素敵なひとりぼっち



『エンジュさんへ——ミントより』
 雫集めの旅、お疲れさま。今年もそろそろ帰る頃よね。いつもどおり農家で待ってる。おみやげ話、楽しみにしているわ。
 実は、あなたに伝えておかなければいけないことがあります。……ごめんなさい、聞いちゃったの。あなたが旅に出た理由を。
 ……全然知らなかった。わたし、なんにも知らないで、あなたにひどい言葉ばっかりかけてた。あなたにしてあげられることなら何でもしたい、って思ってたのに、全く反対のことしかできてなかった……。
 村長だって、ローランさんだって、リズさんやジ・ルヴェだって、あなたに辛い思いをさせてしまった責任を感じてるわ。もちろん……わたしも。
 わたし、絶対にあなたをひとりになんかさせない。そのためだったらどんなことだってできるわ。



 自分はどうやら他人とは違うらしい。
 エンジュがそう気づいたのはいつだったのだろう。七年前、三人もの犠牲者を出したティダの村攻略戦の最中だろうか。
 もしくは、ひょっとすると——生まれたその瞬間から、彼は違っていたのかもしれない。
 彼は両親の顔を知らなかった。父親はキャラバンで旅に出ており、母親は生まれたばかりの彼を残して、彼岸へと旅立った。父も結局は帰ってこなかった。彼らは二人だけで手の届かぬ場所に行ってしまったのだ。
 だからエンジュはあの家で暮らしたことはない。数年前、ミントに「実家は農業をやっている」と告げたのは、反射的なことだった。自分でも驚いたくらいだ。
 ずっと「自分は変な奴だ」と思って生きてきた。友だちと一緒にいる時も、キャラバンとして旅に出ている時も、いつでも。
 彼は生まれた時からずっとひとりだったのだ。



『ミントさんへ——エンジュより』
 今ちょうど、ティパの港を過ぎたところ。もうすぐ村に帰れるよ。
 そっか……みんな、あのことを話しちゃったんだ。オレが直接口止めしてたわけじゃないけど、みんな気を遣って話さないでくれてたんだよな。
 ごめん、正直ミントさんには知られたくなかったよ。こんなのわがままだって、分かってるんだけどさ。
 ……ミントさんには、もういろんなことをしてもらったよ。あの家だって見違えた。もう立派に農家としてやっていけるじゃないか。
 家はジ・ルヴェがやった、畑はリズが手伝った、だからキミはほとんど何にもしてない……って言うかもしれないけど。それを始めたのはやっぱりミントさんだし、あの二人に協力してもらっただけで、すごいことだと思うよ。
 だからオレ、もう十分なんだ。本当に何もいらない。一年旅をして帰ってきて、ミントさんが出迎えてくれて……それだけでいいんだ。それがただ、ずっと続けばいいのになあ。



 水かけ祭りの儀式が終わった。エンジュは持っていた松明を、クリスタル広場のかがり火に戻す。
 その最中、村長が近づいてきた。
「本当に、キャラバンをやめる気は無いんじゃな」
「……はい」
 エンジュは硬い声で答えた。そこには揺るぎない決意が滲んでいる。もはや彼自身の意志こそが、「エンジュにキャラバンをやめてもらう」と決意したミントの大きな障害になるだろう——と村長は疑わなかった。
 エンジュは軽く礼をして、広場から姿を消した。
 クリスタルのまわりで、人々が踊り始める。一年の堪え忍ぶ暮らしで溜まった鬱憤を、束の間の宴で晴らすのだ。そのために村人たちは料理を食べ、酒を飲み、時間を忘れて騒ぎ続ける。
 ミントはその輪に交わらなかった。引っ越してきた一年目で家に閉じこもってしまったこともあり、なんとなく入る気をなくしてしまったのだ。それに、エンジュも宴にはあまり参加しない。思えば、彼の踊りは一度も見たことがなかった。
 エンジュ。今回は帰りの時間が遅かったので、彼とはほとんど話をしていない。
 宴の隅の席に、所在無げにしている友人たちを見つけた。
「ジ・ルヴェ、リズさん。エンジュさんがどこにいるのか知らない?」
「さあな。また勝手に一人で消えたのか」
 ジ・ルヴェは苛立ちまぎれに言う。夕方、農家に帰って来た時も、エンジュはどこか目がうつろだった。過去を知ってしまったミントとしては、心配で仕方ない。
「捜してくるわ」
 きびすを返したミントを追いかけるように、
「俺も行く。もちろんリズも来るよな」
「な、なぜ私が」
 嫌がるリーゼロッテに、ミントはキラキラしたまなざしを向ける。「お願い、リズさん」
「仕方ありませんね……」
 と言いつつ少し嬉しそうなリーゼロッテを、ジ・ルヴェはじろりと睨んだ。
 三人が同時に足を向けたのは、農家だ。そして予想通り、彼はそこにいた。朽ちた看板の向こうの広い庭で、ぼんやり立ち尽くしている。
「エンジュさん」
 ミントの呼びかけに、エンジュは振り返った。
 その顔を見て、三人はそれぞれ息を呑む。
 いつもの明るい表情はどこにもない。ただ空白があった。
 思えば、今までもこんな瞬間は何度かあった。その都度彼はすぐに笑顔を取り戻していたので、気に留めることはなかったが……。
「エンジュさん」
 ミントはもう一度名前を呼んで、彼に歩み寄った。そっと手を握る。彼はされるがままになっていた。
 ……行かないで、と言いたかった。もう旅に出ないで、と。しかし口をついて出たのは、別の言葉だった。
「ねえ、どうしてあなたは旅を続けるの。わたしの知らないところで、辛いことがいっぱいあったんでしょ。それなのに、どうして」
 エンジュは少し瞳を泳がせてから、
「オレがやるしかないから」
 と答えた。
「オレはみんなより強い。旅の苦しみなんて、一人で背負う方がいいんだ」
 きっぱりと断言する。どんな返事も拒絶するように。
 ジ・ルヴェが乱暴に下生えを踏みしめた。
「なんだよ、それ」
 翡翠の瞳が怒気で沸騰している。それに対抗するように、茜色の目が剣呑な光を宿した。
「言ったとおりだ。お前だってキャラバンじゃ足手まといだったろ。オレは……今のオレは、お前の兄貴より、マ・ルセルよりずっと強い! だから仲間なんていらないんだよッ」
 エンジュが言い終わるや否や、ジ・ルヴェは彼の頬を殴った。なんとも形容しがたい、鈍い音が響く。
「!」
 エンジュは負けじと相手の胸ぐらを掴んだ。端正な顔に、見たこともないような怒りが浮かんでいる。
「え、ちょっと、二人とも……!?」
 ミントは仰天した。まさか、この場で突然喧嘩を始めるとは思わなかったのだ。助けを求めるようにリーゼロッテを見ると、ユークの女は苦々しげに腕を組んでいる。
「彼らの喧嘩なんて日常茶飯事ですよ。私も見たのは久々ですが」
 望んでひとりになったエンジュにも、そんな道を選ばせてしまったジ・ルヴェにも、それぞれ煮え切らない思いがあったのだろう。そして彼らは、くすぶる感情をこぶしに乗せることしかできないのだ。
「全く、不器用なんだから」
 リーゼロッテは呆れたように肩をすくめたが、その台詞はどこか優しかった。
「さて、彼らの分の食事を用意しますか。運動したら、お腹がすくでしょうから」
 目の前で殴り合いが繰り広げられているのに、リーゼロッテはすでに決着がついた後のことを考えている。慣れたものだ。むしろ彼女は、言葉以外の手段でエンジュと語ることが出来るジ・ルヴェが、少しだけ羨ましかった。
「あ、うん……」
 ミントは組み合う二人を心配そうに何度も見やりながら、リーゼロッテについていった。
 女性たちは料理を持って、農家に帰ってきた。まだ喧嘩は続いているらしい。全く懲りないものだ、とリーゼロッテは思う。
 この二年ほどで、農家はすっかり人が住めるくらいまで回復していた。この家を直すきっかけとなったミントとの約束は、結局うやむやになったままだ。しかし、いくら素直でないリーゼロッテといえど、これでは彼女のことを認めざるを得ない。
 今やミントは、ローランの家で眠る日と、こちらで朝を迎える日とが、半々くらいの生活を送っている。リーゼロッテは家の中に食事を運びながら、「そろそろ彼女はエンジュと一緒にこの家で暮らすのだろうか」と思った。
 食堂のテーブルに料理を広げて待っていると、先にエンジュが帰ってきた。
「……ただいま」不機嫌そうに、真っ赤に腫らした頬を押さえている。
「おかえりなさい。その服、直すのわたしなんだからね」
 とミントが指摘すると、エンジュは申し訳なさそうに顔をしかめた。
「ま、後でやっておくから。とりあえず、傷の消毒だけでもする?」
「ミント、手当ての必要はありませんよ。自業自得ですから」
「えーっ! そんなあ」
 エンジュはむくれたが、リーゼロッテの強い視線を受けて、大人しく椅子に座った。
 遅れてジ・ルヴェがやってきた。こちらの方が、さらにひどい。服は土まみれで、髪の毛に葉っぱまでついている。せっかくの美貌も台無しだ。
「ちょ、その状態で家に上がるつもり? タオル取ってくるわ、二人は先に食べてて!」
 ミントはばたばたとジ・ルヴェを引っ張って奥に消えた。エンジュはふくれっ面になった。
「ずるい。勝ったのはオレなのに、なんでジ・ルヴェばっかり」
「はいはい。いいから食べなさい」
 と、リーゼロッテはひょうたんいものスープを差し出す。もちろん、彼の徹底的な野菜嫌いを知っての行動だ。
 エンジュは黙って皿を受け取った。リーゼロッテはきょとんとした。
「エンジュ、野菜が」
「え?」
「食べられるようになったのですか」
 彼は平然とスープを口に運んでいる。これもミントの教育のたまものだろうか、と少し嬉しくなったリーゼロッテだったが、
「うん……まあ。なんか、味がしなくて」
 エンジュはもぐもぐと口を動かす。
「そうですか? いもの味がよく出ていて——まさか、あなた」
 痛々しく腫れた頬。あれでは口の中だって切れているだろう。それなのに彼は、平気でスープを飲んでいた。まるで、痛みを感じていないかのように。
「ごめんごめん、遅くなっちゃったわ」
 愕然とするリーゼロッテのもとに、ミントとジ・ルヴェが戻ってきた。喧嘩の敗者は相変わらず擦り傷だらけだったが、少しはましな格好になっている。
 二人は揃って食卓についた。
「いただきます」
 すっかり冷めてしまった食事を前にして、ジ・ルヴェは両手を合わせる。
「出た、ジ・ルヴェのそれ」エンジュはにやりとした。
「なになに? 今のそれって何の仕草?」
 ミントは興味津々でジ・ルヴェを見つめた。にわかに注目されて、彼は視線をそらす。エンジュはここぞとばかりに畳みかけた。
「こいつの家の変な習慣。旅先でもずーっとやっててさ。変なところで真面目なんだ」
「いいじゃないか、食物をいただくんだから、毎回感謝すべきだろ。お前もあれだけ俺の家で飯食っておいて、どうして染まらなかったんだよ」
 ジ・ルヴェは珍しく唇をとがらせて反論している。「あれは子供のオレでも変だと思った」とエンジュが答えると、彼はこぶしを握り、
「いつか絶対、村中に広めてやるからな」
「へーん。オレやオレの家族があれをやり始めるなんて、一生あり得ないもんね!」
 おやおや、とミントは心の中で突っ込んだ。「オレの家族」とは……どういう意味だろうか。久々に心が躍ってしまった。
 あらかた皿の上が片付いて、四人のお腹が十分にふくれた頃。ミントは台拭きを持ちながら、エンジュに訊ねた。
「今日はどうする? ここに泊まっていく?」
「そうするよ。……そろそろさ、荷物を移動させるのも面倒だから、ここに住もうと思うんだ。せっかくミントさんやみんなが直してくれた家なんだし」
 エンジュはさらりと言って、ミントの顔色をうかがう。
「え」
 驚いた。彼女は両目からぽろぽろ涙を流していた。
「やーい、泣かせた」「ジ・ルヴェは黙ってなさい」
 外野の愉快なやりとりにも気づいていたが、ミントはあふれる涙を止められなかった。
「い、いや、嬉しくて。すごく嬉しくて……!」
 慌てふためくエンジュを放置して、友人たちは立ち去る準備をする。
「ごちそうさまでした」「さて、家に帰って寝るか」
「ちょ、二人とも!?」
 少し前にローランに「年頃の男女が二人で……」と言われたばかりではないか。エンジュはそう力説したが、
「もうそのくらいの責任はとれるだろ」
「まずは同棲から始めるんですね。いいんじゃないですか、若くて」
 全く他人事のようである。
「そういうリズこそ、商人の家の兄さんとは最近どうなってるんだよ」
「な、ジ・ルヴェには関係ないでしょう!?」
 二人はそのまま賑やかに玄関を出て行く。
 ティパの農家は急に静かになった。
 エンジュはぐずっているミントの肩に手を回して、ぽんぽん、と叩いた。
「……ちょっと、落ち着いてきたかも」
 彼女は微笑みながら顔を上げた。
「ねえエンジュさん。わたしも今日、泊まっていいかな」
 どくん、エンジュの心臓が脈打った。
「も、もちろん。ローランさんから許可をもらえれば、だけど」
「それはわたしが説得してみせるわ」
 ミントは瞳に並々ならぬやる気をみなぎらせている。ついさっきまで泣いていたのに、今やその顔には凜々しさすら漂っていた。
 彼女は不意に、エンジュに体を寄せた。
「エンジュさん。さっき、仲間なんていらないって言ってたわよね」
 どことなく咎めるような調子だった。彼は「あ、うん」と曖昧に返事をする。
「そんな悲しいこと、もう言わないでよ」
 エンジュは目に見えて狼狽えた。
「か、悲しいの……かな?」
 首をかしげた彼を、ミントは睨みつけた。
「そうよ。聞いてるこっちが辛くなるわ!」
 だから手紙にも書いたのだ。「あなたをひとりにさせない」と。
 エンジュは顔を背ける。茜色の瞳が不安げに揺れていた。
「オレは本当にひとりなのかな。ひとりでいるのって、そんなに悪いことなのかな。オレには分からないよ……」
 うわごとのように呟く。
 ミントはだんだん、理解してきた。エンジュは「寂しい」という感情を知らないのだ。生まれてから今までずっと、彼のそばにはあまりにも自然に孤独が寄り添っていた。道を進めば進むほど、彼はさらに孤立していく——
 二人の境遇は、似ているようで全く違う。だからこれだけ近くにいても、同じ屋根の下にいても、心だけはどうしても共有できないのだ。
 エンジュは目に強い光を宿した。
「オレは来年も旅に出る」
 ミントの茶色の瞳がすうっと大きくなって、そこから悲しみがあふれ出した。それでもエンジュは宣言を覆すつもりはなかった。
 ……彼は、喧嘩後にジ・ルヴェと交わした会話を思い出していた。
「よっしゃ、オレの勝ちぃ!」
 農家の庭で一人立ち上がり、エンジュは快哉を叫んだ。ジ・ルヴェは地面に転がったまま、不満そうにぼやく。
「やっぱり俺には、ミントを守れるだけの力もないのか……」
「それ、どういうことだよ」耳ざとく聞きつけるエンジュ。
「!」
 しまった、と言う風に唇を引き結んだ彼だったが、エンジュの鋭い視線を受けて、しぶしぶ白状した。
「あいつ、聖域の端で魔物に襲われかけたんだ」
「なんだって……」
 エンジュは顔色を失った。今にもジ・ルヴェに掴みかかりかねない勢いで、身を乗り出す。
「け、怪我は……大丈夫だったのか!?」
「無事だ。俺が助けに入った。
 だがな……今まで、聖域の近くに魔物が来ることなんてなかったろ。あれはこの村だけの問題なのか? もしかして、いろんな場所でああいうことが起こってるんじゃないのか」
 ファム大農場の入り口で起こった事件を思い出す。あの時カイルは、アルフィタリアでも複数被害が報告されている、と言っていた。
 エンジュの表情の変化で、ジ・ルヴェもなんとなく察したらしい。眉間のあたりに暗い影を落としている。
「……オレが、なんとかしないと」
 茜色の瞳が燃えていた。ミントの安全のためにも、自分の力を使わないわけにはいかない。
 だから、彼女に何を言われても、エンジュは旅をやめるつもりはなかった。ますます彼女から離れていく方向に踏み出す足を、止められなかった。



