第四章 春を告げる者



 マール峠キャラバンと一緒の旅は、楽しかった。何をするにも新鮮で、ハルトは心が浮き立つのを感じた。目覚めてからの数ヶ月、すっかり忘れていた感覚だった。
 ロルフはお喋り好きなのか、よくハルトに話しかけてくれる。
「それでさ、喧嘩してる二人に気前良くミスリルあげたら、そりゃあもう喜んで——って、なんだなんだ」
 ロルフは小さな体で精一杯背伸びする。街道の少し先に、険悪な空気を漂わせる一団がいた。ファムキャラバンのシューラと……ガーディだ。
 マールの馬車はそれとなく近づいていく。
「届けましたって手紙は来たけど、荷物、届いてなかったわよ?」
 シューラは冷たく目をすがめている。クラヴァットらしからぬ、とげとげした様子だ。
 対するガーディもこれまた温の民だが、いつも通り詐欺師の笑みを浮かべている。
「やれやれ、バレちゃったか。荷物引き受けてからすぐ手紙出したんだ。届いたと思えば安心すると思ってね」
 どうやら、ガーディが運び屋まがいのことを引き受けたらしい。クリスタルを持たない彼が、一体どうやってものを運ぶのだろう——とハルトは疑問に思った。
「それで荷物はどうしたの?」
「それは……知らないほうがキミのためさ」
「教えなさい!」鬼気を発するシューラ。でもガーディは動じない。軽く肩をすくめて、
「おやおや、そうかい? じゃあ、心して聞いてくれ」
 彼はぼそっと呟く。
「……ゃった」
「聞こえないわ! もっと大きな声で!」
「……くさっちゃった。生モノなんだもの」
 そんなことだろうと思った。とっくの昔に詐欺師を見限ったリルティたちからは、呆れ笑いすら漏れている。
「なんで!? モーグリ便より早いって言ったじゃない。だから大丈夫だと思って頼んだのよ!」
「ああ、ウチはモーグリ便より早いよ。『届きました』って手紙すぐ届いただろう?」
 シューラは一瞬考え込んだ。
「え? ……ええ」
「そうしたら、もう届いたんだってキミはちょっとビックリしたね?」
「ま、まぁね」
 ガーディはにっこりした。
「ホラ、モーグリ便より早い……感じがする」
「だましたのねッ!? サギじゃないッ」
 シューラの怒りも当然だ。なるほど、立派なぺてんである。
「ダマしたとは人聞きの悪い。カクサクしたとか言ってくれ」
「同じじゃない!」
「やれやれ、分かってもらえなくて残念だよ」
 芝居がかった仕草で悲しむガーディ。まるで悲劇の主人公のようだ。シューラは怒り心頭に発していて、まともに取り合わない。
「もういいからベンショウして。代金を払い戻してよ。超速達で千ギルだったわよ?」ああ、やはりぼったくっていたのだ。
「フー、キミのような美人のためだ。払えるモノなら払ってあげたい。だが、似たような苦情が殺到してね。あいにく持ち合わせがないんだ」
「……」
「おやおや、こんな殺意むきだしのクラヴァットはめずらしいな」
 この辺りで嫌な予感がして、急いでパパオを走らせようとしたマールキャラバンだが、いち早くガーディが追いかけてきた。
「あ、ちょっと待って」
 嫌そうにロルフは振り向いた。「なんだよ……」
「元気そうで何より。突然ですまないが、千ギルほど貸してほしい」
「誰が貸すものですか!」
 紅一点のルッツ=ロイスが啖呵を切った。
 ぴりぴりする馬車から飛び降りたのは、ハルトだった。ロルフは今にも懐に手を入れようとする彼を引き止める。
「やめとけハルト、貸しても絶対戻ってこないぞ」
 だが少年は軽く頷いただけで、きっかり千ギル詰まった袋を詐欺師に渡してしまった。
「ああ、友よ、ありがとう。キミが友人であったことを天に感謝するよ」
 その笑みには一点の曇りもなかった。言葉はどうも白々しいが。
 シューラは袋をひったくって中身を確かめると、
「もう二度と頼まないからね。——そういえば、どうしてハルトさんがマール峠の馬車に乗っているの?」
 やっとクラヴァット本来のほんわかした雰囲気が戻ってくる。ロルフは肩の力を抜き、簡単に事情を説明した。
「そうだったの……ヴェレンジェ山のこともあるのに、大変ね。私たちで良ければ力になるわ」
 ハルトはぎこちなく頷いた。
 ファムキャラバンは一礼して(当然ガーディには一瞥もくれず)、この場を去った。暗に同乗を断られたガーディは、近場にあった岩に腰掛ける。
「引き受けたほとんどの荷物が生モノとはね。くさって臭うまで気づかなかったよ」
 大きく息を吐いて、彼は天を仰ぐ。
「……あー、くさるほど捨てたなぁ。いや、くさってたから捨てたんだけど。フー、もうどうでもいいか。やれやれだね、まったく」
 声色からして、珍しく参っているようである。落ち込んでいたのも束の間、ガーディはくるりとハルトの方を向いた。
「でも、キミからもらったりんごは美味しく食べたよ。ありがとう」
「……!」
 ハルトは中途半端な表情になった。笑顔がうまく作れない。思い返せば、目覚めてからほとんど笑っていなかった。
「どうしたんだい」
 ガーディは優しく訊ねる。その雰囲気は、確かに伝道師ハーディのものだった。
「悩み事ってものは、あんまり抱えていてもしょうがないよ。ボクの記憶喪失だって、いつもはちっとも気にしてないからね。だって、物事にいちいち意味なんてあったらたまらないでしょ?」
 ぽん、とハルトの頭に手を載せて、ガーディは遠くを見つめる。
「でも——ボク、どうせなら兄さんみたいになりたかったな。たったひとつの記憶を何度も思い返す度、そう思うよ。兄さんは誰にでも信頼されていたからなあ」
 どこまで本音なんだよ、とロルフは眉間にしわを寄せている。これからガーディと一緒に旅する羽目になって、拗ねているのだろう。
「砂漠の秘宝は本当にあった」と伝えるべきだろうか。さらには、彼自身が兄のハーディであると。だが……ハルトは「言葉」を持たなかった。
 ロルフは苦い顔だ。
「信頼されたいなら、嘘なんてつくなよ」
「こうでもしないとみんなボクに注目しないでしょ?」
 ガーディはへらりと笑った。冗談めかしているようだが、ひとつの真実かも知れない。今や、彼の目は伝道師のものとそっくり同じ、理知的な光を宿していた。
「ねえハルトくん。ボク、記憶には二種類あると思うんだよ」
「?」
「ひとつはごく普通の、自分が持っている記憶。もうひとつは、他人が持ってる『ボク』に関する記憶。もしも、そのどちらも失われてしまったら——ボクという存在はこの世にいないことになる」
 言葉は矢となってハルトの心に突き刺さった。
 十一年前、少年が見殺しにしてしまった「彼」。あの人のことを覚えているのは、もはやハルト一人きりだ。ならば、自分が忘れてしまえば、彼はどこにもいなかったことになる。
