第四章 春を告げる者



 クリスタルケージの聖域は馬車一つ分ぐらい。慣れれば広く感じるものだが、やはり戦闘になると窮屈だ。
 そのため、聖域内では感情が伝染しやすかった。敵に囲まれていれば緊張感は何倍にもふくれあがり、時にキャラバンの動きを縛ることもある。
「……なんか、クラリスぴりぴりしてない?」
 死の都レベナ・テ・ラにて、ケルベロスに向かってブリザラを当てながら。ペネ・ロペは一緒にマジックパイルを発動したユリシーズに囁いた。
「そうかもな。ぴりぴりというか、焦っている感じがする」
 戦場で交わすにはのんき過ぎる会話だ。かといって集中を切らしたわけではない。キャラバン八年目、もはやベテランの域に突入した二人だからこその余裕である。
 話題の人は、ホーリーで実体化した幽霊レイスを相手に、丁々発止の戦いを繰り広げていた。初めて見る人なら、ただただその剣技に驚き感心するだろう。しかし、ペネ・ロペたちには分かる。まず剣筋が荒い。タッグを組んでいるタバサとの連携も弱い。クラリスが本調子でないことは明らかだった。
「なんでだろう、いつも通りに攻略すればいいだけなのに……」
 ペネ・ロペは首をひねった。そういえば、クラリスは弟ハルトとの合流を先延ばしにしてまで、このダンジョンに挑んだのだ。今年はヴェレンジェ山攻略というビッグイベントが控えているため、少しでも早くキャラバンの仕事を終わらせてしまいたいのだろう。もしくは弟にいいところを見せようとしているのか。
 そうこうするうちに、だんだん調子が上がってきた。前線で敵をなぎ倒していく技のキレは、剣聖を通り越して鬼神と呼べるほど凄まじいものになっていた。
「ちょ、ちょっとクラリスさん、前に出過ぎ!」
 タバサが慌てて追いかけた。「おいおい」つられてケージ係のユリシーズも前進する、という連鎖反応が起こる。
「みんな元気ねえ」
 苦笑するペネ・ロペに、ふと思い当たることがあった。
 ——もしかして、ハルトくんと合流したくないのかしら。
 肩で息をするクラリスと目が合う。すると、視線をそらされてしまった。
(うーん……)何やら後ろめたいことを抱えているらしい。
『何でそこまで信じられるんだよ。家族でもないのに。ハルトはもう——もう二度と、旅に出られないかもしれないんだぞ!』
 クラリスはキランダ火山でそう吐露していた。夕暮れ時、寒い風が吹いていて、あの時の彼女は酷く弱々しく見えた。
 四年前にレベナ・テ・ラを攻略した際、ペネ・ロペは親友の発言に散々翻弄されたので、立場が逆転した気分である。
(ま、いつか分かるよね)
 とりあえず放って置くことにした。
 レベナ・テ・ラはかつての楽園だった。四種族が共に暮らした幸せな時代の痕跡が、そこかしこに刻まれている。今となっては、訪れたキャラバンに寂しさを喚起させるだけだ。
 中央にはピラミッドがそびえ立っている。大昔にこの都を支配しようとしたユーク——現在はリッチという魔物と化している——が築いたものらしい。
 デーモンズ・コートと同じく、ここの雫は夜限定だ。すっかり日が落ちて視界が悪くなっても、ユリシーズは熱心にアイテムを探していた。やがて瓦礫の中から魔道書のレシピを発見する。
「よっしゃ!」思わず小躍りした。
 ペネ・ロペは朗らかに笑う。以前は幽体の化け物におびえていた彼女も、今やすっかり克服したようだ。
 石の都を巡って仕掛けを作動させると、ピラミッドの入り口が開く。この中にリッチ、そしてミルラの木が待っている。
 ペネ・ロペはいつものように、落ち着いて指示した。
「タバサは雑魚を、クラリスはボスをお願い。ケージはあたしが持つわ。
 まず球体にユリスが魔法をかけて、次にマジックパイルでホーリー。そうしたら総攻撃よ! リッチの魔法は範囲が広いから気をつけてね。
 どう、分かった?」
「ああ」「気合い入れていきましょ!」
 ユリシーズは短く、タバサは威勢良く返事をした。クラリスだけが晴れない顔で、剣の柄を強く握りしめる。
 ペネ・ロペは彼女を気にしながら、ピラミッドに足を踏み入れた。
 内部は壁も天井も黒い石で覆われていた。時折魔力の光が白い線となって瞬く。
 正面に刻まれた魔法陣は、幽界の扉であるポータルだ。キャラバンを感知し、そこからリッチが姿を現す。
 かくして戦いの火蓋が切って落とされた。
 群がるスケルトンをタバサが蹴散らすと同時に、戦場の隅にある怪しげな球体に向けてユリシーズのブリザドが放たれた。リッチはあのオーブを使ってバリアを張っていた。
 クラリスは無言で、魔法の加護を失ったリッチに突進した。
 暗黒魔道師の右手が閃いた。古代魔法チェインライトニングの詠唱——だが、四年前よりも遙かに早い!