『エンジュ殿へ——カイル=キーツより』
 今年も雫集めの旅は順調でしょうか。十日ほど前、アルフィタリアキャラバンは無事に一つ目の雫を手に入れることができました。
 さて、昨今のダンジョンの状況及び魔物の情勢は、貴殿もお聞き及びのことと存じます。去年のファム大農場の出来事を覚えておられますか。やはりあのような事件は、あれからも各地で頻繁に起こっていました。わがアルフィタリアでは、国王をはじめとする兵士一同、現状を憂慮し対策を進めておりました。
 そしてつい先日、原因が判明しました。かねてからの予想通り……ティダの村です。彼の地の状況は、二十三年前に瘴気に飲まれて以来、悪化する一方です。協力を仰いだユークの学者は、あの奥にこそ魔物強化の原因があると言います。
 しかし、あそこはいかなるキャラバンの行く手をも遮ってきた、最悪のダンジョンです。……貴殿もよくご存知でしょう。アルフィタリアキャラバンも、幾度となく敗走してきました。
 そこで、シングルプレイヤーとしての貴殿の活躍を思い出し、お手紙申し上げたというわけです。
 貴殿にとってあそこが因縁の地であることは、承知の上です。だからこそ、貴殿のお力を借りたいのです。我々に協力して頂けませんか。アルフィタリアもできる限りの支援を行うつもりです。
 ひとまず、ご返答については手紙ではなく、直接お目に掛かった上で伺いたいと思います。お手数をかけますが、アルフィタリアまでご足労願えませんか。
 それでは、旅の無事を祈っています。



「エンジュ!」
 明るい呼び声がして、エンジュは立ち止まった。喧噪に包まれた昼のアルフィタリア。人混みの中をすいすい走ってきたのはヴィ・レだった。
「あなたも呼ばれたんでしょ、ティダ村攻略のために」
 彼女は息を切らし、乱れた髪を梳かしながら言う。エンジュは目を丸くした。
「ってことは、ヴィ・レも?」
「そう。でもワタシはおまけかなー、あなたがいるならね」
 ヴィ・レはにやりと笑った。エンジュの腰にはあのラグナロクがある。彼女はそこから徐々に視線を上げて、年季の入った旅装へ目を留めた。さらに彼の顔を確認し、わずかに眉根を寄せる。
「……エンジュ、前からそんな顔してたっけ。もしかして、やせた?」
「さあ」
 エンジュはいやに堂に入った仕草で肩をすくめる。雰囲気が妙に落ち着いている。にこにこ笑顔に騙されていたが、彼はジ・ルヴェと負けず劣らず冷たい美貌を持っていた。あの茜色に見据えられると、美男美女揃いのルダ村で育った彼女すら、どきっとしてしまう。
 しかし、彼の振る舞いには違和感があった。
(うーん……?)
 まるで、ヴィ・レの知る彼ではないようだった。
 彼女の戸惑いにも気づかず、エンジュはすうっと目を細める。
「この町には今、いろんなキャラバンが招集されてるのかな。みんなであそこを攻略するために。
 ……だったら、断らないと」
「え、どうして!?」
 ヴィ・レはびっくりして声を張り上げた。その反応を楽しむように、エンジュは口の端を持ち上げた。
「だって、オレ一人で十分だから」



 各村のキャラバンを集めた会議は、アルフィタリア城内で開かれることになった。王族の住まうお城に足を踏み入れるなんて、滅多にない経験だ。エンジュたちはそれなりに胸を高鳴らせながら城門をくぐった。
 会議の始まる前、なんとなく廊下をぶらぶらしていたエンジュは、そこで馴染みのユークを見つけた。
「リュクレール!」
 カイルの手紙にあった「ユークの学者」とは、彼のことだったのだ。
 エンジュは嬉しそうに駆け寄ったが、リュクレールは鈍い反応を返した。
「エンジュ……そうか、来たのか」
 声色が暗い。エンジュは首をかしげた。
「どこか悪いのか?」
「それはこっちの台詞だ。お前、今の状態に気づいてないのか」
 まったく身に覚えがない。彼はぱちぱち瞬きをした。
「えっと、ティダの村のこと……?」
 リュクレールはかぶりを振った。どうも違うらしい。
 そうこうしているうちに、あたりがざわつき、兵士が人々を部屋へと誘導し始めた。会議が始まるようだ。二人は慌ててそれぞれの席に着いた。
 アルフィタリアキャラバンのリーダー・カイルが議長をつとめ、会議の始まりを宣言した。
「皆さん。この度は、わざわざ旅を中断してまでお集まりくださり、ありがとうございます。
 手紙で申し上げたとおり、昨今の大陸は非常に厳しい状況にあります。そこで、皆さんの協力を仰ぎたいのです。
 ティダの村を攻略するために、大陸中のキャラバンから選りすぐった精鋭でパーティを編成したいと考えています。何かご意見はありますか」
 キャラバンたちは、それぞれまわりを見回した。誰がどういう返事をするのか、探り合っているのだ。
「エンジュ殿は……?」
 誰かがそう発言した。全員の視線がエンジュに集まった。彼は今回の作戦において、一番期待をかけられている人物だ。一人で十年近くキャラバンをつとめ上げた逸材なんて、他にいない。新人キャラバンの間では、彼を目標としている者も増えているらしい。ティパのシングルプレイヤーの名は、大陸にあまねく轟いていた。本人は全くその自覚がないが。
 十分に注目を集めたところで、エンジュはゆっくりと唇を動かした。
「オレが参加するとして、条件があります」
 部屋が静かになる。
「ティダの村には、オレ一人で行かせてください」
 思わずリュクレールが立ち上がった。
「エンジュ……!?」
 ヴィ・レもぎょっとしていた。今までどんな大人数で挑んでもダメだったのに、彼は何を考えているのだろう。どこまで実力に自信があるのだろうか。
 エンジュは驚くリュクレールが視界に入っていないかのように、よどみなく語った。
「考えてもみてください、オレは今までずっと一人で戦ってきたんです。そんな奴がマルチの立ち回りなんて、できるわけないじゃないですか。マジックパイルだってきっと皆さんより下手です。
 だから、オレの力を生かしたいなら、一人で行かせてください」
 理路整然とした語り口だった。しかし、全くエンジュらしくなかった。リュクレールはぎりりとこぶしを握って着席した。
 確かにケージ聖域の範囲が限られている以上、少数精鋭で挑むべきだが……。ざわざわ、近くにいた者同士の協議が始まった。
 エンジュは声のトーンを落とす。
「それで——オレがダメだったら、その時はよろしくお願いします」
 あたりは水を打ったように静まり返った。
 議長のカイルは苦悩を滲ませた。
「何か、他に意見はありますか」
 ヴィ・レは手を挙げたかった。だが、どうしても思い出してしまうのだ。コナル・クルハ湿原で見た彼の戦いぶりを。自分よりも、仲間たちよりも、彼ははるかに強かった。ドラゴンゾンビをたった一人で圧倒していた。絶対的な実力の違いに、彼女は反論のしようが無かった……。
「是非、オレにやらせてください」
 エンジュはまっすぐカイルに視線を突き刺し、頭を下げた。
「……では、ここはエンジュ殿にお任せしたいと思います。異論はありませんか」
 議長の発言に、賛同するようにまばらな拍手が起こった。
「よろしくお願いします……」
 兜を脱いだカイルは、沈痛な面持ちで礼をした。
「任せてください!」
 立ち上がって足を揃え、胸に片手を当てるいつもの敬礼をし、エンジュはしっかりと頷いた。
 会議は予想外の形で解散した。誰もが議場から出た途端に、噂話を始めた。本当に一人で大丈夫なのか、彼に任せきりにしてもいいのだろうか……? もちろんいくつかの話題は無遠慮にエンジュの耳にも入ったが、彼はまるで気にならないようだった。
 カイルは、去り際のエンジュに声をかけた。
「ティダの村には当然、水かけ祭りを終えた後に行きますよね。その際、アルフィタリアからショートクリスタルを貸し出します。ケージを使わない方が、身軽でいいしょう?」
 当然とも言える申し出だったが、彼は首を横に振った。
「いいえ。いつものケージと一緒の方が、安心できます」
「……そうですか」
 そこで、カイルは決然とおもてを上げる。
「エンジュ殿。あなたはまさか——破滅を求めているのではありませんか」
 真剣な空色の瞳が、エンジュを貫いた。彼は目をぱちくりさせる。
「オレが……? まさか。安心して下さい、絶対帰ってきますよ」
 エンジュはふっと表情を和らげ、そのまま堂々と立ち去った。
 会議室に残ったのは、三人だけだ。
「カイルさん。あれ、絶対やばいですよね」
 そのうちの一人であるヴィ・レが、議長に向かって単刀直入に訊ねる。カイルは辛そうに頷いた。それでも自分たちは——大陸の人々は、エンジュに望みをかけるしかない。彼は自らの無力を痛感していた。
 ヴィ・レも、カイルの悩みは痛いほどよく分かった。唇を強く噛みしめる。そして、あちらに佇むユークへと声をかけた。
「リュクレールさん、だっけ? あなた、もしかしてエンジュがああなった理由、知ってるんじゃないの」
 仮面の額に手を当てたリュクレールは、苦しげに言葉を絞り出す。
「ああ、知っている。実は、あいつは——」