 ——そんなの、絶対にだめだ。そう思ったから、おとぎ話の怪物に奪われないよう日記に書き残し、何度も何度も読み返してきた。生き残った自分にできるのは、ただ彼の記憶を守り続けることだけだった。
「ボクだって似たようなものだけどね。昔のボクを知ってる人なんて出会ったことがないし。だから、できるだけ強いインパクトを残したい。もう誰にも忘れてほしくないんだ」
 ガーディは真正面からハルトを見つめていた。黒騎士と共にヴェレンジェ山に挑んだハーディは記憶を失い、詐欺師のガーディという人格を生み出した。しかし、「彼ら」は全てを失ったわけではない。記憶の断片は確かに息づいている。
 マールキャラバンはいつしか真顔になっていた。ロルフは気まずそうに空咳をして、
「まあ、なんだ。ガーディ、俺たちと来るか?」
「もとよりそのつもりさ」
 ガーディは邪気のない笑顔を見せる。ハルトの心には、ほんのりあたたかいものが宿っていた。



「ところでさ、ハルト。タバサって彼氏とかいるの?」
 その夜の食事中。ルッツ=ロイスにいきなり話しかけられ、少年は口に含んでいたニクのスープを吹き出しかけた。
「汚いよハルトくん」
 案外行儀のいいガーディが、ぴしゃりと注意を飛ばす。
「……」ハルトは彼を恨めしそうに見やった。
 当然タバサの色恋沙汰は聞いたことがなかったので、首を横に振る。「彼氏が欲しい」と幾度となく独白していたが、どうなのだろう。
「ふうん。だってよ、リーダー」
 ルッツはにやけながらロルフを振り返った。
「! なんで俺に振るんだよッ」
 身を乗り出した拍子にガチャ、と食器が音を立てた。ガーディは「不作法な」と眉をひそめている。
「良かったなリーダー」ライン=ドットも笑っていた。
 察しの悪いハルトもやっと気が付いた。なるほど、ロルフはタバサのことを憎からず想っているのだろう。同種族のキャラバン同士、なかなか釣り合いがとれている。
「ならもっとストレートに攻めましょうよ。タバサって、欲しいものとかないのかしら」
「確か、ロルフの作った槍をずっと大事に持ってるんだっけ? そろそろ新しいのをプレゼントしたらどうだ。ヴェレンジェ山にも挑戦することだし」
 肝心のロルフを差し置いて、話はポンポン進んでいく。リーダーは皿を持ったまま、ぷるぷる肩を震わせていた。
 ルッツはぺろりとスープを平らげ(リルティ好みの濃い味だ。薄味好きのハルトは、ユリシーズの料理が恋しくなった)、
「レア素材でもいいわねえ。——そうだ、アルテマイト! あれがあるじゃない」
「?」
 ハルトは首をかしげた。聞き覚えのない固有名詞だ。ルッツは丁寧に説明してくれる。
「ロルフの家は代々続く鍛冶屋なの。それで、一族に伝わる幻の鉱石アルテマイトを、大事に大事にしまいこんでるのよ。今こそあれを使う時じゃない?」
 なんだかんだ話に引きずられているロルフは、難色を示す。
「でも、あれを扱える技術は、俺にはまだ……」
 ラインが意地悪な笑みを浮かべる。「じゃあティパ村に任せるか。あそこの鍛冶屋、確かセルキーだったよな」
 カム・ラの実家だ。ハルトはどきどきしながら話の推移を見守った。
「〜! それは嫌だッ」
 ロルフは頭を抱える。食器は放り出され、「ちょっと!」ガーディが抗議の声を上げた。
「分かったよ。俺、何が何でもあの鉱石扱えるようになる! そんでタバサにこ、こく……告白する!」
「おお、よく言った!」「期待してるわよリーダーっ」
 ついに決心したロルフへ、惜しみない拍手が降り注ぐ。
 一方、ガーディはいよいよ我慢できなくなって、声を張り上げた。
「ちょっと君たち、盛り上がるのはいいけど、その態度は食べ物に対して失礼だよ!」
 彼の剣幕に驚き、マールキャラバンはびくっとする。
「ほら、そこに直って」三人はガーディの命令で姿勢を正した。全く、昼間とは真逆の立場だ。
「……」
 ハルトは始終苦笑いしていた。村で感じていた重苦しいわだかまりは、旅空の下でゆっくりと溶けていくようだった。



 肌を刺す冷えた空気、どこまでも続く針葉樹林、穏やかな湖の水面——ハルトがシェラの里に来るのは、実に二年ぶりになる。前回はラケタやデ・ナムとの大切な出会いを経験した。記憶の中にしまわれていた光景が、色と温度を持って目の前に蘇る。
 しかし。湖の上に浮かぶ美しい町も、神秘的な緑のクリスタルも、何故だか前とはまるで違って見えた。それは、ハルト自身があの頃とは変わってしまったからだろうか。
 少年は入り口でマールキャラバンやガーディと別れ、一人で学び舎へ向かっていた。
 今日は天気が良いので、青空教室が開かれているようだ。二年の歳月で入れ替わった学生の中に、ラケタの姿はない。前回と同じくリュクレールが教壇に立っていた。
「こんにちは、ハルトさん」
 と声をかけてきたのは、エレオノールだ。彼女も知り合いといえば知り合いである。かつて学び舎を主席で卒業したという、優秀な女性だ。ハルトはぺこりと頭を下げた。
「アミダッティから聞きましたよ。どんな瘴気ストリームも抜けられる、究極属性が発見されたそうですね」
 ハルトは驚いて彼女を見返した。ペネ・ロペが伝えた情報は、大陸の隅まで行き渡っていた。
「かつてヴェレンジェ山に存在したという大クリスタルは、一年に四回、季節に合わせて色を変えたそうです」唐突に話し始めるエレオノール。
「ホットスポットで属性を得ると、クリスタルケージの色が変わるでしょう。春は水、夏は火、秋は風、冬は土の属性にそれぞれ対応していたとか。
 さらに最近の研究で、大クリスタルの属性は瘴気の発生地点に引き継がれたことが分かってきました。だから現在、属性すなわち魔力の源は瘴気に依存しているのです。
 これで瘴気ストリーム属性が毎年変わることにも説明がつきました。あそこはすべて地下で繋がっていて、属性を持った瘴気の帯が世界を巡っているようです」
 すらすら流れる言葉に、ハルトは目を白黒させる。瘴気とクリスタルと属性、その三者には予想通り深く結びついていた……。
「ですから、ホットスポットや瘴気ストリームというのは」
「まあまあエレオノール、その辺にしておきなさい」
 背の高いユークが割って入る。この仮面にこの声——リュクレールだ。授業は終わったようだ。
「失礼しました、先生」
 エレオノールはあっさり引き下がった。
 手紙のやりとりは続けていたが、直接リュクレールと顔を合わせるのは久しぶりだった。居住まいをただすハルトの前で、師は帽子を軽く触り、仮面に柔らかく光を反射させる。
「ハルト、よくぞ来てくれた。さあこちらへ」
