素敵なひとりぼっち



『ミントへ——メモリより』
 久しぶり。元気にしてる? あなたとエンジュさんの結婚式、行けなくて残念だったわ。もう何年も前の話だけどね。
 娘さんも、もう四歳になるのか。クラリスちゃんだっけ。エンジュさんとの子供だもの、さぞ可愛いんでしょうね。一度でいいから会ってみたいわ。
 それで、どうして突然あなたに手紙を書いたかっていうと……ふっと思い出したの。エンジュさんがティダの村から帰ってきた日のこと。
 彼、すごく幸せそうだった。それに「ミントをひとりにしない」って言ってたわ。自分の病気のことはもう知ってただろうに、ね。
 だから、安心して。何があっても、あなたはひとりにはならないわ。これは言葉通りの意味よ。
 そりゃあ、アタシたちはずうっと友だちだけど、これともまた違うの。あの人の「ひとりにしない」は、もっと大きな意味を持ってる。
 あの人に出会えて、本当に良かったわね。どんな時もあなたのそばにはエンジュさんがいてくれる。だから、もう寂しがり屋のミントはこそこそ隠れなくてもいいのよ。



「父さん! 父さん!」
 小さなクラリスは大地色の髪をなびかせ、一生懸命に村を走っていた。
 大好きな父親に、今すぐ伝えたいことがあった。彼女は大事な言付けを預かって、医者の家からとんぼ返りしたのだ。
「ただいまーっ」
 勢いよく家の扉を開けた。クラリスはぱたぱたと廊下を駆け回る。父はどこだろう。今すぐ会いたいのに、なかなか見つからない。
 彼女は最後に台所に行った。そこに人影が見えた。
「……父さん?」
 エンジュは何故かこちらに背中を向けて、床に膝をついていた。
「やあ、クラリスおかえり。母さんはまだお医者さんのところか。なんて言ってた?」
 後ろ向きのまま話し続ける。クラリスはゆっくりと父の前に回り込んだ。
「それがね……えへへ、私に弟か妹ができるんだって!」
 彼女は顔のにやけを隠しきれなかった。なんと、これから一年も経たないうちに彼女はお姉さんになるのだ。これが嬉しくないはずがない。
 エンジュはぱっと顔を上げた。父の笑顔——クラリスがこの世で一番好きなものだった。
「本当に? それは嬉しいなあ」
 ぎこちなく頬をほころばせると、がくり、その膝が崩れる。彼の体は横倒しになり、木の床にばさりと赤茶の髪が広がった。
「と……父さん!?」
 慌ててクラリスはしゃがみこみ、父の様子を確かめた。どうやら気を失っているらしい。
 ぬるりとした感触があった。父に触れた自分の手を、まじまじと見つめる。クラリスの小さな手のひらは、真っ赤な血で濡れていた。



「……ついに、この時が来たか」
 村医者のアベルはため息をついた。
「そうみたいだなー」
 エンジュは自室のベッドの上でからりと笑う。アベルとしては、呆れるしかない。
 かつて学生だったアベルは、今や立派な医者になっていた。彼はシェラの里でエンジュの病気を看破して以来、ずっと患者のことを気にかけていたらしい。その結果、留学期間を終えてもファム大農場には帰らずに、ティパの村へ引っ越してしまった。奥さんと一緒に。
 先ほど血を吐いて倒れたにもかかわらず、エンジュは一向にへらへらしている。頭痛を感じ、アベルは自分のこめかみをぐりぐりと押さえた。
「何をのんきな……。これは、お前自身の問題なんだぞ」
「そうだけど。今まで数え切れないくらい死にかけたわけだし、血なんていっぱい吐いてきたし。あんまり実感がないんだ。今更、って感じがする」
 エンジュは遠くを見つめるような目になった。彼の心の大部分は、今もキャラバンの旅が占めているのだろう。どうしても踏み込めないものを感じて、アベルはしばし絶句する。
「そういえばさ、オレの病気ってこの体のせいなんだよな」
 そう、彼は異常とも言えるほど、体内に取り込んだものを吸収しやすい体質だった。それはすなわち、瘴気の影響を受けやすいということでもある。
