素敵なひとりぼっち



(六年目 ミント)

『おばあちゃんへ——ミントより』
 まさか、おばあちゃんにこういう手紙を送ることになるなんて……思いもしなかったわ。
 向こうでも元気にしているかしら。お父さんとお母さんには会えた? わたしのこと、何か言ってなかったかな。
 わたしはね……元気、じゃないわよ。だって、ついにひとりになっちゃったんだもの。マール峠の雑貨屋だって追い出された。この先どうなるのかなんて、全然分からない。
 でも、寂しくはないわ! わたしにはあの人がいる。あの人は、わたし以上にひとりで頑張っているの。わたしがこのくらいで弱音を吐いちゃ、いけないのよ。
 こんなわたしが、あの人をひとりにしたくないって考えるのは、変なのかな……?
 それでも決めたの。もう他に誰もいなくなっちゃったから、わたしはあの人のために生きる。



「本当に行くの?」
 去りゆく背中に向かってメモリが尋ねた。ミントは少ない荷物を持ち上げて、くるりと振り向く。
「おばあちゃんが、ティパの村の親戚に手紙を書いてくれたんだ」
 彼女はそっと目を閉じた。十七年暮らした雑貨屋を引き払い、ミントはマールキャラバンに送られて、大陸の南へ向かう。
「そっか……アタシはてっきり、エンジュさんのために行くんじゃないかと思ってた」
 にっこりするメモリ。
「うっ。ま、まあ、そういう部分もある、かな」
 図星だったミントはもごもご口を動かした。そして青空を仰ぎ見る。
「あの人が生まれて今まで過ごしてきた場所を、見てみたいの」
 すでに、まだ見ぬティパの村を、自分の新たな故郷とする覚悟はできていた。
 メモリは一歩前に出て、ミントと握手を交わした。
「気をつけてね。手紙、たくさん書くからねっ」
「うん。また……また会おうね」
 ミントはマールキャラバンの馬車に乗り込んだ。乾いた土と風、おいしいミネ、そしてたくさんの思い出たちが、離れていく……。
 小さくなる馬車の影を、メモリはいつまでも見つめていた。
「さあて——エンジュさんは、一体どう思うのかしらね」
 なかなかに人の悪い笑みを浮かべながら。



 ミントを乗せた馬車は、ティパ半島に新しくできた街道を通って、大陸の南端ティパの村にたどり着いた。マールキャラバンとは入り口で別れる。彼らはこれから来た道を戻り、リバーベル街道という近くのダンジョンに赴くらしい。
 ティパの村は、水と緑の気配に満ちた、豊かな場所だった。ミントは親戚の手紙に同封されていた、小さな紙切れを広げた。
「ええと、こっちかな……」
 ベル川の上に架かった橋を渡り、まっすぐ海の方角を目指す。海——街道を行く時にもちらりと見えた。青い青い水面。ミントには川としか思えなかったが、その何百倍も何千倍も大きいらしい。塩辛い水、とはいかなるものだろうか。
 しばらく歩くと商店があり、そこで道は二股にわかれていた。
「すみません!」
 店の奥へ向かって声をかけると、ユークの商人が出てきた。どきっとする。マール峠には智の民の住人はおらず、たまに旅人を見かけるくらいだ。ティパの村は四種族がバランスよく集う場所だと聞いたことがある。……これから、そんな村で暮らすのだ。
 ミントは全く表情の読めない仮面を見上げ、
「ローランさんのお家はどちらでしょう」
 できるだけ平静を保って尋ねた。
「左右どちらの道でも同じですよ。クリスタルのちょうど真後ろですから」
 幸い、ユークの女性は親切だった。
「そうですか。ありがとうございます」
「もしかして、あなたがローランさんの……?」
 彼女は首をかしげた。ミントはぺこりとお辞儀をする。
「はいっ、マール峠からやってきました、ミントと申します!」
 この先過ごす長い時間を考えて、第一印象はなるべく良いものにしたかった。
「それはそれは。これからよろしくお願いしますね」
 なかなか幸先の良いスタートを切れたようだ。願わくば、好意的な噂が広まって欲しいものである。
 ミントは迷った末、左の道から奥を目指すことにした。
 ちょうど、道の向こうから村人がやってきた。金の髪をなびかせて、田舎村に似合わぬ垢抜けた雰囲気をまとうのは。
「ジ・ルヴェ!」
 ミントは叫び、駆け寄った。二年ぶりの再会になる。
「……本当に、来たんだな」
 彼は柳眉をひそめた。すでにミントの件は知っていたらしい。
「来たわよ。何か悪い?」
 彼女は目一杯挑戦的に応じた。ジ・ルヴェはすうっと顔を背けた。
「いや。おばあさんのこと、残念だったな」
 ミントは目を丸くする。
「あなたでも気を使ったりするのね……!?」
「おい、失礼すぎるだろその言い方」
 少しでも気にかけたことを後悔してしまったジ・ルヴェだった。
 ミントは茶目っ気たっぷりにウインクする。
「とにかく、これからよろしくね、ジ・ルヴェ!」
 差し出された手を、彼は仕方なく握った。
「そのうち、そっちの家にも正式に挨拶に行くと思うわ。またね」
 ミントは彼の隣を通り過ぎて、ローランの家へ向かう。ジ・ルヴェは華奢な後ろ姿を見送りながら、呟いた。
「……ついに来ちまったか。あいつに連絡、しないとな」
 一方ミントは道の途中で、朽ちかけた看板を発見した。
「ん?」
 文字が読めない。何気なく首を巡らせて、看板の向こうを確認する。木が生い茂ってよく分からない。好奇心に駆られ、足を踏み入れてみた。
 ——すぐに歩みが止まった。
「っ!」
 廃墟。そうとしか表現できない、ボロボロの家屋があった。屋根材が落ち、壁が剥がれ、室内まで風雨にさらされている。
 そのそばには、柵で囲われた幾ばくかの土地がある。どうも昔は畑だったらしいが、今は見る影もなく荒れ果て、雑草でぼうぼうだった。
 ミントははっとする。畑——つまり、ここは農家だ。
 どういうことだろう。エンジュの家は、農家ではなかったのか……?
 じゃり、と背後で足音がした。
「あなた……どこの誰です?」
 鋭い声に、急いで振り返る。ユークの女性がいた。先ほどの商人ではない。仮面の頭に、くるくるの綺麗な飾りをつけている。
 彼女は威圧感たっぷりに見下ろしてきた。
「見かけない顔ですね。まさか、あなたがマール峠から来る予定の、ローランさんの親戚ですか」
「そ、そうです」
 答えると、ユークは大きくため息をついた。
 理由は不明だが、どうもいい印象を持たれていないらしい。なんとか会話をつなごうとして、ミントは廃墟を指さす。
「あの、この家は一体……?」
「あなたには関係ないでしょう」
 にべもない態度とはこのことだ。ひんやりした汗がミントの背中をすべり落ちた。
 一瞬後、彼女の胸にわき上がってきたのは激しい闘志だった。
「関係は、あります。だってここは農家でしょう。つまり、エンジュさんの実家じゃないですか!」
 ユークはわずかに肩を上げた。ミントの剣幕に驚いたようだ。
「ははあ、やはりあなたが……。
 ここはエンジュの家ではありませんよ。彼の両親は、彼が物心つく前に亡くなりました。以来、彼は友人の家を転々としながら暮らしています」
 ミントはあんぐり口を開けた。唇がカサカサに乾いていた。
「な……なんてこと……」
 自分と境遇が同じ——いや、彼のほうがもっとひどい。親との思い出をろくに持っていないのだから。
 ひとりでも平気だなんて、嘘だ。寂しさとは無縁であるように見えたのは、建前だったのか。背筋がぞくりとするのと同時に、胸が苦しくなった。
 エンジュさん……。
 ユークは冷たい声で宣言する。
「あなたに忠告しておきます。これ以上、エンジュに関わらないでください」
 緊張が走る。誰も彼も、どうして一つの説明もなく、ミントを拒絶するのだろうか。
 ミントは彼女の鉄のような仮面を睨みつけた。
「どうしてですか。それこそ、あなたには関係のないことじゃないですか。
 ……どなたか知りませんが、わたしはミントと申します。以後お見知りおきを」
 ユークは気圧されたように後ずさった。
「わ、私はリーゼロッテです。ですが……あなたと仲良くする気なんて毛頭ありませんから!」
「リーゼロッテさんですね。わたしは、あなたと積極的に仲良くしたいと思ってますよ」
 と宣戦布告しておいて、ミントは立ち去った。
 リーゼロッテは軽く息を吐き、しばらくその場に佇んでいたようである。
 肩を怒らせて道を歩きながら、ミントは少し反省した。ジ・ルヴェといい、リーゼロッテといい、ティパ村の人を次々と敵に回している気がする。これではいけない。
 長い寄り道の末にたどり着いたローランの家は、村の一番奥にあった。クリスタルの真後ろの一等地だ。家の向こうには海が広がっているらしい。
「やあ、よく来てくれたね」
 玄関を叩くと、金の髪をつんつんと逆立てたクラヴァットの男性が出てきた。
 実は、彼とはほとんど血のつながりはない。遠い親戚という程度だ。年だって十歳以上違う。ミントが彼に拾われたことは、ほとんど奇跡みたいなものだった。キャロの根回しの賜物だろう。
「ミントです。よろしくお願いします」
 彼女はかすかに緊張しながら頭を下げた。「お忙しい時期に、すみません。臨月の奥さんがいらっしゃるんですよね」
 ローランはぼりぼり頭を掻いた。マレードという名の妻との間に、待望の赤ん坊が生まれるのも時間の問題だ、と手紙で聞いていた。
「そうなんだよ……きみだって、まだまだおばあさんのことで整理がついてないだろうに、手間を掛けると思う。ごめんね」
 ミントはにっこりした。
「いいえ。わたしで良ければ、思う存分こき使って下さい!」
 こうして彼女はローランの家の住人になった。



 翌朝、ティパの村長をつとめる錬金術師のリルティの号令の下、クリスタル広場に村人全員が集められ、ミントの正式な挨拶が行われた。
「みなさん、どうぞよろしくお願いします!」
 頬を紅潮させて礼をするミントはそれなりに皆の同情を買ったらしく、あたたかく受け入れられた。
 こうして彼女のティパ村生活は順調にスタートした——と、思われたが。
 集会が解散した後、リーゼロッテとジ・ルヴェはベル川のほとりで落ち合った。
「ついに、例の彼女が乗り込んできましたか……」
 リーゼロッテが顎のあたりをなでる。いかにも何かを企んでいる風に。
「エンジュが帰ってくるまで、もう何日もないぞ」
 指折り数えるジ・ルヴェの指摘に、リーゼロッテはため息をついた。
「事情が事情ですから、追い出すのは不可能でしょうね。彼女にはマール峠で幸せになって欲しかったものですが、仕方ありません」
「どうするんだ?」
「徹底的に二人の邪魔をします」
 ジ・ルヴェは肩をすくめた。
「人の恋路を邪魔する奴は、パパオに蹴られて死ぬんだぞ」
 そんなこと知っている、とばかりにリーゼロッテは彼の鼻先に指を突きつける。
「そういえばあなた、自他共に認める女たらしじゃありませんか。ミントはどうなんですか」
「な……んだよ突然」
 ジ・ルヴェの翡翠の瞳がわずかな動揺を示した。リーゼロッテは見逃さなかった。
「別に、深い意味はありませんよ。彼女に肩入れしてこちらを裏切る、なんてことがないようにしてくださいよ」
 そこで、リーゼロッテはすっと視線を上げる。ティパの空は今日も脳天気に明るい。
「彼女はエンジュを勘違いしている。彼だけが自分を救ってくれる、自分だけが彼の孤独を癒すことができる——などと勝手な期待を抱くのは、お門違いというものです」
「……」
 それでもミントは行動するだろう、とジ・ルヴェは思った。今の彼女はティパの村に新たな居場所をつくろうと、必死になっている。表情だって、マール峠で見せていたものとはどことなく違う。もしかすると、ジ・ルヴェやリーゼロッテに反発したり、誰かに尽くしたりすることで、祖母をなくした寂しさを埋めようとしているのかもしれない……。
 必死といえば、エンジュもそうだ。ジ・ルヴェは二年ほど一緒に旅をしたが、結局は友人の秘めたる悩みを共有できなかった。
「面倒だな……クラヴァットってのは」
 ジ・ルヴェはそう呟いて、目を閉じた。



