第四章 春を告げる者



 ハルトは夢を見ていた。記憶の中の風景が、そっくりそのまま再現された夢。擦り切れるほど思い出した、あの日の出来事を。
 その日、海を見下ろす崖の近くで、ハルトは幼馴染のカム・ラとアリシアと一緒に、魔石転がしをしていた。本当の崖っぷちで駆け回っていたわけではない。ただ、岬近くの道は魔石転がしにはうってつけの場所なのだ。
「あ、そっち行ったぞ、ハルト!」
「うん」
 ハルトは普通に返事をして、転がった魔石を追いかける。当時から物静かな子供だったが、もちろん喋ることは出来た。
 早くしないと、魔石が崖から落ちてしまうかもしれない。村にある魔石は質が低い——草も焦がせないようなファイア、温度が高くて水になってしまうブリザド、のようなものがほとんどだ——が、子供たちには貴重なものだった。
 ハルトが足を踏み出した時、風が強く吹いた。
 子供の体重など軽くさらってしまえる、気まぐれな突風だった。ハルトの体はぐらついた。
 ただし、この風だけでは事故に繋がらなかっただろう。彼が踏みしめようとした足の下に、偶然魔石が滑り込んでこなければ。
 いびつな球体がゴロゴロ転がっていく。完全にバランスを崩したハルトの体は、風に押されて崖から飛び出した。一瞬ののち重力に引かれ、落下が始まる。
「ハルト!?」
 友達の声が聞こえる。風に阻まれ、遠くに……。
 そのまま海へ真っ逆さまに向かう体に、誰かの手が触れた。右腕が強く掴まれる。がくんと衝撃が走った。
「——さん!」カム・ラがその人の名前を叫ぶ。「彼」を介して、ハルトは宙にぶら下がっていた。
 おそるおそる見上げると、その人の優しい茶色の瞳が飛び込んできた。双眸が「大丈夫だよ」と語っていた。
「ふ、二人とも、今助けるから」
 上から必死に手を伸ばすカム・ラ。崖っぷちを掴んでいる「彼」には届きそうだ。
 しかし。嫌な音がして、「彼」が掴んだ岩が崩れた。ハルトもろとも空中に投げ出される。
「うわああっ」「ハルトー!」
 叫び声は、もう誰のものとも分からない。目の前に真っ青な海が迫って来て……ハルトの思考は闇に閉ざされた。



 次に目覚めた時、彼は自室のベッドの中にいた。掛け布団のふわりとした感覚、窓から差し込む日差しの温度。自分は生きている。
「……?」
 上体を起こした。闇の底から記憶を引き上げる。たしか、自分は誰かと一緒に海に落ちて——
「ハルト! 目が覚めたのね」
 扉を開けて入ってきたのは、姉のクラリスだった。弟を見て笑顔になるが、目にたまった涙は隠せない。
「心配したんだよ。ハルトが崖から落ちたって聞いて、もう会えないかと思った」
「……うん」
「運良く港に打ち上げられていたの。本当に……良かったあ」
「あの」
 もう一人は? 訊ねようとして、ハルトはどきっとした。記憶が混濁していて、とっさにその人の名前を思い出せない。
 きっと、察しのいい姉なら気づいてくれるだろう。
「でも、カム・ラくんやアリシアちゃんが巻き込まれなくて良かった。落ちたのはあなただけで、しかも無事に帰ってきてくれたんだから」
 ハルトは口をつぐんだ。この台詞からすると、港で見つかったのは彼だけらしい。……どういうことだろう。あの人は? ハルトを助けようとして一緒に落ちてしまったあの人は、どこへ行ってしまったの?
 疑問を口に出すのが急に怖くなって、ハルトは布団を引き寄せた。



