるけど、それさえ避ければこっちのもんよ」
 情報を首尾よく仲間たちに伝え、ペネ・ロペは胸を張った。
 クラリスはしみじみと茶色の目を細めた。
「ペネ・ロペ。ずいぶんリーダーらしくなったなあ」
「え、そ、そんなことないって」
 我の民なのに小心者な彼女は、褒め言葉にもいちいちドキっとしてしまう。
「いやいや。四年前とは大違いだ」
「でも、しょっちゅうタバサに怒られてるし……」
「私そこまで怒ってないんだけど?」リルティの後輩は顔をしかめる。
 ユリシーズは苦笑した。
「お前の実力はみんな認めているさ。自信をもて、ペネ・ロペ」
「……えへへ」
 誇らしげに笑う親友を見て、クラリスはキャラバンから離れていた歳月に思いを巡らせた。四年の間にそれぞれ積み重ねた経験は、想像よりも大きな違いを生んだようだ。
 クリスタルケージをユリシーズに託し、四人はいざ祭壇へと足を踏み入れた。
 ちょうど、儀式の真っ最中だったらしい。装飾品をじゃらじゃら身につけたゴブリンキングは、なべの前に立って紫色の液体をかき混ぜている。なんとも怪しげな雰囲気だ。
「よおしっ」
 祭壇へ向かうキャラバンの前に、見張りのゴブリンが立ちふさがった。が、クラリスの剣とタバサの槍の前では、もはや障害ではない。後衛が援護の魔法を放つ前に片付けてしまった。
 四人が祭壇に土足で踏み込むと、キングが怒りの声を上げた。それからは魔法の乱舞だ。ボスが唱えたファイラが危うくタバサのマスクを焦がす。
「うわっ。近づきにくいわね」
「ここは俺に任せろ」
 ユリシーズは豪語すると、ケージを置いて前に出た。当然、キングは彼を魔法のターゲットにする。
「お、おいっ」焦るクラリス。
 魔法が発動する瞬間、彼はユークの秘術で体を透明化した。
「ありがとユリス、助かるわっ」
 ペネ・ロペの号令で、女性三人は一斉攻撃に出た。それぞれの武器が閃き、順調にボスの体力を削りとっていく。
「いける……」
 クラリスが確かな手応えを感じ、一旦後ろに下がった時だった。周囲に緑色の煙が湧いてくる。毒煙魔法バイオラに、タイミング悪く突っ込んでしまった。
「っ!?」
 息が詰まる。肺が焼け付くように痛い。彼女は膝をついた。
 辛そうなクラリスに、ユリシーズが浄化魔法クリアを飛ばした。しかし毒から解放されても、彼女は動けなかった。
「クラリス!」思ったよりダメージを受けているらしい。ペネ・ロペの詠唱にユリシーズが合わせ、再生魔法ケアルガの光が宙を舞った。
「……はっ」
 彼女は足にぐっと力を込めて、立ち上がる。
 前線に復帰すると、「大丈夫?」タバサが心配そうに見上げてきた。
「まだ行けるさ」
 脂汗をぬぐう。恐るべき集中力で痛みを吹き飛ばし、彼女は大きく踏みこんだ。足から腕へと無駄なく力が伝わり、剣先は素晴らしい軌跡を描く。クラリスの放った必殺技パワーソードが、とどめとなった。
 よろめくゴブリンキング。支えにした杖は、祭壇に蓄えられた魔力と共鳴して大爆発を巻き起こす。自らの儀式の失敗により、キングは果てた。
 タバサは地面に残された禍々しい杖を見る。
「あいつ、何か落としたわよ」
「錬金素材に使えそうだな」
 ユリシーズは嬉々として杖を拾ってから、
「肩、貸そうか」とさりげなくクラリスに申し出た。
「一人で歩けるよ」
 彼女は笑って首を振り、きびきびした足取りでミルラの木へと歩いて行った。
 すぐにペネ・ロペが追いかけて、隣を陣取る。
「クラリスって、本当に魔物には容赦ないよねー」
「ん。そうかもな」
「ジャック・モキートの館の話、前にしたでしょ。ハルトくんがマギーさんを助けてあげたの。どう思った?」
 去年のはじめ、彼らは交渉によってミルラの雫を手に入れたという。他の村のキャラバンの間でも、話題になっていたらしい。
「どうって……まあ、ハルトらしい話だよな」
「あの時クラリスが居たら、きっと反対したよね」
 否定出来なかった。クラリスは唇を噛む。
「ああ。私の父さんの病気は、瘴気が原因だった。今思えば、キャラバンを十年も続けていたからだろうな。
 本当に瘴気が魔物を生んでいるとしたら——私はどうしても、あいつらを許すことが出来ない」
「そう……よね」
 同じ父を持つのに、ハルトとは真逆の考え方だった。あの少年はおそらく、人に危害を加えない限り、魔物とも戦わないだろう。
 四人は足を止めた。クラリスが三年ぶりに対面したミルラの木は、神々しい光に包まれているようだった。ユリシーズが台座にケージを置くと、緑の葉先に光が集まり、雫となって器をうるおす。
 タバサはその様子を眺めながら、
「魔物と人と、一番の違いって何なのかしら」
「え」哲学的な質問に、クラリスは目をぱちぱちさせる。
 こういう話に慣れっこのユリシーズは、すぐに自分の意見を出した。