 学び舎の応接室へ案内された。さすがに、リュクレールの私室と違ってきちんと片付いている。以前は私的な話だったが、今回はシェラの里全体にも関わる話題なので、こちらの部屋を使ったのだろう。
「わざわざ出向いてもらって、すまなかったな。ティパ村が発見したものについて、だいたい話は聞き及んでいるよ。私が直接尋ねたいのは、金色の瘴気ストリームの先に何があったのか、だ」
 ひとつ頷き、ハルトは日記を取り出す。うっかりラケタに中身を見られて以来、他人に読まれる恥ずかしさは少し薄れていた。
 びっしり几帳面な字が並ぶページを、リュクレールは素早く黙読した。
「ふむ……なるほど。そなたは、ヴェレンジェ山に潜むものとあのおとぎ話との間に、何か関係があると考えるのだな」
 彼はこっくり首肯した。
「物忘れ病は何十年も前から……いや、元をたどれば何百年も前からあったらしい。しかし最近ほど深刻化した事例は存在しない。かつて私の元を訪ねた伝道師ハーディや、かの黒騎士のことといい、その人物を形作る大切な記憶さえも失われている。このような状況は異常だ。
 物忘れ病がここまで顕在化したのは、もしかすると彼らが一度失敗したからかもしれないな。黒騎士たちの出現で危険を感じた『魔』が、それまでより多くの記憶を喰らい始めたのではないか? 時期的にも、魔物の増強が始まったあたりと一致するだろう」
 ハルトは息を呑んだ。「魔」が魔物を生み出すのならば、当然それらの事柄は関係しているはずだった。二年前のヴェオ・ル水門攻略で抱いた疑問——だんだん魔物が強くなっているのは何故なのか——の答えはこれだ。
「巨大な相手にキャラバンが対抗するには、やはりレベナ・テ・ラの時代に我々が失ってしまったものが重要になるだろうな」
 人々が魔法を自在に操れなくなった原因であり、ユークたちの間ではこの世の真理とも言われている。
 ハルトは唇を噛む。彼自身、今は癒しの魔法を操ることが出来なかった。
「とにかく私からも呼びかけて、他の村と連携を取ろう。
 ——さて、ハルト。何か私に相談したいことがあるのではないか?」
 少年は瞬きした。確かに、重大すぎる相談事があった。どうして先生がそれを知っているのだろう……と、上目遣いに見やる。
「実はな、ミント殿から手紙で依頼を受けたのだ。息子の力になってほしい、と」
「!」
「彼女とは昔からの知り合いだからな。そもそも、私はそなたの父親エンジュと友人だった」
 ハルトは二度びっくりした。会ったこともない父親と、思わぬところで繋がりがあった。
 彼の進む道の向こうに幾度も現れては、いつも少し先の角を曲がっていく父。追いかけようとしても、背中を見ることすら出来ない……。
「当時のエンジュはティパ村唯一のキャラバン、すなわちシングルプレイヤーだった。魔法を学ぶためにわざわざ私を訪ねてきたのに、話の途中で居眠りを始めたあたりも、そなたの姉にそっくりだったぞ」
 なんだか頭痛がする話だ。そこまで似なくてもいいのに。
 リュクレールは仮面をずいっと少年へ近づけた。
「ハルト。癒しの魔法が、使えなくなったのだろう」
「——っ!」表情が凍りつき、心臓がどきんと跳ねた。
 師は仮面に憂いの色を浮かべる。
「土の属性をもつ癒しの魔法は、他の魔法とは違って、人に直接作用するものだ。もしかすると、魔法に対するイメージがハルトの中で変わってしまったのかもしれない」
 ハルトは苦しそうに顔を歪めた。
 思い当たることはある。アリシアに——アリシアの顔をした「彼」に投げられた言葉、体に突き立ったエクスカリバー、砂混じりの苦い血の味。あの日の色んな場面が、胸の中でばらばらの破片になっている。あれからずっと日記をつけていない。どうしても、記憶と向き合うことが出来ない。
 リュクレールは優しく少年の肩に手を置いた。
「大丈夫だ。必ず、そなたは癒しの魔法を使えるようになる。レベナ・テ・ラの楽園から失われたものを、見つけることが出来る」
 何故、師はここまで信頼してくれるのだろう。アリシアたちから逃げるように村を出た自分に、一体何ができるのだろうか。
「それにしても……エンジュはもう二十年ほど前に亡くなったのか。十年キャラバンを続けた彼にも果たせなかった夢を、息子のそなたが叶えようとしているのだな」
 ハルトは目を伏せる。父の残した願いが心強くもあり、重荷でもあった。
 リュクレールはしばらく彼の様子を伺っていたが、やがて立ち上がった。
「そうだ。そなたと話したいという御仁がいるのだ。是非会ってやってくれ」
 かすかに首を傾ける。誰だろう。
「町の南にある、鍛冶屋に向かうといい。スピラーンという親方だ」
 ハルトは静かに席を立った。その頼りなく寂しげな背中を、リュクレールはそっと見送った。
 クリスタル広場を通り過ぎ、村を南下する。かつてデ・ナムに会うため歩いた道と同じだった。
 教えられた場所はアクセサリ専門の鍛冶屋だった。薄暗い工房はティパ村の錬金術師の家のようにごちゃごちゃしていた。そこに一人のユークが佇んでいる。
「お前が、ハルトか」
 スピラーンは無口な職人だった。まごまごしているハルトへ、そこらにあったイスを勧める。
 彼はいきなり本題に入った。
「デ・ナムは私の弟子だった」
「!」
「ユリシーズから、話は聞いた。奴を弔ってくれたそうだな」
 思いがけなく動揺しながら、ハルトはぶんぶん首を振る。
 自分は何も出来なかった。礼を言われるべきはユリシーズだ。彼は今も、ボロボロのバンダナを肌身離さず持っている。ただただデ・ナムの魂が癒されていることを祈るばかりだ。
 ハルトは言葉の代わりに指からケアルリングを抜いて、差し出す。
「それは、旅立つデ・ナムに私が渡したものだな。……どうした。お前が使うべきだろう」
 もうハルトには癒しの力がない。リングを持っていても意味が無いのだ。
 少年の表情はコップの縁ぎりぎりまで注がれた水のように、今にも決壊しそうだった。
 スピラーンは静かに言う。
「リングを持ったお前が旅を続けて、瘴気を払ってくれたら、デ・ナムも浮かばれる。そうじゃないのか?」
 ハルトは緑色に光る石を見つめた。ぽろりと涙がこぼれる。
 これまで彼は多くの人に支えられてきた。家族も仲間も友だちも、リュクレールのように旅の中で出会った人々にも。その全員に借りを返すには、どうしてもキャラバンという立場と仲間の協力が不可欠になる。自分はエンジュのように一人で何でもこなせるわけがない。
 だが——クラリスは彼を置いて行った。約束を果たせなかったから、見捨てられたのだとハルトは思った。たとえキャラバンを追いかけたとして、そこに自分の居場所はあるのだろうか。
