素敵なひとりぼっち



(一年目)

「ねえ知ってる? 今この村にね、シングルプレイヤーが来てるんだって!」
 朝の井戸端会議にて、メモリははしゃぎながらとっておきの話をした。
 ミントはきょとんとした。
「シングル……なに?」
 メモリは「遅れてるなあ」と言わんばかりに、懇切丁寧に説明する。
「キャラバンの一人旅のことよ。どこの村の人かは聞いてないけど、きっとものすごーく強いのよ」
「ふうん。そんなことしてる人がいるんだ」
「きっとセルキーね。我の民って言うくらいだし、一人でいるのが好きそうだから」
「そうねえ……」
 どこかうわの空の返事だった。メモリはつま先立ちになって、その頬をペチペチ叩く。
「ミーンートー。気になることでもあるの?」
「うん……ちょっと、ペーパーナイフをなくしちゃって」
 メモリは目を丸くした。
「ペーパーナイフ——って、お母さんの形見の!? 大切なものじゃない」
「形見っていうほどじゃないけど。あれがないと、手紙を読む気にも書く気にもならなくて。去年も結局、あの手紙は見つからなかったし……はあ」
 何故、こうも親に関するものばかりポロポロ失ってしまうのだろうか。彼女は自身の不注意をひたすら嘆いていた。
 メモリは心配そうに眉根を寄せる。
「アタシも探してみるわね」
「ありがとう……」
 ミントはしょんぼりした気分でミネを汲み終え、自宅である雑貨屋に舞い戻った。
 この店では、村人が必要とする日用品を売っている。主な商品は手紙の道具だ。封筒に便せん、ペーパーナイフや色とりどりのインク、封蝋、シーリングスタンプなどなど。しかしそれだけではなかなか収益が増えないので、裁縫屋のまねごとで服の修繕をしたり、家庭菜園の野菜を売ったりと、事業の幅だけは広い。
 いつも閑散としている店内だが、今日は極端にお客が少なかった。ミントは暇を持て余し、陳列棚を整理しはじめる。すると、ドアが開く音がして、彼女は首をそちらに向けた。
「いらっしゃいませ——あっ」
 手がインク壺にあたってしまった。重いビンが棚を飛び出し、ミント目がけて降ってくる。しまった、と彼女は反射的にまぶたを閉じた。
 ……衝撃はなかった。彼女の肩に、誰かの手がふわりと置かれている。
「大丈夫?」
 茜色の瞳と、赤茶の髪が目に飛び込んできた。端正な顔立ちのクラヴァットの少年が、心配そうに彼女を見つめていた。
 ミントの心臓がどきんと跳ねる。ここまで異性と近づくのは、初めての経験だった。
「す、すみません」
 謝りながらインク壺を受け取った。改めて、その人を観察してみる。
 ミントよりもいくらか年上だろうか。涼しげな切れ長の目に、黒いヘアバンドで留めた髪。こうやってまじまじと注視されていても、彼はにこにこしていた。とても印象的な笑顔だった。
 彼はふと思い立ったように、腰のポーチに手を差し入れた。
「そうだ。これ」
 取り出したのはなんと、あのペーパーナイフだ。
「あ!」
「ここの人のものだって聞いたんですけど」
 金の縁取りがあるからすぐに分かる。ミントは思わずほっとして、破顔した。彼もますます笑みを深くした。
「これ、大切なものなんです……ありがとう」
 ミントは深々と頭を下げる。
「もしかして、これはキミの名前?」少年はペーパーナイフの柄を指さす。そこにはミントの名前が刻まれていた。
「そうですけど……」
 彼は納得したように頷くと、またぱっと笑顔の花を咲かせた。なんとも朗らかな人だった。
 ミントは興味を惹かれ、積極的に質問した。
「あなた、マール峠の人じゃありませんよね。もしかしてキャラバンですか」
「そうだよ」
「お仲間は?」
「オレ一人だけど」
 即答された。ぱちり、ミントは目を瞬いた。
「……歳はいくつですか?」
「今年で十五かな」
 ミントより三歳年上だ。年の割に、なかなか整った顔立ちだった。
 彼女はふーっと息を吐き、腕組みした。
「……嘘でしょ」
「へ?」
 少年の笑顔が固まる。ミントは畳み掛けるように舌を動かした。
「ぜーったいに、嘘よ。あなたが噂のシングルプレイヤー? そんなはずないわ。十五って、そもそもキャラバンにしても若すぎるもの。どこかに仲間がいるに決まってるわ!」
「え、あの、それは」
 突然目を吊り上げたミントに対し、彼はあわあわしながら弁解した。
「で、でも本当なんだ。うむむ——待って、証明する方法を考えてくる! 明日の朝、また来ますっ」
「あっ、ちょっと!」
 制止の声も聞かず、少年は慌ただしく去っていった。ばたん、勢いよくドアが閉まる。
「……冗談にしてもたちが悪いわよ、もう」
 ミントは肩の力を抜いて、ペーパーナイフを優しく握った。それだけで安心できた。手紙を開封する時は必ず使っている、亡き両親からの大切な贈り物だ。
「あ。名前、聞き忘れちゃったな」
 それでも問題ないだろう。彼は「また明日来る」と言っていたのだから。
 ミントはそうっと胸のあたりを触った。
 何故だろう。少年と交わした言葉の一つ一つが、心の奥深くにしまわれたようだった。