「世界の循環に入っているかどうか、かな。魔物は死んだら消えるけど、人間はいつか自然の一部として土に還るだろ」
 実に模範的な解答だが、タバサは不満そうである。
「そうなんだけど。あいつらってそもそも生き物じゃないでしょ。もっと根幹に関わる定義がある気がするの」
「こんなのはどう。魔物とあたしたちの一番の違いは、思い出を作ることが出来るか否か!」
 ペネ・ロペがぴしりと人差し指を立てる。
「あいつらは人々に悲しい思い出をつくらせるけど、自分の胸に思い出を抱くことは——決してないの」
 クラリスは口の端を持ち上げた。面白い考えだ。
「逆に、思い出をつくることが出来たら、人になるのか?」と尋ねる。
「そうよ。というか、魔物以外ってことかな。ほら、モーグリだって思い出をつくれるじゃない」
「いいわねその定義。スティルツキンさんが喜びそう」
 タバサが顔をほころばせる。かの旅好きモーグリは、自分が魔物の一種ではないかと悩んでいた。去年の終わりにカーバンクルたちの村マグ・メルに置いてきてしまったが、元気にしているだろうか。
 クラリスは腕組みした。脳は忙しく働いている。
「だからこそ、私たちには物忘れ病が天敵なのか……」
 そこでユリシーズがからかうように、
「なら、パパオはどうなるんだ。半分魔物の血なんだろ」
 ペネ・ロペは人差し指をグルグル回した。
「んー……微妙なところだけど。きっと、あたしたちとの思い出は持ってるよ」
 憶測とも言える希望だが、不思議と仲間たちは納得してしまった。
「スティルツキンさんの話やおとぎ話によると、『魔』が私たちの思い出を食べて、魔物を生み出してる。だから魔物は思い出の涙なんだって。対する『姫』は思い出の輝きを集めて、ミルラの雫を作り出す。——何でもかんでも、思い出なのね」
 タバサの発言に、クラリスははっとした。
「だからこそ、ハルトは思い出を大事にしていた……?」
 ペネ・ロペはにこっと微笑むと台座からケージを拾い上げ、雑談に終止符を打った。
「お手紙クポ〜」
 モグがやってきた。大好きなハルトがいなくても、変わらずティパキャラバンに協力してくれるらしい。
「ね、ハルトくんはどんな様子だった?」ペネ・ロペが声をかける。モグは当然ティパ村にも行っているはずだ。
「モグの知ってる限りでは、まだ起きてないクポ……」
「そっか」
 旅立ってから、まだ日も浅い。そう簡単に目覚めることはないだろうと思いつつ、クラリスは不安になる。
 いいや、これが正しいんだ。自分が雫を集めて、ハルトのいる家へ帰る。それこそ本来あるべき形だ。
(なあ、そうだろ?)同意を求めるように、彼女は近くに置かれたクリスタルケージに目線をやった。白色の光を宿したクリスタルは、優しく彼女を見守っている。
『クラリス……』
 不意に、声が響いた。はるか昔、何度も聞いたことがあるような声が。
「え」
 首を左右に回すが、みんな手紙に集中していた。その声は彼女だけに届いているようだ。
『気をつけて。あなたたちが瘴気を消そうとする限り、ラモエが必ず邪魔をするわ』
「ラモエ?」
 返事はない。いくら耳を澄ましても、何も聞こえなくなってしまった。
(前にもこんなことがあった気がする)
 考え続けて、クラリスはやっと声の正体を探り当てた。
「まさか——クリスタルの精霊さん?」
 一気に過去が押し寄せてくる。彼女の知らない場所で、何かが動きはじめているようだった。



 クラリスは長い髪の毛をさらさらと風になびかせ、御者台でパパオを操っていた。
 本街道をゆく、のんびりした旅だ。久々にキャラバンに参加したわけだが、緑の草原は四年前と少しも変わらず、彼女の心を和ませた。
 遠くの方に、休憩中のキャラバンが見えた。あの立派な武装はアルフィタリアの馬車だろうか。
「おおい、みんな」
 幌の中にいる仲間たちへ声を掛けたが、返事はない。軒並み寝ているらしい。
「……はあ。積もる話もあるだろうに」仕方なくクラリスは一人で応対することにした。
「おつとめ、ご苦労様です!」
 鎧のリルティたちが、ぴしりとかかとを揃えて敬礼をする。彼女は違和感を覚えて人数を確かめた。一、二……四人しかいない。欠けているのは隊長のソール=ラクトだ。
「ええと、お久しぶりです」
 とりあえず挨拶すると、アラン=ガイルと思われる人物(似たような兜ばかりで区別がつかない)が前に出て来た。
「クラリスさんじゃないですか。キャラバンを引退されたのでは」
 誰に会っても不思議がられる。忘れられていないだけマシだと割り切るしかない。
「今はハルトの代理です。ところで、ソール=ラクトさんは? まさか——」
 魔物にやられて、という言葉は呑み込んだ。
 アランは頭を振った。
「いやいや。……赤ちゃんが生まれたんですよ」
「え。なーんだ。円満に退職したってわけか」
「そうそう。美人の奥さんと可愛い子供。めちゃめちゃ幸せそうでしたよ。