 ハルトはまるで祈りを捧げるように、手のひらでケアルリングを包み込んだ。
 ふと、スピラーンは少年の背後へ視線を投げた。
「わあっ、ハルトじゃないの!」
 智の民の里にふさわしくない、やけに明るい声が響いた。ハルトが驚いて振り返ると、セルキーの男女がいる。ハナ・コールにダ・イースだ。
 二人は嬉しそうにハルトへ駆け寄った。
「偶然だな〜。怪我はもういいのか」
「あたしたち、クラリスに会ったの。あの子もすっごく心配してたよ」
 姉の名前を聞いて、ハルトの顔が曇る。「ん?」二人は顔を見合わせた。
「ウチらは水門に向かう予定だったんだけど、今大聖堂に行ったらマールキャラバンがいてさ。あっちも行き先はヴェオ・ル水門だって。なんか面倒くさくなっちゃった」
「まあ、シェラの里にはもともとアクセサリ作りに来ただけだし〜」とダ・イース。
「だから、アルフィタリアあたりまでなら送っていくよ、ハルト。クラリスを追いかけるんでしょ」
 ハナ・コールの申し出にも、彼は答えない。
「村に帰るのか?」
 スピラーンが気遣わしげに尋ねる。ハルトは返答に迷っていた。ここで助け船とばかりに、リュクレールがやってきた。
「おお、ルダ村のキャラバンか。ハルトはひとまず、ティパの村に帰るそうだ」
「え……帰っちゃうの? クラリスもペネ・ロペも、みんな待ってるのに」
 ハナ・コールは寂しそうに少年を見やる。
 無邪気な期待が、今は辛い。ハルトは目をそらした。
「おいハナ・コール。いいから送っていくぞ」「うん……」
 ダ・イースが何かを耳打ちすると、彼女はぱっと顔を輝かせた。
「へへ、いいこと思いつくじゃん!」
 二人はニヤニヤしながらこちらを振り返った。
「……?」
 ハルトはなぜだか寒気がした。



 ハルトがルダの二人と旅立った数日後、シェラキャラバンが里に帰って来た。リーダーのアミダッティはリュクレールに呼び出され、学び舎を訪れた。
「何用ですか、師?」
 リュクレールはひとつの手紙を差し出した。
「ティパキャラバンのハルト殿は知っているな。彼に渡して欲しい書状がある」
「ほう……」
 アミダッティは封筒をためつすがめつして、あごをなでた。
「モーグリ便ではいけないのですか」
「それでは失礼にあたるだろう」
 この台詞で、リーダーは何かを察したようだ。
「彼に例の称号を与えるのですか? ユーク以外の種族の授与は異例ですし、いささか甘すぎるのではありませんか」
 変人と呼ばれる彼らしくない、まともすぎる答えだ。リュクレールは黙り込む。そこにアミダッティが畳みかけた。
「彼は確か、エンジュ殿のご子息でしたか。あなたが入れ込まれる理由も分かりますが……」
 痛いところを突かれた。あのクラヴァットに、リュクレールが特別目をかけているのは確かだ。少年にはそうさせてしまう何かがある。
「アミダッティの言うとおり、これは身贔屓だ。だが……彼が見つめるものは、きっと我々とは違う。この試練を乗り越えた時こそ、彼は瘴気と共に失われたものを見つけ出せるはずだ」
 リュクレールは熱弁した。アミダッティはじっと聞いていたが、不意に声色を明るくする。
「そういえば。かつて、腐ったいなかパンを食べたクラヴァットの少女がいました」
「は?」
 一瞬ののち、リュクレールはそれが「世界のモデルケース」の話だと気づく。
「彼女はある意味、瘴気に満ちた世界を救ったとも言える。ハルト殿も温の民として、あのくらい開き直ることができれば良いのですが。
 とにかく、彼がその称号にふさわしいかどうか、見極めてみます」
 アミダッティはユーク同士にしか分からない方法で笑顔を作った。



「遅いよ、ハルト!」
 ハナ・コールから叱責が飛んだ。少年はルダキャラバンのクリスタルケージを預かって、必死に街道を駆け抜けている真っ最中だ。
 瘴気に満ちた世界を自分の足で走る——ルダキャラバンの不思議な習慣だ。その光景は何度も目撃していたが、キャラバンに同乗した彼まで参加させられるとは。
 何故こんなことをする必要があるのかと問えば、
「だってパパオって遅いだろ?」
 その一言で切り捨てられた。我の民らしい答えだ。
 彼らはたった二人きりのキャラバンである。人数が少ない分、一人一人がそれなりの実力をつける必要がある。他のキャラバンと違って馬車で昼寝なんてせずに、こうやって足腰を鍛えるのはいいことかもしれない。
 走っているうちに見つけた手頃な木陰で、三人は小休止を取ることにした。
「……っ」
 ハルトは地面にへたり込む。完全に息が上がっていた。リハビリが完了していなかったら、途中で倒れていただろう。
 疲れた様子もなく、ダ・イースはのびのびと木に寄りかかった。
「ハルトは今年、いろんなキャラバンに同乗してるんだろ? どうだ、楽しかったか」
 こくり、彼は頷く。ハナ・コールが目を輝かせた。
「いいなあ。いろんな種族と交われて。あたしたち、結構ティパキャラバンが羨ましかったりするんだよ」
 意外な発言だった。我の民といえばその名の通り、「自分が一番」という種族だ。他種族には迫害されてきた歴史さえある。
 だがこの二人は、自ら立候補してキャラバンになった。今は亡きル・ティパのもとに、自分の足で集まったのだ。
「ウチらの村はセルキーばっかりだけどさ。昔から行商なんかで他の種族が来たら、なんとなく嬉しかったなあ。やっぱり四種族揃ってないと、つまんないよな」
 ダ・イースの言葉はハルトの心に新しい風を吹かせた。ハナ・コールも同意する。
「そうそう。レベナ・テ・ラみたいにみんな一つの場所で暮らすのは無理かもしれないけど、大陸に四種族が散らばってて、適度に混ざってるのがいいな。ティパ村が瘴気を晴らしたら、好き勝手に行き来できるのよね。楽しみ!」
 もしかすると、それがキャラバンの求めるべき新たな楽園の形なのかもしれない。ハルトは目の前が開けていくのを感じた。
 ダ・イースは隣に座る少年へ、改めて尋ねた。
「なあハルト。クラリスのこと、追いかけないのか」
「……」
「クラリスが旅に出たのは、きみのことが嫌いになったからじゃないと思うよ」ハナ・コールが心配そうに引き継ぐ。
 姉の期待に応えられなかった。大切な約束を果たせなかった。自分はもう必要とされていないのではないか——そんな思いが、ずっと胸の中をぐるぐる回っていた。
 本音では、キャラバンに戻りたい。自分のいたい場所、いるべき場所はあそこなのだ。でも、もし四人に歓迎されなかったら? 他でもない姉に拒絶されてしまったら? そんな未来を予感して、彼は身震いした。
 ハナ・コールはばしん、と両手を打ち付ける。
「もしクラリスがハルトのことを信じてなかったら、あたしが殴ってあげるよ!
