第四章 春を告げる者



「私、きっと大事なことを忘れてるよね」
 ティパの鍛冶屋から出てきたカム・ラを見て、アリシアは唐突にそんなことを言った。
 カム・ラはぎくりとする。
「な、何がだよ……?」
 粉ひきの娘は出来たてのいなかパンを持っていた。鍛冶屋へのおすそわけだ。数分前までパンのことでいっぱいだった彼女の頭は、今や不思議な考えにとりつかれている。
「だって、去年ハルトが帰ってきた日のこと、何にも思い出せないんだよ。事故で大怪我しちゃってからは、よーく覚えてるのに」
 カム・ラは冷や汗をかいた。いつかこの日が来るとは思っていた。ハルトを刺したのは彼女自身だという真実は、もう誤魔化しきれない。
 少女はセミロングの髪の毛をぶんぶん振り乱した。
「それに、村のみんなが変に優しいの。示し合わせて何かを隠してるみたい。きっと——私のために」
「……」
 しかめっ面になった幼なじみを見て、アリシアはふっと肩の力を抜いた。
「カム・ラ、わかりやすい。全部顔に出てる」
「え!?」
「やっぱりそうなんだね……。
 私、ちょっと前まですごく思い詰めてたの。ハルトが村を離れちゃうのが、嫌で嫌で仕方なかった。でも今は——なんだか落ち着いてる。やっと認められたんだ」
 彼女は寂しい笑顔を見せた。
「私たちの道は、とっくの昔に別れてたんだよね」
 埋めようのない溝があることにも気づかず、もがき続けていた今までの自分は、なんて子供だったのだろう。
「ハルトはすごいよ。どんなに辛いことがあっても、全部日記に書き留める。必死に受け止めようとしてる。私にはそんなの絶対に無理」
「あ、ああ……」
「でも——私は私のやったことから、もう逃げたくない。ハルトみたいにはなれなくても、責任だけは自分で背負いたい」
 アリシアはすうっと双眸を細めた。
「だから、全部話してくれる?」
 とうとうカム・ラは根負けした。断片的な情報をつなぎ合わせ、推測できる全てを打ち明けた。
 泣かせてしまうと思った。喋っている間、怖くて彼女の顔を見ることが出来なかった。
 長い長い沈黙の末、アリシアは、
「……そっか」
 とだけ言った。唇を強く噛みしめながら。
「私、本当にひどいことをしたよね。ハルトが帰ってきたら、謝らないと。……許してくれるなんて思わないけど」
 カム・ラは大きく息を吐いて、首を横に振った。
「あいつは許すよ。そういう奴だから」
「そうかな。それが一番……辛いんだけどね。
 私、ハルトが崖から落ちちゃった日からずっと、あの子の前を歩いてきたつもりだったの。多分クラリスさんも同じ気持ちだったんじゃないかな。
 でも違った。ハルトはキャラバンに入って遠くに行ってしまった。私は変化について行けなくて、わがままを言ったり、足を引っ張ったりしてばかりだった。本当は、私たちが笑って送り出してあげなきゃいけないのに」
「俺も——俺もだよ。いつの間にか追い抜かれてた。心のどこかでは、ずっと憧れてたんだ」
 どこまでもまっすぐなハルトのそばで、二人は同じように割り切れない思いを抱えていた。
「ハルトが帰ってきたら、ちゃんと向き合うよ。……自分の心にも」
 ありがとカム・ラ、とパンを押しつけて、アリシアはきびすを返した。オレンジブロンドの髪がなびく。彼女の目の端には、きらりと光るものがあった。
 残された少年は切なそうに胸を押さえた。
「アリシア、立ち直りましたか」
 カム・ラの肩が跳ねる。いつからいたのだろう、背後にユークの女性が立っていた。
「うわっヒルダ!? 盗み聞きとか趣味悪いぞ」
 動揺して、つんけんした態度になってしまう。ヒルデガルドは丁寧に礼をした。
「すみません、二人の姿が目に入ったので。彼女、どうも自分の非を認めたようですね」
「そんな言い方するなよ。アリシア、今頃きっと泣いてるから……」
 彼の心に濁った水が満ちる。ヒルダは不思議そうだった。
「慰めに行かないのですか」
「お、俺が?」カム・ラは目を丸くする。「そんな資格、俺にはないよ」
 ヒルダは聞き分けの悪い子供を相手にするように、
「大切なのは資格ではありません。あなたがしたいかどうかです。だって、カム・ラはアリシアのことが好きなんでしょう」
 セルキーの少年はぽかんと口を開ける。次に、顔を真っ赤に染め上げた。
「な。な、な——!?」
「あらあら、自覚してなかったのですか。あそこまで親身になっておいて、それはないでしょう」ヒルダはおかしそうに言う。
 カム・ラはひどく混乱して、泣き笑いのような表情になった。
「ま、まさか。だって俺はセルキーで、あいつはクラヴァットだぞ。それに、どう考えたってアリシアは……ハルトのことが……」
 喋りながら、だんだん辛くなる。喉がからからに渇いていた。何故こんな気分になるのか、彼自身よく分からなかった。
「ペネ・ロペさんたちの先例があるのに、種族にこだわるのはナンセンスでしょう。
 まあ、ハルトのことは確かにそうですが——あちらの場合はもっと幼い感情です。今なら巻き返せますよ」
 ヒルダは積極的に焚きつけた。カム・ラ程度では彼女を言い負かせそうもない。