 しかしその分、食物から効率よく栄養を取ることができた。彼の身体能力は、もしかするとこの体質に寄るものだったのかもしれない。体内をすんなり魔力が通るおかげで、魔石もよりスムーズに扱えるわけだ。それは、会ったこともない親が唯一彼に残してくれた、かけがえのないものだった。
「もしも途中で旅をやめてたら、もっと長生きできたのかな……」
「当たり前だろう。今まで何度もやめろと忠告したじゃないか」アベルは怒ったように言う。
「そうだったな。……たとえもう一回分人生があっても、オレは結局、この道しか選べなかっただろうけど」
 それはエンジュの正直な気持ちだった。
 医者は顔をしかめる。どれだけ自分が言葉を尽くしても、彼の心には届かなかった。
「それでも、ミントさんが悲しむのは嫌なんだよなあ。彼女には寂しい思いをさせたくない」
 エンジュは眉を曇らせた。
 彼の憂慮も当然だった。八年前ティダの村から帰ってきて、病気のことを打ち明けた時の、彼女の愕然とした表情。今回も、エンジュがついに立ち上がれなくなった途端に、彼女のお腹に新たな命が宿ったという知らせが届いた。彼はミントにまともな果報をもたらしていない。
 ——それでも、黙っているよりずっといいと思った。だからあの時正直に告白したのだ。いささか、タイミングは悪かったかもしれないが。
 アベルは患者から目をそらし、ぼそっと呟いた。
「別に、悲しむのは彼女だけじゃないさ」
「アベルも悲しむってこと?」
「違う! 私はお前が亡くなったくらいで、いちいち悲しまないからなっ」
 冷酷無慈悲とも噂される主治医は、むきになって反論した。
「あはは。そうだよな」肩を揺らして笑うエンジュ。
「だが、私は諦めないぞ」
「……うん。ありがとう」
 アベルは患者を再度ひと睨みすると、道具をかばんにまとめて退出した。ぱたん、と扉が閉まる音を聞いて、エンジュは目をつむった。
「あそこまで偉そうに宣言したのに、ミントさんをひとりにしちゃダメだよなあ……」
 自分の旅立ちによって、彼女を悲しませたくない。けれども素直に「寂しい」と言って欲しい——いつかリーゼロッテに指摘された心の矛盾だ。しかし、エンジュはこの矛盾を背負ったまま、前に進むと決めたのだ。
 よし。彼はこぶしを握って気合を入れなおす。
「後先のことを考えるのは苦手だけど……やってみるか!」
 人生最後の時間は、誰よりも大切な人のために使おう。



 農家の玄関を、次々と小さな人影がくぐっていく。まるで、村中の子供が一堂に会したようだった。
「エンジュが子供に話をする会……?」
「彼も、妙なことを考えるものですねえ」
 ジ・ルヴェとリーゼロッテは玄関先で子供たちを出迎えながら、ぶつくさ文句を言い合っていた。
 いよいよベッドから起き上がれなくなったエンジュは、暇を持て余した末にこんな企画をした。どうやら横たわったまま子供たちに語りかけるらしい。
「まあ、ペネ・ロペは楽しみにしていたようだが」
「うちのユリスも来ていましたね」
 二人はそれぞれ娘や息子の顔を思い浮かべる。きっと親しい友人である農家のクラリスに誘われたのだろう。
 そこに、新たな訪問者がやってきた。
「こんにちはー」
「あら、ハーディにガーディ。あなた方も来たのですね」
 村長ローランの家の双子だ。模範的な兄ハーディにひねくれ者の弟ガーディという組み合わせで、クラリスたちより年齢はいくらか上である。今更、物語を聞いて喜ぶような歳でもないが……
「どうしても、エンジュさんのお話が聞きたくて」ハーディは瞳を輝かせていた。大人びている彼だが、意外なところで子供っぽさを見せる。
「ボクは別に興味ないのに……」
 弟ガーディは唇をとがらせていたが、にこにこする兄に引きずられるようにして、部屋に入った。
「そろそろ、俺たちも移動するか」
 ジ・ルヴェたちがエンジュの部屋に行こうとすると、ミントがやってきて立ちふさがった。
「あ、二人ともダメよ。この会は子供限定なんだから」
