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(四年目)
『ミントさんへ——エンジュより』
去年は、うちのジ・ルヴェが迷惑をかけました……。本当なら、去年だって当然オレ一人で旅立つ予定だったんだ。でも、気がついたらあいつが馬車に隠れててさ。ティパの村はとっくに離れてたし、「帰ったら時間のロスになるだろ」って言われて、仕方なく連れてきたんだよ。
で。あいつ、何しに来たかと思えば、各地の美女をつかまえるためだって! 去年行った全部の村で、種族関係なしに女の子とあれば見境なく声をかけてた。悔しいけど、ちょっとすごいと思ったよ……。ミントさんは変なことされなかった? 大丈夫だよね?
でも、戦いの方はてんでダメでさあ。そもそもダンジョンに行こうとすると「村で待つ」とか言い張って。せっかくついてきたなら、ちょっとでも役に立つべきだろ! だから強引に連れて行ったけど、あいつ全くやる気がなくて、オレの足を引っ張ってばっかりだった。協力なんて夢のまた夢だよ。ちゃっかり素材や宝物だけ自分のものにしてさー。それでいて、自己防衛だけちゃんとしてるのがむかついた。
あ。すっかり愚痴になっちゃったな。ごめん。
まあ……そんなわけで、オレの方は元気にやってます。ちゃんと馬車も確認したし、今度こそ一人で旅立ってきた。
今年もまた、できるだけマール峠に寄るからね。
*
エンジュはリバーベル街道に来ていた。
ティパ半島を南北に貫く、いわゆる旧街道だ。昔からたびたび魔物の目撃証言があったらしいが、それでも人々は比較的最近までこの街道を利用していた。のどかな景色の広がるベル川のほとりを歩くのは、なかなかに心和む体験だったのだ。
しかし——二十年ほど前、ティダの村が滅亡した。その時の反省から、アルフィタリアは全ての街道の安全性を見直し、リバーベル街道の廃止を決定したのだ。人々は新たに整備された現在の街道を通るようになった。するとどういうわけか、ベル川の上流にミルラの木が生え、その道中にわらわらと魔物が集まり、その一帯はダンジョンと化した。
というわけで、クリスタルキャラバンのエンジュはわざわざ新街道から逸れて、こちらにやってきた。
今日は晴天だった。魔物さえいなければ、ピクニックすら楽しめるような陽気だ。
襲ってきたゴブリンを難なく片付けた時、視界の端を何かが通り過ぎた気がして、エンジュは目をこすった。見間違いではなかった。ベル川の上を横切るように、白いものがふよふよ浮かんでいた。
「う、ん?」
エンジュは首をかしげる。見間違いでなければ、あれはモーグリではないか。ダンジョンに巣を作っていると聞いたことはあったが、こんなところで見るのは初めてだった。
モーグリはそのままミルラの木の方角へ向かう。
「あ、ちょっと!」
あちらには滝があり、ここの魔物を取り仕切るボス・ジャイアントクラブが棲みついている。うかつに突っ込んだら危険だ。
行く手を遮るグリフォンたちを適当にいなしながら、エンジュは慌てて後を追った。モーグリはずんずん滝の方へ進んでいく。
「おーい、そこのモーグリ!」
川の流れによってできた天然のトンネルをくぐったところで、やっと追いついた。モーグリが振り向く。
「クポ?」
「ここは危な——」
大きな水音とともに、滝からしぶきが上がった。エンジュはモーグリを引っ掴むと、力ずくで下がらせた。
「クポ〜ッ!」
巨大なハサミを持ったカニの化物、ジャイアントクラブの登場だ。
「少しの間、我慢しててくれよ」
彼は問答無用でモーグリを荷物に放り込み、ケージと一緒に地面に置いて、剣を構えた。
ジャイアントクラブのハサミが、ぐん、と伸びた。キャラバンの首を狩るために。エンジュは大きく飛び退き、あらかじめ詠唱していたファイアを浴びせた。
炎は硬い殻の上をちろりと舐めただけだ。彼は舌打ちすると、果敢にハサミの下に潜り込んで、ジャイアントクラブの関節を狙う。
「クポーっ!」
この声は……荷物からモーグリが出てきてしまったらしい。ジャイアントクラブが至近距離から吹いた泡を、エンジュはのけぞってかわした。じりじりと後退し、盾を構えてモーグリをかばう。
「危ないからダメだってば!」
「ボクだって役に立てるクポっ」
言うが否や、モーグリの体毛が赤く輝いた。魔力のきらめきを感じる光だ。はっとして、エンジュは再びファイアの詠唱を始めた。
二つの炎が重なり合い、瞬間的に火炎を生み出した。
「マジックパイル!?」
ファイラだった。今度はしっかり、ボスの肉が焼け焦げるにおいがする。
「どんなもんだクポ」モーグリは得意げだった。
炎に怯んだジャイアントクラブはハサミを取り落とすと、滝の中に逃げ帰った。
その姿をほとんど確認せず、エンジュはぼんやりと自分の手のひらに視線を落としていた。
「……どうしたクポ?」
「いやあ。マジックパイル、使うの初めてだったから」
「クポ!?」
エンジュがへらりと笑うと、モーグリは驚いたようだ。
「お兄さんはキャラバン? 今までどうやって旅してきたクポ……」
エンジュはひらひら手を振ってごまかした。
「まあまあそれは置いといて。モーグリくんこそ、どうしてこんな場所に?」
モーグリはうつむいた。
「みんな、ボクがちっちゃいから郵便配達は無理だ、って言うクポ。だからダンジョンの奥まで一人で行って、ミルラの木を見て……みんなに認められたかったクポ」
なるほど、目の前のモーグリは体が小さい。まだ半人前だということだろう。モーグリの世界にもいろいろあるようだ。
エンジュは思案するように人差し指を唇にあてた。
「ふうん……じゃあ、オレと来る?」
モーグリは可愛い顔できょとんとした。
「キャラバンと一緒にいれば、郵便モーグリの仕事をたくさん見られるだろ。色んな場所を旅することもできる。きっと、みんなに認められるんじゃないかな」
「クポー……」
モーグリはしばらく考え込んでいた。
「ボク、行くクポ!」
エンジュはぱっと笑顔になった。
「そっか! ねえ、キミの名前は?」
「ないクポ。だって、ボクはボクだもん」
個体にいちいち名前をつけないと言うことか。モーグリには、エンジュたち四種族とは別のルールがあるらしい。
エンジュは腕組みをした。
「じゃあ……モグ。モーグリだから、モグ。これでどうかな」
単純すぎるネーミングだったが、モグは喜んで頷いた。
「気に入ったクポー! ボク、子供たちにも代々モグって名前をつけるクポ!」
「そ、それはどうかなあ……」
あまりの喜びように、エンジュは苦笑いした。
こうして、エンジュとモグの二人旅が始まった。
*
ティパ半島を北上し、瘴気ストリームを一つ抜けて。二人はマール峠にやってきた。
「エンジュ、ここに何の用クポ?」
「えっとね、会いたい人がいるんだけど……」
まず井戸を見て目的の人物がいないことを確認すると、彼は立ち並ぶ店々のうちの一軒を目指した。
今にもスキップしそうだった足が、入り口の前で止まった。扉に張り紙がしてある。
「本日休業……? そ、そんなあ」