「待て待て。なんで俺が乗り気みたいになってるんだよっ」
「ですが、今のアリシアを元気づけられるのはあなただけです。何せハルトは村にいないのですから。
 さあ、行ってあげなさい」
 と言って、ヒルダは少し低いところにある彼の背中を押した。なんだか母親のような物言いだった。
 温の民のように気遣いにあふれたセルキーは、ピンと背筋を伸ばし、アリシアが帰ったと思われる粉ひきの家の風車を見やる。
「……お前に言われたのはしゃくだけど、行ってみる」
「朗報を待ってますよ、カム・ラ」
 彼が完全に背を向けてから、ユークは仮面の奥からくすくす笑い声を立てた。



 バラバラに旅立ったティパキャラバンは、ひとつの馬車で帰ってきた。
 村人たちの歓迎を受けて、幌から四人が顔を出す。クラリスは一人、ぐったりとクッションに身を預けていた。
「あたしたちは村長に報告してくる。ハルトくんはクラリスのこと、お願いね」
 ペネ・ロペたち三人と別れ、ハルトは姉を負ぶって家へ向かった。
 病気が進行してずいぶん体力が落ちた彼女は、帰りの馬車では辛そうな顔を隠そうともしなくなっていた。
「……すっかり昔と立場が逆転したなあ」
 クラリスはぼうっとする頭をハルトの背に預ける。
「ちっちゃい頃は、よくお前を背負って歩いたもんだ。でも、たまにはおんぶされるのもいいな。父さんもこうしてくれた気がする……」
 ぽかぽか陽気が気持ちいいのか、彼女はうつらうつらし始めた。
 苦笑しながら道を行くハルトの前に、さっと人影が飛び出した。
「!」
 アリシアだった。彼は肩をびくっと揺らす。村の入り口にいないと思ったら、ここで待っていたのか。
「おかえりハルト。いろいろ忙しいかもしれないけど……あとで、岬に来て」
 彼女はそれだけ言うと、すぐに立ち去ってしまう。真剣なまなざしが目に残った。
 よりにもよって、あの岬だ。ハルトと少なからぬ因縁がある場所を選んだということは、よほど重要な話なのだろう。
 アリシアの様子は気になったけれど、まずはクラリスを休ませたい。ハルトは角を曲がって実家に向かった。「ウェルカム・トゥー、ザ・ティパ農場!」——後ろ向きの看板が見える。庭に生えたりんごの木は、今年も青々とした葉を茂らせていた。
 農場の入り口にいたラケタが、こちらへ大きく手を振る。
「おかえり!」
 ハルトは頬を緩めてそれに応えた。
 眠る妻を引き受け、ラケタがにやりとする。
「今のお前、いい顔してるよ。ようやく吹っ切れたんだな」
 義兄は心底喜んでいた。ハルトは少し恥ずかしくなる。この分では早晩、例の称号の件でも大騒ぎされるだろう。
 二人は談笑しながらクラリスを寝室に運んだ。
「……お疲れさま」
 部屋で待っていたミントは、静かに息子と娘を迎えた。いつも通りのほんわかした笑顔。それを見て、ハルトは何故か足の力が抜けるくらい安堵した。
「あらら。クラリスは寝ちゃったの。子供みたいな寝顔ね」
「可愛いですよねっ」
 ラケタは楽しげである。二人とも、とうの昔に病気の件は承知していた。それでも農家に暗い影はなかった。
 話題は弟の方に移る。
「そういえば。ミントさんにはハルトの日記のこと、まだ話してなかったですよね」
 ラケタが親切に説明しようとしたが、
「別にいいわ。事情はいつか、あなたの声で聞くから」
「……!」
 ハルトは息を呑む。はしばみ色のミントの瞳はどこまでも透明だった。
 母は強い人だ。どんなことも黙って受け入れる。ハルトが言葉を失った時ですら、その微笑みは揺らがなかった。内心はどうあれ、クラリスのキャラバン入隊にも強く反対はしなかった。
 その代わり、子供たちにはっきりと「こうしてほしい」と言うこともない。放任主義ともいえる態度は心地よいけれど、少しだけ寂しい時もある。
 そんな彼女がこぼした淡い希望が、ハルトの心にじわりとしみいる。
「そっか。ですよね」
 ラケタは柔らかい表情になった。ミントは片目をつむり、
「それよりハルト、アリシアちゃんがあなたに用があるんだって。あんまり女の子を待たせちゃだめよ?」
 促されて椅子から立ち上がったが——彼はしばし逡巡した。目線が足元をさまよっている。
「ハルト……」
 何か言いかけたラケタを、ミントが制した。
「逃げるわけにはいかないでしょ。あの子はちゃんと覚悟を決めたの。今度はあなたが向き合う番よ」
 少年は心細そうな顔で頷いた。眠るクラリスをもう一度見てから、部屋を出ていく。
 ラケタがかぶりを振った。
「アリシアとの関係も、うまいところに着地できたらいいですよね」
「どうかしらねえ。あの子、着水なら得意だろうけど」
「冗談になってませんよ……」
 ミントは他人事のように笑った。脳天気な明るさに接していると、ラケタの不安もだんだん薄れていくようだった。
 ちょうどその頃。ハルトは裁縫屋の前を通り過ぎたところだった。
 あの岬で起こったいくつもの出来事がまざまざと脳裏に蘇る。村人たちには、辛いことばかりだったと思われているだろう。しかし、ハルト自身の考えは違った。今はどんな思い出だって、大切なものだと言い切れる。