 胸の前で両腕をクロスさせる。
「はあ?」
「わたしまで追い出されたんだもの。だから、ダメ」
 ミントは明るく笑った。二人は顔を見合わせる。
 リーゼロッテは軽く頭を振って、提案した。
「そうですか。ならば、大人は大人の話をしましょう」
「うちに上がってくの? いいわよ、子供たちのお茶とおやつの残りがあるし」
「俺はヴィ・レを呼んでくる」
 ジ・ルヴェも頷き、返事も聞かずにとっとと出て行く。
「みんなで集まるのって、久々ねえ」
 ミントは喜んで居間にティーセットを用意した。
 程なくして、漁師の家からヴィ・レがやってきた。この四人が集まれば、自然と子育ての話題に流れる。
「それで、うちのペネ・ロペがさー」
「ユリスは何を考えてるか全く分からなくて……」
「クラリスったら、ちっとも女の子らしい趣味を覚えないのよ。心配だわ」
 母親たちがひとしきり愚痴を言い合う間、ジ・ルヴェは黙ってお茶を飲んでいた。
 会話が一段落したところで、ヴィ・レがくるりと首を回した。
「そういえばミント、お腹の子は?」
「再来月には生まれる予定よ」
 さらりと答える。つまり、エンジュが倒れてからそれだけの月日が経ったということだ。彼女のお腹はもう、一抱えはあるほど大きくなっていた。
「今、エンジュさんがこの子の名前を考えてるのよ。……でも、ちょっと不安なのよね。モーグリにモグなんて名前をつけたり、看板を後ろ向きにしたりする人だし。変な名前にならないかしら?」
 あははと笑うミントへ、リーゼロッテが心配そうに尋ねた。
「ミント……あなた、平気なんですか」
「え」
「エンジュのことです」
 単刀直入に言われて、ミントはふっと表情をなくした。その顔は、旅をしていた頃のエンジュとそっくりだった。
 いくら夫婦だからといって、ここまで似なくてもいいのに……。ジ・ルヴェは胸に氷の破片が刺さったような気がした。
 ミントは際限なく自分の内側に入り込むように、そっと指を組んだ。
「どうなんだろう。わたし、分からないの。エンジュさんがいなくなったらどうなるか……なんて、もう想像できなくなっちゃった」
 視線を膝の上に彷徨わせる彼女から、ジ・ルヴェは目をそらす。
「それは、俺たちも同じかもしれないな」
「そうですね……彼とは、生まれた時からずっと一緒でしたから」
 リーゼロッテは静かに仮面に手をあてた。そのまま物思いに沈んでいく。
「みんな、エンジュのことが大好きなんだねえ」
 柔らかく目を細めて、ヴィ・レは頬杖をついた。エンジュとの付き合いこそ浅い彼女だが、彼らの言いたいことはなんとなく察した。旅先でも、カイル=キーツやリュクレールのように、エンジュの魅力にあてられた人物は度々目撃していたのだ。
 ましてや、ジ・ルヴェたちやミントは——。ヴィ・レは気遣わしげに、長い睫毛を伏せた。
「今回のお話会は、ひょっとすると彼なりの『旅支度』なのかも知れませんね。そろそろ、私たちもエンジュを見送る準備でもしましょうか」
 リーゼロッテはきっぱりと仮面を上げた。
「そうだな」「ワタシも考えてみるっ」
 漁師の夫婦がそれぞれ応じた。一方ミントは沈黙したままだった。
 やがてティータイムが終わり、三人が帰っても、彼女は居間でぼんやりしていた。
 廊下をどたどた走る音がしたと思えば、クラリスがひょっこり顔を出した。
「母さん。父さんのお話、終わったよ」
 ミントはぱちっと瞬きして、表情を取り繕った。
「そう。何のお話だった?」
「えっとね……世界に瘴気がない頃のお話。昔はレベナ・テ・ラって場所に四種族みんながいて、この村みたいに一緒に暮らしてたんだって。ハーディさんなんて、すっごく真剣に聴いてたよ」
 ミントはどきっとした。エンジュの病気は、瘴気の影響を受けて悪化した。もしかすると彼は、瘴気のない時代がかえってくることを望んでいるのだろうか——
 しかし、それは夢のまた夢だった。もはやエンジュは死から逃れられず、運命は坂を転がり落ちるだけなのだから。