 その日から、ミントはマレードの手伝いを始めた。具体的には、身重の彼女に代わってあらゆる家事をした。みっちり祖母に仕込まれてきたミントにとって、そのくらいはお手の物だ。
「ミントちゃん、ありがとうございます。あなたが来てくれて、とても助かっていますよ」
 裁縫をしているマレードにねぎらいのつもりでお茶を出すと、逆にそんなことを言われてしまった。
「いいえ。わたし、こんなことくらいしかできませんし」
「謙遜しなくてもいいんですよ。ローランは家事の方はさっぱりですから」
 マレードはくすくす笑った。こういう夫婦はいいなあ、とミントはひそかに思った。
「ところでミントちゃんは、ティパの村でお友だちはできました?」
 マレードの率直な質問に、ミントはぐ、と詰まる。
「それが……みんな、わたしのことを警戒しているらしくて」
 主にリーゼロッテとジ・ルヴェのことだ。特に前者は同性で年が近く、親しい友人になりうる人物だったが、あそこまできつい言葉を投げられるとは……。マール峠の親友メモリが恋しくなった。
「なんでだろう。わたしがエンジュさんに近づくのが、そんなに嫌なのかな……」
「えっ。どういうことです?」
「ええと、リーゼロッテさんとジ・ルヴェがそんなことを言ってました。これ以上エンジュさんに関わるなって」
 マレードは難しい顔になって、額のあたりを押さえた。
「あの二人は……いろいろあるんですよ。気を悪くしないでくださいね」
「はい。わたし、絶対に負けませんから!」
 彼女は瞳に力強い意志の光を宿していた。
 マレードは苦笑して、
「お茶、とてもおいしかったです。こちらはもういいので、ミントちゃんも遊んできたらどうですか」
「あ、はい……」
 と言われても、そもそもティパ村の遊び場がどこなのか、分からない。
 目的もなく外に出た。ミントの足は、自然と農家の方へ向いていた。
 朽ちた看板の横を通り、敷地に入る。相変わらずそこには廃墟があった。ほのぼのと昼の光に照らされているけれど、人が住める状態でないことに変わりはない。
「……」
 自分の家がないのは何よりも悲しいことだ。雑貨屋を失い、今はもう「自分の家」と呼べる場所がなくなってしまった彼女は、切実にそう思う。
 彼女が埒のあかない考えに身を委ねながら、ぼうっと突っ立っていると。小さく下生えを踏みしめる音がした。
「ミントさん!?」
 赤茶の髪に、黒のヘアバンド。少し、服が古びたように見える。もちろん、エンジュだった。
 そうか。ちょうど今日、キャラバンの旅から帰ってきたのだ。
「おかえりなさい」
 ミントは笑顔でそう言った。エンジュの明るい反応を期待して。
 だが——彼はびっくりするほどうつろな表情になった。
「な、なんで。なんで、こんなところに……?」
 肩が小刻みに揺れている。どうしたのだろう。
 彼は震える唇で言葉を紡いだ。
「——お願いだ。もうこの場所には来ないでくれ」
 心臓がどくんと脈打った。
「ど、どういうこと……?」
「ごめん。これ以上は言えない」
 エンジュはきびすを返した。今までの彼と同一人物とは思えないほど、冷たい態度だった。
 全てを拒絶するような背中は、完全にミントを打ちのめした。



 ティパの村で迎える初めての水かけ祭りを、ミントはローランの家から一歩も出ずに過ごした。
 窓の外で、村長が朗々と年代記を読み上げる声がする。エンジュの旅の軌跡が途切れ途切れに聞こえてきた。本来ならば心躍っていたはずの水かけ祭り——だが、気分は最悪だった。
 それでも未練がましくカーテンを開けて、ゆらめく松明の光をぼんやり眺めていたら、突然、何度か玄関が叩かれた。仕方なくミントは扉から顔を出した。
「あら」
 誰かと思えばジ・ルヴェだ。彼は杯を二つ持っていた。
「こういう時、大人は酔っ払うらしいぞ」
 ……どうやら、エンジュの反応を知っているらしい。正直癪だったが、彼女は奪うように杯を取った。
 中身も確認せず一気に飲み干した。ジ・ルヴェは目を丸くしたようだ。
「おかわり」口を拭って、空の杯を持ち上げる。彼は胡乱な目つきになった。
「それは自分でとってこい」
 ミントはふう、と息を吐く。おとなしく二杯目は諦めて、玄関扉にもたれかかった。
「……こうなるって分かってたから、あんなにうるさく絡んできたの?」
 エンジュのことだ。何年か前、初めてジ・ルヴェに出会った時に言われた「これ以上関わるな」——あれは、まさしく双方にとって正しい選択だったのかもしれない。
「確証があったわけじゃない。まあ、お前の善意は独りよがりだったってことだな」
 言葉がぐさりと胸に刺さった。図星だった。あそこまでエンジュに拒絶されるとは思わなかったのだ。ミントは唇を強く噛む。
 ジ・ルヴェは翡翠の目を細めた。
「今夜、エンジュはリーゼロッテの家に世話になるらしいぞ」
「本当に友だちの家で寝てるのね……信じられないわ」
 どう考えても重すぎる事情を抱えているのに、どうして彼はあれだけ明るく振る舞えるのだろう。あの態度はやはり、見せかけなのだろうか。
「もう、分かんないことばっかりよ。エンジュさんって農家が嫌いなわけ? わたしにあの家を踏み荒らして欲しくなかったの? ……そんなつもりじゃなかったのに」
 ただ、彼におかえりと言ってあげたかった。喜ぶ顔が見たかった。ただ、それだけだったのだ。
 じわりと涙が滲んできた。ミントは濡れていく頬を隠さず、キッと顔を上げる。
「でも、わたしは諦めないわ。どれだけ拒絶されても、あの人のそばにいる」
 杯を握るジ・ルヴェの手に、力が入った。いつしか、彼はミントの覚悟に圧倒されていた。
 彼は真剣な顔で質問する。
「それが、エンジュのためにならないとしても?」
「ええ。やっぱりあの人をひとりにしちゃいけないと思うのよ。ジ・ルヴェだって、そう考えたから旅についてきたんでしょ?」
 ごくりと彼の喉が動く。酒を嚥下しているわけではないのに。
「……さあ、どうだかな」
 翡翠の瞳が少し泳いでいた。都合が悪くなると、彼はすぐに目をそらす癖がある。
 ミントはくすっと笑った。
「協力なんて期待してないけど。邪魔だけはしないでね」
「ふん。少なくとも、リズは思いっきり水を差すと思うぞ」
 堂々と宣言していたくらいだ。あの牛飼いの娘が、あらゆる手段を使ってミントの邪魔をすることは、明白だった。
 ミントは顎に手をあてた。
「リズ……リーゼロッテさんのこと? そっか。とりあえず、エンジュさんより先に、その人を説得しないとね」
 茶色の瞳にやる気をみなぎらせ、彼女は涙の跡を拭った。



 翌朝、ミントはさっそくリーゼロッテの家を訪ねて行った。家業は牛飼いらしく、庭には白黒マーブル模様の牛たちが放牧されている。ミントはニクを食べたことはあれど、本物の牛を見たのは初めてだった。漂う家畜の匂いに少し眉をひそめる。
 もちろん、目当ては牛ではなくて——
「おはよう、エンジュさん」
 玄関扉から出てきた青年に対し、ミントはあえて笑顔で言った。エンジュは気まずそうにあちらを向いて「……おはよう」と返した。そういう仕草が、少しだけジ・ルヴェと似ている気もした。ヘアバンドをつけていないので、赤茶の長めの髪がさらりと額に落ちている。
「今日はわたし、リーゼロッテさんに用があって来たの」
「リズに? 分かった、呼んでくる」
「その必要はありませんよ」
 エンジュの真後ろにリーゼロッテがいた。「い、いつの間に」彼はびくっとする。
 ミントはユークの娘に向かって、挑むような視線を投げかけた。
「ねえリーゼロッテさん。わたしと一緒に外に行かない?」
「ええ、構いませんよ」
 なぜだか阿吽の呼吸で応じる二人。エンジュは驚いて何度も瞬きしていた。
「あのさ……二人って、そんなに仲が良いのか?」
 自分の不在中に何があったのだ、という疑問が顔に書いてある。ミントは意味深な笑みを浮かべた。
「ふふ、いろいろとね。じゃあ、向こうでお話ししましょう」
「そうですね」
「二人とも、いってらっしゃーい」
 のんきすぎるエンジュの見送りを受けて、二人は無言で村を歩く。
「話をするのにいい場所ってない?」
 まだまだティパの地理を把握しきれていないミントだ。ここは地元っ子に任せるべきだろう。
「……お話の前に、朝の祈りを済ませたいのですが」
「お祈り? 何かに願を掛けるの」
「そうですよ」
 いまいちピンと来ていない様子のミントへ、リーゼロッテは呆れたように告げる。
「クリスタルに祈りを捧げるに決まってるでしょう」
 リーゼロッテはすたすた歩き、クリスタル広場に行き着いた。薄水色のクリスタルは、水かけ祭りのおかげで一段と輝いているようだ。
 彼女は慣れた動作で台座の前にひざまずくと、両手を組んだ。その格好のまま、長い間こうべを垂れていた。ミントは黙って彼女の後ろ姿を見つめる。
「……お待たせしました」
 立ち上がったリーゼロッテのまわりには、どことなく神秘的な空気が漂っていた。ミントは口喧嘩の覚悟すら決めてきたので、なんだか調子が狂ってしまう。
「お願い事をしたの?」
「違いますよ。村を守る神聖なクリスタルにお願いなんて、恐れ多い。願いは星にかけるもの、クリスタルは祈りを捧げたり感謝したりするものです」
 願いと祈りの違いがミントにはよく分からなかった。彼女は少し遠慮がちに切り出した。
「じゃあ、この場で本題に入りましょう。エンジュさんのことなんだけど」
「彼がどうかしましたか」
「あの人を落としたいから、わたしに協力してくれる?」
 わざとあけすけな物言いをすると、リーゼロッテは明らかにぎょっとした。もしユークの顔が見えていたら、真っ赤になっていただろう。
「なっ——ハ、ハレンチな! 第一、私は彼に関わるなと言ったばかりです。本人にだって、拒絶されていたではありませんか」
 次々と痛いところをついてくる。しかしミントは負けるつもりはなかった。
「あれは拒絶なのかな。きっと、自分でもよく分かってないのよ。彼は良くない方向に進もうとしている。その道は多分、友だちのあなたたちが選ばせているんだわ!」
 思い切って決めつけた。リーゼロッテは乗ってくるかと思いきや、幾分冷静になったようだ。
「ふうん……? 彼が一人でキャラバンに行ったのは、私たちのせいであると」
「そう」
 リーゼロッテはやれやれというように首を振った。
「あなたは何も分かっていない。一人で旅に出ることは、エンジュが自分で選びました。私たちは口出し一つできなかった……」
 ミントはしかめっ面になる。
「それじゃ、あの人はひとりになりたがってるってこと?」
「さあ。エンジュの考えは、私たちには分かりかねますね」
 とぼけたような発言に、ミントは目の奥に暗い炎を燃やした。
「だとしても、わたしはそんなの嫌よ。親もいないのに、さらにひとりになりたがるなんて——そんなの、寂しすぎるもの」
 彼女はリーゼロッテの反応も待たず、ローランの家に戻ろうとした。
 すると。
「た、大変なんだよ、ミントさん!」
 エンジュがやってきた。息を切らして、ずいぶん慌てているようである。
 まさか、先ほどまでの口論の対象が自分だったとは、夢にも思っていないだろう……ミントはちらりと考えた。
「どうしたの?」
 彼の顔を見て動揺するかとも思ったが、案外落ち着いて返すことができた。
「それが……オレ、用があってローランさんの家に行ってたんだけど、そうしたらマレードさんから、水が、水が」
 ミントは隣にいたリーゼロッテと一瞬目線を交わした。
「水——って、破水のこと!?」
 赤ちゃんが生まれる! ひらめいたミントは、飛ぶように家に帰った。エンジュもやや混乱したまま後ろについて来たようである。
「……仕方ありませんね」
 リーゼロッテは一つ頷き、すぐにどこかへと向かった。
 ミントが玄関を勢いよく開けると、おろおろしているローランと出くわした。
「あ、ミントちゃんおかえり。それで、ええと、マレードが……」
 エンジュとほとんど変わらない反応だ。慌てるだけの男どもを押しのけ、ミントはずんずんマレードの部屋に向かう。
「わたしがやります」
 追いすがるローランは、はっとしたように立ち止まった。
「ミントさん、お産分かるの?」エンジュが心配そうに尋ねた。
「一回だけ、見たことがある。あの時はリルティだったけど……。とにかく、やれるだけやってみるわ。エンジュさんも手伝って」
「分かった!」
 それから彼女は忙しく動き回った。どうもリーゼロッテが応援を呼んでくれたようで、途中からは粉挽きのクラヴァットの奥さんも来てくれた。
 気づけば、部屋に差し込む日差しはずいぶんと傾いていた。その頃になってやっと、待望の赤ん坊が姿を現した。元気な産声だった。それを聞けただけで、ミントの苦労は全て報われたようだった。
 すさまじい緊張から解放されたミントは、居間のソファにぐったりと倒れこんだ。
「お疲れ様」
 ふと目を上げるとエンジュがそばにいた。彼はミントにマグカップを差し出す。
「あ、ありがとう……」
 何かと思えばホットミルクだ。湯気が唇にあたってあたたかい。蜜でも入っているのか、ほんのり甘くておいしかった。
 エンジュはごく自然にミントの隣に座り、柔らかい笑みを浮かべる。
「元気な双子の赤ちゃんだったね」彼も見てきたらしい。ローランもマレードも、無事に生まれた赤子に大喜びしていた。
「うんうん。二人とも、すっごく可愛かったわ」
 ミントは赤ん坊の姿を思い出してにっこりした。エンジュは首をかしげた。
「そうかなあ、シワシワしてて、顔なんか全然分からなかった」
「あなただって、昔はああだったのよ」
 と指摘すると、エンジュはふっと表情をなくした。
「昔は……」
 しまった、彼は親を知らないのだ。あまり不用意な発言をしないよう気をつけないと。
 エンジュは少し改まって、ミントに向き直る。
「ミントさん、ずっとここにいるの? このティパの村に……」
 彼女はしっかりと頷いた。とっくの昔に腹をくくっている。
「もうここしか居場所がないもの。……大丈夫よ、なんだかんだで友だちもできそうだし。わたし、寂しくなんかないわ!」
 ミントはきっぱり言い切ってから、取り繕うように笑った。
「……」
 エンジュは不透明な色を瞳に浮かべて沈黙した。