エンジュは目に見えてがっかりしていた。今日はマール峠で宿を取らず、そのまま通り抜ける予定だったのだ。
雑貨屋の後ろにある母屋の様子を伺うが、ひっそりとして人気がない。
「エンジュさん」
と、後ろからアルトボイスが聞こえてきた。エンジュはぎょっとして振り向く。
「あ、えっと、メモリさん。だよね」
トレードマークの大きな帽子をかぶったリルティは、メモリ=ノードだ。彼女はきょろりと目を動かし、
「ミントに会いに来たんでしょ。今日だけは、そっとしてあげて」
「何かあるの……?」「クポー?」
と頭を傾けるモーグリに気がつき、メモリは目を丸くした。
「あらモーグリじゃない。こんなところで珍しい」
「オレの新しい仲間だよ。で、ミントさんはどうしたの」
焦りながら尋ねる。メモリは少しだけ唇の端を持ち上げると、静かに告げた。
「——ミントのご両親の、命日なのよ」
エンジュの顔から表情が失われた。
「そっか。そうだよね……家族のこと、だもんな。
オレ、出直してくるよ」
エンジュはさっときびすを返し、大股でどんどん遠ざかる。「あ、待ってクポー!」モグは急いで追いかけた。
「ミントに言っておきましょうか?」メモリは彼の背中に向かって声をかけた。
「いいよ、別に。帰りにまた寄るから!」
その背はどこか、他人の干渉を拒絶していた。
*
エンジュとモグは、揃ってシェラの里を訪れた。ユークたちが暮らす静かな集落だ。湖の上に張り出すように土地があって、建物が立ち並んでいる。異郷の者にとってはかなり珍しい光景だ。
二人がここに立ち寄ったのは、世界中から学徒や研究者が集まる、学び舎に用事があるためだった。
「エンジュは前にも来たことあるクポ?」
「二年前に、一度。その時知り合いができたんだ」
彼はずんずん学び舎の中を突き進むと、とある一室のドアを叩いた。
「入るぞー」
まるで躊躇なく部屋に踏み込む。
「エンジュじゃないか」
雑然とした室内で書類を読んでいたユークが、突然の訪問者にいささか驚きながら応対した。
「リュクレール!」
エンジュは満面に笑みを浮かべて駆け寄った。リュクレールも文献を放りだし、両手を広げて歓迎の意を示した。
「久しぶりだな。なんだ、モーグリを連れているのか」
「この人が知り合いクポー?」
リュクレールの方が幾つか年上のようだが、二人はごく親しい友人のように見えた。エンジュなど、一緒に肩でも組みかねない勢いだ。
「うん。前にここに来た時、魔法についていろいろ教えてもらったんだ。その後も手紙でお世話になってる」
「魔法のことが知りたいというのに、話の途中でエンジュは居眠りしていたよな」
「うぐっ……」
エンジュは大げさに頭を抱える。とにもかくにも、仲はいいようだ。
リュクレールはごちゃごちゃした棚からティーセットを取り出して、お茶を淹れてくれた。
「手紙を読んだよ。私に訊きたいことがあるんだろう」
「あ、そうそう。マジックパイルって、どうやって使うの」
リュクレールはすすっていたお茶をこぼしかけた。
「お前、キャラバンじゃなかったのか!」
合体魔法なんて基本中の基本だ。エンジュは両手の人差し指を突き合わせ、もごもご弁解した。
「魔法はシングルでしか使ったことないんだって。リバーベル街道でファイラした時はモグが合わせてくれたんだけど……マジックパイルがあれば、グラビデも出来るんだよな」
「グラビデとホーリーなしで、今までどうやって戦ってきたんだ!?」
「そりゃあ……切ってきた。剣で」
エンジュはしれっと言う。それどころか「なんで驚いてるの?」と思っている節すらある。リュクレールは呆れて声もなかった。
すがるような視線を受け、彼はあることに思い当たった。
「マジックパイルはタイミングの問題だ。その呼吸は実戦で覚えるしかないだろう。だが——実は、一人でマジックパイルを使う方法がある」
「えっ」
エンジュは目を見開き、身を乗り出した。「本当に!? 教えてくれよそれっ」
リュクレールは焦らすように深呼吸してから、言った。
「魔石の合成だ」
二つ以上の魔石を、ある特別な術式で合成する。そうすれば、マジックパイルと同じ効果を引き出すことができる。彼はそう語った。
「いいことずくめじゃないか」口笛を吹くエンジュ。だがリュクレールは首を振った。
「ただし、詠唱に時間が掛かる。慣れるまでは実戦には向かないだろう。そもそも、魔石の合成自体に暇が掛かるしな」
「そっか……」
しゅんとするエンジュを見て、リュクレールはぽんぽんと机を叩いた。
「ここで練習していけばいいだろう」
「い、いいのか?」
「クズ魔石ならたくさんあるからな。大聖堂に宿をとって、毎日ここに通え。旅の方は余裕なんだろう」
「えっ、まあ、そうだけど……」
エンジュは口ごもる。すでに雫は三分の二まで溜まっていた。そう、旅程としては全く問題ないのだ。だが——
「どうしたんだ?」
「エンジュは、マール峠に寄ってから帰りたいと思ってるクポ」
モグが告げ口した。エンジュは下を向いて顔を赤くしている。おやおやこれは。
「このあとデーモンズ・コートに行ってから、帰りにマール峠に寄りたいなって思ってたんだけど。む、無理だよな」
リュクレールは腕組みをする。
「まあ、無理だろうな。ジェゴン川西岸からティパの港に直行したほうが早い」
「そうだよね……」
どことなく暗い顔になるエンジュに、リュクレールはかなり興味をそそられた。
「マール峠に用があるのか。鍛冶屋にでも寄りたいのか?」
「違うクポ。エンジュは女の子に会いたがってるクポ〜」
「わっばか、モグ!」
慌ててもふもふの口をふさいだが、もう遅い。リュクレールは楽しそうに腕組みをした。
「ほおお〜、お前も色気づいてきたんだなあエンジュ。今夜は語り合おうじゃないか」
「いいから、魔石合成の練習をさせてくれーっ!」
静謐な学び舎に、似つかわしくない叫びが響いた。
*
『ミントさんへ——エンジュより』
ごめんなさい、今年はマール峠に行けないことになっちゃった。
今、ちょっとシェラの里で修行中なんだ。その後デーモンズ・コートの雫を取らなくちゃいけなくて、時間の余裕がないんだよ。……正直、かなり残念だ。
そういえば、オレのキャラバンに仲間が増えたんだ。モーグリのモグだよ。一人前の郵便配達員として認めてもらうために、しばらくオレと一緒に旅をすることになったの。
結構かわいい奴だよ! 次会った時は、よろしくね。
それじゃ、また来年。
*
「エンジュさん、今年は来ないんだって……」
ミントは朝の井戸端会議で、メモリに向かって愚痴っていた。その両手は、つまらなそうにペーパーナイフをもてあそんでいる。
「せっかく告白しようって決意したのにねえ」
メモリはにこにこながら頬杖をついた。
もはやミント自身、彼への気持ちをはっきりと認めていた。今ではすっかり開き直って、こうしてしばしば友人に相談を持ちかけている。
「キャラバンの旅の都合だから、仕方ないとは分かってるんだけど……」
寂しそうな彼女を見て、メモリは数ヶ月前に出会ったエンジュのことを思い出した。あの時不意に彼が見せた、底なしの無表情も——