 我慢して店番を一日勤め上げれば、ご褒美の夕飯が待っている。たった一人の肉親である祖母キャロのつくる料理が、ミントは大好きだった。
 布巾を使って食卓を綺麗にしていると、台所からふんわりと今晩のおかずの香りが漂ってきた。
「お待たせしちゃったねえ、ミント」
 キャロがぐつぐつ煮立つなべを持ってきた。今夜はシチューだ。
「わああ……おいしそう!」
 ミントは幸せそうに手をすりあわせた。そんな孫を見て、祖母はしわしわの顔に埋もれた目を細めた。
「おや、今日のミントはなんだか楽しそうだねえ」
 驚いた拍子に、彼女は受け取ったなべをひっくり返しそうになった。
「そ、そうかな?」
 平静を装いつつも、声が上ずっている。キャロは穏やかな笑い声を立てた。
「新しい友だちができたんだねえ」
 友だちと聞いて、思い当たるのはただ一人だ。
「い、いや、友達なんかじゃないわ。今日ね、面白い人と会ったの。その人、自分一人でキャラバンをやってるなんて言い張ってたんだけど——」
 しどろもどろの話を、祖母は楽しげに聞いていた。
「それで明日の朝、また雑貨屋に来るんだって。きっと嘘ついたことを謝りに来るのよっ」
 大きく頭を縦に振って、ミントは断言した。キャロはゆるやかに首をかしげ、
「どうだかねえ。案外、本気なのかもしれないよ」
「ええー? ありえないって」
 彼女は唇を尖らす。キャロは柔らかい笑みを浮かべた。
「ともかく、その若さでキャラバンをやっているなら、余程の理由があるんだろうね」
 余程の理由。彼がそんな面倒なものを抱えているとは、とても思えなかった。にこにこしつつ、さも当たり前のように「自分一人だ」と言っていたのだ。
 その夜、ミントはなかなか寝付けなかった。……本当に明日、彼は来るのだろうか。なんだか胸がもやもやする。単調な日々において、久々に漠然とした不安を覚えた。



 翌朝、ミントの懸念に反して、彼は開店と同時にやってきた。
 ヘアバンドでまとめた赤茶の髪を見て、ミントは思いの外、自分の胸が高鳴っていることに気づいてしまった。
「おはよう。さっそくだけどオレ、これからキノコの森に行ってくることにしたんだ」
 彼は三分の二ほど雫がたまったクリスタルケージを持ち上げた。少なくとも、キャラバンをやっていることは本当らしい。
「あ……そう。分かったわ」
 ミントは歯切れ悪く答えた。彼が身につけたぴかぴかの旅装束が眩しかった。
「このあとすぐに旅立つよ。もう準備は済ませたんだ。あ、心配なら馬車の中も調べてもらって構わないから」
 ここから一番近いダンジョンであるキノコの森までは、他に一つも集落がない。確かにマール峠から一人で旅立ち、一人で帰ってきたならば、それはシングルプレイヤーの証明になるだろう。
 頭ではそう冷静に考えられる。なのに、だんだんと、ミントの心には原因不明の不安と焦燥が募ってきた。
「そ、それでも途中で、仲間と合流するかもしれないじゃない」もはや言いがかりのレベルだ。
「あ……そっか。そこは、オレを信じてもらうしかないんだけど」
 彼は大真面目に受け取って、申し訳なさそうにしていた。
「いいわよ。信じてあげるわよ」
 投げるような発言だったが、彼はぱっと顔を明るくした。
 ミントはどうにもその顔を直視できず、目をそらした。
「どうして……」
「え?」
「あなた、どうしてそこまで必死になれるの? わたし一人に信じてもらうためだけに……」
 プライドを傷つけられてムキになっている風でもない。ただミントを説得するためだけに、何故こんなにも情熱を傾けるのだろうか。
 彼は照れくさそうに頬を掻いた。
「何でだろう。相手がミントさんだからかな。キミにだけは信じて欲しいんだ」
 初めて名前を呼ばれた。ただそれだけで、ミントは日だまりの中にいるようなあたたかさを感じた。
 不意に胸が苦しくなって、彼女はうつむいた。
「……気をつけてね。怪我なんてしないでね。わたしの夢見が悪くなるもの」
「うん。十分気をつけて行ってくる」
 彼のへらへら笑顔とその言葉は、いつまでもミントの心に残った。
 ぱたん。今日は静かに雑貨屋の扉が閉まる。目を上げれば、彼はもうそこにいない。なんだか夢のような時間だった。
 そして、ミントは気づいた。
「名前、また聞き忘れた……」