 やっと、ティダの村を攻略できるんだ。エンジュの胸は歓喜に沸いていた。
 あの三人の仇を討てる。それも、アルフィタリアや大陸中から正式な支援を受けて。ずっとリベンジしたかったにも関わらず、彼はどうしてもあそこに行くのを躊躇していた。失敗した時のリスクを考えれば、当然だろう。
 しかし今回は、万が一目標が達成できなくても、他のキャラバンがなんとかしてくれる。ティダ村攻略戦は、きっと自分にとって最後の大きな戦いになるだろう——と彼は確信していた。
 彼は浮き立つような気分を抱えて、今年三つ目の雫を得るために、夜のレベナ・テ・ラに挑んでいた。
 そこはかつて、四種族が仲良く暮らした夢の都だった。今では楽園も朽ち果て、見る影もない。
 魔法を使った仕掛けを解除して進み、エンジュは都市の中央にそびえるピラミッドの最奥に辿りいた。そこでは、ユークのなれの果てとされるリッチが、キャラバンを待ち構えていた。
「行くぞ!」
 軽く息を吸って気合いを入れ直した。今回はラグナロクの他に、ルーンブレイドも腰に差していた。もちろん、リッチと有利に戦うために。
 彼は、リッチの周りにバリアを作り出す球体に向かって、ルーンブレイドからつくりだした気合い弾を当てた。それとほぼ同時に、流れるようにホーリーとグラビデを決める。武器と魔石をフルに活用した離れ業をまざまざと見せつけられ、リッチが動揺する気配がある。
 エンジュは口元だけで笑うと、ラグナロクを自在に操って一気に畳み掛けた。
 縦横無尽に切り刻めば、みるみる相手の生命力が削れていくのがわかる。思わずにやりとした時、唐突に足元が輝いた。青色の魔力が体を包む。猛攻の最中に、リッチはとっておきの魔法を詠唱していたらしい。
「しまっ——」エンジュは避ける間もなく、チェインライトニングの直撃を喰らった。全身に強い衝撃が走る。よろめいたところに、追撃でメテオが降ってきた。
「!」
 体が思いきりはね飛ばされた。……少しでも油断するからこうなるのだ。だが、後悔しても遅い。
 地面に叩きつけられる前に、ぷつりと意識が途絶える。
 音のない世界がやってきた。
(あ、れ……?)
 何故か、海の中に飛び込んだような感覚があった。おかしい。自分は確かに気を失ったはずなのに。
 だんだんと身を包む泡が増えていき——突然、目の前が明るくなる。何の脈絡もなく、視界にはのどかな光景が広がった。
 昼のレベナ・テ・ラに、一人のユークが立っていた。
 エンジュもよく知る廃墟群だったが、決定的な違いがある。そこにはピラミッドがなかった。
(えっ)
 ユークの青年はひとつ頷くと、平和そのもののレベナ・テ・ラを歩いて行った。
 彼の背中にあるものを見て、はっとする。ラグナロク! 今エンジュの手にある魔剣を、あのユークが所持していた。
 再び泡が立ち上って、意識と感覚が戻ってくる。エンジュは覚醒した。
「ふ、はっ……」
 水から顔を出したようだった。体がびりびりしている。鈍い痛みは、間違いなく現実のものだ。どうやらフェニックスの尾が発動したらしい。
 途端に襲ってきた古代魔法クエイクを転がって回避し、彼はラグナロクを構えなおした。
 最速の集中でホーリーを放ち、暗黒剣を使って追い打ちをかける。
 不覚を取ることさえなければ、あっさりと片はついた。リッチは断末魔を上げながらポータルに吸い込まれていった。
 エンジュは膝の力が抜けるのを感じた。チェインライトニングと暗黒剣が重なって、かなり体力を消耗してしまった。彼はその場にぺたりと座り込んで、息を整える。
(さっきのは、幻……?)
 頭に焼きついた明るいレベナ・テ・ラの姿は、妙に現実味を帯びていた。そこで、エンジュははたと気づく。仮面の形からして、先ほどのユークは生前のリッチだったのではないか。
 フェニックスの尾が発動するまでの、一瞬。ほんの一瞬だけ、エンジュは「死んでいた」。その時、どういうわけかリッチの——もしくはレベナ・テ・ラという場所の記憶を垣間見たのだ。
 そしてリッチはラグナロクを持っていた。あの魔剣について、カイルは「レベナ・テ・ラで発見されたものだ」と語っていた。これは偶然だろうか。
 ピラミッドの中は静かだった。エンジュの吐息だけが不規則に響いている。
「……」
 これ以上ここにいても仕方ない。彼は痛む足を無視して立ち上がり、奥のミルラの木を目指した。
 ケージに溜まる命の雫をぼんやり見つめながら、再び先ほどのリッチについて考えた。
 リッチは、この世に楽園を再びつくろうとしたユークの末路だとされる。あの幻が事実だとすれば、彼は期待に胸をふくらませてここにやってきたのだろう。
 しかし、リッチに仲間はいなかった。ひとりきりで大義をなそうとしていた。誰の協力も得られなかったのだろうか——エンジュと同じように。
「……はあ」
 何故か、ミントの祖母キャロを思い出した。
 彼の意識は、今や懐かしい七年ほど前にさかのぼる。あちらの好意で夕食に招待してもらった時のことだ。ミントが食事を用意している最中、エンジュは突然キャロに頭を下げられた。
「あの子のこと、よろしくおねがいします」
「え……」
 改まった調子だった。エンジュは思わず居住まいを正す。「ど、どういうことですか」
 キャロは真剣そのものの顔で、話を続けた。
「ミントは、寂しがり屋なんです。私がいなくなれば、きっととても寂しがると思います。
 もし寂しくないと言い張っていたら、それは強がりです。だから……あの子をお願いします」
 エンジュは胸がいっぱいになった。キャロがまっすぐ孫に向ける思いやりが、眩しかった。それは、親のいない彼が触れたことのない感情だった。
「オレがいたら……」
 一旦区切る。すうっと息を吸い直して、
「オレがいたら、ミントさんは寂しくないんですか。ひとりじゃないんですか。
 そもそも『寂しい』って何ですか。オレには、分からない……」
 エンジュは力なくこうべを垂れた。重力に従い、赤茶の髪が額を流れる。
 親もいない、仲間もいないことが、もはやエンジュにとって当たり前だった。彼の人生には、孤独というものが常に寄り添っていた——
 キャロは優しく微笑んだ。
「それこそ、ミントに訊ねてみたらどうです?」
「う、えっと、それは恥ずかしい……です」
 耳を赤くするエンジュ。キャロはますます笑みを深くした。
「だったら自分で見つけなさい。あなたは旅をしているんでしょう。ならばいつか必ず、分かりますよ」
 エンジュは何かに包まれるような視線を感じた。もしかして、これが親というものなのだろうか。
 ——キャロの黒い、星空のような目を思い出すと、レベナ・テ・ラの闇の中で、少しだけ心がほんわりあたたまった。
 よし。ひとつ息を吐き、エンジュはケージを持って外に出た。
「わあっ!」
 ピラミッドから出た途端、彼は目の前に広がる景色に圧倒された。
 夜空には雲ひとつなく、満天の星がきらめいていた。大きく目を開いて呼吸を止める。すると、真っ黒な画布の上にひとすじの星が流れた。後を追うように、さらにいくつもいくつも流れ始める。これが、いつかリュクレールに聞いた、流星群というものだ。
 彼は思わず唇を開いた。
「すごい。すごいね、ミントさん!」
 はっとした。……誰もいない。彼の隣には、誰もいないのだ。
「あっ……」
 その時、エンジュはやっと気づいた。
 孤独とは、誰とも感動を共有できないこと。ミントもジ・ルヴェもリーゼロッテもモグも、ここにはいない。どこか別の場所で同じように星空を眺めていても、今、エンジュの隣にはいてくれない。
 体のどこにも力が入らない。彼はぎこちなく階段に腰掛けた。そのまま、流れ続ける星を呆然と見つめていた。
『クリスタルには祈りを捧げるものですが——星には願いをかけるものです』
 ずいぶん昔に聞いた、リーゼロッテの言葉が蘇る。
 エンジュはそっとまぶたを閉じた。気づけば、両手が祈りの形に組み合っていた。
 ミントさんに会いたい。今すぐに。とてつもなく、会いたい——
 この感情を、人は寂しさと呼ぶのだろう。



『村長へ——エンジュより』
 雫は無事に集め終わりました。これから帰還します。それについては、どうぞご心配なく。
 ……ずっと黙ってましたが、実はオレ、アルフィタリアから依頼を受けました。今年の水かけ祭りが終わったら、オレは一人でティダの村に挑戦します。アルフィタリアの王様にも、そう宣言してしまいました。
 勝算はあります。地図や物資の援助も受けられます。村の負担にはなりません。
 出来るだけ勝ってくるつもりですが、どうなるかはわかりません。もしオレがダメでも、他のキャラバンに何とかしてもらうようにお願いしてます。だから心配しないで下さい。
 そういえば、この前の流星群は見ましたか? オレはひとりで見ました。その時、少し理解したことがあります。どうして今まで気づかなかったのか、不思議なくらいでした。オレは大切なことをずっと知らないままに生きてきたみたいです。
 ちょっと恥ずかしいけど……今度帰ったら、みんなに教えようかな。



