素敵なひとりぼっち



『エンジュさんへ——ミントより』
 あなたがいなくなってから、もう七年が経ちました。
 七年よ、七年。あっという間だった気もするし、長かった気もする。正直あんまり覚えてないの。
 あれからわたしはずっと灰色の生活を送っているわ。見るもの感じるものが、全部色を失ってしまったみたい。
 そうそう、ハルト(ハル、男の子だったの)はすくすく育ってます。物静かだけど明るくて、いつも希望に満ちたことを言って……時々不安になるの。なんだろう、この気持ち。
 最近、ものすごく心が寂しいです。あなたがいた頃は、寂しくなんかなかったのに……。それでつい、前みたいに届かない手紙を書き始めちゃった。
 早くあなたに会いたいわ。もうひとりぼっちはこりごりよ。



 近頃すっかり反抗期に突入したクラリスは、いつもイヤイヤと言ってミントから逃げ、友だちと遊び呆けてばかりだった。ただでさえ塞ぎ込みがちのミントを余計に暗い気分にさせる、厄介な存在だ。
 しかしある日、クラリスは突然不安そうに擦り寄ってくると、
「母さん、ハルトがどこにもいないよ」
 と訴えた。ミントは目を瞬く。
「ハルトが、いない?」
「うん。で、カム・ラを問い詰めたら、もしかしたらキャラバンの馬車に乗ったかもしれないって……」
 はっとした。今朝方、ちょうど今年のキャラバンが旅立った。息子がその馬車に乗って行った——!?
 ミントはすぐに駆け出した。今更追いかけても仕方ないと分かっているのに、足が村の入り口へ向かうのを止められない。心は体よりも前に前に進んでいた。
 頭をよぎるのは、もちろんエンジュのことだ。彼が旅に出たきっかけも、同じようにキャラバンの馬車に潜り込んだことだった。
 ……まさか、そんな。
 途中で、漁から帰ってきたらしいジ・ルヴェとばったり出くわした。
「どうしたんだ、血相を変えて」
 エンジュが死んでから、彼も少し変わった。身だしなみを整えるのが面倒になったのか、すっかり無精髭を隠そうともしなくなった。
 ミントは彼を見上げ、かすれた声を出す。
「ハルトが——」
 何度もつっかえながら事情を説明すると、彼はさっと顔色を変えた。
「本当に、ハルトにはエンジュのことを話してないんだよな?」
「そうなんだけど……どうしちゃったんだろう、突然」
 ジ・ルヴェに支えられるようにして歩き、二人で橋の上に立つ。今や懐かしい、ゴブリンに襲われた日のことを思い出した。「エンジュの代わりだ」と言われ、彼に肩を抱かれたことも……。
「あ、帰ってきた!」
 街道の向こうにパパオの姿を確認し、ミントはほとんど聖域のギリギリまで駆け寄った。馬車から顔をのぞかせたのは、ハーディだった。
「ああ、ミントさん。すみません、ご心配をおかけしました」
 手にはサンダーリングがきらりと光る。このアーティファクトは、エンジュの頃からキャラバンに代々引き継がれているものだ。
 双子のお産を手伝った日は、つい昨日のことのように思い出せる——なのに、ハーディは今では立派なキャラバンだった。エンジュの一件以来、ティパ村のキャラバン適性年齢が大幅に引き下げられたため、まだまだ年若いハーディも堂々と旅に出られるようになったのだ。
 ハーディに促され、おずおずとハルトが顔を出す。エンジュとミントの髪色を重ね合わせたような大地色の頭だ。
「ほらハルトくん、お母さんに謝って」
「ご……ごめんなさい」
 小さな息子は深々と頭を下げた。叱られると思って、萎縮しているらしい。ミントはがっくりと肩を落とす。