 いよいよ、アリシアと向き合う時が来た。彼は決意を固めた。
 柔らかい下生えを踏みしめる。数ヶ月前にこの緑を濡らした赤色は、どこにも見当たらない。彼は顔を上げた。
「ハルト……」
 アリシアは片手に白い花を持っていた。いつかハルトが土産に渡した種。彼女はあれを育てて、花壇いっぱいに咲かせていた。
「私、ハルトにたくさん酷いことをしたよね。ごめんなさい」
 彼女は深く腰を折った。ハルトは何度も頭を振る。
「がんばって思い出したよ。クラリスさんの剣を持ち出して、ハルトを刺しちゃった時のこと……。ハルトが怪我したら、旅を止めてくれるかもしれないって思ったの」
 アリシアは胸の辺りをぎゅっと掴んだ。
「事件が起こるちょっと前にね、誰かに『本当の願いは何か』って質問されたんだ。その人のことはよく思い出せないけど……私は、ずっとハルトがそばにいて欲しいって答えた」
 激しく燃えた感情の残滓で、彼女の心は今も焦げ付いている。
「あの時は、私じゃない人が体を動かしてるみたいだった。でも剣を握った感触はしっかり覚えてる。喋ったことだって全部、私の本当の気持ちだった。『あの人』の言葉がきっかけなったのは確かだけど——私はひとつも嘘をついてない」
 ハルトは苦しげに目を伏せる。
「当たり前の日常が……いつも一緒にいた幼なじみが変わっちゃうのが、怖かったんだ。私だってパン焼きが上手くなったり、誰よりもたくさん花を咲かせたり、少しは成長してたのに。ハルトにだけは変わって欲しくなくて、そんな思いを押しつけてた。
 ごめんなさい。許してくれなくてもいいの。でも……謝りたかった」
 つうっと涙が頬をつたった。ハルトは凍り付いたように動かない。
 アリシアは震える手で雫を拭った。
「優しいよね、ハルト。自分より他の人を優先してばっかり。いっぱいお土産を持ってきてくれて、手紙を出してくれて、どんなに怪我をしても雫を持ち帰ってくれる。
 私、ハルトのことが——大好きだよ」
 亜麻色の瞳が、雨上がりの空のように澄み渡った。
「……!」
 中途半端に唇を開いて固まったハルト。彼女はくすりと笑う。
「残念だけど、色っぽい意味じゃなくてね。
 でもこの気持ちは、一生持っていたい。私にとって特別なものなの」
 彼は頬が熱くなるのを感じた。ある意味、愛の告白をされるより照れくさかった。
 アリシアはにっこりした。もう涙は乾いていた。
「実は、ここからが本題なんだけど。今日の水かけ祭りで、一緒に踊ってくれない? 下手でもいいよ、私だってそんなに上手くないもの。だけど、一回だけ……ハルトの最初で最後の一回を、私にちょうだい」
 花を差し出す。ハルトは——受け取ってくれた。
 幼なじみたちは、一生忘れることのない約束を交わした。



 今年の水かけ祭りは、ティパ村が迎える最後のものになるだろう。村人たちは皆そう思って臨んだ。儀式はいつもより厳粛な雰囲気ではじまった。
「皆の者。少しの間、耳を傾けて欲しい」
 村長のローランが痛む腰をさすりながら演説する。クリスタルの前には松明を持ったキャラバンが並び立ち、耳を澄ませていた。
「この祭りの後、ペネ・ロペたち四人がヴェレンジェ山に旅立つことは、既に知っておろう。これは二千年間ついぞなかった、素晴らしい出来事じゃ。
 彼らはフィオナ姫に恩賞を賜り、世界の秘密を解き明かした。じゃが、それは四人だけの功績ではない。当代まで命を繋いできた、数多のキャラバンが示した道なのじゃ」
 マレードが言葉を引き継ぐ。
「私たちに出来ることはただひとつ。キャラバンを支えることです。さあ、クリスタルに今まで以上の感謝を捧げましょう」
 村人たちの目は、松明とクリスタルの光を反射してキラキラしていた。
 今年のクロニクルは、ハルトが出会った様々なキャラバンの話を中心に読み上げられた。本人は恥ずかしそうに下を向いたが、種族や村を超えたキャラバン同士の絆に感動しない者はいなかった。
 ローランの腕が天に差し伸べられる。雫がケージから解放され、クリスタルは輝きを取り戻す。この光景も見納めだった。
 宴の料理は前年より豪華になった。ファム大農場や、アルフィタリアの晩餐会にも劣らないメニューだ。何よりも心がこもっている。料理当番に立候補したミントは、思う存分腕を振るっていた。
 中でもハルトが喜んだのは、しましまりんごのパイだ。彼は主菜に目もくれず、そればかりつまんでいた。村人たちはあまりに幸せそうな彼に遠慮して、ほとんど手をつけていない。
 ハルトが絶え間なくフォークを動かしていると、頬を火照らせたアリシアがやってきた。
「えへへ、お酒飲んで来ちゃった」
 ハルトは呆れ顔になった。
「おかげで緊張がほぐれたみたい。じゃあ、行こっか」
 先に歩こうとしたアリシアの手を取り、ハルトが前に出た。「あっ」彼女はどきっとする。それは決して、酒精のせいだけではない。
 二人はごく自然に踊りの輪に入った。観衆がはっとしたのが分かった。ハルトの踊りを見るのは皆初めてだったのだ。
「アリシア……」カム・ラは離れたところから、二人の姿を複雑な気持ちで眺めていた。