 エンジュの帰還はいつもよりずいぶんと早かった。今年の水かけ祭りは、前回からほんの数ヶ月後に行われた。
 儀式の最中、松明を掲げるエンジュの横顔を、ミントは少し離れた場所からじっと注視していた。すぐそこにいるのに、やはり彼はとても遠い存在に感じられた。
 ——エンジュさん。
 旅先から帰って以来、彼は黙りがちだった。去年の祭りの様子が思い出される。しかし、あの時ともまた違う雰囲気をまとっていた。彼の顔に浮かんでいたのは、戸惑い。いつも迷いなく前に進む彼には似つかわしくない。一体何があったのだろう、と考えずにはいられなかった。
 エンジュはクリスタルの浄化が終わると、すぐに姿を消してしまった。それも去年と同じだった。
 ミントは不安に駆られて農家に赴いたが、彼はいなかった。
 クリスタル広場に舞い戻る。踊りを見ながら酒を飲んでいたリーゼロッテとジ・ルヴェを見つけて、尋ねた。
「エンジュさん、どこに行ったか知らない?」
「分からん。俺たちも捜したが、どこにもいなかった」
 ジ・ルヴェが暗い顔で答えた。
「また何か、悩みがあるのでしょうが……こういう時、彼は誰にも相談しませんからね」
 リーゼロッテはため息をついた。思えばいつもそうだ。エンジュは何でも一人で決めてしまう。
 ミントはきりりと眉を上げた。
「わたし、一箇所だけ心当たりがあるの。そこに行ってみるわ」
 きびすを返す。ジ・ルヴェは彼女を追いかけようとしたが、
「待ちなさい。ここはあなたではなく、彼女の出番でしょう」リーゼロッテに腕を引かれてしぶしぶ引き下がった。
 ジ・ルヴェはぽつりと言葉をこぼす。
「……なんで、俺じゃダメだったんだろう」
 様々な意味を含んだ台詞だった。
 どうして自分は、エンジュの隣に立てないのだろうか。仲間としても、友人としても。
 きっとミントだって、似たような考えを抱いているに違いない。しかし彼女はこういう時、ちゃんとエンジュの心に寄り添えるのだ。それは女性だからか、それとも性質の問題か。
 エンジュにはミントが、ミントにはエンジュがいる。エンジュと兄弟のような関係を築いてきたジ・ルヴェですら、二人の間には決して割り込むことのできない何かを感じていた。
「それはこっちの台詞ですよ。しかし……どう考えても、私たちではダメなんでしょうね」
 リーゼロッテは苦々しく告げた。二人はしばらく、黙って杯を干した。
 一方、ミントが目指した先は、ローランの家の裏——あの墓地だった。
 予想通り、その手前でエンジュを見つけた。旅装束を着たままの背中には寂寥感が漂っていた。彼はうつむき、柵に手をかけて佇んでいる。
 ミントは静かにその隣に行った。
「ダメなんだ。まだ決心がつかない。オレは、この先に行けない……」
 エンジュは墓標に——彼の目の前で犠牲になった人々の墓に、視線を向ける。しかし墓まではまだ距離があった。この柵を越えなければたどり着けない。さざ波の音は聞こえても、その黒々とした海面までは見えない。
「マ・ルセルもハンネローレもドロシーも、兄貴や姉貴のような人だったんだ。家族のいないオレに、きょうだいのように接してくれた。なのに」
 ミントは彼の震える手に、自らの手のひらを重ねた。エンジュは目を伏せた。
「みんな……死んじゃった。オレ、あの場にいたのに何もできなかった。もし今の実力があれば、助けられたのかな」
 意味の無い空想だった。けれども、エンジュはずっとそんな思いを抱えて旅を続けてきたのだ。
「自分を責めないで、エンジュさん」
「そんなつもりは——」
 エンジュは言葉を切って、下を向く。
「オレ、準備が出来たら、すぐにでも旅立つよ」
 ミントは色を失って、思わず手を強く握ってしまった。
「旅立つ……!? ど、どこに」
 彼は茜色の目を鋭く細め、きっぱりと断言した。
「ひとりでティダの村に行く。多分、オレはあそこに呼ばれてるんだ」
 その決意に反して、エンジュの手は小刻みに震えている。よく観察すれば、その手袋も袖口もぼろぼろだ。また直してあげないと、彼はすぐに汚してしまう。まるで子供みたいに——
 そんな人が、どうして自分を偽ってまで旅に出なければならないのだろうか。
「あそこは、あなたや仲間がひどい目に遭った場所でしょ。それなのに、ひとりで行くなんておかしいわ!」
 心を切り裂くような叫びに、エンジュの瞳は少しだけ揺れた。
「これには、オレが自分で決着をつけなくちゃいけないんだよ」
 必死に絞り出した言葉だったのだろう。でも、ミントには強がりとしか思えなかった。
「大丈夫。オレは平気だから、心配しないで」彼は無理やりつくったような笑みを見せる。
「平気なわけ、ないでしょ。だって今のエンジュさん……すごく寂しそう」
 エンジュの喉がごくりと動いた。
 不意に、彼の耳から波音が消えた。ミントと繋がる手のぬくもりだけが、はっきりと感じられる。
 そう、寂しいのだ。ひとりでいることは、身を切るような寂しさを伴う。それは彼が、レベナ・テ・ラの星空を眺めてやっと理解したことだった。
 エンジュの唇がかすかに動いた。何だろうとミントが耳を澄ますと、ふわり、空気が動いた。気づけば彼女は抱きしめられていた。
「——!」
 ミントの胸がいっぱいになる。こんな状況でも、少しだけ喜びの泡がはじけた。二人でいるだけで、こんなにも心は安らぐのに——どうしてそれ以上を求めてしまうのだろう。
 エンジュはかすれ声を出した。
「オレ……ひとりぼっちは嫌だよ」
 それは笑顔の裏に隠された、彼の本音だった。
 ひとりで平気と言い張りながら、エンジュはずっと孤独を忌避していた。おそらく彼自身、そんな自分の心はまったく意識していなかったのだろう。
 ミントはそうっと顔を上げる。息を呑んだ。
 エンジュの瞳から透明な雫が流れていた。
 ——この人でも、泣くんだ。泣けるんだ。
 マール峠でエンジュと初めて出会った時、ミントには気になることがあった。それは、彼が一人でキャラバンをやっているにも関わらず、ちっとも寂しくなさそうだったこと。……でも、違った。彼はやはり、どこまでも普通の人だった。
 八年も経って、それが分かった……! 切なさと歓喜で、ミントの胸はあふれそうだった。
「ねえエンジュさん、こっちを向いて」
 彼は静かに首を動かした。ミントは頬の涙を指で拭ってあげる。それでようやく、彼は自分が泣いていたことに気づいたらしい。驚いたように何度も瞬きしていた。
 ミントは優しく微笑んだ。
「安心して。わたしがあなたをひとりにさせないわ」
「本当に……?」
 なんとも弱々しい返事だった。キャラバンでは無敵の活躍を見せる彼が、道に迷った子供のような表情を浮かべている。そんな一面すら、ミントは愛おしくなってしまった。
「本当の本当よ。そのかわり、一つお願いがあるの」
「なに?」
 ミントはにっこりする。
「村のためじゃなくて、わたしのためだけに旅に出て。そして、絶対に帰ってきて……!」
「——うん!」
 やっと思いが通じ合った二人は、固く抱きしめ合った。



「エンジュー!」
 ティパの農家に、賑やかな声が響いた。
 突然の訪問者に玄関で応対したミントは、目を白黒させた。そこにいたのは髪の長いセルキーの女性である。
「エンジュさんは今、お出かけ中ですけど……?」
「そっかー。あっ、あなたがエンジュの彼女?」
 女性は綺麗に微笑んだ。あけすけな物言いに、なんとなくむっとする。
「べ、別に彼女とか、そんなのじゃありません。あなたこそ誰なんです?」
 尋ねると、女性は色気たっぷりにウィンクした。
「ワタシはヴィ・レ。ルダのキャラバンよ。エンジュがティダ村攻略に行くって言うから、うちのおかしらから援助物資を預かってきたんだー」
「そ、そうなんですか。それはどうも。わたしはミントです」
 ヴィ・レはお腹も足も露出した、とてもキャラバンとは思えない格好をしていた。反応に困るミントへ、ヴィ・レは馴れ馴れしく近寄った。
「ね、この村にジ・ルヴェって人がいるでしょ」
 また唐突に話題が変わるものだ。ミントはきょとんとする。
「いますよ。漁師の家に。あの人の知り合いなんですか」
 そういえば彼は通算二年ほどキャラバンをやっていた。その時に知り合ったのだろうか。
 ヴィ・レは大きく頷く。
「ワタシ、どうしてもあの人に会いたくて。というか、むしろそっちがメインの目的なんだけど」
「呼んできましょうか?」
 とミントが提案したところで、偶然玄関のドアが開いた。
「——げ、ヴィ・レ!?」
 ジ・ルヴェだ。とんでもないタイミングの登場である。彼は即行で回れ右をしたが、素早く動いたヴィ・レに羽交い締めにされた。
「会いたかったわジ・ルヴェ!」
 彼女は目をキラキラさせている。ミントはぽかんと開いた口元に手を当てて、
「……二人ってどんな関係?」
「深い関係。ワタシはこの人に責任を取ってもらいに来たの」
「え」
 ぶんぶん頭を振るジ・ルヴェ。
「変な言い方するな!」
 さらには、開けっ放しの扉をくぐって、エンジュまで帰ってきた。
「ただいまー。あ、ヴィ・レだ」
 ジ・ルヴェの体をがっちり固定した状態で、ヴィ・レは彼に笑顔を向ける。
「やっほーエンジュ。おかしらから、いいものもらってきたよ!」
「ル・ティパさんから? それは、わざわざ……ありがとう」
 エンジュははにかみ、例の敬礼をした。まさか、盗賊の末裔と言われるセルキーの首領に援助してもらえるなんて、思ってもいなかったのだ。ヴィ・レはもがくジ・ルヴェを無視して、首を縦に振った。
「それだけ期待されてるのよ。おかしら、結構エンジュのこと気にかけてたみたいだし。……あ、プレッシャーになっちゃった?」
「まさか」
 エンジュは皆の前で、しっかりと首を振る。
「やるだけやって、帰ってくるよ」
 その様子を見て、ヴィ・レは安心したように息を吐いた。アルフィタリアで会った時よりも、エンジュは明らかに落ち着いていた。それはきっと——
(ミントちゃんのおかげ、かな)
 心配そうにジ・ルヴェを見つめる温の民が、エンジュの心を支えていることは、もはや疑いようがなかった。
 エンジュは身軽そうな訪問者に目を留めて、
「ところでヴィ・レ、馬車は?」
「仲間はみんな帰ったよ。荷物だけ置いていった」
 言葉の意味するところが分からず、エンジュは首をかしげた。
「……ルダ村に帰らないのか?」
 ジ・ルヴェは明らかに消沈した声を出した。
「うん。ほら、エンジュの旅立ちを見送りたくてね。だから、しばらくどこかに泊めてくれないかなー」
「ここの村に宿はないぞ」
 ジ・ルヴェは嬉々として答えるが、
「うちに泊まっていかない?」
 ミントがひょっこり申し出た。
「え……いいの! やったあっ」ヴィ・レは手を叩いて大喜びし、反対にジ・ルヴェは頭を抱えた。
 ミントはにっこりしてエンジュを見やった。
「いいわよね、エンジュさん」
「もちろん! 狭い家だから、ちょっと窮屈させるかもしれないけど」
 歯切れのいいやりとりを聞いて、ヴィ・レは何度か瞬きした。
「二人って……もしかして、一緒に暮らしてるの?」
「そうよ」
「ええと、ご夫婦ですか?」
「いや、違うけど」
 ヴィ・レは素早くジ・ルヴェの肩を捕まえると、後ろを向いて声をひそめた。
「——って、同棲中ってこと!? まずいじゃないの、なんで普通に許可出してるのよ二人ともっ!」
「あいつら、いつもああいう調子なんだよ……。多分一緒に住んでても、そこまで踏み込んだ関係になってない」
 ヴィ・レは思いっきりため息をついた。深緑の髪をなびかせ、肩越しに振り返る。
「と、とにかくよろしくねー、二人とも」
「こちらこそ。よろしくお願いします」
 ミントは丁寧にお辞儀した。その両肩へ、ヴィ・レはぽんと手を置く。
「ミントちゃん……ワタシで良ければ、いろいろと相談に乗るからねっ」
「え? あ、はい」
 何故だか同情的な視線を感じて、ミントは目を丸くしていた。