「なんで、こんなことをしたの……?」
 怒る気は無い。ただ理由が聞きたかった。
「一度でいいからミルラの木を見てみたかったんだ」
 夢を語るハルトの顔は、全く悪気がなく、本当にキラキラと輝いていて——ミントはジ・ルヴェと二人して絶句してしまった。
 その瞬間、天啓のようにひらめくものがあった。ミントは胸のもやもやの正体を悟った。
 息子はエンジュに似すぎている。だから、ハルトをハルト自身として愛せないのだ。
「ミント」
 ジ・ルヴェが囁いた。彼女は我に返った。
「ごめんね、ハーディくん。うちの息子がご迷惑をおかけしました」
「いえ。少しの間ですが、ハルトくんと話せて楽しかったです。では、また行ってまいりますね」
 最後にハーディはしましまりんごを一つ取り出した。ハルトは嬉しそうにそれを受け取ると、無垢そのものの表情で母を見上げた。
「……帰るわよ」
 ミントは息子の星空のような目を、まともに見られなかった。



「こらクラリス、待ちなさい!」
「やだーっ」
 活発な長女はミントの手をするりと抜け出し、畑から逃げていく。そんなに農作業が嫌なのだろうか。
 後にはミントと、小さな弟だけが残った。
「……ハルト、あなたは逃げないわよね」
 凄んでみせると、彼はびくりと体を震わせて、こくこく頷いた。
 クラリスは相変わらず母に対して反抗的な態度を取り続けている。「弟がいない」と訴えた時の、あのしおらしさは何だったのだ。
 一方、ハルトは素直に作業を手伝い始める。姉とはまるで正反対だった。突発的に馬車に乗り込んだとは思えないほど、普段はおとなしいものだ。
「じゃあわたし、中で帳簿つけてるから。終わったら教えてね」
 ミントはそう言って家に引っ込んだ。
 ドアを閉めて、思わず大きくため息をつく。実の娘と息子のはずなのに、二人と接していると息が詰まった。
 特に、息子の方である。姉と比べれば圧倒的に手間はかからない。けれどもミントの心が締め付けられるのは、やはり……エンジュに似ているからだろう。
 あれからリーゼロッテにもそれとなく相談したが、ハルトは見た目も性格もミント似だ、と言われた。冷静に考えればそう思う。でも、ふとした瞬間に——夕飯を食べていてこっそり嫌いなものをよけたり、破ってしまった服を申し訳なさそうに持ってきたりする時に——あの人の気配を感じる。クラリスの場合は、そんな現象はちっとも起こらないのに。気づけば彼女は、ハルトの一挙手一投足に注目してしまっていた。
「ふう……」
 もう一度息を吐いて、テーブルに頬杖をつく。
 ……ふと、マール峠の雑貨屋を思い出した。ミントの心は、今はもうどこにもない、記憶の中のあの場所へと舞い戻る。
 あの頃は幸せだった。カウンターに座って、ひたすらお客さんを待ち続ける。何の変化もない、つまらない日々……しかし、時折エンジュが扉を開けた時だけ、世界に色がついた。輝くような思い出が生まれた。
 ほら、また扉が開く。涼やかなベルが鳴った。赤茶の髪をヘアバンドでまとめた、あの人がやってくる——
「久しぶり、エンジュさん。わたし、あなたに言いたいことがいっぱいあるのよ」
 ミントは微笑んでそう言った。
 冷たい風が頬を叩いた。ミントはぱちっとまぶたを開ける。どうやら寝ていたらしい。
 そして、正面には、驚いた顔のハルトが立っていた。
「……お母さん?」
 心臓が跳ねた。しまった。口に出ていたのか。エンジュと息子を間違えてしまうなんて!