(七年目)

『エンジュさんへ——ミントより』
 こんにちは。雫集めの旅は順調かしら? またあなたの旅のお話を聞ける日が、今から楽しみよ。
 こうしてティパの村からあなたに手紙を書いてるのは、なんだか変な気分。でも、マール峠にいた頃とは全然違う。この前あなたが村で休んでいた時は、短い間だったけど、いろいろ話をしたり、ハーディくんガーディくんのお産を手伝ったりして、あなたのことをたくさん知ることができた。もっと知りたい、とも思っているわ。
 だから——ちゃんと帰ってきてね、うちの村に。わたしたち、ずっと待ってるから。



 クリスタルは今日も静かに輝いている。無限の水色の中には、早朝のティパ村がいくつも映り込んでいた。
 朝の祈りを終えたリーゼロッテは立ち上がり、ため息をついた。
「何故、あなたがいるのです?」
 後ろの茂みに隠れていた人影が、ひょこひょこと近づいてくる。
「ああ良かった。無視されるかと思ったわ」
 ミントはホッとしたように胸をなで下ろすと、リーゼロッテと真っ向から対峙する。
「わたし、あなたと友だちになりたいのよ。せっかく同年代なのにお互いに知らんぷりなんて、あんまりじゃない。エンジュさんのことも、もっと教えて欲しいし」
 リーゼロッテは呆れたようである。
「私の方が年上なのですが……それに、あなたと親しくする予定はありません」
「んー……だったら、友だちは諦める。リズさんがわたしを認めてくれればそれでいいわ」
 ミントはさりげなくリーゼロッテを愛称で呼んだ。彼女はそのことに気づいたが、あえて指摘はしなかった。
「認めるって、何をです。エンジュとの交際ですか?」
「平たく言えばそうかな。何をしたら認めてくれるのよ」
 今や、リーゼロッテは完全にミントのペースに呑まれていた。ここまで強引な温の民はティパ村にはいなかった。それとも彼女がこうなったのは、エンジュの影響だとでもいうのだろうか。
 リーゼロッテは遠くに視線を投げる。
「……農家。もしあそこを元の姿に戻すことができれば、あなたを認めないこともありませんね」
 ミントは大きく目を見開いた。ボロボロの状態で放置されているエンジュの生家だ。あそこを元の姿に戻す——つまり、人が住めるような状態にするということか。
「よし分かった! ありがとうリズさんっ」
 ぱっと笑顔をつくると、ミントはそのまま駆け去った。離れていく華奢な背中に、リーゼロッテは思わず声をかけそうになった。
「ありがとう、だなんて……全く、何を考えているのだか」
 あんな話、口から出任せだ。家も畑も、一人きりで直せるはずがないだろう。
 第一、肝心のエンジュが、あの家にミントが関わることを望んでいない。去年の時点でそう分かっていたではないか。なのに、ここまであっさり信じるなんて。彼女は甘い、甘すぎる……。
 けれども、だんだん自分がミントの熱意に絆されはじめていることに、リーゼロッテは気がついていた。



「……何してんだよ、リズ」
 背後から声をかけられ、リーゼロッテはどきっと肩を揺らした。
 おもてを上げれば、呆れ顔のジ・ルヴェがいた。リーゼロッテは、農家へ続く小道の脇にしゃがみこんでいたのだ。
「あ、あなたこそ。どうしてここに」
「ミントの様子を見に来た」
 彼は堂々と言い切ると、リーゼロッテの目の前を通ってずかずか農家へ歩いていく。
 ミントはどこからか調達してきたクワを使い、畑の土を耕していた。いつの間にか雑草は抜かれ、転がった石もどけられている。どうやら、本気で農家の整備を始めたようだ。
 彼女は近づいてきた青年に気づいて作業を中断し、
「あ、ジ・ルヴェだ」
 と反応した。彼は微妙な顔になる。
「なんで、俺だけ呼び捨てなんだよ」
「え、だってリズさんはそんなこと言ったら怒るだろうし、エンジュさんは、その……恥ずかしいし」
 じゃあ俺は何なんだ、と問いたい。
「……」質問する代わりに、彼は土くれに目線を投げる。
 汚れた両手をはたきながら、ミントは説明した。
「とりあえず、作物を育てたら農家としての格好がつくでしょ。ここはエンジュさんが帰ってくる場所になるわけだし、生活するためにはお仕事がないとねっ」
「農業、やったことあるのか?」
「家庭菜園くらいしかないけど……挑戦するのは悪いことじゃないでしょ」
 ミントはこともなげに言う。
 彼女の茶色の瞳にじっと目線を合わせ、ジ・ルヴェは不意にかぶりを振った。
「お前、どうしてここまでがんばれるんだ。本当にエンジュのためだけなのか?」
 我の民のジ・ルヴェには、温の民ミントの考えがわからない。他人のために身を粉にして働いても、自分には何の利益もないではないか。
 彼女はすうっと目を細めて、
「わたしはエンジュさんのことが好きだから」
 ——本当に、それだけなのだろうか。ジ・ルヴェには、彼女が無理をしているように見えた。
 ミントは彼の内心に気づかず、腕組みする。視線の先には、屋根の崩れた廃屋があった。
「畑はまだなんとかなるとして、家を直すのはわたしの手に余るなあ……。あ、でもジ・ルヴェが手伝ってくれるなら、大丈夫よね」
「俺が?」彼は驚いて自分を指差す。
「そうよ。漁のない時でいいから、時々手伝ってくれないかしら」
 ジ・ルヴェはしかめっ面になる。彼はすでに漁師の跡取りとして、一人前の腕を持っていた。
「それで、俺に何の得があるっていうんだ」
「あなたの大好きなエンジュさんが喜ぶかもよ」
「な……!? おい、いつ誰がそんなこと言ったッ」
 仰天してミントに掴みかかりかねないジ・ルヴェを、彼女は冷ややかな目で見返す。
「いや、あなたどう見ても『他人に興味ありません』って感じなのに、エンジュさんにだけは妙に執着してるんだもの」
 ジ・ルヴェは頭を抱えた。
「気持ち悪いこと言わないでくれ……」
「じゃあ言いふらさない代わりに、手伝って?」
 ミントはウインクした。全く抜け目ないクラヴァットだった。ジ・ルヴェはもはや、完全に振り回されている。
「……大工道具と材料の調達くらいだったら、しないことはない」
 曖昧なことを言って、ジ・ルヴェは逃げるように去っていった。
「いってらっしゃーい」
 ミントはひらひらと手を振り、もう一度畑に向き直った。
 それからしばらくして。ふーっと息を吐き、彼女は農作業をやめた。下ばかり向いていたせいで、すっかり腰が痛い。まだまだ若いのに、情けないものだ。
 ジ・ルヴェには「畑はなんとかなる」と見栄を張ったものの——農業経験の浅い彼女は、ひたすら試行錯誤を重ねていた。まずはマレードやローランの意見を聞きつつ、畑の雑草を抜き、石を運んだ。その後、壊れかけの納屋から見つけたボロボロのクワを使って、一応畑らしく耕してみたものの……。ミントは途方に暮れていた。
 彼女を突き動かすのは、とにかくエンジュを支えたいという思いだった。だが実際問題、一体どうやって農業で生計を立てていけばいいのだろう。長年雑貨屋のカウンターに立ってきた経験は、この場合あまり役に立たなかった。
 彼女はローランの家から持ってきた水筒を開けた。慣れ親しんだマール峠のミネと味は違うけれど、ベル川の水は柔らかくてすんなり喉を通った。
 と、その時。
「まるでなってませんね」冷たい声がした。
「リズさん!」
 ミントは即座に腰を上げて、やってきたユークのもとに嬉しそうに駆け寄った。
 リーゼロッテはまとわりつく彼女を無視し、しゃがんで畑の土を触った。土はボロボロと崩れて手のひらからこぼれる。
「ふうん。こんな土で、本当にやっていけると思ってるんですか?」
 ミントはしゅんとする。
「……だ、だめなの?」
「だめです。この土にはちっとも栄養が含まれていません」
 そんなあ……と彼女は口元を押さえた。手探りの状況はいつまでたっても変わらない。もはや八方ふさがりだ。
「なんとか出来ないかしら」と言いながら、彼女はすがるようにリーゼロッテをちらちら見た。
 リーゼロッテは仮面をわずかに傾けた。
「……この村には、堆肥が余って買取先を探している、牛飼いの家があるそうです」
 ミントはパッと顔を明るくした。素早く右手を挙げる。
「その堆肥を出世払いで買い取りたい人が、ここにいるんだけど!」
 リーゼロッテは肩をすくめた。
「ちゃんと後でお金払ってくださいよ」
「もちろんっ」
 ミントは喜びのあまり、勢いよく彼女に抱きついた。
「こ、こら、服が汚れるでしょう!」
 リーゼロッテは甲高い声でわめいた。だが、ミントを引きはがそうとはしなかった。
「結局あいつも絆されてるし……」
 遅れて大工道具を持ってきたジ・ルヴェは、仲睦まじい二人を見て閉口していた。



『ミントさんへ——エンジュより』
 こっちの旅は順調です。ミントさんは、無理してない? リズとは仲良くやってるのかな。言葉は厳しいけど、悪い奴じゃないんだよ。口では何て言ってても、新しい友だちができたことは素直に喜んでると思う。
 去年は……その、いきなり変なことを言ってごめんね。びっくりしたんだ、あの家に人がいて——それが他でもない、ミントさんだったから。メモリから、キミがティパの村に行ったって事は聞いてたけど、頭の中でそれが上手く結びつかなかったんだ。
 オレは失礼なことばっかりしてるのに、いろいろ心配してくれてありがとう。でも……あのね、オレのことはあんまり気にしないで欲しいんだ。ミントさんだって、キャロさんが亡くなってから大変だったでしょ。もっと自分の心配をして欲しい。キミに何かあったらって思うと……すごく不安になるんだよ。
 これはオレのわがままだけど、ミントさんには村で、何事もなく暮らしていて欲しいんだ。
 そうしたら、今度帰った時は……ちゃんとただいまって言えるかな。