 楽隊が曲調を変えた。心に訴えるような切ないメロディだ。
 幼なじみたちはたどたどしくステップを踏んだ。足がもつれる度に、くすくす笑いあう。それでも堂々と踊る二人を、誰もが微笑ましく見守っていた。
 アリシアは結い上げたセミロングの髪を揺らして、そっと囁く。
「ハルト、一昨年私が持ってきたりんごのこと、覚えてる?」
 もちろんよく覚えていた。自宅の木が枯れてしまい、困り果てている時だった。
「あのりんごね、実は村長の家の木からとってきたの」
 ハルトはびっくりして彼女を見つめた。アリシアは悪戯っぽく笑う。
「みんな知らないんだね。あの古い木は、りんごの木なんだよ。若い枝がある上の方にだけ実をつけるの。ハルトの家の木だって、あそこから株を分けてもらったんじゃないの?」
 唐突に、彼は思い出した。
 村長の息子——当時キャラバンに所属していたハーディから、自分はりんごをもらったことがある。
 声を失う前、外の世界に興味を示していたハルトは、しばしばハーディとおしゃべりしていた。いずれ伝道師と呼ばれて人々の尊敬を集めることになる彼も、ハルトにとっては単なる気のいいお兄さんだった。
「いつかキミがキャラバンに入ったら、このりんごを持って行くといいよ。そうしたら味と香りで、いつでも故郷を思い出せるだろう?」
 こんな台詞を聞いた気がする。すっかり忘れていた。
 けれども、ハーディの「思い」はハルトの心に残っていたのだろう。だから彼は、旅の中でたくさんの人にりんごを分けてきた。フィオナ姫やアルテミシオン、そしてデ・ナム……。皆笑ったり、首をかしげたりしながら受け取ってくれた。ハルトは、りんごに自分とハーディの思いを託したのだ。
 記憶の波が広がって、胸がゆるゆると温かくなる。
 アリシアは満足げに頷いた。心の底から「良かった」と思えた。
 夢のような時間は終わりを告げた。しっとりした音楽から、アップテンポの軽快な曲に切り替わる。
 アリシアは絡めた手を名残惜しそうに離した。
「ありがとう」
 それだけ言い置いて、夜の闇に紛れる。
 火照った体を風にさらしたハルトは、近くに親友の姿を見つけた。
「さっきのダンス、良かったよ。二人ともすごく楽しそうだった」
 カム・ラは落ち着いていた。海のような瞳が静かに瞬く。
 ハルトには、彼が前より大きくなったように見えた。思い当たるふしはある。地道に鍛冶の修行を重ねた体には、十分な筋肉がついていた。キャラバンほど劇的ではないけれど、彼は確かに成長していた。
 カム・ラは照れくさそうに鼻の下をこする。
「あのさ、俺……アリシアのことが好きだったみたいだ」
 ハルトは一瞬あっけにとられたが、すぐに立ち直って目を細めた。今さら分かったの? と言わんばかりに。
 相手は暗闇でも分かるほど頬を燃やした。
「だってさあ! 種族も違うし幼なじみだし、そんなこと全然考えてなかったんだ。でも……ヒルダにハッパかけられて、やっと自覚した。あいつの力になりたい。アリシアが笑ってくれたら、俺は嬉しいんだ」
「……」
「ご、ごめんな。なんか自分のことばっかり」
 ハルトは口の端を釣り上げ、親友の肩を叩いた。憧れや嫉妬、後ろめたさ——そんな感情に関係なく、彼らは対等だった。
「俺たちはお前と一緒に戦えないけど、代わりにお前の帰る場所を守ってる。だから、安心して旅に出てくれ」
 二人はパシンと手のひらを打ち付けあった。



 最果ての地にキャラバンを送り出すため、ティパの村ではどの家も準備に大忙しだった。
 農家・粉ひき・牛飼い・漁師は食料の準備を。商人はヒルデガルドを中心として、旅費の計算から必要な素材の仕入れまで。鍛冶屋や裁縫屋は装備品の新調を——と、それぞれの得意分野に応じて動いている。
 しかし、錬金術師の家を継いだルイス=バークはのんきに研究を続けていた。……というより、他にやるべきことが見当たらなかった。錬金術師はひらめきが重要になる職業だ。天啓が下りてくるのを待ち、ひたすら実験を繰り返すしかない。
 その日も、ルイスはキャラバンの後輩ユリシーズに託された「呪いの杖」を眺めて、ああでもないこうでもないと頭を悩ませていた。
「ごめんくださーい」
 錬金術師の工房に、鍛冶屋の息子カム・ラがやってきた。気さくなルイスとは話しやすいようで、しばしば顔を合わせている。ハルトが倒れたときは真っ青な顔をしていた彼も、自力で立ち直って辛抱強くアリシアを支えてきた。今は、最後の旅立ちを目前に控えたハルトのためにと、毎日仕事に精を出している。
「おう。どうしたんだ」
「ちょっと、この剣を見て欲しいんですけど……」
 そう言ってカム・ラは持っていた包みをほどいた。現れたのは、刀身が二股に分かれた黒塗りの大剣だった。思わずルイスはうなる。
「すごい業物だな。お前がつくったのか?」
「さすがに違いますよ。三年前にハルトがダンジョンから持って帰ってきたんです。さびてボロボロになってたんで、鍛治の練習台にしてたんですけど」
 三年間、カム・ラはこの剣を土台に技術を磨いた。まだまだ見習いの彼だが、この剣は技術の集大成と言ってもいい。