 少年がマール峠を旅立ってから、あっという間に数日が経った。
「ミント、最近ぼんやりしてばっかりね」
 日課の水汲みの最中、出会ったメモリにそう指摘されてしまった。彼女はにやにやしつつ、
「例の彼のこと、考えてたの?」
「うん……」
 ミントは眉を曇らせた。彼は元気にしているだろうか。自分のわがままのせいで怪我をしてしまったら。どこかの村の大切なキャラバンが、何らかの大打撃を受けてしまったら。どうしようもない考えが頭をぐるぐる回っている。
「そんなに心配なら、手紙でも出せばいいじゃない」
「名前を聞き忘れちゃって……。連絡がとれないのよ」
 ミントはがっくり肩を落とす。キノコの森に行って帰ってくるまで、最短でも半月はかかる、と祖母に聞いた。いつもはあっという間に過ぎる日々が、とんでもなく長く感じられた。
 メモリは目つきを鋭くした。
「ねえ、その人って、ミントの一言でダンジョンに行っちゃったんでしょ? つまり、あんたがそこまで追い詰めたってことよね」
 厳しい言葉だ。メモリは笑顔でこういうことを言う子だった。
「分かってるわよ、わたしに責任があるってことくらい……」
 ミントは両手で顔を覆った。これまでの何の起伏もない生活が、彼と出会ってから一変してしまった。
 どうしてあそこで変な意地を張ったのだろう。適当に気持ちをごまかして、シングルプレイヤーであることを素直に認めていれば良かったのだ。そうしたらごく普通の別れがやってきて、彼とは二度と会わなかっただろう。
 ——でも、ミントは嘘をつきたくなかった。彼が「ミントにだけは信じて欲しい」と言ったように、ミントも彼にだけは心を偽りたくなかった。
「結局、どこのキャラバンかも分からないのかー。もしもその人が帰ってこなかったら……まずいわよねえ?」
 メモリは思いっきりミントを怖がらせて、表情の変化を楽しんでいる。
「もう、やめてよほんとに……」
 ミントは心底げんなりしたように言った。
 彼女はその日から、暇さえあれば雑貨屋を抜けだして聖域の端に行き、彼の去っていった南の方を見るようになった。
 さらに数日後。雑貨屋の店じまいをしてから完全に日が落ちるまで、彼女はそこらに座ってずうっと南を眺めていた。そろそろ夕食の時間だ。あまり遅いとキャロが心配するだろう。——そうと分かっていても、あと少し、あと少しと思って居続けてしまう。
 パパオの特徴的な足音と、がらがらという馬車の音がする。ミントははっとして腰を上げた。
 赤茶の髪と黒のヘアバンド。例の少年が、馬車の隣を歩いている。
 入り口で待っていたミントと目が合うと、彼はにっこり笑い、
「お待たせ。ちょっと時間かかっちゃったかな」
 と言っても十日も経っていない。あまりに早すぎる帰還だった。
「……」
 胸が詰まって声が出ない。いろいろと言いたいことがあるのに、どの順番で喋ればいいのか分からない。
 少年の手には、満タンのクリスタルケージがあった。
「ほら、ミルラの雫。これで……どうかな?」得意げな様子の彼に相反して、ミントの胸には怒りだかなんだかよく分からない、熱いものがこみ上げてきた。
「分かったから。もうそういうの、いいから!」
 ミントが叫ぶと、彼はびっくりしたように肩を跳ね上げた。
「一人でキャラバンやってるんでしょ。よーく分かったわよ……」
 シングルプレイヤーの噂も、彼自身の名乗りも、全て真実だったのだ。
 ふと、疑問がわいた。彼は寂しくないのだろうか。死んだ両親に手紙を書き続けるミントと比べて、彼はずいぶん強く、また大きく見えた。それは一種、憧れにも似た感情だった。
 ミントはまっすぐに彼を見つめた。
「認めるから、あなたの名前を教えて」
「あ……そっか」
 彼は両足をぴしりと揃えると、片手を胸に当てた。キャラバン流の挨拶らしい。
「オレ、ティパ村のエンジュ。改めてよろしくね、ミントさん」
 エンジュはにっこり笑った。
 ティパの村。ここから南に行って、瘴気ストリームを一つ越えた先にある、ティパ半島の端っこの村——ミントは脳内から地図を呼び出す。ティパの村、ティパの村。
 これで、やっと手紙を書けるようになったわけだ。
 ミントは片手を差し出した。
「こちらこそよろしく。これからも、うちの雑貨屋をご贔屓に!」
 二人は握手を交わした。