 ……ただ、あの子も迷ってるんだと思う。そんな顔してたもの。あの子を笑顔に変えられるのは、きっとハルトしかいないんだよ」
 ハナ・コールの気遣いが嬉しかった。しかし、胸を張ってクラリスの前に出るためには、少なくとも癒しの力を取り戻さなくてはならない。今の彼には高すぎる壁だった。



 アルフィタリアにやってきた。空気は乾いていて、石畳の上に砂埃が舞っている。正面にはクリスタルと大きなお城。あそこに招待されたなんて、今では夢のようだ。
 ダ・イースは何故か、お堀を渡る橋の上で馬車を止めた。ハルトに荷台から下りるよう指示する。
「そろそろかな」
「?」
 抜群にいい視力で町を見通して、ハナ・コールは素晴らしい笑みを閃かせた。「来た来た」
 ハルトもやっと気が付いた。まっすぐこちらへ駆けてくる人影がある。
「ハナ・コールさん!」
 その人物は最後の三歩を跳躍で埋め、セルキーに抱きついた。
「久しぶり、フィオナ姫っ」
 白いドレスを着たお姫様は、ぱっと笑顔の花を咲かせた。
 ハルトは仰天した。お城にいるはずの彼女が、何故こんな所に。
 さらにその後ろからは、お目付役の侍従長クノックフィエルナが追いかけてくる。
「姫様〜、あまり急ぐと危のうございます!」
 キャラバンと一緒にダンジョンの奥地まで潜った王女相手では、あまり説得力が無い。
 ハナ・コールは嬉しそうだった。
「フィオナ姫、すっかり見違えちゃったわ。一年前よりずっと元気そうだよ」
「うふふ」
 上品に微笑み、王女はハルトに向き直る。
「お久しぶりですハルトさん。ヴェレンジェ山の話、聞きましたよ。アルフィタリアにも全力でバックアップさせてください」
 有り難い提案だったが、彼にそれを受ける権限はない。
 返答に困ったハルトを、フィオナは心配そうに覗きこむ。
「それで……お体の方は?」
 全く、この大陸に秘密はないのだろうか。ハルトがじろりとルダキャラバンを睨むと、二人はピースを返してきた。
「へーきへーき。この前だって一緒に街道走ったんだぜ」
「それは良かった。実はお二人から手紙をいただいて、あなたを待っていたんです」
「?」
 フィオナは躊躇なくハルトの手を取った。女性のすべらかな肌に触れ、彼はどぎまぎしてしまう。
「あなたに、伝えたい言葉があります。あの人の——砂漠でおっしゃっていた、あなたが見殺しにしてしまったという方のことです」
 不意を突かれて、ハルトは表情をなくした。指先から血の気が引いていく。
「……」
「お気に病む気持ちは分かります。ですが、あなたがたったひとつの記憶を大切にすることが、その方の救いになるのではないでしょうか」
 それはシェラの里で再確認した、彼自身の考えとも一致していた。
 フィオナは手を握ったまま、ルダキャラバンやクノックフィエルナへ視線を巡らせる。
「思い出は、過去のもの。心の中にしまっておいて、時折大切に取り出して眺めるもの。ですが過去に置いてきた人を思い出すことで、私たちは未来へ希望の橋をかけます」
 王女は穏やかに続ける。
「あの旅を終えてから、母のことをよく思い出すようになりました。前はあれほど思い出すのが辛かったのに……。
 大切な思い出があるからこそ私たちは前に進めるのです。気づけば城の中、父の中、そして私の中に、母はいました」
 私たちは目には見えなくなっても、消えたりしない——旅立つハルトにミントが贈った、父の言葉が甦る。
「前を見つめてください、ハルトさん。あなたの瞳は輝きを失っていません。どうしても叶えたい願いが、きっとあるはずです!」
 ハルトは手のひらに視線を落とす。フィオナの白い指がわずかに紅潮していた。
「……」
 声を失う前の彼が外の世界に憧れ、キャラバンを目指していたのは——ただ、姉に認めて欲しかったから。
 ハルトは気付いていた。クラリスも母も、自分を「誰か」と重ねて見ている。家の空気はそこにいない「ある人物」に支配されていた。子供ながらぼんやり察していた彼は、どうしても家族に自分自身を見て欲しかった……。
 瘴気の根源を絶とうという時に、なんとも子供じみた願いだ。しかし、それがハルトの一番正直な気持ちだった。
「やっぱり、クラリスのことなんだね」我の民として持ち合わせた洞察力で、ハナ・コールがずばり言い当てる。
 赤面するハルトへ、フィオナは微笑んだ。
「それでいいのですよ。去年、私はあなたに希望をもらいました。今度はこちらがお助けする番です」
 アルフィタリアの乾いた風に、王女の結い上げた金髪が揺れた。
「ヴェレンジェ山に挑む前に、必ずアルフィタリアへ立ち寄ってください。あなた方のために、私も準備してみます」
 クノックフィエルナは胸を張って、「さすがは姫様」とうんうん頷いている。
「良かったね、ハルト」「もちろん俺たちも手伝うぜ!」
 ルダの二人も唱和した。
「——!」
 ハルトは頬をバラ色に染め、深々とお辞儀した。心に芽生え始めているのは不思議な決意だった。



 今年はやけにいろんなキャラバンにお世話になるなあ、とハルトは思った。
 まず、ティパ村からシェラの里までは、マール峠のリルティたちに。シェラの里からアルフィタリアまではルダキャラバンに。そして今、彼はアルフィタリアから大陸を南下するため、ファム大農場の馬車に乗っている。
「ハルトくん、マール峠よ」
 リーダーのシューラが言った。ガーディとやりとりしていた時のひんやりした感じはない。だが、ひととき共に旅をした少年には分かっていた。このキャラバンには影のリーダーとでも言うべき人物が存在する。
 それがジェイクだった。見た目はいかにも温厚なクラヴァットだが、ふとした時に目が鋭くなる。じっと他人の内心を推し量るように。ハルトは話しかけられるたびにビクッとしてしまう。温の民の新たな一面を発見した気がした。
 こうして様々なキャラバンと旅をしたからこそ、分かったことがある。
 今代のティパキャラバンは、クラヴァットのようなセルキーに、セルキーのようなユークなど……その種族らしさに欠ける人物が集まったとよく言われるが、決してそうではない。皆、それぞれに種族の特徴をよく表した性格をしていた。
 ルダキャラバンと比べれば、ペネ・ロペは明るさにおいて劣るかもしれない。しかし、ここぞという時にわき上がる闘志は、確実にセルキーの血を受け継いでいた。
 ユリシーズは智の民としては自由すぎる。それでもひとたび世界の真実に迫った時、リュクレールにも負けず劣らずの考察と、思考の明快さを発揮する。
 タバサは自ら模範的なリルティであろうと努力している。ロルフを惹きつけたのはまさしくその点だ。歴史を愛し、種族の誇りを持つ彼女は誰よりも美しい。
 あのクラリスだって、根っこの部分ではどうしようもなくクラヴァットなのだ。彼女が眩しい希望を抱くのは、喪失を恐れているから。長く接して来たハルトには分かる。温の民は多かれ少なかれ、誰かを心の頼りにしている。彼女が精神的に寄りかかっている人物に、ハルトは心当たりがあった。
 最後に、自分はどうなのだろう——と考える。ハーディのように他人を導いたり、シューラのように場を和ませたり出来ているのだろうか。
 その答えを知るためにも、仲間たちに会いたいと思った。切実に。
 ついにハルトはマール峠まで戻ってきた。西にはジェゴン川、南には故郷ティパの村。手紙によると、ティパキャラバンはレベナ・テ・ラへ向かったようである。
 シューラは糸目をますます細くして、ハルトの顔を覗き込んだ。
「どうする? 私たちはこれから川を渡るつもりだけど……」
 村に帰るか、それともキャラバンを追いかけるか。道はぱっきり二つに分かれていた。
「すぐに決めなくてもいいわ。私たち、しばらく峠にいるつもりだから」
 ありがたい申し出に、ハルトはこっくり頷いた。
 その夜。宿の一室で机に向かい、少年は真っ白な日記を開いたまま固まっていた。やはり、どうしてもペンは動いてくれない。
「お邪魔するクポー」
 モグだ。開いた窓を通り抜け、手紙を届けに来た。
 受け取ったのは二つ。キャラバンの針路を知らせるペネ・ロペの便りと、ひたすらハルトの身を案じるラケタの便り。
「ティパのみんなはもうファム大農場に着いたみたいだクポ」
「……」
 急いで出発すれば、すぐに会える距離だ。モグは励ますように言った。
「みんな、ハルトのことを待ってるクポ!」