 ハルトが目を覚ましたと聞き、多くの人が見舞いに訪れた。中でもカム・ラとアリシアは真っ先に来てくれたが、やはりその人の名を口にすることはなかった。村の誰もが、まるで「彼」など最初からいなかったかのように振舞っていた。
「それにしても、みんな無事で良かった」
 皆が異口同音にそう言った。
 ハルトですら名前が思い出せないのだ。不確かで曖昧な記憶。本当に彼はいたのだろうか。いや、絶対にいたはずだ。彼がいなければ間違いなく自分は死んでいた。——そう確信しているのに、ハルトはどうしても打ち明けられなかった。
 その夜。彼は家を抜け出し、村のクリスタルへと走った。
 姉の言いつけを守って、彼はよくひとりでクリスタルに話をしに行っていた。精霊には一度も会ったことはなかったけれど、一日の出来事を語るだけで何故だか安心できたのだ。
 ハルトはいつものように口を開こうとした。しかし、何を話していいのかわからない。
 頼りない記憶に無意味な言葉。自分で自分が信じられなくなったのだ、と気づくのに時間はかからなかった。
 夜空は真っ暗で、星も見えない。彼はなすすべもなく、ぽろぽろと涙をこぼす。
「ごめんなさい……」
 それがハルトの発した最後の言葉だった。それ以来の十一年間、一言も喋っていない。
 家に帰る途中、彼はふと、キャラバンのある人から聞いた話を思い出した。
『日記や手紙みたいに、目に見える言葉はいつまでも残るよね。時々クロニクルを読み返すと、自分でも忘れていた出来事が書かれているんだ。
 自分の記憶に頼れなくなったら、文字に書き残せばいいんだよ』
 金色の柔らかな巻き毛の彼は、そう言って笑った。
 日記——ハルトはそのようなものを書く習慣はなかった。急いで帰宅すると部屋中を探し、やっと紙切れを見つけて、夢中で書き綴る。
 決して誰にも打ち明けることのできない、あの人の話を。



 あの日の夢は、いつしか真っ青な水中に取って代わる。そうだ、これは海に落ちた時の記憶。苦しくて苦しくて仕方なかった。何故もがいているのかも分からない。とにかく楽になりたい。意識を手放したい。
 どこまでも続く海の中で、彼は力を抜いた。
「自棄になっちゃいけないよ」
 その時、誰かの声が耳に届いた。知らない男性の声だ。
「お前にはやるべきことがある。まだ十代そこそこだろ。人生これからだって」
 でも、嫌なんだ——とハルトは心の中で返事をした。自分だけじゃなくて、家族も友だちも仲間も信じられなかったぼくには、何にも出来ない。
「だったら信じてみよう。とりあえず自分のことから。今まで日記に残してきた足取りが、全部無駄だったわけがないさ」
 声は優しく語りかける。
「もうちょっとだけ進んでみないか。一人だったオレには出来なかったこと、たくさんやってきただろ。仲間も待ってくれてるんだから。
 お前なら、出来るよ」
 この人は誰だろう。どうして理由もなく励ましてくれるのだろう。
「だってお前は……」
 ハルトは目を見開く。急に息苦しさがなくなった。海の中に光が満ちて、水面が近づいてくる。
「春を告げる者、だからな!」



 頬に冷たいものを感じて、ハルトは覚醒した。
 目尻から一筋、涙が流れていた。
「……」
 彼はゆっくりと体を起こす。同時にずきり、腹部に鈍い痛みが走った。おそるおそる寝間着越しになでる。傷は塞がっているようだ。
 窓からこぼれる陽光がぽかぽかと部屋を暖めていた。不意に、扉が開く。
「ハルト!?」
 そこには姉の夫ラケタが立っていた。水差しを持ったまま驚愕している。
「目が覚めたんだな。良かった……母さんも心配してたんだぞ」
 彼は喜んでハルトに近づいたが、頬を伝う涙の跡に気づいて、立ち止まった。
「お前——」
 それ以上、距離を詰めることが出来なくなる。代わりに彼は口を動かした。
「クラリスが、お前の代わりにキャラバンに入ったよ」
「!」
「瘴気を晴らすんだ、って言って。あいつ、思い詰めた顔してた」
 ハルトの瞳の奥で、感情がぐらぐら揺れていた。悲しみか、それとも。
「おれも一緒に行きたかったけど、何の役にも立てないからな。キャラバンのお前が羨ましいよ。
 あ、いや、どうするかは自由だけどさ」
 ラケタは何かを期待するように義弟の顔を見つめた。
 しかし、「……」ハルトはふいっと目をそらしてしまう。
 少し肩を落として、ラケタは話題を変えた。
「ああ、そうだ。お前には悪いけど……読んじゃったんだ、これ」
 小さな日記帳を取り出す。瞬間、ハルトは彫像のように固まった。次に頬が真っ赤に燃え上がる。
「〜っ!」日記をひったくり、ばしんとラケタを叩く。力は弱いが勢いはなかなかだった。
「ごめんって! お前のこと知りたかったんだよっ」
 胸元に冊子を抱いて、ハルトは恨めしそうに義理の兄を睨んだ。心臓がどきどきしている。
「内容は誰にも話してない。おれさ、お前がなんで声を出せなくなったのか、ずっと気になってたんだ。つまり——『その人』のことは自分以外、誰も覚えてなかったんだろ。それで周りの人も、自分の記憶も、信じられなくなったのか」
 ハルトは目を伏せ、ほんの少し首を前に傾けた。……肯定したらしい。
 ラケタは水差しをベッドサイドに置いて、義弟の分のミネを入れてやった。陽光を反射して、コップがキラキラしている。
「おれはもちろん、そんな状況になったことはない。でも、自分のせいで亡くなった人がいたとしたら。しかもその人のことを、誰も覚えてなかったとしたら——怖いよ。もしかしたら、声だってなくしてしまうかも知れない」
「……」ハルトは俯いた。潤む瞳はさながら星空のようだ。
「でも、それを一人で抱え込む必要はないだろ。お前はさ、自分の不安を誰かに相談した方がいいよ。もっと頼れ。もちろんおれでもいいし、キャラバンの仲間とか母親とか、クラリスとか。みんな、お前のことが気に入ってるんだから。喋らなくても、気持ちを伝える手段はいくらでもある」
 ラケタはべらべら喋り続けた。悲しそうなハルトをこれ以上見ていられなかった。どうにか立ち直って欲しかった。
「だから、その——」
 大切な日記帳に雫が落ちて、紙が滲んだ。
 義兄は息を呑み、何も言えなくなってしまう。
「……ミントさん、呼んでくる」
 部屋には心細そうな少年だけが残された。