 そこですぐに立ち直り、いろいろ喋って取り繕うことも出来た。しかし、びっくりしているハルトの顔が、エンジュのそれとぴったり重なった。
 ——気づけば、唇が動いていた。
「もうやめてよ」
 え、とハルトが呟く。
 ミントはこらえきれず、金切り声を上げた。
「これ以上、エンジュさんの思い出を上書きするのはやめて!」
「……!」ハルトのほおが引きつった。
 理不尽すぎる叫びだとは分かっていた。それでも、ミントにとっては切実な願いだったのだ。ハルトをエンジュと重ねてしまう、自分の心が止められなかった。それは彼女自身の弱さなのに、思わず目の前にいた息子にぶつけてしまった……
 彼女は両手で顔を覆う。
「もう……もう、嫌なのよ。あの人の思い出が、全部あなたに置き換わっちゃう。どうしてあの人はいなくなったの。わたしがこんな思いをしなくちゃならないの。もう全部終わらせてよ……」
 台詞は支離滅裂で、自分でも何を喋っているのか分からない。
 濡れた視界の先で、ハルトは全身を震わせていた。彼は嗚咽をこらえるように、喉から言葉を絞り出す。
「ご、ごめんなさい、お母さん。ぼく……ごめんなさい。
 あの、お手伝い終わったから、遊びに行ってくるね。カム・ラと、アリシアと一緒に。
 遅くなるかもしれないけど……ちゃんと、帰ってくるから」
 今にも泣き出しそうに顔を歪め、ハルトはきびすを返した。
 その背中にかけられる言葉を、ミントは持たなかった。一瞬だけ、もうハルトは帰ってこないのではないか、と思った。
 ミントはひとり、机に突っ伏した。頭の中がぐちゃぐちゃだった。年端もいかない子供に辛く当たってしまったこと、でも自分の中では筋の通った行動だったこと。感情が暴れ回り、押さえつけるのに必死だった。
 暗闇の中で思考を整理するうちに、いつしか眠っていたようだ。誰かに体を揺られて、彼女は目を覚ました。
「ミント。その顔……」
 リーゼロッテだった。ミントの泣きはらしたまぶたを見て、驚いている。慌てて目元についた涙の跡を拭った。
「ごめんリズさん。なんでもないわ。で、どうしたの?」
 わざわざ家まで上がってきたということは、急用らしい。促すと、リーゼロッテは重々しく仮面を下に向けた。
「非常に申し上げにくいことですが……重大な話があります」
 両肩を掴まれる。逃げられないようにしたんだ、と彼女は感じた。
 なんだろう。大事な話って。
「気を確かに持って、聞いて下さい。ハルトがティパの岬から海に落ちました」
 ミントは目をぱちくりさせた。
「……?」
「事故です。風が吹いて、転がった魔石につまずいてしまって——その様子をカム・ラとアリシアが目撃していました」
 話が頭に入ってこない。ただ、「ハルトが落ちた」という部分だけが、頭の中をぐるぐる回っていた。
「あの子は、死んだの」
 リーゼロッテはぎょっとしたように身を引きかけたが、すぐに手の力を強める。
「諦めてはいけません! これからキャラバンが出動して、あちこち探し回ります。きっと無事でいるはずです!」
 ミントは何度も首を振る。イヤイヤをする子供のように。
「違う。違うのよ。あの子は——ハルトは、わたしが殺したんだわ」
 ぼろぼろと目から涙がこぼれてくる。
「あなたなんかいらないって、わたしが言っちゃったから。あの子は自分で海に落ちたのよ」
 勝手にエンジュの面影を重ねて、一方的に不満をぶつけて——ハルトを追い詰めた。優しい息子はきっと、自ら消えることを選んだのだ。
「ミント……」
 リーゼロッテは泣き続ける彼女をそっと抱きしめた。



 数日後、ハルトはティパの港で発見された。かろうじて息はしていた。医者アベルをはじめとする村人たちの必死の看護により、彼はなんとか意識を取り戻した。
 その、翌日のことだ。
「母さん……。ハルトの声が、出なくなったんだ」
 弟の部屋から辞したクラリスが、真っ青な顔で報告に来た。
「声が、出ない?」
 ミントの反応は薄ぼんやりとしている。
「そ、そうなんだ。一言も喋らなくなっちゃった。私……どうすればいいんだろう」
 クラリスの肩はぶるぶる震えていた。ミントは答えない。
 海から帰ってきたハルトを思い出す。どんな問いかけにも反応は薄く、ひたすら自分の内側にこもるような顔をしていた。そこには、思いつきでハーディの馬車に潜り込んだ時の、脳天気な明るさはなかった。
 ハルトは生き延びた代わりに、大事なものを失ったのだ。それは声だけでなく、彼の人格を形成するやわらかなもの。今のハルトは、子供らしい無邪気さをすっかりなくしてしまったようだった。
 わたしのせいで……?