 エンジュとモグは、三年ぶりにシェラの里を訪れていた。手紙でリュクレールに呼ばれたのだ。学び舎の扉をくぐるのも、久々だった。
 リュクレールの私室は、来る度に物が増えている気がする。この前も論文が学会で認められたらしい。きっとこれから、彼はどんどん忙しくなっていくのだろう。
 なんとか本の山をくぐり抜けて、部屋の主のもとにたどり着く。リュクレールは手元の本から視線を上げた。
「エンジュ、来たか。早速だが、これをもらってくれないか」
 出し抜けに渡されたのは、紫色の石がはまった指輪だった。
「え……?」
 エンジュは反応に困った。
「オ、オレ、アクセサリはあんまりつけないんだけど」
 リュクレールはしばし沈黙した。どうやら勘違いを招いたらしい、と気づく。
「いや、そういう意味ではなくて……。この石は、永久魔石と呼ばれるものなんだ」
 レベナ・テ・ラ時代の遺物を、アーティファクトと呼ぶ。この指輪はそのうちの一つ、サンダーリングだ。
「これ一つで、サンダーが使い放題になる」
 エンジュはきらりと目を輝かせた。モグも嬉しそうにぱたぱたと背中の羽を揺らす。
「へえー! 便利なもんだな。……にしても、どうしてオレにくれるの?」
「たまたまシェラキャラバンが手に入れたものが、研究用に私のところに回ってきたんだ。だが、こんな埃臭い場所にあっても宝の持ち腐れだろう。是非お前の旅に役立ててくれ」
「え、そんな、いいのか。ありがとう!」
 エンジュは満面の笑みを浮かべた。ここまで反応してもらえると、リュクレールの喜びもひとしおだ。
「ところでエンジュ、魔石の合成は行えるようになったか?」
「うん。この前もダンジョンで使った。すごく役に立ってるよ」
 それから二人とモグは和やかにおしゃべりをした。積もる話はいくらでもあった。
「でさー、オレは道に迷っちゃったんだけど、代わりにモグが一人でマール峠まで行って、助けを求めてくれたんだ!」
「おお、偉いじゃないかモグ。お前ももう一人前だな」
「照れるクポ〜! ところでエンジュ。あの時、何日も一人で街道にいて、本当に平気だったクポ?」
「あ、ん、まあ。水はあったし、そのあたりの木の実食べて、適当に過ごした」
「生命力の強い男だな、お前は……」
 あはは、とエンジュは頬を掻く。あの時迷い込んだ名も無き村のことは、当然彼だけの秘密だった。
 リュクレールはふさふさの人差し指をピンと立てた。
「そういえば、そろそろ流星群が見られるらしいぞ」
「流星群?」モグと顔を見合わせる。
「十数年に一度、夜空にたくさんの星が降るんだ。見たことがないのか?」
「うーん……ないかも。それってもう近いのかな」
「時期についてはあまり特定できていないんだ。私も前回見たが、すごく綺麗だったぞ」
「へええー! 楽しみだな」
「ボクも毎晩お空を確認してみるクポ!」
 などなど話しているうちに、いつしか窓の外にはオレンジの光が満ちていた。エンジュはそろそろ時間だな、と思って立ち上がった。
「悪いなリュクレール、長居しちゃって」
「いや、構わないよ。今日は楽しかった」
 エンジュは笑顔で応じ、本の山を通り抜けて部屋の外に脱出しようとした——が。
 ぐらりと世界が傾いだ。
「えっ……」
 急速に床が近づいてくる。
「エンジュ!」「クポーっ」
 リュクレールとモグの声を聞きながら、彼の意識はぷっつりと途切れた。
 ——次に目が覚めた時、彼は大聖堂の一室、自分の荷物を置いている部屋の、ベッドの上にいた。
「あれ?」
 妙に体が重い。それどころか熱っぽかった。ついさっきまで、そんな感覚はまるでなかったのに。なんとなく、一年前にマ・リラと出会った時を思い出す。ということは、そばに誰かいるのだろうか。彼はもぞもぞと頭を動かした。
「エンジュ……!」
 ほっとしたような顔のモグがいた。エンジュは口元を緩める。
「目が覚めましたか」
 そしてベッドサイドにはもう一人、暗い色の髪を持つクラヴァットの青年がいた。メガネをかけていて、白衣を身にまとっている。
「誰……?」
「私はアベルと申します。学び舎で医術を学んでいる者です。リュクレール先生に頼まれて、あなたの診察にきました」
 失礼な誰何にも、冷静すぎる説明が返ってきた。
 つまりは医者の卵だ。エンジュは目を瞬いた。
「ええっと……オレ、体悪いの?」
「いいえ、まだ詳しく調べていないので、分かりません。目が覚めたのなら、これから診察しましょう」
 と言いつつ、アベルはてきぱきと道具を用意し始めた。モグは心配そうに二人の様子を眺めている。
「どうして自分が意識を失ったのか、分かりますか?」
「さあ。なんか急にふらっとして、目の前が真っ暗になったんだ」
「なるほど……最近の睡眠時間は?」
 アベルは次々と質問を重ねる。はじめはエンジュもまともに受け答えしていたが、そのうち話題が逸れ始めた。あまりにアベルが真面目すぎて、ちょっかいをかけたくなったのだ。いつしか立場は逆転し、エンジュが質問側に回っていた。
「アベルはどうして医術を学んでるんだ?」
「うちは代々医者の家系なので……」
「ファム大農場から来たんだよな。あそこでずっと医者をやってきたんだ。へええ」
「あの、診察の続きを」
 好奇心をむき出しにするエンジュに、アベルは戸惑いを隠しきれない。
「エンジュ〜」モグも不満げである。
「だってさあ。寝てるだけなんて、暇で暇でしょうがないんだよ。もっとアベルのことも知りたいし。多分、歳だって同じくらいだよな?」
 医者の卵は虚を突かれたように目を白黒させ、
「……はあ」
 ため息をついた。その後もちょくちょく患者が話を挟み、診察は遅々として進まなかったが、なんとか夕食の時間までには終わった。
 エンジュは服を戻して、
「で、何か分かった?」
「すみません、まだ確定はできません。学び舎に帰って症例を調べてみます」
 アベルは嘘をついた。実際は、この症状に心当たりがあったのだ。
 部屋を辞す直前、彼は後ろ向きのまま尋ねた。
「……エンジュ。あなたはもしかして、食べた物がすぐ栄養になる体質なのでは? もしくは魔法の扱いが得意だとか」
 エンジュは目を丸くした。
「え、よく分かったな! そうなんだよー、昔から食べた分だけ身についてさ! ついでに言うと、剣も魔法も飲み込みが早い方だった。すごいなー、医者ってそんなことも分かるんだ」
「そう、ですか」
 ぎこちない返事をすると、アベルは逸る気持ちを抑えて学び舎に帰った。
 図書室を訪れ、医療分野の棚から一冊の分厚い本を持ちだす。急いでページをめくった。
 あった。この症例は。
「……エンジュ」
 アベルは低い声で呟いた。



 エンジュとモグは今年最後の雫を取るために、コナル・クルハ湿原を訪れていた。あたり一面に瘴気の溶け込んだ沼地が広がっており、一部のキャラバンからは最悪のダンジョンとして忌み嫌われる場所だ。
 モグは馬車から降りて、すぐに異変に気がついた。
「足跡がいっぱいクポ」
 確かに、湿原の泥っぽい足場は、複数の人物によって踏み荒らされていた。
「しまったなあ。どこかのキャラバンに先を越されたか」
 エンジュは頭を掻いた。迷っていても仕方ない、とりあえず進むことにする。
 魔物は先を行くキャラバンに退治されたのだろう、いかにも何かが出そうな雰囲気に反して、道中は平和そのものだった。
 そのうち、前方から賑やかな声が聞こえてきた。誰だろう。気になったエンジュは、ぴょんぴょんと跳ぶように足場を駆けた。
 人影が見えた。予想よりもはるかに数が多い。
「えっ」
 エンジュは足を止めた。驚くべきことに、そこには武の民と我の民が合計七名もたむろしていた。ダンジョンでこんなに大勢の人を見たのは初めてだ。黒い鎧を着込んだアルフィタリアキャラバン四名と、対照的に軽装備のルダキャラバン三名が、輪を作って何か話し合っている。
 中でもひときわスタイルのいいセルキーを見つけ、エンジュは声をかけた。
「ヴィ・レじゃないか!」
 ここ数年は街道で出くわすこともなかったが、まだキャラバンを続けていたのか。
「あっエンジュだー。こんなところでどうしたの?」
 深緑の髪をさらりとなびかせ、ヴィ・レはのんきに返事した。
「そりゃ、もちろん雫を取るために来たんだけど……」
 モグと顔を見交わす。「遅かったみたいだな」
 アルフィタリアのキャラバンリーダーは、エンジュの言葉にかぶりを振った。黒い兜が薄い日差しにてらてら光る。
「いえ。私たちには、別の目的がありますので」
 カイル=キーツという名のリルティは、大きな剣を背負っていた。武の民の背丈とまるでサイズが合っていない。
「その剣、なんですか?」
 エンジュは不思議と惹かれるものを感じ、カイルの背中をのぞき込んだ。
 刀身は分厚い布に包まれており、柄の部分だけが露出している。黒の地に、まるで血管のように赤い装飾が走っていた。「禍々しい」という表現がピッタリの剣だ。
「これは……レベナ・テ・ラで発見されたものです」
 レベナ・テ・ラとは、この湿原の近くにある、前時代の都市遺跡だ。
 カイルは兜を下に向けた。背中の剣の重みに耐えかねたように。
「どうしてここに剣なんか持ってきたんですかー?」
 ヴィ・レがとぼけた声で尋ねた。
「これを沼に捨てよ、という命を王から受けまして」
 アルフィタリアの王様から? 疑問符を浮かべたティパ・ルダ両キャラバンに対し、カイルは声をひそめて語り出した。
「実はこの剣……曰く付きの魔剣なのです」
 ひとたび柄を握れば使用者の心にどす黒い殺意がわき、さらにはただの一振りで自身の生命力を削る。今までに幾人もの犠牲者を出したという、本物の魔剣だ。その銘は——ラグナロク。
 エンジュはぶるりと震えた。何気なく目にしていたが、想像以上の逸品だった。
「それで、沼に沈めるんですか」
 二度と人の手に渡らぬよう、自然の力に任せるのだ。そこまで危険な武器をこの世に送り出したのは、一体どこの誰なのだろう。レベナ・テ・ラで発見されたということは、ボスの暗黒魔道師リッチがつくったものか、もしくは前時代にあの都市でつくられたものか。
「ええ。我々はそれが目的でここに来ました。ですので今回、アルフィタリアは雫を取りません」
 カイルはきっぱりと宣言した。ならば、雫はルダとティパの間で争うことになる。ヴィ・レとエンジュは素早く目線を交わした。
「どうするエンジュ」
「……競争だ!」
 それを合図に、二つのキャラバンは全力で湿原を走り始めた。
「皆さん、元気ですね」
 カイル=キーツは微笑み、年若いキャラバンたちを見送った。