 今は俺がリーダーですけど、コイツらのおもりするのツライです。俺も子供生まれないかなあ」
 愚痴ったアランに対し、被保護者の扱いを受けた仲間たちが次々に発言した。
「新リーダーは、その前におよめさん見つけるでふよ」
「あ〜、新リーダーにはそりゃきびしいハードルだ!」
「だいじょうぶ! ワシらがついてますよ、新リーダー!」
 順番にエント=ダラス、ドニー=ミルス、ゲンク=ワック。規律正しい人々だが、なかなか気さくな面もあるようだ。
「まあまあ。私だって結婚できたんですから。何とでもなりますよ」
 とクラリスがフォローすると、アランは兜に深刻そうな色を浮かべて、
「クラリスさんよりは早く結婚するはずだったのに……」
「オイ、どういう意味だ」
 低い声で訊ねる。アルフィタリアキャラバンは縮み上がった。
「そ、空耳ですよ、空耳」
「……ふん。にしてもめでたい話だ。ソールさんにお祝いでも包もうかな」
 クラリスは自分の荷物から、ギルの詰まった袋を取り出した。
「おめでとうございます、と伝えてください。ティパキャラバンからです」
「おお、ありがとう。分かりました、確かに届けます」
 その後、五人は少し雑談してからそれぞれの道に別れた。
 リルティたちの馬車が視界から消えた頃になって、やっとタバサが起き始める。
「クラリスさぁん……今の、誰?」
「アルフィタリアキャラバン。ソール=ラクトさん、お子さんができて引退したんだってさ」
「そーなんだ」
 鈍い反応だ。驚いているのか、いないのか。タバサは目をこする。
「クラリスさん家は、その——子供は?」
「答えにくいことを尋ねてくるなあ。今のところは予定なしだよ」
 彼女は苦笑して、付け加えた。「……でないと、ハルトの居場所がなくなりそうだからな」
 実はその他にも重大な理由があったのだが。
「案外、あいつは居場所なんて勝手に見つけるかもよ」タバサは唇を三日月のようにした。
「ハルト……信用されてるんだなあ」
 クラリスはしみじみと言った。
「私だって、三年前は想像もつかなかったわ。
 キャラバンのリーダーはペネ・ロペさんだけど、要所要所で支えてくれるのはあの子なのかも。大事な癒し手でもあるしね」
 率直な感想を聞いて、クラリスの胸が熱くなる。まさしく彼に期待していた役割だった。他人を引っ張っていくような積極性はなくても、ハルトが背中にいると安心できる。
 その長所があれば、彼はどんな場所でも生きていけるだろう。なおさらクラリスは弟と離れがたくなってしまったが。
「うーん複雑な姉心——げほっ」
 寒気を感じ、彼女は咳き込んだ。
「風邪?」
「いや、たいしたこと無いけど。ちょうどいい、手綱を交代できるか?」
「分かったわ」
 クラリスはどきどきする胸を押さえて、幌の中に入る。
 一刻も早くヴェレンジェ山に挑み、瘴気を晴らさなくてはならない。タイムリミットは間近だった。



 ティパ一行はマール峠で羽を休めた。次なる目的地はキランダ火山。ゴブリンの壁から直接ティパの港に向かうのが最短経路だが、一度補給を済ませておきたかったのだ。
 暇をもてあまして村をフラフラしていたクラリスは、道ばたで伝道師ハーディを見かけた。昔は彼の語る理想にあまり興味がなかったが、今は「ローラン村長の息子であり、実はガーディと同一人物」という事実を知っている。自然と、足はそちらに向かった。
 伝道師が話している相手は、宿屋の主人ヒュー=ミッドだ。ヒューは近づいてきたクラリスが救世主であるかのように、飛びついた。
「どうしたんだ?」
「いやあ、その……ハーディさんとどうも話が噛み合わなくて」
 ヒューはつま先立ちになって耳打ちした。
「なんだか、ハーディさんは過去の出来事を覚えていないようなんです」
 クラリスははっとする。これが物忘れ病という奴だろうか。
 ハーディは不思議そうに、
「その、忘れ物というのはどういう見た目なんだい」
(忘れ物?)クラリスは首を傾げる。
「えっと、紫の綺麗な石のかけらです」
「これのことかな」
 ハーディはこぶしほどの大きさの石を取り出した。ヒューの顔が輝く。
「そうそう!」
 クラリスは静かに息を呑んだ。あれはダーククリスタルの欠片。倒れていたハルトのそばにあったものと同じだ。彼女は二人の間に割り込んで、
「私にも見せてくれないか」
 言った途端、欠片がちかりと輝き、視界が真っ暗になる。
「え?」
 瞬きをする間に世界が反転した。彼女はひとりきりで、どこまでも青い、海の底のような空間に放り出されていた。
「な、なんだ……!?」
 知らないはずなのに、どこか懐かしい場所だった。本物の水中にいるわけではなく、まわりには空気が満ちていて、足元もしっかりしている。マール峠のクリスタルだけが先ほどと同じ位置にあって、表面にのどかな宿場町を映していた。
(テレポでも発動したのか?)