 畑には麦穂が青々と揺れていた。ミントは重いお腹を抱えて、一人で畑仕事に精を出していた。
 エンジュが動けなくなった今、彼女は看病や農業、さらには家事と子育てで大忙しだった。しかし、リーゼロッテにどれだけ言われても、彼女は仕事を休まなかった。働いている間だけは、辛い現実から目を背けられたから……。
 農作業に疲れて、ふと腰を上げると。
「ミント、久しぶりね!」
 懐かしい声がした。ミントは自分の耳と目を疑った。
「——メモリ!?」
 トレードマークの白い帽子をかぶったリルティが駆け寄ってきた。ちょうどこの前手紙のやりとりをしたところだが、直接会うのはマール峠で別れて以来だ。
「ど、どうしたのよ、いきなり。というか、仕事は大丈夫なの? 忙しいんでしょ」
 ミントは驚きを隠しきれない。メモリは彼女の大きなお腹に目を留めると、ぴょこんと髪の毛を揺らした。
「仕事は信頼できる人に任せてきたわ。あなたに会いに来た……って言いたいけど、ちょっと違うの。実はね、エンジュさんに呼ばれたのよ」
「えっ」
 あまりに意外な理由だった。最近、エンジュが暇に飽かせて昔の知り合いに手紙をたくさん書いていることは知っていたが。
 メモリはにやにやしている。大人になってもあまり見た目が変わらない武の民といえど、いつしか彼女はミントにはない色気を獲得したようだ。香水でもつけているのか、いいにおいがする。
「というわけで、二人っきりで相談してくるから、邪魔しないでね」
「え、ええ。終わったら、うちに泊まってくの?」
「ごめん、そんな時間もないのよ」
 メモリは「本当の本当に、内緒の話なんだからね」と言い残して、颯爽と農家の玄関をくぐっていった。
「……怪しいなあ」
 ミントは苦笑していた。だが、親友とのつかの間の語らいにより、最近肩に重くのしかかっていた疲れが、ふっと楽になった気がした。
 一体全体、あの二人は何の話をするのだろう。ぼやぼやと考えながらしばらく休憩していると、農家の庭に郵便モーグリがやってきた。なんとなく見覚えがある。
「あなた、もしかしてモグくん?」
 モーグリは驚いて、配達かばんを取り落としそうになった。
「クポ! 大当たりクポ。ミントさん、お久しぶりクポ〜」
「こちらこそ。あなたもエンジュさんに用があるの……?」
 冗談で訊ねてみたら、「そうクポ」と即答された。
 モグはメモリと同じように、慣れた様子で農家に入っていく。まだエンジュの部屋には先客がいるはずだが。
「何かしら、みんな。エンジュさんエンジュさんって……」
 まさか、遠路はるばる別れの挨拶をしに来たのではないか。思わず不吉なことを考えてしまった。
 ミントは無意識にお腹をなでる。手が震えていた。いつしか彼女は、まだ名前もない、生まれてもいない子供に向かって「どうにかしてよ」と話しかけていた。
「ねえ、お願い赤ちゃん。エンジュさんとわたしを、助けてよ……」
 


 ジ・ルヴェはエンジュに呼び出され、彼の枕元にやってきた。
 ベッドサイドには様々なものが置かれていた。ミントが毎日取り替えている可憐な花に、お話会のお礼として子供たちからもらったたくさんの絵本。持ち物の少ないエンジュの部屋に華やかな彩りを加えている。
 彼は黙って病人に視線を移した。茜色の瞳は、穏やかな光を宿していた。
「最近、ジ・ルヴェと喧嘩もしてないなあ」
「そうだな」
 ジ・ルヴェは言葉少なに答えた。エンジュはふと何かを考え込むと、
「……あのさ、結局はオレの方が勝った回数多いよな?」
「いいや、俺の方が多い」
 即座に答えられた。エンジュはしかめっ面になる。
「あのなーっ、こういうときは嘘でもオレのが多いって答えるの!」
 ジ・ルヴェは眉間にしわを寄せ、腕を組んだ。
「俺はまだ、もう一戦できると思ってる」
 エンジュはしばし、沈黙する。
「そっか……。やっぱり、一番最初はお前に任せることにするよ」