「か、母さん。しっかりしてよ。私たちがハルトを支えなきゃいけないんだ。私たちが……」
 クラリスはしゃくりあげた。ミントは頭をなでてやることもできない。
 もう、限界だ。この家はおしまいだ。
 ミントはまぶたを閉じた。



「ついに、これの出番ってわけか……」
 ジ・ルヴェは懐からそっと手紙を取り出した。七年前にエンジュに預けられたそれは、リュクレールという人物に宛てられている。
「ええ」
 彼にミントの様子を伝えたリーゼロッテは、おもむろに頷いた。
 せせらぎの音が耳に心地よい、ベル川のほとりだ。彼ら二人は、時にエンジュも交えつつ、幼い頃から何度も何度もここで集会を開いた。「いかにしてミントをエンジュと近づけないか」などという、今では笑ってしまうような相談さえしていた。
 手紙を受け取った時の亡友の台詞を思い出し、ジ・ルヴェは独白する。
「俺が最初の一人、か。それなら最後の奴は、結局誰だったんだろう」
 すうっと優美な手が挙がった。この場にはもう一人、彼らの比較的新しい友人が加わっていたのだ。
「ワタシ、心当たりがあるわよ」
「えっ」
 ヴィ・レの発言に、ジ・ルヴェは身を乗り出した。
「ああ、ヴィ・レならエンジュの旅先の交友関係も知っていますよね。このリュクレールという方も、そうなんでしょう?」
 とリーゼロッテが訊ねたが、彼女は口をもごもごさせた。
「うん、まあ、リュクレールさんはワタシの知り合いでもあるわ。でも……ジ・ルヴェが知らない人だからと言って、ワタシが会ったことのある人だとは限らないでしょ」
 リーゼロッテとジ・ルヴェは揃って首をかしげる。
「それはどういうことですか」
 探るような目線が漁師の妻に集中した。
「多分ねー、エンジュは照れくさくって、知ってる人にはミントちゃんのことを任せられなかったのよ。だから、最後に一番頼りにした人は……」
 ヴィ・レはにっこり微笑む。
「きっと、会いたくても会えなかった人なんだわ」



『リュクレールへ——エンジュより』
 久しぶりだな。と言っても、お前がこれを読むのは、一体何年後だろうか。
 この手紙を受け取ったら、前に送ったあの封筒を、次の人に届けてくれ。用件はそれだけだ。
 ……不満かな? でもさあ、こういう時何を書けばいいかなんて、全然分からないんだよ!
 あ、そうだ。リュクレールはきっと、もう一度あの流星群を見たんだよな? いいなあ、羨ましいなあ。オレもまた見たかったよ。
 いろいろ心残りはあるけど、最後の最後にいいこともあった。ずっとひとりで旅をしていたオレが、唯一頼れる人を見つけたんだ。相手にとっては迷惑かもしれない。それでもオレはその人に全てを託す。この手紙の連鎖は、最終的にはその人の元に行き着くことになっているんだ。
 もしもその人に会うことがあれば、リュクレールも仲良くしてやってくれよ。



 ハルトはひたすら日記にペンを走らせていた。
 内容は誰にも見せていない。家族は、声を無くした代わりに机に向かい始めた彼を見て、不気味そうにしていた。それでも彼は言葉を綴ることをやめなかった。
 とっぷりと夜は更けて、姉も母ももう寝静まった時刻だ。とても整理のつかない事件が身に起こったばかりのハルトにとって、自室で過ごす時間があるのはありがたかった。
「……」
 彼はふと手を止めた。夜、一人でページを埋めていると、時折むなしさがこみ上げてくる。これが一体何の役に立つのだろう。彼のせいで今にも家族がバラバラになろうしているのに、どうにかしなければと思っているのに——自分はただ、こうやって日記を書き続けるだけ。今のハルトには、家族を繋ぎとめるだけの力がなかった。
 ただの文字列が、人の心を動かせるわけがない。そんな思いが胸に渦巻いていた。
 突然、部屋の窓が叩かれた。
「!」