 ハーディもヒューも見当たらない。混乱するクラリスの周りに、突如青い煙が立ち上った。顔面に魔法陣を貼り付けた奇妙な魔物が現れる。
「うわ」
 魔物は大きなしっぽを振りながら、彼女を無視してクリスタルの方へ突進していった。
 あいつを行かせてはならない。直感に従い、クラリスは走った。幸い剣は腰に帯びている。
 問答無用で斬り込むと、魔物はしっぽを腕代わりにして応戦してきた。
「ぐっ」
 剣の平で受け止めるが、存外に重い一撃だ。体に直撃したら意識が飛ぶかもしれない。クラリスは思いっきりジャンプし、脳天から剣を振り下ろす。必殺技パワーソードで叩き伏せると、魔物の体は消えてしまった。
 汗を拭った彼女の目の前に、「光」が現れた。
『クラリス……ついに、あなたまで来てしまったのね』
 眩しくてよく分からないが、どうやら少女の姿をしているようだ。クラリスはすぐにピンと来た。
「まさか、あの時の精霊さんなのか?」
『精霊じゃないわ。私はミオ。思い出の管理人よ』
 クラリスは大きく目を見開く。思い出の管理人——不思議な響きだ。数週間前にミルラの木の下で交わした、ペネ・ロペたちとのやりとりが蘇る。
「お前、ゴブリンの壁でも話しかけてきたよな。一体ここはどこなんだ」
『ここはクリスタルワールドよ。あなたたちの暮らす世界に寄り添って存在する、クリスタルの中のもうひとつの世界』
 今クラリスがいる場所と、水晶の向こうのマール峠。どちらも決して夢ではないという。
「クリスタルの中に、世界があった……?」にわかには信じがたい話だ。
 だが、同時に納得した。幼い頃にミオと出会って以来、彼女はいつもクリスタルに見守られているような視線を感じていた。
 この世界や思い出の管理人について質問責めにしたい気持ちは山々なのだが、ミオは焦っているようだった。
『もう時間が無いわ。使い魔がいるということは、ラモエが動き出してる。クラリスは、瘴気を晴らそうとしているのでしょう』
「そうだよ。もしかして——ラモエというのが黒幕なのか」
 たった三文字なのに、限りなく不吉な名前だった。訳もなく彼女は身震いする。
 ミオはわずかに光を翳らせて、言った。
『あなたに伝えなくてはいけないことがあるわ。ラモエのことと、もうひとつ。昔この場所へやってきた、レオンとハーディという旅人たちのことを』
 そうして彼女は語り始めた。
 黒騎士レオン=エズラと伝道師ハーディはある日突然、たった二人でヴェレンジェ山の最奥に現れた。この二千年間ではじめての出来事だった。
 彼らはそこで瘴気の源と対峙する。かつて、大クリスタルを砕いた隕石とともにやってきた「それ」。古代の人々はそのおぞましい生物に、メテオパラサイトという名前をつけた。
 激しい戦闘の末、二人は執念でメテオパラサイトを絶命の寸前まで追い詰めた。その時——ラモエが彼らをクリスタルワールドへ呼び出した。
 人々の悲しい思い出をむさぼり喰う怪物、それがラモエだ。
 当然のように、ラモエは彼らの思い出を奪った。まんまと二人分の記憶を手に入れたというのに、彼はとても不満そうだった。それは二人が未来を見つめすぎたあまり、ほとんど思い出を持っていなかったから。
 ミオはその光景を見ていたけれど、何も出来なかった……。
「だから黒騎士もハーディも、記憶を失っていたんだな。
 結局、ラモエって何なんだよ。そんなに危ない奴がどうしてここにいるんだ」
 とクラリスが問う。
『ラモエはね、瘴気によって世界の循環が途切れた時、その歪みから突然生まれたの。
 彼はあなたたちが心に深く刻んだ思い出まで食べてしまう。そして、悲しい思い出から魔物をつくりだす。
 実は、私もほんの少しだけ思い出をもらっているの。ただし、人々が自然に忘れていくものだけね。それをミルラの雫にすることが、思い出の管理人の役目だから』
「そ、そうなのか……」
 クラリスは目が回りそうだった。とんでもない情報量に、頭はパンク寸前だ。この場にユリシーズが居れば、さくさくと話をまとめてくれたのだろうが。
 ふと、仲間たちがことあるごとに引っ張り出す、あのおとぎ話を思い出した。ラモエは『魔』、ミオは『姫』に、そっくりそのまま当てはまるのではないだろうか?