(二年目)

『エンジュさんへ——ミントより』
 突然のお手紙失礼します。覚えていますか、マール峠の雑貨屋のミントです。
 そろそろティパの村でも水かけ祭りを終えられた時期でしょうか。あなたなら、きっと何があっても、期限に間に合うように村に帰れると信じています。
 それはさておき——この間は、本当に失礼なことをしました。あなたのことを疑って、無理やりダンジョンに行かせてしまうなんて。祖母や友人にも散々怒られました。せっかくペーパーナイフ(あれ、母の形見だったんですよ)を届けていただいたのに……反省しています。
 また来年、マール峠を訪れた際は精一杯サービスしますので、ぜひ雑貨屋に寄っていってください。
 それでは。



 手紙の返事が来ない。
 ミントは雑貨屋のカウンターに座りながら、ひたすら郵便モーグリを待ち続けていた。
 ……それなりに緊張して、目一杯丁寧に書いた手紙だったのに。マール峠でもとっくの昔に水かけ祭りが終わり、すでに次の年のキャラバンが旅立っている時期だ。しかし、ちっとも返事が来ない。来る気配すらない。
 不意に、扉が開いた。
「いらっしゃいま——」
 声がひっくり返った。やってきたのは、笑いをかみ殺しているメモリだ。
「まーたエンジュさんを待ってたの?」
 ミントはうなだれた。去年のあの騒動以来、メモリが度々からかいに来るのだ。こうなればもう、開き直るしかない。
「そうよ。悪い? 今度会ったら思いっきり文句を言ってやるんだから!」
 去年エンジュに迷惑をかけたことなど、完全に棚に上げた発言である。メモリはにやりとして、
「手紙の返事、まだ来てないんだってね。もしかして、ミントのことを忘れちゃったんじゃないの」
 どきりとした。相手はキャラバンだ。マール峠から一歩も出たことのないミントとは違い、知り合いだってたくさんいるはずだ。村に帰れば、可愛い幼馴染もいるかもしれない……
「って、何でわたしがそんなこと気にしてるのよ!」
 思わず大声を上げてしまった。メモリがぎょっとしている。
 なんとも居心地の悪い空気が漂った瞬間、ばあん! とドアが開いた。二人は同時にびくりと肩を震わせる。
 そこに、待ち人がいた。予期し得ぬタイミングだった。
 エンジュは急いで来たようで、息を切らしていた。
「こんにちは!」
 元気な声が響く。彼はなんだか去年より背が伸びたようだ。
「……こんにちは、じゃないわよ」
 ミントは低い声で言う。不安と怒りがせめぎあい、結局あふれてきたのは怒りだった。エンジュはきょとんとしている。
「え、えーと」
「手紙! なんで返事してくれないのよっ」
 エンジュは「あ」という風に口を開けた。
「ごっごめん! その……あんまりにも嬉しくてさ。ミントさんの手紙は大事にしまいこんで、何度も読み返してた。だから、返事するのを忘れてたんだ」
 なんだそれは。どういう理由だ。
 だが「嬉しい」と率直に告げられて、ミントは顔がにやけるのを感じた。
 そこで、置いて行かれた形になっていたメモリが、ずいっと彼の前に出た。
「あなたがエンジュさんね。アタシはメモリ=ノード。ミントの友だちで、この店の持ち主です」
 エンジュは反射的に足を揃え、胸に片手を当てるあのポーズをとった。
「ど、どうも。エンジュです。この店の持ち主って、どういう……?」
「メモリは地主の子なの」
 マール峠といえば、製鉄業で財をなしたリルティのカトゥリゲス一族が興した地として有名だ。メモリはその子孫だった。親戚を辿ればアルフィタリアの王族もいるという、正真正銘のお嬢様である。将来的には、マール峠の商業を束ねる調整役へ就任することになるだろう。
 メモリは悪戯っぽく片目をつむった。
「大丈夫、家賃を支払ってくれる限りは、ミントもここに置いてあげるわよ」
「あはは……」ミントは乾いた笑いを漏らした。
 と、賑やかな店内に誘われるように、奥の扉が開いた。
「あらあら、あなたがエンジュさんですか」
 しわがれた声はキャロのものだ。クラヴァットの老女は穏やかに笑った。
「おばあちゃん!」
 ミントが目を丸くする。祖母が店に顔を出すのは久々だった。
 エンジュは進み出て、再び例の敬礼をした。
「あっはい、オレはエンジュって言います。ミントさんには……えーと、お世話になってます」
 メモリは楽しそうにそのやりとりを見物している。
「それはそれは。お話は聞いてますよ。私はキャロと申します。ミントはねえ、あなたに会えるのをずっと、楽しみにしていたんですよ」
 ミントは頬がぼっと燃え上がるのを感じた。
「わーっ、違う! 違うって!」
「うふふ。遠慮しなくてもいいのに」
 祖母と孫の気兼ねない会話を、エンジュは瞬きしながら聞いていた。
 キャロは黒い瞳を優しく細める。
「エンジュさん。今日の晩御飯、うちで食べていきませんか。ミントが丹精込めてつくりますので」
「えっ」「いいんですか!」
 エンジュは目に見えて喜んだが、ミントにとっては青天の霹靂だった。焦りを隠し切れず、キャロに詰め寄る。
「お、おばあちゃん、ちょっと」
「いいじゃないミント。料理するの得意でしょ」
 メモリに横槍を入れられたが、そういう問題ではないのだ。
 キャロとエンジュの話は続く。
「エンジュさんは何か食べられないものはありますか」「オレ、野菜が苦手で——」
「もう、勝手に話を進めないでよっ!」
 ミントが声を張り上げた。エンジュは叱られた子供のようにしゅんとして、
「……だめかな?」
 と尋ねた。ミントはうっと言葉に詰まる。
「だめじゃ、ないけど」
 思わず目を背けた。あのきらきらした瞳に見つめられると、何も悪いことをしていないのに罪悪感がわいてくる。
「ありがとう!」エンジュははにかんだ。その笑顔を確認して、ミントはほっと息をついた。
 メモリはそれを興味深そうに見守りつつ、
「エンジュさん、ついでにその袖がほつれてるの、ミントに直してもらったら? この子裁縫も得意なのよ」
 指摘された通り、よく見るとエンジュの旅装束は去年と比べて明らかに古びていた。
「え、そんな。悪いよ」
 彼は遠慮して首を振るが、
「……やればいいんでしょ、やれば。あとで服貸してよ」
 こうなればあとは野となれ山となれ、だ。ミントはあきらめ気味に返事した。
 キャロが微笑み、手招きする。
「それじゃ、上がってください」
「え……へへ、楽しみだなあ」
 エンジュは満面に笑みを浮かべ、キャロとともにそのまま奥の母屋へと引っ込んだ。
 メモリは親友を肘で小突く。
「良かったわねーミント。気になる人とお近づきになれるわよ」
「〜っ。もおーっ!」
 ミントは顔を真っ赤にして地団駄を踏んだ。