 ハルトはおそるおそる窓辺に近寄った。月のない夜で、星明かりがぴかぴか差し込んでいる。ガラスの向こうには白い影が浮かんでいた。
「クポ〜!」
 モーグリだった。母に手紙を届けたり、水かけ祭りで村人と一緒に踊ったりしている姿を、何度か見たことがある。彼は窓を開けてモーグリを招き入れた。
「キミがハルト? ボク、キミにお届け物があるんだクポ」
 ハルトは驚いて目を丸くした。どうして自分の名前を知っているのだろう。
 不思議そうにしている彼に、モーグリは二通の手紙を渡した。
「これは、ボクがお父さんから受け継いだもの。お父さんはもう手紙の配達をやめたんだけど……どうしても、これだけはキミに渡したいって言ってたクポ。
 それでね、この前マール峠のメモリさんって人から、うちにお手紙が来たクポ。それがこの手紙を届ける合図なんだって。だから、ボクが代わりに持ってきたクポ」
 ハルトは瞬きした。マール峠? 確か、北にある村の名前だ。彼とは縁もゆかりもない土地である。メモリという人も知らない。一体どういうことだろう。
「——!?」
 彼は何気なく手紙の宛名と差出人を確認し、仰天した。
 そのうちの一つ、自分宛のものをゆっくりと開ける。中には一枚の便せんと、あるものが入っていた。彼は先に手のひらサイズのそれをじっくり検分し、大事に大事にしまいこんだ。
 さて、手紙だ。文面はごく短い。
「……っ」
 ハルトは目を見開いた。何度も何度も読み返す。便せんを掴む手は、いつしかわなわなと震えていた。
 そこに記された言葉の一つ一つに、驚くほど心を動かされている自分がいた。これが、言葉の持つ本当の力なのだ……!
「ハルト」
 モーグリが囁いた。どきりとする。白いもふもふの生物は、意外と近くにいた。
 夢のような毛並みが目の前にあった。気づけば、ハルトは手紙を机に置いて、モーグリに手を伸ばしていた。
「クポっ!」
 不意にモーグリが体を揺らした。ハルトは熱いものに触れたように、ぱっと手を離した。……嫌われてしまっただろうか。
「大丈夫クポ、ちょっとびっくりしただけクポ」
 どうぞ、と言わんばかりにモーグリは頭のボンボンを差し出した。おそるおそるなでてみる。信じられないほど心地よかった。ハルトは頬を上気させ、さわさわ触れ続けている。
 モーグリが身じろぎした。それで我に返った子供は、すっくと立ち上がった。
「……行くの?」
 決意をみなぎらせるハルトに、モーグリは声をかけた。
「ボクはモグっていうの。お父さんとおんなじ名前クポ。ボクは近くのリバーベル街道に住んでるから、いつでも会いに来てクポ!」
「!」
 ハルトはこくこく頷いた。



『ハルへ——エンジュより』
 きっと元気に生まれてくるはずの、オレの子供へ。
 すごく……すごく残念なことに、オレはきっと、キミには会えない。絶対に治らない病気にかかっちゃったんだ。若い頃に無理しすぎたせいかな。キミに会えなくなるって分かってたら、もっとましな行動をしたんだろうか。今更……だけどね。
 おまけにオレは変な体質だから、丈夫な体すらキミにあげられないかもしれない。悔しいけど、何も残してやれないんだ。
 その代わり、キミにはありったけの思いを込めた名前をあげよう。オレからハルにあげられるものは、それだけだ。この気持ちが少しでもいいから、ハルが前に進むための道標になればいいと思う。
 クラリスと仲良くしてくれよ。お姉さんがいること、家族がいることが、心底羨ましいよ。
 そして——頼む。ミントさんを、ひとりにしないでやってくれ。



 どうにも寝付けない夜だった。仕方なく居間でぼんやりしていたクラリスは、急に肩を叩かれて、思わず身をすくめた。
「わっ。は、ハルト?」
 すぐそばに、弟のもの言いたげな瞳があった。
「こんな時間に、どうしたの」