 だんだん事情を理解してきたクラリスに対し、ミオはどことなく物憂げだった。
『お願い、もう私たちには関わらないで。あなたまでレオンとハーディのようになってしまうわ』
 ひどくか細い声に、クラリスは反発した。
「何言ってるんだよ。そんな奴、なおのこと放っておけないじゃないか」
『いいえ、放っておいて欲しいの。だって、ハルトが声を失ってしまったのは——私のせいなのよ』
 一気に頭が切り替わった。
「どういうことだ!?」
 ミオは顔をこちらに向けた。そうするだけで、心の奥底まで見透かされている気分になる。
『……私たちは外の世界に憧れていた。私もラモエも、自分で思い出をつくることはできないの。だからあなたたちが羨ましかった。
 クラリスを見つけたのは偶然だったわ。いつもクリスタルを覗いてる、おかしな子供だと思った。試しに話しかけてみたら、また面白いことを言うんだもの。ますます外の世界が気になったわ』
 クラリスの無邪気な発言——弟が夢を叶えてくれる——が、彼女の心をつかんだのだ。
 ミオは苦しげに言葉を紡ぐ。
『私が何かと気にしていたせいで、ラモエまであなたたちを知ってしまった。彼は常に思い出に飢えているの。悲しい思い出を作り出すために、少しちょっかいを出そうと考えた。だからあんなことを』
 クラリスの顔が青ざめていく。
「そんな理由で……手を出された方はたまったものじゃないぞ。それで、ラモエは一体何をしたんだ」
『それは——』
 再び青い煙。剣を握ったクラリスの手首が翻る。
「邪魔だ!」使い魔と呼ばれた魔物を、出現と同時に切り捨てた。
 いよいよ時間がないらしい。クラリスはなんとか話をまとめようとする。
「とにかくラモエって奴を倒したら、物忘れ病も瘴気もなくなるんだな。そいつはこのクリスタルワールドにいるのか?」
『そうよ。クリスタルがこの世界の入り口になっているの。でも普通は入れないわ。誰かが内側から呼ばないと。
 私は力が弱いから、あまり長い間呼び出すことはできないの。それも一人が限界で……』
 申し訳なさそうなミオを励ますように、クラリスが声を張り上げた。
「だったら黒騎士たちみたいに、ヴェレンジェ山の一番奥でメテオパラサイトを倒せばいい。そうすれば、ラモエだって黙っていられないはずだ。そいつの力ならキャラバンもまとめて呼び出せるだろ。
 安心しろ、私は黒騎士たちと同じ轍は踏まない」
 ぱちっとウインクして見せた。そして彼女はやや表情を改める。
「ありがとう。ミオはずっと見守ってくれてたんだな。私、必ずやり遂げてみせるから——全部終わったら、また報告に来るね」
 ミオはどきっとした。それは幼き日に交わした約束。大切な記憶は時が過ぎても残り続けて、その人の心をつくる。
 微笑むクラリスの体が薄れていく。時間が来たようだ。
『……気をつけてね』
 ミオは小さく手を振った。心に一抹の不安を抱きながら。
 彼女には、クラリスが黒いもやをまとっているように見えたのだ。



 眩しい日差しを感じて、クラリスはまぶたを開ける。そこはマール峠だ。ハーディとヒューの様子からして、さほど時間は経っていないらしい。
「おっと」
 ぱきり。彼女は手の中にあったダーククリスタルの破片をへし折った。
「ああーっ」ヒュー=ミッドは声を上げた。
「はは、悪い悪い。うっかりやってしまったようだ。ハーディさん、ごめんな」
 彼女はごく軽い調子で頭を下げた。
「いや……構わないよ。壊れてしまったものは、仕方ないからね」
 大して気にもしていないように、ハーディは笑った。あっさりした反応は、なんだかガーディと似ていた。
 クラリスは適当に話を切り上げ、宿にいた仲間たちの元に戻った。
「遅いわよークラリスさん」
 タバサが頬を膨らませる。三人は宿のロビーで雑談していたようだ。
「どうしたんだ、剣なんか持って」ユリシーズが驚いてみせる。
 彼女は大きく肩を落とし、はあーっとため息をついた。
「それがさ、いろいろ大変だったんだよ……」
 三人の興味深そうな視線が集中した。クラリスはミオのことを話すべきか、しばし逡巡したが——
「長い話になるけど、聞いてくれるか」
「もちろん」
 彼女は先ほどの出来事を、自分なりに整理して語った。三人は神妙な面持ちで聞いている。
 すっかり窓の外が暗くなる頃、話が終わった。それでも沈黙している仲間たちへ、
「……信じられないよな?」
「ううん、信じるよ。ハルトくんの考えとも、おとぎ話とも一致するもの」
 ペネ・ロペの目にぽっと緑色の火が灯る。
「そうか、ハルトが……」
 一言も喋らなくても、弟はこれだけ多くのことを仲間に伝えていたのだ。
「予想通り、物忘れ病の原因も黒騎士の記憶を奪ったのも『魔』の仕業だったんだな。そして『魔』の名前はラモエ。全部、繋がったわけだ」
 ユリシーズがぽんと手を叩き、
「これはもう、一刻も早くダンジョンを攻略しないとね!」