「あうう」「きゃあっ」避けきれず雷を喰らったクラリスとペネ・ロペ。最悪なことに、リーダーの手から離れたケージはリッチの真下に転がる。
 たちまちクラリスは瘴気の只中に放りだされた。
「あっ——!?」
 衝撃で息を吸ってしまい、盛大にむせる。咳が止まらなかった。
「クラリス!」
 仲間の声がだんだん聞こえなくなる。クラリスはがっくり膝を折った。狭い視界の中では、彼女よりも瘴気に弱いペネ・ロペが助けに来ようとしている。幸いあちらは無事だったようだ。安堵すると同時に、体の力が抜けていった。
(まずい、このままでは……)
 目の前がかすんできた。レベナ・テ・ラを包む夜よりも深い、闇の帳が下りようとしている。体が自由にならない恐怖に、彼女はぎゅっと目をつむる。
(助けて——ハルト!)
 ふらりと崩れたその体を、力強く支える手があった。同時に空気が清められ、ケアルの淡い光が体にまとわりつく。
(あ、れ?)
 咳の残滓でひりひりしていた喉も、冷たい水が満ちるように正常になった。彼女はゆっくりと重いまぶたを持ち上げた。
 星空のような黒の瞳が目に入る。
「ハ……ルト……」
 そこにいたのは、彼女が助けを求めてやまなかった弟だった。
 彼は優しく目を細めた。ただそれだけで、あらゆる心配事はどこかに消えてしまった。
 クラリスは唇をほころばせ、彼に体重を預ける。ほっとして意識を失ったようだ。
 ペネ・ロペがラケットを片手に走ってくる。
「ハルトくん。クラリスのこと、任せたわよ」
 かけられたのはごく事務的な言葉だったが、そこにはありありと後輩への信頼が浮かんでいる。ハルトはしっかりと頷いた。
「モグもいるクポ!」
「あ、ごめんごめん、モグくんもよろしくね」
 モグが抱えるクリスタルケージは、シェラキャラバンから借りたものだ。アミダッティたちをファム大農場に残してまで先を急いだのは、姉を助けるためだった。
 クラリスの体を抱え上げ、戦闘の邪魔にならない場所に移動する。
「……」
 地面が揺れた。古代魔法クエイクの余波だ。ペネ・ロペとユリシーズが続けざまにホーリーを完成させ、リッチの体力をガリガリ削っていく。
 間近で激戦が繰り広げられているのに、ハルトの心は薙いでいた。
 ——ついに、戻ってきたのだ。この道を選んだことに後悔はない。むしろ、レシピと素材がぴたりと一致した時のような、満ち足りた気持ちになる。
 汗でべったり張り付いたクラリスの前髪を避けてあげる。久し振りに向き合った姉は、記憶よりも一回り小さく見えた。
 すうすう眠る彼女を眺めるうちに、戦闘は終わったらしい。リッチは必死に抵抗するも、あっけなくポータルに吸い込まれた。あたりが静かになる。
 懐かしい顔ぶれが姉弟に駆け寄った。
 足音に気づいたのか、クラリスは突然ぱちりとまぶたを開けた。
「クラリス! 無事みたいね」
 胸をなで下ろすペネ・ロペに目で頷き、クラリスは起き上がった。
 一瞬、姉弟の視線が交差する。
「そうか。ついに——ついに、来てしまったんだな」
 周囲が見守る中、彼女は足に力を込めて歩き出す。ふらふらしていた足取りは、数歩のうちにしっかりした。ちょうど五歩目で立ち止まると、彼女は振り返った。
 茶色の瞳は鋭く細められ、まっすぐにハルトを貫く。
「剣をとれ、ハルト。どちらがヴェレンジェ山に挑むか、実力で決めよう」
 クラリスはしゃらっと鞘走りの音を立てた。ルーンソードの切っ先が剣呑な光を放つ。
「ちょ、ちょっと……せめて、もう少し待てないの? せっかく久々に会えたんだから」
 ペネ・ロペが呆れたように割って入った。だがクラリスは取りあわない。
「悪い、それは無理なんだ。ま、後で話すさ」微笑を閃かせる。
 ハルトはじっと姉を注視していた。その視線はレベナ・テ・ラの闇の中で、青白い光を発しているようだ。
 やがて彼は決意を固め、バスタードソードを構えた。
 いつもの模擬試合を、このレベナ・テ・ラで行う。ただし勝負は一回きり、二人は自分の人生を賭けるほど真剣だった。