「モグ、大丈夫?」
「クポー……」
 重たいケージを運ぶモグは、あまり長い間空を飛ぶことが出来ない。そのため、エンジュたちは木の下に座って一時休憩をとっていた。不機嫌な天気と濃い瘴気によりあたりは沈んで見えるけれど、ケージの頂点を飾るクリスタルのおかげで、彼らの周囲だけほんのり明るい。
 モグは申し訳なさそうにボンボンを揺らした。
「このままじゃ、エンジュが負けちゃうクポ」
「大丈夫だよ。雫がとれなかったら、また別の場所に行けばいいんだから」
 ヴィ・レに対して威勢のいいことを言ったのは、単に張り合ってみたかったからだ。
「ボクは……エンジュの役に立ててるのかな」
 急にモグが弱気な発言をしたので、エンジュはびっくりしてしまった。
「何言ってるんだよ。オレ、モグにはケージを任せっきりで、マジックパイルだって全部タイミングを合わせてもらってるんだぞ」
「でも、エンジュは一人でもとっても強いクポ!」
「そりゃあ……モグは郵便配達員で、オレはキャラバンだからだよ」
 エンジュはへらりと笑ったが、モグはどことなく不満そうだ。
「ボク、もう平気クポー!」
 モグはぴょこんと飛び上がった。「無理してるのかな」と思ったが、エンジュは小さな生き物のがんばりを認めて、自分も腰を上げた。
 二人は再びルダキャラバンの足跡を追って歩き始めた。
 長い長い湿原を踏破し、彼らはついにボス・ドラゴンゾンビのいる場所の、直前まで辿り着いた。道中では誰にも会わなかったため、ルダキャラバンには完全に先を越された形になる。
 ならば、これ以上先に進む必要は無いわけだが——エンジュは前方の様子がおかしいことに気付き、走り出した。狭い足場に殺到しているのは、ドラゴンゾンビだけではない。
「ベヒーモス!?」
 紫電をまとう巨大な角と、冷気と熱気を操るしっぽを持つ化け物。魔物の王とも呼ばれる強敵だった。
 前門のドラゴンゾンビ、後門のベヒーモス——ルダキャラバンは挟み撃ちにされていた。おまけにストーンサハギンまでいる。三人とも善戦しているが、今にも戦線が崩れそうだ。
 身震いした彼はすぐに剣を抜き、ベヒーモスに斬りかかる。
「エンジュ!」ヴィ・レが叫んだ。ラケットでストーンサハギンをぶちのめしながら。自慢の美しい髪も、汗と泥で乱れてしまっている。
 ベヒーモスが前足を伸ばし、右フックを仕掛けてきた。エンジュはのけぞって回避するが、逃げ損ねた赤茶の髪が何本か散った。
「こっちはオレに任せて!」
 モグにブリザドを使うよう指示して、彼はベヒーモスと対峙した。
 炎をまとったしっぽをジャンプでかわし、同時に発動したブリザド剣を叩きつける。すでにルダキャラバンによって体力を削られていた魔物は、その強烈な一撃によって巨体を揺らがせた。エンジュは刀身をぐいぐいとベヒーモスの皮膚の下に押し込んだ。
 このまま一気にとどめを刺すつもりだった。だが、不意にベヒーモスが身をひねったせいで、体勢が崩れた。そこに畳みかけるように、大きな角がばちばちと電気をまとった。
「しまったっ」
 角から逃れるため、剣を握っていた手を離した。それでも、このままでは直撃する!
「エンジュ!」すかさずモグがブリザドを放った。鋭い氷はエンジュがつけた傷をピンポイントでえぐった。
 今のが最後の力だったらしい。ベヒーモスは急に勢いを失って倒れこんだ。……が、最悪なことに、その拍子に剣が皮膚から抜け落ちた。
「あっ」
 拾う暇も無く、沼に呑み込まれてしまう。どぼん、と重い音がした。
(これは……まずい)
 冷や汗をかいたエンジュは、とっさに、
「頼むモグ、アルフィタリアキャラバンを呼んできてくれッ」
 と叫んでいた。これ以上、四人で戦線を支えられる気がしなかったのだ。
「了解クポ! エンジュ、気をつけて——」
 大切な使命を背負ったモーグリは、その場にケージを置いて、全速力で暗い空を駆けていった。
(……さて、と)
 無手になったエンジュだが、戦う手段はまだある。魔石だ。彼はベヒーモスの消滅を見届けると、ドラゴンゾンビに苦戦しているルダキャラバンのもとへ走った。
「うひゃーっ」「大丈夫かヴィ・レ!」
 ボスに睨みつけられて半身が石化した彼女を、エンジュは早速浄化魔法クリアで救出した。
「あっ、ありがとう」
「今、助けを呼んだ。とにかくアルフィタリアキャラバンが来るまで耐えるんだ!」
 彼は神聖魔法ホーリーを中心に戦うつもりだった。すでにサンダーリングとレイズの魔石の合成は済ませている。それで、ある程度の時間稼ぎはできると考えていた。
 しかし、ドラゴンゾンビの攻撃は想像以上に苛烈だった。
「げほ、ごほ」
 ルダキャラバンの仲間たちが、ポイズンブレスを喰らってうずくまる。ヴィ・レはその回復に忙殺されていた。これではホーリーの詠唱時間が稼げそうにない。
 ならば自分が注意を惹きつけよう、とエンジュは前に出た。ドラゴンゾンビの羽ばたきによってソニックブームが巻き起こる。かろうじて回避には成功したが、
「ぐ……っ!」
 沼に足を取られた。焼け付くような痛みが走る。人数が多い分、足場が水に沈みやすいのだ。
 これではホーリーを使えない。もはや、アルフィタリアキャラバンの助けを待つしかないのだろうか。
(こうなったら)
 エンジュの茜色の瞳が、危険な輝きを放った。
 彼はポーチから取り出した何かを口に含むと、ドラゴンゾンビに真正面から向き合った。
「ちょ、エンジュ、剣もないのに無茶だよ!」
 ヴィ・レの制止も聞かず、エンジュは魔物をぎりりと睨みつけた。ドラゴンゾンビの首が襲ってくる。彼はその場で大きく体を反らし——否、バック宙をした。
「えっ!?」
 クラヴァットらしからぬ身の軽さだ。彼はひょいひょいと足場の間を跳んで、軽やかに攻撃をかわしていく。
 しかし、そちらは聖域の外だ。驚くルダキャラバンの前で、彼は躊躇なく瘴気の中に飛び出した。まるで、聖域も仲間も邪魔だと言わんばかりに。
 絶え間なく体を動かしながら、彼は意識を集中させていたらしい。至近距離からドラゴンゾンビにホーリーを放つ。白い光が炸裂し、アンデットの体を実体化させた。
「マジックパイルなしで、魔法を……!?」
 ヴィ・レたちは仰天した。初めて魔石の合成を目の当たりにしたのだ。
 もう一度ホーリーを当てて、巨体が揺らぐのを見届けると、エンジュは聖域の中に転がり込んだ。
「大丈夫か!?」
 仲間がケアルを放った。淡い緑の光がエンジュの体を包む。
 彼は口の中から何かを取り出した。クリスタルリングだ。瘴気の影響を軽減するアクセサリをくわえて、聖域の外での活動時間を延ばしていたのだ。
 げほ、とエンジュは咳をした。口の端から赤いものが垂れ、それを乱暴に拭う。
「え、エンジュ……」
 あまりにも壮絶な戦い方だった。ヴィ・レは何も言えなかった。まるでセルキー——いや、眠れる野生そのものだった。彼女は、エンジュの心に潜む無意識の闇を見つけてしまった。
 今がチャンスだ、一気に敵に畳みかけるべきだ、と彼女の脳が命令していた。なのに、足がすくんで動かなかった。それは、ドラゴンゾンビのせいではない。
「エンジュ殿!」
 ガチャガチャという複数の足音がした。この声はカイルだ。モグが助けを呼んできてくれた!
「これを使ってくださいっ」
 エンジュは手に飛び込んできた黒剣を掴む。それは魔剣ラグナロクだった。彼の瞳に力が戻る。
「よしっ」
 彼は伸びてきたドラゴンゾンビの首を踏みつけて、思いっきり跳んだ。ケージ聖域を抜け出すくらい、高く高く。そしていつものように、武器の持つ力を引き出す。
「その技は——!?」カイルが叫んだ。
 どくり、エンジュの心臓が脈打った。腕に紫の光がまとわりつく。暗黒の力を宿したラグナロクを、彼は実体化したドラゴンゾンビに突き刺した。
 ぐぎゃおお、と断末魔が暗い空にこだまする。
 危なげなく着地するつもりだったが、彼はふらついてしまった。
「大丈夫?」ヴィ・レが先ほどのお礼とばかりに支えてくれる。
「あ、ああ……」
 体のどこにも力が入らない。エンジュはヴィ・レに体重を預け、ラグナロクを杖代わりにして、やっと立っている状態だった。それでも彼はカイルに向かって微笑みかけた。
「この剣、もうとっくに捨てたんじゃないかと思ってました」
「ええ……人がなかなか立ち寄らない奥地を目指していたのですが、道中にいたサハギンロードに苦戦しまして。やっと倒したところで、ちょうどモグさんがやって来たのです」
 カイルはちらちらエンジュの体を気にしているらしい。そして、ぽつりと言った。
「先ほどの必殺技は、暗黒剣ですね。まさか、あなたが使いこなせるとは——」
 アルフィタリアの誇る歴戦の強者である彼が、束の間絶句してしまった。
 しばらくして我に返り、カイルはしずしずとエンジュの前に進み出た。
「この剣は、あなたが使ってくれませんか」
「オレが……?」
「きっとラグナロクは、あなたとともにあることを望んでいます」
 エンジュは照れくさそうに頬を掻いた。剣の意思など分からないが、カイルの言葉は胸にしみいった。
「でもこれ、危ない剣なんですよねー?」
 やっといつもの調子を取り戻してきたヴィ・レが、首をかしげた。
「そうですね。暗黒剣は、自らの生命力を削る大技でもあります。
 ですがあなたなら、必ず使いこなせると信じています。私の背にあった時よりも、ラグナロクが生き生きしていますから」
「けど——」
 ヴィ・レは食い下がった。がむしゃらにドラゴンゾンビと戦っていたエンジュの姿が、頭をよぎったのだ。危険な武器を持てば、もっとひどいことになるのではないか。
 しかし、
「任せてください。ちゃんと考えて扱うようにします」
 当の本人にこう言われてしまえば、引き下がるしかなかった。
 そこでエンジュは、心配そうに近寄ってきた唯一無二の仲間の姿に気づく。
「エンジュ〜」
 白い毛並みを持つ生き物は、少しよろよろした飛び方をしていた。へとへとに疲れているのだろう。
「モグ、ありがとうな。本当に助かったよ」
「クポ……」
 モグはどことなく申し訳なさそうである。エンジュの大変な時に、そばにいられなかったことを悔やんでいるのだろうか。エンジュは彼のボンボンを優しくなでてあげた。
「あのさ、モグ。ずっと言おうと思ってたんだけど——お前はもう、一人でも十分やっていけるよ。今回なんて、自分だけでダンジョンを抜けて、アルフィタリアキャラバンを呼んでこられたんだ。モーグリの仲間たちにも絶対に認めてもらえるよ」
 それはすなわち、別れの宣告だった。モグは困惑を隠しきれない。
「ク、クポ……」
「オレは一人でも平気だから。な?」
 そもそも、モグは一人前の郵便配達員として認められるため、エンジュについてきたのだ。これ以上無闇に危険にさらされる道理はない。二人の別れは必然だった。
 あふれる思いを抱えて、モグは彼の胸に飛び込む。
「ボク、いっぱいエンジュにお手紙を届けるクポ。だから、これはお別れじゃないクポ……!」
 ヴィ・レはにこにこして二人の様子を眺めていた。しばらくの間は。
「ごめん、感動のお別れをしてるところ、悪いんだけど。ミルラの雫、どうするー?」
 すっかり忘れていた。
「宣言通り、アルフィタリアは関与しませんよ」カイルが口を挟んだ。
 エンジュはしばし考えて、
「オレは……やっぱりいいや。新しい剣が手に入ったし、十分収穫はあったよ」
 それにティパのケージの方が、ルダキャラバンよりも一回分余計に雫が溜まっている。
「え、いいの?」との念押しに、エンジュはこくこく頷いた。
「助かるよ、ありがとう……!」
 ヴィ・レの仲間は「感謝してもし足りない」とでも言うように、エンジュの手をぎゅーっと握った。
 すぐさまミルラの木に直進する仲間たちを尻目に、ヴィ・レがエンジュに近寄る。
「……ねえ、エンジュ。さっきのボス戦についてなんだけど」
 彼女の水色の目が不安そうに泳いでいる。
「あんまり、ああいう戦い方はしないほうがいいと思うの。いつかきっと、取り返しのつかないことになるわ」
 彼は首を傾けた。ピンと来ていないようだ。
「ああいう戦い方って?」
「瘴気の中に飛び込むようなことよ。ジ・ルヴェがあれを見たら、きっと心配すると思う」
「ジ・ルヴェがー? あいつ、オレなんか気にかけないよ」
 エンジュは胡散臭そうにしているが、ヴィ・レは真剣だった。
「じゃあ、故郷で待ってる大事な人! 一人くらい、いるわよね。その人を不安にさせたくないでしょ?」
 とっさにエンジュは黒髪の少女を思い浮かべた。いや、それは過去の姿だ。彼女は今や、立派な女性になっている。雑貨屋のカウンターから抜け出し、ティパの村までやってきて、エンジュに「おかえりなさい」と言ってくれた……。
 ミントが今の自分を見たら——服はボロボロ、自分の血と泥と魔物の体液にまみれた彼を見たら、どう思うのだろう。
「ミントさんに嫌われるかな……」
 思わずぽつりとこぼしていた。
「ふーん、ミントちゃんっていうのか。覚えておこう」
「あ!? 今のなし、今のなしーっ!」
 慌てて手を振るエンジュに、ヴィ・レは悪役顔で微笑んだ。
「ね、嫌でしょそんなの。だったらもうちょっと、まともな戦い方を心がけよ?」
「分かったよ……」
 ヴィ・レは満足げにウインクした。
 表面上は大人しく頷きつつも、エンジュは心の中で反論していた。
(でもね、ヴィ・レ。オレはこれしか選べないんだよ)
 そんな内心に共鳴したのか、ラグナロクがぶうんと唸った。



『エンジュへ——リュクレールより』
 無事、コナル・クルハ湿原は攻略出来ただろうか。サンダーリングは役に立ったかな? またいつか会える日を楽しみにしているよ。
 それで……体のこと、アベルに聞いた。気を落とさないでくれ。私も、なんとか治療法を探してみるから。
 まだ遅くない。今すぐキャラバンをやめるんだ。やけになって行動しても、何もいいことはない。頼むから……命を粗末にしないでくれ。
 キミの大切な人だって、それを望んでいるはずだ。