 彼は花瓶の近くに置いていた手紙をジ・ルヴェに渡した。宛先はシェラの里となっている。
「もしミントさんが、オレがいなくて寂しそうにしていたら……これを、モーグリ便で届けて欲しいんだ」
 ジ・ルヴェは食い入るように手紙を見つめた。あまりに簡素な封筒で、遺書というわけでもないらしい。
「この手紙が巡り巡って、ミントさんの力になってくれるはずなんだ」
 いやに確信に満ちた言葉だった。どういう意味だろう。エンジュの思惑はいまいちよく分からない。
「お前……一応、ミントのことも考えていたんだな」
 夫が倒れてから、彼女はすっかり消沈していた。その一方でエンジュは脳天気さに磨きをかけており、まるで周囲を顧みていないように思えたのだ。
 エンジュは頬を膨らませる。
「失礼な。オレだっていろいろ作戦を練ってるんだぞ」
 ジ・ルヴェは軽く手紙をひらひらさせた。
「面倒だが、覚えていたら出さないこともない」
「頼むよ。ジ・ルヴェなら、ミントさんのこともよく分かるだろ。お前が最初の一人なんだよ」
 何やら引っかかる言い回しだ。最初、と言うことは次もあるのだろうか。
「だったら最後の一人は誰なんだ?」
 ジ・ルヴェは探るような目線を向けた。ミントを元気づけるために必要な、最後の一人。それはエンジュが絶大な信頼を寄せる人物ではないか。
 エンジュはにやりとした。
「内緒。残念だけど、お前は会ったことのない人だ」
 どうして俺じゃダメだったんだ——何度も胸の裡で繰り返した言葉がまた、蘇った。エンジュが一番信用している人物は、自分ではない。ジ・ルヴェは煮えたぎるような悔しさを感じていた。
 そんな友人の思いにも気づかず、彼はのんきにしゃべり続けている……。
「手紙って不思議だよな。過ぎ去った時の彼方にいる相手とだって、話ができる。それとは逆に、届かないと分かっていながら、死んだ人に向けて手紙を書く人もいる。
 開けてみるまで何が飛び出すかわからない。だから毎回毎回、手紙が届くとあんなにわくわくするのかな」
 楽しげに語るエンジュに向けて、ジ・ルヴェは反射的に口を開いていた。
「お前、死ぬのが怖くないのか」
 訊いてから後悔した。なんという質問をしてしまったのだろう。
 不意にエンジュは無表情になると、すうっと視線を遠くに飛ばした。
「そうだな、怖い。だからジ・ルヴェ、助けてくれ」
 はっとした。思わず顔をのぞき込むと、茜色の瞳が意地悪そうに笑っていた。
「なーんてな。『助けて』って言って欲しかったんだろ?」
「お前なあ……」
 ジ・ルヴェは脱力した。エンジュは「してやったり」と肩を揺らす。まるで子供だった。
「みんなには悪いけど、死ぬのはちっとも怖くない。いつだって置いていく側は自分勝手なんだよ。オレの親もきっと、こんな感じだったんだろうな」
 彼は完全に両親と同じことを繰り返そうとしている。自分の都合で家族を振り回し、ひとりで楽になろうとしている。それでもエンジュはふるまいを改める気はないらしい。あれこれと死後について思い巡らせ、「あれがしたかった」などと願望を垂れ流しながらも、自分の生が終わりつつあることについては肯定しているのだ。
 ジ・ルヴェは大きく嘆息すると、ずっと後ろ手に隠し持っていたあるものを取り出した。
「お前にやる。これでも見て、あり余る暇をつぶしたらどうだ」
 大きな紙だった。広げると、窓枠のような模様の向こうに星空の絵が描いてあった。
「これって……!」エンジュは目を輝かせた。
「ヴィ・レやリズと相談して、つくったんだ。いつか、星が見たいとか言ってたらしいな」
 ジ・ルヴェはその紙を部屋の壁にぴったり貼り付ける。にわかに夜空が出現した。これが、彼らの計画していた「エンジュを見送る準備」だった。
「わあ、綺麗だな〜! ありがとジ・ルヴェ」
 娘の前では親の顔をしている彼だが、今はまるで幼子のようにはしゃいでいた。
「ふん……」照れているのか、ジ・ルヴェの耳は少しだけ赤くなっている。