 エンジュがじいっとこちらの手元を見ている。ミントは頬が熱くなるのを感じながら、表面上は平然として縫い物を続けていた。
「すごいね、ミントさん。あんなにボロボロだった服が、あっという間に直ってく……」
 すうっと彼の顔が寄ってきた。近い近い。ミントはますますうつむいて、手元に集中した。袖口のほつれを直すついでに、ボタンも付け直す。
「こんなの朝飯前よ。今は晩御飯の前だけど。おうちでも、やってもらえるでしょ?」
 尋ねると、何故かエンジュは眉を曇らせた。
「あ……うん」
「おうちの職業は何?」
「えーとえーと、農家かな」
 何故そこで詰まる。ミントは不審感を覚えた。あまり訊いてはいけない話題なのかもしれない。
「……まあ、わたしでよければ、いつでも直してあげるわよ」
「本当に!?」
 エンジュは身を乗り出した。ぐっと顔が近づいて、ミントは体をのけぞらせる。
「いやあ、オレってばすぐに装備をボロボロにしちゃうからさ。すごく助かるよ。今度、絶対にお礼するね!」
 調子のいい人、と心の中で思ったが、悪い気分ではなかった。のちのち、うんざりするほど彼の服を繕うことになるなんて、この時のミントは知る由もなかった。
 台所からキャロの声がする。
「ミントー、そろそろ夕飯の準備をしないと」
「はあい!」
 ミントは繕い終えた服をエンジュに渡すと、台所へと駆けていった。
「……ありがとう」
 エンジュはそれを胸に抱いて、頬をほころばせた。
 ミントと入れ替わりで、居間にキャロがやってきた。彼は慌てて立ち上がり、頭を下げた。
「あ、あの、本当にありがとうございます。いろいろ気を使ってもらって」
 キャロはにっこりする。
「いいのですよ。あなたのおかげで、ミントが元気になったのですから」
「オレのおかげで……?」
 台所で夕飯の支度を始めたミントのもとにも、エンジュの驚いた声が届いた。耳を澄まそうにも、水音にかき消されてしまう。一体何を話しているのだろう。たまに漏れ聞こえる会話に気をとられながら、ミントはなんとか夕食を作り終えた。
 つくった料理を慎重にお盆の上に配置し、居間に運ぶ。
「出来たわよ。時間なかったし、そのへんにあった食材しか使ってないからね!」
 まんまるコーンのスープ、ほしがたにんじんとひょうたんいもの甘辛い煮物——などなどが食卓に並んだ。なかなかおいしそうにできた、とミントは自画自賛した。
 さて、反応はどうだろう。エンジュの顔色を伺ってみる。
「うう、野菜が——これでもかってくらい入ってる」
 エンジュは子供のようなことを言ってしょんぼりした。全く、農家の出身だというのにどうして野菜嫌いになるのか。ミントはため息をつきたい気持ちを我慢しながら、
「いいから食べてみなさい」
 まるでお母さんになった気分である。
「……いただきます」
 彼は神妙な顔でさじを手に取った。
 果たして。スープを一口含んだ瞬間、彼は目を丸くした。
「うまい!」
 ミントは得意げに鼻から息を吐く。
「これ、お母さんのレシピなのよ。わたしも好き嫌いが多かったから、こういう料理をたくさん作ってくれたの」
 エンジュはひっきりなしにさじを運びながら、
「ミントさん、ご両親は……」
「流行り病で死んじゃった。だいぶ前に」
 できるだけあっさり告げたつもりだったが、エンジュの表情は不透明になった。いつも浮かべている笑みがなくなって、その先に底なし沼のような深い何かが見えた気がした。ミントの胸はざわめいた。
「そっか……」
 エンジュは呟いた。どう反応すればいいのか分からない、という雰囲気である。ミントは不用意に重い話を持ち出したことを後悔した。
「もちろん、二人がいなくて寂しいけどね。わたしにはおばあちゃんも友だちもいてくれる。わたしはひとりなんかじゃないわ」
 彼女はあえて笑い飛ばした。エンジュの目が大きく見開かれる。
「ひとりじゃ、ない……?」
「そうよ。ああもう、そんな暗い話題はいいから! ほらほら、おかわりもあるわよ」
 エンジュははっとしたように空っぽの皿を見て、「ありがとう」と頬を赤らめた。
 彼は育ち盛りの男の子らしく、いい食べっぷりを披露した。キャロはどこまでも柔らかなまなざしで二人を眺めていた。
「エンジュさんは、一人でキャラバンをやっているのでしょう。大変ではないのですか?」
 というキャロの質問に、彼は首をかしげる。
「いやあ、どうでしょうね。気楽でいいですよ。一人でいる分、聖域を広く使えるわけですし」
 それからはエンジュの旅の話で盛り上がった。キノコの森に行った後、しばらくはキノコを見ると満腹感に襲われるようになったこと。瘴気に包まれた世界の、予想もしなかった広さと豊かさ。初めて見たミルラの木は、この世のものとは思えないほど美しかったこと——
 彼は一人で旅をしていても、ちっとも寂しくなさそうだ。まるでキャラバンの生活とは縁のないミントでさえ、旅の空へと心が誘われた。話を聞いているだけで、エンジュと一緒に旅をしているような気分になった。
「ねえ、またお話ししてよ。もっともっと、たくさん聞きたいわ!」
 ミントはいつしか目を輝かせていた。
「もちろん。これがお礼になるなら、いつでも」
 二人は夜が更けるまで笑い合っていた。