「この家には、看板がないのよ」
 夕食の席で唐突に発言したミントに対し、エンジュはぽかんとして、くわえていたフォークを口から離した。
「え、何?」
「だから、看板。ティパ農家の復活を村中に知らしめるのに、何か足りないなあって思ってたけど、やっと分かったわ」
「なるほどー。そういえば入り口がちょっと寂しかったわねー」
 サラダに自家製スパイスとやらを盛んに振りかけながら、ヴィ・レがうんうん頷いた。彼女はやたらと好き嫌いが多い上に味音痴らしく、ミントは毎度ご飯の支度に苦労していた。
「看板……かあ」
 エンジュはというと、さりげなくまんまるコーンをよけている。彼の野菜嫌いは七年経ってもあまり改善されなかった。初めて雑貨屋の夕飯に招かれた時は、あれほどおいしそうに食べていたのに。味の手に慣れてしまったのだろうか、もっと工夫をしなくては。
 彼が酷い偏食になったのはもしや、よく世話になっていた漁師と牛飼いの家が、さかなやニクばかり出していたからではないのか……と疑ってしまうミントだった。
 ヴィ・レもコーンは苦手らしく、皿の隅に黄色い山を積み上げていた。ミントはそんな二人をじろりと睨みつつ、
「そうと決まれば、明日から早速行動に移しましょう!」
 翌朝、三人は揃って農場入り口にやってきた。そこにはぽつねんと朽ちかけた看板があった。
「ね、いまいちでしょ」
「うーむ。確かに」
「これ、前は何て書いてあったの?」ヴィ・レが質問するが、
「さあ。オレも知らないな」
 エンジュは首を傾ける。そこで、ミントは彼に微笑みかけた。
「ねえねえ、せっかくだから、エンジュさんが看板を書いてよ」
「えー! オレ、字書くの下手だよ。手紙で知ってるでしょ」
「それは焦って書くからなの。目一杯丁寧に書きなさい」
 まるで母子のようなやりとりに、ヴィ・レはクスッと笑っていた。
 看板をつくるということで、ミントがジ・ルヴェに頼みこみ、板切れを入手してもらった。エンジュはまっさらな板を前に、何を書くべきかうーんうーんと悩んでいたが、やがてパッと顔を明るくした。
「そうだ、これなら——!」
 翌日、無事にお披露目と相成った。
「農家の看板ですか? ミントも変なことを考えますね」「エンジュの汚い字でも拝むか……」
 リーゼロッテとジ・ルヴェはミントに呼ばれて、しぶしぶ農家に集まった。
 エンジュは看板にかぶせていた布を勢いよく持ち上げた。
「じゃーん!」
 笑顔の彼と対照的に、皆は頭に疑問符を浮かべている。
「あの、エンジュさん……何も書かれてないんだけど」
「それはそうだよ。こっちが表なんだから」
 裏側に回り込むと、確かにそこには「ウェルカム・トゥー・ザ・ティパ農場!!」という文言があった。
「な、何これ」
 あのヴィ・レですら絶句している。
 エンジュは得意げに胸を張った。
「今、みんなは『なんで何も書いてないんだろう』って思ったろ? で、気になった人は裏側に回る。そうしたらもう農場の敷地に入ってる! その後はお客さんとして、ゆっくりもてなせばいい。オレはそういう細かい心理まで考えたんだ〜」
「あほらし……」
 リーゼロッテは肩をすくめ、ジ・ルヴェは無言で立ち去った。
「まあ、ある意味思い出には残ったわね」
 ミントは苦笑していた。
 皆がそれぞれの仕事に戻っていく。エンジュも畑に行こうとしたが、ヴィ・レに声をかけられた。
「エンジュ」
「何?」
「なんか、楽しそうだね」
「そうかな」
 驚いたように見返すと、彼女は腰に手を当てて微笑んだ。
「ワタシ、とっても安心したのよ。ちょっと前までのあなたってば、ひどい顔をしていたもの」
 エンジュは口をつぐんだ。アルフィタリアでヴィ・レと会った時は、寂しさを自覚する前だった。
「やっぱり……自分の体のことがあって、不安だったの?」
「!? なんで、それを」
 愕然とした彼へ、ヴィ・レはひそやかに笑う。
「アルフィタリアでリュクレールさんから聞いちゃった。でも、彼を責めないでね。すごく心配してたから」
「そっか……」
 彼は不透明な表情を浮かべた。ヴィ・レはじいっと水色の目を細めた。
「あなたの心には、自分でも把握し切れていない部分があるわ」
 エンジュは目を瞬いた。一体彼女は何を言い出すのだろう。
「無意識——と言い換えてもいいでしょうね。剣を振っている瞬間、自分が何を考えてるか覚えてる? あまり記憶が無いんじゃないかな。そういう時はきっと、その心に従っているのよ。
 そして。その無意識は、今のあなたとは全く別の何かを求めているんだわ」
「何か……?」
「そう。それが何かは分からないけど、きっと危険なもの。あなたを破滅に導くものよ」
 カイルの「破滅を求めているのではないか」という指摘は、こういう意味だったのだろうか。あの時カイルの台詞を全く理解できなかったのは、エンジュ自身が意識していない衝動に突き動かされていたからだ。
 エンジュはぎゅっと胸のあたりをつかんだ。戦いの時の、ただ体の動きに身を委ねているあの感覚は——無意識が体を支配していた、ということだったのか。
「ねえ、ミントちゃんにはあの顔、見せたことあるの?」
 あの顔、とはおそらく無意識状態における表情のことだ。感情の抜け落ちた、エンジュではないエンジュの顔。
「わ、分かんない……多分ないと思う。ミントさんの前で、かっこ悪いところなんて見せられないし」
 ヴィ・レは破顔した。
「そっか。なら良かった。あの子のこと、大切にしてあげてね。できるかぎりそばにいてあげるのよ」
「うん。もちろん、そのつもりだよ」
 エンジュは微笑んで頷いた。頭の片隅で、ヴィ・レの言葉を反芻しながら。
 彼の心には、自分でもコントロールできない部分がある。ならばその無意識は、破滅の先に一体何を求めているのだろう。



 夕方頃、エンジュは牛飼いのリーゼロッテの家に野菜を届けに行った。両手にいっぱいのほしがたにんじんだ。
 しかし、玄関から出てきた牛飼いの奥さんに、
「リズならクリスタルの前ですよ」
 と言われてしまった。きっと、いつものようにお祈りしているのだろう。ひとまず奥さんににんじんを渡し、エンジュはクリスタル広場に向かった。
 予想通り、広場ではリーゼロッテが背中をぴしりと伸ばしてひざまずいていた。村を守る大きな結晶は、夕焼けの淡い光に包まれている。
 リーゼロッテは祈りを終えて立ち上がると、意外そうな声を出した。
「あら、エンジュでしたか」
 彼はにこりとする。
「ミントさんじゃなくて残念だった?」
「な……!? そんなわけないじゃないですかっ」
 リーゼロッテは慌てて反論した。エンジュはおかしそうに笑いをかみ殺す。
「朝の祈りだけじゃなくて、回数増やしたんだな」
「ええ、まあ。私には祈ることしか出来ませんからね……」
 エンジュは何度か瞬きした。リーゼロッテにしては珍しく、後ろ向きな発言だ。
 すぐに彼女は調子を取り戻し、
「ところで何の用ですか」
「さっき家に野菜を届けてきた。ミントさんからの贈り物。リズには一番おいしいのを食べて欲しいんだって」
 リーゼロッテはほうっとため息をついた。
「それ、ミントがほぼ一人で育てたものですよね。あなたは何かしたんですか」
「オレだって結構手伝ったよ! み、水やりとか」
「雨雲の方がまだいい仕事をしますよ。……まあ、それは構いません。ありがとうと伝えておいてください」
 リーゼロッテはそのまま家に帰ろうとしたが、途中で進路を変更した。へらへら笑っているエンジュに歩み寄ると、おもむろにその頬をつねった。
「い、いひゃい……」彼は涙目になってユークを見上げる。
「痛いんですね、なるほど」
 彼女は満足げに手を離した。何故か、その視線が和らいだ気がする。
「突然失礼しました。エンジュ。せっかくですから、ちょっと家に上がっていきませんか」
「えっと……もちろん、いいよ」
 いきなりの誘いだったが、彼は喜んで応じた。
 牛飼いの家に帰ると、入れ違いで家族が全員外出した。居間にいるのは彼らだけだ。
 リーゼロッテが濃いお茶を淹れてくれる。エンジュは舌を火傷しそうになりながら、喉を潤した。
「リズと二人きりって、久々だなあ」
「いつもはジ・ルヴェとミントが一緒ですからね。つい最近、ヴィ・レまで増えましたし」
 彼女はお茶をすすった。
「ミントとは仲良くやってますか」
「え、う、うん」
 照れたようにうつむくエンジュ。リーゼロッテは優しい声で続けた。
「あなたがあの家でミントと一緒に暮らすことになるなんて、数年前まで考えもしませんでした」
 エンジュは大きく首肯した。
「そうだな、オレもびっくりしてる。でも、ちょっと不安もあって……オレ、本当にミントさんを幸せにできるのかな。
 彼女をひとりにしたくないのに、ティダの村に行くのをやめる気は全然ない。……変だよな、これ」
「それです」リーゼロッテはエンジュの鼻先に指を突きつける。彼は「うわ」とのけぞった。
「あなたの心には大きな矛盾がある」
 エンジュは目をぱちくりさせる。
「心の、矛盾……」
 その単語を耳に入れた瞬間、欠けていたピースが彼の中でかちりとはまった。
 本当は寂しいのに、友だちを傷つけるのが嫌で嫌で仕方がないから、ひとりでいることを選んでしまう。それもまた、彼の抱えた矛盾だった。
「ええそうです。けれども、あなたは自分一人で矛盾を解消できない。それはきっと、親がいないからです。
 誰しも、幼少期にはそういう心が芽生えます。しかし普通の人は、親との対話によって、長い年月をかけてその矛盾を自分のものにしていくのです」
 エンジュは少しムッとした。
「そんなの、オレにはどうしようもないじゃないか」
「そうですね。でも、別に今のままでいいんですよ」
「どういうこと?」
「どちらもあなたの本心なんですから。『自分は矛盾した人間だ』と認めることが重要なのです。心に嘘をついてはいけませんよ、エンジュ」
 柔らかく言葉を結んだ彼女へ、「リズ、優しいんだな」と告げようとして、エンジュは唇を閉じた。
 そんなこと、いくら素直じゃない彼女でも、分かっているのだ。
 代わりに彼はこう尋ねた。
「あのさ、リズはいっつもクリスタルに祈ってるだろ。そう、ちょうど十年くらい前から。あれはどうしてなんだ?」
 しばらく沈黙があった。どうしたんだろうと仮面を覗き込む。リーゼロッテは仮面を思いっきりあちらに向けながら、
「……あなたの無事を、祈ってました」
 エンジュは大きく目を見開き、次ににっこりした。氷を溶かすような笑みだった。
「リズ、いつもありがとう」
「な、なんですかいきなり、改まって」
 彼女は動揺したのか、危うくお茶をこぼしそうになっていた。
「へへ、お礼言ってなかったなーと思って。それに、オレはリズの言葉を思い出したから、レベナ・テ・ラで星に願いをかけたんだ」
「はあ……どういう願いなんです?」
「内緒」
 照れくさそうに笑うエンジュ。これは十中八九ミントのことだな、とリーゼロッテは見当をつけた。
「もしも、あの流星群をもう一度見られるなら——今度はみんなと一緒がいいな」
 夢を語る彼は幸せそうな顔をしていた。
 その時リーゼロッテは、気づいた。エンジュの茜色の瞳は、夜空へと向かう夕焼けの色なのだと。