結局、両親の命日にエンジュが雑貨屋を訪れたことは、まだ彼女に教えていなかった。
親友の内心を推し量るすべもなく、ミントは紙束を取り出した。
「そうそう。今ね、キャラバンについていろいろ勉強してるの」
毎年ほんの数日しか会えない分、エンジュのことを少しでも多く知りたくなったのだ。そうすれば、彼と思いを共有できる気がしたから。
手紙にあった、デーモンズ・コートという場所についても調べた。ジェゴン川の向こうにあり、ベテランキャラバンが挑んでも返り討ちに合うような、難易度の高い場所だという。それでもエンジュは無事に帰ってくるだろうと、ミントは信じきっていた。
今はモーグリと二人で旅をしているらしい。正直言って、モーグリが羨ましい。もはやあの愛くるしい動物にすら嫉妬してしまいそうだ。彼の世界はどんどん広がっていくのに、自分の方は——
ミントは眉を曇らせた。
「エンジュさんは、村やキャラバンの方が大事なのかな……」
当たり前だ、キャラバンは村の命を優先させるべきなのだ。しかし、彼はミントに頻繁に手紙を送ってくれる。毎年毎年、用がなくても峠に立ち寄ってくれる。
乙女の悩める姿を見物しながら、メモリは意地悪く笑った。
「そうねえ。村にいい人がいたりするのかもね」
「ちょっと、メモリ!」
軽く叱ってみせると、メモリは目をくりくりさせた。可愛い顔で毒を吐く、友人の得意技だ。
「そんな奴がいたとしても、ミントは勝ちたいでしょ?」
「……勝ち負けとかじゃないけど、まあ、そんなところね」
エンジュのそばにいると安らぎを感じるから。相手もきっと、それなりに好意を抱いてくれている……はずだから。
「そのためには、あの人のことをもっと知らなくちゃいけない。あの人が何を目指しているのか。どうして一人で旅をしているのか——」
ミントは瞳の奥に茶色の炎を燃やす。
「やっぱり、問い詰めるならあいつしかいないわね」
脳裏には、去年散々翻弄してくれたセルキーの男が映っていた。
(五年目)
『ジ・ルヴェさんへ——ミントより』
お久しぶりです。お元気にしていますか。エンジュさんに迷惑をかけたりしていませんか。
一昨年は、とーってもお世話になりましたね。わたし、あなたのかけてくださったお言葉は、一生忘れません。
つきましては、エンジュさんについてお尋ねしたいことがありますので、マール峠までご足労願えますか。ご迷惑かもしれませんが、是非ともよろしくお願いします。
では、あなたに再び会える日を、心から楽しみにしています。
*
ティパキャラバンの馬車が、ゆっくりとマール峠に近づいていく。村の影が大きくなるにつれて、御者台に座ったエンジュはだんだん不機嫌になっていった。
「お前さあ——本当にミントさんに呼ばれたの?」
頬を膨らませて荷台を振り返る。カーテンの向こうからジ・ルヴェが顔を出した。
「見せただろ、手紙」
自他共に認める美人セルキーは、紙切れをちらつかせる。エンジュは茜色の瞳でじろりと睨みつけた。
「何だその顔。一体何が不満なんだ」
「……ミントさん、オレ宛ての手紙より丁寧な言葉を使ってた!」
ジ・ルヴェはため息をついた。あの言葉の裏に気づかないこいつは幸せ者だ、と。
「それに、オレについて訊きたいことがあるって。そんなのいくらでも直接教えるのに!」
「とにかく、呼ばれたのは俺だからな」
少しだけ自慢げに喋りつつ、あのおっとりしたクラヴァットの娘の中に、底知れぬものを感じるセルキーであった。
「なんだか、馬車が賑やかクポ〜」
と今年も旅についてきたモグは、パパオに向かって話しかけていた。
やがて、馬車はマール峠の聖域にたどり着いた。パパオを宿に預けると、二人とモグは雑貨屋に直行する。こうやってマール峠に通うのも五年目になったエンジュにとっては、もはや慣れた道のりだった。
すいすい村をゆく二人の背中に、渋い声がかけられた。
「そこのお嬢さん」
二人はそのまま行きそうになる。
「お待ちなさい、お嬢さん」
エンジュは仕方なく足を止め、振り向いた。豊かなひげを生やしたクラヴァットの男性が、朗らかな笑みを浮かべていた。
ジ・ルヴェは囁く。
「エンジュ、呼ばれてるぞ」「お前のことだろ!?」
悔しいことに、このセルキーは容姿だけは抜群にいいのだ。
ジ・ルヴェは長いプラチナブロンドをたっぷり揺らし、少し目を細めた。それだけで凄まじい色気が漂う。エンジュは嫌そうな顔をしていたが。
「……何か?」
ジ・ルヴェは冷たく返事するが、男性はどこか嬉しそうだ。
「お嬢さん、お茶でも一緒にどうですか」
「お茶? くれるならもっと高級なものがいいな。例えば宝石とか……」
平然と言い放つ彼にエンジュは肘鉄をかまし、
「すみません、こいつ男なんですよ」と苦笑いした。
「なんと! これほど美しいのに……それはそれは」
男性は残念そうだったが、それでもなお興味津々という様子でセルキーを見つめる。ジ・ルヴェは涼しい顔だ。
とにかくミントのもとに行きたい、会話をとっとと切り上げたいとエンジュがやきもきしてきた頃、
「ちょっと、セシル!」
横合いからクラヴァットの女性がやって来た。目を吊り上げている。
「あなたったら、まーた誰彼構わず声をかけて!」
「すまんすまん。謝るよ」
がみがみ説教され、セシルと呼ばれた男性は低頭している。雰囲気からして夫婦のようだ。
とばっちりを受けないようにさり気なく数歩後ずさったエンジュは、
「あの人、奥さんがいるのにナンパなんてしてるのか……」呆れ顔だった。
「俺は美人だからな、仕方ないだろう。それに、恋人がいても誰かに声を掛けたくなる気持ちはよくわかる」
「はいはい」「クポー」
エンジュは適当に受け流し、モグもそれに習った。
セシルから解放された彼らは、やっと目的地であるミントの雑貨屋を訪れることができた。ドアを開けると、からんからんと涼しげな音が鳴る。
「あ、いらっしゃい!」
いつもどおり、カウンターの向こうにミントがいた。彼女はにっこりして二人と一匹を出迎えた。特にものすごい笑顔をジ・ルヴェに向ける。
「久しぶり、エンジュさん……と、ジ・ルヴェ」
呼び捨てにされた男は柳眉をひそめた。エンジュは束の間流れた不穏な空気に気づかず、
「二年ぶりになっちゃったね。会えて嬉しいよ」
喜びを隠し切れない様子だった。そしてくすくす笑いながらジ・ルヴェを指差す。
「さっき、そこでセシルさんって人に会ってさ。こいつ、女と間違われて声をかけられたんだ」
ミントはすぐにぴんときた。
「ふふ。セシルさんも困った人よね、奥さんがいるのに……。この前、うちのおばあちゃんにまで声をかけたのよ!」
「へええ、キャロさんに。確かにミントさんによく似た美人さんだもんな」
何気ないエンジュの発言に、ミントは頬を燃やした。「へっ……?」
ジ・ルヴェはその反応を面白そうに観察していた。ミントは慌てて話題を変えた。
「あっ。その子がモグくんかしら?」
エンジュの頭にひっつくようにして、白いもふもふが見えていた。どうやら恥ずかしがり屋らしい。
「よ……よろしく、クポ」
「どうしたんだよモグ。女の子相手だから緊張してるのかな?