 ハルトは無言で姉の手を掴んだ。「え、ちょっと」そのまま腕を引いて母の部屋に行き、中がもぬけの殻であることを示す。
「えっと……母さんに会いたいの?」
 クラリスが訊ねると、彼は大きく首肯した。声を失ってから、ハルトがここまで積極的に意思表示するのは初めてだった。
 他ならない弟の頼みだ。クラリスは理由も聞かず、すぐさま行動に移った。
 二人で改めて母を捜したが、家のどこにもいなかった。外はもう真っ暗になっている。子供たちに一言も告げずに外出するなんて、普段のミントからは考えられなかった。
「どこに行ったんだろう……」
 急に不安になってきたクラリスは、悩んだ末に提案する。
「ペネ・ロペのお父さんか、ユリスのお母さんに会いに行ってみよう」
 母が普段から仲良くしていた二人だ。彼女たちはひとまず、より近くの漁師の家に向かうことにした。
「ミントがいない?」
 夜遅くに二人だけで訪ねてきた姉弟を見て、ジ・ルヴェは苦い表情になった。
「多分、あそこだな」
 夫とともに応対したヴィ・レは、彼の横顔に複雑な色が浮かんでいることに気づく。
「それ、どこ? 教えてよっ」クラリスが切迫した表情で問い詰めるが、
「……」
 ジ・ルヴェは沈黙を保ったまま、その隣にいるハルトを見やった。
 二つの視線がかち合った。子供はジ・ルヴェの眼光の強さに息を呑んだが、目をそらすことはなかった。
「お前は、エンジュの思いを引き継ぐ覚悟があるのか」
 ジ・ルヴェは厳しい言葉を投げた。この論法はずるい。だが、そうと分かっていても止められなかった。ミントと同じように、ジ・ルヴェもかつての友の面影を、目の前の子供に見出していた。
「……」
 ハルトは唇を噛む。大切な問いかけをされていることは、彼も分かっているようだ。
「あいつの代わりに、ミントをひとりにしない覚悟があるのか?」
「ちょっと、ジ・ルヴェ」
 口を挟もうとするヴィ・レを、彼は手で制する。
 しばらくハルトは黙考していたが、やがて一つ頷いた。黒い瞳がきらりと星のような輝きを放っている。
「ハルトはやってくれるよ。絶対に」
 クラリスも同じように強い意志を秘めた目をしていた。
 埒のあかない考えを追い払うように、ジ・ルヴェは頭を何度か振った。
「分かった。教えよう。多分、ミントはエンジュの墓の前にいる。最近よくあそこに顔を出していたからな」
「父さんの——」クラリスはふっと表情を翳らせた。
 ジ・ルヴェは少しかがんで、そっとハルトの背中を押した。
「行ってやれ。これは、お前にしかできないことなんだ」
 子供は驚いたように目を大きくしたが、姉に手を引かれてすぐに駆けていった。
 二人の小さな後ろ姿が、暗がりの向こうに消えた。
「あいつは……ハルトは手紙を持っていたな」
 ジ・ルヴェはぽつりと呟く。
「巡り巡って、ここまでたどり着いたのか。ヴィ・レは、エンジュが最後に思いを託した相手があいつだって、分かってたんだな」
「まあ、ね」
 ヴィ・レは穏やかに目を閉じた。彼女のまぶたの裏には、ミントのために必死に行動していた姉弟の姿が焼きついている。
「やっぱりエンジュ、家族のことが大好きだったんだ。ここまで誰かを信頼できるのって、なかなかないよ」
「ああ……」
 どことなく不機嫌そうな声を聞いて、ヴィ・レは唇をとがらせた。
「ジ・ルヴェ、また暗ーいこと考えてるでしょ!」
「っ」彼は言葉に詰まる。
「自分はエンジュの家族じゃなかったのか〜とか、どうして最後に頼ったのは自分じゃなかったのか〜とか。要するに、ハルトくんに嫉妬してるんだわ」
 人間観察が得意なヴィ・レは、鋭い指摘で夫の胸をえぐった。
「でもね、ワタシもみんなも、あなたのことを羨ましいと思ってるんだよ。エンジュとの思い出を一番持ってるのはジ・ルヴェでしょ」