 本当にそうだろうか。癒しの力を失い、姉からも見捨てられた自分が、あたたかく迎えられるのだろうか……。
 真っ黒な瞳の中で感情の波が揺れている。モグは彼の懐に飛び込んだ。
「ボク、しばらく一緒にいる。だからハルトは一人じゃないクポっ」
 ハルトはわずかに表情を緩めて、モグをもふっと抱きしめた。
 悶々としたまま迎えた朝。宿では予想外の事態が発生していた。
「ごめんなさいね、ハルトくん……」
 シューラは申し訳なさそうに頭を下げた。ごほごほ咳をまじえながら。浮かべる笑みにも元気がない。
 すでに、キャラバンの仲間たちは重い風邪によって軒並み倒れていた。ハルトがぴんぴんしているのが不思議なくらいだ。
 どうもマール峠全体で風邪が流行っているらしい。
「今年は風向きが悪いからな。近くのキノコの森からたくさん胞子が飛んでくるのが原因だろう」
 宿の主人ヒュー=ミッドは困ったように眉間にしわを寄せた。さらにシューラとハルトを見比べて、
「ちょっと前にな、シェラキャラバンが原因を調査するためキノコの森に向かったんだ。そろそろ戻ってきてもいい頃なんだけど……ちょっと不安だよな」
 アミダッティたちだ。キャラバンとしては優秀なだけに、行方が気になる。
 シューラは残念そうにかぶりを振る。
「風邪さえ治れば、私たちがすぐにでも向かうのですけれど」
「……」
 ハルトは少し考えてから、宿のロビーに置かれたクリスタルケージを指さす。シューラは眉を動かした。
「え? もしかして、あなたが代わりに行ってくれるの」
 そんなこと任せられないわ、とクラヴァットらしく謙虚に手を振るが、再び咳き込んだ。ファムキャラバンは全員こんな調子で、しばらく動かせそうにない。このままでは今年の水かけ祭りは大幅に遅れてしまうだろう。三年前ジェゴン川の枯渇によって大打撃を受けて以来、彼らは災難続きだ。
 アミダッティたちも放っておく訳にはいかなかった。ついにシューラは折れた。
「ありがとう。馬車も食料も好きに使っていいわ。お願いします、ハルトくん」
 こうしてハルトは一人で——「モグもいるクポ!」否、一人と一匹でキノコの森に旅立った。



 身の丈よりも大きなキノコがにょきにょき生える森で、ハルトは道に迷っていた。
「……?」
 ファムキャラバンから借りてきた地図を見ても、あるはずの道がない。このダンジョンでは、キノコの成長によって時々地形が変わるそうだ。諦めて奥へ奥へと進んでいくうちに、現在地も分からなくなってしまった。
「疲れたクポー」
 彼は地面(といっても土ではなく、見渡す限り敷き詰められたキノコだが)に荷物を放り出し、休憩することにした。モグも重いクリスタルケージをやっと下ろすことができた。
 林立するキノコの隙間から青い空を見上げ、ハルトはほうっと息を吐く。
 幸いにも今のところ、ヘッジホッグパイや芋虫キャリオンワームなど、何度も倒したことがある魔物としか遭遇していない。道中では慣れない前線での戦いを強いられたが、クラリスと続けていた激しい訓練のおかげで、なんとか大した怪我もせずにここまで来られた。
 キノコの陰に身を隠すように休んでいた二人の前に、浮遊する目玉の化け物が登場した。
「アーリマンだクポっ」
 ハルトは跳ね起き、片手に魔石を構えた。モグと呼吸を合わせて重力魔法グラビデを発動する。
 そう——不思議なことに、ケアルやレイズ、それにクリア以外の魔法は普通に使えた。魔石から力を引き出す感覚は鈍っていなかったのだ。
 空を飛べないアーリマンなど恐るるに足らず。ハルトは首尾よく剣を突き刺した。
「……」
 魔力の残滓をまとった右手を見る。やはりリュクレールの言ったとおり、土属性の魔法を使うには特別な資格が求められるのだろうか。
 ほっと一息つく暇もなく、次の敵が現れた。ティダの村でも戦ったキャリオンワームだ。触覚からまき散らす毒の鱗粉をかいくぐり、バスタードソードで斬りかかる。モグがファイアで援護してくれた。燃えた体には武器攻撃が通じやすくなる——というのはユリシーズから教わった基本中の基本だった。
 いくら作戦で補っても、数ではこちらが不利だ。一体一体を撃破するには時間が掛かる。おまけに普段より緊張しているのか、体が思うように動かない時があった。
「……っ」
 横合いからグレムリンが襲いかかってくる。敵はマスクの後ろにぶら下がった長い袋を、意外に鋭く振り回した。
「!」脇腹をやられた。じわり、痛みがこみ上げる。
 ハルトは歯を食いしばって、もう一度剣で薙いだ。次いでモグがブリザドを唱えると、小鬼は凍り付き、次の瞬間バラバラになった。
 がくっと少年は膝をついた。
「大丈夫クポ?」
 モグが心配そうに声をかける……が、ここは耐えるしかない。
 ハルトはもちろん、モーグリもケアルを使えないらしい。そういえば、魔物が癒しの魔法を操ったという話は聞いたことがなかった。それぞれの種族の成り立ちとも、何か関係があるかも知れない。
 いつしか太陽は傾き始めていた。ハルトは熱を持った脇腹をことさら無視して、またキノコの間を進み始めた。
 しばらく魔物は出なかった。こういうとき、四人なら雑談が弾んだものだ。
「あ、宝箱!」「ユリス、ミルラの木はこっちだって」「ちょっくら瘴気くぐってくるな」「危ないってばー! もうっ」「ねーねーヘイストかけましょうよー」
 道中はいつも賑やかだった。今はクラリスが代わりに入って、また別の会話を繰り広げているのだろう。羨ましさと寂しさが胸に去来する。
「ハルト」
 ひそやかなモグの声で我に返った。
「何か聞こえるクポ」
 耳を澄ませる。キノコの向こうから音がする。彼は小走りになった。近づくにつれて音は激しさを増す。魔法の気配も感じた。
 シェラキャラバンかもしれない。ハルトははやる気持ちを抑え、一度立ち止まって深呼吸した。
 いつもならここで、豊かな知識と経験に裏打ちされたペネ・ロペの助言を賜るところだ。あの雰囲気を思い出し、心を落ち着ける。
 ゴクリと唾を飲み込むと、彼はキノコの間をくぐり抜けた。
「!」
 視界が急に開けた。現れたのは、ぞろりと生えそろった牙とうねる根っこを持つ、巨大な植物——モルボルだ。周囲にはシェラキャラバンが散らばり、攻撃を仕掛けている。
 すぐにでも助けに入りたかったが、目の前にヘルプラントが立ちふさがった。
「ハルト!」
 モグの合図に合わせ、バスタードソードが弧を描いた。ファイア剣は邪魔な敵をあっさりと切り裂いていく。
 その魔力の余波は、ユークたちにも届いたようだ。
「ハルト殿っ」
 アミダッティが驚いたように振り返った。ハルトは駆け寄り、問答無用で彼を突き飛ばす。半瞬後、アミダッティが居た場所からモルボルの根っこが突きだした。あやうく串刺しにされるところだった。
「おお……助かった。それにしても、どうしてここに? すると我々は追い越してしまっていたのか」
 答えている余裕はなかった。ものすごい突風が吹いたのだ。
 不意打ちを喰らってこけそうになる。モルボルが口を開け、あたりの胞子を根こそぎ吸い込んでいた。すさまじい力だ。そして、吸った息はいつか吐き出す。こいつがマール峠に胞子を飛ばしていたのだと、ハルトは悟った。
「っ!」
 風の中で気配を感じた。背後に仕留め損ねたプラントがいた。体を翻し、攻撃に備えて盾を構える。
「危ないッ」
 ユークのふさふさした腕に押されて、ハルトは真横に倒れこんだ。「!?」すぐさま体を起こす。
 黒い瞳に映ったのは、横薙ぎに振るわれた根っこに直撃したアミダッティが、聖域の外へとはじき出される光景だった。
「アミダッティ!」助けに行こうとした仲間たちへ、モルボルが容赦なくくさい息を浴びせた。臭いもそうだが毒性が非常に強い。ユークの三人は咳き込んだ。胞子でかすむ視界の向こうで、モルボルが嫌な表情を浮かべたように見えた。
 ハルトは無我夢中でプラントを片付け、アミダッティに駆け寄る。
「——!」
 一目で分かる。彼は重症だった。必死に敵の根っこが届かない位置まで引きずる。モグは黙ってケージを運んだ。前線はシェラキャラバンが支えているようだ。
 しばらく沈黙していた仮面が、ぴくりと動く。
「ハルト殿……」
 アミダッティはかすれた声を出した。
「これを。リュクレール殿に託されたものだ」
 よろよろ持ち上がる腕から受け取ったのは、オレンジ色の石がはめ込まれた、精巧な作りの指輪だ。はっとした。——レイズリングだ!