「ただいま!」
 ティパ村の入り口で、エンジュは明るく腕を広げた。長らく旅の相棒をつとめていたモグとは、途中のリバーベル街道で別れてきた。彼は正真正銘の一人になったわけだが、出迎えに集まった村人たちは、それについて指摘しなかった。これもまた優しさだろう。
 人々を見回して、彼はある人物がいないことに気づく。
「……ミントさんは?」
「お前のこと、待ってるよ」
 ジ・ルヴェがニヤニヤしながら前に出てきた。エンジュは少し眉根を寄せると、馬車を引いて村に入る。
 ジ・ルヴェはミントが「どこで待っている」とは言わなかった。……まさか。
 日が落ちかけて、あたりは薄暗くなっていた。彼は早歩きになる。
 角を曲がる。柵の向こうに見えた家——農家には、ぽっと明かりが灯っていた。
 それだけではない。廃墟だった家には柱が立ち、壁が作られ、屋根がかかっていた。畑にも、種がまかれた痕跡がある。
「あ……」
 エンジュは立ち止まった。のど元にこみ上げるあたたかいものの正体が、彼には分からない。
 夢のような心地で玄関を叩いた。すぐに、ミントが出てきた。ドアが開くと同時に涼やかなベルが鳴る。これは、マール峠の雑貨屋の音色……。
 ミントは去年と全く同じ柔らかい声で、
「おかえりなさい」
 と言った。
 エンジュは何度か深呼吸してから、ぎこちなく微笑んだ。
「た……ただいま」
 ミントはその返事を聞いて、心からの笑顔を浮かべた。
 ——良かった。自分のやったことは、無駄ではなかった。彼女の胸には幸福感があふれていた。
 エンジュは室内を見回し、「どうしたの、ここ」と言葉少なに訊ねる。
「リズさんとジ・ルヴェに協力してもらってね。なんとかこの状態までこぎつけられたの」
「そうなんだ……」
 今や、エンジュの心は驚きでいっぱいだった。三人とも、いつの間にそこまで仲良くなったのだろう。どんどん村に馴染んでいくミントが、眩しかった。
 彼女は瞳を輝かせた。
「わたし、決めたの。ここで農業をやるって。畑を耕して、小麦を育てて、エンジュさんを支えるわ」
 エンジュは目を丸くする。
「農業って、やったことあるの?」
「ないわ。エンジュさんは?」
「……オレも、ない」
 二人は同時に笑った。これは先行きの悪いスタートだ。
 そしてミントの笑顔は、だんだん意地の悪いものに変化する。
「さて。これでもあなたは、わたしにここにいて欲しくないのかしら」
 エンジュはどきりとする。去年、彼がミントを強く拒絶してしまったことについて言及しているらしい。
「ミントさん、もしかして根に持ってた……?」
「もちろんよ。いきなりすぎて、訳が分からなかったんですもの」
 唇をとがらせる彼女を見て、エンジュは眉を曇らせた。
「だって……ミントさんが寂しそうにここに立ってるのが、すごく嫌だったんだ。そのままいなくなっちゃいそうでさ」
「寂しそう? わたしが?」
「うん」
 いかにも心細い顔で頷くエンジュが、急に子供っぽく見えた。いや、堂々とキャラバンをつとめていても、彼は初めて会った時から変わらず、ずっと無邪気な心を持ち続けていたのだ。
 それに、「ミントがいなくなってしまいそうで嫌だった」とは——廃墟になった実家から滅びのイメージを想起し、あそこにいたミントの姿と思わず重ねてしまったのだろうか。
「大丈夫。わたしは寂しくなんかないし、もちろん消えたりしないわ」
 ミントは安心させるように彼の手を取ると、とっておきの提案をした。
「ね、今日の水かけ祭りが終わったら、ここに泊りましょうよ。ベッドはないから、誰かの家から毛布を借りてきて。
 何たって、ここはあなたの家なんだから!」
 エンジュはごくりと唾を飲む。
「オレは——」
 こつ、こつ。第三者の靴音がした。玄関に姿を現したのはローランだ。彼は薄い色の目を細めた。
「おかえりなさい、エンジュ」
「ただいま……戻りました」
 エンジュは何故かぎくしゃくと顎を引いた。
 それからローランはミントに視線を移し、
「ところで、今の話を聞いてしまったんだけど——年頃の男女が二人きりでお泊り、というのはさすがにまずいと思うんだ」
「あッ!」
 二人はぼっと顔を燃やした。そんなこと、全く思い当たらなかったのだ。
 図ったようなタイミングで、ジ・ルヴェとリーゼロッテが開いたままのドアから顔をのぞかせる。
「つーわけで、俺らも泊まるぞ」
「な、なんで私が雑魚寝なんかを……!」
 片方は興味なさそうで、もう片方は肩を怒らせていたが、ミントは胸が高鳴るのを感じた。
「それ、いいわね! リズさんといっぱいお話ししたいわっ」
 ミントは屈託のない笑みを浮かべる。「まあ、どうしてもと言うのなら……」リーゼロッテは満更でもなさそうだ。
 ジ・ルヴェはそっとエンジュに視線をやった。元・農家の息子の顔が、ぱあっと明るくなっている。
「みんな——ありがとう!」
 それは何故か、聞く者の胸が切なくなるような感謝だった。
「……」
 ローランも、ジ・ルヴェも、リーゼロッテも、そしてミントも。皆がなんとなく黙りこくってしまった。
 自分を取り巻く空気の変化に気づかず、エンジュは懐から手紙を取り出した。
「そうだった。ミントさん宛てに、モグからこれを預かったんだ」
「モグくんから? そういえば、あの子はどこにいるの」ミントはきょろきょろする。
「正式に郵便配達員になったんだよ。これは、その最初の仕事」
 エンジュはまるで自分のことのように胸を張った。
「へえ! それは良かったわね」
 やりとりを聞いて、ジ・ルヴェはわずかに眉をひそめた。……これでエンジュは、正真正銘のひとりになったわけだ。
 ミントは受け取った封筒をくるりとひっくり返して、署名を確かめる。
「……メモリからだ!」
 頬をほころばせ、指で封を切った。エンジュは驚いた。
「あのペーパーナイフは使わないの?」
 ミントは目をぱちぱちした。少しだけ懐かしい単語だった。
「最近は、引き出しにしまったままなの。手紙だってエンジュさん以外にはほとんど書いてないわ」
 もちろんペーパーナイフは大切な形見だ。でも、あれが唯一世界と繋がる手段だった昔とは違い、今の彼女は自力で道を切り開くことができる。
 死んだ両親にも祖母にも、久しく手紙を書いていない。彼女は、「これからは生きている人のために時間を使おう」と決めていた。
「手紙なんて書かなくても、今は寂しくないもの」
 ミントは胸に手をあてた。これでやっと、エンジュに近づけた気がしたのだ。
 しかし、彼は静かにかぶりを振った。
「あれはお母さんとの思い出のナイフなんだから、ミントさんが持ってた方がいいよ」
 エンジュの発言には重みがあった。彼は両親の記憶が一切無いのだ。
「あ、そっか。そうよね。うん、やっぱりできるだけ持ち歩くようにするわ」
 ミントは慌てて取り繕うと、ちらりとエンジュを見た。
「……」
 彼は何か言おうとして唇を開いたが、結局は声には出さず、そっと息を吐いた。



(八年目)

『エンジュへ——ローランより』
 やあエンジュ。旅の調子はどうだい。僕たちはいつでも、きみが無事に帰ってくることを祈っているよ。
 きみが雫を集めてくれるおかげで、ハーディとガーディも元気に育っている。いや、むしろミントちゃんのおかげかな。マレードも彼女が来てくれて、すごく助かっているようだ。
 エンジュ。……そろそろ彼女について、きちんと考えてあげた方がいいと思う。きみたちが出会ってから、ずいぶん時間が経っただろう。ミントちゃんは、ずっときみのことを待っているはずだ。
 きみの心配も不安も、よく分かるけど……彼女はきっと、それすら乗り越えてくれる。
 こんな僕でさえ、小さな幸せをつかめたんだから。きみがいつまでもひとりでいる必要はないんだよ。



 ミントはリーゼロッテに会うため、牛飼いの家に向かっていた。
 すると自然、村の入り口近くを通ることになる。ベル川にかかる橋を渡れば、目に見えない聖域の境目があって、その先には瘴気が満ちている。エンジュを送り出したり迎えたりするとき以外、滅多なことでは立ち寄らない場所だ。
 けれど——その日、ミントはふとそちらに足を向けた。聖域の向こうの茂みが、動いた気がして。
 ただの見間違いだろう。そう思いながらも、彼女の心はざわめいていた。
 おそるおそる、橋の上までやってくる。ミントは目を見開いた。
「う、そ……」
 茂みの中で、ちらちら赤いものが動いていた。まさか。
 視線が外せない。体は凍りついたように動かなかった。不可抗力で注視し続けると、ついにその正体が明らかになった。
 魔物だった。近くのリバーベル街道に生息しているという、赤い小鬼ゴブリンだ。
「きゃっ」
 まっすぐこちらにやって来る!
 ミントは後ずさりしようとしてバランスを崩し、尻もちをついた。膝が笑って起き上がれない。全身がガタガタ震えていた。
 どんな種族にもありえない、長い耳と真っ赤な肌。さらにはナイフのようなものを持っている。
 顔に影がさした。ミントはぎゅっと目をつむる。
 瞬間、鈍い音が数度響いた。自分が殴られたわけではない。ミントはおそるおそるまぶたを開けた。
「無事か」
 目の前に、戦闘用のラケットを持ったジ・ルヴェがいた。差し出された手をとって、彼女は立ち上がった。
 まだ足が震えていた。寒気がする。ミントは「ごめんなさい」と前置きして、ジ・ルヴェに体重を預けた。彼はそっと肩を掴んで支えてくれた。
「魔物は……?」あたりを見回すが、忽然と消え失せている。
「倒した」
 ジ・ルヴェは平然と言った。そういえば、彼はエンジュとともに、いくつものダンジョンを攻略しているのだ。
「ジ・ルヴェって、強いの」
「どうだろうな」
 彼は即答してから遠くを見つめ、
「これでも、鍛えたつもりなんだ。でもエンジュには追いつけなかった。時が経つほど、あいつはますます遠ざかっていく……」
 ミントは胸のあたりをギュッと掴んだ。
「エンジュさんって、そんなに強いんだ」
「そりゃそうだ、あいつは——」
 彼は不意に口をつぐんで、
「なんでもない」
 目をそらした。ミントは静かにため息をつく。この村に来て二年も経つのに、まだ踏み込めない領域がいくつもある。エンジュの過去についても、不透明な部分が多い。
 それにしても、先ほどのあれは怖かった。恐ろしい魔物の顔が、今もまぶたの裏に焼きついている。ちっとも体の震えが止まらなかった。
 エンジュはいつもあんな魔物と戦っているのだ。いや、もっともっと恐ろしい敵とも——七年も前から、ずっと。
 彼と同じ景色を見たい、同じ思いを共有したい。そう願っても、戦う力のないミントには、どうすることもできなかった。
 柄にもなく暗い気分になってしまった。祖母が死んでティパ村に来て以来、ふとした瞬間に、底なし沼のような思いに引き込まれそうになる。
(ああ、やだやだ。わたしはあの人を支えるって決めたんだから。わたしが落ち込んでどうするのよ!)
 まなじりを決した時、ミントの体は、ふわりとあたたかなものに包み込まれた。
「え。ちょっと、何?」
 ジ・ルヴェを見上げた。彼女はすっぽりセルキーの腕の中にいたのだ。久々に女たらしの面を発揮したのだろうか。
 冷たい彼の美貌も、その下に流れる血の温度を知ってしまったミントにとっては、親しみ深いものになっていた。ジ・ルヴェは、相変わらずやる気の感じられない表情で彼女を見る。
「エンジュの代わりだ」
「何よそれ。全然代わりになってない」
 辛辣な指摘をしつつ、ミントはセルキーの分かりにくい気遣いに笑みをこぼしていた。



 畑が耕され、家が屋根を取り戻し、どんどん農家らしくなるエンジュの生家にて。リーゼロッテはミントに対して指導を行っていた。
「小麦だけでなく、より利益になる作物を育てるべきです。そして、徹底的な二毛作を心がけなさい。あなた一人の力で採算をとるには、それしかありません」
 彼女は手元のメモに時折目線を落としながら、テキパキと指示していく。
 そんなリーゼロッテを、ミントは感動のまなざしで見つめた。
「本当にありがとう、リズさん。
 そうだ。最近、あなたが商人の家に通ってるって聞いたわ。もしかして、わたしのためにいろいろ考えてくれたの?」
 リーゼロッテはぎくっとする。
「ち、違います! 私はただ、肥料の代金を払って欲しいだけで」
「でも、いつまでも待つって言ってくれたわ。だったらエンジュさんのため?」
「それも、違います……」
 言い逃れできなくなってしまったリーゼロッテは、肩を落とした。ミントはそこで、ふと表情を曇らせた。
「リズさんは……エンジュさんのこと、どう思ってるの」
 その質問に、リーゼロッテは虚をつかれた。少し警戒しながら答える。
「別に。単なる友人ですよ」
「だったら、どうしてあの人を一人で行かせたの? どうして何年もシングルプレイヤーを続けさせているの? そろそろ……わたしにも、教えて欲しいのよ」
 リーゼロッテは嘆息した。いつか来るとは思っていた質問だ。しかし、彼女はそれに答えることができなかった。
「それは……ローランさんか村長に尋ねてください。私からは話せません」
「ローランさんに? どうして」
 びっくりしてミントは口を開けた。リーゼロッテはメモ用紙をぎゅっと握りしめる。
「エンジュが一人で旅に出たのは、村長と彼の決定によるものです。特にローランさんは、エンジュの一代前にキャラバンリーダーをつとめていましたからね」



 全く、ティパ村の人々は隠し事が大好きなのだろうか。ジ・ルヴェかリーゼロッテあたりをつついた方が早いと思っていたが、まさか一番お世話になっているローランが鍵を握っていたとは。
 ミントは肩を怒らせながら、すっかり馴染んだ仮住まいに向かった。
 乱暴に玄関を進み、驚くローランを見つけ出し。開口一番、こう切り出す。
「ローランさん。エンジュさんがどうして一人で旅に出たのか、教えてくれませんか」
 唐突すぎる詰問に対して、ローランは絶句した。
「そ、それは」
「まさか、全部知ってて、わたしのことをずっと笑ってたんですか?」
 ローランの顔がくしゃりと歪んだ。
「違う。違うんだよミントちゃん。……まだ、そのことは整理がついてないんだ。ごめんっ」
 彼はそう言って背を向けると、逃げるように外に出た。
「あ!」ミントは思わず後を追いかけた。
 ローランは家の裏に回り込んだようだ。そこには鍵のかかる木の柵があった。いつもは扉が閉まっているが、ローランが通ったのだろう、今は開け放たれている。
 柵を越えると広めの庭があった。すぐ向こうには海が見える。ティパ村の隠れた絶景スポットだった。
 が——広い海を遮るように、庭にはいくつもの木切れが立ち並んでいた。
(お墓だ……)
 ミントは直感した。マール峠で見るものとは、全く違う。あの村では、墓標は石だった。墓石の前に、生前その人が身につけていた金属の品を供えるのだ。ミントの祖母の場合は髪飾りだった。
 緑豊かなティパの村では、このような墓を使っているのか。
 ローランは墓標の前で、長い間瞑想していた。静かな波音が聞こえる。時が何倍にも引き伸ばされたようだった。
 不意に彼が振り向いたので、ミントは慌てて物陰に隠れる。見てはいけないものを見てしまった……という罪悪感が胸に残った。
 それでも好奇心、もしくは使命感がそれに勝った。ローランがいなくなってから、ミントは墓を調べてみた。彼が黙祷していたのは、三つ並んだ比較的新しい墓標の前。名前からするとそれぞれセルキー、ユーク、リルティのようだ。
 ミントはその場に佇み、しばらくぼんやりと海を見ていた。近いようで遠い水たまり。こんなに間近で眺めていても、決してミントは海の水に触れることはない——近くにあっても触れられない、それはまるでエンジュの心のようだった。
「ちょっと……! あなた、こんなところにいたんですか」
 焦ったように背中から声をかけたのは、リーゼロッテだった。ミントは振り返らず、問う。
「リズさん、これ」
「……」
 彼女は答えない。
 ローランは、先代のキャラバンだったという。エンジュはその立場を引き継いで、一人で旅に出た——今にも真実が頭の中で組み上がりそうなのに、まだ何か、ピースが足りない。
「このお墓に眠る人たちは、誰なの?」
 胸の中では、知りたい気持ちと知りたくない気持ちせめぎ合っていた。
 返答に窮するリーゼロッテのもとに、新たな人物の足音がやってきた。
「その件については、ワシから話そう」
 彼女らがよく知る、小さな老リルティだった。
「村長!」
 ミントは声を上げる。なぜ彼がこのような場所に。そういえばリーゼロッテは、ローランともう一人——村長こそが、エンジュを旅に出した張本人だと語っていた。
「どういうことですか。村長は、何を知っているんですか」ミントは硬い声で尋ねる。
 リルティはヒゲに埋もれた唇をもごもご動かした。
「この三人とは、ワシも関わりが深かったからのう……」
 そうして村長は語り出した。