こいつのボンボン、触ってやってよ。そうすると喜ぶんだ」
エンジュに促され、ミントはおそるおそる頭の赤い球体をなでた。いつか直接触れてみたいとは思っていたが、夢のような毛並みだった。
「クポ……」モグは満足げだった。
そこで、彼女はティパキャラバンの面々を順繰りに見る。エンジュ、モグ、そしてジ・ルヴェ。
「なんだかあなたのキャラバンも、賑やかになったわね」
ミントがそう指摘すると、エンジュは困ったように頭を掻いた。
「こんな予定じゃなかったんだけどな……」
なんとなく含むところがある言い方である。ミントはここぞとばかりに質問した。
「ねえ。どうしてエンジュさんは、一人で旅をしているの」
エンジュは虚をつかれたように表情を凍らせた。ジ・ルヴェも翡翠の目を細め、彼の反応を伺っているらしい。
「なんでかなあ。……オレ、変な奴だから」
返事はただ、それだけだった。エンジュの顔にあるのは空っぽの笑み。ジ・ルヴェは黙って目を伏せた。
なんだか妙な雰囲気だった。ミントは首をかしげた。
「そうかしら。確かにキャラバンは一人でやってるけど、あなたはよく笑って、おしゃべり上手で、野菜が嫌いな——ごく普通の人よ。そう、わたしと同じくらい」
その台詞を聞いて、エンジュはびっくりしたように目を見開き——次に破顔した。氷を溶かすような笑みだった。
良かった……ミントの胸は喜びで弾んだ。ジ・ルヴェとモグは無言で顔を見合わせていた。
「あらあら、お店が賑やかだと思えば。お久しぶりですね、エンジュさん」
奥の扉から祖母が出てきた。
「キャロさん!」
エンジュは顔を明るくして駆け寄った。
「どうぞ、上がっていってください」
モグと一緒に嬉々として店の奥に入るエンジュ。キャロのことが相当気に入っているらしい。
置いて行かれたジ・ルヴェも後に従おうとしたが、ミントがその前に立ちふさがった。
「ちょっと待って」
「……ああ、俺に訊きたいことがあるんだったか」
ジ・ルヴェは威圧的な瞳で見下ろした。ミントは負けじと睨み返す。
「エンジュさんって、彼女いるの?」
意外な質問に、ジ・ルヴェはらしくもなく狼狽えたようだ。
「何故俺がそんなことを——」
「いいから答えてよ」
ジ・ルヴェは盛大にため息をつく。
「俺の知る限りでは、いないな。だいたい、あいつが恋愛感情なんて持ってるのかすら、疑わしい」
女たらしの友人が出した正直な評価には、かなりの信憑性があった。
「やっぱりねえ……どうも、考えてることが読めないと思ったわ」
ミントが難しい顔で腕組みすると、彼は呆れたように眉根を寄せた。
「俺に聞きたいことって、それかよ」
「これは質問の一つ目よ。ここからが本題ね。——あの人、どうして一人で旅をしてるの」
先ほど本人にぶつけたばかりの質問だった。ジ・ルヴェの目が鋭くなる。
「……あいつがそれを望んでるからだ」
ミントは彼に強い視線を送った。
「それで、一人で旅に行かせるの? そんなのおかしいわ」
「お前には分からないさ」
「いつか分かってみせるわよ」
静かに闘志を燃やすミント。ジ・ルヴェはかすかに顔をしかめて、呟く。
「いいから関わるな。これ以上、エンジュの心をかき乱すなよ……」
まるで懇願するような声だった。
*
『エンジュさんへ——ミントより』
この前は、久々に会えて嬉しかったわ。おばあちゃんもすごく喜んでた。モグくんはわたしのお気に入りよ。二年ぶりだったけど、あなたが楽しそうで何より。ジ・ルヴェにもよろしくね。
そうだ、なんとなく気になってたんだけど、この際もう一度言っておくわね。あなたは変な人なんかじゃないわ。どこからどう見ても、普通の人なんだから!
だから普通に旅に出て、普通に帰ってきてね。
*
エンジュとジ・ルヴェ、それにモグはライナリー砂漠を攻略するため、ルダの村にやってきた。
盗賊の末裔たるセルキーたちが住まう村だ。無防備に歩いていたら、何をされるか分かったものではない。当然エンジュは目一杯警戒していたが、ジ・ルヴェは余裕たっぷりにだらだら歩いた挙句、一人の女性にぶつかってしまった。
「……今、スッたろ」
ジ・ルヴェは彼女に鋭い目線をぶつけた。
「そんなことしてないわよ」
当然、女性には首を振られる。ジ・ルヴェは唇の端を釣り上げた。
「しらばっくれるなよ」
ぐっと二人の距離が縮まった。なんとも強引な手口——そこまでして女性を口説きたいのか!? 気づいたエンジュが慌てて割り込もうとしたところ、
「何やってるんだい!」
鋭い声が飛んできた。「クポ!」モグが驚き、思わずエンジュの背筋が伸びる。
彼はおそるおそる首を巡らせた。声の主は、水色の髪を持ったセルキーの女性だった。
「ル・ティパさんっ」
スリの疑いをかけられた彼女は、救われたような顔でジ・ルヴェから離れた。ル・ティパは眉間にしわを寄せて、よく通る声で彼を糾弾する。
「あんたたち、よくもうちの村人を疑ってくれたね。財布の中身を確かめな」
エンジュが「オレも入ってるのか」とびっくりしている脇で、ジ・ルヴェは渋々財布を取り出す。
「……すみませんでした。そちらの女性とお近づきになりたくて、つい」
やはり、言いがかりだったのだ。ル・ティパは鼻で笑う。
「こんなお粗末な手段でナンパかい。二十年早いんだよ」
なんとも気っ風のいい女性だった。言葉の端々から漂う我の民らしさに感心していたエンジュだが、何故かジ・ルヴェと一緒に頭を下げさせられた。
「なんでオレまで……!」
「いいから黙って謝れよ」
「さ、災難クポ」
ル・ティパたちが立ち去ってからも、二人と一匹は、なんとなく黙って砂漠の風に吹かれていた。
「あっはは、怒られてやんの〜」
からかいの声が背中に当たった。この口調に、エンジュは心当たりがあった。
「ヴィ・レじゃないか」
深緑のウェーブした髪が、なかなかに印象的な女性だった。彼女は当代のルダキャラバンの一員だ。街道でも何度か会ったことがあり、歳が近いのでそれなりに親しくしている。
ヴィ・レはにへらと笑った。
「さっきの人は、うちのおかしら、ル・ティパさんよ。どう、かっこいいでしょ」
「うん。まさにセルキーの中のセルキー! って感じだった」
エンジュはキラキラした目で何度も頷く。そこでヴィ・レは蜜色の髪を持つ青年に視線を移した。
「で、怒られてた彼は、仲間なの?」
「ジ・ルヴェだよ。仲間っていうか……一応、今年は一緒に旅してるだけ」
相変わらずエンジュはジ・ルヴェをぞんざいに扱う。当人は特に文句を言うでもなく、翡翠の目をヴィ・レからそらした。
「……よろしく」
気まずいのだろうか。彼にしては珍しい反応だ。エンジュはにやにやしていた。
ヴィ・レは面白そうにジ・ルヴェの前方へ移動した。それに合わせて彼はまたもや視線を外したが、さらに回り込まれた。
「な、なんだよ」
「ふうん、ジ・ルヴェね。こちらこそよろしく。あなたはああやって、あちこちで女の子に声かけてるわけ?」
「……」
「そうなんだよー。全く困ったもんでさ」