 明くる日の朝。いつも通りの井戸端会議にて。
「ねえねえ。ミントってば、昨日はエンジュさんと一緒に夕飯食べたんでしょ」
 メモリはにこにこしながらミントに詰め寄った。
「そのあとは? 一緒にお泊り?」
 かあっとミントの顔に血が集まる。
「そんなわけないでしょ! あの人はちゃんとミッドさんの宿に帰ったわよ」
「なあんだ」
 つまんないの、と言いかねないメモリであった。もはや、ミントをからかうことに全力を挙げている。
 肝心のエンジュは今朝早くに峠を発った。ミントも当然、見送りに行った。
「今頃は街道にいるのかしら」
 ミントは青い空を振り仰ぎ、去りゆく彼の後ろ姿を思い出した。
「あの人……ずうっと一人でキャラバンをやるつもりなのかな。仲間はいないのかな。村の人はどうしてるんだろう」
 わたしはひとりじゃない——ミントがそう言った時の、びっくりしたような表情が頭に浮かんだ。
 彼女の独白を聞きつけて、メモリは思案顔になった。
「そうね。あの人は一人きりでも大丈夫なくらい、よっぽど強いのか……もしくは」
 言葉を切った。ミントは顔を上げる。
「一人でも大丈夫だって言い張ってるか、ね」