 彼は目を見開く。
「手紙とはまた少し違うけど、思い出は心に抱くだけで楽しい気分になる。前に進む勇気をくれる。それが、エンジュがジ・ルヴェに残したものなんだよ」
 じわり、胸のあたりがあたたかくなる。迷い続ける彼を力強く諭してくれるヴィ・レとの出会いだって、亡友がもたらしたものだ。
 エンジュは手紙や言葉によって人と人を繋いだ。自分たちは皆、彼の旅した軌跡の先にいる。



 ミントは村長ローランの家の裏に回り込んだ。
 開け放たれた柵。その奥は墓場だ。エンジュの墓標は、ティダの村で犠牲になった三人のすぐ隣だった。
 きっとあそこからは綺麗な夜の海が見えるのだろう。しかし、ミントはそこまで行けなかった。足が動かない。どうしてだろう。彼女にとってあの海は、いつまでも近いようで遠い存在だった。
 そういえば、ティダ村攻略戦前の水かけ祭りでも、エンジュがここに来ていた。今のミントと同じように、柵に手をかけたままぼうっとしていた。あの時彼の足を止めたものは、何だったのだろう。
「わたし、やっぱりそっちに行きたい。これ以上こっちにいても、仕方ないもの……」
 手にぎゅっと力が入った。
 背後で芝生を踏む音がする。やはり、来てしまったのか。
「……ハルト」
 闇の中でもはっきりと浮かび上がる黒い瞳。その色は祖母キャロのものとそっくりだった。海に落ちた時、一緒に感情まで落としてきたのではないか……と思われた息子が、今や小さな体いっぱいに決意を滲ませていた。その隣にはクラリスもいる。
 今さら、何をするつもりだろうか。あの明るいハルトはもう死んでしまったのだ。ミントには、今の彼が亡霊にすら見える。
 母と子が対峙した。いの一番に、クラリスが口を開いた。
「母さんに見せたいものがあるんだって、ハルトが言ってるんだ」
 そう、とミントは興味なさそうに返事する。
「……」
 ハルトは母の前に進み出て、そっと手紙を差し出した。
 やむを得ず受け取り、古びた封筒の宛名を確認する。ミントは目を瞠った。そこにはこう記されていたのだ。
『ミントさんへ——エンジュより』
 急いで封を切ろうとすると、ハルトが何かをミントの手に滑り込ませた。
「これは……!?」
 あのペーパーナイフだった。
 金字で刻まれた自分の名前を見た瞬間、心が静まった。「もう少しの間、貸して欲しい」とエンジュに言われて渡したきり、その存在すらすっかり忘れてしまっていたものが、自分の手に戻ってきた。
 彼女は慣れた手つきでナイフを操り、ゆっくりと封を開ける。
 初めてエンジュの手紙を受け取った時を思い出す。いつしか、ミントの胸は少女のようにときめいていた。
 驚くべきことに、中身の手紙は全く別の人物が記したものだった。



『お父さんとお母さんへ——ミントより』
 こうやって手紙を書くのも久しぶりね。二人とも、そっちで仲良くやってる? おばあちゃんもわたしも、とっても元気にしています。
 雑貨屋の方は、最近ちょっと売り上げが伸び悩んでるの。季節の商品が少ないからかな。きっとショウバイをするからには、そういうこともしっかり考えないといけないんだよね。今度、友だちのメモリに相談してみよう。
 毎日毎日、搬入と品出しと店番。ちょっぴり退屈だけど、変化がないのも幸せなことよ。
 ……でもね。本当は寂しい。二人に会いたい。どうしてわたしだけ、置いて行かれちゃったのかな。
 いつもは考えないようにしてるの。でも、こうやって手紙を書いてると、ふっと思い出しちゃう。もう、二人がわたしのそばにいないこと……。
 おばあちゃんは、二人はわたしの中で生きてるんだって言ってた。思い出が胸に残っていたら、そこに二人がいるんだって。わたしはそれを信じる。絶対に、忘れないようにする。そうしたら、二人ともわたしのそばにいてくれるんだよね?