 リッチと戦った広場はそのまま決闘場になる。クラリスは顔を向けずに幼なじみを呼んだ。
「ユリス。合図を頼む」
 頷いて進み出る恋人へ、ペネ・ロペが小声で問う。
「……いいの?」
「ああなったら、何を言っても聞かないだろ。それにほら、ハルトもやる気みたいだし」
 後輩の横顔はいつになく頼もしい。三年前には想像もつかなかった表情だ。
「ハルト。あんたの本気、見せて貰うわよ」
 タバサが短く激励を送った。ハルトはあごを引く。
 ユリシーズは相対する姉弟を見比べて、
「では……はじめ!」腕を振り下ろした。
 クラリスは悠然と、完璧な構えを保っている。最初は相手の様子をじっくり伺うのが定石だ。
「どこからでもかかってこい」
 静かだった。レベナ・テ・ラを吹き渡る風の音だけが聞こえる。観衆は一挙手一投足すら見逃すまいと、舞台上を凝視していた。
 ハルトは不意に構えを解いて、だらりと剣を下げたままクラリスに歩み寄った。
(なんだ?)さすがのクラリスも戸惑いを隠せない。
 距離が縮まる。彼女がはっとした時、ハルトはごく自然な動きで剣を振るった。
 右で火花が散った。今度は左。手首をひねり、クラリスはあらゆる角度の攻撃を跳ね返していく。
(くうっ……)
 主導権は完全にハルトが握っていた。クラリスの心に焦りが生まれる。
 彼女の真骨頂は速攻だ。足りない力をスピードで補うことで、相手をふらつかせるほどの威力をたたき出す。そのため武の民のように押して押して押しまくるスタイルを取っているのだが、この状況では長所を生かしきれなかった。
 タバサは冷静に観察していた。
「ハルトの剣技は、クラリスさんに勝つために生み出されたのね。間合いの取り方も、剣を振り下ろす時の呼吸も——全部、お姉さんの弱点をついてる。私たちが魔物との戦いで鍛えたものとは、根本から違うわ」
「な、なるほど……」
 ペネ・ロペは腕を組んだ。さすが武の民、目の付け所が違う。その横で、審判のユリシーズは声もなく戦いを見つめている。
 攻守はめくるめく代わり続ける。だが——心の余裕、もしくは覚悟の差が、わずかながらクラリスの剣を鈍らせ、ハルトの実力を底上げしていた。
 数十合と打ちあった結果、膝をついたのはクラリスだった。
 手から武器がすべり落ちた。からん、乾いた音が響く。
「勝負あったな」
 裁定を下し、ユリシーズは肩の力を抜いた。
 床に落ちた剣を、クラリスはしばらくぼうっと眺めていた。
「……強くなったな、ハルト」
 彼女は憑き物が落ちたように口元を緩めた。
 姉を打ち負かしたハルトは、「信じられない」といった風に目を丸くして、肩を上下させていた。十数分も戦っていないのに、とんでもなく疲れていた。
「お前はやはり、私の代わりにあの約束を——果たしてくれるんだな」
 ハルトは頬を上気させ、ただ頷く。
「ありがとう。いい機会だから、みんなにも聞いて欲しいことがあるんだ。ミルラの雫をとったら、話すよ」
 姉弟の周りに集った三人とモグは、顔を見合わせた。
 ミルラの木は、ピラミッドの最奥にひっそりと生えていた。
「もしかしたら……これが人生で最後に見るミルラの雫かも知れないのね」
 ペネ・ロペが呟く。瘴気が晴れてしまえば、雫を集める必要は無くなる。キャラバンの間に、声にならない感慨が広がった。雫の儚い光を見逃すまいと、誰一人として瞬きしなかった。モグも細い瞳をがんばって見開いているようだ。
 クラリスは床に座り込み、少し離れた場所からその様子を見ていた。正確には、台座からケージを持ち上げたハルトの背中を。
(大きくなったんだなあ)
 赤ちゃんの頃から知っている弟が——いつもてくてく後ろをついてきた彼が、こうして立派に育ち、自分の前を歩いている。嬉しさと嫉妬が入り混じった、複雑な感情が胸中に渦巻いていた。
 戻ってきたキャラバンは、ケージを囲んで車座になる。
「クラリス……話って何?」ペネ・ロペが遠慮がちに尋ねた。
「私の、父親のことなんだ」