 彼が何を頼もうとしているのか、すでにルイスは悟っていた。なべに隠れても目は鋭い。剣には明らかに「何か」が足りなかった。
「なるほどな。ハルトに使って欲しいから、この剣を完成させるためのレシピを考えてくれ、ってことか」
「はい」
 ルイスは大剣を手に取った。力の強いリルティでも、重さによろめいてしまう。
「うーん。これは難しいぞ。俺の才能だと、百年かかってもレシピが見つからないかも」
「ええーっ」
「冗談だって」ルイスはくるくる変わるカム・ラの顔を楽しんだ。剣を一目見た時から、脳内に新たなレシピが浮かんでいた。
「そうだなあ、たとえばこれなんかどうだ」
 先ほどの呪いの杖を、剣に近づけてみる。するとどうだろう。剣はぶうん……と低い音を立てて震えたではないか。
「あれっ!?」
「やっぱりな。そうだと思ったよ」
 黒剣と杖は不思議とマッチしている。ルイスは得意げだった。
「でも、なんか禍々しすぎませんか」
 カム・ラは気味悪そうにしている。大剣はあたりにどす黒いオーラを発しているようだ。
「名付けて闇の武器ってところかな。昔の文献を漁ったら、銘もわかるだろう」
「そうですかね……」
「なんだ、不安なのか? ハルトなら扱えるだろ。何せ、クラリスの弟なんだから」
 その発言は、カム・ラからすると無責任なものに思えた。
「ルイスさんは、ハルトと一緒に戦ってたわけじゃないでしょう。なのに、どうして自信満々なんですか」
 錬金術師はいつも頭に被っているなべを、ぺこぺこ叩いた。
「そりゃあ、お前たちと比べたら俺とあいつの関わりは薄いさ。でもな、いろんな奴から話を聞いてると、人柄なんてだいたい分かるだろ。俺の友達はみんなハルトのことを信じている。だったら大丈夫だ。お前も安心しろって」
 不意打ちをくらい、カム・ラの頬が熱くなった。ルイスが親友を思ってくれるのが嬉しい反面、疑問を抱いた自分が恥ずかしかった。
「……はい。そうですよね」
「これから徹夜でレシピを書く。出来たらすぐに渡すよ。こんな名剣、使ってもらわないともったいないもんな」
「はい!」
 のどかな錬金術師の家にも、繁忙期がやってきた。



「タバサ、タバサ」
 誰かが彼女の肩を揺さぶっている。この声は、親友ヒルデガルドだ。
「ん……もう朝?」
「お昼ですよ」
「えっ!?」
 文字通り飛び起きる。昨晩は商人の家に泊まり込み、最果ての地に行くにあたって必要な荷物を、ヒルダと徹夜で協議していた。明け方になってから、ほんの一瞬休もうと机に伏せたつもりだったが……。
 呆然としているタバサの隣で、ヒルダは元気そうに紙束の端を揃えていた。
「ヒルダ、寝てないでしょ」
「ええ。私は慣れてますので」
「そういう問題? また、ユークの秘密とかじゃないの」
 疑問を禁じ得ないタバサであった。ヒルダは謎めいた笑い声を立てる。
「うふふ。お昼ご飯を食べたら、また話し合い再開ですね」
 と食事を運ぶため台所に行ったヒルダであったが、手に封筒を持って帰ってきた。
「タバサ、お手紙ですよ」
「誰からだろう」
 首をひねる。心当たりはなかった。
「読んでみてください」
 心なしか、ヒルダがにやにやしている気配がする。
「あ……ロルフからだ」
 マールキャラバンのリーダーだ。タバサは彼にほんのり好意を持っている。ちょっとだけ胸が躍った。
「何とおっしゃってますか」
「んー、ヴェレンジェ山に行く前に、マール峠に寄って欲しいって。渡したい物があるからって。何だろう。もったいぶらなくてもいいのに」
「なぁんだ。愛の告白ではないのですね」
「は!?」
 盛大に驚いてから、タバサは目をすがめた。
「……あんた、そうやってカム・ラもそそのかしたんでしょ。よっぽどそっちの話が好きなのねえ。自分の方はどうなのよっ」
 軽い復讐である。が、ヒルダは余裕そのものだ。
「私は仕事と結婚するのが夢ですから」
「あーはいはい」
 あながち冗談でもないところが恐ろしい。ゴシップはあくまで娯楽と割り切っているようだ。
 親友のお節介は別として、単純に嬉しかった。眠気がすっかり吹き飛んだ。タバサは胸にそっと手紙を押し抱く。
「タバサは……村に帰ってきた後、どうするんですか」
 ヒルダが尋ねる。珍しく遠慮がちに。
 瘴気の晴れた来たるべき世界で、自分はどうやって生きていくのか。クリスタルキャラバンが必ず取り組むべき課題だった。
 タバサはよどみなく答える。
「私は私にしか出来ないことをしたいの。私を必要としてくれる人がいるなら、その人のそばに行くわ」
 ユークの少女はわずかに肩を落とした。二人は互いに別れを予感していた。
「どんな道を選んでも、あなたはきっと後悔しませんよ」
 それでもヒルダはきっぱり言う。親友たちは笑いあった。



「お前、旅が終わったらどうするんだ?」
 そう兄に尋ねられた時、ユリシーズは庭でぼうっと牛飼いの仕事を眺めていた。忙しい準備の合間、ぽっかり空いた休日を持て余していた時のこと。
 将来に関する質問——昔の彼なら「そんなこと知らない」とつっけんどんに返しただろう。でも今は、素直に答えられる。
「ペネ・ロペと結婚するよ」