 しばらく、エンジュは星空をにこにこしながら見つめていた。ジ・ルヴェはそんな彼から視線を外した。
「そろそろ帰る」
 ぶっきらぼうに言い放ち、きびすを返す。エンジュは友人の後ろ姿に声をかけた。
「ミントさんのこと、任せた。頼りにしてるよ、ジ・ルヴェ」
 ジ・ルヴェはその言葉を聞いて一瞬立ち止まりかけたが、にわかに肩を怒らせて去っていった。
 扉が完全に閉まって、エンジュは気が抜けてしまったらしい。「げほっ」ずっと我慢していた咳が出た。激しい。止まらない。
「……っ」
 やっと発作がおさまった。口を押さえていた手のひらには、血がついていた。
「もう時間がない、か……」
 胸のあたりが焼け付くようだ。痛みにぼうっとする頭を枕に預け、星空の絵を眺めた。どこかで見たことがあると思えば、子供たちからもらった絵本の挿絵と似ているのだ。『姫』や『魔』が出てくるおとぎ話だった。
 瘴気の影響を受けず、毎晩美しく瞬く星……。エンジュはぱっと目を見開いた。
「そうだ、あの子の名前は——!」



「結局、わたしは誰かに寄りかからないと生きていけないのよね」
 突き放したような母の声を漏れ聞いて、クラリスは足を止めた。家族に向けられるものとはずいぶん違う、乾いた調子だった。
「実は、新しく生まれてくる子の名前が決まったんだ。母さんを呼んできてくれないかな」——そう大好きな父に頼まれて、彼女は農作業をしているはずの母を呼びに来た。しかし母は誰かと一緒に農場の片隅に座り込み、秘密の話をしているようだ。
「寄りかかる、か。たとえばエンジュみたいな奴に?」
 その相手とは、ペネ・ロペの父親、ジ・ルヴェだ。二人ともぼそぼそ話していて、あまり声は聞き取れない。クラリスはなんとなく割り込めないものを感じて、近くの木の影に引っ込んだ。
 背後に娘がいることにも気づかず、ミントはひそやかに笑った。
「そうね。初めはお父さんとお母さんに、次はおばあちゃんに、今はエンジュさんに。わたしは寄りかかる人をとっかえひっかえして、生きてきた。自分ひとりじゃ何も出来ないから……誰かを支えることでしか、満足できないのよ」
 そっけない自己評価だった。ジ・ルヴェは翡翠の瞳を沈ませる。
「……そうか」
「否定しないのね。ま、それがジ・ルヴェのいいところか」
 ミントは唇を三日月にした。そこに浮かぶのは空っぽの笑みだ。
「この先のことを思うと、もう嫌になっちゃうの。これからどんどん、エンジュさんが隣にいた時間よりも、そうじゃない時間の方が長くなっていくのよ……」
 ジ・ルヴェは強くこぶしを握った。あの自分勝手な病人は分かっているのだろうか。周りの人間が、彼に対してどれだけやりきれない思いを抱いているのか。
 ミントは力なく膝を抱えた。
「あの人がいなくなっても、わたしの世界は続いていくのかしら」
 ちっとも未来を信じていないような口ぶりだった。
「……ミント」
 ジ・ルヴェがそうっとその肩に手を置こうとしたところで、
「母さんっ!」
 甲高い声がした。ミントは驚き、腰を上げた。真後ろにクラリスが立っていて、小さな体から怒りの炎を上げていた。
 その原因に思い当たり、ミントは思わず苦笑した。
「どうやら勘違いされちゃったみたいよ、ジ・ルヴェ」
「……はあ」彼は頭を掻いた。
 クラリスは母と不埒な男の間に割って入り、
「父さんが呼んでた。新しい家族の名前が決まったんだって! 早く行こうよっ」
「うんうん、分かってるってば」
 ミントは娘に手を引かれて、家の方に足を向けた。ちらりとジ・ルヴェを振り返った目は笑っていた。それは本心からの笑みだろうか。
 ジ・ルヴェは畑の隅に佇み、二人の消えた農家をまじまじと見つめた。
 ただひとつ幸いなことに、エンジュは自分が生まれた家で、家族に看取られて死ぬことができる。廃墟だったこの家を直したことは無駄ではなかった——そう思わなければ、どうにもやるせなかった。