 ベル川に浮かんだ一つの小舟。漁を終えた金髪の青年が、その上で昼寝をしている。
 漁師の家を訪ねてきたエンジュはすうすう眠る彼を見つけて、ふうっと息を吐いた。
「ジ・ルヴェ」
 と囁くが、起きる気配はない。
 寝たままでもいいかと考えて、エンジュは言葉を続ける。
「あの、さ……これ置いとくよ」
 彼が手のひらにのせたものは、シーフエンブレムと呼ばれる逸品だった。
「たまたまレシピと素材が揃って、なんとなく作っちゃったんだ。でもこれ、セルキー用だろ。だからお前にやるよ」
 エンジュはアクセサリをジ・ルヴェの体の脇に置いた。そのまま、静かに寝息を立てる青年を観察する。つややかな蜜色の髪が無造作に広がっていた。
 最近、ジ・ルヴェはすっかり落ち着いてしまった。ひたすら禁欲的に漁を繰り返し、女の行商人がやってきてもまるで興味がなさそうだった。その冷たい態度がかえって、他人を惹きつけているようだが。
「仲間にはなれなかったけど、ジ・ルヴェは友だちだから。別に使ってくれなくてもいい。とにかく、あげるよ」
 そう言い置いてエンジュは立ち去ろうとしたが、不意に腕を掴まれた。
「お、起きてたのか……!」
 知らぬ間にジ・ルヴェは翡翠の瞳をぱっちり開けていた。エンジュはじわじわ顔を熱くする。
 ジ・ルヴェはまっすぐに彼を見つめた。
「俺は、お前の隣を歩けない。足手まといにしかなれないから。他のみんなも、そんな気持ちを抱えてる。でもな——」
 息を吸い直す。
「お前が一言でも『助けて』って言えば、すぐにでも飛んでいく奴がいっぱいいる。
 ……俺も、その中の一人だ」
 言い切ってから、ジ・ルヴェは少し後悔したように顔を歪めて、再び小舟に寝転がった。
 エンジュはしばらく黙ってその場にいたが、「ありがと」と言い残し、去っていった。
 すっかり足音が聞こえなくなってから、ジ・ルヴェはちらりと目を開けて、シーフエンブレムを日に透かし見る。そのほおは少しだけほころんでいた。
「嬉しそうねえジ・ルヴェ」
「!?」
 彼は跳ね起きた。不意打ちで聞こえたのは、女性の澄んだ声。
 ヴィ・レがにやにやしながら小舟を見下ろしている。
「お前……! 一体いつからそこに」
「あなたがエンジュの手を引いたあたりから。いやあ、お熱いわねえ」
「やめろ」
 ジ・ルヴェはうそ寒そうに腕をかき抱いた。ヴィ・レはしゃがみこんで、彼と目線の高さを合わせた。一刻も早く立ち去ってほしかったが、どうやら彼女は長居をする気らしい。
「全然関係ないんだけど、ミントちゃんっていい子よね」
 前置きの通り、脈絡のない話だ。
「そうか? 結構怖いところがあるぞ、あの女」
「ね、ジ・ルヴェはあの子のこと、どう思ってるの」
 ヴィ・レの目は真剣だった。どうもこれが本題らしい。ジ・ルヴェは思わずごくりと唾を飲んだ。
「どうしてそんなことを訊くんだ」
 質問に質問で返すのは卑怯だったが、一旦時間を稼ぎたかった。
 彼女は優美な人差し指を唇の前で揺らす。
「ワタシねえ、これでも観察力だけはあるつもりなの。
 あなたは面白い人。何故ならエンジュに入れ込みすぎて、彼が気にしてるミントちゃんにまで興味を持ってしまったの」
 瞬く間にジ・ルヴェの顔が真っ赤に染まった。
「な、なんだよお前。何が言いたいんだ!」
 ヴィ・レはびしりと指を天に向けた。
「一番訊きたいのは、ワタシにもあなたと一緒になれるチャンスがあるのかってこと!」
 そういえば。ルダの村で初めて出会った時、ヴィ・レはナンパに失敗したジ・ルヴェを見て、「ワタシなんてどう?」と胸を張っていた。
 ジ・ルヴェはやや呆然としながら、
「……本気だったのか?」
「本気も本気よ! ナンパしてる時点で、あなたのそういう面倒くさい性格はなんとなく見えてたけど。知れば知るほど面白い人なんだもの、気にならないはずないでしょ。ルダの村には絶対いないタイプだわ」
「褒めてるのかそれ」
「もちろんよ」
 ヴィ・レの水色の瞳は少し潤んでいた。口では威勢のいいことを言っているが、その内心が追いついていないらしい。ジ・ルヴェは唇の端を上げ、ぐいっと彼女の腕を引いた。ヴィ・レは小舟の上に倒れ込む。
「あっ……!」
「性格はともかく、顔はまあまあだな」
 吐息のかかる位置にジ・ルヴェがいた。ヴィ・レの心臓は早鐘のように鳴り始めた。
 しかし、片手で几帳面にシーフエンブレムをしまいこむジ・ルヴェを見て、彼女はこっそり笑ってしまった。
 やっぱりワタシ、あなたのそういうところが好きよ。



 いよいよティダの村に旅立つという日の、前夜——エンジュは村長の家に呼ばれた。
 農家を出て、ローランの家を横目に見ながらクリスタル広場を通り過ぎる。その先に、錬金術師の家があった。キャラバンに入ってから、様々な相談のために何度も何度も訪れた場所だ。
 慣れた足取りで家の中を進む。居間では、小さなリルティがソファに埋もれていた。
「エンジュ」
 村長はただ名前を呼んだ。エンジュはこっくり頷いた。
「実は、ワシはそろそろ引退するつもりじゃ」
「えっ」
 予想外の台詞に、エンジュは目を丸くする。
「村長って、引退とかあるんですか?」
「ある。そもそも今の村長の職には、ローランがつくはずだったのじゃ」
 驚きの連続だった。「ローランさんが……?」目を白黒させるエンジュへ、村長は説明する。
 ティパの村長は、代々ローランの家系がつとめていた。しかし彼が幼い頃に父親が亡くなったため、代理で錬金術師の老リルティが村長を引き継いだのだ。
 エンジュにとって、ローランは墓守と村の調整役をつとめているイメージが強かった。その仕事で村民から幾ばくかの金銭をもらって生活している。よく考えれば、錬金術師には本業があるのに、さらに村長を兼任しているのはおかしな話だった。
 当然、エンジュの頭には疑問がわく。
「じゃあ、どうしてローランさんは村長にならなかったんですか」
「あのティダ村の事件で、あやつが責任を感じたからじゃろう」
「……!」
 エンジュの顔から血の気が引いた。
 八年前、ローランは「エンジュと入れ替わりにキャラバンを引退する」と村長に申し出た。その時に村長職を譲ろうとしたのだが、彼には頑として頭を振られたらしい。
「……今のぼくは、村長にふさわしくありません。大事な判断を間違えて、みすみす村民を死なせることになりかねない。おとなしくみんなの墓を守ります」
 明らかにマ・ルセルたちについて言及していた。村長には、かけられる言葉がなかったという。
 唇を噛むエンジュ。村長はかぶりを振った。
「じゃが——もう、そろそろ心の傷も癒えた頃じゃろう。ワシも体調が芳しくなくての。だからローランに村長の職を譲ろうと思う。その時は、エンジュ、お前も説得を手伝ってくれるかい」
「オレが? いいですけど」
 ローランを説得する自信はあまりなかった。あの事件以来、エンジュは彼と真正面から向き合ったことがなかったのだ。
 戸惑うエンジュを、村長は強く諭した。
「お前なら、できる。そのために、必ず帰ってきなさい」
「……はい」
 ごくり、エンジュは唾を飲む。村長はソファに座り直した。
「実は、お前をここに呼んだ理由は、もう一つある。……お前の親の話をしておきたいのじゃ」
「え」とエンジュは息を漏らした。
 村長のひげに隠れた口が、決定的な事実を告げた。
「お前の父親は二十三年前、ティダの村で消息を絶った」
 エンジュの目が大きく見開かれた。村長は青灰色の瞳を愁いに沈めた。
「滅びを迎えたティダ村に、最初に訪れたのは、お前の父親じゃった——」
 村長は懐かしい記憶を掘り起こした。
 エンジュの父はキャラバンだった。彼は補給のために仲間とともにティダの村を訪れたが、そこはすでに廃墟と化していた。キャラバンは村を回って、唯一の生存者——クラヴァットの娘を助け出した。彼女をアルフィタリアに送り届けた後、エンジュの父は仲間を置いて、すぐにティダ村にとって返した。おそらく、わき始めた魔物を退治しようとしたのだろう。そして結局、戻ってこなかったのだ。
 一方、体の弱かった母親は、生まれたばかりのエンジュを残して命を落とした。赤子は、生前両親が親しくしていたジ・ルヴェの家に預けられることになった。
 会ったこともない両親は、何を思って彼岸に旅立ったのだろうか……。
 エンジュはそっと目を伏せた。
「オレ、ずっとみんなに言い聞かされてました。いつか、オレの親は帰ってくるって」
 ジ・ルヴェの家で家族同然に暮らしていても、「自分の親は別にいる」とはっきり告げられていた。
「オレがあの日、キャラバンの馬車に潜り込んだのは——親を待つだけの生活が、嫌になったからです。どこかに父親がいるというのなら、旅に出て見つけたかった……」
 村長は背を伸ばし、エンジュの肩を抱いた。
「親がいなくて、寂しかったか。ワシらはそんなお前から、大切な仲間すら奪ってしまった。……すまなかった」
 エンジュは村長に優しいまなざしを向ける。
「でも、オレの親は、この村にいっぱいいます」
 親のいなかった彼を、村長やローラン、リーゼロッテやジ・ルヴェの両親は親身になって支えてくれた。
「村長だって、父親の一人ですよ」
 彼は胸に手を当てて敬礼すると、老リルティの小さな体を抱きしめた。村長は肩を震わせ、慟哭した。
「頼む、エンジュ。無事に帰ってきてくれ……!」



 ついに、エンジュの旅立ちの日が訪れた。村民たち——結局農家に居着いてしまったヴィ・レも含めて——は、村の入り口に集まっていた。
 今日は快晴だ。朝日が柔らかくあたりを照らし上げ、いっそうティパの緑をみずみずしく見せている。
 エンジュは馬車のそばに立ち、群衆をゆっくりと見回す。その視線はある人物のところで止まった。
「ミントさん」
 旅装束に身を包んだ彼を食い入るように見つめている、黒髪の女性に歩み寄った。
「オレさ……一つだけ、欲しいものがあるんだ」
 思い切った発言だった。おお、と観衆がざわめく。
「ついに行動に出るのかしら!」「ちょっとヴィ・レさん静かにして下さい」
 色めき立った野次馬代表に、リーゼロッテがぴしゃりと釘を刺した。
 エンジュは周りの反応などまったく気にせず、ミントただ一人に向かって語りかける。茜色の瞳が穏やかに輝いていた。
「すごく失礼な申し出だって、分かってる。でも、どうしてもお願いがあるんだ」
「なあに?」
「あのペーパーナイフ、オレに貸してくれないかな」
 ミントは目をまんまるにした。それは母親の形見であり、二人の出会いを繋いだ思い出の品だった。
「……いいわよ」
 エンジュに言われてから肌身離さず持ち歩くようになったそれを、彼女はそっと差し出した。金字でミントの名が刻んである。エンジュはナイフごと彼女の手をとって、自分の手のひらで包み込んだ。
「ありがとう」
 今はそれだけで十分だった。何も言わずとも、エンジュの思いはしっかり伝わっていた。
 最後にもう一度、二人の視線が交錯する。向かい合わせでも、きっと見つめるものは同じだった。
「それじゃ、また!」
 明るい世界に背を向けて、エンジュはパパオと共に旅立って行った。



『エンジュさんへ——ミントより』
 そろそろ、アルフィタリア盆地についた頃かしら。ちゃんとご飯は食べてる? いくらおいしくなくても、野菜は残しちゃダメよ。それと、しっかり寝てね。そういう習慣が体を作るんだから!
 わたしはキャラバンのことなんて分からないから、こんなつまらないアドバイスしかできない。あなたをひとりにさせないって言ったのにね。とても悔しいわ。
 結局……わたしはあなたの旅の苦しみを分かち合うことはできなかった。それでも、少しだけならあなたの荷物を軽くできたのかな。
「ひとりぼっちは嫌だ」って、ちゃんと言えたものね。あなただけじゃなくて、みんなもそうなのよ。ひとりは嫌だから、おしゃべりをしたり喧嘩をしたり、一緒に料理を食べたりするの。わたしたちはあなたの仲間であり、友だちであり、家族なのよ。
 あなたなら大丈夫だって信じてるわ。おいしいご飯をつくって、待ってます。