代わりにエンジュが答えると、
「それって、魅力的な女の子がいないからでしょ?」
ヴィ・レがウインクしながら言った。何故かその言葉を聞いた途端、ジ・ルヴェの脳裏にミントの姿がよぎる。彼は急いでそのイメージを振り払った。
「あ、図星ね。だから誰彼構わずナンパしちゃうのよ。きっとまだ、特別な一人を見つけられていないんだわ」
一方的に決めつけて、ヴィ・レは目を細めた。鋭い指摘だと思い、エンジュは「なるほど」と頷いていた。ジ・ルヴェがどうして女性に声をかけるのか——なんて、考えたこともなかったのだ。
そこで、ヴィ・レはジ・ルヴェの鼻先に優美な指を突きつける。
「ワタシとか、どう?」
「へ」
「ほら、魅力的な女の子でしょ」
彼女は胸を強調するようなポーズをとる。ジ・ルヴェは面倒くさそうに「知らん」と返事した。
「考えておいてよ。ね?」
最後にもう一度ウインクして、ヴィ・レは颯爽と去っていった。
エンジュは肘で隣の青年を小突く。
「へえー、ジ・ルヴェにも天敵っているんだな」
「面白い発見だクポ」
「……」
彼は答えず、肩をすくめていた。
*
ライナリー島のほとんどを占めるのは砂漠であり、その一番奥にはミルラの木がある。二人と一匹は馬車を降りて、いよいよダンジョンであるライナリー砂漠に足を踏み入れた。
「さーて、今日もさくっと攻略するぞー」
「クポー!」
エンジュの号令に、モグもよいしょとケージを持ち上げて応じる。
軽く準備体操をするエンジュの横で、ジ・ルヴェはラケットの点検をしていた。
彼は美しい顔立ちにかすかな憂いを浮かべている。一見真面目に考え事をしているようだが、
(今回はどうやってエンジュの足を引っ張ってやろうかな……)と、実はろくでもないことを考えていた。
果たして、その後のダンジョン攻略まで、ろくでもない結果となった。
まず先鋒とばかりに出てきたラミアとスコーピオンを、エンジュ・モグコンビが魔法剣ブリザドで蹴散らす。スコーピオンの持つ毒攻撃に関しては土属性のクリスタルケージで相殺しているため、問題はない。
「よし、なかなかいい調子だな——って、おい!」
エンジュはあらぬ方向に進もうとしているジ・ルヴェを見つけてしまった。
「こっちの方から、お宝のにおいがする」
こういう嗅覚だけは異様に発達している彼だった。エンジュはイライラを募らせる。
「そっちはミルラの木がある方向じゃないの!」
「知ってる」
という返事と反対にジ・ルヴェはモグをむんずとつかみ、無理やり自分の行きたい方へと進路を変えた。
「く、クポ〜!」
モグの持ったクリスタルケージがなければ、エンジュは瘴気の只中に放り出されてしまう。
「……くそっ」
エンジュは砂を蹴った。後ろから殴りかかって、相手を蟻地獄に落としてやろうかとも考えた。だがケージは今もかなりの速度で移動しており、全力で走らねば追いつけそうにない。
(何考えてんだよ、あいつ!)
ジ・ルヴェの足跡をたどって進むうちに、目の前がかすんできた。これは——砂嵐だ。
瞬く間に視界が黄色に支配された。前を行く憎たらしい背中すら見えなくなる。
「……やばい」
顔面蒼白になったエンジュは、必死に歩を進めた。踏み出すたびに足が埋まり、だんだん体が重くなる。
危うくその場に膝をつきかけた時、横合いから腕を掴まれ、ぐいっとどこかへ引きこまれた。
洞窟だった。奥の方まで行って、エンジュは深呼吸し、服についた砂を払い落とした。
「ここはモーグリの巣だな」
ジ・ルヴェは何食わぬ顔で座っていた。先ほどエンジュの手を引いたのも、彼だろう。
「主は留守にしてるらしい。まあ、くつろいでいっても文句は言われないだろ」
「ここのご主人が心配クポ。砂嵐に巻き込まれてなければいいクポ……」モグは不安そうにしている。
エンジュは水筒のミネを飲んで、人心地ついた。
「……ここに洞窟があるって、知ってたのか?」
「いや。ただ、砂嵐の気配がしたから、近場に避難しただけだ」ジ・ルヴェはそっぽを向いた。そうだ、彼は初めて砂漠に来たのだから、知っているわけがない。
でも……とエンジュは考える。ジ・ルヴェはル・ティパに叱られた後も、何人か女性をつかまえていた。もしも彼女たちから砂漠に関する情報を得ていたら——そして、セルキーだけが持つ直感によって砂嵐の到来を予期し、ここに逃げ込んだとしたら。エンジュは、彼の端正な横顔をじいっと睨みつけた。
しばらく沈黙が流れた。
ジ・ルヴェは不意に、身じろぎした。
「ミントのことなんだが」
エンジュはびくっと肩を揺らした。「な、なんだよ突然」
「お前はあいつのこと、どう思ってるんだ?」
翡翠の瞳はごく真剣だった。誤魔化せないと思ったエンジュは、立てた膝に顔を埋める。
「た……大切な人だと、思ってるよ」
耳まで赤く染めていた。
なんだこの反応は、うぶにも程があるだろう……ジ・ルヴェは鼻から息を吐いた。
「その様子じゃ、まだ手は出してないのか。もったいない」
「またすぐそういう方向に走る……。
だって、オレにもよく分からないんだよ。どうしたらいいのか——どうしたら喜んでくれるのか、本当にオレと一緒にいたら、ミントさんは幸せになれるのか」
ジ・ルヴェは胡乱な目つきになった。一瞬だけ、その瞳がひどく鋭い光を放つ。
「そんなこと言ってると、俺が先に奪うぞ」
「……は?」
ジ・ルヴェはそれ以上の追及を避けるように立ち上がった。
「そろそろ砂嵐もおさまったな。行くぞ」
「あ、おい!」
ラケットだけを持ち、彼は洞窟の外に出る。ケージは持ってこい、ということらしい。
エンジュは大きくため息をついて、「モグ、行こうか」と促した。
*
長い長い砂漠を踏破し、ティパキャラバンの三名はボスのアントリオンと対峙していた。
大きなアゴバサミを持った魔物だ。エンジュたちなど一飲みにできそうなほど、巨大な体躯を誇っている。
「オレの邪魔だけはするなよ!」
エンジュが叫び、剣を持って走った。
「分かってるさ」ジ・ルヴェは低く返事し、ラケットを構える。
さすがにボス戦ともなれば、それなりに協力するつもりらしい。モグはほっとしながらケージを運んだ。
近づいてきたスコーピオンを、エンジュが真っ二つにした。どこでも手に入るような剣だが、彼が扱えば名剣と化すようだ。
その間に、ジ・ルヴェはラケット片手に少し集中した。魔物が固まっている箇所を見定め、ダブルショットを放つ。スコーピオンに痛打を浴びせ、ついでにアントリオンにも先制攻撃を加える。意外にも彼は、精緻な攻撃を得意としていた。
「——っ!」
ジ・ルヴェは真横に気配を感じ、身をひねった。いつの間に肉薄されていたのだろう、エレキスコーピオン——電気を纏ったスコーピオンの亜種がいた。しっぽの攻撃をよけきれず、腹部が痛みで熱くなる。同時に全身にしびれが走った。ジ・ルヴェはがくりと膝をついた。
動けぬ彼に、アントリオンが迫る。
「ジ・ルヴェ!」
叫んだエンジュが、アントリオンに背を向けて走ってきた。
(ばか、何でこっちを気にしてるんだ……!?)