「お、おう。そうか」
 四種族が集うティパの村でも、種族を越えた恋愛は珍しい。だからこそリルティとクラヴァットのハーフであるフィオナ姫が話題になるのだ。ユリシーズはその最先端を地で行くつもりだった。
 兄は牛の世話を止めて、あごをなでた。
「俺……なんとなくだけど、ユリスはまたふらふら旅に出るんだって思ってた」
「えっ。ユリス兄ちゃん、旅を続けるの?」言葉の端だけ拾ったらしい妹が、家から出て来て素っ頓狂な声を上げた。ユリシーズは苦笑する。
「違うよ。そりゃあ、前は自由な暮らしに憧れてたさ。でも自由っていうのは、ただ家柄に反発するんじゃなくて、自分の生き方で示すしかないって、気づいたんだ」
 デ・ナム然り、バル・ダット然り、そしてペネ・ロペも然り。彼が憧れたセルキーたちは、皆前を向いて生きていた。ひたすら家から逃げ、キャラバンに入った自分とは違って。
 遠くを見つめて回想するユリシーズに、妹ははしゃいで言った。
「じゃあ兄ちゃん、村に帰ってくるんだね」
「そうだなあ、せっかくだから、この村で食堂でもやろうかな」
「いいなそれ。お前料理うまいもんな。絶対流行るって」
「うちの新鮮なミルク出して、みんなにおいしいって言ってもらおうよ!」
 こんな風にきょうだいで未来について語り合える日が来るなんて、思いもしなかった。それが当たり前になった喜び。この気持ちはたとえ色あせてしまっても……眩しい思い出となっていつまでも胸に残るだろう。
「ユリス、いるー?」
 牛飼いの庭に伸びやかな声が届いた。輝くような金髪を持った愛しい人、ペネ・ロペだ。
「さかながとれすぎちゃったから、おすそわけしに来たの」
 バケツいっぱいに飛び跳ねるさかなを、彼女は笑顔で手渡した。
「ペネ・ロペ……」
 急に愛しさがこみ上げてきて、ユリシーズは彼女に抱きつく。彼のきょうだいは慌てて見て見ぬふりをした。
「え。ど、どうしちゃったのよ〜ユリス」
 困惑しながらも、彼女は腕を背中に回してくれた。
 クラリスに以前指摘されたことがある。本当に恋人に依存しているのはユリシーズの方なのだと。幼い頃、牛の背に乗って一緒に遊んでいた頃から、彼女のことが好きだった。ずっと心の支えだった。
「俺たちの生きる場所は、この村……だよな」
 確認するような声に、ペネ・ロペはびっくりする。
「ユリスがそんなこと言うなんて。一生大陸を遊んで回るんじゃなかったの?」
 ユリシーズは拗ねたようだ。
「いいだろ別に。改めてここが故郷なんだって、意識しただけさ」
「そうだね。あたしたちは、ここで生きていく……」
 キャラバンの旅は、自分を見つめ直し、将来について考えるきっかけにもなる。故郷を飛び出て多くの土地を知った彼らは、自分はどこで生きていくべきか、胸の裡に問いかける。ペネ・ロペの場合、その場所はたまたまユリシーズと同じだったけれど、タバサやハルトはまた別の居場所を探し出すのだろう。
 新たな世界の到来を見据えて、誰もが前に進もうとしていた。



 ティパ村の農家はひっそりとしていた。農閑期でほとんど外に出ることもなく、旅の準備と言っても保存食づくりくらいなものだ。がらんとした畑が、余計にうら寂しさをかき立てている。
 だが一歩家に入ると、そこには柔らかい空気が満ちていた。
 クラリスは体力を温存するため、日中のほとんどをベッドの中で過ごしていた。それは生来の活発さを無理矢理押さえ込むことに他ならない。
 それでも彼女はくじけなかった。まるで亡き父エンジュを彷彿とさせるような明るさで、農家を照らしていた。
「くっそお、今になって父さんの苦労がわかるとは。毎日毎日暇すぎるぞ……。
 そうだ、お前の日記を読ませてくれないか。一生かかっても読みきれないくらい、書きためてるんだろ?」
「……」ベッドのそばにいたハルトは嫌そうな顔をしたが、しぶしぶ一冊差し出した。
 レベナ・テ・ラから帰って以来、二人はとても穏やかだった。流れる血筋を突然思い出したかのように、クラヴァットらしく振舞っていた。
 分厚い日記の一ページ目を開く。けれどもクラリスの目は紙の上を滑った。心は完全に別のところにあった。
 やがて、彼女は口を開く。
「お前は——村に帰ってきた後、どうするんだ?」
 ハルトは黙然と姉の横顔を見た。クラリスの目線は、いつしか遠くへ飛んでいる。
「うちに縛られる必要はないよ。お前の行きたい場所に行けばいいさ」
 彼は漆黒の瞳を閉じて、何かを考えこんでいた。
 いくら読解能力の低いクラリスだって、この日記を読めば分かる。生き生きと描写された思い出たち。関わってきた人々、ありとあらゆる景色……ハルトは見つけてしまったのだ。自分が生きていくべき場所、自分だけの楽園を。
 気づけば彼女は手を伸ばしていた。
 ハルトの頬に触れる。ぎょっとして固まる弟。
「あっ……ごめん」
 クラリスは慌てて腕を引っ込めると、取り繕うように笑った。
「っていうかお前、今日は村長の家で会議があるんだろ。行ってこいよ」
 耳の熱さを無視しながら、日記に目を落とす。
 ややあってハルトの気配が離れ、ぱたんと扉が閉まった。