 エンジュは運命の地——ティダの村に舞い戻った。まさしく「戻ってきた」という感覚が正しい。彼は何かに導かれるようにして、ここにたどり着いたのだ。
 八年前は五人で来た道を、一人きりで歩くことになる。馬車から出る前に武装を確認し、気を引き締めた。
「……よし」
 エンジュは一つ息を吐く。「ようこそティダの村へ」という看板をことさら無視して、ダンジョンへと足を踏み入れた。
 相変わらず薄曇りの空だ。廃墟群にひしめく魔物と粘菌は、以前よりも多くなった気がする。それでも道中で魔石が拾えて助かった。行く手を遮る粘菌をファイアで焼き払い、邪魔する魔物を叩き伏せる。だが、敵は倒しても倒してもわいてきた。
 傷ついた彼は目に付いた木の下で、ひとまず休憩をとることにした。
「……しまったなあ」
 その木は灰色の世界で唯一、色を持っていた。青々とした葉が風になびくのを見ながら、彼は物思いに沈む。
 ——フェニックスの尾を、使い切ってしまった。ルダ村やアルフィタリアからの支援も受けて、あんなにたくさん持ち込んだのに。ここからは正真正銘、命を賭けた戦いになるわけだ。
 おまけに相手の数が多すぎて、半ば逃げてきた戦いも多々あった。今さら戻ろうとしても、帰り道にはわんさか敵がいるだろう。もはや進むしかなかった。
 八年前に苦戦した敵・アバドンの群れをもなんとか退けたエンジュは、やがて運動場のような開けた場所にたどり着いた。その真ん中には、何故か一軒の家が建っていた。
(こんな場所に?)
 違和感しかない。近づくと、扉の脇に「アームストロング」という表札が見えた。
 瞬間。ざわりと空気が殺気立った。エンジュは即座に身構える。
 何の前触れもなしに家が動いた。土台の部分から木の根のような足が生え、家屋が持ち上がる。
「えっ」
 彼はとっさにケージごと地面に転がった。ろくに動作も見ずに避けたが、それで正解だった。先ほどまで彼がいた場所に、釘がたくさん打ち付けられている。間違いなく、あの家が放った攻撃だった。
「そんなのありかよ!?」
 驚く間にも、次々と攻撃が襲いかかる。エンジュは立ち上がり、剣を構えた。いつの間にか、あたりには数体のスケルトンまで出現していた。
 冷静になれ……と自分に呼びかける。初めての場所、初めての巨大な敵——今まで数え切れないほど、そんな戦況をくぐり抜けてきたじゃないか。
 暫定的にアームストロングと呼ぶことにした家に注意を配りつつ、スケルトンを片付ける。ラグナロクの刀身は易々と骨の体を砕いた。
 再びアームストロングと対峙する。敵は出し抜けに大砲のような腕を伸ばして、そこから何かの玉を放った。危なげなく回避し、同時に相手に肉薄したが、至近距離から胞子のようなものをまき散らされた。
「うっ!?」胞子は体にまとわりつき、俊敏な動きを阻害する。スロウの効果と同等だった。そこで追い打ちとばかりに、エンジュは大砲の直撃を受けた。足がよろめく。カーズラ——大幅に能力を減退させる、呪いの魔法をまとった玉だ。体が紫の魔力で縛られた。
 しまった。全身の力が抜けていく。真っ青になった瞬間、彼はアームストロングに体当たりされて、大きく吹き飛ばされた。
「——っ!」
 背中から木の柵に叩きつけられた。衝撃で柵が壊れる。息が止まった。全身が痛い。
 エンジュはぐったりと瓦礫に体重を預け、腕を振り上げるアームストロングを、なすすべもなく見つめていた。
 あれの直撃を喰らったら、今度こそ間違いなく、自分は死ぬ。
 顔を歪めて敵を睨んだ。もはやろくな抵抗もできない。
(あ、れ?)
 アームストロングの後ろに広がる灰色の空に、誰かの後ろ姿が見えた気がした。
 二人いる。あれは、ずっと——ずっと追い求めていた、彼の両親ではないか。
 暗くなりゆく視界の中で、エンジュは手を伸ばす。
 どうしてオレを置いていったの。どうして二人だけで行っちゃったの。オレも、一緒に行きたかったのに……。
 エンジュは重くなるまぶたを閉じた。意識が閉ざされかかっている。疲れ果てた体の感覚は消え、ただ波間にたゆたっているような浮遊感があった。
 ……彼は、分かってしまった。自分がどれだけ他人に迷惑をかけても無茶を繰り返したのは、どれだけミントに心配されてもひとりで旅に出たのは——全て、その先に待つ死を追い求めた結果だったのだ。
 父親の帰りを待つだけでは飽き足らず、彼は自分から探しに行った。その結果、ティダの村であの悲劇があって——その時、何かを悟ってしまった。もう両親はどこにもいない。彼らに会いたければ、「向こう側」に行くしかないのだ、と。
 村の命を背負って必死に魔物と戦いながらも、彼はずっと、楽になりたかった……。
 ぷつんと、何かが途絶えた。それは生きようとする意志か。死を求めていたことを自覚した瞬間、無意識は意識になったのだ。
 ……。
 真っ暗な闇の中で、不意にミントの声が蘇る。
「わたし、寂しくなんかないわ」
 ティパの村にやってきた三年前、彼女はそう言っていた。そんなはずはない。祖母のキャロが死んで、寂しくないはずがなかった。でも、彼女にそう言わせてしまったのは——エンジュだった。彼が「ひとりでも大丈夫」と言い張っていたから、ミントまでああいう思いを抱いてしまった。
 ……ごめん、ミントさん。
 だらんと垂れた手が、少しだけ動いた。腰につけていたポーチに触れる。口が開いてしまったのか、中身がこぼれていた。
 何かがちくりと指に刺さった。この感触は——あの、ペーパーナイフだ!
 ティダの村に来る直前、これを使ってミントの手紙を開封した。あの時は子供のようにわくわくしたものだ。ナイフで丁寧に封を切ると、新たな世界を切り開いた気分になった。きっとマール峠にいた頃のミントも、こうやって外の世界と繋がってきたのだろう。
 手紙に記されていたのは、「わたしたちはあなたの仲間であり、友だちであり、家族なのよ」——力強いミントの言葉だ。この九年間、自分はどれだけ彼女に勇気づけられてきたのだろう。どくん、エンジュの心臓が脈打った。
(だから、オレも彼女をひとりにしちゃいけないんだ)
 腕が上がった。剣を握る。自分を取り巻くあらゆる感覚が復活している。
 エンジュは決然とおもてを上げた。
 目の前にアームストロングの腕が迫っている。しかし、敵の姿は前よりも小さく見えた。
 彼は上半身をひねって、すんでの所で攻撃を避けた。瓦礫に腕が深々と突き刺さり、抜けなくなる。エンジュはわずかに顔をほころばせると、すっくと立ち上がった。
 ケージもラグナロクもそばにある。呪いの効果は切れかかっていた。自分は天に見放されたわけではない。エンジュは剣を握り直し、アームストロングの腕を足場にして駆け上ると、その頂点で思いっきり踏み込んだ。
「うおおおっ!」
 大上段からラグナロクを振り下ろす。腕から剣先までが一直線になり、暗黒剣の絶大な力が魔物へと伝わった。彼は同時にサンダーリングの魔力を解放していた。ラグナロクは雷をまといながら、魔物の頭に深々と突き刺さった。苦悶の声を上げ、暴れ出すアームストロング。それでもエンジュは決して手を離さなかった。
 やがて、抵抗は止んだ。家にとりついていた魔物はぐずぐずと崩れ去り、ただの瓦礫の山が残った。
「はあ、はあ……」
 死に満ちた世界に、エンジュの吐息だけがこだまする。とんでもなく疲れていた。けれども気分は晴れやかだった。
 ……終わった。全て、終わったのだ。
 雲間からさあっと日が差し込み、血に濡れて冷え切ったエンジュの頬をあたためていく。
 それは、いつか見たいと願った光景。思わず誰かと共有したくなるような、素晴らしい眺め——だが、レベナ・テ・ラの時のように、孤独は感じなかった。きっと父母やここで倒れた三人の仲間たちが、ともに見ていてくれるのだろう。
 彼らは目に見えなくても、消えたわけではない。死を求める自分に、両親はいつでも寄り添っていてくれていた……。
 エンジュはうっすら微笑むと、ケージを持って運動場の奥に歩いて行った。見覚えのある輝きが、ちらりと見えた気がして。
「うわあ」
 そこには、清浄な光を湛えるミルラの木が立派に育っていた。青と緑が溶け合った葉。いつ見ても安堵を誘う光だ。
 幾重にも折り重なった悲劇の先には、命の木があったのだ。
 エンジュは今にも泣きそうな顔で笑った。
「みんな……仇は、とったよ」
 これでやっと、墓参りができそうだった。



『ミントさんへ——エンジュより』
 オレ、やったよ。ひとりでティダの村を攻略できたんだよ!
 それでね、あそこの奥にはミルラの木があったんだ。その前には当然、ボスもいた。家の一つに魔物が取り憑いていたんだ。あいつが魔物の活性化の原因だったのかな。きっとこれから、あの村はダンジョンとして整備されるんだろうね。そうやって、あそこの悲劇が少しずつでも知られていったらいいなあ……。
 実はこの手紙、誰よりも先に書いてるんだ。とにかく一番にキミに知らせたかったんだよ。
 今は、ひたすら早く帰って、キミの顔が見たい。キミの声を聞きたい。
 それとね、少し落ち着いてからでいいんだけど……オレと一緒にお墓参りに行ってくれないかな。うちの両親と、仲間たちに顔を見せたいんだ。もし、あの時みたいにオレの決心がつかなかったら、キミが背中を押してくれる?
 それじゃ、またお手紙します。ミントさんも体に気をつけてね!



 エンジュは馬車を引いてアルフィタリアに凱旋した。
 いくら真っ先に故郷に帰りたくても、これだけは義務だった。彼の勝利は、様々な村からの支援がなくては成り立たないものだったから。
 城下町の聖域に突入してすぐ、彼は大勢のリルティたちに出迎えられた。
「ティダの村を解放した、英雄の帰還だ!」
 誰かの声が上がった。大げさすぎる口上を聞いて、彼は苦笑を漏らした。
「英雄……英雄かあ」
 なんだか自分のこととは思えなかった。
「よくお似合いの称号ですよ」
 と言って進み出たのは、アルフィタリアキャラバンのリーダー、カイル=キーツだ。黒い兜を取って、穏やかな笑みを浮かべている。
 エンジュは照れくさそうに頬を掻いた。
「そうですかね。全然ピンとこなくて」
 それよりも。いつになく柔らかい表情のカイルを見て、エンジュは「いいことをしたな」と思った。帰ったら、ミントもこういう笑顔を浮かべてくれるのだろうか。
 そこに、新たな声が参入する。
「エンジュ、おかえり!」「クポーっ」
 リュクレールとモグだった。エンジュは目を丸くし、大喜びで両手を広げた。
「二人とも! わざわざ、来てくれたんだ」
「来ないわけにはいかないだろう。心配……したんだぞ」
 リュクレールは安堵したように息を吐いた。エンジュは自分よりも高い位置にある彼の肩を、とんとん叩いた。
「ごめん、迷惑かけた。それとサンダーリング、役に立ったよ」
「それは良かった。……エンジュ、キャラバンはどうするんだ」
 エンジュはにっこりした。それだけで、リュクレールは理解したようだ。
「もう遅いかもしれないけど。これからはのんびりするよ」
「ああ、そうしてくれ」
 二人は顔を合わせながらも、それぞれ別れを予感していた。この先リュクレールはますます忙しくなり、シェラの里から出られなくなるだろう。エンジュもきっと……。
 リュクレールは自身の思い出にしっかり彼の姿を刻みつけるように、仮面の奥から視線を注いでいた。
「エンジュ……」
 ボロくなった旅装束に、モグがすり寄ってきた。エンジュは赤いボンボンをなでてやる。
「モグも、ありがとう。離れていても、お前はオレの仲間だったよ」
「本当クポ? ボクも、エンジュの役に立てたクポ?」
「もちろんっ。あっそうだ。モグ、この手紙を特急便でティパの村に届けてくれないかな」
 それはミントに宛てた手紙だった。ティダ村から城下町までの短い旅程で、すでに何通もしたためていたのだ。
「了解クポー!」
 郵便配達員としてすっかり一人立ちしたモグは、嬉しそうに何度も頭を上下させていた。
 旧友たちの邂逅を、カイルは少し後ろに引いて眺めていた。頃合いを見計らってアルフィタリア式の敬礼をする。
「エンジュ殿。私とともに城に来てくれませんか。王が、あなたにご挨拶をしたいとおっしゃっています」
「王様が? もちろんいいですけど……」
 エンジュはリュクレールたちを振り返る。三つの視線が空中で交わった。
「みんな、またな!」
 彼は短い台詞を残し、友だちに背を向けた。
 リュクレールは自身の内なる声に耳を傾けるように、胸に手を当てていた。
 エンジュはカイルに従って、パパオと一緒に町を練り歩いた。広い通りには、リルティもユークもセルキーもクラヴァットも……全ての種族が揃っていた。
 皆がキラキラした目でこちらを見る。エンジュは少し気後れしてしまったが、悪い気分ではなかった。
 カイルが前を向いたまま言う。
「これからは、キャラバンの制度も考え直さなくてはなりませんね。以前コナル・クルハ湿原で、我々とルダキャラバンが鉢合わせたことがあったでしょう? ああいうことがないように、もっと連絡を取り合わなくては。アルフィタリアが陣頭に立つべきでしょうが……道のりは遠いかも知れませんね」
「でもカイルさんなら、できますよ」
 彼は驚いたようにエンジュを振り向いた。
「そうでしょうか。私では、力不足ではありませんか」
「ティダの村攻略戦の言い出しっぺだって、カイルさんだったでしょ。大丈夫ですって!」
 カイルははにかんだ。そうすると、いつもの堅苦しい雰囲気がとれて、年相応の顔になった。
 当代の王様は、わざわざ城の前で待っていた。エンジュはまっすぐに顔を上げて、いつもの敬礼をする。
 王は鷹揚に頷き、従者から立派な箱を受け取ると、エンジュへ差し出した。
「よくぞ無事に帰ってきてくれた、ティパ村のエンジュ。これは、我がアルフィタリアの兵ですら成し遂げられなかった功績だ。ティダの村の霊たちもこれで浮かばれよう……。
 そこで、だ。この度の武功を鑑みて、そなたに受け取って欲しい称号がある」
「称号……ですか」
 エンジュはかぶりを振った。
「せっかくですが、辞退させて頂きます。オレが今回あそこを攻略できたのは、オレ一人の手柄じゃないんです」
 仲間や友だち、そして家族。誰一人欠けても成り立たなかった勝利だ。
 エンジュの申し出に、王は驚いたように目を丸くしていたが、やがて大きく頷いた。
「分かった、無理強いはしない。だが……民衆はそなたをこそ、まことの英雄と呼ぶだろう」
 王の広げた手に従い、エンジュは後ろを向いた。そこにいる誰も彼もが、明るい顔をしていた。あの生真面目なカイルすら、晴れやかな表情を浮かべている。
「……!」
 エンジュは破顔した。
 彼を見守る群衆の中に、一人のリルティの男の子がいた。彼は強い視線をエンジュに送っている。
「レオン、いつまで見てるの!」
「はーい……」
 レオン=エズラは母に呼ばれて、エンジュに背中を向けた。子供の心には、一人旅を成し遂げた英雄の姿が、深く刻まれただろう……。