しびれて唇が動かない。エンジュはアントリオンよりも先にジ・ルヴェの前に滑り込むと、思いっきり剣の鞘を払った。ジ・ルヴェは砂に打ち倒された。目の前いっぱいに黄色が広がる。
エンジュは——!?
必死に首を持ち上げた。砂にまみれた赤茶の髪が見えた。ほっとしたのもつかの間、彼のすぐそばで、砂の中からアントリオンの足が突き出た。「ぐっ」エンジュは大きく胸のあたりを引き裂かれ、砂地に転がる。
「エンジュ!」モグが叫んだ。
ようやく痺れから復帰したジ・ルヴェが立ち上がった。素早くラケットを拾いながら。
胸元を赤く染め、ぐったりしているエンジュを見やる。残念ながら、ケアルをかけている暇もなさそうだ。「モグ、そいつを任せた」と指示する。
「クポー……」モグは心配そうにその場にとどまった。
ジ・ルヴェは駆け出した。
アントリオンの懐に潜り込み、間髪入れずに放たれた電撃を回避する。ジ・ルヴェは素早い身のこなしでひらりひらりと攻撃をかわし、わずかな隙を見つけてはラケットを振るった。しかし、決定打には欠けていた。
どうにか一人きりでアントリオンを倒さなければならない。いつもエンジュに任せていたしわ寄せが、ここで来たわけだ。
「……」
ジ・ルヴェはアントリオンを睨みつけると、大きく深呼吸した。すると——ラケットが突然、炎の輝きを得た。
「!?」
「オレの合図に合わせてくれ。魔法剣だ!」
エンジュが魔石を構えながら言った。片手で押さえた胸元は、血に濡れていた。
「行くぞっ」
「ファイア剣!」二人の合体攻撃がアントリオンの顔面にぶち当たった。ぐおお、と奇声をあげて化物は退散する。ぎりぎりの勝利だった。
すぐさまジ・ルヴェはエンジュに駆け寄り、ケアルを施す。
「……はあ」エンジュはゆるく息を吐くと、体の力を抜いた。そのまま意識を失ったらしい。
ジ・ルヴェは仕方なく彼を背負って、ミルラの木へと歩いて行った。
無事に雫を受け取った後、ジ・ルヴェはエンジュを地面に横たえ、その薄汚れた旅装束をぼうっと観察していた。叩き起こす気にはなれなかった。
そういえば、彼はたびたびミントに服を直してもらっているのだという。依頼する方も受ける方も何を考えているのだ、とジ・ルヴェは問いたかった。
「う……ん?」
ぱちり。エンジュのまぶたが開く。「あ……お前が、助けてくれたんだ」
彼は非常に不服そうに「ありがとう」と感謝の意を述べた。
ジ・ルヴェはその言葉を聞いたか聞かぬか、翡翠の目をそっと伏せた。
「俺、もう旅にはついていかない」
「え?」エンジュは茜色の目を見開く。
「お前のお楽しみの邪魔をしても悪いからな」
ジ・ルヴェはぽつりぽつりと、水面に雫を垂らすようにしゃべる。全く彼らしくない雰囲気だ。エンジュは気味悪そうにしかめっ面になった。
「な、なんだよ突然。ま、オレとしてはそっちの方がありがたいけど。お前の面倒を見なくても良くなるし!」
「そうだな……」
ジ・ルヴェは素直に頷いた。エンジュは仰天し、モグに囁く。
「も、モグ、あいつどうしたの? 頭ぶつけたとか?」
「クポ……」
モグは気遣わしげにジ・ルヴェを見つめた。
「……」
彼は無言で蜜色の髪をなびかせ、ミルラの木を眺めていた。
やがて心の中で何かを決めたのか、唐突に振り向く。
「エンジュ」
とジ・ルヴェは呼びかけた。いつになく真面目な様子で。
「何?」
「お前は俺のこと、仲間とは思ってないんだよな。だったら俺は、一体何なんだ」
エンジュは「うっ」と詰まり、顔を背けた。
「……友だちだよ」
意外すぎる言葉だった。ジ・ルヴェはぱちぱち瞬きする。その反応を見て、
「くそ、言うんじゃなかった……!」エンジュは頭を抱えていた。
その彼から見えないところで、ジ・ルヴェはこっそり自嘲の笑みを浮かべる。
——そうか。友だちだから、あの時俺を助けたのか。友だちだからこそ、俺はエンジュの隣にいられないのか。
(六年目 エンジュ)
『エンジュさんへ——ミントより』
お元気ですか。雫集めの旅は順調ですか。わたしの方は……ちょっとね、おばあちゃんの調子が良くないの。ここ数ヶ月、足が痛いって言ってたんだけど、最近は完全に寝こむようになっちゃって……。
もう、雑貨屋を続けられないのかな。いくらメモリが助けてくれるって言っても、わたし一人でお店をやっていけるわけがないし……。マール峠でエンジュさんを待つことだって、できなくなるかもしれない。
わたし、どうなるんだろう。
ごめんなさい。こんなことエンジュさんに相談したって仕方ないよね。なんだか心細くなっちゃって、つい。
また……また、会いに来てね。
*
エンジュは嫌な気配を感じて、パパオを止めた。
まっすぐ伸びた田舎道に素早く目線を走らせる。のどかな緑が広がり、一見すると平和そのものだが、間違いない。
馬車の振動が止まったことに気づいて、モグが荷台から顔を出した。
「どうしたクポ?」
「モグ、パパオと馬車を任せた」
「えっ」
「魔物がいる」
エンジュは剣とケージを持って馬車から飛び出した。すでに三つのダンジョンを回り終え、あとはマール峠に寄ってティパの村に帰るだけ——という時期だった。
「オレが引きつけるから、おとなしくしといて!」
土の上に降り立つと、ぞろぞろとグリフォンやゴブリンチーフなど、大型の魔物が姿を現した。彼は取り囲まれた形になる。
「かかってこいよ」
唇の端がかすかに持ち上がり、エンジュの瞳が剣呑な光を放つ。
ゴブリンの投石をくぐり抜け、グリフォンの羽の一振りをかわし。エンジュの剣は、危険そのものの軌跡を描いた。あとには次々と魔物の亡骸が生産され、それもやがて消えていった。
敵の五割を片付けたところで、エンジュは気付いた。道からずいぶん逸れた場所に来てしまっている。戦闘に夢中になっていて、全く気づかなかった。
「やばっ」
馬車に帰れなくなったらまずい。慌てて元の道に戻ろうとするが、当然魔物に行く手を遮られる。エンジュは舌打ちしながら相手をした。