 ハルトの日々はのろのろと過ぎていった。
 長い間ベッドに縛られていたため、筋力はかなり落ちていた。ミントやラケタの助けを借りてリハビリを続けながら、彼はほとんど見舞客にも会わず、静かに暮らしていた。その間、日記を書くことはなかった。
 一度はペンを手に取ったのだ。十一年前の「その日」からずっと続けていた習慣で、使命感もあった。しかし——言葉が出てこない。あの事件を思い出すのがどうしても辛い。治ったはずの傷が痛みを訴えるようだ。
 机に向かったまま凍り付いたハルトは、力なくペンを手放した。脳裏に、アリシアの顔をした「彼」の台詞がこだまする。
「どれだけ思い出を大切にしても、忘れてしまったら無駄だよね。必死に心に刻みつけて、どんな意味があるのかな」
 まるで、「記憶を残すことに価値はない」と言っているようだった。
 否定したかった。それを受け入れれば、今までハルトの辿ってきた道は意味を失ってしまう。しかし、彼はどうしても首を横に振ることが出来なかった。
 いつもそうだ。誰かの疑問はハルトの中でわだかまり、外に出て行くことがない。
 なぜキャラバンの旅に出るのか。どうしてあらゆる思い出を心に残す必要があるのか。「目に見えないもの」を書き残すため、辛い思い出も無理矢理再生して、自分も他人も傷つかなければならないのだろうか……。
 悶々とするハルトの元へ、やってきたのはモグだった。
「ハルト! 元気になったクポ、良かったクポ〜」
 モグは少年のふところに飛び込み、祝福してくれた。もふもふした感触が無性に懐かしい。ハルトは久々に穏やかな気分になった。
「クラリスさんから、お手紙クポ」
 封を開け、文面を読む。見慣れた姉の字だ。
『そろそろ目が覚めただろうか。こちらは大丈夫だ。何も心配することはないぞ。ゆっくり養生してほしい』
 ハルトは顔を曇らせた。「心配することはない」——言葉とは裏腹に、弟の干渉を拒んでいる気配がある。当然だ。彼は姉との約束を守れなかったのだから。
 返事を書くためにペンを取る気力もない。ゆっくりと死んでいく心を、彼は止めることが出来ずにいた。
「ハルト……?」
 モグを抱きしめた肩はかすかに震えていた。