「……っ」
 ハルトは何度も首を振った。今にも崩れそうな酷い顔で。
 受け取れない。受け取れるはずがない。
「頼みましたぞ」
 アミダッティの体から徐々に力が抜けていく。ハルトの心は凍った。
 魂が体から離れてしまうまで、ほんの少し時間がある……けれども、その間に出来ることなんて何もない。せっかくのレイズリングも無駄だった。助けを求めようにも、シェラキャラバンの仲間たちだって疲弊している。こちらに気を回した途端にやられてしまうだろう。
 ハルトは唇を噛みしめる。なんとか蘇生の方法を考えなくてはいけないのに、脳裏には次々にアミダッティの思い出がよみがえってきた。
 ——初めて会った時、彼は何の変哲も無いいなかパンを「世界のモデルケース」と称し、真面目に考察していた。まさかそれが演技だったなんて、あの時のハルトは思いもしなかった。妙な発言ばかり目立つけれど、彼は常に冷静だ。新たな視点を獲得するためには多額の出費も辞さず、あのガーディをやりこめるほど弁が立つ。恋人のエレオノールとはどんな会話を交わすのだろう。
 変人だけれど、とても思慮深い人——ハルトはアミダッティをそう認識していた。
 そんな彼が、ここで失われていいはずがない。デーモンズ・コートでペネ・ロペを蘇らせた時のように、癒しの力を使いたい。アミダッティに目を覚まして欲しい。
「……っ」
 ぎゅっと握りしめた手のひらから、オレンジの光がこぼれている。
「クポ?」
 モグが頭のボンボンを揺らした。この輝きは間違いなく魔法の光。握ったリングがひどく熱い。手を開くと、太陽のように眩しいきらめきが拡散した。
 それは前線にいたユークたちに届くほど、強い光だった。
「ハルト殿……」
 仮面をオレンジ色に染め上げ、アミダッティは上体を起こした。レイズリングを持って呆然とする少年を見やり、全てを理解する。
「なるほど、リュクレール殿の言ったとおりだな。……ありがとう」
 ハルトは反射的に頷いた。
 まだ頭は混乱しているけれど、何か掴めた気がする。癒しの魔法を操るために必要なもの、それは——
「すごいクポ! さっすがハルトだクポっ」モグは大はしゃぎだった。
「喜ぶのもいいが、ここは戦場だ。ハルト殿、ケアルを頼む」
 アミダッティの詠唱に合わせ、再生魔法ケアルガを放つ。強い青の光がシェラキャラバンを包み込んだ。
 道中の苦労が嘘のようだった。息をするように自然に回復魔法が使える。脇腹の痛みもすっかりとれていた。
「助かります、リーダー!」
 ユークたちは気力を振り絞り、マジックパイルの陣形をとった。ファイガの爆炎が炸裂する。度重なる攻撃で痛めつけられたモルボルは、ついに力を失ってどうと倒れた。あたりに漂う胞子もついでに焼け落ちたようだ。
「……」
 ハルトは大きく息を吐く。とんでもなく疲れた反面、心は晴れやかだった。手のひらには今も魔力があふれているようだ。
 アミダッティが静かにこちらを見ている。ハルトは慌ててレイズリングを返した。
「いや、リングはそなたのものだ」
「?」
「リュクレール殿から書状を預かっている」
 アミダッティは手紙を取り出した。その場で開封するよう促される。
 流麗な筆記体で書かれていたのは、
「ティパ村のハルト。上記の者に、癒しの魔法を操る魔道師として、最高位『導師』の称号を授ける」
「……!?」
 青天の霹靂だ。ぽかんと唇を開いた彼に向けて、アミダッティは続ける。
「そしてそのレイズリングは、スピラーン殿から頂いたものだ」
 デ・ナムの師匠は当代で唯一、永久魔石を加工できる職人だった。
「本当に良かったクポ〜。おめでとうハルト」
 満面に笑みを浮かべるモグにもろくに反応できないほど、彼は動転していた。
 アミダッティはふわりとハルトの肩に手を置いた。いつしか、周りにはシェラキャラバンの仲間たちが集まっている。
「先ほどのレイズ、見事だったぞ。どうやら癒しの極意をものにしたようだな」
 ハルトは耳まで真っ赤にしながら首肯した。
 レイズリングから力を引き出したあの瞬間、彼はアミダッティとの思い出を胸に強く抱いていた。過去があふれるのと同時に、癒しの力は復活した。
 つまり、ガーディの言っていた「他人に関する記憶」こそが、癒しの力の源なのだ。
 そもそもハルトが回復魔法に長けていたのは、過去にこだわり「その人」の存在を一途に心にとどめていたから。アリシアに刺されて以来、思い出が重荷となって日記を書くことすら止めてしまった彼には、他人を癒す資格はなかったのだ。
「我々はティダの村のことも、デ・ナムのことも、黒騎士のことも全て聞き及んでいる。そなたの功績は、導師の称号とそのリングにふさわしいだろう」
 導師——誰かを導く者のこと。自分がそのような人物だなんて、一度も思ったことはない。いつでもクラリスの後ろを歩いてきた。キャラバンに入っても迷ってばかり、振り向いてばかりの道のりだった。
 それでも。今からだって、称号にふさわしい人物を目指すことはできる。今まで支えてくれた人たちの期待に応えるために。姉が幾度となく語っていた、月のない夜空に輝く星のようになりたい……。
 もしかすると、それは遠い未来ではないのかもしれない。二つのリングが勇気をくれる。家族と仲間がいてくれるなら、記憶を喰らう魔だって怖くない。
 瘴気のない世界の到来も、目前だと思えた。
「……よい顔だ」
 アミダッティは微笑んだようだ。
「ハルトの目、星空みたいで綺麗クポ」
 モグの発言に、少年はふっと口元を緩めた。無邪気でなんとも幼い笑顔だった。彼が十一年前から封印していたものが、そこにあった。
 ハルトはキャラバンと一緒にミルラの木まで歩いた。モグはファム大農場のケージを持っているわけだが、雫を受け取るのはもちろん、散々苦労したシェラキャラバンだ。
 木から命の雫がこぼれ落ちる。自分が雫をもらうわけではないのに、その光景には格別こみあげるものがあった。
 郵便モーグリがやってきた。マール峠でハルトの居場所を聞いたのだろう。
「クラリスさんからお手紙クポ」
 表書きには「果たし状」とあった。
「……」嫌な予感がして、ハルトは嘆息する。
「姉弟喧嘩でもしているのか?」
 アミダッティは面白そうにのぞき見た。
 そこにはこう記してある。
「レベナ・テ・ラで待っている。もしお前がキャラバンに復帰するつもりがあるのなら、その気持ちを剣で示せ」