結果として、魔物を殲滅できたものの、彼は完全に道を見失っていた。おまけに体にたまった疲労も相当なものだ。大怪我はないけれど、数え切れないほど傷を負っていた。その上ケアルの魔石も持っていない。
(しまった)
その場にへたり込みそうになった。なんとか力を振り絞り、近くの木の幹に背中を預ける。もう、指一本すら動かせない。
馬車とモグは無事だろうか。なんとか逃げ延びて、集落や他のキャラバンに助けを求めていればいいのだが。
まぶたが重い。徐々に視界が暗くなる。唐突に、ある人物の顔が脳裏に蘇った。
(……ミントさん)
手紙によれば、キャロの調子が悪いらしい。二人揃って、元気にしていればいいのだが。「また会いに来てね」という結びの言葉の、いかにも頼りない文体が気になっていた。
ぷつり、暗闇の帳が下りて、エンジュの意識は途絶えた。
*
目が覚めた。体にまとわりつくふわふわした感覚に、エンジュはびっくりした。
——ベッドで眠ったのは久しぶりだった。いつもは魔物の襲撃に対応できるよう剣をそばに置いて、座って寝ていたのだ。あまりに無防備な自分の姿にぞくりとする。
すぐに枕元を確認した。良かった、ケージは無事だ。たっぷり満タンになっている。
エンジュはほっと胸を撫で下ろし、改めてまわりを観察した。
何の変哲もない部屋の中だった。ただし窓は閉まっており、外の様子はうかがい知れない。彼はどうやら誰かに助けられ、ここに連れて来られたようだが——
「目が覚めた?」
出し抜けに高い声がした。
「うわ」
エンジュは軽く悲鳴を上げた。いつの間にか、ベッドのそばに女の子がいた。キャラバンとしてそれなりに神経を研ぎ澄ませてきたつもりだったが、ほとんど気配を感じなかった。十歳くらいだろうか、明るい緑の髪を伸ばしたセルキーだ。
女の子は顔をしかめた。
「ひどーい。倒れてたあなたのこと、あたしが見つけたんだよ」
エンジュは上半身を起こした。
「そ、そうだったんだ。ごめんね。オレはエンジュ。キャラバンなんだ」
自己紹介すると、女の子はにこっと笑った。
「あたしはマ・リラだよ」
マ・リラ、マ・リラ……と何度か口の中で名前を転がして、エンジュは彼女に向き直った。
「で、ここはどこなんだ?」
彼の記憶では、メタルマイン丘陵の真ん中あたりの田舎道で気を失ったはずだった。するとマ・リラは意地悪く笑った。
「教えてあげなーい」
「え。えっと……」
エンジュは困ったように眉を下げる。彼女はぺろっと舌を出した。
「ごめんね。大人たちに止められてるの。だって……うちの村、あんまり知られたらまずいから」
「へ?」
「ここは地図に乗らない村。名前のない村なの」
エンジュは大きく目を見開いた。
「そんな村が……本当に?」
信じられなかった。この大陸において誰にも知られず、息を潜めて暮らすなんてことが出来るのだろうか。第一クリスタルがあるというのなら、キャラバンだってあるはずだ。キャラバン同士がどこかで鉢合わせていてもおかしくない。
「本当に、あるんだよ。現にあたしたちはこうして生きてるもの」
マ・リラはすねたように唇をとがらせた。そして、わずかにエンジュから視線を外す。
「大人たちは今、あなたをどう扱うか話し合ってる。あたしもクリスタルケージに気づかなかったら、見捨ててたかもね」
「ははは……」
力なく笑うエンジュ。いくら秘密の村の住人といえど、ケージを持ったキャラバンは見過ごせなかったらしい。おかげで命拾いしたわけだ。
そこでエンジュは、はっと思い出した。
「ねえ、オレの近くで馬車を見かけなかったかな。それと、モーグリも」
「馬車? 分かんない。あなただけでも助けてあげたんだから、勘弁してよ」
「……そうだよな」
モグとパパオは無事だろうか。道をたどってマール峠あたりにたどりついていることを祈るばかりだ。あそこならミントもいる。
エンジュの内心を知る由もなく、マ・リラは続けた。
「長老の結論が出るまでは、この部屋から出ちゃダメだからね。あなた、怪我もしてるみたいだし」
今更彼は気づいた。ケアルもない状態で放置された傷たちは、微妙に熱を孕んでいる。剣の場所も分からず、おまけに満足に体が動かないとなれば、逃げ出す気も失せた。
「しばらくお世話になります……」
彼は素直に頭を下げた。
マ・リラの両親は、ともに姿を現さなかった。エンジュは部屋に半ば軟禁されており、外界へ繋がる窓口といえばマ・リラだけだ。今まで好きに大陸を旅してきた身からすると、すさまじい不自由を感じてしまった。
窓の外は分からないが、おそらく夜になったのだろう。彼女が運んできた夕食を目にして、エンジュは渋い顔をした。
「うーん……」
「まんまるコーン、嫌いなの?」
サラダにはふんだんに黄色いつぶつぶがのっていた。
「食べられる奴もあるんだけどね。野菜が苦手なんだ」
「じゃあ、あたしのほうが好き嫌い少ないね!」
エンジュはからりと笑った。……やっぱり、ミントの料理がいい。そう思える自分が不思議だった。
早く彼女に会いたかった。彼はマール峠の乾いた風を思い出しながら、眠りについた。
翌朝、相変わらず部屋で静養している彼のもとに、訪問者がやってきた。
長老と思われるユークだった。智の民の年齢など分からないが、動作の一つ一つに、歳をかさねたことによる重みを感じた。
「あなたがエンジュ殿ですね」
少しドキドキしながら頷く。長老の静かなしゃがれ声は、幾ばくかの緊張をはらんでいた。
「あなたも村の水かけ祭りがあるでしょう。怪我が治り次第、すぐに帰ってください。我々のことは言外不要でお願いします」
エンジュは神妙な顔で首肯した。もとより断る権利などない。怪我の方も、あと数日もあれば完治するだろう。
長老は再び重々しく腰を浮かせて、去っていった。
こうして無事に懸案事項が晴れても、相変わらずエンジュは部屋に閉じ込められたままだった。徹底的に情報を制限するつもりらしい。彼は暇を持て余し、外の話をねだるマ・リラに、色々なことを教えてやった。
「ジェゴン川を渡った先にセレパティオン洞窟って場所があってさ。洞窟なのに、ずっと風が吹いてるんだ。なんでか分かる? 洞窟の向こうは海につながっていて、そこから風が吹いて来るんだよ」