「はああ……」クラリスは嘆息した。
 もう弟を束縛したくない。今まで苦労をかけた分、自由気ままに生きて欲しい。
 その思いは本物のはずなのに、どうして自分は彼を引き留めたくなるのだろう。
 彼女は入れ替わりでやってきたラケタに、思わずすがりついた。
「わっ。なんだよークラリス」
「……」
 返事出来なかった。彼は黙って髪をなでてくれた。



 ゆらゆら船をこいでいたペネ・ロペは、気配を感じて飛び起きた。
「……なんだあ、ハルトくんか」
 少年の手にはポットと人数分のティーカップがあった。
 キャラバンの会議はいつも、村長の家の一室を借りて行われる。八年も通い続ければ、第二の実家のような安心感があった。
 タバサとユリシーズは用事があって遅れるらしい。ハルトは二番目にやってきたわけだ。
 ペネ・ロペはへらりと笑った。
「今ね、初めてハルトくんと会った時のこと、夢で見てたの」
 彼はかすかに首をかしげながら、ふんわり香りの立つ茶をカップに注いでいく。
「四年前の会議で、一番最初に顔を合わせた時。あの時はこんなに仲良くなれるなんて、思いもしなかった」
 ペネ・ロペはまぶたを閉じて記憶を辿る。四年前も同じように、新人は彼女に続いて二番目に部屋に入って来た。
 ——新リーダー就任が決定していたペネ・ロペは、あの日、緊張しながら地図を精読していた。旅立ちまでに、当面の目的地に関する情報を頭に叩きこむ必要があった。真っ先に挑む予定のリバーベル街道は、もう二度も攻略したダンジョンだ。しかし万が一でも道を間違えたり、仲間を危険にさらしたりしてはならない。彼女は重すぎる責任に押しつぶされそうになっていた。
 ぎい、と音を立てて扉が開いた。ペネ・ロペは弾かれたように顔を上げる。
「あ……ハルトくん?」
 大地色の髪を無造作になびかせ、クラヴァットの少年がやってきた。彼女は立ち上がって片手を差し出す。
「あらためて、よろしく。あたしがペネ・ロペよ」
 にこっと微笑んでみせたが、彼は特に反応もなく、ただ手を握りかえしただけだった。
 沈黙が流れる。
(うわああ……ど、どうしよう)
 間が持たない。クラリスは一体どうやってコミュニケーションをとっているのだろう。
 ハルトは持ってきたティーセットを卓に並べ始めた。
「あたしがやるわ。……別にいいって? そ、そう」
 茶道具を扱う手際はペネ・ロペよりもはるかに洗練されていた。彼女は大人しく椅子に座る。
 カップに淹れたお茶からほわほわ湯気が立ち上る。いい香りだ。
「……」
 漆黒の瞳に促されてごくりと飲み込むと、だんだん気分が落ち着いてくる。
「おいしいわ」
 ハルトはにこりともしない。ペネ・ロペはひたすらお茶を飲んで間を持たせた。
 幸い、すぐに援軍がやってきた。
「すまん遅れた。——おっと、お前がハルトか。よろしくな」
 ユリシーズの到着だ。ペネ・ロペは安堵で椅子からずり落ちそうになる。
 彼はいつもの飄々とした態度で、新しい後輩へ軽く頷いてみせる。次に用意されたお茶へ興味を向け、
「この銘柄、安眠効果があるやつだな」
「えっ」驚くペネ・ロペ。
 ユリシーズはそんな恋人の顔をおかしそうにのぞき込んだ。
「お前、後輩にまで心配されてるぞ? 目の下に隈ができてる」
「嘘ぉ〜!」
 ハルトはほんのわずか目を細めた。頬にも赤みが差したようだ。
(あ、笑った……?)
 その瞬間、彼女は初めて彼に「出会った」のだった。
 ——すっかりリーダーの役職が板についた四年後のペネ・ロペは、ぱちっと目を開けた。
「なつかしい。あの時淹れてくれたのも、このお茶だったよね」
 ハルトは照れ笑いする。彼の僅かな表情の変化に「言葉」が含まれていると気づいたのは、いつのことだったか。
 遅れてユリシーズとタバサが到着し、全員が卓についた。
 ペネ・ロペは落ち着き払っていた。ゆっくりと仲間たちを見回して、
「集まってくれてありがとう。今日はヴェレンジェ山に行くにあたって、細かいことを話し合うために呼んだんだけど——その前に、はっきりさせておきたいことがあるの。
 ねえ、あたしたちの目指すものって、一体なんだろう?」
 三人はきょとんとする。ペネ・ロペの瞳は緑の宝玉のようにぴかぴかしていた。
「これまでは、クリスタルキャラバンとして村に雫を持ち帰るっていう目的があったよね。村の存続のために旅をしていた。それじゃ、あたしたちがヴェレンジェ山に挑むのには、どういう意味があるのかな」
「それは、瘴気を晴らすことでしょ。四種族の二千年来の悲願なのよ」
 というタバサの模範解答に、リーダーはシビアに返す。
「瘴気が晴れて、その先に何があるの? 前にガーディさんも言ってたけど、結果としてまた戦争の時代がやってきたら、意味が無いわ」
「あ、そっか……」
 瘴気を晴らす事が大陸にどれほどの影響を及ぼすのか、智の民ですら予測が立てられないという。そんな世界規模の出来事を、たった四人が背負いきれるわけがなかった。
 それでもキャラバンとして、自分の行いに責任を持つべきだとペネ・ロペは言っていた。リーダーの責務にさえ押しつぶされそうだった彼女が、この丸四年ほどで大きく進歩した。