(三年目)

『ミントさんへ——エンジュより』
 こんにちは。初めてお手紙書きます。なんか、緊張しちゃうな! インク滲んでないよね?
 この前は服を直してくれてありがとう。それと晩御飯、ごちそうさまでした。すっごくうまかったよ! 野菜は嫌いだったんだけど、ミントさんがつくったらあんなにおいしくなるんだな。知らなかった。オレでもスープくらいならつくれるかなあ。次の機会にやってみよう。
 今年も雫集めの旅は順調です。次はコナル・クルハ湿原に行こうと思ってます。ミルラの木までの道のりはすごく長いらしいけど、初めて行く場所だからちょっと楽しみ。
 また手紙、書くよ。今度は返事も忘れない。もちろんマール峠にも、絶対に寄るからね!



 マール峠は大陸の玄関口だ。北にはアルフィタリア盆地、西にはジェゴン川、そして南にはティパ半島。おまけに武器防具の鍛冶屋まで揃うとなれば、旅人たちは相当な頻度でここに訪れる。
 今年も様々なキャラバンがマール峠を通り過ぎていった。でも、ミントが雑貨屋のカウンターに座って待っているのは、ただ一人だけ。
 やっと届いたエンジュの手紙を、ミントはあのペーパーナイフで大事に大事にそうっと開けた。今までこのナイフでいくつもの封筒を切り開いてきたが、今回は特別緊張してしまった。
 エンジュと出会う前は、こうして手紙の封を切ることが、世界とつながる唯一の手段だった気がする。ペーパーナイフは母の形見であり、ミントに果報をもたらしてくれる、大切なものだ。
 彼の返事は何度も何度も読み返した。今や彼女ははっきりと、エンジュの帰りを心待ちにしていた。
 メモリには、「相手が来るのを待ちぼうけてるだけじゃない」と指摘されてしまったが……仕方ないのだ。何故なら彼女は、自由に瘴気の中を歩けるクリスタルを持っていないのだから。キャラバンと村人の立場は、あまりにも違う。
 からん、と音がした。涼やかな音を立てるベルをドアに取り付けたのだ。ささやかなことで、エンジュを驚かせてみたかった。
 ミントは目を丸くした。
「い……いらっしゃいませ」
 そこに、とびきり美人のセルキーがいた。
 ガラス玉のような翡翠の瞳、蜂蜜色の長い髪の毛。顔の造作は作り物めいていて、対峙する者に緊張感すら与える。
「お前がミントか」
 低い声から、やっと男性だとわかった。ミントは「えっ」と口を開く。何故自分のことを知っているのだろう。
「そ、そうです。何かご用でしょうか」
「用……そうだな」
 彼は薄ら笑った。バカにしているような表情なのに、ぞくりとするほど美しい。
「これ以上、エンジュに近づくな」
 目の前がぱちんと弾けた気がした。エンジュ? どうして彼の名前が出るのだ。ミントは固まりかけた思考を無理やり動かした。
「それは、どういう意味ですか」
 セルキーは冷たい瞳で彼女を見下ろした。
「言葉通りだ。もう関わるな」
 一歩、二歩と近づいてくる。ミントは完全に雰囲気に飲まれていた。
 高いところにあった綺麗な顔が、目と鼻の先まで近づいた。
「——!」
 頭が真っ白になった、その時。
「ジ・ルヴェ!」
 怒ったような声が雑貨屋を貫いた。
 ドアの前にエンジュがいた。目を吊り上げ、全身から怒気を発している。ミントはやっと呪縛から開放されて、息をついた。
 彼は見たことがないほど乱暴な足取りで、二人の間に割り込んだ。
「お前なー! 誰彼構わずナンパするのやめろよっ」
「な、ナンパ?」
 エンジュは苦々しい顔で、ジ・ルヴェと呼ばれたセルキーを指さす。
「こいつ、うちの村の……その、友だちみたいな奴なんだ。信じられないくらいの女たらしでさ。ミントさん、変なことされなかった?」
 ジ・ルヴェはあちらを向いて素知らぬ顔だ。
(変なことは言われたけど)
 ミントはじろりとその横顔を睨みつける。
「ふうん……ジ・ルヴェさんは、エンジュさんの仲間なのね?」
 エンジュは慌てて首を振った。
「違う違う。なんか勝手についてきたんだ。気づいたら馬車に潜り込んでて」
「いつぞやのお前と同じ事をしただけだ」
「!」エンジュは酢でも飲んだような顔になる。ミントには理解できないやりとりだ。
 とりあえず、エンジュの前で先ほどの台詞——「これ以上あいつに関わるな」——について問い詰めることは、不可能だろう。
 エンジュはジ・ルヴェの首根っこを掴むと、ドアの方へとって返した。ジ・ルヴェの方が背が高いにも関わらず、彼は軽々とやってのけた。
「ごめん、また出直すよ。こいつにもよおく言い聞かせておくから!」
「あ、あの……」
 何か言い忘れていた気がする。ミントはカウンターから身を乗り出した。
「そう、手紙! 返事ありがとう。とっても嬉しかったわ」
 エンジュは振り返り、にこっと笑った。