「へえーっ」
マ・リラが目を輝かせて相槌を打つものだから、ついエンジュも気合を入れて話をした。クロニクルの内容を思い出し、キャラバンの旅で訪れた様々な秘境について物語る。
楽しそうに耳を傾けていたマ・リラは、突然エンジュにすうっと体を寄せた。幼子といえどセルキーだ、肉付きはなかなかによい。彼はちょっぴりどきっとした。
「ねえ、エンジュくん」
「なに?」
「あたしが大きくなったら、あなたのお嫁さんにして」
エンジュは一瞬、自分の耳を疑った。
「えっ!? な、なんで」
唐突なプロポーズだ。いくら我の民といえど、早熟すぎるだろう。
マ・リラは平然と答える。
「あなたといたら、毎日楽しそうだから。それに、あたしみたいな子供は、いっぱい外の人と友だちにならないといけないんだって」
エンジュは言葉に詰まった。この村は性質上、極端に外部との交流が少ない。命をつなぐために新しい血を取り入れようと、大人たちは躍起になっているのだろう。
彼は少女に向き直り、真摯な態度で言った。
「あのね、マ・リラ……。それを聞いてオレはとても嬉しかった。でも、結婚みたいな大事なことは、キミにとってすごく先のことだ。その時までに、キミの前にはもっと素敵な人が現れるかもしれない。オレだって、ずっとキミを待っていられるとも限らない。そこまで責任を持てないんだ。ごめんね」
と言葉を尽くして説得しようとしたが、マ・リラは不満げだった。
「あたしはエンジュくんとずっと一緒にいるつもりだよ! ……それとも、他に好きな人でもいるの?」
心臓が跳ねた。ふわふわした黒い髪と、優しい茶色の目がふっと頭をかすめた。
「好きな人——」
ぼんやり物思いに沈んだエンジュを見て、マ・リラはがっかりしたように肩を落とした。
「やっぱりいるんだね。なあんだ」
徐々にエンジュの頬が熱くなる。なんだろう、この心の動きは。それは、もう二十になる彼が、まだ知らない感覚だった。
「好きって……何なんだろう。どういう気持ちなんだろう」
気づけば、彼は年下の少女に向かって大真面目に質問していた。こういうことはマ・リラのほうが詳しい、と直感したのだ。
「エンジュくんがその人と、ずっと一緒にいたいって思う気持ちのことじゃないの?」
彼女はずばり言った。エンジュは深呼吸して、胸に手を当てる。
「ずっと、一緒に……」
年に数回会うだけ、手紙のやりとりをするだけでなく、ミントの隣にいつまでもいられる、ということだ。それは希望に満ちた空想だった。
数日後、すっかり怪我は癒えた。長老からもお墨付きをもらって、エンジュはやっと外に出ることができた。腰に剣を帯び、ケージを持ったただけの簡素な姿で出立する。
「ここから南に行ったら、日暮れまでにはマール峠につくからね」
マ・リラから説明を受けながら、エンジュは名も無き村の様子を目に焼き付けるように、じいっとあたりを眺め回した。斜面に張り付くように家々が立ち並んでいる。クリスタルもちらりと見えたが、ずいぶんと小さな欠片だった。
……もう、この場所に来ることはないだろう。それは、双方ともに了解済みだった。
マ・リラはうつむき、そっと手を差し出した。
「エンジュくん……また、会いたいな」
その手がぎゅっと握られる。
「オレも!」
彼は笑顔で去っていった。
*
エンジュは徐々に落ちていく太陽を追いかけるように、必死に走った。数日間ベッドで寝ていた分、体はなまっていたが、なんとか夕暮れの時間帯にマール峠にたどり着くことができた。
名も無き村では思わぬタイムロスをした。水かけ祭りの期限も迫っている。モグと馬車のことも心配だ。でも……だからこそ、彼は余計にミントに会いたかった。
彼は村の入り口で軽く息を整えると、すぐに雑貨屋に向かおうとした。
「来たわね、エンジュさん」
ずいぶん低いところから声がした。そちらに首を向ける。メモリ=ノードがそこにいた。
「あ、久しぶり、だね」
メモリはにっこりした。
「遅かったじゃない。あなたの馬車、アタシの家で預かってるわよ」
彼はぱっと顔を輝かせた。同時に、懐かしい声がする。
「エンジュー!」
モグが胸に飛び込んできた。
「良かった、無事だったんだなっ」
「それはこっちの台詞クポ! ボク、すっごく心配したクポ……」
うっすら涙目になるモグ。不安げに揺れるボンボンを、エンジュは優しくなでてやった。
「このとおり、オレは大丈夫だよ」
「モグくんってば偉かったのよ。パパオを誘導してマール峠まで来て、アタシに助けを求めてきたの」メモリが口を挟んだ。
「そうなんだ……」
胸に不思議な感慨が湧いてきた。三年間共に旅をしたモグは、すっかり一人前になった。郵便配達員として仲間に認められるのも、時間の問題だろう。
「エンジュ。メモリさんに、お礼を言うクポ」
しっかり者のモグに指摘され、彼は慌てていつもの敬礼をする。
「あの、メモリさん」「呼び捨てでいいわ」「……メモリ。ありがとう、助かったよ」
メモリは「大したことじゃない」と言わんばかりに、手をひらひら泳がせていた。
「それで、ミントさんは——」
彼はきょろきょろあたりを見回す。理由は分からないが、マール峠は去年となんだか雰囲気が変わっていた。
すたすた雑貨屋に向かいかけるエンジュを、メモリが引き止めた。
「実は……キャロさんが亡くなったのよ」
「!」
息を呑む。二の句が告げず、彼は目を閉じた。
背中を丸めたクラヴァットの老女の、どこまでも透明な黒い瞳を思い出す。単なる孫の友人であるエンジュにも、まるで血のつながりがあるかのように、あたたかく接してくれた。
胸に大きな穴が開いたようだった。エンジュですらそうなのだ、ミントはきっと——
「もともとあの店はうちが持っていたものでね。キャロさんが亡くなられてから、所有者が代わったわ」
エンジュは呆然と視線を返した。彼女は一体、何を言わんとしているのか。
「ミントはもう、マール峠にいないの」
「!?」
愕然としたエンジュに対し、メモリはにやりとする。
「——あなたの村にいるわ」