「行ってまいります!」
 元気に挨拶をして、若者たちはティパの村から旅立った。
 今から八年前の出来事だ。キャラバンは例年の通り、四種族から一人ずつ選ばれた。セルキーの男マ・ルセル、ユークの女ハンネローレ、リルティの女ドロシー。そして、その三人を取りまとめるのは、クラヴァットの男ローランである。
 ティパの村を発った四人は、しばらく新街道を馬車でのんびり走っていた。……が。
「オイ、なんか毛布が動いてるぞ」
 昼寝をしようと荷物を探ったマ・ルセルが声を上げた。確かに布はふんわり盛り上がり、おまけにゆっくり上下していた。馬車の振動とは別の動きだ。近くにいたドロシーが、おそるおそる毛布をめくると。
「ぷはーっ」
 中から子供が飛び出してきた。
 赤茶の髪をヘアバンドでまとめた少年だ。キャラバンたちと十歳は離れているだろう。彼らはほぼ同時に叫んだ。
「エンジュ!?」
 にこり、少年は屈託なく笑った。エンジュはこの時、十四歳だった。
「ついてきちゃいました!」
 子供はあっけらかんと言う。あまりに突飛なことで、キャラバンは怒る気すらなくしてしまった。
 御者台にいたローランは、荷台の騒ぎを聞きつけ、慌ててパパオの足を止めた。
「エンジュがいる? 嘘だろう」と彼はマ・ルセルの言葉を疑ったが、自分の目で確かめて、声もなく驚いた。
 ドロシーはやっと驚愕から覚めて、青い兜をかぶり直した。
「ついてきちゃったって……ああ、もう村があんなに遠くにあるわ」
 今から戻れば数時間のロスは免れない。それでも、これ以上離れてから気づくよりは、はるかにマシだったが……。
「エンジュ、どうしてついてきたの……?」
 ハンネローレが遠慮がちに問うと、
「どうしてもキャラバンになりたくて。一度でいいから、外の世界が見てみたかったんだ! でも正式に加入できるのは、まだまだ先のことだろ? それでつい、無理やり……」
 エンジュはうつむいた。当時のティパキャラバンは、二十代の青年たちが入る決まりだった。家を継ぐ前の若者に外の世界を見せる、という目的があったのだ。
 いくらその不文律を打ち崩したかったとはいえ、エンジュの行動は無鉄砲にも程がある。
 マ・ルセルはため息をついて、呆然としているローランに尋ねた。
「どうする? リーダー」
 何度か瞬きして自分を取り戻すと、ローランはエンジュをまっすぐ見つめる。
「エンジュ、もちろん覚悟があってついてきたんだよな」
「はい」
 真剣な顔でエンジュは首肯する。彼はこの歳ですでに、引退したキャラバンやローラン自身から積極的に剣の手ほどきを受けていた。筋はかなり良いとの評判だ。
 ローランは仲間たちに向かって頷いた。
「連れて行こう」
「えっ」「本気かよ!」「……」
 三者三様の返事に、ローランは笑う。もう決定を覆すつもりはないらしい。
 彼はエンジュの肩に手を置いた。
「その代わり、足手まといにはなるなよ。ちゃんと友だちや村長にも手紙を書くんだぞ」
「うん! ……いや、はいっ」
 エンジュは満面の笑顔になった。
 仕方ない、という風にドロシーは兜を振った。
「それはそうと、装備はあるの? 何か持ってきたのかしら」
「とりあえず剣を!」エンジュは即答した。
「……」
 キャラバンの仕事が武器だけでつとまる、とでも思っているのだろうか。
 ティパキャラバンはひとまず鍛冶屋のあるマール峠に立ち寄り、彼に装備を買い与えた。試しに重い鎧をつけてみたが、その状態でもエンジュは盾を軽々と持ち上げた。体格に比べて膂力はあるらしい。
(これなら、なんとかなるかもしれない)
 ローランは密かにほっとしていた。そして、弟のように可愛がっていたエンジュの成長が、純粋に嬉しかった。
 キャラバンは今年初のダンジョンとして、最寄りのカトゥリゲス鉱山を選んだ。
 暗い洞窟の中に、ひたひたと五人の足音が響く。この奥にミルラの木があるのだ。坑道の各所でボム形のランタンが揺れていた。
「おおー! ここがダンジョンかーっ」エンジュは目を輝かせていた。
「いくら珍しいからって、あんまり前に出すぎるなよ〜?」
 マ・ルセルが笑いながら言った。
 村にいた時、エンジュと一番親しかったのは彼だろう。触れ合う機会といえば、ハンネローレも多かった。思えばエンジュはキャラバン全員にとって弟のような存在だった。
「だ、大丈夫だよ。……多分」
「そろそろ魔物が出てくるわ。エンジュ、気をつけて」
 ハンネローレがぬっと暗がりから顔を出した。エンジュは悲鳴を飲み込んだ。
「三人とも、何やってるの。置いてくわよー!」
 ドロシーの元気な声が坑道の壁に反響した。その隣で、リーダーであり盾役をつとめるローランが苦笑していた。
「あ、はい!」
 エンジュはクリスタルケージを運んだ。これが彼の役割だ。正真正銘の初心者なのだから、キャラバンとしては当然の配慮だろう。
 それでも彼は道中よく働いた。戦いになると、基本的には後方からじっくりと戦況を伺っていたが、しばしばケージを置いて戦場を駆けた。
「危ないっ」
 白光と共に剣が鞘走る。彼はハンネローレの背後を狙っていたコウモリを切り捨てた。持ち前の戦闘センスを生かし、仲間たちの窮地を救うことも度々あった。
 マ・ルセルはリーダーに囁いた。
「あいつ、いいキャラバンになるかもな」
「僕の代わりってこと? ははは……」
 ローランは苦笑した。ティパのキャラバンは四種族から一人ずつ選出される——ということは、彼の後釜がエンジュになる可能性が高いということだ。しかし、いくら適正があるといえど、エンジュが旅をするのは今回だけの特別だった。正式にキャラバンに加入するには、あと五年は待ってもらわねばならない。そもそもこんな危険な場所に、年端もいかない少年を駆り出すべきではないのだ。
 一行はカトゥリゲス鉱山の最奥にたどり着いた。この先にいるのは、オークキング。各自、装備と息を整える。
 マ・ルセルはラケットに布を巻き直しつつ、新入りに目線を投げる。
「オークキングは死にかけると、自爆しようとするんだ。巻き込まれないよう気をつけろよ、エンジュ」
「う……うん」
 どうやら緊張しているらしい。顔が硬くなっている。ドロシーが、少年のがちがちの肩を軽く叩いた。
「大丈夫よ、あたしたちが守ってあげるから」
「そうよ……がんばろう、エンジュ」
 優しいハンネローレの声援を受けて、エンジュは剣を握り直した。
「みんなの足を、引っ張らないように——いや、オレも活躍したい!」
「その意気だ。行こう、みんな」
 ローランの号令に従い、キャラバン五人は奥に進んで、オークキングと対峙した。姿形はオークのようだが、体躯はその何倍もある。
「……!」
 エンジュは恐れおののく体を、なんとか奮い立たせた。
 オークキングはキャラバンを見つけると、大きくメイスをふるった。きっと破壊的な効果を生み出すのだろう。その動作が、エンジュには何故かゆっくりに見えた。
(あれ?)
 手に取るように相手の動きが分かる。狙われているのは——ドロシーだ!
「危ないッ」
 エンジュは叫び、リルティの手をぐいっと引いた。
「……っと、助かったわ!」
 ドロシーが礼を言う。エンジュは頷き、戦場を走った。
 背後でハンネローレとローランのマジックパイルが炸裂する。ブリザガ。取り巻きのオークたちをも巻き込み、氷の中に閉じ込める。
「すごい……!」
 エンジュはこのまま押し勝てる、と確信した。
 と、オークキングの体が、目映い光を放った。自爆の合図だ。リーダーが叫ぶ。
「エンジュも加勢してくれッ」
「了解!」
 少年は無我夢中で剣を振った。手に伝わるのは鈍い感触。そうか、これが魔物を殺す、ということなんだ。エンジュは理解した。頭が痺れるような感覚だった。
 五人がかりで攻撃を加え、彼らはなんとかオークキングを自爆前に倒すことができた。
 エンジュは魔物の気配が消えた広場で、剣を持ったまま肩で息をしていた。
「ふー。やったな、エンジュ」
 やってきたマ・ルセルに髪の毛をぐしゃぐしゃにされる。「うわっ」驚きつつも、エンジュははにかんだ。
「さっきの援護、助かったわよ」ドロシーが心からねぎらう。
「あ、はは……!」
 エンジュは右手で胸のあたりを押さえる。ぱちぱちと喜びがはじけていた。
「おーいエンジュ。気持ちはわかるけど、これからが本番だよ」
「あっ、はい!」
 ローランに呼ばれ、彼はケージを持って小走りでミルラの木に向かった。
 煤けた洞窟の奥に、神秘的な光を放つ植物があった。青でもなく、緑でもない不思議な色。エンジュも散々キャラバンからその美しさを聞かされていたが、精一杯たくましくした想像よりも、実物ははるかに素晴らしかった。その木はクリスタルにも似た輝きを放っていた。
「……」
 エンジュは声もなく魅了されている。夢見るような足取りで木の前にケージを置き、今年最初の雫が垂れる様を、彼はじっくり観察していた。
 マ・ルセルはぼそっとローランに向かって呟いた。
「なんか、俺たちの最初の頃を思い出すな」
「うん……」
 ローランは眩しそうに年下の少年を眺めていた。その背中は日に日に大きくなり、人々の期待と希望を背負うものになるだろう——何故だかそんな確信があった。



 四人はその後リバーベル街道を攻略してから、再び北上してアルフィタリア盆地のジャック・モキートの館に挑戦した。
 三か所のダンジョンをまわり、クリスタルケージはミルラの雫で満杯になった。エンジュは馬車の中で瞳をきらきらさせて、雫が揺れるさまをいつまでも眺めていた。村では、水かけ祭りの最初でしかお目にかかれない光景だった。
 故郷に向かって道を急ぐキャラバンは、分岐路にさしかかった。北にアルフィタリア城、南にはメタルマイン丘陵に繋がる瘴気ストリームがある。当然彼らは南に向かう。
「エンジュの旅も、もう終わるのね……」
 ハンネローレが寂しそうに言った。ローランは、来年も彼を同行できるよう村長に相談してみよう、と頭の片隅で考えていた。明るい性格といい能力といい、すでにエンジュはティパキャラバンに必要不可欠な存在になっていた。種族の調和を乱すことになるが、そこはローランが責任を持って説得するつもりだった。
 馬車が角を曲がろうとしたちょうどその時、別のキャラバンが東の方からやってくるのが見えた。鉄素材でつくられた頑丈な作りの馬車から、すぐにどのキャラバンであるか知れる。
「アルフィタリアキャラバンだ」
 ドロシーが声を上げた。
「ご苦労であります、ティパキャラバン殿」
 鎧に身を包んだリルティたちは揃って敬礼した。エンジュたちも慌てて馬車から降り、挨拶する。
 そこで、リーダーと思しき鎧が反応した。
「おや、新人ですか。ティパキャラバンが五人体制とは珍しい。クラヴァットの……子供?」
 彼は、明らかに若すぎる少年を見て、兜の奥で目を丸くしたようである。
「はい。彼は今年だけ特別参加の助っ人です。エンジュといいます」
 ローランの説明に合わせて、エンジュはぺこりと一礼した。
「そうですか。あなたのような若者がいれば、ティパキャラバンも安泰ですね」
 リーダーはそう言ったが、どことなく元気が無い。ローランが訊ねる。
「どうしたんですか?」
「それが……みなさんは、ティダの村をご存知ですか」
「ああ」エンジュを除いたティパの四人の顔が、一様に曇る。
(ティダの村……)
 エンジュの心はざわついた。その名前に、不穏なものを感じたのは何故だろう。
 ティダの村は、かつて太陽に愛された村だった。しかし十四年前、ティダのキャラバンが期限までに雫を持って帰れず、聖域が破れて村は崩壊した。キャラバンの行方は未だに杳として知れない。
 ローランは当時十歳だったが、今でもよく覚えている。大陸中が恐怖に打ち震えたあの時代を——
 今や彼の地は粘菌と魔物に支配されており、何人たりとも近づけない最悪の場所になっている。
「国王様から直々に命を受け、あそこに棲み着いた魔物を退治しようと挑んだのですが……なかなか手強くて」
 アルフィタリアといえば、ティダの村から一番近い町である。責任感の強いリルティたちは、当時ティダ村の崩壊を防げなかったことをひどく後悔した。あの事件の二年後から、アルフィタリアでは兵士の士気向上を目的として、毎年武術大会が催されるようになったくらいだ。
「ティパのみなさんも、あまり無理はしないで下さい。村に雫を持ち帰ることができるのが、一番ですから。では」
 アルフィタリアキャラバンは再び敬礼し、去っていった。満杯のケージを抱え、城に帰るのだろう。
 ローランはその後ろ姿を見送り、ぽつりとつぶやいた。
「……僕たちで魔物を退治できないかな」
 キャラバンの間に緊張が走る。あそこは練度の高いアルフィタリアキャラバンですら苦戦するような、高難易度のダンジョンと化している。しかし、彼らはエンジュを除けば、結成から六年が経過したベテランメンバーだった。それなりに実力への自負もある。
「俺は、やりたいな。みんなはどう思う」
 マ・ルセルが賛成すると、ハンネローレとドロシーも無言で頷いた。
 そこで、ハンネローレが気遣わしげに後輩に問う。
「エンジュ……大丈夫?」
 思考の海に沈んでいた少年は、はっとした。ティダの村が崩壊したのは、ちょうど彼が生まれた年だったのだ。
 彼はおもてを上げて、首肯した。
「がんばってついていきます。行きましょう、その村に」
 エンジュの瞳は使命感にあふれていた。
 この時、何の気なしにティダの村に向かったことを、のちにローランは死ぬほど後悔することになる。