 夜になった。大きな月が出ているため、外は明るい。ミントはミッドの宿屋に言付けを頼むと、いつもの井戸端に座って、人を待っていた。
 そこに、宿から呼び出した人物がやってきた。月明かりにプラチナブロンドが浮かび上がり、宝石のように輝いている。
「何の用だ」
 ジ・ルヴェは静かに質問した。
「昼間の言葉の意味について、教えてください」
 立ち上がり、ミントは機先を制した。柳眉を跳ね上げるジ・ルヴェ。
「……エンジュはお前とは違う。これ以上関わることは、あいつのためにも、お前のためにもならない」
 ミントの表情が凍り付く。これでは反論のしようがない。彼の台詞の端々から伝わるのは、ただ深い拒絶だった。
「第一、いちいちマール峠に寄ることがキャラバンにどれだけ負担をかけているのか、お前は分かっているのか」
 今度は意外にも正論だった。エンジュはわざわざマール峠を通るように経路を組み立てているらしい、と手紙からうすうす察してはいた。確かにいくら便利な立地とはいえ、迷惑をかけているのは事実だ。
「それに、昼間ああ言った理由は、もう一つある」
 ジ・ルヴェの唇が妖しく弧を描く。
「俺は、お前が気に喰わない」
 ミントの心に黒いもやもやが立ち上った。
「何よそれ……」
 ほぼ初対面の人に、ここまで嫌われる道理があるだろうか。じろりと睨みつけても、ジ・ルヴェの氷のような表情からは何も読み取れなかった。
「もうあいつのことは気にしない方がいい」
 忠告は以上だ、と言わんばかりにジ・ルヴェはきびすを返した。
 後にはミント一人が取り残された。



 その次の日。エンジュは申し訳無さそうに頭を掻きながら、雑貨屋にやってきた。
「昨日は本当にごめん。あいつが勝手に行動してさ。前に、ちょっとだけミントさんのことを話してたんだ。だからここに来たのかな……」
 ぶつぶつとジ・ルヴェについて愚痴っている。仲間ではないと言い張るが、どう考えても仲が良さそうだった。
「別にいいわよ、もう」
 ミントは肩をすくめた。ちらりと昨日の忠告が脳裏をよぎったが、あえて無視した。
 だって仕方ないじゃない。エンジュさんの方からやってくるんだもの——と自分に言い訳しながら。
 二人はそれから、長々とおしゃべりをした。会えなかった時間を埋めるように、それぞれの故郷やキャラバンの旅について、たくさんの話を。
「火山の洞窟の奥深くに眠る、巨大クリスタルが守る幻の都だろ。それに大洋の果てにある、ミルラの泉が湧き出る楽園の島! いつか行ってみたいなあ」
「それはさすがにつくり話でしょ」
「いやいや、本当かもしれないぞー?」
 去年一緒に夕食をとった時にも感じたが、エンジュは案外話上手だった。いつも一人で旅をしているからか、話題のストックも豊富だ。
 その日は他に客も訪れず、二人は思う存分話し込んだ。
 会話が一段落して、お茶でも淹れようとミントが立ち上がった時、久々に雑貨屋の扉が開いた。
 ジ・ルヴェだった。エンジュは露骨に嫌そうな顔をする。
「げっ、何で来たんだよ」
「何でって……今何時だと思ってるんだ」
 窓の外を確認する。すっかり夕焼けが出ていた。
「あ。しまった」エンジュは慌てて腰を上げる。
「ごめんねミントさん。オレたち、もう行かないと」
 今日中に発つ予定だったらしい。ミントは笑顔で応じると、ずかずかとジ・ルヴェに近寄った。
 軽くつま先立ちになり、耳元に向かって囁く。
「……わたし、諦めないから」
 ジ・ルヴェは眉をひそめた。どうやら、自分は押してはならないスイッチを押してしまったらしい——と、彼は今さら気づいたようだ。
 エンジュは二人の不穏なやりとりにも気づかず、明るく手を振った。
「じゃ、行ってきま〜す!」
 ミントも一緒に店の外に出て、ティパキャラバンを見送った。どんどん遠ざかる背中を眺めながら、ぎゅっとこぶしを握る。
「絶対に、あの人の心を掴んでみせるわ」
 二年も経って、やっと自分の心を自覚したミントだった。

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