 そうして彼女は語り始めた。何よりも大切な家族の話——願いと祈りの物語を。



 大切な弟が生まれた十八年前のことを、クラリスは今でもはっきりと思い出せる。
 しかし当時を語るには、そのさらに数ヶ月前——彼女たちの父親エンジュが亡くなった日のことを話さなければならない。
「おはようクラリス。今日もうちの愛娘は可愛いなあ」
 エンジュはベッドに横たわったまま、くしゃっと微笑んだ。
 不治の病に冒された父親は、どこまでも明るかった。じわじわと忍び寄る死の気配——たまらなく不安だったはずだ。それでも、最後まで恐怖をおくびにも出さなかった彼は、家族の希望だった。
 希望といえば、もう一つある。母ミントの胎内に宿った新たな命だ。クラリスは安楽椅子に揺られる母を振り返った。
「今日のハルはどんな様子?」
「とっても元気よ」
 母親のお腹は大きく膨らみ、中ではクラリスの妹もしくは弟が、生まれてくるために準備をしているらしい。もうすぐお姉さんになる彼女は、よくミントのお腹を触ってはくすくす笑っていた。
 父親の枕元で、小さな娘は報告する。
「私ね、今朝もクリスタルにお祈りしてきたの。一日も早くお父さんの病気が治りますように、って。そしたらお父さんだって、ハルに会えるもんねっ」
 にこにこする彼女の頭を、エンジュは優しくなでた。
「ありがとう。じゃあ今日は、お前のきょうだいの名前の由来を教えようかな」
 父は話し上手で博識だった。今思えば、キャラバン時代の知識を活用していたのだろうが、そんなことは当時のクラリスは露しらず。
 とにかく彼女は、父のお話が大好きだった。おまけにきょうだいの話といえば、人一倍興味がある。
「ハルのこと……?」
「そうだよ。女の子ならハル、男の子ならハルト。クラリスは、昔は季節ってものがあったことを知ってるかい」
 幼子はぷくぷくした指を唇にあてた。母親に読み聞かせてもらった昔話にあった気がする。
「うん」
「季節は四つあって、その一つが『春』なんだ。ものすごく寒くて、木の葉が枯れ落ち水が凍ってしまう『冬』の、次の季節。氷が溶けて草花が芽吹き、動物たちが眠りから覚める季節だよ。
 ハルは、そうだな、オレたちに春が来たって教えてくれるんだ。かっこよく言うなら、春を告げる者……ってところかな」
 エンジュは照れくさそうに笑った。「なんだか大層な理由ねえ」ミントも苦笑している。
 クラリスは大きく目を見開いた。
「ハルがそれを教えてくれるの?」
「そうだよ。新しい季節が来たんだよって、みんなに知らせてくれるような……そんな人に育って欲しいからね」
「でも、今は寒くないし、水も凍ってないよ」
 まっとうな疑問を抱いたクラリスへ、父は優しく答える。
「そうだね。でも、見えないところで誰かの心が凍ったり寒くなったりしてるって、お父さんは思うんだ」
 という説明は、クラリスにはよく理解できなかったけれど。
「だったら父さんの病気も治せるの?」
 エンジュは一瞬、真顔になった。心を見透かされた気がしたのだ。
 黙り込む夫を見かねて、ミントが横合いから口を挟む。
「あのね、クラリス。ハルはまだ生まれてもないのよ」
 いくら名前に願いが込められているからといって、無茶な話だ。
 父はしかし、ゆっくりと首を振る。
「いや……。ハルは、オレたちに春を持ってきてくれる。だったら病気も治せるし、瘴気だって払うことができるさ」
「本当に!?」
 クラリスは飛び上がらんばかりに喜んだ。思わずエンジュの手を強く握ってしまい、病人はこっそり顔をしかめた。
 瘴気の存在はもはや当たり前のものだった。ミントなどは、彼の豪語も気休め程度にしか考えていなかっただろう。真に受けたのはクラリス一人だった。いや——もしかすると、エンジュ自身は本気で信じていたかも知れない。
 幼子はすっかりその気になって、はしゃいでいる。
「ハル、早く生まれてこないかな〜。明日? 明後日?」
 ミントは肩をすくめる。「そんなに早くは無理よ」