 勢いよくタバサが腕を振り上げた。「ええ、もちろん」ペネ・ロペは静かな決意を胸に広げる。
 クラリスは自慢の柳眉をきりりと釣り上げた。
「そして——ミオを助けよう!」
 四人は誰ともなしに頷き合う。幼き日の約束が、クラリスを未来へと導いていた。



 昼間の高揚のせいで眠れなくなったクラリスは、夜のマール峠をさまよっていた。崖上にある宿から階段を下りると、川の近くに出る。誰もいない集落は静かそのもので、鍛冶屋のハンマーではなくせせらぎの音に支配されていた。
 彼女は河原に座って、流れる水をじっと眺める。
(ついに、長い旅が終わるんだな)
 思わぬところで明らかになった黒幕の正体。叶うならば今すぐにでもヴェレンジェ山に殴り込みたい。彼女にはラモエを憎むべき理由も十分すぎるほどある。しかし——なぜか尻込みしている自分がいた。
(本当にそれでいいのか? ハルトを置いて、ひとりで行ってしまっても……)
 南からやってきた風が頬をなでた。ティパの村の方角だ。今この瞬間も、弟は悪夢と孤独に戦っているのだろうか。
(いいや。もともと私がやるべきだった。逸れた道が元に戻っただけだ。私が前に進めば瘴気も晴れるし、ハルトも起きる。何の問題があるんだよ)
 自分に言い聞かせるように、考えを固めていく。
 そこでクラリスはふと、顔を上げた。どこからか視線を感じた。川岸から離れた木の下に、誰かいる。
「顔を見せろ!」
 クラリスは鋭く誰何した。
「やあ」
 陰から姿を現したのは、ガーディだった。昼間はハーディがいたのだから、「弟」がいてもおかしくはない。しかしクラリスは、貼り付けたような彼の笑顔に不穏なものを感じた。
 おもむろに立ち上がり、剣の柄に手をかける。
「……何用だ」
 彼はあの憎たらしくも憎みきれない詐欺師とは、全く別の雰囲気をまとっていた。クラリスの肌はぴりぴりと粟立つ。
 月明かりに見えた瞳は紫色。彼はぞっとするような笑みを浮かべ、例のものを取り出す。
「ダーククリスタル——」
 クラリスは目を丸くした。数時間前、彼女がこの手で壊したはずのものだった。
 手のひらで紫の欠片を転がしながら、ガーディは呟く。
「これ、もともとは黒騎士と呼ばれたリルティが、ヴェレンジェ山から持ち帰ったんだけどね。彼の死に際に偶然ハルトが拾っちゃって、それだと都合が悪いから取り返したんだ。あれは二年くらい前だったかな」
 クラリスの顔色が変わった。
「取り返した? まさか、ファム大農場であいつが気を失っていたのは」
「そう、ボクがやったのさ」
 彼女はごくりと唾を飲み込む。魔物相手でもここまで緊張したことはない。何故今夜は月がないのだろう。これでは間合いが分からない。
「ほら、村のクリスタルを通じて記憶を奪うのにも、限界があるからね。欠片なら移動できるし、こっちは瘴気にもなじんで都合がいい」
 ダーククリスタルにはケージの聖域を封じる効果がある。魔性の者が使うにはうってつけなのだろう。
 クリスタルワールドに潜み、記憶を奪う存在。それはまるで——
「お前がラモエなのか……?」
 じりじりと間合いを詰める。もう少しで剣先が相手に届く。
 ガーディの皮を被った「誰か」は、涼しい顔でかぶりを振った。
「違うよ。いろいろと世話になってはいるけどね。
 やっぱりみんな、ボクのことを忘れているんだな。だからこそ、ボクは絶対にあいつの——ハルトのことを許さない」
 どす黒い憎しみを真正面から受けて、彼女は背筋を凍らせた。
「せっかく舞台を整えたけど、この前は失敗だったな。彼を一息に殺せなくて残念だったよ」
 クラリスは、彼の瞳にあふれた闇を睨みつける。
「ハルトを刺したのはアリシアじゃなくて、お前なんだな」
 彼は少し目を細めて、
「アリシアか。扱いやすい子だったよ。ちょっと喋るだけで、あっさり心を掴めたから。ハルトがずっと自分のそばにいて欲しいんだって。ボクが手助けしなくたって、いつかは刺してたんじゃないの」
「そんなことは——」
 体が鉛のように重い。あろうことか、彼女は完全に気圧されていた。
 黄金色の闇を背負った青年はくつくつと笑った。
「ま、予定変更かな。ハルトには最後の日まで、たっぷり絶望を味合わせてあげる」
 刹那、クラリスは渾身の力を込めて剣を振った。夜闇が白い光で切り裂かれる。
 ——外れた! ほんの少し距離を読み間違えたのだ。
「危ないなあ」と眉をひそめてから、「彼」はわずかに声色を変えた。
「ねえ。キミは本当にハルトがもう一度旅に出るって、思ってるの?」
 今一番訊かれたくないことを、最悪の相手に言われてしまった。クラリスはそれでもきっぱり言い切る。
「当然だ」
「そんなの無理だよ。あり得ない。ボクのことを忘れてしまったあいつには、絶対に無理なんだ!」
 怒りに任せて叫んだ。クラリスの肩が震える。
(なんなんだよ一体。ハルトがお前に何をしたっていうんだ!?)