 帰り道、エンジュはマール峠に立ち寄った。ある人物から手紙を受け取り、ここで会おうと提案されたのだ。
「お疲れさま、エンジュさん」
 その相手とは、ミントの親友メモリ=ノードである。白い帽子を被ったリルティは、以前とそれほど背丈は変わらない。しかし、ずいぶんと大人びた表情を浮かべるようになっていた。
「ただいま、メモリ」
 エンジュは笑顔で応じた。メモリは、彼にとっては懐かしいあの井戸端に座るよう指示する。
「ミントは元気にしてる?」
「うん。オレのせいで、いっぱい迷惑かけちゃったけど……これからはそうしないよ。ミントさんをひとりにはしない」
 言葉の端々に彼なりの決意が滲んでいた。メモリはにやりとする。
「任せたわよ。あの子は結構な寂しがり屋なんだからね」
 エンジュはからりと笑った。その後少し表情を改め、
「あのさ、メモリ。今さら気づいたんだけど……オレも、案外寂しがりだったよ」
 メモリは一瞬きょとんとしたが、すぐに破顔した。
「それはそれは……。二人とも、やっぱりお似合いだったわけねっ」
 二人は近況報告をしたり、ティダ村の今後について意見を交わしたりと、井戸端で大いに盛り上がった。特にミントのペーパーナイフに救われた話をすると、メモリは自分のことのように喜んだ。まるでミントが雑貨屋にいたあの頃まで、時間が巻き戻ったようだった。
 そのうち、年若いリルティが駆けてきた。彼はメモリと二言三言交わすと、エンジュをもの言いたげに見つめて立ち去る。
「今の人は?」
「婚約者。アタシもそろそろ村の調整役に就任するのよ」
 メモリは由緒正しい血を受け継いだ大地主の子だった。ティパ村で言うところのローランの家のようなものだ。
「じゃあ忙しいんだな」エンジュはさっと腰を上げる。
「ごめん、気を遣わせちゃって」
 こういう時、サバサバした対応ができるのがメモリの長所だろう。
「またね、エンジュさん。いつかそっちの村にも行きたいわ」
 メモリは軽く手をひらひらさせると、足早に去って行った。背中までもが颯爽としていた。
 彼女を見送ってから、エンジュはなんとなくその場に立ち尽くしていた。マール峠のクリスタルに、明るい日差しが降り注いでいる。
 井戸に誰かが近づいてきた。
「ありがとうよ」
 不意に耳元で聞こえた言葉に、エンジュはびくりと肩を跳ね上げた。急いで声の方向を見る。あの後ろ姿は……もしや、セシルだろうか。いつだったか、ジ・ルヴェを女性と勘違いして声をかけた男性だ。
「ありがとう」——今の言葉は、自分に向けられたのだろうか?
 彼は不思議そうに小首をかしげて、遠ざかるセシルを見送った。
 そろそろ馬車に戻ろうか、とパパオを預けている宿の方角に足を向けたところ。
「エンジュくん」
 またもや誰かに呼びかけられた。どこかで知ったような声だ。彼をこう呼ぶのは、確か——
「え、っと……もしかして、キミは」
「上よ、上」
 エンジュははっとして、天を仰いだ。木が無数の枝を大きく伸ばしている。その枝の一つから、なまめかしい曲線を描く足が二本、ぶらぶら垂れ下がっていた。
 人が隠れている! 彼は目を瞠った。
「覚えてないかなあ。あたし、マ・リラよ」
 鈴を転がすような声が降ってきた。数年前、エンジュが迷い込んだ名も無き村で出会った少女だ。
「マ・リラか、久しぶり! それにしても、こんなところで一体どうしたんだよ」
「そろそろエンジュくんが来る頃だと思ってね。長老に無理言って、ケージを貸してもらったの」
 葉っぱの間からクリスタルの光が漏れている。どうやら、彼女もティダ村攻略戦を知っているらしい。
「それはわざわざ……ありがとう。ねえ、下におりて、顔を見せなよ」
 エンジュは空気を受け止めるように腕を広げたが、マ・リラは首を振ったようだ。
「他の人には顔を見られたくないの。いいから、ここで話を聞いて」
 やはりはぐれ者の村の住人は、人目を忍ぶらしい。エンジュは木の幹に寄りかかり、彼女の声に耳をすませた。
「本当にお疲れさまだね。あたし、いつかエンジュくんはすごいことをやってくれるって、信じてたよ」
「あ、ありがとう」
「それでエンジュくんは、やっぱりあたしとは結婚してくれないのね?」
 いきなり話が飛んだ。
「う……うん。ごめん」
 もごもご呟き、うつむくエンジュ。
「……じゃ、あなたの子供と、あたしの子供がくっつけばいいのか」
 彼女は小声で不穏なことを呟くと、枝からぶら下がったようだ。声が少し近くなる。
「ね、その腰の剣、どうしたの?」
 ラグナロクのことだ。エンジュは目を瞬いた。
「これは昔、知り合いにもらったんだ。でも、もう……いらないかな」
 エンジュは笑った。すると、マ・リラが明るい声を出した。
「じゃ、あたしがもらっていい? 記念になるから」
 彼は束の間迷ったが、すぐに頷いた。
「そうだな、あげるよ。好きに使ってくれ」
 この魔剣も、コナル・クルハ湿原でカイルにもらった時は禍々しい気配を放っていたが、ティダ村攻略戦を経てずいぶんと落ち着いた気がする。もしかするとラグナロクは、死を求めていたエンジュの無意識と共鳴していたのかもしれない。それがなくなった今、剣に宿った意思のようなものは眠りについたのだ。
 それならマ・リラが持っても問題ないだろう。エンジュは剣を木の根元に置いた。
「ちょっと後ろ向いててね」
 エンジュが回れ右をしている間に、マ・リラはさっと地面に下り立って剣を持ち、再び枝に上った。セルキーといえども、異様に身のこなしが軽い。身体能力に自信のあるエンジュでも、彼女には負けるだろう。
 マ・リラはにっこり微笑んだようだ。
「また会おうね、エンジュくん。あなたのお話、楽しみにしてるから!」
「うん、また……!」
 枝が大きくしなり、木々がざわめいた。不思議な少女の気配は遠ざかって行った。
 エンジュは南に目線を向けた。さあ、故郷に凱旋だ。



「ただいま!」
 エンジュは満面の笑みとともにティパの村に帰ってきた。
 入り口で出迎える誰の顔にも、希望が満ちあふれている。彼はざっと首を回してそれを確認すると、まずミントに歩み寄り、ペーパーナイフを取り出した。
「ありがとうミントさん。これ、すごく役に立ったよ。……で、悪いんだけど、もう少し貸してくれないかな」
「もちろんいいわよ」
 ミントは何も聞かず、顔をほころばせた。
 次いでジ・ルヴェが横合いからやってきて、黙って片手をエンジュの目の前に出した。
「お疲れ」
「おう」
 二人はぱしっとこぶしを打ち付け合う。
 さらに「……おかえりなさい」とリーゼロッテが静かに頭を下げ、「ワタシはずっと信じてたよ、エンジュ!」すっかり居着いた様子のヴィ・レが腕を振り上げた。さりげなくジ・ルヴェの隣を陣取りながら。彼女が本格的にティパ村に住み始めるのも、時間の問題だろう。
 それを皮切りに、村人たちが一斉にエンジュを囲んでしゃべり出した。賑やかな人の輪が出来上がる。彼はただ、にこにこして相づちを打っていた。
 最後に前に出てきたのは。
「ワシからもお礼を言わせてくれ。エンジュ、帰ってきてくれて本当に良かった」
 リルティの村長と、
「エンジュ……ありがとう」
 ローランだった。エンジュは黙って彼の目を見た。
 あれから九年、立派な青年になったエンジュと、人の親になったローランは、目線だけで全てを語っていた。二人の隣には、きっとマ・ルセルたちもいるのだろう。
 一通り挨拶が終わった。エンジュはぐるっとあたりを見回してから、丁寧に腰を折った。
「オレ、キャラバンをやめます」
 突然の提案だった。まだ誰にも相談していなかった。エンジュはしばらく頭を下げたままでいた。絶対にみんなを驚かせるし、怒られてしまうと思っていた。
 でも、おもてを上げた時、真っ先に見えたのは——ミントの泣きそうな顔だった。
「お疲れさま……!」
 ミントはそっとエンジュの手を握った。彼は照れくさそうに笑った。
「結構迷ったんだけどね。やっぱりやめることにした」
「そうよ。そんなもの、誰かに任せればいいんだわ。あなたに出来ないことは何でも、わたしや友だちに任せればいいの」ミントは唇をとがらせた。
「うん……これからは、そうしてみるよ」
 エンジュははにかんで、ミントの両肩に優しく手を置いた。
 茜色の瞳が愛しい人を映す。
「この際はっきりさせておく。オレ、ミントさんのことが好きだ。……これからずっと、一緒にいてくれないかな」
 一瞬、ミントの心臓の鼓動が止まった。
 まわりのざわめきも、遠くの世界の出来事のように思える。
 お互いに、何年も前から心は決まっていたのに、声に出して確認したことはなかった。彼女はじわじわと胸にあたたかい水が満ちるのを感じた。
 エンジュは緊張しているようだ。少し、意地悪をしてやりたくなる。
「どうしてわたしのことを好きになったの?」
「え! えーと……それは、そう、一目惚れだったんだ。初めて会った時から、ずっと好きだった」
 とんでもなくストレートに告げられた。冷やかしの声が背中にあたっている気がするが、まともに耳を傾けられない。
 エンジュは顔を真っ赤にしながら、
「それで——へ、返事は?」
 こんなに大勢の前で堂々と告白しておいて、エンジュは今更不安がっているらしい。ちらちらと目線を外しては、またミントに向けている。彼女は笑い出したくなった。
 返事なんて、とっくの昔に決まっている。
「喜んで……!」
 胸の中に飛び込んだ彼女を、エンジュはぎゅうっと抱きしめてくれた。
 ミントは彼の洗いざらしの旅装束に、顔を押しつけた。
 これからはやっと、二人で生きられるのだ。離れていた心と体がこんなにも近くに感じられる。彼女の心は歓喜で沸いていた。
 そこで、エンジュは腕の力を緩め、少し身を離した。何事かと見上げるミントに微笑みかけて、唇を開く。
「みんなに言っておかなくちゃいけないことがある。実は、キャラバンを続けられない理由があるんだ」
 エンジュは柔らかい声で続ける。
「オレは、あと何年も生きられない」
 ミントは大きく目を見開いた。
 誰も彼もがぽかんとしていた。何故、と訊ねる人もいない。ティパの村人は、一人としてその意味を正確に把握できなかった。ヴィ・レだけが、強く唇を噛みしめている。
 エンジュは底抜けに明るい声で、絶望的な宣告をした。
「もう二年も前から、オレは不治の病にかかってるんだ」

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