「ハルト、目を覚ましたんだ……良かったあ」
 その知らせを聞いて一番喜んだのは、アリシアだったかもしれない。彼女は粉ひきの家で、いつも通りパン作りに励んでいた。
 伝えに来たカム・ラは、アリシアと対照的に沈んだ表情だった。
「さっそくお見舞いに行かないとねっ」
「いや、それは……あいつも、まだいろいろと混乱してると思うし」
「じゃあ明日はどう?」
「う。そ、それもちょっと」
 カム・ラは下手な言い訳すら思いつかず、うろたえた。
「お見舞い、行きたくないの?」
 心底不思議そうにアリシアは幼なじみの顔をのぞき込んだ。彼は目をそらす。
「ごめん。なんか気まずくてさ。ハルトばっかり酷い目に遭ってるのに、俺は何にも出来ないんだなって」
 言い逃れだが、それはカム・ラの本心だった。アリシアはふと顔を歪める。
「そうだよね。私たち、こんなのじゃだめだよね」
 カム・ラは唇を噛んだ。どうしようもなく気分は暗くなる。このまま二人揃って、底なしの泥沼に沈んでいくように思われた。
 ——そんな時、彼の手があたたかいものに包み込まれた。
「でも。今一番辛いのは、ハルトだよね。私たちが落ち込んでたらだめだよ。村の人がキャラバンを支えてあげなくちゃ」
 アリシアの手のひらだった。カム・ラは信じられなかった。少し前まであれほど不安を訴えていた彼女は、どこに行ってしまったのだろう。
「そ、そうだよな。アリシアは——ハルトがまた旅立ってもいいのか?」
 思わず訊ねてしまう。アリシアはかぶりを振った。
「寂しいけど……ハルトは旅している時の方が、ずっと生き生きしてるでしょう」
 意外すぎる展開に、カム・ラは驚きっぱなしだった。彼女は熱心に語り続ける。
「だから、早く怪我が治ってほしいな。カム・ラが言うとおり、私にはお見舞いに行く資格もないかもしれないけど……ハルトの幸せを願う気持ちは本物のつもりだから。キャラバンは幸せを運んでくれるって、私たちが信じないとね!」
 大人びた笑みを浮かべる幼なじみを、カム・ラはぼうっと眺めていた。
 自分の頬が熱っぽく火照っていることに、彼は気づいていなかった。



 心身共に本調子でなかったハルトに、さらに追い打ちをかけるような出来事があった。
 目が覚めてから数週間が経過した。リハビリの甲斐もあって、少年は外に出られるようになっていた。
 農場の隅に座り込んでラケタたちの作業を見ていると、突然ルイス=バークがやってきた。
「よお、ハルト」
 飄々としたリルティの青年は、ちょくちょく見舞いと称して雑談をしに来ていた。彼とはキャラバンを組んだこともないし、特別仲が良かったわけでもない。それでもおしゃべりをする度に、少し心の負担が軽くなるのを感じていた。
「実験に失敗して火傷しちゃったんだけど、治してくれないか」
 ルイスは右手を差し出す。なるほど腕が真っ赤になっている。一体どんな実験をしたのだろう。ハルトは軽く肩をすくめて、部屋からケアルリングを取ってきた。
 彼は永久魔石を怪我した箇所にかざして、いつものように集中し——緑色の光が——あふれてこなかった。
「?」
 何度試してもだめだった。ハルトは首をひねる。永久魔石といえど、普通の魔石のように寿命がないわけではないが……。
「おかしいな。貸してみろよ」
 生まれて初めてケアルリングを持ったルイスが、長い長い詠唱を終わらせると、無事にケアルが発動した。
「っ!?」
 穏やかな緑の光を見て、ハルトは愕然とした。
「ま、まあ、しばらく使ってなかったもんな。気にするな」
 ルイスに肩を叩かれたことにも気づかず、ハルトは右手を見た。久しぶりの魔法と言っても、彼が意識を失っていた時間は、キャラバンの休息期間よりもずっと短い。
 魔法が、癒しを司る力が使えなくなった。
 ……自分はもう、キャラバンに復帰できない。



「ラケタくん、私はあなたの処理能力に期待しているわ」
 台所で夕飯の用意をしていたミントが、隣にいた義理の息子に声をかけた。
「なんですか、藪から棒に」
 彼は笑いながら応じたが、義母の真剣なまなざしに気づき、表情を改める。
 ミントはごそごそエプロンで手を拭いた。
「私たち二人でも、十分この家は立ちゆくわよね?」
 その先を、ラケタはなんとなく察した。
「大丈夫だと思います」クラリスがいなくても、農家の方はなんとかなっている。そもそもご近所さんの助けがあったとはいえ、長年たった一人で家を支え続けてきたミントの手腕は、秀才ラケタから見ても文句なしだった。
「ハルトを旅立たせるわ」
 断言した彼女へ、ラケタは慎重に答える。
「でもミントさん、あいつには旅に出て欲しくないって、前に言ってましたよね」
「それとこれは別よ。あんなどよどよしたまま居座られたら、辛気くさくってしょうが無いわ」
 身も蓋もない表現だ。苦笑しつつ、ラケタはハルトのために弁解してやった。
「ハルトは——あいつは、めちゃめちゃ重いものを抱えてるんです。おれでも同じ目に遭ったら絶対に潰れます。おまけに、癒しの魔法まで使えなくなっちゃったみたいで……落ち込んだって仕方ないですよ」
 本当に、どうして彼にばかり困難が振りかかるのか。ラケタは最近ずうっと胸が痛い。
「重くて辛いなら、仲間と一緒に背負いなさいよ。キャラバンって、そういうものでしょ」
「あ……確かにそうですね」
 ミントの発言にはまるっきり同感だった。
「でも、あそこまで落ち込んじゃったら、私たちがいくら言ってもだめね。外部から圧力をかけるわ」
「圧力?」
「私にも、一応人脈ってものがあるの。エンジュさんの分と合わせて、なんとかしてみましょう」
 ミントはウインクしてみせた。茶目っ気たっぷりな仕草は、クラリスそっくりだった。