 わめくとすっきりしたのか、彼は再び凍り付くような笑顔になって、悠然と身を翻す。
「ヴェレンジェ山の先で待ってるよ。その時こそ、キミたちの希望を丸ごと打ち砕いてあげる」
 気づいた時には、彼は影も形もなかった。クラリスはうつむいて、剣の柄を握りしめた。



 その日のティパキャラバンは、妙に明るいムードに包まれていた。キランダ火山攻略の道中である。
 キランダ諸島は海の果てに浮かぶ孤島群だ。かつての黄金時代、リルティたちは鉄を鍛えるためにここのマグマの熱を利用したという。
 火山地帯には、往時と変わらぬ熱気があふれていた。ライナリー砂漠とはまた別種の、多量に水分を含んだ暑さだ。何故このような場所にミルラの木が生えているのか……と、女性陣には不評な場所だった。これまでは。
「いくよクラリス!」
「おうっ」
 長い二本のキバを持つ怪物オーガとブレイザビートルに対処する為、ペネ・ロペは暑さにも負けず最速の集中で魔法を解き放つ。サンダー剣だ。
 一方、グラビデにより地に落ちたラヴァアーリマンを刈り取ったタバサは、ついこらえきれず、
「温泉、温泉」
 と呟く。ユリシーズが苦笑いした。
「ああ、ご機嫌な理由はそれか」
「四年前は見つかってなかったものね、トリスタンさん様々だね」
 ペネ・ロペが笑う。
 昨年ティパキャラバンは、渡し守トリスタンにあることを頼まれた。
「これからライナリー砂漠に行くんだろ。だったら『サボテンの花』をとって来てくれないか。譲ってもらえれば船賃を割り引くよ」
 願っても無い申し出だ。花は砂漠の秘宝探しのついでに見つかった。トリスタンに渡すと、お礼とともにある情報がもたらされた。
 ——キランダ火山には秘湯が沸いている、という。なんとも心躍る噂だった。
 ちなみにトリスタンは、今回「キランダの硫黄」をご所望らしい。こちらも発見次第すぐに渡すつもりだ。
「お風呂は鉄巨人を倒してからだぞ?」
 クラリスは腰に手を当てた。暑さを吹き飛ばすような爽やかな笑いだ。
「分かってますー!」
 タバサは頬を膨らませた。こういう話になると、妙に子供っぽくなる。
「おおい、前見ろ前。クアールが来てるぞ」
 女性三人はユリシーズの呼びかけに、武器を構え直す。
「さあて、ちゃっちゃと片付けますか」
「温泉のためにねっ」
 久々にクリスタルケージ係を任されているユリシーズは、「ははは……」一人後方にて、ハルト不在の寂しさを噛みしめていた。



 キランダの火口のごく近く。よりにもよって、ミルラの木はそんな場所に生えていた。
 雫を手に入れようと火口を横切る四人の前に立ちはだかったのは、大きな太刀を自在に操る鉄巨人だった。
 鉄巨人の攻撃をぎりぎりまで引きつけて、バック宙でかわす。キャラバン八年目に突入したペネ・ロペの身体能力は、もはや極限にまで達していた。
(その分のびしろは少ないんだけど、ね)
 苦い思いがこみ上げる。このままでは、近いうちに引退することになるだろう。その前に、彼女には成し遂げるべき事があった。
「はあっ」
 ラケットがユリシーズの魔力を受けて輝く。思考を断ち切るように、タイミングを合わせて魔法剣を放った。
「……すごいな」
 戦いながらクラリスは感心していた。四年前よりも、仲間たちの感覚は遙かに研ぎ澄まされている。もはや、チームワークの点では他キャラバンの追随を許さないだろう。
 彼女は誇らしさと嫉妬を感じながら、鉄の体に斬り込んだ。
「よし。タバサっ!」
 声を受けて、タバサが飛び出した。マール峠の職人と相談し、自ら手入れをした自慢の槍を振りかざす。武の民の誇りを取り戻した彼女はもう、迷わない。
 鉄で出来た体に、鋭い一撃が刺さった。巨人の体躯はがらがらと崩れ去る。
「ふー」
 誰ともなしに、ため息をついた。緊張が一気にほぐれる。ユリシーズがケージを拾い上げ、四人はミルラの木へと向かった。
 火口からくる熱気も、木のそばでは少し和らいだ。何より目に入る緑色が涼しさを感じさせる。これで、今年二回目の雫が入手できたわけだ。
「……旅、終わっちゃうね」
 ペネ・ロペがぽつりと言った。ハルトの身を案じているのだろう。彼はまだキャラバンに復帰しておらず、目が覚めたかどうかも分からない。さすがのモーグリもキランダ諸島まで飛ぶことは出来ないので、手紙は大陸に帰ってから受け取ることになるだろう。
「次はどうする?」ユリシーズが話題を変えた。トリスタンにどこまで送ってもらうか、早急に考える必要がある。
「レベナ・テ・ラに行きたいんだが、いいかな」
 クラリスが提案した。
「いいけど、理由でもあるの?」
「……あそこは星が綺麗だから」
 言葉を濁すクラリスを、ペネ・ロペは追及しなかった。ひとつ頷いて、
「じゃあ、そうしよっか」
「温泉っ。温泉に行きましょ!」
 興奮して槍をぶんぶん振り回すタバサ。近くにいたユリシーズは「うわっ」と飛び退いた。
 馬車まで着替えを取りに行き、キャラバンはいそいそと温泉へ向かう。もちろん女性陣から——というより、ユークに入浴の習慣はない。
 トリスタンの情報通りだった。海を見下ろす岩場に、色づいた湯が湧いていた。熱いくらいの温度だが、日も暮れてきたのでちょうどいい。
 キャラバン唯一の男性であるユリシーズは岩陰に背中を預けて、留守番することになった。
「きゃっ。あつーい」
「足先からじっくりならしていけばいいだろう」
「あんまり強い泉質だったら、お肌荒れないかな?」
 楽しそうな声が漏れ聞こえても、悶々と膝を抱えるしかないのが辛いところだ。
 一方女性陣は、彼の心境などつゆ知らず。
「前ここに来たときは、大変だったわよね。オーガにぼこぼこにされてさ」