 なんとも力強い字体だ。インクのつけすぎであちこち黒く滲んでいる。
「ほほう。ハルト殿、これは決闘の申し込みだぞ」
「無茶苦茶クポ……」モグまでげんなりしていた。
 だが、ハルトは少し嬉しかった。完全に姉に見放されたわけではなかった。まだ復帰の機会を残してくれている。
 さらに、郵便モーグリはもう一つ手紙を取り出した。
「こっちはラケタさんからクポ」
 また安否を気にする内容だろうか。家族として気にかけてくれるのは嬉しいが、少しだけ鬱陶しい部分もある。
 と、気楽な気分で読み始めたが。
「——!」
 だんだんハルトの表情が変わった。
「どうしたクポ?」
 モグは不思議そうにしていたが、少年はさっと文面を隠してしまった。
 ハルトのあずかり知らぬところで、タイムリミットが迫っていたのだ。
 ぎゅっとこぶしを握る。心は定まった。
 絶対に期限までにキャラバンに追いついて、姉に勝負を挑もう。



「アミダッティさん、それにハルトくん。本当にありがとうございました」
 シェラキャラバンと共にマール峠に帰還すると、全快したシューラが出迎えてくれた。仲間たちもみんな元気になったらしい。胞子の供給が絶たれると同時に、蔓延していた風邪は駆逐されたそうだ。
「いえいえ。これも全て、導師ハルトのおかげだな」
「え、導師?」
 ハルトは赤面した。恥ずかしい通り名だ。クラリスはどうやって「剣聖」の称号に慣れたのだろう。
 そこでシューラはアミダッティに近づき、ひそひそ声になる。
「アミダッティさん。あの手紙、届きましたか?」
「ああ、確かに読んだ。彼女もなかなか面白いことを考えるな」
「水かけ祭りの後が楽しみですねえ」
 二人は意味ありげにハルトを見る。
「……?」
 少年は首をかしげた。どうも、自分に関する噂話のようだが。
 アミダッティはとりなすように笑い声を立てた。
「ところでハルト殿、これからレベナ・テ・ラに向かうのだろう。良ければ送っていくぞ」
「あら、私たちも西に渡る予定ですよ」
「ファムキャラバンは、もう少し休んだ方がよいのでは?」
「……それもそうですね。ハルトくんは、それでいいの」
 帰るかどうか悩んでいたことも、今となっては遠い昔のようだ。
 ハルトはティパ村のある南へと視線を投げ、まぶたを閉じた。記憶の引き出しを開けて、家族の姿を見つけ出す。笑顔で手を振っていたミントとラケタ。二人とも、きっと彼が前に進むことを願っているはずだ。
 次に故郷へ帰る時は、クラリスも一緒だろう。
 お願いします、という風にハルトは深々と礼をした。
「了解した。そなた一人で行くのだな」
「ひどいクポ。もちろんボクだってついていくクポ!」
「おお、失礼。頼もしい仲間がいるのだな」
 マール峠の空気がぱっと明るくなる。
 別れ際、ファムキャラバンは感謝の印に、両手で抱えきれないほどのしましまりんごを持たせてくれた。
「また近いうちに会いましょうね、ハルトくん」
 近いうちに……? 気になる言葉は、クラヴァットの穏やかな笑顔にはぐらかされてしまった。
「やっとみんなに会えるクポ〜」
 ハルトはモグの言葉に大きく頷いた。
 今日は、久々に日記が書けそうだ。



 馬車にはそのキャラバンの個性がにじみ出るものだ。シェラ一行の馬車はというと、圧倒的に揺れが少なかった。こんなところにもユークの知識が詰まっているのだろうか。
 これ幸いと、ハルトは幌の中でもひっきりなしにペンを走らせていた。白紙だった数ヶ月の分の日記を、ノンストップで書き続けていたのだ。すぐにページが足りなくなったので、ラケタに頼んで予備の日記帳も取り寄せてもらった。
 決して広いとは言えない荷台を、みるみる紙束が占拠していく。さしものアミダッティも驚きを隠せない。
「なんとまあ。圧巻だな」
 勢いよく紙をめくった拍子に、ハルトは指を切ってしまった。赤い血が滲む。
「クポ、手が……」
 モグが指摘すると、彼は近くに転がっていたケアルリングに手をかざした。瞬きする間もなく傷が塞がる。
「す、すごいクポ」
 ひとたび癒しの力を取り戻した彼は、昔とは比べものにならない量の魔力を自在に操っていた。
 夜通し書き続ける習慣がつくと、ハルトは昼間のおかしな時間に眠るようになってしまった。
「……!」
 不自然な荷台の揺れを感じて、彼は飛び起きた。移動中ではない。シェラキャラバンは外に出て、何事か協議しているらしい。モグはクッションと同化するように眠っていた。
 キャラバンに入って鍛えられた感覚は、何者かの気配を拾っていた。幌の中にはティパの馬車にも負けず劣らず雑多な荷物が積み上げられており、死角が多い。ハルトは息を殺して、ごそごそ怪しげな物音を立てる一角をあばいた。
「あっ!」
 そこには、ばつの悪い顔をしたバル・ダットがいた。ハルトの宿敵、しましま盗賊団だ。袋からこぼれたりんごをしこたま腕に抱えている。
「ボス、持てる分だけ持って逃げるクポ!」アルテミシオンが外で叫んだ。
「分かってる!」
 もちろんハルトだってみすみす逃がすつもりはない。両者はにらみ合った。
「……お前、なんでこんなところにいるんだよ」
 バル・ダットは低い声で訊ねる。ティパキャラバンの一員であるハルトが、シェラの四人と行動しているのが解せないのだろう。
「まあ、いいや。いつもたくさんりんご持ちやがって。そんなに余ってるなら、一個ぐらいくれてもいいだろ?」
「……」
「あのな、これはじいさんの墓に供える分なんだ」
 ハルトは息を呑んだ。じいさん——かつて盗賊団にいたメ・ガジは、二年前に魔物に襲われ命を落とした。
 彼はうつむく。今にも腰の剣に伸びそうだった手が、力なく垂れた。
 バル・ダットは意地悪く笑った。
「なーんてな! 死人がりんご食べるわけないだろ? じゃ、これはもらってくから」
 はっとして顔を上げたときにはもう遅い。バル・ダットはセルキー特有の軽やかな身のこなしで、馬車の外へと逃れていた。アルテミシオンも然りだ。
「……」
 ふつふつと、笑いがこみ上げてくる。見事にしてやられたわけだが、悔しさよりも爽快な気分が勝った。盗賊団はメ・ガジの死から立派に立ち直り、こうして旅を続けている。
 次こそは負けない。ハルトは何も知らないアミダッティたちの帰りとモグの覚醒を待ちながら、瘴気に包まれた世界を見つめていた。

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