 ……いつの間にか、あたりは静かになっていた。ローランは痛む体をゆっくりと起こした。
 視界がぼやけていた。誰かがすすり泣く声がすると思ったら、自分だった。
「あ、れ……」
 頬を伝う雫を拭った。その手袋も、ぼろぼろだった。薄汚れて血がにじんでいる。
 つかの間、記憶が飛んでいたらしい。ティダの村にやってきた時は昼ごろだったのに、いつしかあたりは薄暗くなっている。
 ティダの村は、想像よりもはるかにひどい状況だった。そこかしこに十四年前の生の記憶を感じるのに、あたり一面死に支配されていた。他のダンジョンで見たことのあるキャリオンワームやスケルトンといった魔物たちにも、いちいちぞっとしてしまったくらいだ。もしも村民のなれの果てだったら——と考えたのである。
 もはや、後には引けなかった。五人は必死に先を目指したが、その末に遭遇したのは、最悪の敵だった。
「なんだよ、あれ」
 マ・ルセルが愕然と呟いた。
 粘菌にまみれた家並みの向こう。緑色の大きな魔物が、何体も何体も浮かんでいた。コナル・クルハ湿原に生息するアバドンだ。ただでさえ厄介な敵なのに、あんなにたくさんいるなんて!
 グラビデが間に合わなかった。なしくずしに乱戦が巻き起こり、エンジュも剣を持って前線で戦った。
 ローランの指示により、彼らはそれぞれの死角をカバーするように円になったが、それがあだとなった。隊列の真ん中で呪いの魔法カーズラが炸裂したかと思うと、羽ばたきとともに風が巻き起こり、廃屋を破壊した。キャラバン目掛けて大量の木材がバラバラと降り注ぐ。押しつぶされたらひとたまりも無い。
「ローラン!」リーダーは誰かに突き飛ばされた。寸前、視界の隅に仲間の顔が見えた。すぐに土埃で分からなくなる。だが、ローランは直感した。瓦礫の下に、仲間たちが——
 ローランも廃屋倒壊の余波に巻き込まれ、強く頭を打って、それからすっかり意識を失っていた。
(——)
 何が起こったのか、ぼんやりとは理解していた。それでも頭が考えることを拒否していた。ローランはただ、顔を上げた。
 生臭い風が吹いてきた。その方向に、エンジュがいた。
「……」
 剣を持った手をだらりと垂らし、盾すら持たぬ姿で立っている。……なんだか様子がおかしい。ローランは瞬きする。
 エンジュの服はぼろぼろで、全身に魔物の体液をかぶり、見る影もなく汚れていた。その足元には、たくさんいた緑の怪物が一匹残らず地に伏して、ぐずぐずと瘴気に溶けているところだった。
 エンジュはぼんやりとこちらを振り返る。茜色の瞳は何も映していない。あの明るい表情はすっかり抜け落ちていた。
 彼が、魔物を殲滅したのだ。瓦礫の下敷きになった仲間たちと、意識を飛ばしたローランの代わりに——たった一人で。
 その時、ローランは戦慄と共に直感した。エンジュは自分とは違う。凡人とは一線を画す、絶対的な強さを持っている。エンジュこそ、村人の枠を大きく超えた、本物のキャラバン——本物の英雄になりうる人物なのだ、と。
 しかし、そのせいでエンジュが孤立してしまう未来も、彼には同時に見えていた。
「エ、ン……」
 声をかけることすらためらわれた。エンジュのことでも、仲間たちのことでも、すっかりローランの心は乱れていた。
 少年は落ちていた鞘を拾って剣をしまい、案外確かな足取りでリーダーの方へ歩いてきた。
 ローランは自分でも気づかぬうちに、唇を動かしていた。
「みんなが……」
 エンジュは答えずローランの横を通り過ぎると、黙って瓦礫を持ち上げ始めた。そこには仲間たちが眠っているはずだった。
 彼の頬には涙一つ流れていなかった。



「そして、キャラバンから帰ってきたエンジュは、翌年から一人で旅立つことを提案したのじゃ。ローランもそれを後押しした。ワシも……許可を出した」
 村長は長い語りを終えた。
 ミントは絶句している。あまりに辛く、苦しい話だった。胸のあたりを握った手が、力みすぎて白くなっている。
「そ、んな……」
 今まで彼が見せていた、あの明るさは何だったのだ。ミントが知る顔は、エンジュのほんの一面でしかなかった。彼の悲哀も不安も何もかも、彼女はちっとも共有できていなかったのだ。
 そうだ、ミントが彼と出会ったのは、ちょうどその事件の翌年——つまり、彼が一人でキャラバンを始めた年だった。前年にあんなに辛いことがあったのに、彼は平気で笑っていた。ミントの無茶な願いに応えて、ダンジョンを一つ攻略してきてくれた……。
 いつしかミントの頬を熱い涙が伝っていた。
 村長の話を聞きつけたのだろうか。気がつけば、ローランが墓標の前に舞い戻っていた。彼は静かに言う。
「エンジュは、四人でも敵わなかった魔物を、たった一人で倒してしまった。我々とは次元の違う強さを持っている」
 ミントはぐちゃぐちゃの顔でローランをきつく睨みつける。
「だからって……どうして一人で行かせてしまったんですか!?」
 それが彼の不幸の始まりだったのに。当時、誰もエンジュを気遣わなかったのだろうか。
 ローランは表情を翳らせる。
「そうだ。僕たちは後になって、やっと気づいたんだ」
 リーゼロッテがそっとミントに寄り添う。
「あの事件でローランさんは、仲間を一度に三人——そして私は姉を、ジ・ルヴェは兄を、村長は孫を同時に失いました。皆、そちらにばかり気を取られて、考えもしなかったのです。エンジュの心に何が起こったのか……。私たちは悲しみに耐えかねて、気づかぬうちに犠牲を差し出していました」
 紡がれるのは、苦すぎる後悔の言葉だった。
「村の中では、ジ・ルヴェが一番エンジュのことを心配していました。マ・ルセルも含めて、彼らは幼い頃から兄弟同然に育ったのです。だからああやって、何度かキャラバンの旅についていったのですよ。
 しかし……彼ですら、何年も前に『もう自分にできることはない』と悟ってしまったようですが」
 これでも、鍛えたつもりなんだ。でもエンジュには追いつけなかった。時が経つほど、あいつはますます遠ざかっていく——ジ・ルヴェが悔しそうに唇を噛んでいたことを思い出す。エンジュの邪魔ばかりしていたようで、その実最後まで粘っていたのは彼だったのだ。
 リーゼロッテは優しく続けた。
「ですから、あなたの存在は、エンジュにとって救いだったのでしょうね」
「わたしが……?」
 ミントはどきりとした。ふと目の前にエンジュの気配が蘇った。初めて会った時の、少年の姿で。
 彼は今、心から笑えているのだろうか。
「マール峠に友達ができた、とエンジュは嬉しそうに語っていました。自分の過去を知らないあなたと接することが、きっと彼の心の癒しになっていたのでしょう。
 だから、あなたには余計なことを考えず、ずっとエンジュと気楽な関係でいて欲しかった……。それが、ジ・ルヴェと私があなたに散々忠告をした理由です」
 ジ・ルヴェの後悔とリーゼロッテの思いが、ミントの心にしみいった。気がつくと、彼女はエンジュのことで頭がいっぱいになっていた。
 ミントがティパの村にやってきたばかりの二年前、農場で立ち尽くしていた彼女に、エンジュは「もうこの場所には来ないで」と言った。その理由は、ミントがいなくなってしまいそうで、嫌だったから。親だけではなく、きっと三人の仲間たちのことも同時に思い出していたのだろう。
 ローランが苦い顔で引き継いだ。
「でも、もう遅い……。今や彼についていける人は、誰もいなくなってしまった」
 ミントは涙を拭いた。わき上がるのは、燃えたぎるような決意だ。
「わたし、あの人に、キャラバンをやめてもらう」
「えっ」
 その場にいた三人は身をこわばらせた。
「旅を続ける限り、あの人は幸せになれないわ。だったらキャラバンなんて、やめさせてやる!」
 それはエンジュのためを思って出した結論だった。



『エンジュへ——ローランより』
 そろそろきみも帰ってくる頃だろうか。満杯の雫とおみやげ話、楽しみにしているよ。
 さて、今回きみに手紙を出したのは、ある重要な提案があるからなんだ。
 村長とも話し合ったんだが……そろそろ、きみの任務の引き継ぎについて、考えたいと思う。
 きみももうキャラバン八年目だ。引退の時期に差し掛かってきている。少し、考えてみてくれないだろうか。後進の選出と育成もしたいから、もし良ければ何か意見を出してくれると嬉しい。
 それでは、旅の無事を祈って。良い返事を待っているよ。



 エンジュはファム大農場に向かって馬車を走らせていた。
「あれっ」
 慌ててパパオを減速させた。前方の石畳が不自然に割れている。ダンジョンの近くではよく見る光景だが、ここまで人里が近いにもかかわらず、放置されているとは。街道整備隊の点検後に破壊された、ということか。
 エンジュはパパオを慎重に操って、そこを回避した。
 しばらく道なりに進むとファム大農場が見えてきたが、なんだか様子がおかしい。入り口のアーチがへし折れている。
「!?」
 エンジュはその場に馬車を置いて、ケージと剣を持って駆けつけた。
 農場の入り口に、不穏な影があった。ブレイザビートル。この近くのセレパティオン洞窟に生息する魔物だ。そいつが、村人のつくったバリケードに突進している。低い壁の向こうに、おびえたクラヴァットの顔がちらりと見えた。
 彼は走りながらラグナロクを構え、躊躇無く暗黒剣を放った。ぱっくりと魔物の体が割れて、瘴気に還る。
「大丈夫でしたか!」
 と顔を上げて、彼は気づいた。村人たちが、畏怖の目でこちらを見つめていることに。
「……」
 彼はため息をつくと、剣についた体液を払って鞘にしまう。
「エンジュ殿!」
 後ろから声をかけられた。黒い鎧の、アルフィタリアキャラバンだった。どうやら、エンジュが置いてけぼりにしたパパオを連れてきてくれたらしい。
 入り口の惨状を発見し、カイル=キーツが驚いて足を止めた。
「これは一体……」
「魔物が聖域に入り込んでいたんです」
「そうですか、やはり——」
 言いよどむカイルに、エンジュは顔色を変えて詰め寄る。
「やはり、って、どういうことですか。まさか心当たりが?」
 カイルは兜をうつむけた。
「ええ……最近、魔物の活動が活性化しているのです。エンジュ殿もご存じのとおり、去年のコナル・クルハ湿原では、ドラゴンゾンビの領域にベヒーモスが侵入していましたよね。もちろんこれまでに例の無いことです。
 実は、去年までその原因はラグナロクのせいだと思われていました」
 エンジュははっとした。ラグナロクは人の生命力を吸い取る魔剣だが、今は大人しく彼の手に収まっている。
「それなら、他の原因は?」
 カイルの口調は苦い。
「まだ解析中です……。しかし、アルフィタリアでも、聖域を侵される被害が幾度も申告されています」
 そこで、エンジュはふと思い立った。自分の知らないところで、ティパの村でも同じような事件が起こっているのではないか。もしミントが被害に遭っていたら……なんて、考えたくもなかった。いずれ確認しなければ。
「この影響は、ルダ村も含めた大陸全体に及んでいます。近々、あなたにも事態を解決するため、協力を依頼するかも知れません」
「分かりました。その時は喜んでお受けします!」
 エンジュは胸に片手をあてて応じた。きっとそれは、村人たちが不気味に思うくらいの自分の実力を発揮する、いい機会になるだろう。



『ローランさんへ——エンジュより』
 オレは今、ちょうどメタルマイン丘陵にいます。そういえば、最近はマール峠にもあまり寄っていません。理由がなくなっちゃったからかな。おかげでまっすぐティパ村に帰ってこられます。
 さて、せっかくの提案ですが、オレはまだキャラバンをやめたくありません。自分一人で戦えなくなるまで、やめるつもりはありません。
 ……オレは、今を生きることしかできない。先のことはあまり考えられない。
 だから、やるだけやって、その後にいろいろ考えたいと思います。後進を育てたいなら、そちらで選んでいてください。
 ごめんなさい。誰に頼まれても、オレは旅を続けます。

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