 肩まで温泉につかりながら、ペネ・ロペが回想する。あの頃はサンダーの有効性を知らなかったので、地面を揺らすハンマーの一撃に大苦戦した。思えば彼女が真剣に魔物の情報を集めるようになったのは、ああいう経験があったからかも知れない。
「そういえば、前回と同じメンバーだな」クラリスが相槌を打った。タバサが一年目の頃、彼女たちは初めて船に乗って孤島に遠征したのだ。
「あの頃とはすっかり変わっちゃったけどね」
 タバサは腕を洗いながら言った。
「たとえば何が?」
「個人的には、友達が増えたことかな」
「ああ、フィオナ姫と交流があったんだってな」
 キャラバンがアルフィタリア城に招待されたことは、記憶に新しい。クラリスもほんの少し四人が羨ましかったものだ。
「そうそう。ペネ・ロペさんだって、変わったでしょ。前はあんなにおどおどしてたのにさ〜」
 のんびり湯につかっていたリーダーが肩を揺らした拍子に、水面が波だった。
「あ、あたし?」
「そうだぞペネ・ロペ。今のお前は、見違えるほど頼りがいがある」
「クラリスまで。……あたしがこうなれたのは、ユリスやみんなのおかげだよ」
 彼女の胸は確かな充足感にあふれていた。
「なんだか、みんなが眩しいな」
 クラリスは湯をすくい上げた。いつもよりずっと弱々しい声だ。
 ペネ・ロペとタバサは顔を見合わせ、
「なあに言ってるの。クラリスがハルトくんを連れてきてくれたから、今のキャラバンがあるんだよ」
「ペネ・ロペさんの言う通り! 私たちが歩いているのは、クラリスさんが示した道よ。あなたの意志はハルトが立派に継いでいるわ」
「みんな……」
 口元を緩めたクラリスへ、ぱしゃりと湯が叩きつけられる。
「うぎゃっ」
「だから、もう辛気くさいことはなし!」
「ラケタさんとの嬉し恥ずかしな話、思う存分聞かせて欲しいな〜」
 このあたりでユリシーズは本格的に頭を抱えるのであった。
(ハルト、なんでもいいから早く戻ってきてくれ……)
 やがて楽しい入浴時間は終わった。服を着替えた四人はキランダ火山に背を向けて、黒々とした海を見つめる。吹き渡る風が火照った体に心地よい。
「ティパの村が見えるな」
 こちらに岸を向けているのは、ハルトと因縁の深い例の岬だ。大地色の髪をなびかせ、クラリスはかすかに目を細める。
「一回帰る?」
 ペネ・ロペが提案した。ティパの港で船を降りれば、旅程的にも大したロスにはならない。
「いや。このままレベナ・テ・ラに向かおう」
 彼女は毅然として宣言した。
 ペネ・ロペは心配そうに幼なじみの横顔を見やる。
「クラリスは、ハルトくんに帰って来て欲しくないの」
「そんなことはないよ。でも、あいつがいなくたって大丈夫だ。私は一人でも……瘴気を晴らすことができる」
 もう弟に何かを押し付けたりはしないと、決めたのだ。
 ユリシーズは肩肘を張る幼なじみを観察し、意味ありげに首を傾げた。
「俺たちは逆に、あいつがいなきゃダメだけどな」
「そうね。悔しいけどあのメンバーじゃないと、なんかしっくりこないのよ。クラリスさんが悪いわけじゃなくて、さ」
 口々にハルトへの思慕を語る仲間たちへ、クラリスは疑問の眼差しを向けた。
「何でそこまで信じられるんだよ。家族でもないのに。ハルトはもう——もう二度と、旅に出られないかもしれないんだぞ!」
 声が震えていた。
 マール峠で「彼」に投げられた言葉の槍が、胸に刺さってちくちくしている。「本当にハルトがもう一度旅に出るって、思ってるの?」思っているけれど……みるみる思考は悪い方へと転がった。
 うつむくクラリスの両肩に、ユリシーズは手を置いた。
「デ・ナムや黒騎士の時だって、あいつは立ち上がって来たぞ」
「今まではそうだったかもしれない。でも、これからだって同じとは限らないだろ!」
 十一年前の事故と、今回の事件。クラリスも相当応えていたのだろう。何故ハルトばかりが……と言う気持ちを一番強く抱いていたのは彼女だった。
 月のない夜も、星が照らせば空は明るくなる——。
 彼女が希望を持ち続けるのは、あまりに深い絶望を吹き飛ばすため。容赦ない時の流れに足を取られないよう、しっかりと立ち続けるためだった。
 仲間たちは黙り込んだ。風が吹き抜け、衣の裾を揺らす。
「それでも、信じるしかないじゃない」
 おもむろに口を開いたのは、ペネ・ロペだった。
「ハルトくんの心が折れちゃったなんて、思いたくないよ」
 彼女の瞳には光るものがあった。クラリスはかぶりを振った。
「私だって……そんなの嫌だ」
「しっかりしてよ、クラリスさん。あなたが信じてあげなかったら、誰がハルトのことを信じてやれるのよ」
 タバサの励ましが心に響く。
「……分かってる。分かってはいるんだ」
 今にも消えそうな返事だった。髪に隠れて顔は見えないが、泣いているかも知れない。
「絶対に大丈夫よ。それよりも楽しいことを考えよう。ハルトくんが帰ってきたら、どうやって歓迎しようかな?」
 ペネ・ロペは大輪の花のような笑みを浮かべた。腕で目を覆いながら、クラリスは答える。
「そうだな。もしもあいつが復活して、私たちを追いかけて来たら——実力を試そう。私の思いを託すに足りるかどうか」
「そんなことする必要あるの?」ペネ・ロペは怪訝そうだった。
「けじめだ。言葉を持たないあいつと、私は何年も剣を交えて来た。戦っている間だけは、あいつの心が分かる気がしたんだ。だから最後は、剣で決着をつけたい」
 誰よりもハルトを信じたがっているのは、彼女だった。
「ハルト……」
 待ってるよ。ティパの岬をまぶたの裏に描き、クラリスは心の中で優しく呟いた。

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