 仲間と共に一歩、また一歩と進んできたペネ・ロペは、誰にも負けない希望の力を育てた。
「あたしは、せっかくだったら素敵な楽園を目指したいの。みんなで一緒に仲良く暮らせるような世界にしたい」
「たとえばレベナ・テ・ラみたいな?」ユリシーズが訊ねる。
「わかりやすい例だとそうかな。でも、クリスタルキャラバンとして代々命を繋いできたあたしたちは、きっとレベナ・テ・ラとは違う秩序を作り出せる。……それを、みんなで探っていきたいの」
 ハルトは胸がドキドキしていた。今からラモエを倒した後のことを話し合うなんて、気が早いと思われるかも知れない。でも、誰かが必ず考えなくてはならないことだ。為政者たるフィオナだけではなく、大陸に生きる一人一人が、そして他でもないティパキャラバンが向き合うべきことだ。
 今、彼らははっきりと未来に向かって進んでいた。
 ペネ・ロペは確信的な笑みを浮かべる。
「今の世界をぶち壊すからには、新しい世界を見つけなくちゃね。みんな、協力してくれる?」
 答えるまでもない。三人はそれぞれに顔を輝かせた。



 朝焼けがクリスタルを美しく照らした。まだ早い時間なのに、広場には多くの人々が集まっている。キャラバン最後の旅立ちの日がやってきた。
 腰の痛みにも負けず、ローラン夫妻が見送りに来た。今日ばかりは村長の話もごく短い。
「かならず帰って来なさい」「みんな待っていますからね」
 ローランは髭の中で唇を引き結び、マレードは優しげな笑みをこぼした。それは旅立つ四人へ贈る、心からの言葉だった。
 ペネ・ロペが先頭に立ち、ぴしりと背筋を伸ばす。
「ではでは、行ってまいりま——」
 その時だった。群衆の中から人影が飛び出した。
「ハルト!」
 カム・ラとアリシアだ。二人はそれぞれ剣とアクセサリを抱えている。
「これ、俺たちでつくったんだ。使ってくれ」
「本当はもっと早く渡したかったんだけど……今朝までかかっちゃってね」
 二人とも髪の毛はぼさぼさで、目の下には隈を作っていた。それでも表情は爽やかだった。
 ハルトは、受け取った装備のできばえに目を瞠る。黒く輝く大剣はラグナロクという銘を持つのだとカム・ラが言った。三年前にハルトが拾った、古びた剣を鍛え直したものだ。あの時は感じなかった強い力を感じる。
 そして、アリシアが持ってきたのは知恵の護符。これまた三年前にルイスからもらったレシピを用い、作成したものである。装備した者の魔力の流れをスムーズにして、詠唱時間を大幅に短縮する効果がある。
「……!」
 顔をほころばせるハルトに、二人は大きく頷き返した。
 装備面では、誰もが飛躍的な進歩を遂げていた。タバサはダイヤ並の硬度を持つ小手をはめ、ユリシーズは魔法の力を劇的に引き上げるという、禁呪の書を抱えている。
 そして——
「おーい、ペネ・ロペ」
 ペネ・ロペはあり得ない人物の声を聞いた。
「お父さん!?」
 最後の旅立ちとはいえ、キャラバンに無関心で漁ばかりしている父が、まさか見送りに来てくれるなんて。
「これ」
 と、彼は乱暴にあるものを渡した。ペネ・ロペはさらに驚いた。
「シーフエンブレムじゃない! どうしたのよ一体」
 必殺技の威力を底上げしてくれる、セルキーのためにつくられた伝説級のアクセサリだ。目の前にあるだけでも信じられないのに、キャラバン経験も無い父が持っていたとは……。
 視線を受けて、父はぼりぼり頭を掻く。
「昔、キャラバンをやってた友達のエンジュってのが、くれたんだよ。昨日急に思い出して、家中ひっくり返して見つけた」
「エンジュさんって、クラリスのお父さんじゃない……そんな大事なものを」
 様々な感情が入り交じって、胸が詰まった。彼女はただ父を見上げ、
「ありがとう」
 とはにかんだ。父親に見送られて旅立てるのが、とても嬉しかった。
 セルキーの親子がやりとりする横で、ラケタは義理の弟の前に進み出た。
「行って来い、ハルト。クラリスの分もしっかり暴れるんだぞ」
 弟の肩をばしっと叩く。ハルトは決意に満ちた顔で首肯した。
 母ミントも人だかりに混じって息子を見守っていた——が、彼がカム・ラから受け取った剣を見て、背筋が凍った。
(あの剣は……エンジュさんの!?)
 何十年も前に見た覚えがある。亡き夫が腰に下げていた剣と全く同じだった。ある日キャラバンから帰ってきたエンジュが「なくした」と言って笑っていた……。懐かしい記憶が甦る。
 あの剣が巡り巡って、息子の元にたどり着いた。ラケタならきっと「運命だ」と言うだろう。
 ハルトは母の視線に気づくと、にこっと微笑んだ。
「ふふ……」
 ミントの心に張っていた氷が、するする溶けていくようだった。
 父と二言三言交わしたペネ・ロペは、右手でラケットを掲げる。
「それじゃ、もう一度——行ってきます! みんな、絶対に帰ってくるからねっ」
 クリスタルの聖域を抜けて村が見えなくなるまで、四人はずっと手を振りながら歩いた。

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