「私、明日からもっとクリスタルにお願いするね! ハルが早く生まれてきますように、お父さんが治りますように、それから……」
 指折り数えるクラリスに、
「おいおい、あんまりクリスタルに頼ってはいけないよ。クリスタルは村の聖域を支えるので大忙しなんだ。そう何度も願いを叶えてくれるかなあ」
 エンジュが釘を刺した。彼女は口に手を当てる。
「あっ……そっか。ど、どうしよう」
「クリスタルには、『今日一日何がありました』って報告したり、『いつも聖域を守ってくれてありがとう』って感謝したりするんだよ。水かけ祭りでも、みんなやってるだろ?」
 一言ごとにくるくる表情を変える幼子は、愛らしさにあふれていた。
「分かった! でも、お願いをしたい時は、どうすればいいのかな」
 父親はとっておきの話をするように、声をひそめた。
「お願いはね、流れ星にするといい。昔、父さんはある場所で流星群——たくさん星が落ちてくるのを見て、『早くお母さんをお嫁さんにしたい』って祈ったんだ。そうしたら、すぐに結婚できたんだよ」
「もう、エンジュさんったら!」ミントは照れ入り、エンジュの背中をどしんと叩いた。「ふぎゃ」カエルが潰れたような声を発する父。まるで病人の扱いではない。
 クラリスは純粋な瞳で父親を見上げた。
「お星様に、お願いするのね」
「そうさ。流れ星が消えてしまう前に、祈るんだよ」
「分かった。これから毎晩、お星様を探してみる」この頃の彼女は素直そのものだった。
 エンジュは窓の外にすうっと視線を飛ばした。
「……お星様の中から、父さんも探してくれよ」
「え?」
「オレたちはみんな、いつか星になるからさ」
 彼は「ここではないどこか」を見つめているようだった。ミントは顔をうつむける。言葉に含まれた辛すぎる意味に、クラリスは気づかない。
「父さん、お空に行っちゃうの……?」
「家にいないときはね。お空でも、海でも、どこでも——お父さんは、クラリスのそばにいるよ」
「うんっ!」
 エンジュの深い茶色の瞳は、愛しい娘を映し出す。目に入れても痛くない、とは言葉の通りだ。
「本当に、お前はいい子だね……げほ、ごほっ」
 突然、エンジュは激しく咳き込んだ。ミントは顔色を変えて立ち上がったが、娘に対しては平静を装った。
「いつもの発作ね。クラリス、お医者さまを呼んできて」
「はあい。行ってきまーすっ」
 彼女は家から飛び出して、元気に駆けていった。
 ……結局父親の容態は戻らず、その日の夜半にエンジュは息を引き取った。息子の姿をついに見ることなく。
 亡骸にすがりついて大泣きするクラリス。頭の中には、父と交わした最後の会話がグルグル回っていた。「父さんは星になってお空にいる」「ハルはもしかしたら、瘴気を払ってくれるかもしれない」……。
 それから、数ヶ月。ミントの臨月が近づいてきた。故人の葬儀を済ませたら、今度は赤ちゃんだ。悲しむ暇も無い。でも、忙しさに身を委ねている間だけは、クラリスも父親の不在を忘れることが出来た。
 いよいよハルトが生まれる日のことだ。夜になって産気づいたミントの頼みで、クラリスは産婆である村長の妻マレードを呼びに行った。
 瘴気も薄く、夜空は宝石をちりばめたように明るい。満天の星空だった。彼女はそこに、すうっと流れる一筋の光を見た。
「お星様だ」
 呟くと同時に、いくつもの流星が尾を引いた。漆黒のキャンバスで展開される大スペクタクルに、声もなく圧倒される。
 もしかしたら、あれが父親の見た流星群かもしれない。十数年かけて天蓋を一巡りし、大陸の空に帰って来たのだ。
「……お父さん?」
 エンジュは星になった、とクラリスは唐突に思い出す。ティパの村に父親が戻ってきてくれた——ひとたびそう考えると、彼女は居ても立ってもいられなくなった。
「お星様にお願いしなきゃ!」
 両手を組んで目を閉じた。彼女の願いはただ一つ。
「私のきょうだいが、いつか瘴気を払ってくれますように」
 小さな星がきらりと輝いて、夜空に消えた。その先には自宅がある。
 やっぱり父さん、帰ってきたんだ!