 わたしたちはみんな、ひとりじゃないんだよね。



 読み終わった瞬間。エンジュの記憶が、気配が、目の前に鮮明に蘇った。
 ——ほら、また会えたでしょ。
 幻の彼が喋る。
 ——風に飛ばされてきたこの手紙を、偶然オレが拾ったんだ。あの、ティダの村で起こった事件のすぐ後に。仲間が三人もいなくなって、オレは生きてるような生きてないような心地で、マール峠をさまよっていた。ローランさんも馬車の中でずっと落ち込んでた……。
 そんな時、たまたまこの手紙が手の中に飛び込んできたんだよ。
 一目惚れじゃなかった。オレはこの手紙を読んでから、ずっとキミのことが気になっていたんだ。オレと同じように親がいなくても、素直に「寂しい」って言える、キミのことが。
 あの一年後、どうしてもキミに会ってみたくて、マール峠に来てみた。そうしたら地面に転がっていたペーパーナイフを見つけたんだ。そこにはもちろん、ミントさんの名前が刻まれていた。旅をしてどれだけ新しい思い出ができても、あの時の胸の高鳴りだけは決して忘れることはなかったよ。
 でも、優しいキミはきっと……ひとりで旅をしていたオレを見て、「自分は寂しくなんかない」って思っちゃったんだよね。心に嘘をついちゃったんだよね。そんなキミが、オレがいなくなった後、どうなるのかは分からなかったけど……とにかくひとりにさせたくなかった。
 まず、ジ・ルヴェに頼んで、シェラの里のリュクレールへ手紙を届けてもらった。次に、リュクレールからマール峠のメモリに、メモリからリバーベル街道のモグに。そしてモグからは、元気に生まれてくるはずのハルに。こうやって、順番にオレの手紙を渡してもらった。
 何でこんな七面倒くさいことをするのか、って? これにはオレなりの深い考えがあるんだよ!
 一番簡単なのは、ミントさんが寂しそうにしている時に、ジ・ルヴェが直接オレの手紙を渡すことだよな。でも、そんなのつまらない。どうせなら他のみんなにも手紙を届けたかった。受け取ったらその場で封を切りたくなって、でも他の誰にも読まれたくなくて、一人になってからやっと開けられて、どきどきしながら便せんを取り出して……オレとミントさんがたくさん味わってきたあの感覚を、もう一度思い出して欲しかった。
 きっと、ハルからこの手紙をもらった時だって、キミは最高にびっくりして、わくわくしただろ?
 手紙を出す人がいて、受け取る人がいる。だからオレたちはみんな、ひとりじゃないんだ。
 ——エンジュがそう言った気がした。いや、彼は見えない文字で、手紙にそう書き記したのだ。
「……っ!」
 ミントは小刻みに震える手で、手紙を畳んだ。そうしないと、大切な文面が涙に濡れてしまうと思ったから。
 彼女はしゃがみこんで、子供たちをいっぺんに抱きしめた。
「か、母さんっ」「……!」
 二人はそれぞれに驚いていたが、大人しく腕の中に収まっていた。
 姉弟でそっくり同じ、大地色の髪をなでる。ハルトの黒い瞳と目が合った。それは茜色の夕焼けを越えた先にある、星空の色だ。
 その漆黒の中には、エンジュがハルトに、家族に向けて残した思いが、眩しいほど輝いていた。
「わたしはひとりじゃない。クラリスもハルトも……エンジュさんも。みんなずっと、ひとりじゃなかったのね……!」
 もう何十年も前に、ミントはそれに気がついていたのに——なんということだろう。祖母を失い、エンジュがこの世を去ってから、彼女はすっかり大切なことを見失っていたのだ。
 エンジュの手紙は、ミントの心にたくさんの思い出を蘇らせた。それは、今はもういないあの人から届いた、最高の贈り物だった。

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