 時は移り変わる。随分日の出が早くなって来た頃、ハルトはラケタとともに農作業をしていた。もうリハビリはほとんど完了して、村中歩き回っても大丈夫なほど体力は回復している。
 ハルトは農場の入り口に、リルティの青年を見つけた。彼は後ろ向きに設置された看板を眺めている。
「よお、ハルト」
 そうして敷地に入ってきたのはマール峠キャラバンのリーダー、ロルフ=ウッドだ。ハルトは慌てて服についた土埃を払う。
「久しぶり。怪我の方は順調か?」
 頷きつつ、ハルトは疑惑の目線を向けた。どうして怪我のことを知っているのだろう。
 ロルフは軽く頷く。
「タバサに聞いたんだ。それで実は、お前に預かってきたものがある」
 蝋で封をされた手紙を取り出す。差出人は懐かしきシェラの里の、リュクレール先生だ。
 その場で開封した。師は、昨年ペネ・ロペが全世界に向けて知らせた究極属性について、直接会って話をしたいらしい。
「それで、シェラの里までお前を連れてこいって頼まれちゃってさ。いいだろ」
 承諾すれば、ヴェオ・ル高地まで旅をすることになる。ハルトは明らかに逡巡した。
「行った方がいい。今のお前に必要なのは、外の空気だよ」
 話を聞いていたラケタが、優しく背中を押した。
「……」戸惑いながらも、彼はこっくり首肯した。わざわざマールキャラバンが迎えに来てくれたのに、断る道理はない。
 ハルトは考える。シェラの里まで行って、自分はどうするのだろう。そのままティパの村まで帰ってくるか、それともキャラバンに復帰するか。
 未来は限りなく不透明だった。
 ロルフたちをあまり待たせるわけにもいかない。その日のうちに準備をすませて、翌朝には出発した。一人分だとまとめた荷物も随分軽い。
 見送りの際、ミントは手にいっぱいのしましまりんごを持ってきた。
「はいこれ」
 袋に入れてハルトに渡す。彼はびっくりしたように目を丸くしていた。
「なあに? 正真正銘、うちのおいしいりんごよ」
 母はいたずらっぽく笑った。いつでも彼が旅立てるように備えていたのだ。
「ハルト。昔、お父さんが——エンジュさんが、こんなことを言ってたの。
 私たちは目には見えなくても、消えてしまったわけじゃない。いつでも仲間や友だちはそばにいる。あなたは一人で戦ってるわけじゃないわ」
 まるでキャラバン経験があるかのように、力強い言葉だった。
 ハルトは硬い顔でひとつ頷くと、家族に背を向けた。マール峠の馬車へ荷物を積み込む。
 ラケタは嬉しそうに呟いた。
「あいつ……行く気になったみたいです。ミントさんすごいなあ。やっぱりお父さんの言葉にグッと来たんですかね」
「あんなの嘘っぱちよ」
「へ?」
 ミントはわずかに眉をひそめて、リルティたちと協議するハルトの後ろ姿を見ている。
「確かにあの言葉、エンジュさんは何度も言ってたわ。でもあの人はいなくなってから、一度も私に会いに来てくれない。クラリスもハルトも好き勝手いろんなところに行っちゃうし、ほんとあの人の血筋は祟るわね」
 やれやれ、というように彼女は両肩を上げてみせる。一方のラケタは小首を傾げた。
「そうかなあ。おれはエンジュさんに会ったことないけど、クラリスやみんなの話を聞いていると、どんな人かはなんとなく分かりますよ。クラリスみたいに勇敢で、ハルトみたいに思いやりがあって、いつもミントさんを引っ張ってくれてたんでしょ」
 口を半開きにするミントへ、ラケタは微笑む。
「『目に見えなくても消えたわけじゃない』っていうのは、きっとそういうことじゃないんですか」
 ミントは大きく息を吸い込む。目の前が明るく開けたようだった。
「……そうね。だったら、私はあの子たちの家をしっかり守らないと」
 黒のショートヘアが風に揺れる。
「微力ながら、お手伝いさせてください」
 血の繋がらない母と息子は握手を交わした。

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