 クラリスが大股で村長の家に向かう頃、彼女の家では、まだ見ぬ弟が産声を上げる瞬間を待っていた。



 クラリスは長い話を終えて唇を閉じた。聴衆は肩の力を抜き、胸に去来する様々な感情を咀嚼していた。
「……春を告げる者」
 ペネ・ロペがぽつりと言う。話を聞くにつれて引き締まる、ハルトの横顔を眺めながら。
 不思議な単語だが、見事にハルトの性質を表していた。なるほど彼には心のどこかを癒されたり、支えてもらった経験がある。ペネ・ロペだけでなく、ここにいる皆も同じだろう。
 ティダの村の二人、デ・ナム、黒騎士、フィオナ姫、そしてハーディとガーディ。多かれ少なかれ、ハルトが運命を変えた人々だ。日々多くのものを心に留め、詳細に記録する彼と関わるうちに、人々の思い出は揺るぎないものになった。癒し手の職務は、何もケアルをかけることだけではない。
 瘴気に満ちた永遠の冬を終わらせる者。それが、春を告げる者——エンジュがハルトの名前に託した願いだった。
 と、リーダーはじんわり感動していたのだが。ユリシーズは別のことが気になったようだ。仮面の奥の暗がりに火をともす。
「ハルトのことは分かった。だがな……要するにクラリスは、父親好きをこじらせた結果、弟に依存するようになったんだな?」
「ちょっとユリス、もっと言い方があるでしょ」ペネ・ロペは真っ青になる。ピラミッド内に漂う静謐な空気が台無しだ。
 クラリスは——少女時代を終えて一人の女性となった彼女は、黙って幼なじみを見返す。
「いいや言わせてもらうぞ。クラリス、お前は父親とハルトを重ねて見ているな」
「ああ。否定はしない」彼女は唇を噛む。
「それがどういうことか、分かってるのか。お前は弟自身を認めていない上に、余計な責任を負わせたんだ。瘴気を晴らすっていう無茶苦茶な約束で、どれだけハルトの心を縛ったか……理解しているのか」
「ユリス!」
 大声を上げるペネ・ロペ。
 ハルトは姉から目をそらし、クラリスは顔を歪めた。
「分かっているつもりだ。それでも……私は、弟に頼るしかなかった」
 いつもぴんと張られている彼女の肩が、頼りなく震えていた。
「怖かったんだよ。父さんがいなくなって、それこそ闇の中に放り出されたみたいだった。これからどうやって生きていけばいいか、分からなくなった。だから、星になった父さんが帰ってきたって思わなくちゃ——耐えられなかったんだ」
 ハルトが海に落ちた時、また家族を失うのかと絶望した。今年の事件でもそうだ。もう絶対に、誰も手放したくなかった。クラリスの行動原理は半ば恐怖に基づくものだった。
「それでハルトはお姉さんに認められようと、キャラバンに入ったのね」
 タバサの発言にぎくっとするハルト。やっぱりね、とリルティの少女は肩をすくめた。
「私にもお姉ちゃんがいるから、なんとなく分かるわ。ま、ここまでどろどろした関係じゃないけど……男だったらなおさらよね」
 タバサは見事に少年の心理を言い当てていた。父親の代わりではなく、自分自身を見て欲しかったから、必死に約束を守ろうとしたのだ。
「クポー……」モグはかける言葉も見当たらず、おろおろしている。
 クラリスは目線を落とした。あの強気な彼女が、泣きそうになっていた。
「ハルト、本当にごめんな。でも……今回お前と離れて旅をして、やっと分かったんだ。お前の旅路はお前だけのもの。試すようなまねをして、悪かった」
 ハルトは何度もかぶりを振る。
 なんとも湿っぽい雰囲気だった。狼狽したペネ・ロペが、親友の肩に手を置いた。
「ほ、ほら、やっと二人の目的が一致したわけじゃない。あとはもう単純よ。ラモエを倒せば、思い出は消えない、瘴気だってなくなる。ハルトくんはお父さんの願いも、クラリスとの約束も果たせるわ」
 ことさら明るい声を出した。これこそ、ペネ・ロペの持つ希望の力だ。クラリスは眩しそうに目を細め、