 夕焼けの空はエンジュの瞳の色と似ていた。今にも太陽が沈もうとしている。次に訪れる夜はきっと、長くなるだろう。



「クラリス、行ったぞ」
 エンジュはかすれた声で囁いた。
 娘は発作を起こしたエンジュのために、村医者アベルを呼びに出たところだ。今度生まれてくる新しい家族・ハルの名前の由来を話してあげた、その日のことである。
「そうね」
 ミントは大きくなってきたお腹をなでながら、安楽椅子の上で頷いた。
 エンジュは優しく微笑んだ。
「だから、もう泣いてもいいよ」
 慈愛にあふれた言葉を聞いて、ぽろり、ミントの大きな瞳から涙がこぼれた。
「……うう」
 嗚咽が漏れる。今にも彼の命の灯火が消えそうなことは、もう分かりきっていた。
「ごめんね、ミントさん」
 彼女はエンジュの胸元に顔を押し付けた。頭の上に彼の手が置かれる。視界は涙に濡れて、ほとんど何も見えない。ただエンジュのぬくもりだけを感じていた。
「わたし、あなたがいなくなったら、どうやって生きていけばいいのよ」
 彼女はぐしゃぐしゃに泣き崩れる。
「クラリスなんて、ハルなんて知らない。わたしはあなたと一緒にいきたい……!」
 エンジュは辛そうに目を伏せた。ミントの嘆きは、彼自身が長らく無意識に抱いていた願いと、そっくり同じだった。
 彼は愛しい人の黒髪をゆっくり指で梳く。壁の星空の絵が目に入った。
「月のない夜も、星がたくさん瞬けば、空は明るくなるんだ。オレがいなくなっても、空が真っ暗になるわけじゃない」
 その例えは少し分かりづらくて、ミントは涙に濡れた顔を上げる。
 目が合う。エンジュは初めて出会った時からずっと変わらない、あのにこにこ笑顔を浮かべていた。
「ミントさん。いつだか『全部他の人に任せればいい』って言ったよね。オレ、そうしてみることにしたんだ」
「え……」
「オレのやりたかったことも、ミントさんのことも全部、ハルとクラリスに任せようと思う。
 あっ。でもオレがキャラバンだったことは、子供たちには内緒にして欲しい」
「……? それ、なんだかおかしくないかしら」
 こういう時だというのに、ミントは真面目に突っ込んでしまった。
「矛盾してるのは分かってる。二人には自由に生きて欲しい。けれど、もしもオレのことを知った上で、この思いを引き継いでくれるなら——これ以上嬉しいことはないよ」
 そこで、エンジュは布団をはだけ、胸に片手をあてた。心なしか背筋もピンと伸びている。それはキャラバン時代によくやっていた敬礼のポーズだった。
「ミントさん」
 真剣な瞳がミントの湿った胸を貫いた。
「オレ、ミントさんのことは一目惚れだった、って言ったでしょ。あれ、嘘なんだ」
「……は?」
 いきなり何の話をしようというのだろう。目を白黒させるミントに構わず、エンジュは続ける。
「オレはもっと前からキミのことを知っていた。だから一目惚れじゃない。
 あ、今『なんで』って思ったよね? その理由はきっと、ハルが教えてくれるよ」
「え、ちょ、どういうこと? ハルが、え?」
 ミントの頭は盛大に混乱していた。こんな大事な時に、彼は論旨の分からない話を始めてしまった。もしかして、これが遺言のつもりなのだろうか。
 一目惚れじゃなかった理由を、ハルが教えてくれる……? ハルの名前の由来は「春を告げる者」——瘴気に満ちた永遠の冬を終わらせるのだと、エンジュは語っていた。ミントはそんなのあり得ないと思ったが、彼は真剣にハルを信じ、生まれてもいない子供に望みをかけたというのか。
 すっかり気が動転しているミントの前で、エンジュは幸せそうな表情を浮かべていた。
 瞳はどこまでも澄んだ茜色。ミントは不意に、祖母キャロの星空のような目を思い出した。
「エンジュさん」
 愛しい人の呼びかけに、彼はにっこり微笑むと、
「またね」
 と言って永遠に目を閉じた。

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