「それと、実は——私が先を急いでいたことには、理由があるんだ」
 げほげほ、と咳をする。心なしか顔色が悪い。
 次に彼女が発する言葉を、四人と一匹は息を詰めて待ち構えた。
「私も、父親と同じ病気にかかってしまったらしい」
「えっ!?」
 ペネ・ロペたちは愕然とした。ラケタの手紙で知っていたハルトも、苦しげに眉根を寄せている。やはり姉の口から直接聞くと、重みが違った。
 エンジュと同じと言うことは、やがては死に至る病だ。
「もしかして、四年前にキャラバンをやめた理由は……」
「あの頃から兆候はあった。引退したのはハルトに道を譲るためでもあったし、これ以上瘴気に触れていたら危険だと思ったからでもある」
 彼女は気丈に笑ってみせる。
「大丈夫だよ。瘴気さえ晴れれば、病気は治るさ。私も父さんと同じく、お前を信じている」
 強ばった手のひらを開き、弟の右手をそっと握った。すがるような動作だった。
 姉弟は黙って見つめ合った。レベナ・テ・ラの暗闇が、二人の瞳の色を等質なものにしている。
「……」
 姉が一世一代の告白をした。今度は自分の番だ。
 ハルトは意を決して、クラリスに真新しい手紙を差し出す。
「これは? みんなで読めばいいのかな」
 キャラバンは順番に目を通した。
 綴られていたのは、「その日」から始まったハルトの記憶の物語。忘れられてしまった「あの人」に関する全てが記されていた。
 彼が記憶に固執するようになったきっかけを、四人は初めて知ったわけだ。
「あの時、ハルトを助けた人がいた……? 全然、記憶になかったわ」タバサは目を丸くしていた。
「あ、あたしも。崖から落ちたのはハルトくん一人だとばっかり」
「それで自分を信じられなくなったのか……」
 なるほど、こういうメンタリティは姉にそっくりだ、とユリシーズは思った。
 今なら分かる。あの事件は物忘れ病——ひいてはラモエの仕業だったのだ。これで、ハルトがおとぎ話に固執していたことも納得できた。誰もが「その人」の記憶を持たないのは「魔」が思い出を食べてしまったから、と幼いハルトは考えたのだ。
 クラリスは申し訳なさそうにしていた。
「残念ながら、その人については私も心当たりがない。でも……やっと話してくれた。私たちのこと、信じてくれたんだな。嬉しいよ」
 ハルトは照れ笑いした。十年以上も互いに隠し事をしていたのが、今さらおかしく思える。
 少年は無意識に指のリングをさすっていた。
「それ、レイズリングか?」
 ユリシーズが目ざとく見つけた。ハルトはケアルリングの他に、オレンジの魔石を持っていた。
「そうクポ! ハルトは、リュクレールさんから『導師』っていう偉ーい称号を貰ったクポっ」
 モグが代わりに勇んで答える。ユリシーズは息を呑んだ。
「導師ってことは——白魔道士の最高位か!?」
「しろまどうし?」ペネ・ロペが首をひねる。
「治癒を専門にする魔法使いのことだ。レベナ・テ・ラ時代の称号の一つだな。その中でも、導師は一番強い力を持っていた。人の生き死にを左右できるレベルだったらしい」
 ハルトは瞬きした。言われるままにアミダッティから書状を受け取ったが、称号のいわれは知らなかった。
「剣聖に、導師かあ……なんだかお似合いね」
 ペネ・ロペに褒められて、姉弟はそれぞれ頬を染めた。
 秘密を告白しあって、心は晴れやかだった。クラリスはすっくと立ち上がる。
「なあ。少し星を見てきていいかな。ハルトと二人でさ」
 もちろん仲間たちは首肯した。
「クポー……」モグは何か言いたげにハルトを見たが、
「だめよ。家族水入らずにさせてあげましょ」
 タバサが咎めた。かくして、シェラキャラバンのケージだけが二人について行くことになった。
 体力を失ったクラリスを気遣い、ハルトは肩を貸してあげた。三年前は姉の方が背が高かったのに、今ではすっかり並んでいる。
 ピラミッドの外では満天の星がきらめいていた。二人は揃って天を仰ぐ。
「四年前、キャラバンをやめるって決めた時も、ペネ・ロペとこんな空を見たよ」
 その時だった。見渡す限りの闇色の空に、ひとすじの光が流れていった。
「あっ……」
 追いかけるように、いくつもの星が流れては消えた。流星群だ。クラリスがティパの村で願いをかけてから、十数年。再び星は巡ってきた。
「きれいだなぁ」
 クラリスの心は故郷の空に帰っていく。
「前は一人で見たんだ。でも今は、お前が隣にいてくれる。なんでもないことなのに、それがすっごく嬉しいよ」
 父親が再び見ることのかなわなかった空を、彼の血と志を受け継ぐ姉弟が見上げていた。ラケタやミントも同じように村で眺めている——そんな気がした。
「二千年前、あの星の一つが落ちて、ヴェレンジェ山にあった大クリスタルを砕いた。でも、私は流れ星を嫌いになれない」
 クラリスの長い髪の上を、星の光がするする流れていく。
「父さんが死んでからずっと、私の心は月のない夜みたいだった。何をしたらいいのか、どこに向かえばいいのかさっぱり分からなかった。
 ……それでも明けない夜はないし、晴れない雲は無い。生まれたばかりのお前が、月の代わりになって道を照らしてくれた。だから私もお前にとっての星でいようと思った」
 夜這い星が落ちて、レベナ・テ・ラの楽園は消え失せ、人々はちりぢりになってしまった。リルティとユークの戦争、セルキーの弾圧、ティダの村の滅亡……様々な悲劇が生まれた。
 そんな時代も、もうすぐ終わる。弟が終わらせてくれる。
 二人は流星群の下で頷き合った。
 星にかける願い、いや決意は同じだ。必ず瘴気を晴らす。かけがえのない家族のために。
「私の弟が、他の誰でもない、お前で良かった……」
 その独白は、ハルトが一番欲しかった言葉だった。胸がじわりと熱くなる。
 流れ星の最後の一つを見届けると、クラリスは彼に向き直った。もうひとつ伝えたいことがあった。
「私は……お前が名前を忘れてしまったという人に、会ったかも知れない」
「!?」
 ハルトは息を呑んだ。心臓がドキッと跳ねる。
「マール峠で、それらしい人物が現れたんだ。彼は何故かガーディの姿をしていた。二年前のファム大農場で、倒れる直前のお前とも会ったらしい。おそらく——彼がアリシアに憑依して、お前を刺したんだろう」
「……」
 彼は額を押さえた。記憶の底に閉じ込めていた出来事が、だんだん甦ってくる。
 ——いくら必死に思い出そうとしても、いなくなった人は絶対に帰ってこないんだよ。
 ファム大農場で聞いた悲しすぎる台詞は、「あの人」のものだった。
 クラリスは苦虫をかみつぶしたような表情になる。
「彼はお前を相当憎んでいるみたいだった。お前はそれでも仕方ない、って思うかもしれないけど……そんなの間違ってる。あれはどう考えても逆恨みだ。だからきっと、お前の本心をぶつければ、あの人だって分かってくれるよ」
 マール峠では「彼」に苛烈な思いを叩きつけられ、覚悟が揺らいでしまったけれど、彼女はもはや一点の曇りもなくハルトを信じていた。
「彼はヴェレンジェ山の先で——多分ラモエたちのいるクリスタルワールドで、待っている。
 ハルト。お前には伝えるべき言葉がある。剣でも拳でもいい。とにかく伝えたいことを直接、彼にぶつけるんだ。悲しい考えに囚われているあの人を、どうか救ってやってくれ」
 ハルトは黒の瞳に強い意志を浮かべて、大きく頷いた。
「頼んだよ」クラリスは可憐な花のように微笑む。
 彼女は今はっきりと、父エンジュの存在を感じていた。父親の導きがなければ、二人はここにいない。それに……重ねてしまうのも仕方ないと思えるほど、今のハルトは在りし日のエンジュにそっくりだった。
 思い出の中だけではなく、今この目の前に、父はいるのだ。

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